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1979年の革命以降今日に至るまで、何らかの

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(1)

はじめに

イランは石油は世界3位、天然ガスは世界

2位の埋蔵量を誇る資源大国である

(1)。しかし イランの石油部門は今日、数々の厳しい制裁にさらされている。2010年

9月 3

日には日本政 府も、米国および欧州連合(EU)の措置にならい、イランの石油・天然ガス部門に対する 新規投資を禁止する決定を下した。

しかし実際のところ、イランの石油部門は

1979年の革命以降今日に至るまで、何らかの

困難の下での活動を、つねに余儀なくされてきた。1979年の革命自体がそもそも、イラン 石油産業に大きな変容を迫るものであったが、翌1980年に始まった対イラク戦争において は、石油関連施設が次々と攻撃の標的にされ、イラン石油産業は甚大な被害を受けた。さ らに、イランの石油部門は

1979

11

月に発生した在イラン米国大使館占拠事件の直後にす でに、制裁の対象とされている。すなわちイラン石油部門は、これまですでに30年以上に わたり、さまざまな制裁下に置かれてきたことになる。

そこで本稿においては、革命以降のイラン石油産業の歩みをたどり、断続的に降りかか ってきたさまざまな困難に際し、石油部門がどのように対処してきたかを明らかにするこ とを試みる。そしてそのうえで、今日イランの石油部門に科されている制裁が、果たして どの程度の効力をもちうるかを考察することにする。

1

革命とイラン石油産業

1979年 2月に発足した革命政権は、革命のスローガンのひとつであった「独立」を、石油

部門においても達成することを試みた。石油部門においては、まず地下資源である石油を みつける探鉱が行なわれ、次いでその生産が行なわれ、そして生産された石油が販売(輸出)

されることになる。革命以前、イランの石油部門における探鉱、生産、販売には、そのす べてのプロセスに、大手国際石油会社(メジャー)らから構成されるコンソーシアム(2)が関 与していた。

実際のところ、1951年の「石油国有化」に際して設立されたイラン国営石油会社(NIOC)

は、1979年の革命以前の時点においてすでに、徐々に権限を拡大させつつあった。1954年 に形成されたコンソーシアムとの合意において、NIOCはかつて

20世紀初頭に英国人投機家

ウィリアム・ノックス・ダーシーに付与された石油利権を取り返し、コンソーシアムは

(2)

NIOCから生産と販売を請け負い、これを行なうことが定められた。その後 1973

年の合意で は、NIOCは石油の生産権も手中に収め、コンソーシアムには販売だけが委託されることに なった(3)。一方でNIOCは、コンソーシアムとの契約外の地域(主にペルシア湾沖合)におけ る探鉱に取り組むべく、別途イタリアやフランスの石油会社などと、コンソーシアムとの 契約に比較してよりよい条件で契約を結び、共同で油田の開発にあたり始めていた(4)

このような革命直前の石油部門の状況に対し、革命政権はまず、原油販売をめぐるコン ソーシアムとの契約を破棄することを宣言した(5)。次いで

NIOCは新たに 35社あまりと個別

の売買契約を結び、コンソーシアム経由ではなく買い手に対して直接イラン原油を輸出す る販路の確立を目指した(6)。NIOCはこの過程で、例えば共産圏の国々とは物々交換のバー ター契約を締結するなど、原油を着実に売るための多様な契約形態および新たな価格設定 メカニズムが模索された(7)

次いで原油の生産に関しては、革命を機にコンソーシアムの人員および油田の操業にあ たっていたコンソーシアム子会社(OSCO)のスタッフがイランから引き揚げたこともあり、

革命前と同レベルの生産量を革命以後も維持することは難しかった。しかし革命政権はそ もそも、「コンソーシアムはイランの原油を無駄に大量に生産し、イランを『安い資源の安 定的な供給国』の地位に貶めるのみならず、イランの貴重な地下資源を浪費していた」と 考えていた(8)。そしてこのような「石油依存」からの脱却を目指し、革命政権は当初、原油 生産量を徐々に低下させていこうとしてた(9)

