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2 月 18 日 鹿児島県囎唹郡志布志町安楽 山宮神社春祭 正月踊

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2月18日 鹿児島県囎唹郡志布志町安楽 山宮神社春祭 正月踊 安楽、山宮神社、春祭、17-18(旧正17-18)

六月燈(*)、奉斎(杉)(**)

合社、昭和42年、行事、田の神(タノカミ)

春祭とは年祈の祭、もと旧正17-18。

この地方は明治維新島津藩の所領官令により神仏分離の激しかった地方で、島津藩の下級郷士が神社を擁して、農 民の上に君臨して士族として住みつき、同時に社家として最近まで祭祀権を握っていた。

山宮神社もその頃この郷士の手により創立されたらしい。安楽 400 戸中、山宮神社に最も近い宮内部落がその郷士 の居住する一画であった。

それ以前は山口明神といったらしい。仏教を信仰する農民は屋敷の裏の山に洞穴を掘って、その中で仏を秘かに拝 んだらしい。山口明神の信仰の外に田の神講(タノカンコ)が農民の古くからの信仰であったらしい。今でも春秋2 回、講中の集りがあって当番の家で祭り講はその渡しで持廻りになっている。

士族が土着したとき農業をやるものは少なかった。少ない、タグリ島のビロウシュ葉で笠をつくる権利を持った。

その他、大工など安楽地区には山宮神社の他、安良神社がある。その他4ヶ所に神社があったが明治42年山宮神社 に合祀した。

春祭(打植祭)、六日燈、ホゼ(奉斎)がある。春祭は農耕予祝行事、宮内部落のものがやったが最近は青年が少な くなり、開放の気運にある。

田打。このとき晝間持が出る。何れも青年。庭に蓆を敷いて田をする。面をつける。

次、馬犁。舁取り、牛(赤衣)、この2人は面。あとから馬鍬をもったもの1人、神官の衣、面なし 次、種蒔。神主1人、籾を播く

次、田植。拝殿にて、神楽。次鍬引。上組と下組の青年 田の神(男女2人)、青年が扮する祭場

このあと農民の正月踊、「ヤマ」が面白い。蚊帳を吊る。樫、杉 正月踊、安楽を上組、中組、下組に分けて交替でやる。

17日小倉発12:05急行青島、西都城着19:15。

西都城発19:59、志布志着20:41、急行大隅

西都城駅に頼んで急行大隅に乗替する時間中に志布志の宿を世話して貰う。翌18日、安楽神社の春祭を見て、夕方 宮崎まで帰る。

志布志町安楽にある山宮神社は旧郷社で古くは山口六社大明神と称した。祭神は天智、弘文、持統の 3 帝。それ に乙姫宮、倭姫、玉依姫とする。

安楽神社は山宮神社の南方約 2 キロの所にあって旧村社。祭神は倭姫、もとその近くにあった沈母(シズメ)神 社、祭神玉依姫を合祀した。

山宮神社の春祭は2月17日(もと旧正月中の卯の日)に行われ、その翌日即ち2月18日(もとはその日のうち に)山宮神社の神輿は安楽神社(合祀前は沈母神社)へ渡御し、2月18日安楽神社では神輿到着後打植祭が行われ て、これが終ると山宮神社の神輿は還幸となる。

このような次第なので祭そのものは安楽神社を御旅所と考えると一連の 1 つの祭りのようでもあり、神仏分離以 前の姿は完全に消えてしまっているので、この辺の解明は仲々むつかしいらしい。

詳細な報告、鹿児島県文化財調査報告書第9輯。

志布志の宿から電話をして尋ねて貰ったが、何処へ尋ねてもこの点は全く要領を得ず、山宮神社の祭といへば分 るが安楽神社は名前も知らぬ人が多いといった有様であった。そこで 9 時頃には少し早いと思ったが車で安楽神社 へ行った。よく開拓されたシラス台地上の耕地の中を志布志、松山県道が一直線に走っている左側に500m程入った 部落に安楽神社がある。車の運転手は勿論知らなかった。

また安楽神社はひっそりとしていた。何一つ祭らしいものはなく、強いていえば、軽三輪車でやって来た露天商 がまだ荷を車に積んだまゝ道端で焚火をしていた。神社には誰も居ない。隣といっても樹立で囲まれた少し離れた 所にある農家へ行って祭の有無を聞くと午後らしい。而して山宮神社からやって来て祭があるという話で、祭があ るというよりも踊りがあるという話である。

