名公書判 明集 中の 清
県令 判語 の について
( )
今泉 牧子 日本 上智大
学
. はじめに
Ⅰ
筆者はこれまで、宋代の専 国制 家体制 支を える地方社会 検を 討するた
県 地方行政 注目 県政 担 県令
めに、 レベルの に してきた とりわけ。 を う に 注目し、県令の多様なあり や方 、県令をとりまく地方社会との関係につ
討
いて検 してきた。1)
利用 史料 県令 事 善政
しかし これまで、 してきた の ほとんどが、 の悪 や
県令 客 的 述 県令自身
についてなど、 について 観 に べられたものであり、
書 討 範 県令 係
が いたものではない ゆえに。 、検 してきた 囲も、 に関 する
1) 今泉牧子,「宋代県令 一側面の -南宋 判語 手の を がかりに- (」 『東洋 報学 』87― 1 2005 );、 年 「宋代県令赴任地についての一考察」 『( 上智史学』 、50 2005 );年 「宋
( 26 2007
代福建における県令についての一考察」 『紀尾井史学』 、 年。中文訳は
2007 ); -
唐宋法律史論集 中 上海 書出版社 年 留 地方官と 宋代地方
『 』 国、 辞 、 「挙
- ( 53 2008 )
社会 実の 態 」 『上智史学』 、 年。なお、県 長官の には、知県 県令と と 呼稱 別 小論 特 指定 限 県令 統一
いう の区 があるが、 では に のない り で する。 . はじめに
Ⅰ
. 県令 判語 識別の の
Ⅱ
. 県令 判語の の 容的分析と
Ⅲ 内
県令 意識の .おわりに
Ⅳ
制度や人的関係に った いものであった限 狭 。今後 特は に、當時 県令の の 地方社会や地方行政に する対 意識を検討していきたいと えている そ考 。
県令自身 書 史料 討 必要 県令
のためには が いた を検 する がある しかし。 、 自身 書が き かつ、 県令 意識の を見出すことのできる文章はあまり くは多
( 小論 南宋 判語 編集 名公書判 明集 以下 ない そこで。 は、 の を した『 清 『清
)
明集』と略稱 』に めて改 注目したい。『清明集』に収録されている判語 地方 起 訴訟事件 地方社 地方官 意識 には、 で きた とともに、 会 対に する の
垣間見
も ることができる。2) 判語の くは多 提點刑獄などの路官レベルの 官僚 書が いたものであるが、中には県令 書の いた も なからず まれ判 少 含
小論 県令 書 判 集 方法 討 ているので、 では が いた を収 する について検 し、 基礎的デ タをー 作成したい。
確認 明集 史料
ただ ここで、 しておかなければならないのは、『清 』の 的制約である。周知のとおり『清明集』 、は 編者 編纂 意圖も の も らか明
判語 著者 明記 記述 片
ではない そして。 には が されていないものや、 が断 的 思と われるものが い このような で多 。 中 県令 判語 取 出 際 一の を り す 、
判語中 上級 部署 台判 含 多 容
つの に の の「 」が まれることも く その、 内 が
判 作業 注意 要 問題 存在
どこまでなのかを 断する には を する こうした。 が 県令 判語 取 出 複 要素 合 判
するため、 の を り すには 数の を総 して 断しなけ 討 以上 史料的 限界 念頭 置 ればならない。検 するにあたり、 の な を に きつ
県令 判語 抽出 行
つ の の を っていきたい。
. 県令 判語 識別 の の
Ⅱ
県令 判語 識別 點 注目
まず、 の を するにはどの に すべきだろうか これ。 大澤正昭氏 劉後村 判語 分析 際 重視 點 照 については が の を した に した を参
2) 近年地方官の意識について検討した研究は、大澤正昭,「唐宋時代社 史会 研究の
( 3 2007 )
現状と課題 試論・ 」 『メトロポリタン史学』第 號、 年 などがある。
したい。3) 大澤氏はまず これまで、 作成された劉後村の年譜を総合し、 討 必要 部分 抽出に な を された そして。 、著作年號 地名 明の らかな判
検 ・
語 劉後村を の年譜 照合と し、各判語がいつ どの、 職務 時 作成の に された 分析 官 間 上下 係 示 書式上 特 のかを された さらに。 、 庁 での 関 を す の 徴 (「 」「 」「 」帖 牒 申 等)に注目することにより、著作年號 明の らかでな 判語 著作時期 判 小論 作業 大澤氏 手法 い についても を 断された。 の でも の