最後に探鉱面においては、イランはコンソーシアム以外の外国石油会社との間で結んで いた協力関係を、ひとつずつ解消していった。1980年

8月には新たにイラン大陸棚石油会社

(ICSOC: Iran Continental Shelf Oil Company、現在の呼称は「イラン・オフショア石油会社(IOOC)」)

が設立され、革命前にイランが外国企業と共同で生産・操業にあたっていたペルシア湾沖 合油田の管轄は、同社が引き継ぐことが発表された。また、1979年9月には石油省設置法が 制定され、NIOCは新設石油省の下に置かれた。

革命後の石油産業をめぐるこれらの変化によって、1979年のイランにおける原油生産は 大きく落ち込んだ。第1図のとおり、イランの原油生産量は革命前には一時、1日当たり600 万バーレル(600万

b/d)

にも達していたが、1979年の生産量はその半量の

300

万b/d強まで落 ち込んでいる。しかしイラン革命が引き金となった

1979年の第 2次オイルショックにより原

油価格は上昇し、輸出量はほぼ半減したにもかかわらず、同79年の原油輸出収入は約

200億

ドルとほぼ横ばいであった(第

1

図参照)。そして革命政権は、「過多な原油生産は控え」、

「石油依存から脱却する」との方針に、一時自信をもったかにもみえた。

しかしその後、イランの革命政権がとった数々の「革命的な」行動は、イランをさまざ まな困難に直面させていくことになる。イランが掲げた隣国イラク南部をも対象とする

「革命輸出」のスローガンは、1980年

9

月のイラク軍によるイランへの侵攻を招く。また、

1979

11

月の在イラン米国大使館占拠事件の発生とその長期化は、主に米国によるさまざ まな対イラン制裁の発動を招いた。しかしいずれの困難に際しても、イランの石油部門は とにかく全力を尽くしそれに対処することを試みる。その他「原油価格の下落」などの問

(3)

題に際しても、「とにかく全力で対処する」というイラン石油部門の姿勢は一貫していた。

2

対イラク戦争とイラン石油産業

1980年 9

22

日にイラク軍がイランに侵攻することにより開始されたイラン・イラク戦

争は、新たな体制への移行過程にあったイランの石油部門を直撃した。特にイラクと国境 を接するイラン南西部の産油地帯は、イラク軍による集中的な攻撃の対象となったが、イ ランの石油部門はこれに対して、総力を挙げて石油関連施設の維持と稼動の継続に努めた。

これらの努力により、8年にわたる対イラク戦争中、イランの原油生産および輸出が「1日 たりとも途絶えることはなかった」ことは、今日もイラン石油部門の伝説として語り継が れている。

イラク軍はまず、イランの燃料供給網を遮断すべく、イランの石油輸送パイプラインや 石油精製施設、およびカーグ島などの石油積み出し港に繰り返し爆撃を加えた(10)。そして

1984年には、イランの石油輸出にダメージを与えるべく、原油を運搬するタンカーへの攻

撃を開始した。さらに1986年には、イラク軍は攻撃の対象を陸上の石油生産施設まで拡大 した。

このようなイラク軍による攻撃の前に、イランの原油生産量は、1980年と

81年にはそれ

ぞれ150万

b/d、140万 b/d

にまで落ち込んだ。しかしこの間、石油部門においては驚異的な 速さで、破壊されたさまざまな施設の修復が進められ、1982年には生産量は200万

b/dまで、

翌1983年には

250万 b/d

まで回復した。大きな被害を免れた石油施設では、攻撃に備えた消 極防御(passive defense)も着々と進められた。また、石油製品の受け入れターミナルと同様 に、原油輸出のための積み出し港も、イラク軍による爆撃を避けるため、徐々にイラクか ら遠い場所へと移された。

第 1 図 イランの原油生産量・輸出量・輸出収入の推移

7,000

6,000

5,000

4,000

3,000

2,000

1,000

0

1971 73 75 77 79 81 83 85 87 89 91 93 95 97 99 2001 03 05 07 2009

(1,000b/d)

(年)

 原油生産量は国際エネルギー機関(IEA: International Energy Agency)、原油輸出量および輸出収入は石油輸出国機構

(OPEC)統計から作成。

(出所)

生産量 輸出量(左軸) 輸出収入(右軸)