とにかく県道を 2 キロ山宮神社へ歩いたバスは仲々ないようだし車を呼ぶこともできぬので重い荷物を下げてと うとう歩いた。

山宮神社ではたしかに祭はあったようである。それも昨日あったらしい。今日は全く何もないようである。宮司 の家を訪ねることにした。それもやっと教えて呉れる子供があって宮司さんは少し離れた場所で養鶏所を営んでい た。そこへ入って尋ねると始めて様子が分った。本日午後 1 時頃、山宮神社から神輿が安楽神社へ渡御されて、そ の後安楽神社で打植祭がある由である。多分それは 3 時頃だとの話で、それまでの時間をどうしたものか迷った。

それにどうも少し腹の調子が悪いので汽車の時刻表を調べると、中安楽駅から志布志へ 1 度帰って宿で中食でもし て充分午後の汽車で間に合いそうなので 1 度はそうする決心をした。無人駅中安楽で汽車を待っていると近くの小 学校の運動場に面した公民館で子供が踊りの練習をしている。それが学校の催し物の踊りのようでもないので手洗 場を借りる積りで、そこへ行って訪ねると、山宮神社の秋のホゼに太刀踊を復活させようと練習中であるとの話で、

そのまゝそこへ上り込んでしまって、色々聞いているうちに、安楽小学校の先生をしている海老原淳さんという人

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が、こゝに残っている正月踊の保存に力を入れていることが分り海老原さんが是非宅へ来いということで、渡御の 始まるまで、その人の家へ行って何かと聞くことにした。

順序として、こゝで昨17日行われた山宮神社の春祭の次第を簡記しておく(第9集による)。

祭典後神庭で御田植行事といわれているものが行われる。神官他参列者30人程が列を造り、前以って用意してあ る「オノカヅラ」を1本づゝもって宮回りをする。「オノカヅラ」というのは稲の穂のことで50cm位の竹に紙をは さんで稲の穂に挿したものである。このとき神官は

おーやまとのくにやさ おのかづら くにおろし いろかわらじや でーん でーん

と唱える「でーんでーん」は太鼓の音でなく口で唱えるのである。小野氏は「伝」であると報告している。

3回り後、お宮の後の所に集るが、そこには1m4方程の小さな田になぞらえた砂盛がしてあって、皆そこへ「お のかづら」を立てる。これで御田植行事は終る。

次に浜下り(はまど下りとも)がある。山宮神社の境内を出て100m程の所に「はまど」という石のある所がある。

そこまで一度御輿を担ぎ出すのである。もとは志布志の田之浦にある御在所獄の山宮神社まで行ったがあまり遠い ので現在の浜処(はまど)を造って、そこまでにしたという。こゝで獅子舞がある。行くときは獅子舞は神幸式に 加わらず、帰りは神輿と共に神社へ帰る。獅子(しし)を捕えて土産にして帰るのだという。獅子舞は小字宮内か ら出すらしい。宮内部落のことについては後で書く。

最近まで、その日のうちに安楽神社へ改めて神幸式があったらしい。その夜は神与は安楽神社泊であった。「山の 口の神様が娘の所へ泊いけいきやるげな」といったらしい。

現在はこの渡御は翌18日である。18日朝、山宮神社で「たまげまつり」という行事があったらしいが現在はない らしい。玉というのは小餅、花(ゲ)というのは榊の小枝で、これを境内の大楠の根元に供える行事であった。

18日には大字安楽では正月踊りがある。手拍子(テベス)ともいゝまた踊りの1曲名をとって「お市後家じょ」

ともいはれる。

そこで打植祭と正月踊との関係であるが、打植祭は神事であり、正月踊は春祭に奉納されると解されるようであ るが更に深く考えて見ると別の解釈もできそうである。それには安楽の村の構成を見なければならぬようである。

打植祭は現在神職の行う祭事となっている。これは村人の手から神職に移ったものと小野氏は解している。山宮神 社の17日の祭事を見ていないので詳しいことは言へぬが、とにかくまづ18日の神幸式に始まる打植祭のことから 述べよう。祭の次第は少し前後するが

午後 2 時頃山宮神社で神輿に霊入れがある。神輿はあまり大きくない。行列の順は猿田彦の鼻高面、鉾、旗、弓 が先駒をなし太鼓と笛とが(楽人)つく。現在は、これ丈けを軽四輪車に所せましと積込んで、私の持っている大 荷物も一しょに積んでくれ、神官が自ら車のハンドルを取り、助手席には氏子総代を乗せ、他は全員車のあとから、

ぞろぞろ行くのである。中安楽の村の中を行くときは最徐行で村外れから、安楽神社のある下安楽へ入るまではア クセルを踏む。他の連中はそうなると近道をして三々五々に行く。

