序 論
2017
年11月、ドナルド・トランプ米大統領はアジア太平洋経済協力会議(APEC)開催地 のベトナム・ダナンにおける演説で、「自由で開かれたインド太平洋(FOIP: Free and OpenIndo-Pacific)
」構想を語った。もちろん太平洋とインド洋の一体化を考えるこの構想はトランプ大統領が初めて提唱したものではなく(1)、日本からみれば2007年、安倍晋三第
1次政権に
おいて、すでに麻生太郎外務大臣が「自由と繁栄の弧(Arc of Freedom and Prosperity)」と呼んで 民主主義や人権保護など価値感の共有を軸とする日・米・オーストラリア・インド4ヵ国の 関係強化を主張している。その後、クリントン米国務長官による2011年の「アメリカの太平
洋世紀(America’s Pacific Century)」演説やオーストラリアの2013年国防白書にも「インド太
平洋」の概念は登場している(2)。こうした提案は中国の台頭をどう戦略的に捉え、この広大 な地域で近年成長の著しい新興国のインドやインドネシアをどう取り込んでいくかという課 題に焦点を当てている。また、その根底には急速に変化を遂げる環太平洋地域において、米 国の覇権衰退に米国自身を含めた各国がどのように対応していくかという苦闘がある(3)。これらの構想実現には、もちろん各国が安全保障上いかに力の均衡をとり、戦略的利害を 確保していくかが重要であり、また、国際公共財と考えられる公海での自由航行(freedom of
navigation)
の確保や地域の経済連結性(connectivity)の強化も重要とされる。本稿では、最初に地経学(geoeconomics)の概要を紹介したのち、インド太平洋内の経済関係に目をむける。
まず地域の三大国(米国、中国、日本)がメガ自由貿易協定やインフラ投資など、さまざまな 経済戦略のうち、どの選択肢をもって地域の経済連携を形成し深めようとしているかを分析 する。また、そういった大国間の競争に対して、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国とイン ドがどう対応しているのかを論じた後、インド太平洋構想について、地経学の観点から考察 する。
1
地経学とインド太平洋構想地経学というあまり聞き慣れない国際関係学上の概念は、冷戦が終わろうとしている時代 に登場し、1990年ルトワックによって「紛争の論理と通商の手法を混合物にしたもの」と定 義された(4)。その後、2010年代に入り、中国、インドなどの新興国の台頭に対応して、ミト リンとヴィーゲルはルトワックの研究を発展させ、これらの新興国がどのように経済成長を
追求し、同時に外交政策の目標を達成するために経済的手段を使用しているかを分析した(5)。 また、ハレルはそれら経済的手段を安全保障戦略上のソフトバランスと呼んだ(6)。一方、新 興国のなかでも、中国やロシアなどは、アメリカの覇権により作られ維持されてきたリベラ ルな世界経済秩序に対抗するがごとく、しばしば新重商主義的で国家中心の経済的手段を用 い自国経済を優位な立場に導こうと試みるのである(7)。ボールドウィンによる研究では、こ うした地経学の手段は経済ステイトクラフト(Economic Statecraft)と名付けられ、政府が国 の富や財源を利用して影響力を行使する方法と定義された(8)。また最近では、中国に焦点を 当てた著書でノリスが「商業行為者に対して、国家の戦略的利益を追求できるような安全保 障上の外部性を生み出すよう行動を奨励する政府の意図的な試み」と再定義を試みている(9)。
こうした地経学にのっとった先行研究の多くは、貿易と直接投資から発生する利益の保護 や制裁をめぐる二国間での対立に焦点を当てている。とりわけ大国の経済ステイトクラフト に重点を置き、経済制裁を主要な道具として強調したものが多い(10)。しかし近年になって、
米国と中国の経済覇権争いが明らかになってくると、世界規模または地域規模で経済秩序を どのように形作っていくかという競争が、ルール作成上の争いとして現われてきた(11)。以下 で分析するように、米国はリベラルな経済秩序を環太平洋パートナーシップ協定(TPP: Trans-
Pacific Partnership Agreement)
などのメガ自由貿易協定という多国間の枠組みに当てはめることで、アジアにおける自国経済の影響力を維持しようとする。同時に、中国は「一帯一路」構 想(BRI: Belt-and-Road Initiative)やアジアインフラ投資銀行(AIIB)を推し進め、現存の国際 開発金融秩序への挑戦ともとれる経済戦略で中国と周辺地域との経済連結性を高めている。