100,000 90,000 80,000 70,000 60,000 50,000 40,000 30,000 20,000 10,000 0

(100万ドル)

(4)

イラン石油省の記録によれば、イラク軍の攻撃をかいくぐり原油生産および輸出を維持 する必要があった石油部門は、戦争が続いた8年の間に、合計で

1000人以上の「殉教者」を

出した(11)。しかし同じく石油省の発表によれば、革命の大義と宗教的情熱に満ち溢れた当時 の「オイルマン」たちは、イラク軍の攻撃による死の危険を顧みず、持ち場の維持にあた り、油田の操業を続けたとされている(12)

これに対して輸出のほうは、イラクからの攻撃、および欧米諸国によるイラン原油のボ イコットなどの悪条件が重なり、1980年と81年には革命前のピーク時の

6分の 1以下の、80

万b/d程度まで落ち込んだ。しかしこのような状況のなかにおいても、イラン石油部門は石 油輸出収入を維持するため、とにかくあらゆる方策を採用する。具体的には、イラン原油 の販売価格を引き下げ、共産圏や第三世界などで新たな買い手を開拓し、さらには石油輸 出国機構(OPEC)の生産枠を上回るペースで生産を続けることで、輸出収入を維持するこ とが試みられた。しかしイランのこのような動きに対抗し、サウジアラビアが増産に踏み 切った影響もあり、1986年に原油価格は暴落する。これに伴いイランの石油輸出収入は

60

億ドル程度まで落ち込み、以降イラクとの戦争が終わる1988年まで、低迷を続けた(13)

3

制裁とイラン石油産業

1) イラン石油産業に対する制裁の概要

(a)

2005

年まで

2005

8月にアフマディーネジャード政権が発足し、その直前に、それまで「信頼醸成」

を目的に停止されていたウラン転換活動が再開されるまで、イランに対して次々と制裁を 発動していたのはもっぱら米国のみであった。米国は自らが問題視するイランの行動に対 する懲罰として、あるいはその行動自体を止めさせるために、イラン原油の輸入を禁じ、

また、イランの石油・天然ガス資源(“petroleum resources”)の開発に米国市民および企業がか かわることを禁じた。

米国が最初にイラン原油の禁輸措置を発動するのは、1979年

11

月に発生した在イラン米 国大使館占拠事件の直後である。米国はその後1984年、イランを「テロ支援国」に指定す ると、1987年には「イランによるテロ支援活動の拡大を阻止すべく」、あらためてイラン原 油の禁輸措置を導入した。米国はまた、1992年にイランおよびイラクによる「大量破壊兵 器開発」を阻止するべく、イラン・イラク兵器不拡散法を制定すると、1995年5月には、第 三国経由のイラン原油の取引を含む、イランとのあらゆる取引を禁じた。

一方で、米国がイランの石油・天然ガス資源の開発に初めて制裁を科したのは、1995年3 月のことである。そのきっかけとなったのは、米国の石油会社Conocoがイランとの間で締 結した、ペルシア湾沖合のスィーリー(Sirri)油田開発合意であった。この契約締結のわずか

10日後、1995年 3

15

日に、当時のクリントン米大統領は「米国市民・企業によるイラン

の石油・天然ガス資源開発への関与」を禁じる大統領令を発布し、この契約を破棄させた(14)。 その翌年、1996年には、米国は第三国によるイラン(およびリビア)の石油・天然ガス開 発への関与を制裁対象とする、イラン・リビア制裁法(ILSA)を制定する。イラン(または

(5)

リビア)に対する年間

2000

万ドル以上の投資を制裁対象とするILSA(15)には、イラン石油部 門の収入がイランの大量破壊兵器開発と「つながっている」との文言が盛り込まれた。

(b)

2005年以降

しかし米国のILSAは、「国内法の一方的な域外適用」でありすなわち国際法違反であると

みなす

EUや日本の反発を招き、イラン石油部門には米国の意向を無視する形で、欧州やア

ジアの石油会社が次々と参入した。これに対して米国の大統領は、結局は個々の事例に対 するILSAの適用除外を次々と発表し、米国では制定後

5

年ごとに更新され続けたILSAは、

ほとんど有名無実なものとなりはててしまっていた。

ところが

2005年以降、アフマディーネジャード政権発足後のイランによる「強硬な」一

連の核政策を受けて、状況は徐々に変化していく。状況の変化は米国以外の国々の態度の 変化をももたらし、2010年にはついに、EUおよび日本までもが、イランの石油・天然ガス 分野に対する新規投資禁止を決定するに至った。

