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1月に出された建白書の署名者のなかにもシーア派の有力者が

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スーフィズムの復活?

5月 2

日付の米『ワシントン・ポスト』紙に「サウジアラビアでスーフィズムが復活」と 題する非常に興味深い記事が掲載された(1)。またこの記事の後追いのかたちで、アラビア語 のオンライン新聞『イーラーフ』が、「サウジでスーフィーたちが表に出はじめる」との記 事を掲載した(2)。なぜ、この記事が興味深いのかと言えば、サウジアラビアではこれまでス ーフィズムに対する風当たりが強く、しばしば異端とみなされ、排斥されてきた歴史があ ったからである。

スーフィズムは一般にイスラーム神秘主義と訳される。スーフィーとはしたがってイス ラーム神秘主義者である。スンナ派のイスラーム

4

大公認法学派、そしてシーア派と並び、

イスラームの歴史上きわめて重要な一角を占めてきた。ところが、サウジアラビアのイス ラームとされるワッハーブ派はこのスーフィズムを異端として攻撃対象にしてきたのであ る。歴史的にみても、ワッハーブ派が、アラビア半島にあったスーフィーや教友たちの廟 を破壊していったことはよく知られていよう。

もっとも、ワッハーブ派の宗祖であるムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブも、ま た彼が属していたハンバリー派も、さらにムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブが最 も影響を受けたハンバリー派法学者、イブン・タイミーヤやイブン・カイイム・ジャウジ ーヤもスーフィズムを非難しているわけではない。それどころか、イブン・タイミーヤも その弟子のイブン・カイイム・ジャウジーヤもスーフィーであった。

ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブはスーフィーではなかったが、スーフィズム 自体を攻撃したわけではない。彼が攻撃したのはスーフィズムのなかの一部の反イスラー ム的(と彼が考える)儀式や教義だった。そのひとつが聖者廟崇拝である。彼は、聖者廟崇 拝がアッラー以外のものを崇拝する多神教にほかならず、彼がイスラームの本質と考える

「神の唯一性」(タウヒード)を傷つけるものとして、それらを破壊していったのだ。このス ーフィズムの一部の否定が、後世、いつのまにかスーフィズム全部の否定へとすりかえら れてしまったというのが真相ではなかろうか。

さて、『ワシントン・ポスト』と『イーラーフ』の記事は、ジェッダにおける預言者ムハ ンマドの聖誕祭(マウリド)にスーフィーたちが集会を開いて祝っている模様をあつかって いる。イスラーム世界で預言者ムハンマドの生誕を祝うのは当然である。ほとんどのイス

Hosaka Shuji

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ラームの国でこの日は祝日になっている。しかし、預言者ムハンマドが生まれ、啓示を受 けた地であるサウジアラビアにおいては、この日は祝日ではなく、ふつうの日なのである。

ただし、昔からそうだったわけではない。19世紀末のヒジャーズ地方では鳴り物入りで 盛大に聖誕祭が祝われていたことが記録に残っている(3)。しかし、1930年代、つまりサウー ド家によるヒジャーズ征服後には禁止されてしまった(4)。預言者聖誕祭は、クルアーン(コ ーラン)やハディースに根拠をもたないビドア(革新)だからという理由であった。

記事はもう一点非常に興味深いことに触れている。サルマーン・オウダがこの集会に招 待され、実際に参加していたというである。サルマーン・オウダは、サウジアラビアの覚 醒派(サフワ)法学者を代表する人物で、国際テロ組織の指導者、オサーマ・ビン・ラーデ ンやサウジの一連のテロリストたちにも強い影響を与えている。湾岸戦争後には、米軍の サウジ駐留に反対する論陣を張って、投獄された経験もある。1980年代以降の政治的で、

戦闘的で、厳格な「ワッハーブ派」を代表する知識人であった。

つまり、記事は、このときにスーフィズム、そしてマウリドというサウジアラビアにお ける2つの意味でのタブーを、スーフィズムと対極に位置するはずのガチガチのイスラーム 主義者が破ったことを描いているのだ。