こうした地経学の観点からみると、インド太平洋地域構想は地域経済戦略を考えるうえで いくつかの点で大変意味深いことがわかる。まず、メドカフが主張しているように、この地 域は世界経済上さまざまな意味で重要な位置を占めるということである。世界貿易や資源の 多くはインド洋を通って、アフリカや中東からアジアに運ばれる(12)。今日、インド洋は世界 の石油輸送の3分の2、貨物輸送の3分の1が通り、大西洋を抜いて、世界で最も混雑した航 路となっている(13)。この地域では中国とインドの 2 ヵ国だけで25億もの人口を抱える。その
2ヵ国はこの 20年で急激な経済成長を遂げると同時に世界の貿易・投資に活発に関与し、世
界経済とのつながりを深めた。また、2013年に中国が立ち上げた
BRI構想は自国の資本力を
インフラ支援に活用し、陸路を使ってヨーロッパへ、そして海路を使ってアフリカへと中国 の貿易路を構築していくという壮大な計画を実行している。この海路がインド太平洋と重な り合う。もちろん、中国のこの戦略に対応するかたちで重要性が増しているのが、米国や日 本の提唱するインド太平洋構想ということになる。最後に、インド太平洋構想を考察していくうえで、地政学的および経済連携上の分析は、
各種の経済的相互依存性との関係でみていくことが重要である。ここで指摘したいのは、中 国の台頭を可能にしたアジア太平洋地域の貿易や投資による密接な経済相互依存とは逆に、
これまでインド太平洋地域においては経済連携関係が比較的希薄であったという点である。
以下で論じるように、こうした発展途上にある経済連携関係を今後どのように形作り、発展 させていくかがこの地域の地経学上の大切な戦略になる。そういったなか、安全保障と軍事
問題から距離をおいて、貿易やインフラ投資の分野での経済関係を通じて競争が進んでいる。
なかでも、自由貿易協定などのルールや制度作りによって自国に有利な経済ガバナンスを規 定しようとする競争が繰り広げられている。その意味で、インド太平洋という広大な地域に おける各国の戦略は、安全保障上だけではなく世界規模の地経学の視点からも分析していか なければならない。
2
インド太平洋における経済連携2007年に当時の安倍首相
(第1期)がインドにおける演説で披露したように(14)、インド太 平洋とは「二つの海の交わる」地域でありながら、経済連携においては、アジア太平洋地域 の長期にわたる深い経済相互依存関係は南アジア地域には十分に達していない。特にインド は1990年代初頭まで経済の自由化・開放を遅らせ、21世紀に入りやっと経済グローバライゼ ーションの波に乗った状態にある。貿易統合度をみても、インド太平洋地域は中国経済の拡 大に大きく影響され、インドの統合度はいまだ低いことがわかる。輸出統合(第1図)をとる と、2018年、中国を含めたインド太平洋地域の統合の度合いは57%に達するが、中国を除く
その度合いは33.5%にとどまる(15)。輸入統合(第2
図)と両方合わせて近年のトレンドをみて も、中国を含めた「新興アジア」諸国間の貿易統合度が目立って伸びているのに比べ(16)、南 アジア内の統合も、中国を除いたインド太平洋地域の統合も停滞または後退している。こうした経済環境を分析し、ウィルソンはインド太平洋という地域が「自然発生」的な経 済地域なのかという疑問を投げかける(17)。2010年代前半におけるこの地域の経済相互依存関 係を分析した彼の研究によると、インド太平洋地域は、貿易の面で言えば
APECの21ヵ国よ
インド太平洋(中国を含む) インド太平洋(中国を除く)
東アジア 新興アジア諸国 南アジア
1985 90 95 2000 05 10 15 (年)
60
50
40
30
20
10
0
(%)
IMF Direction of Trade various issuesを基に筆者作成。
(出所)
第 1 図 インド太平洋各地域の輸出統合の度合い(1985―2018年)
対 世 界 輸出 に 占 める 地 域 内輸 出 の 割合
り20%ほど域内貿易結合度(intra-regional trade intensity)が低く、域内の資本輸出国である中 国、日本、米国からの直接投資による投資結合度をみても同じことが言える。つまり、その
3国からの対外直接投資の大半がアジア太平洋内で行なわれ、2012
年までの直接投資累積額は12兆630億ドルに及ぶ。それに対して同じ時期に新興国インドへはこの
3国の直接投資累
積額は合計440億ドルと低く、これはアジア太平洋地域への投資累積額の3.5%にも満たない。また、定性分析にのっとっても、インド太平洋の主要メンバーを全部加盟国とする国際機関 はASEAN地域フォーラム(ARF)と東アジアサミット(EAS)を数えるだけで、どちらとも 各国の経済協力を促進する場とはなりにくいと主張している(18)。