一行安楽神社に到着して車から、神輿を下ろし、安楽神社の神殿に収めるとそのまゝ諸役は拝殿の左右の座につ く。神殿内は同時に楽屋を兼ねる。太鼓(径50cm位の締太鼓)は神官の傍におく。

祭典の後拝殿の右側に坐っていた諸役の1人が立って楽屋に入り仕度をするが、そのとき2、3人手伝いが来て、

拝殿から右に下りる階段下の境内広場に幾杖かの蓆を敷く。登場人物は拝殿から階段を下りて来る。もとは別に柴 垣の出入口をつくったらしい。

1 、田打ち。神職 1 人、男面をつけ、烏帽子、狩衣。木製の鍬を持って登場し、蓆の上を田に見立てゝ、田なら

し、畦ごしらえの所作をする。無言、囃しは入らない。

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2 、アネボ。女装をした神職 1 人。女面、姉さん被り、カスリの着物に女帯をしめ、白足袋、頭上に握飯の入っ た脇取のようなもの(これを「諸蓋も ぶ た」という)を頂いて出て来る。

アネボは登場前、銭の入った財布を懐に入れておき蓆の上に降りるとその財布が褄から下に落ちるようにし ている。早く落ちると安産だといゝ、仲々落ちないときは難産だという。見物人はアネボの安産か難産かを 見定めてその年の作占をするという。

田打は喜んでアネボを迎え、これに抱きつく所作をし、アネボからもぶたを受取って、アネボはすぐ退場す る。

3 、牛使い。田打をやった男がそのまゝの装束で持物を牛の口取に替える。1m位の長さの、よくしなう木の枝の 先に細縄を30cm位の長さにつけ、その先に割竹を輪にしたものを(径10cm)を牛の鼻環に見立てゝつけ たものである。

田打男は牛の口取を持って「びよう、びよう、びよう」と牛(べぶ)を呼ぶ。その頃、馬鍬(もが)をもっ た神職1人も出て来て2人で牛を探す。このとき2人の間で興趣的な滑稽な問答があるらしいが聞こえなか った。見物人とも問答のやりとりがある。

その頃牛が出て来る。牛はアネボになった者がなる。真赤な着物、股引、をつけ、牛面を被っている。蓆の 内外をあばれ回るが男がやっと牛をつかまえて鼻に竹鼻を結びつけ田を回る。

4 、種まき。別の神職が神職の衣装のまゝ三宝に盛った籾種をもって来て、田ごしらえのできた田に蒔く。

5 、田植舞。4人の神職(男)が拝殿の中で、右手に鈴を持ち、左手に「もろむき」というイヌガヤの実のなった

小枝を束にしたものを持って舞う。太鼓、笛が入り、神楽調神官が歌を唄う。

この苗は 誰がとる苗よ 三つ葉咲(さ)す苗よ 四つ葉になれば とんと栄えまする

以上諸役は全部、神職であるが、こゝで神職というのは、小字宮内に居住する社家のものをいう。

6 、田の神の参詣。2人、そのうち1人は田の神、他の1人は田の神の奥方(おつかた)。正月踊を奉納する代表

者であり、また踊りの指導、場内整理を兼ねる。2人とも青年がなる。

田の神は男神で綿入れの大きな夜着の背中の部分を吊り上げて着、縄帯、顔はお高祖頭巾(黒)でかくし、

甑の敷の大きいのを菅笠のように被り、脚絆、黒足袋、下駄ばき、右手に大きな杓子、右手に大きな竹筒を 持つ。この竹筒は男根を表わすという。

田の神のおつかたは女(妻)神で、裾模様の木綿の藍色の着物、御高祖頭巾で顔をかくす。手甲、白足袋、

フェルトの草履、右手に杓子、左手に摺古木をもつ。

2人は前々から神庭に出現して、杓子で竹筒を叩いて「ホーホー」と奇声を発したり、滑稽な動作をしたりし て境内の混雑の整理係も勤める。

7 、かぎひき。拝殿横の広場で行われる。かぎ引きの最初の部分に諸役として選ばれる青年は神職ではない。こ のとき(田の神を除いて)村人が始めて行事に参加するのである。大字安楽を上下2つの組に分ける。

上組は曲瀬、高吉、大迫、上門、平城の諸部落 下組は安良、中宮、平麻、稚児ヶ松の諸部落

上、下組からそれぞれ3人づゝの選手を選び出し、鉤は前以って6本用意される(このうち雄鉤4本、雌鉤2 本)共に長さ2m位の樫の木の枝の樹皮を脱いだもので先の方は少し少い。