EU

および日本によるこの「新規投資禁止」措置は、2010年6月

9

日に採択された国際連 合安全保障理事会決議第1929号に則るものとされている。決議第

1929号はその前文で、

「イ ランのエネルギー部門の収入」が「イランの大量破壊兵器開発」と「つながっている」可 能性につき留意することを、国連加盟国に呼びかけた。

この決議第

1929

号の採択を受けて、米国議会は「満を持す」形で対イラン包括制裁法

(CISADA: Comprehensive Iran Sanctions, Accountability and Divestment Act)を可決し、7月1日にはオ バマ大統領がこれに署名することで、イラン石油部門にはさらに厳しい制裁が科されるこ とになった。CISADAは、イランがその

3割強を輸入に頼るガソリンを含む石油製品のイラ

ンへの輸出、およびイランの石油精製能力の増強に対する協力を、新たに制裁対象とする ものである。CISADAはまた、イランとの金融取引に関しても、「イランの大量破壊兵器開 発に関与している」イランの金融機関と、「そうと知りながら」取引を行なった第三国の金 融機関は、米国における業務を著しく制限されるとの規定も含んでいる(CISADA第

104条)

。 すなわちCISADAは、金融取引を必然的に伴うイラン原油の売買をも、潜在的には困難にさ せる性質のものとなっている。

2) イラン石油産業による対応

革命から今日に至るまで、イラン石油部門は、イラン政府とならび、「危機を機会に転化 する」ことをモットーのひとつに掲げている。このモットーの下に、革命以降のイラン石 油産業は、数々の制裁にさらされつつも、探鉱、生産、輸出のそれぞれの分野において、

それなりの前進を遂げてきた(16)。米国の石油会社へのアプローチなど失敗に終わった取り 組みもあったが、米国の不在は欧州やアジアの石油会社に補われ、イランは石油部門の発 展に向けて、これらの企業との協力関係を最大限活用することができた。

(a) 米国企業へのアプローチ

1995年 3月 5日にイランが米国の Conocoとの間で締結し、クリントン大統領の介入によっ

て無効となった前述のスィーリー油田開発契約は、イランが革命後初めて外国企業に付与 した「バイバック契約」であった。バイバックとは、1979年制定のイラン・イスラーム共

(6)

和国憲法の規定に抵触しない形で、外国企業の参入を得て資源開発を進めるための枠組み である(17)。イランが革命後初めてのバイバック契約を米国企業に付与した理由は、イランが 米国との協力関係を模索しているとのシグナルであったとされている(18)

そしてイランが、国内でのコンセンサスの有無はさておき、米国に対するそのようなシ グナルを送ったのは、このときが初めてではなかった。イランと

Conoco

との交渉は1992年 に開始されたが、1980年代の後半にはすでに、NIOCから米国の石油会社に対し、油田の掘 削関連機材の使用をめぐる「複数のメッセージ」が届けられていたという(19)。また、イラン は2002年

1

月に当時のブッシュ米大統領に「悪の枢軸」と名指しされて以降も、米国の石油 会社へのアプローチを続けた。

2005年 1月に発表された、米国ハリバートン社の子会社によるペルシア湾沖合に位置する

サウスパルス・ガス田の掘削契約の受注は、そのようなアプローチが「実った」ひとつの 例である。この契約のイラン側のパートナーは、オリエンタル・キーシュという名のサー ビス会社であり、ハリバートン社子会社との契約を仲介したのは、ハータミー政権当時の イランの核交渉チームの一員である、サイルス・ナーセリーという人物であった。サイル ス・ナーセリーは、核交渉のメンバーであると同時に、オリエンタル・キーシュ社の取締 役の一人でもあった(20)。このハリバートン社子会社との契約は、発表されるや否や米国と イランの双方で激しい非難の嵐にさらされ、結局は無効とされた(21)

