9月16日 遠野市綾織町字上綾織(山口) 伊勢崎三郎さん宅 オシラ様採訪 オシラ様、オコナイ様、オシラ仏。
オセンタク、鈴はつけない、タタラレタラ病気になる。
オクナイサマ 貫頭、六射馬頭、包頭2体 銘(表)南無般若十六菩薩
(裏)□□、十四年九月十五日
伝承、十六善神、十六夜叉神、十六菩薩等いう。尚、オシラ様自体に書かれてあるものについては 牛頭天皇、スサノオ尊、年神、歳徳神。
羽黒系、修験系の家では神棚をまつる所が多い。仏教系が仏壇にかざる。天台宗、時宗、宗洞宗が多い。
遠野市青笹町中沢、千葉正吾蔵
*祭文
表紙 *祭文右可誦也
表紙裏 *祭文右可誦本地般若十六善神
抑白神ノ御本地をくわしく尋ね奉るに・・・・
裏紙 羽黒修験本山 採灯 供札 羽黒山峰中 護摩
中沢邑 蓮殊院 **蓮昌坊主
遊ばされる日、1月が多い。
2回ある家は1月と10月又は1月と盆。
10月は最も新しい仏の亡くなった日と同じ日の10月 南部囃子、の始まったのは元禄頃
今の姿は明治維新後からか
五町から出た。六日町、新町、一日市、裏町、石町、八幡、松崎町(村)の担ぎ手、ししの先頭 裏町が途中から仲町と変る
藁人形。
馬につなぎ。六月十五日(旧)
雨風まへり。二百十日
夜遠野市の文化財専門委員、昆盛男さんを訪れ、まづ、この地方のオシラ様の現状を聞く。
遠野市教育委員会編(昭41年1月)文化財目録
オシラサマをオコナイサマ、オシラガミ、オシラボトケ、ヤクシサマ、カキノキジゾウ等いう。但し一般にはオ シラサマで通ずる。大部分は御神体は木(栗の樹が多く)、稀に竹、遠野地方で一軒石のオシラサマを持っている家 がある。その家の人はやはり、オシラサマといっている。丈25~33cmオセンタクと称える細い布片をきせる。
長さ 40cm幅 4cm位の布片両端を左図のように裂き、中央にオシラサマの身体を通す穴をあける。このオセン
タクを2枚十文字に重ねて首を通すのであるが、布地は麻又は木綿、色模様、縞等は自由らしい。昔は1年に1度 新しいオセンタクを古いものの上に重ね着せた。重ね重ねて80枚位になり、その上に新しいオセンタクを着せられ なくなると、1度全部をとり除いて新しくまた着けて行く。
このオセンタクの着せ増は大正年代頃まで続いたらしい。オシラサマの頭に露式と包頭式とある。
露式のもの、顔を彫ってある。男女2様あり。
農神の方は烏帽子を彫ってあるもの、馬頭のものあり。
色頭のものはオセンタクを頭の上から着せ、額の所で垂らす。従ってこの方のオセンタクは少し幅が広い。遠野 地方ではオシラサマを祭っている家は現在でも可なり多い。調査されたものも50軒はある。1軒の家に2体あるも のが圧とう的に多い。1体の家はごく稀、4、6、8体等、偶数で2体以上の家が多なりある。
このように数多くのオシラサンが 1 軒の家にある理由については不明であるが、ある家が廃家となったとき、その 身内のものが、オシラサマを預ったために増えたという伝承はある。廃家のときにオシラサマを預ける先がないの で、お寺に頼んで預ってもらったという伝承が可なりある。現に遠野のお寺ではもと所有者不明のオシラ様を預っ ている寺が各所にある。
オシラサマを祭る日、縁日という。縁日は正月16日(旧)が最も多い。その他に正月16日と旧3月16日。正月 16日と9月16日(旧)。
正月16日と3月16日と9月16日。小正月と盆の16日の家もある。他に6月、7月、10月、12月の16日を祭る 日とする家もある。
またこの他に旧10月(仏月という)の特定の日に祭る家が多い。この特定の日というのはその家の1番新しい仏 の命日の日をいう。この日を合祠(ゴシ)という祖霊がその家のオシラ様と遊ばれる日であるという。
オシラサマはよくたゝりのある神様だという。本体は遠野では養蚕の神と信じられている。多くはその家の主婦 が世話をする。オシラサマを粗末にしたり、祭らなかったりすると災いがある。又眼病の神様だという。家の火を 守って下さるともいう。家に火事があって焼けたとき、オシラサマが知らぬうちに庭の柿の木にひっかかっていて、