このように経済相互依存関係が比較的薄いなか、このインド太平洋地域構想の地経学をど う考えることができるのだろうか。国際政治経済(International Political Economy)の理論で近 年かなり定説化しているのは、地域経済における投資や貿易などの経済活動を通して進む地 域統合を「地域化(regionalization)」として把握し、それぞれ国の政府が政策を基に自由貿易 協定や投資協定の交渉・締結を通して地域を結んでいくのが「地域主義(regionalism)」だと いう理解である(19)。しかし、以上で議論したように、経済連携が薄いなか、こうした活発な ビジネス・経済活動によって底から支えられるかたちの「下から」(bottom-up)の経済統合を もって、このインド太平洋地域構想の発祥点とするのは無理がある。逆に、この地域構想の 基盤となっているのが、安全保障問題と密接に絡まって、米国や日本がこの広大な地域をイ ンフラの整備等を通してどのように連携させ、そのなかで自国の利益をより強く反映した貿 易・投資のルールや経済秩序を構築していくかという点である。これらの動きは、今後ます ます成長を遂げる域内新興諸国の経済成長戦略にとっても重要になる。
1985 90 95 2000 05 10 15 (年)
60
50
40
30
20
10
0
(%)
IMF Direction of Trade various issuesを基に筆者作成。
(出所)
第 2 図 インド太平洋各地域の輸入統合の度合い(1985―2018年)
対 世 界輸 入 に 占 める 地 域 内輸 入 の 割合
インド太平洋(中国を含む) インド太平洋(中国を除く)
東アジア 新興アジア諸国 南アジア
3
アメリカ・中国・日本の経済戦略インドならびにインド洋を含んだインド太平洋を経済地域構想の枠組みにするという動き とそれに伴う議論は、すでに2000年代の半ばから続けられている。日本では小泉純一郎首相 の下、2005年の第
1回 EAS
がインドを含めたASEAN
+6
(中国・日本・韓国・オーストラリ ア・ニュージーランド・インド)の16ヵ国で始まり、第2回目のEASでは、その16ヵ国による 東アジア包括的経済連携協定(CEPEA: Comprehensive Economic Partnership for East Asia)構想を 日本が提唱し、中国が提唱したASEAN+3(中国・日本・韓国)による東アジア自由貿易協定(EAFTA: East Asian Free Trade Agreement)構想と対立している。2010年代に入ると、世界金融 危機に続き、オバマ政権下(2009―16年)の米国も地域自由貿易協定の枠組み作り競争に参 加してきたため、アジア太平洋、インド太平洋の経済戦略はより複雑になる。そのオバマ政 権下の米国の経済戦略のなかで一番重要な位置を占めていたのがTPPである。
TPPはシンガポール、ニュージーランド、チリとブルネイの小国 4
ヵ国間に結ばれた質の高い自由貿易協定(P-4)に端を発する。金融危機に直面したブッシュ米政権(2001―
08年)
は、貿易自由化度が高く、21世紀の経済に合わせた貿易や投資のルールを含むこの協定をア ジア太平洋における経済連携の枠組み作りの中心に据えることを考えた。政権がオバマ大統 領に代わったのち、2010年米国は正式にTPP交渉を開始した。その後
2012
年までに、TPPは 本来の4ヵ国から米国・オーストラリア・ペルー・ベトナム・マレーシア・カナダ・メキシ コを加えた11ヵ国の交渉になり、2013年7月に日本を正式に加えて最終的に 12ヵ国となる。
複雑で難しい多数の交渉会合を経て、TPPは
2015
年10月ようやく合意に至り、2016年2
月、12ヵ国代表が署名したのちは、各国の批准を待つばかりとなっていた
(20)。もちろんその後、トランプ大統領の選出により、米国のTPP参加および
12
ヵ国による原型でのTPPの成立は夢 と消えるわけである。オバマ政権にとってTPPは、21世紀に入って目覚ましく台頭した中国への対応のひとつの 経済戦略として大変重要なものであった。中国台頭をどの程度の脅威と捉えるかどうかは米 国の指導者のなかでも意見の分かれるところであり、米国のTPP政策に関して言えば、これ は必ずしも中国を封じ込める目的のものではない。ただ、世界金融危機を背景に、中国やイ ンドなどの新興国の台頭と新自由主義(ネオリベラリズム)の威厳喪失で弱化していた米国の 威信と影響力を回復し、それと同時に不透明さの増すアジア経済に構造調整を促す目的が
TPPにはあったと言える
(21)。というわけで、TPPは中国をアジア太平洋の自由貿易秩序から 除外するどころか、TPPの成功によって米国の利益に沿ったアジア太平洋の通商ルールのひ な形を作り、中国をその秩序に引き込むことがオバマ政権の目的であった。例えば、TPP交 渉の競争政策分野に含まれる国営企業に対する規制は、中国の経済競争力を牽制するように 作られている。つまり、中国はTPP交渉において、参加はしないが強く意識されている「影 の交渉者(shadow negotiator)」(22)であり、そこには米中のルール作り対決という意味合いが みられる。トランプ政権(2017年―)になってからは、アメリカ第一主義(America First)にのっとっ