取 入 討 大澤氏 討 劉後村 判語 限定 を り れて検 したい しかし。 、 の検 は の に
小論 範 明集 全体 県令
したものであり、 はさらに 囲 広を げて『清 』 から の 判語 抽出を するため、作者 明が らかでない判語 分析も しなければならな
當然 年代 確定 書式上 特 見出 い ゆえに。 のことながら、 を できず の 徴も せ
判語 存在 種 判語 分析 複 要素 組 合 ない も し この の、 を するには 数の を み わ
判 必要 小論 以下 項目 判
せて 断する がある そこで。 ではひとまず の6 を 断 基準にして県令 判語 取 出の を り してみた。
著者名 地名 著作年號
① ② ③
書式上 特の 最終的な 罰 記述 容
④ 徴 ⑤ 処 ⑥ 内
簡 項目 明 著者名 地名 著作年號 まず 単に について説 すると、① ② ③ は3 項目あわせて検討する必要があり、著者の經歴とあわせて判断すること
県令 判語 識別 書式上 特 官 間同士 により の と できる。④の の 徴とは、 庁 で
文書形式 注目 形式 上下 係 異 やりとりする に したものである。 は 関 により
判 基準 最終的 罰 県 執行
なるので 断 となりうる。⑤の な処 は、 レベルで さ
罰 識別 基準 記述 容 判
れる処 かどうかで する となる。⑥の 内 は、①~⑤の 基準がみられない判語でも、明らかに に する県 容で、県令 手の に
断 関 内
判 集
よるものと 断できるものを めたものである。
< >
以上 項目の から判断した『清明集 中』 にみえる県令 判語の は 表1 で ある。
90
討の結果、県令 判語 全部の は で あるものと判 した この。 字
検 条 断 数
3) 大澤正昭,「劉後村 判語の ―『名公書判 明集清 』 『と 後村先生大全集』」 『( 中国 54 2008 )
史研究』第 輯、 年。
507
決 少 明集 全判語
は して ないとはいえない なぜなら。 『清 』の 数が 条で 考
あることから えると4)、実に全体の2割弱 県令 判語 占を の が めることに 路官 知州 判語 加 地方政治 なるからである これはまさに。 や による に え、
末端 県令 判語 決 視 示
の にある の も して軽 できないものであったことを し
県令 職務 重要 浮 彫 言
ており、 という の さを き りにしていると えよう。 各項目
それではこれより についてみていこう。
1. 著者名 ( )· ① 地名 ( )· ② 著作年號 ( ) ③ からの 検 討
90 9 9 27
全 条中 著者、 の内訳は、劉後村 条、范西堂 条、翁浩堂 条、葉岩
14 6
峰 条、あとは「趙知県」「通城宰」など正確 姓名 不明な が なものが 条5)、著者不明が25条である。
No.60 65
著者名 著者 県令 推測 除
まず、 から が であることが できる ~ は 外し、著者名 判明の している劉後村 范西堂・ ・翁浩堂・葉岩峰 判語の を
討していきたい。
検
劉後村 判語の
( ) 22
明集 所 の劉後村 克 の判語 全は あり 大澤氏の 討に
『清 』 収 荘 条 、 検
福建路建寧府建陽知県 南東路提 常平 江南東路
よると これらは、 ・広 挙 ・
9
提點刑獄 福建路提點刑獄時代・ の判語であり その の、 内 条が建陽知県時 代の判語にあたることも らかにされている。明 6) ここで めて改 確認する
(1225) (1228)
劉後村 慶元 年 紹定元 年 間 建陽知県
と、 は宝 から の に であり、
4)『清明集』の判語数については、陳智超氏 宋史「 研究的珍貴史料-明刻本 名公《
- (
書判 明集清 》介紹」 、と 大澤正昭氏「『清明集』の世界 定量分析 試の み」 『上
42 1997 ) 507
智史学』 、 年とで え が なる ここでは数 方 異 。 大澤氏の「 条」という説 に う。従
5) No.62の関宰瑨については、高橋芳 氏郎 が関瑨という の名 知県 推測と されている (高橋芳郎訳注,『名公書判 明集清 』官吏門 賦役門 文事門 北海道大・ ・ ( 学出版会、 2008 )年 。
6)前 註掲 3)大澤論文 照。参
著作年號から判断できる判語はないが、地名から判断すると建陽県 話の No.1 県令時代 判
である は のものと 断できる。
范西堂 判語の
( ) 24