もちろん、こうした流れは、今回がはじめてではない。2003年から行なわれている政府 主催の「国民対話」ではサウジアラビア国内のさまざまな宗派、階層の人々が「サウジ人」

として集まり、議論をしている。それまで差別され、周縁化されてきた人たちが政府によ ってはじめて存在を認められたのである。アブダッラー皇太子(現国王)はテレビカメラの 前で公式にスーフィーと会った最初の王族になり、サルマーン・オウダも実はこの「対話」

の場で、スーフィーの指導者と同席していたのだ。

ではスーフィズムはサウジアラビアにおいて本当に復活したのだろうか。厳密に言うと、

「復活」という言い方は正しくない。たしかに、1930年代以降、スーフィズムは激しい弾圧 にさらされたが、けっしてすべてが駆逐されたわけではないからである。彼らの多くは公 開の場で自分たちの儀礼を行なうことができないようになり、地下に潜ったり、あるいは 鳴りを潜めていただけのことだ。

2001年の 9

11

米同時多発テロ事件、2003年のリヤードでの爆弾テロをきっかけに、サ

ウジ国内に新しい流れがみられるようになった。国民の政治参加を求める声が大きくなり、

またアブダッラー皇太子を中心とする政府も、彼らなりのペースを守りながら、この動き を後押しする姿勢を示した。国民対話や地方評議会の選挙、そして商工会議所選挙への女 性の参加、教育分野でのカリキュラム改革などの動きなどは、この流れを象徴するものと 言える。そして、スーフィズムも、この流れを受けて、ふたたび陽のあたる場所に出てき たということだろう。

現在の中東で蔓延しているジハード主義、あるいはタクフィール主義という排他的なイ デオロギーは、異質なものすべてに対する暴力を正当化し、結果的にはそれがテロを誘発 することになった。サウジアラビアが世界中、とくに米国からテロリストの温床として非 難され、さらには自分自身までテロの標的になったことで、ようやく政府も重い腰を上げ

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た。これまでほとんど野放しになっていた過激な宗教勢力に対し厳しい態度で臨むように なり、これが逆に従来差別されてきた階層に「リヤードの春」を感じさせるようになった のである。サラフィー主義、イスラーム主義という言葉に代表される排他的で、厳格で、

均質的な価値観に対し、多元的な文化を認める新しい寛容な潮流が出てきたのだ。

シーア派をめぐる変化

同様のことはシーア派にも当てはまる。サウジアラビアにおけるシーア派は1979年の東 部州の暴動以来、治安上の不安定要因と言われてきたが、1980年代後半にはその活動も下 火になり、1993年、イランを含め、サウジ政府とシーア派の間で手打ちができた。これを きっかけに在外で反サウジ運動を行なっていた活動家たちが帰国、シーア派は総体として はサウジ現体制転覆という目標を放棄し、体制内の不満分子として地位向上につとめると いうスタンスになった。1996年、東部州ホバルで米軍関連施設が爆破されたとき、犯人と してサウジ人シーア派が逮捕されたが、この捜査に際してのイランとサウジアラビアの連 携はきわめてスムーズで、1980年代の対立が何だったのか、逆にいぶかしくなるぐらいだ。

なおこの事件はシーア派が逮捕されているが、実はスンナ派が犯人であるという説があ る。いわゆるジハード主義者の多くはこの説を唱えている。サウジ政府にとって、1995年 のスンナ派によるテロにつづいて連続して体制の屋台骨を支えるべきスンナ派によって反 政府的事件が引き起こされるというのはイメージ的に悪い、というのでシーア派に責任を なすりつけたというのである。こういう説がまかりとおるぐらい、逆にイランとサウジア ラビアの関係が改善されたということであろう。

とはいえ、シーア派に対する風当たりがまったくなくなったかと言えば、もちろんそん なことはありえない。とくにジハード主義者、タクフィール主義者と言われる過激なワッ ハーブ派、サラフィー主義者たちにとって、シーア派はいぜんとして不倶戴天の敵であっ た。