て、まずTPPから離脱した。2018年に入ってからは対中貿易戦争を積極的に仕掛け、世界の 自由経済秩序や景気への悪影響が心配されるなか、米国の貿易赤字を減らし自国に製造業の 職を増やすことを最大の目的に経済戦略を繰り出している。インド太平洋構想に関しては、
前述の2017年APECサミットでの演説ののちは、FOIP構想の柱として「米国の海外インフラ 投資の枠組みを支援・強化するための法案」(Better Utilization of Investments Leading to Develop-
ment、BUILD
法案)を2018年に通しただけでなく、同国の民間投資を支援するため、米国政府の開発融資限度額を前年の
2倍に当たる 600
億ドルに引き上げてきた。中国はこういった米国の動きに対してどのような経済戦略をとってきたのだろうか。中国 側ではTPPを「中国封じ込め」と解釈するものも多い(23)。高水準の知的財産権の保護や国有 企業の規制などを含むこの自由貿易協定にこの時点で中国が参加するのは難しく、それに対 抗する手段として米国を外したアジア諸国だけによる自由貿易協定を奨励する。すでに述べ たように、西太平洋各国による自由貿易協定の枠組みの胎動は2000年後半あたりから存在し た。そのなかでも、日本が推し進めていたASEAN+
6による枠組みを後押しして、2011年に
は東アジア地域の包括的経済連携(RCEP: Regional Comprehensive Economic Partnership)の交渉 を開始することになる。このグループにはインドも入り、発効すれば世界人口の45%に当た る30億の人口と世界貿易の40%に相当する規模の貿易をカバーし、TPPの規模を超す大自由 貿易圏が確立することになる(24)。しかし、インドをはじめとした高度な経済自由化を嫌う発 展途上国家を多く含むため、RCEPで交渉されている貿易・経済自由化の度合いや規則採用 の速度を参加国の経済発展段階に合わせるなど、TPPよりかなり緩やかな取り決めとなって いる(25)。2013年には中国に新しく強い指導者である習近平国家主席が登場し、
「一帯一路(BRI)」構 想と題される大戦略が繰り出される。これは、中央アジアからヨーロッパまでの経済を地上 でつなぐ「一帯」と東南アジアから南アジア・中東・アフリカに至る海上経路の「一路」の 開発を支援し、中国と各地域との経済連結性を深めようとする構想である。インフラ開発を 中心に総額1兆ドルの支援を約束し、中国の経済リーダーシップの確立と、地経・地政学的 戦略の優位を狙っている(26)。BRI構想と同時期に中国政府によって立ち上げられたAIIB
は、同じくインフラ投資のために
1000億ドルの資金を集め、創業開始から 3
年半たった2019
年9 月時点で、日米は加盟していないものの、100ヵ国が参加する立派な国際開発金融機関とし て発展してきている。こうした中国の経済戦略は、それまで絶対的影響力を誇っていた経済のネオリベラリズム による一方的な経済自由化政策に対して、後発国の立場から経済の巻き返しに必要なインフ ラ開発などの支援を提言したものと言える(27)。同時に、こうした戦略は投資や経済連結性の 促進を通して中国を経済的に有利な立場に導くのに利用されている。ただ、興味深いことに
インドは
BRI構想やAIIB
のインフラ投資の恩恵はほとんど受けておらず、どちらかというと戦略地政学上のライバルであるパキスタンに集中する中国のインフラ投資を懸念している。
こうして、この10年間、中国の資本力が強化されてきたことにより、自由貿易協定以外の分 野でも米中の経済戦略のせめぎあいがみられるようになった。特にトランプ政権は対米貿易
黒字が高く、技術競争にも参加してきた中国をあからさまに敵対視しており、2018年から本 格的になった関税戦争は中国の経済成長を明らかに減速させている。
対立する米中の経済戦略は、日本に積極的かつ新たな経済戦略を採用する機会を与えてい る。TPP参加を梃子に
ASEAN
+3ではなくASEAN
+6をメンバー構成とするRCEPを中国に 受け入れさせたことは、日本がアジア太平洋経済情勢のなかで、拮抗する勢力関係を大きく 動かせる「中枢国家」(pivotal state)の役割を果たせるということを示している(28)。日本政府 はTPP参加に踏み切るまでは時間がかかったものの、参加後は自国の貿易自由化の経験を基 にアジア参加国を説得するなど、交渉成立に大切な役割を果たしてきた。2017年1
月、トラ ンプ政権下の米国がTPPから離脱すると、残りの11ヵ国をリードして、TPP協定から22
項目 を凍結することにより作られた「環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協 定(CPTPP)」の交渉を開始し、1年後には合意、2年を経ない2018年 12月には協定発効にこ
ぎつけている(29)。インフラ投資をめぐる競争では、BRI構想や
AIIB