范西堂 應鈴 の判語 全は 条あり、陳智超氏 宋史「 研究的珍貴史料― 明刻本 名公書判 明集《 清 》介紹」によると、『清明集 中 范西堂』 の の判 語 通判撫州 通判蘄州は ・ ・広南西路提點刑獄時代に かれたものとされ書
9
筆者 県令時代 判
るが、 はこのうち 条が のものと 断した。7) 范西堂は弘
(1217) ( )
治 撫州府志『 』によると嘉定十 年より崇仁知県 江南西路撫州 であ N0.10 15
地名 判 県令時代 判
り この、 から 断すると、 ~ を のものと 断でき る。8) 范西堂の判語 著作年號も から判断できるものはない。
翁浩堂 判語の ( )
翁浩堂 甫 9)の判語 全は 27条で筆者は検討を総合し、全てを県令時代の 判
ものと 断した。10) 翁浩堂の県令時代については断片的 情報な しか判 438
明していないが、『宋史』巻 の王應麟伝および『王深寧先生年譜』、
草窗年譜
『 』11)から判断すると、淳祐六(1246)年前後 西安知県に (江南東
) ( )
路衢州 を その、 後時期は不明ながら南昌知県 江南西路隆興府 を めて務 いるようだ。12) まず翁浩堂の判語 地名で から判断できるのは西安県の 7)經歴は開禧元(1205)年進士 永新県尉 衡州 事、 ・ 録 参軍・知崇仁県 通判撫州 通・ ・ 判蘄州 知吉州・ ・広南西路提點刑獄・両浙路東路提點刑獄・江南西路提 常平挙 ・ 荊湖南路 運使兼安撫使。転
8) No.77には著者名がかかれていないが、撫州崇仁県 判の であることや、「申使 州」という がみられることから語 、県令時代の范西堂の と条 判断できるものと思
今回 著者不明 扱 われるが、 は のものとして った。
9)經歴 宝は 慶二(1227)年進士 西安知県、 ・南昌知県( )? 。知汀州・両浙路 運使兼転
( )
知臨安府・江南西路 運使兼知隆興府 知泉州 赴任せず 。転 ・
10)ただし、<表1>No.41の判語については、解釈によっては県令ではなく路官が 書いたものとも判断でき、翁甫 路官時代が にかいた判語か それとも、 翁甫 判語の
可能性 注意 必要 ではないという もあるため、 が である。 11) 両年譜ともに『宋人年譜叢刊』所収。
12) 『「名公書判 明集清 」(人倫門)訳注』61頁注2参照。
N0.20 N0.21 N0.21
話である と、常山県という地名 出の てくる である。 には 父母も祖父 亡も くした徳懋という少年が、常山県 茗原寺 修行僧の の と 記述 常山県 西安県 同 衢州 懋 なったという がある。 は と じ にあるので、徳
同州 寺 修行 考 可能 判語
が 内の で したと えることは であろう また この。 、
後述 申州並提 司 記述 県 話
は のとおり「 挙 」という もあるので、 レベルの 判
であると 断できよう。
N0.19 36 37 N0.19 次 著作年號に から判断できるのは ・ ・ である。 は「関
(1240)
約投印在嘉熙四 年 及今六年、 」という記述から この、 判語 淳祐が
(1246) N0.36
六 年前後 書に かれたことがわかる そして。 は「自淳祐元年入 (1244)
詞 至今四年、 」とあり この、 判語 淳祐四が 年前後 書に かれ かつ、 牒押出 州界 という記述があることから 州 隣と あった衢州 の
「 処 」 、処 内
N0. 37
西安県 書で かれたものと予想できる。 は、「芝 寨渓 」という寨名 不明
がみられるが どこにあるのか、 である。13) しかし「徐通判…見任 在 陵厳 」の が語 年號特定の手掛かりになる。『厳州圖經』巻一および 景定 州 志 二によると 州において徐姓 通判で であったのは
『 厳 続 』巻 、厳
(1204) (1206) (1243) (1245) 嘉泰四 年 開禧二~ 年任 徐材の と、淳祐三 年~五 年任 徐士特の のみである。徐士特の厳州通判 任期の と翁浩堂の西安知県
任期 一致 判語 県令時代 定
の は するので この、 も のものと断 できる。
葉岩峰 判語の
葉岩峰については經歴が く全 不明であるが、次項 複の 数 検の 討により 県令 判語 判の と 断する ここでは。 地名 著作年號と を み れる読 取 判語があ
N0. 46 ( )
討 李與 於嘉定十三年冬還前項
るので検 しておきたい。 には「 権
(1220) 借銭、……入還銭・会之後、經今一十五年」とあり、嘉定十三 年
15年後 1235年頃 話 N0.49 殊不知