首の鈴が鳴ったため、オシラ様が無事であったことが分ったという話がある。
各家でオシラサマを収っている場所は神棚、仏壇、押入等。祭り方、一般に遊ばせるという。
旧正月16日の祭りには自分の家だけではなく親戚や、近所の人が集って来て、そのきお供物など持って来て拝む。
来る方の人はオシラサマを持っていない家の人が来る。
その他の縁日には自分の家だけで遊ばせる。
合祠のときは16ヶの米だんごを供える。合祠のときは遠方からも身うちのものが来る。但し、合祠のとき身内の ものが集まるのは、オシラ様を遊ばせるためか或いは別にこの地方の習俗である。「まいりの仏」の日であるためか、
この辺は聞きただすことを忘れた、というのはオシラサマを持っている家でも合祠をやらぬ家があり、「まいり仏」
のみをやる家があるのである。
オシラ様は子供が好きで、縁日では子供がオシラ様を抱いたり、おんぶしたりして遊ぶと喜ばれるという。
もとオシラ様を遊ばせるのはイタコがしたらしい。イタコというのは特定の巫女のことであって、遠野では盲目 者とは限っていなかったようである。遠野はもと修験者の多かった所で、山伏の妻によくミコサンが居て、これが オシラ様を遊ばせたようである。
所が現在ミコサンが居なくなって、その役目が主婦に移ったと考えられる。
オシラ様の本体は牛頭天王、スサノオ尊というのが多く、他に年神、歳徳神、十二神、十六善神、十六夜叉神、
十六菩薩等といわれ、修験は羽黒山系で仏教は天台宗、*道宗(時宗)が多い。
遠野市青笹町中沢、千葉正吾さんの家には、オシラ祭文が現存する(前記)。
16日午前9時半、萩原氏、毘氏、預家さん同導、兼て預家さんの連絡してくれた。伊勢崎さんのお宅へ車で行く。
猿ヶ石川の堤に沿うて上り、綾織町山口まで秋晴の物見山、両子山を左に車を走らせ、煙草の葉のとりい入れ最 中の伊勢崎さんの家を尋ねる。主婦に当る、おばあさんという人が盛岡へ行って留守なので当主三郎さんの奥さん という人が1人留守居中であったが心よくオシラ様を見せて戴いた。30×50×高さ40cm位の蓋は黒塗の木箱に収 められた8体のオシラサマを見せて戴く。
明らかに1対づゝが1組になっているおシラサマで、養蚕の神さまといゝこの木箱は神棚に保管されている。
拝む日。旧正16日、旧3月16日、旧9月16日。合祠はしない。貫頭3対、包頭1対。包頭1対は本家が北海道 へ移住するとき預ったものという。貫頭の3 対は(馬頭 女神)(馬頭 女神)(冠 女神)で、どの組も女神の方 が稍丈が高い。
拝むときは8体を1対づゝ前後に箱の中に立つように並べて壁か障子の前に台の上に置き、後の障子、壁に中央 を絞った幕を張り、台の上には塗の三宝におそなえ物を供えて、主婦がその前に坐って無言で拝む。そのあとで子 供がオシラ様を抱いたり、背負ったりして遊んでよい。祭らぬとたゝりがあって家のものが病気になるという。
伊勢崎さんの家はもと山伏であったが明治の始め頃、農業に替ったという。また、おばあさんは山伏のつれあい の巫女であったらしい。勿論それよりずっと以前から、この家にオシラ様はあったし、最も新しいオセンタクはそ のおばあさんの頃までで、それ以後はもうオセンタクは新しく加えていない。
オシラ様の御身体は長い年内の経過でいづれも黒光りとなっているが、そのうちの馬頭の 1 本の身体に次の墨書 がある。
「コウカ十四年九月十五日 南無般若大善神」
1体平均30枚位のオセンタクが着せてあった。おばあさんの居たころ、オシラサマを遊ばせるとき祭文を唱えた かどうか、現在では記憶はないらしい。
「まいりの仏」について。
まいりの仏を信仰している家が遠野には可なりある。この家はオシラ様を持っている家とダブっている場合もダ ブッテいない場合もある。まいりの仏の日は旧10月のある特定の日であって、その特定の日というのはその家で最 も近くなくった人の命日と同じ日を祭日とする。その家では当日掛軸をかけて祭る。掛軸は
聖徳太子像、黒駒太子像、阿弥陀如来像、南無阿弥陀仏号
で、そのうちどれか1軸でもよく、又 4軸全部ある家もある。祭り日にはだんごを供え、近隣からお詣りにやって 来る。