に対して差別化を図り、「質の高いイン フラ」投資を提供することによりアジアの膨大なインフラ投資需要に応える計画を2015年5 月に正式発表し、アジアに対するインフラ支援額をアジア開発銀行(ADB)との協調でその 後5年間に1100
億ドルにすると約束した(30)。2019年6
月に大阪で行なわれた20
ヵ国・地域(G20)サミットでは、「質の高いインフラ投資に関するG20原則」を提唱し、全参加国の承認 を得ている。このイニシアティブは、BRIの名の下、この数年拡大してきた中国のインフラ 投資に対して、査定や計画の甘さ、耐久性や債務持続可能性(debt sustainability)の問題など から批判が高まってきていることに対応したものである(31)。そうしたなか、日本はこうした 質の高いインフラ支援を提唱することによって、日本の高い技術力や品質、インフラに関す る専門知識を提供すること、また、野心的な中国の地域経済戦略に対してアジア周辺の小国 が抱く不安を和らげることを目的としている(32)。こうした日本のインフラ輸出攻勢はインド で成功を収め、800億ドルに当たるアーメダバードとムンバイ間の高速鉄道プロジェクトを 日本が受注することになる。
4 ASEAN
とインドの経済戦略重点課題インド太平洋構想をめぐっては、上記の3大国に加え、ASEAN諸国とインド各自の戦略や 思惑が加わる(33)。ASEANは21世紀に入って活発になった地域経済の制度化、つまりアジア 地域主義の舵をとっている(driver’s seatと言われる)。日中・中印・米中など、地域の大国間 にある対立関係を乗り越えて地域の安定を確立していくうえでASEANの役割は重要であり、
経済戦略においても中心的役割を担っている。ASEANにとって
RCEPは、それまでに別々に
結んだ6つのASEAN
+1(日、中、韓、インド、オーストラリア、ニュージーランド)の自由貿 易協定をひとつにまとめるものと考えられた(34)。一方、TPPにはシンガポール、ブルネイ、マレーシアおよびベトナムが参加しているものの、他の
ASEAN 6
ヵ国は入っておらず、ASEAN経済共同体を分裂させるものとしてインドネシアなどは恐れを抱いている。インフラ
投資を中心に広がるBRIに関しては、ASEAN諸国の間で温度差があるものの、条件の甘い中国の投資を選挙時に有利な材料として使おうとするなどの考慮は強く働く(35)。こうしたなか、
ASEAN
の経済戦略にとってインド太平洋構想は立ち位置のとり方が難しいものとなる。もし、この構想が基本的に大国間の力の対立の場ということになれば、ASEANはアジア太平洋 における自らの中心性(centrality)が失われると心配する。また、インドを「アジア地域」の 仲間に入れることについてASEAN内の見解の統一もできていない(36)。
最後にこの地域の大切なプレーヤーとしてのインドの経済戦略にとって、インド太平洋構 想はどのような意味があるのか。インドは
1990年代初頭から「ルック・イースト政策
(LookEast Policy)
」の下、東アジアとの経済連携を深める政策をとってきた。特に、2014年にナレンドラ・モディが首相に就任すると、その政策はより積極的な「アクト・イースト政策(Act
East Policy)
」として再登場し、「活気に満ちたアジアの2つの成長軸の間の多岐にわたる交流
を加速させる」ことを目的としている(37)。こうした政策を背景に、RCEPはインドにとって 理想的なメガ自由貿易協定であったはずである。が、実際の交渉となると、中国に対する恒 常的な貿易赤字に対する懸念も手伝って、市場開放にかなり消極的なインドはRCEP交渉に おける一番の厄介者となっている(38)。
TPPまたはCPTPP
に関しては、その自由化条件の厳しさや経済ルールに国内を適応させることの難しさから、インドが近い将来参加するとは考えられない。しかしながら、こうした 質の高い貿易・投資協定がこれからの中国経済のインド太平洋進出に与える影響は大きく、
その点でインドはTPPを間接的に支持する(39)。BRI構想に関しては上述のように、中国のパ キスタンに対する大量のインフラ投資、特に印パ間の紛争地域であるカシミールを通る中 国・パキスタン経済回廊(China-Pakistan Economic Corridor)はインドにとって重要問題であ り、この点が大きな障害となり、モディ首相は今までに
2度行なわれた BRIサミットへの出
席を控えている。一方で、中国のインド洋進出および中東・アフリカへの経済連携に対抗す るべく、特に日本と共同でアジアのインフラ支援を強化し、対アフリカに至っては、日本と 共同で「アジア・アフリカ成長回廊(Asia Africa Growth Corridor)」構想を立ち上げた(40)。5
インド太平洋構想の地経学的考察2017年のトランプ大統領の演説でますます注目が集まるようになったインド太平洋構想で