イラク戦争のまえにアラビア半島カーイダ(アルカイダ・サウジ支部)のリーダーだった ユースフ・アイイェリー(ウイェイリー)は、イラクにおける真の敵は米国ではなく、シー ア派であり、そのあとにくる民主主義であるとの説を主張した。彼はそこで、シーア派が 米国以上に危険であり、そのシーア派を攻撃することによって、イラクを内乱状態に陥れ、

自由で豊かな民主国家の樹立を阻止するという戦略を提示した。これは、イラクで活動す るヨルダン人テロリスト、アブームスアブ・ザルカーウィーの戦略と共通しており、場合 によっては現在のイラクの状況と一致しているとも言えるのだ。

このようなことを言うのはテロリストだけではない。前述のサルマーン・オウダも基本 的なスタンスはそう変わらない。在米のサウジ人研究者、ナウワーフ・オベイドは、国民 対話でシーア派やスーフィーと同席したサルマーン・オウダが、その直後からシーア派攻 撃を再開したと述べている(5)。オウダにとっては、スーフィーは敵ではなかったが、シーア 派は完全に敵だったのである。なお、スーフィーを攻撃しなかったムハンマド・ビン・ア ブドゥルワッハーブはシーア派に関しては不信仰と非難しているので、オウダの立場はワ

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ッハーブ派としては正しいと言えよう(6)

しかし、シーア派は2003年以降の「リヤードの春」のなかでもすでに改革勢力の不可分 の要素となっていた。2003年

1月に出された建白書の署名者のなかにもシーア派の有力者が

何人も含まれていたし、その後、シーア派だけの建白書がアブダッラー皇太子(当時)に手 渡されたりもした。そして、国民対話への参加もそうである。

サルマーン・オウダや、彼よりもさらに頑固なサファル・ハワーリーらがシーア派と共 存することは難しいかもしれないが、すでにかつて過激で暴力的なサラフィー主義を掲げ ていた連中のなかから、アブドゥルムフセン・オベイカーンのようにシーア派を法学派と して認めるものも現われてきた。

サウジアラビアでは逮捕・拘束されたテロリストやテロリスト予備軍たちを再教育する プログラムが実施されている。これが奏功するかどうかは疑問だが、少なくともこういう プログラムを行なうのが当然という認識は広がってきている(7)。多様性のなかの共存という 方向性は定まってきたと言えるだろうか。しかし、こうした多元的な方向性(あえて「リベ ラル」という語は使わないが)が強まってくれば、当然それに対する反動も出てくる。旧来 の宗教勢力たちはおそらく危機感を募らせているにちがいない。

攻撃される多様性

今年2月に首都のリヤードで国際図書展が開催された。そして、この図書展で起きた事件 こそ、まさに多元性と均質性の衝突を象徴するものであった。たとえば、ここで「文化的 多様性:自己と他者」と題するセミナーが開催された。これ自体、アブダッラー国王の進 める改革路線に乗ったものと言える。パネリストにはリベラル派の論客が集まったが、会 場につめかけたのは「原理主義者たち」で、とくに前列のほうはほとんど彼らが占めてし まった。そして、予想されたとおり、議論がシーア派のところにきた段階で、原理主義者 たちが大騒ぎして、セミナーは大混乱となった。また「メディア検閲と時代の変化」と題 するセミナーも開催され、やはり大量の原理主義者たちが押し寄せ、セミナーをめちゃく ちゃにしてしまったのである(8)

サウジアラビアにおける対立のベクトルはすでにワッハーブ派対シーア派、ワッハーブ 派対スーフィーといった伝統的な軸を外れ、多様性対サラフィー的均質性という舞台に移 行しつつあるのかもしれない。先日、カーイダのリーダー、オサーマ・ビン・ラーデンが 声明を出し、サウジアラビアのゴセイビー労働相や作家のトゥルキー・ハマドら湾岸を代 表するリベラル派知識人を名指しで攻撃していた。このこともこうした流れと無関係とは 言えないだろう。