6人の選手は鉤を持って拝殿の方に向って1列に並ぶ。拝殿の縁には数人の神職が夫々長い「ナエ竹」の先に 笹葉をつけたものを持って 1 列に並んで、鉤引の青年に対って立つ。神職が竹を振りあげ、振りおろしつゝ 歌う。

改る年たちかえり空みれば 年ごいまされ今はふるとも

振りあげた竹を卸して地上を打つのであるが、これを合図に青年達も鉤を振りあげて掛け声と共に強く土地 を打つ。この動作は3回繰返される。終って6人の青年は上組3人、下組3人と向い合い(北側が上組、南 組が下組)それぞれ相手の鉤を自分の鉤に引かけ合わうとする。また相手の足を鉤にひっかけて倒してよい ようである。そのうちに3組のうちの1組どれかが鉤に掛ると他のものは自分の持っている鉤を投捨てゝ、

ひっかかった鉤に加勢して、引合いとなる。待機していた他の上下組の青年も飛出して自分の組に加勢し、

田の神はその行司をつとめ引こんだ組の方の田はその年は豊年だという。

これで打植祭の行事は終る。

打植祭の諸役はいづれも神職といっているが、こゝでは社家筋と称えられている家筋のもので、いづれも小字宮 内の一画に居住しもとは土族出だという。これについて考えられることは、山宮神社の祭儀の成立過程のことであ

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る。

明治維新まではこの地方は島津藩の所領であった。島津藩は尊王派の中心担点であって、大政奉還の際一早く領 土は官員に転向し明治政府の組織を実践した所で、従って地方の神仏分離も一きょにやってしまった。こんな話を 聞いた。その人はある新聞社の地方報道員の人であったが、その人の先代のとき自分の家は真宗になったという。

真宗になる前のことであるが先代のおばあさんに当る人がまだ健在であったころ、時々家から抜け出して居なくな る。どうもおかしいというのでそっと追けて行ったところ家の後の薮丘の方へ入って行って、その崖下にある洞の 中へ潜り込んで御灯明をあげて拝んでいる。あとでそこへ行って、よく見ると仏像が置いてあるので、聞いて見た ら、仏さんを拝んではいけないという、お布令が出て信者達が大へん困ってどうしようかと昔相談して、そんな人 達がそっと集って、分らぬように拝んでいたが、それがだんだん亡くなって今は自分 1 人になったという話で、今 は決してそんな世の中ではない、と云い聞かせ、そんなに信心したければ家が真宗になってもよいというので真宗 になったと聞いている。尤も自分は一向そんなことに無頓着で祖先に申分けないと思っているがと話して呉れた。

明治初年、士族の勢力がそのように強かったので、村人達はその威に逆らぬようにと、「隠れ仏教」のような習風が 戦前大正の頃にまで残っていたらしい。

安楽にも、もと官員であった士族の一身が土着して宮内築に居をかまえて、山宮神社を形成し、自らその祭祀権 を握ったようである。尤も士族が土着したとき、直ちに農業をやったものは少なかったらしい。それも田が少なか った故でもあった。士族達はタグリ島の賽榔樹の葉を採集して笠をつくる権利を取って、それを生業とした。また 大工等工匠職を持ったものもある。

所が山宮神社の形成には氏子である村人の支持がなければならぬので、自然農耕行事や、それまでの村の民俗を 取込れなかればならない。田の神はどうもとの村人の信仰民俗から発するもののようである。

伝承によると春祭に部落のものが踊った踊りに2つあるようで田踊りと正月踊とである。

この名称から考えて春祭に直接関係ありそうなのは田踊りであるがこれは現在廃絶している。残っているのは正 月踊りである。

田踊はまだ古老のうちには、憶えている人があるらしい。現在これを復活しようという気運はあるらしい。海老 原さんが懸命になっているのはこれらしい。田踊りは「シャク踊」(作踊か)、「前踊」ともいはれた。4種の踊りか ら成り、奴、薙刀、タカブフイ(竹幣振り)、鍬に分れる。

奴 男童、太刀踊。

薙刀 女の子の踊。

タカブフイ 前年に嫁を貰った青年が4m位の竹の先に御幣をつけたものを振って踊る。

鍬 17~18才の青年、鍬を振って踊る。

この4組が別々の列をつくって同じ調子と歌で踊る。歌は 神の田なれば お田なれば 清めの雨がバライサライと 振りまわる、あがりとの風が そよそよと吹きまわす

正月踊。手拍手(てべす)ともいわれ、また「おいちごけじょ」ともいわれている。「おいちごけじょ」はこの踊 の 1 つの「お市後家じょ」から来たものらしい。踊り子は全部安楽部落の青年であり、以前は近くの佐多、妙見郷 からも踊りに来たらしい。そのような構成から考えてもとは田踊りを加えて 1 つの踊りではないかとも思われる。