あるが、インド太平洋がカバーする広い地域と多様な関係国にとって、この構想は「同床異 夢」の感が強い。一般に考えられる下からの地域主義とは違い、ビジネスや経済活動による 自然発生的なつながりに欠けるこの地域構想は、安全保障上の要因とも相まって政府や国の リーダーが主導する上からの戦略で形作られている。国際政治経済学の観点からみれば、こ のインド太平洋「地域」の経済活動や連結性を今後どのように規定していくかというせめぎ あいが各国の経済戦略を大きく左右していると言える。こうした大きな力の下、CPTPPやRCEPといった投資のルール作りも含む自由貿易協定が この地域経済構想全体を支えるのは難しそうである。まず、どの協定の枠組みもインド太平 洋の主要メンバーを全部は取り込んでいない(第3図)。それだけではなく、Quad(4人組)と 言われるインド太平洋の民主主義国(米、日、オーストラリア、インド)がすべて加盟してい
る協定はなく、RCEPにはいまのところ日、中、インド、オーストラリアが交渉に加わって いるものの、市場開放の度合いや電子取引のルール作りなどで意見が分かれ、交渉は数年難 航している。ASEANはRCEPを支持しているものの、その10ヵ国のなかにはシンガポールや ベトナムなどCPTPP加盟国もあり、自由化への取り組みには不協和音もある。もちろん、ト ランプ政権下の米国は二国間の自由貿易交渉に固執し、質の高い投資・貿易のルール作りや メガ自由貿易圏の設立には興味がない。
そこで現在、インド太平洋構想を経済面から捉えていくなかで焦点になっているのが経済 連結性と、それを支えるインフラ投資戦略である。そのなかには、少なからず中国のBRI構 想とそれにまつわるインフラ投資拡大に対抗するという反発的な要素が含まれているが、輸 送や製造の連絡性を高める目的は資本供与国にとっては共通である。米国、日本、中国とい ったインド太平洋地域の経済大国は、この地域の潜在的な経済成長を取り込み、また、今後 の成長が期待される中東やアフリカへ円滑に結びついていくことを今後の経済発展の重要な 課題としている。その意味で、競争をしながらもインフラ投資の量を増やし、その過程で質 を高めていくことはインフラ投資戦略のプラスの外部性と言えるかもしれない。
結 語
経済連結性が比較的薄いインド太平洋について考えるとき、欧州統合をモデルとする一般 的に考えられる経済地域主義の枠組みでこの地域構想を捉えるのは難しい。しかし、地経学 的な視野からみると、いかに大国である米国や日本が、この地域構想を経済戦略に活用しよ うとしているかがわかる。つまりインド太平洋構想は安全保障戦略に加えて経済のルール作 りや連結性の構築といった経済目標をも含んでいる。もちろんそれは中国の台頭とBRI構想 といった経済連携戦略に対抗するものであり、競争的な性格が強い。こうしたなか、インド やASEANにとって、インド太平洋構想はインフラ投資など多くの恩恵を約束すると同時に、
第 3 図 日本の経済連携協定の推進状況(2019年3月現在)
(出所) 経済産業省「通商白書2019年」、https://www.meti.go.jp/report/tsuhaku2019/2019honbun/i3140000.html。
TPP
署名(16年2月)
EU
発効(19年2月)
米国
TPPからの 離脱を宣言
メキシコ
日墨:発効(05年4月)
改正(12年4月)
コロンビア
交渉中
トルコ
交渉中
スイス
発効(09年9月)
豪州
日豪:発効(15年1月)
ブルネイ
日ブルネイ:
発効(08年7月)
マレーシア
日馬:
発効(06年7月)
シンガポール
日星:発効(02年11月)
改正(07年 9月)
ベトナム
日越:発効(09年10月)
インド
日印:発効
(11年8月)
モンゴル
発効(16年6月)
ペルー
日秘:発効(12年3月)
カナダ
NZ
チリ
日智:発効(07年9月)
TPP11
発効(18年12月)
RCEP
(ASEAN10ヵ国+日中韓印豪 NZ)
交渉中
GCC諸国
交渉延期 GCC(湾岸協力理事会): サウジアラビア、クウェート、
アラブ首長国連邦、
バーレーン、カタール オマーン
韓国
インドネシア
日尼:発効(08年7月)
フィリピン
日比:発効
(08年12月)
タイ
日泰:発効
(07年11月)
ラオス ミャンマー カンボジア
中国 日中韓交渉中
ASEAN発効(08年12月)
いずれかの味方に付くことを強要されうる「諸刃の剣(double-edged sword)」の構想なのかも しれない。
(1) 安倍首相は2016年にアフリカ開発会議(TICAD)でFOIP構想を披露している。
(2) Hillary Clinton, “America’s Pacific Century,” Foreign Policy, No. 189(2011); Defense White Paper 2013, Department of Defense, Australian Government, http://www.defence.gov.au/whitepaper/2013/.