の とすると、 の とすることができ、 には「 此三数契 皆在陳 瑞、 国 宝慶二年交易之後。軽經使府上司 十年論訴、 」と
(1226) 10 1236
慶二 年 取引 年間
あり、宝 に してから 争っているというので 13)「芝渓」の地名 翁甫 判は の であるNo.33にも、巻12懲 門 胡石璧 判悪 の の 「告姦而
末有実跡各従軽断」にも てくる。出
N0. 56
年頃の と話 判断できる また。 には「張 翁於紹定三年身故 其母頤 、 (1230) 阿陳當年收遺棄三 小兒 孫歳 為 ……今方八、九歳」とあり、紹定三
3 8 9
年のときに 歳であった が子 「 」 、今 歳になっているので これもまた、 1235 6、 年ぐらいの と話 判断でき、N0. 58には「周蘭姐乃韓知丞之 婢旧 。 嘉定二年、出嫁冀二…今名阿蘭、已年及二十七 矣歳 」つまり、嘉定二 (1209)年に出嫁してから27年經ているので これも、 1236年頃の と話 判断
4
少 判語 同時期 書 判
できる ゆえに。 、 なくともこの つの は に かれたものと
No.48 安固 古稱 浙
することができよう ちなみに。 は「 」という から、
断 両
路 州端安県 判語温 の であることがわかるが、時期は不明である。 判語 中 地名 著作年號 明記
このように、 の に や が されているものからは 県令時代の判語 比較的容易を に見分けることができるが それ、 以外 判の 語 判を 断するのに有力 手掛な かりとなるのは、次に検討する書式上 特の
(「 」「 」「 」帖 牒 申 等 である) 。 徴
. 文書書式上 特 の の 討 ( , ´)
2 徴 検 ④ ④
帖 牒 申 等の文書行政について簡 にまとめると 帖
「 」「 」「 」 単 、「 」
劣等 相手 出 文書 牒 統 係 官司間 平行文 は の に す 、「 」は 属関 にない での 書、「 」申 は から に す下 上 出 文書であるといわれている。14) この原則
判 多 判語 分析 可能 明集
から 断すると、 くの の が となる しかし。 、『清 』
帖 牒 混同 見 多 必
では、「 」 「 」と が されているように られるものも く、
原則通 分析 一 判語 一部
ずしも りに はできない また。 、 つの のごく を き抜 出しただけの、断片的な内容しか らかにできない明 判語も い このた多 。 県令 書 判語 判 路官 知州 書 判語 め、 の いた と 断したものが、実は や の いた
一部 可能性 史料上 限界 可
の である もある こうした。 での をふまえつつ、 能な り限 文書のやりとりに注目 県令 判語 識別し の を した。
14) 「 」「 」「 」帖 牒 申 等の文書行政に しては関 、近年平田茂樹氏が めて改 検討を -
加えられている。「宋代地方政治管見 箚子 帖 牒 申、 、 、 状を手掛かりとして - (」 『東北大 東洋史論集学 11 2007、 年』参照。
県 地方行政 末端 県令 判語 下行文書 まず、 は の であるので、 の に である 帖 はほとんどみられない また 平行文書である 牒 についても
「 」 。 、 「 」
11
県令から すのは出 「牒尉司」「牒県丞」などで、全体で 例しか られ見
最 有力 手 申 申州 申提
ない。 も な がかりになるのは「 」であり、「 」「 挙
30 No.16
司」など、 例がみられる。特に には、「牒尉司」「申州」という 語がみられ、當判語 書を いたのが、尉司には平行文書 出を し、州には上 申する立場にあった であることがわかる。者
何 文書も のやりとりが られない見 判語については、大澤氏 指摘の にあ 通 県 官僚機構 末端 位置 上級官 以外 外 官 文 る り、 が「 の に し、 庁 に の 庁と 書をやりとりする必要があまりなかった15)」と推測し あえて、 県令 判の
< > ´ 語 判と 断する基準に えた この の加 。 種 判語については 表1 では④と
記載 容 極 片的 早急
して しておいた ただ。 、内 が めて断 なものについては
判 他 要素 合 判
な 断はできず、 の と総 して 断しなければならない。
. 罰 からの 判 ( , ´) 3 処 断 ⑤ ⑤
次は処罰についてである。県では杖刑以下 判決の と執行 認が められて 考 少 編管 判決 下 判語 県令 いたことを えると、 なくとも などの を す は のも
判 罰 明 判語 最終的