もちろん、伝統的な対立軸は歴史に根ざしたものであり、いぜんとして体制側の根幹的 部分を形成する。スーフィーやシーア派が表面的に容認されたからといって、全面解禁と までは至らないだろう。たとえば、今でもインターネット上のスーフィー系サイトやシー ア派系サイトの大半はサウジ国内からはアクセスできないはずである。

(5)

映画館まで500キロ

「リヤードの春」は政治だけでなく、文化的な活動にも及んでいる。アラブのメディアは ここ何ヵ月かの間に『ケーフィルハール』という映画について取り上げている。製作は世 界有数の大金持ち、ワリード・ビン・タラール王子の所有するローターナー社で、5月に行 なわれたカンヌ映画祭にも出品された。今夏にも公開予定という。

主役はサウジ人のヒシャーム・フウェイシュ(あるいはヒシャーム・アブドゥッラフマー ン)、撮影地はドバイ、監督はパレスチナ系カナダ人、イシドール・ムサッラム、脚本はレ バノン人とエジプト人というインターナショナルな作品である。なおこの映画にはサウジ 人初の映画女優、ヒンド・ムハンマドも出演している。

ちなみに主役のヒシャームは昨年、アラブ世界で大人気のレバノンの番組、「スターアカ デミー」で優勝した超人気者である。撮影場所のレバノンから凱旋帰国してすぐに宗教警 察に逮捕されるという事件があり、その点でも大いに話題になった(ただし逮捕に関しては ヒシャームも宗教警察も否定)。

「スターアカデミー」は、昔日本でやっていた「スター誕生」みたいなもので、優勝する とCDデビューできるという特典がある。単なる歌の上手下手だけでなく、番組中に出され るさまざまな課題・障害を乗り越えて最後に栄冠をつかむという、いわゆるリアリティ ー・テレビの形式をとっており、レバノンやサウジだけでなく、アラブ世界全域で若者た ちの熱狂的な支持を得ている。レバノンの番組ではあるが、出演者の国籍はばらばらで、

それゆえ国別対抗戦の様相を呈し、ときおりナショナリズムが爆発することもある。

ところが、これだけの大人気を博しながら(あるいは大人気を博したから)、サウジアラビ アやクウェートの一部法学者たちは、「スターアカデミー」が反イスラームであるとのお触 れ(ファトワー)を出している。不特定多数の男女が同席することはけしからんというわけ だ。

この「スターアカデミー」事件が関係しているかどうかわからないが、『ケーフィルハー ル』は西欧的な文化や価値観とサウジアラビアの伝統的な価値観との衝突をテーマとする コメディーだと言われている。

内容は、若い女性と彼女をひそかに慕う従兄弟(これがヒシャームの役)の関係を中心に、

これにジハード主義者である女性の兄やサウジ人女優演じる女性の親友などが絡む。主人 公の男性は将来映画をつくることを夢見ている。つまり、ジハード主義の兄が伝統的価値 観、主人公は新しい価値観を代表しているわけだ(9)

この『ケーフィルハール』は、サウジアラビアにとってははじめてづくしの映画である。

ヒシャームにとっての初の主演映画であるばかりでなく、そもそもサウジアラビア最初の 長編映画であった。また主演女優の親友役を演じるヒンド・ムハンマドはサウジ人で最初 の映画女優と言われている。サウジ人初の女性映画監督、ハイファー・マンスールもプロ デューサーとして加わっている。

広大なサウジアラビア国内に現在のところ、1軒の映画館もないことは比較的知られてい

(6)

るだろう。だが、映画館を禁止する法律があるわけではない。実際、今から30年ほど前ま では映画館が存在していた。それが今、

1

軒もなくなっているのである。この国では映画は、

法律で禁止されているわけではなく、宗教的なタブーなのだ。では、なぜ宗教的なタブー なのか。しばしば、偶像崇拝につながるからなどと宗教的な理由づけがなされているが、