(3) Brendon Cannon and Ash Rossiter, “The ‘Indo-Pacific’: Regional Dynamics in the 21st Century’s New Geopolitical Center of Gravity,” Rising Powers Quarterly, Vol. 3, Issue 2(2018), pp. 7–17.
(4) Edward N. Luttwak, “From Geopolitics to Geo-economics: Logic of Conflict, Grammar of Commerce,” The National Interest, No. 20(1990), p. 17.
(5) Mikael Mattlin and Mikael Wigell, “Geoeconomics in the Context of Restive Regional Powers,” Asia Europe Journal, Vol. 14, Issue 2(June 2016), pp. 125–134.
(6) Andrew Hurrell, “Hegemony, Liberalism and Global Order: What Space for Would-be Great Powers?” Inter- national Affairs, Vol. 82, Issue 1(2006), pp. 1–19.
(7) Ian Bremmer, “State Capitalism Comes of Age: The End of the Free Market?” Foreign Affairs, May–June 2009, pp. 40–55.
(8) David A. Baldwin, Economic Statecraft, Princeton: Princeton University Press, 1985, p. 30.
(9) William J. Norris, Chinese Economic Statecraft: Commercial Actors, Grand Strategy, and State Control, Ithaca: Cornell University Press, 2016, p. 14.
(10) 例えば、Daniel W. Drezner, The Sanctions Paradox: Economic Statecraft and International Relations, Cam- bridge: Cambridge University Press 1999; Gary C. Hufbauer, Jeffrey J. Schott, Kimberly A. Elliott, and Barbara Oegg, Economic Sanctions Reconsidered(3rd edition), Washington DC: Peterson Institute for International Eco- nomics, 2009.
(11) Paola Subacchi, “New Power Centres and New Power Brokers: Are They Shaping a New Economic order?” Inter- national Affairs, Vol. 84, Issue 3, 2008, pp. 485–498.
(12) Rory Medcalf, “The Indo-Pacific: What’s in a Name?” American Interest, Vol. 9, No. 20(October 10, 2013), http://www.the-american-interest.com/articles/2013/10/10/the-indo-pacific-whats-in-a-name/.
(13) Rory Medcalf, “In Defence of the Indo-Pacific: Australia’s New Strategic Map,” the Australian Journal of International Affairs, May 2014, p. 472, https://www.lowyinstitute.org/publications/defence-indo-pacific-aust ralias-new-strategic-map.
(14) インド国会における安倍総理大臣演説「2つの海の交わり:Confluence of the Two Seas」平成19年 8月22日、https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/19/eabe_0822.html。
(15) ここで輸出(輸入)統合度は各年その地域内の輸出(輸入)額を世界全体に対する輸出(輸入)
額で割って算出。Harm Zebregs, “Intraregional Trade in Emerging Asia,” IMF Policy Discussion Paper PDP/
04/1, April 2004を参照、https://www.imf.org/external/pubs/ft/pdp/2004/pdp01.pdf.
(16) 新興アジアとは東アジアと南アジアの44ヵ国から日本、韓国、台湾、香港、マカオ、オーストラ リア、ニュージーランド、北朝鮮、パキスタンを除いた国々である。
(17) Jeffrey D. Wilson, “Rescaling to the Indo-Pacific: From Economic to Security-Driven Regionalism in Asia,” East Asia, Vol. 35, Issue 2(June 2018), pp. 177–196.
(18) ウィルソンはその理由として、特にEASが首脳会合であり対話の場とはなるものの、きちんとし た事務局をもった組織ではなく法的拘束力のある協定などを結べないこと、およびEAS会合に載せ られる議題が多くまた多岐にわたるため、経済対話に焦点を当てることが難しいことを挙げる。
Wilson, ibid., pp. 188–189.
(19) Peter Katzenstein, “Regionalism and Asia,” New Political Economy, Vol. 5, No. 3(2000), p. 353–368; T. J. Pem- pel, ed., Remapping East Asia: the construction of a region, Ithaca: Cornell University Press, 2005を参照。
(20) TPP第30章では、原署名国の国内総生産(GDP)合計の85%以上を占める少なくとも6ヵ国が批 准すれば協定が効力を発効するとしている。米国と日本が両方批准しなければ、他の署名国を足し
てもGDPの85%には至らない。
(21) 菊池努「アジア太平洋の通商秩序とTPP」『アメリカ太平洋研究(特集:アジア太平洋の経済秩序 とアメリカ――新しい秩序は生まれるのか)』Vol. 15(2015年)、79―95ページ。
(22) Mireya Solis, “The Trans-Pacific Partnership: Can the United States Lead the Way in Asia-Pacific Integra- tion?” Pacific Focus, Vol. 27, Issue 3(2012), p. 330.