(b) その他の外国企業との協力

イランは1995年

3月、Conocoに第1

号のバイバック契約を付与することには失敗したもの の、同じスィーリー油田の開発契約を、そのわずか

4

ヵ月後の

1995

7

月に、フランスの

Total

との間で締結する。そしてこの契約を皮切りに、イランは次々と、陸上および海上の

油田およびガス田の探鉱・開発契約を、欧州やアジアの企業と締結していく(22)。この流れの なかでイランにバイバック契約を付与された国は、フランス、ロシア、イタリア、ノルウ ェー、オーストリア、そしてマレーシアに中国および日本と、多岐にわたった。

そしてイランはこれらの国々の石油会社の協力を得て、油田・ガス田の探鉱や開発を進 めた。イランは外国企業とのこれらの契約を通じて、資源開発に必要な資金のみならず、

さまざまな技術を導入し、それを習得することも目的としていた。これらのバイバック契 約には多くの場合、イランの企業・人材を一定程度関与させる条件が付されており、イラ ン企業にも実地で経験を積む多くの機会が与えられることになった。

4

イラン石油産業の現状と政府の対応

そして今日ではイラン政府も、石油部門活性化のための、積極的な側面支援を行なって いる。まず、イランに対する制裁が徐々に強化されてきた過去数年にわたり、イラン政府 は石油部門の人員を大々的に入れ替えてきた。政府により任命された石油部門の新たな幹 部たちに共通するのは、「制裁は石油部門の障害にはならない」という強い信念である。こ れらの幹部の多くは、かつて

1980年代の対イラク戦争中、石油部門のスタッフとして、あ

るいは革命防衛隊の副司令官などとして戦線に近い産油地帯を守り、原油の生産・輸出の

(7)

維持に貢献した業績をもっている。そしてこれらの幹部たちは、新たなポストに就任して 以降、「危機」に備えて着々と、「緊急事態対応計画」を策定してきた。

ガソリン禁輸に備えた「石油化学プラント転換によるガソリン生産」計画も、この「緊 急事態対応計画」の一環に位置づけられる(23)。対イラン・ガソリン禁輸制裁に対しては、イ ラン政府はまた、ガソリン配給制の導入により国内のガソリン消費を抑制し(24)、さらには改 正補助金法の制定に伴いガソリン補助金を削減し、ガソリン価格をさらに値上げすること で、間接的に石油(精製)部門を支援しようとしている。

イラン政府はさらに、石油部門に対する外国企業の投資を募るべく、さまざまな制度の 導入を進めている。政府は例えば、2010年

3月にはサウスパルス・ガス田開発の資金を募る

ためのユーロ債を発行している。政府はまた、石油部門の国有企業の民営化が予定される なか、テヘラン証券取引所への外国人投資家の参入を盛んに奨励している。また、外国人 による投資を呼び込むために、イラン中央銀行総裁は、「外国人投資家には一定のリターン 率を中銀が保証する」と発表したりしている(25)

このようなイラン政府の対応をみてくると、「危機を機会に転化する」というスローガン は実は、(可能な限り)着実に、これまで実行に移されてきたことがわかる。例えば「ガソ リン禁輸」という危機に乗じて、現アフマディーネジャード政権は歴代政権には実現でき なかった「ガソリン補助金の削減」を、今や実現しようとしている。また、イランは革命 という経緯もあり外国資本に対する根強い警戒心(26)があることがしばしば指摘されてきた が、現在の厳しい状況のなかで、石油部門の発展には「資金と技術を兼ね備える外資の参 入が不可欠」であることが、いまやすでにコンセンサスとされているようにも見受けられ る(27)。そして現在、困難な状況にもかかわらず、また、欧州等の石油企業がイランからの撤 退を続々表明するなかでもイランへの投資を検討している中国、ロシア、インド、そして トルコのような国々に対しては、イランは契約条件などの面でそれに報いることで、さら に協力関係を深めていこうとしている。

おわりに

これまでみてきたとおり、イラン石油部門の「あらゆる困難に全力で対処する」姿勢は 徹底している。イラン石油部門は革命以降、まず革命の動乱を乗り越え、イラクとの戦争 を乗り越え、そしていくつもの制裁に立ち向かうことを余儀なくされてきた。そしてあら ゆる困難に対処するための石油部門の取り組みがつねに成功を収めたわけではなかったが、