それだけではない。なぜなら、サウジ国内でもビデオやDVDはふつうに見られるからであ る。もっとも、町のビデオ屋はしばしばジハード主義者のテロの対象になっており、映像 や音楽に対し保守派が嫌悪感を抱いていることも否定できない。しかし、これだけでは、

映画館だけが不在の理由を説明できない。合理的な説明としては儲からないというのがあ る。けれども、保守的な宗教勢力にとって、映画は、政府がイスラームをきちんと遵守し ているかどうかの踏み絵となっていると考えたほうが自然だろう(10)

スターをそろえ、金持ちの王子さまに支えられた『ケーフィルハール』と対照的なのが サウジの若手映画監督、アブダッラー・イーヤーフの低予算ドキュメンタリー作品である。

タイトルは『映画館まで500キロ』といい、サウジアラビアにおける映画禁止の問題を真正 面からとりあつかった作品だそうだ。

主人公は映画を見に行くのに、まずパスポートを取得し、リヤードから東部州のホバル まで行って、そこからサウジアラビアとバハレーンを結ぶ海上路のコーズウェイをわたっ て、隣国バハレーンまで旅をする。作品はその道程を収めたものだ。彼にとって一番近い 映画館は隣国バハレーンにあり(タイトルの『映画館まで

500キロ』というのはリヤードからバ

ハレーンまでの距離)、映画を見に行くのにパスポートが必要という現状を皮肉に、そしてま じめに描いたものだという(11)

だが、これももしかしたら過去の話になるかもしれない。ここ数年の間で言うと、たと えば、イード(イスラームの祝祭)中に子どもや女性向けの漫画映画が上映される映画館が 臨時的につくられることがあった。そして、ワリード・ビン・タラール王子は自分たちの 映画のために、現在サウジ国内に映画館を建設中とも言われている。

リヤードの娘たち

最後にもうひとつ、サウジアラビアの変化を象徴する動きを指摘しておかねばならない。

昨年9月、1冊の本がベイルートで出版され、たちまちアラブ世界でベストセラーになった。

タイトルは『リヤードの娘たち』(12)で、内容はタイトルどおり、サウジアラビアの若い女 性たちの生態を赤裸々に描いたものだ。著者のラジャー・アブダッラー・サーネァも

1981

年生まれで、リヤードのサウード国王大学歯学部を卒業したばかり、小説の主人公たちと ほぼ同世代の若く、そして非常にチャーミングなサウジ女性である(13)

サウジ国内では多くの識者やジャーナリストたちがこの本を紹介し、賞賛したり、けな したりしているのだが、問題は、この本は出版されて以来、ずっとサウジ国内で発行禁止 だったことである。筆者は、いつも使うアラビア語オンライン書店のベストセラー・コー ナーでこの本がずっと1位をつづけていたのではじめて気づいたが(14)、実際に買ったのはク ウェートの書店においてだった。平積みになっていたので、おそらくそこでも相当売れて

(7)

いたのであろう。

今現在、この本がサウジアラビアで発行禁止になっているかどうかはわからない。しか し、そのこととはまったく無関係に、すでに多数のサウジ人たちが、オンライン書店やバ ハレーンやクウェートの本屋でこの本を買っており、また国内では海賊版まで出回ってい るという。そもそも発行禁止なのに、この本についていろいろ、しかもオープンに語られ ていること自体、異常である。だいたい、筆者のもっている第

2版の裏表紙にはゴセイビー

労働相が推薦文を書いていて、著者を絶賛しているのだ。そのことも異例だし、現役閣僚 が絶賛した本が発禁になっているというのも異例である。

女性は、スーフィーやシーア派、映画と同様、サウジアラビアではタブーであった。他 の要素と異なるとすれば、女性は存在そのものを否定されたわけではないことだ。しかし、