(23) 例えば、J. Jin, “RCEP vs TPP,” Fujitsu souken Opinion, November 28, 2012, Available at: http://jp.fujitsu.
com/group/fri/column/opinion/201211/2012-11-5.html.
(24) TPP12ヵ国では、8億の人口と世界貿易の25%をカバーするはずであった。
(25) 2019年11月にタイで開かれた首脳会合では、インドがRCEP交渉から離脱する意図を告げ、2020
年内にインドを除く15ヵ国での合意を目指すとしている。
(26) Yong Wang, “Offensive for defensive: the belt and road initiative and China’s new grand strategy,” The Pacific Review, Vol. 29, No. 3(2016), pp. 455–463
(27) Takashi Terada, “The competing U.S. and Chinese models for an East Asian economic order,” Asia Policy, Vol.
13, No. 2(2018), pp. 19–25.
(28) Mireya Solis and Saori N. Katada, “Unlikely pivotal states in competitive free trade agreement diffusion: The effect of Japan’s Trans-Pacific Partnership Participation on Asia-Pacific regional integration,” New Political Economy, Vol.
20, No. 2(2015), pp. 155–177.
(29) CPTPPは11署名国のうち6ヵ国(GDPの大きさにかかわらず)が国内批准を済ませれば、その後
60日以内に発効するとした。2019年10月現在、日本、カナダ、オーストラリア、ニュージーラン
ド、メキシコ、シンガポールおよびベトナムが批准している。
(30) その後、2016年の伊勢志摩主要7ヵ国(G7)サミットでは、「質の高いインフラ輸出拡大イニシア ティブ」を発表し、インフラ支援額を5年間で総額2000億ドル規模へと増やした。
(31) 2019年4月に行なわれた第2回BRIサミットの前後には、中国のインフラ投資を「借金漬け外交
(debt trap diplomacy)」であるとの批判が多く上がってきた。Pradumna Bickram Rana and Xianbai Ji,
“Belt and Road Forum 2019: BRI 2.0 In The Making?” RSIS Commentaries, No. 086, Singapore: Nanyang Tech- nological University, http://hdl.handle.net/10220/48172.
(32) チャンは多くの東南アジア諸国は日本を中国より脅威が少なく、中国の強引な政策に対してバラ ンスをとれるようなカウンターウエイトとしてみているとする。Chien-peng Chung, “Japan’s Involve- ment in Asia-Centered Regional Forums in the Context of Relations with China and the United States,” Asian Sur- vey, Vol. 51, No. 3(May/June 2011), pp. 407–428.
(33) もちろんオーストラリアもインド太平洋構想の重要要素であるが、この論文では分析しない。最 近のオーストラリアのインド太平洋経済戦略については、Jeffrey Wilson, “Diversifying Australia’s Indo-Pacific infrastructure diplomacy,” Australian Journal of International Affairs, Vol. 73, No. 2(2019), pp.
101–108参照。
(34) 2011年8月のASEAN経済大臣会議の共同声明ではRCEPのことを「ASEAN++FTA」と呼んだ。
(35) Jessica Liao and Saori N. Katada, “There is No Free Lunch: Negative Externalities of China-Japan Infrastructure Financing Competition in Southeast Asia,” presented at International Studies Association Convention, March 2019, Toronto, Canada.
(36) Premesha Saha, “The Quad in the Indo-Pacific: Why ASEAN Remains Cautious,” ORF Issue Brief, Issue No.
229(February 2018), https://www.orfonline.org/wp-content/uploads/2018/02/ORF_IssueBrief_229_Quad
ASEAN.pdf.
(37) Ministry of External Affairs, “Act East: India’s ASEAN Journey,” Ministry of External Affairs Public Diplomacy Section, November 10, 2014, http://www.mea.gov.in/in-focus-article.htm?24216/Act+East+Indias+
ASEAN+Journey. 本文中の邦訳は執筆者による。
(38) 菅原淳一「RCEP交渉年内妥結は可能か」『みずほインサイト』2018年7月3日。
(39) Jagannath P. Panda, “Factoring the RCEP and the TPP: China, India and the Politics of Regional Integration,”
Strategic Analysis, Vol. 38, No. 1(2014), pp. 49–67.
(40) 伊藤融「諸外国の対中認識の動向と国際秩序の趨勢③ ―インド・モディ政権で強まる対中警戒」
『China Report』Vol. 14(2018年)、国際問題研究所、https://www2.jiia.or.jp/RESR/column_page.php?id=
284。Montgomery Blah, “China’s Belt and Road Initiative and India’s Concerns,” Strategic Analysis, Vol. 42, No.
4(2018), pp. 313–332.
かただ・さおり 南カリフォルニア大学教授 https://sites.google.com/usc.edu/saori-n-katada [email protected]