現在、現実の姿として「田の神(たのかんさー)」と「田の神のおつかた」とが正月踊の総指揮者のような役割を果 している。

安楽には田神講(たのかんこ)があって年に春秋 2 回講を持ち、家の内に安置されていて講があるごとに持廻り となっている。戸数約400戸、安楽を上、中、下の3つの組に分けて各組で毎年交替で正月踊を奉納する。このメ ンバーには宮内のものは加わらない。

田神講では毎年、年の暮れに公民館に集り年来の夜警をはじめる。そのときから新前(まだ踊りをやったことの ない青年)は「おんじょ」(踊りの経験のある青年)について踊りを習い、旧正月に入ると「庭まわり」をやって最 後の仕上げをする。

庭まわりというのは、組中の昨 1 年間に新築をした家、子供のできた家、嫁を貰った家等から頼まれて、その家 の庭先へ行って旧正月に踊る。家誉めの踊りである。現在この庭まわりは2月18日、安楽神社で正月踊りを奉納す る前に正午頃から出向いて庭廻りをし、それが済んだ足で、そのまゝ安楽神社へ行く。

踊りは現在9曲ある。

出端(では) お市後家じょ 一つの(数ヶ唄) 帖佐節(じょさん) 爺様郎(ぢさん) えんや判官 坊 主(ほん)さま 五尺 安久節(やっさぶし)

このうち、「やっさぶし」は明治になってから付加えられたものという。踊振も歌詞にも、上、中、下それぞれ少 しづゝ特異の風を工夫した趾があって、夫々少し違っている。

本年の踊手は中組(平城、平床、上門の三部落)で約20名もとは青年ばかりであったが、今はそうも行かなくな って、大人も少しは混って踊る。

囃手、三味線、太鼓、鉦、それに歌出から成る。三味線のみは未婚の女性。太鼓、鉦、歌出は男、成輩のものに ならざるを得ないとの話であった。庭廻りのときはその家の縁先に座るなり、門口に立って囃し、踊り手はその前 で踊るが庭廻りには田の神夫婦は参加しないようである。神社へ奉納するときは囃方は「山」に入る。

山は高さ2m幅3m位の丈夫な竹棹4枚を横に丁度屏風のように折畳みのできるように継ぎ合せたもので、これを

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角にして立てる。前面の1間は杉葉で囲うが下から1.3m位の所は横に端から端まで窓を残し、窓の高さ30cm位、

その上は、また枠一ぱいまで杉葉で囲う。左右の両側は窓なしの囲いで椎の葉付の小枝で貼る。後の 1 面は出入を するので、何もはっていない。山には底と天井はない。この中へ蚊帳を吊り、囃子方は皆この蚊帳の中へ入って、

前面の窓から、庭の踊り手を眺めつゝ拍子を合せる。

この蚊帳を吊るのは仲々名案と思われる。夏は虫除にもなるし、それに本日のように雨となったときも、付添の1 人が長い棒を持って蚊帳の中へ入り、蚊帳の天井の部分を支えて居ればテントのようになって少々の雨では囃し方 は平気で居られる。外側に注連縄を張廻らす。山は移動のときは折畳みになる。囃方は平服。

踊り手。黒装束、下に股引をつけ上から黒紋付は羽織をつけて羽織の前を合せて博多帯で占める。頭から被るお 高僧頭巾は目の所だけを出して頭巾の布を前に長く垂らし、胸の所で絞って紙紐でしばる。

白い布の鉢巻を前結びにするが絞らずに白布を幅 5cm位に畳んで結ぶ。頭の後に当る部分は角を上にした高さ

12~3cm位の三角形にし、2重ねとする。丁度その下の所に家紋をつける。

萌黄色のだぶだふの大きな手甲、脚絆、黒足袋で下駄穿き、170年程前まではポックリ型の下駄をはいたらしい。

腰には左に新しい手拭、煙筒を、右には人形や縫ぐるみの猿(さるのこという)をぶら下げる。

踊り、節廻しとも、八月踊と似た所があるようである、が踊りはそれぞれの曲によって少しづゝではあるが変化 があって、八月踊よりもずっと複雑な手振りとなっている。その上曲の順序も定っているようで、出端で 1 列にな って山のある所から庭へ入り、左廻りに輪をつくる。田の神様が列外でやはり踊りながら、輪をリードする。

Referensi

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