存在は認められているとはいえ、公的な場からは締め出されていたことに変わりはない。

だが、その女性たちも多元化、多様性の潮流のなかでみずからのプレゼンスを主張するよ うになった。女性による建白書、女性の商工会議所役員選挙への参加や当選は、まさにこ の流れでこそ説明できる。

そして、『リヤードの娘』である。小説のなかで、著者は、現代サウジの若い女性たちの 恋愛観、性的なモラル、結婚観、職業観を電子メールによる通信といういかにもな形式で 描く。ある女性は夫がアメリカ留学中に「日本人」の愛人をつくったため、離婚され、ま たある女性は、結婚届けを提出してから、夫と性交渉をもったところ、あまりに積極的で あったということで夫にふしだらな女と誤解され、結婚式の直前に離婚されてしまう。と まあ、4人のうち

3

人は悲劇なのだが、夫婦で留学とか、傷心の海外留学とか、みんな贅沢 すぎるというのが、本書に対する批判のひとつであることも指摘しておこう。なお、サウ ジアラビアでは女性の結婚は早く、学生時代に婚約、結婚するのはめずらしくない。

小説の出来栄えに関して筆者に発言する資格はない。小説は基本的にサウジ方言で書か れており、筆者程度のアラビア語力ではきちんと理解することは不可能であった。上に紹 介した小説の内容はすべてサウジの新聞から取ってきたものである。たとえ発行禁止であ ったとしても、これだけオープンに女性の性の問題が語られるようになったのだ。サウジ アラビアは確実に変化している。

なお、言い忘れたが、冒頭の『ワシントン・ポスト』の記事を書いたのもサウジ人の女 性記者である。

1 Washington Post, May 2, 2006.

2 http://www.elaph.com/ElaphWeb/Reports/2006/5/146145.htm

3 C. Snouck Hurgrounje, Mekka in the Latter Part of the 19th Century, Leiden, 1970, pp. 46―47.

4 Mark J. R. Sedgwick, “Saudi Sufis: Compromise in the Hijaz, 1925―40,” Die Welt des Islam, Vol. 37, No. 3, 1997, pp. 366―367.

5 International Herald Tribune, April 23, 2004.

6) ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブの対スーフィズム、シーア派観についてはNatana J.

DeLong-Bas, Wahhabi Islam: From Revival and Reform to Global Jihad, Oxford University Press, 2004. pp. 83―

(8)

90を参照した。

7 Washington Post, May 7, 2006.

8 Asharq al-Awsat, February 28, 2006.

9 New York Times, April 28, 2006.

(10) 保坂修司『サウジアラビア―変わりゆく石油王国』、岩波新書、2005年、233ページ。

(11) http: //www.cinema500km.com/

(12) Raja’ ‘Abd Allah al-Sani‘, Banat al-Riyad, Bayrut: Dar al-Saqi, 2006(t. 2).

(13) http://www.rajaa.net/。著者のオフィシャル・サイト、著者の写真が掲載されているが、彼女の美

貌がブームに拍車をかけたという分析もある。

(14) http://www.neelwafurat.com/。ちなみに、ニールワルフラートはアラビア語最大のオンライン書店

で、『リヤードの娘』はニールワルフラートの2005年度ベストセラーの第1位に輝いており、5 10日現在でもベストセラー・ランキング第3位を占めている。

「連載講座:中東の政治変動を読む」

*取り上げる国と執筆者は次のとおりである(印は既刊) 第1回 パレスチナ(4月号)

平山健太郎(白鴎大学客員教授)

第2回 イスラエル(5月号) 立山良司(防衛大学校教授)

第4回 イラン(7・8月合併号)

松永泰行(同志社大学一神教学際研究センター客員フェロー)

第5回 イラク(9月号)

大野元裕(中東調査会上席研究員)

第6回 シリア・レバノン(10月号)

末近浩太(立命館大学助教授)

第7回 イスラーム復興運動(11月号)

横田貴之(日本国際問題研究所研究員)

ほさか・しゅうじ 近畿大学教授/日本エネルギー経済研究所 中東研究センター研究理事

Referensi

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