石油部門は決してあきらめることなく、今日まで一貫して、できる限りで最善を尽くすと いう姿勢を維持してきている。

その石油部門に対する厳しい制裁は、果たしてどのような効果をもたらすであろうか。

石油部門のこれまでの行動パターンをみる限り、石油部門が制裁を前進のための「バネ」

とすることこそあろうとも、制裁のために自らの目標を断念するということは考えにくい。

かつて革命の直後、1980年代のイラクとの戦争中に石油部門の人々を駆り立てた「革命の 情熱」は、当時と同じ形ではもはや残っていないかもしれない。しかし、「体制の安定と安

(8)

全の確保のための核技術開発の継続」という今日のイラン体制が設定する目標もまた明確 であり、イランの石油部門は今後とも、いかに困難な状況にあっても、イラン現体制の目 的実現のために総動員されていくものと思われる。

1 BP統計2009年版。

2 1954年の結成時点でのコンソーシアムの構成メンバーは、アングロ・イラニアン石油会社

(AIOC)が改称したBPと、Royal Dutch Shell、米国石油会社5社(Gulf Oil、Socony、Mobil、Exxon、

Standard Oil of California)、そしてフランス石油(CFP)の8社であった。

3 1973年の合意を受けて、コンソーシアムはNIOCから油田の操業を委託されて請負うイラン石油 サービス会社(OSCO)を設立した。

4) イランは1957年にイタリアのENIとの間で締結した共同事業契約を皮切りに、その後米国の

Amoco、フランスのSOFIRANらとの間で、次々と共同事業契約を締結した。イラン石油産業の経

緯については、Simon Chapman, “Oil in the Middle East and North Africa,” in The Middle East and North Africa, Routledge, 2010, pp. 139–167を参照。

5 1979228日、NIOCはコンソーシアムとの一連の契約を一方的に破棄した。Jahangir Amuzegar, Iran’s Economy under the Islamic Republic, I. B. Tauris, 1997, p. 231.

6) 新たな個別の売買契約に基づく原油輸出は、1979年3月5日に再開された。

7 Amuzegar, op. cit., pp. 237–240.

8) 革命政権の石油生産量に関する認識については、Shaul Bakhash, The Politics of Oil and Revolution in Iran, The Brookings Institution, 1982を参照。

9 Roger Vielvoye, “Iran oil exports due; volume unknown,” Oil & Gas Journal, 1979. 3. 5.

(10) 現在イラン国営石油精製販売会社(NIORDC)の総裁を務めるゼイガミー氏の回想によれば、イ ラク軍による石油部門への空爆は、1980年9月24日の午後3時36分、カーグ島の原油貯蔵タンク2 ヵ所に対する攻撃とともに開始され、その後8年にわたる戦争中のカーグ島に対する爆撃は、合計 で2300回に及んだ。Naftnews, 2009. 9. 27.

(11) イラン石油省ウェブサイト、“Naft va Defa-ye Moqaddas(石油と聖戦)”を参照。

(12) 対イラク戦争中の石油部門スタッフの間でいかにして高いモチベーションが維持されたかに関し ては、Farzin Nadimi, “Burning in Water, Drowning in Flame: Motivation Among the Wartime Iranian Offshore Oilmen,” EQUILIBRI, a. XIII, n. 3, Dicembre 2009, pp. 445–448を参照。

(13) その後1998年にも、油価の下落を受けて、石油輸出収入は100億ドルまで落ち込んだ。このとき の経験から、時のハータミー政権は、「油価の下落に備えて余剰石油輸出収入を積み立てる」石油 安定化基金を設置した。

(14) Conocoの契約をめぐる一連の動きについては、“Conoco: U.S. killed Iranian deal at last minute,” Oil &

Gas Journal, 1995. 3. 27、およびHossein Alikhani, Sanctioning Iran: Anatomy of a Failed Policy, I. B. Tauris, 2000などに詳しい。

(15) 許容される投資額の上限は、ILSA制定後初年度は年間4000万ドルと定められ、2年目から2000 万ドルに引き下げられた。

(16) 今日のイラン石油省による「革命後31年間のパフォーマンス」に関する自己評価については、

イラン石油省の通信社であるShanaが2010年2月1日付で報じた分析記事“San’at-e naft-e iran; si-o- yek sal-e talash, moqavemat va saburi(イランの石油産業:努力と抵抗、そして忍耐の31年)”を参照。

この記事は、イラクとの戦争が終わった後も、同じ人々が今度はイランに対する「政治戦争・宣 伝戦争」を開始し、それにもかかわらず、石油産業は今日に至るまで前進を続けている、として いる。

(9)

(17) 1979年に制定されたイラン・イスラーム共和国憲法は、地下資源を外資に与えることを禁じて おり(第45条)、バイバック方式では、外資に油田の「権益」を与えるのではなく、油田・ガス田 の開発を委託し、投資コストに報酬を上乗せした分を、油田・ガス田からの生産物によって返済 するという形式がとられている。

(18) イランの当時のラフサンジャーニー大統領は、1995年7月のMEED誌とのインタビューにおいて、

「Conocoとの契約はイランからの、米国と協力したいとのアプローチであった。しかし米国はイラ ンのメッセージを理解しない」と述べた。“Rafsanjani tells US ‘door is open,’ ” MEEDMiddle  East Economic Digest, 1995. 7. 14.

(19) “Irangate themes repeated in Iranian oilfield purchasing,” MidEast Markets Newsletter, 1987. 4. 13.

(20) Guy Dinmore and Najmeh Bozorgmehr, “Iranian has dual role in nuclear and US oil talks,” Financial Times, 2005. 1. 27.

(21) 契約締結が発表された当初、イラン政府報道官は「ハリバートンは完全にイランの企業であるオ リエンタルのパートナーの1社であるにすぎない」と、契約を擁護する発言を行なっていた(IRNA

Islamic Republic New Agency, 2005. 1. 10)が、2005年8月、同オリエンタル・キーシュ社の幹部2 が汚職容疑で逮捕され、同社に付与された契約も、これに従い無効とされた。

(22) 油田の権益の絡まない、イラクとの戦争で破壊された海上ターミナルの修復などに関する協議は、

1980年代末にはすでに、イタリア、フランスなどの企業との間で始められていた。その後1991

5月に、イランは革命以来始めて「石油ガス国際会議」を開催し、米国のChevronやCaltexの代

表を含む300名余りが出席するなか、ラフサンジャーニー大統領は、イランは地域の安定の確立の ため、域内外の国々との協力を深めていきたいと語った。ヴェラーヤティー外相は同じ会議にお いて、「経済的な懸案事項は政治的配慮に優先する」と述べた。Tomas W. Lippman, “Iran Declares Readiness for Broad Cooperation,” The Washington Post, 1991. 5. 28.

(23) ミールカーゼミー石油相は2010年9月8日、イランは石油化学プラントを利用してガソリンを生 産することにより、ガソリンの「自給自足」を達成したと発表した(Shana, 2010. 9. 8)

(24) イラン政府は2007年6月、ガソリン消費を抑制する目的でガソリン配給制を導入した。

(25) “CBI guarantees 10% return on foreign investments in Iran,” MEESMiddle East Economic Survey, Vol. 53, No. 25(2010. 6. 21), p. 14.

(26) 外資に対する不信感ももちろん残っており、ハータミー政権下で締結された外国企業との数々の 契約は、契約額が「不当に高い」、契約期間が「不当に長い」等、さまざまな批判の対象になった。

外資を積極的に呼び込んだハータミー政権下の石油省高官たちは、「革命時にはBPやShellなど外 国の石油会社の影響を排すると言って石油省の要職についたのではなかったか」などと、保守系 の日刊紙から批判されたりした(例えば、Jomhuri-ye Eslami, 2001. 7. 1を参照)

(27) 外資の必要性は、頻繁に石油省およびNIOCの高官によって呼びかけられている。例えば、Aresu Eqbali, “Iran’s Ghanimifard urges investment to reverse oil output decline,” Platts, 2010. 6. 7, などを参照。

さかなし・さち 日本エネルギー経済研究所 中東研究センター主任研究員 [email protected]

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