のではないと 断できる また。 、処 が らかでない でも、
( )
判 州 路 送 照 乞 県 決着
な 断を や へ ったらしき もしくは 会を うた もの、 で
´
推測 判 判 基
したと できるものとして 断できるものについては⑤として 断 準に えた。加
. 判語 の 容 からの 判 ( )
4 内 断 ⑥
No.45 最後に記述 容内 から判断できることについて えたい考 。例えば
匿名 高札 知県 批判 書 判語 書
は、 の に の が かれていたことに し この対 、 を 15)前 注掲 3)大澤氏論文93頁 照。参
翁浩堂 孔子 言 某也幸 苟有過 人必知之 引 知県 いた は の 「 、 、 」を き、 であ
自分 批判 迎 意 示 當職識 才疎 扶
る への を歓 する を している また。 、「 浅 、 持劇邑」という もあることからも語 、彼自身 知県が であることを判断す
No.50 本県 話 蒙使府“ 県
ることができる。 は「 」の であることと、「両 従
”
所判 送県丞監還 又送県尉追、 、 断」 、と 州から命令 下が されており さ、
最後 具解使府施行 県令 判語 判
らに に「 」とあることからも の と 断でき No.67 75
著者不明 判 乞使府照 准使府行下
る。 の では ・ は「 会」「 」とある
No.73 州 台判 容 照県尉 知県所
ことからわかり、 は からの の内 に「参 ・ 断」 本文 本県 一遵使州施行 申使州照 語 とあり また、 に「 」「 」「 会」という
No.85
県令 判語 判 前政陳知県
があることからも の と 断できる。 は「 」とい No.88
語 親族同士 前任者 知
う がみえること、 は の いについて争 、 の「黄 No.90
県」「温知県」の判決を参照していることからわかる。 は県門の禁 令 並に べて勝手に高札を げた掲 講釈師に する対 判語であり、処罰も勘杖 一百 止に まり、「押出本県界」という記述もあるので、県令 判語 判の と
できよう。
断
. 県令 判語 の の 容的分析 県令 意識 と の
Ⅲ 内
県令 判語の はまさに、県令自らが いた書 貴重 史料な である さらに。 分 析 進を めれば県令に する関 事柄のみならず、地方社会についての考察の 手掛かりになるかもしれない しかし。 、小論では紙幅 限界の もあり そ、
全 討 小論 判語 容
の てを検 することはできない そこで。 では の内 について 一 踏 県令 判語 容的分析 判語 地 さらに 歩 み み込 、① の の内 と、② にみえる 方官という立場についての発言 注目に したい。
1) 判語 の 内 容的分析
<表 > 得 県令 判語 容的傾向
ここでは 1 で られた の の内 をみていきたい。
地名 前述 県令 判語 登場 県名
まずは についてである。 のとおり の に する は 福建路建寧府建陽県・江南西路撫州崇仁県・両浙東路 州端安県温 ・両浙 東路衢州西安県であり、范西堂の赴任した衢州西安県以外 全 負郭は て の 県ではないが、筆者のこれまでの検討を参考にすると、建寧府建陽県・ 撫州崇仁県・衢州西安県 出世は する官僚 赴任地 一の の つに該當する。16) 當地 際 重要度 當地 県令 者 後 出世 しかし の実 の や、 の をつとめた のその の
況などの問題については、別途 討する必要がある。
状 検
(
次に『清明集』の つの七 分門 「官吏」「賦役」「文事」「戸婚」「人 )
倫」「人品」「懲悪」 中における分布をみてみたい。17)
64 16 7 3
県令 判語の は戸婚門 条、懲 門悪 条、賦役門 条、人倫門 条であ 婚門 倒的 多 県令 判語 割 占
り うち、 戸 が圧 に く、実に の の7 を めることが 195
婚門全 中 県令 判語 割 占
わかる そして。 戸 条 では、 の が3 強を めること
婚田土 県令 担當 多
になる これは。 戸 の いを争 が することが く またこの、 種の いを レベルで争 県 決着することが かった多 可能性 表を している。
県令 婚門 中 具体的 種 取 扱 それでは は戸 の でも にどの の いを り ったの争
47 ( 24 )(
容別 不動産 財産 例 他人同士 例 家 だろうか。内 にみると、 ・ 争いが
23 ) 11
族親戚内 例 、家族親戚内での相続・継嗣争いが 例、その の他 婚姻関 6
係の いが争 例となっている ここで に。 特 注目すべきは不動産 財産・ 争い
判語 多 明集 婚門 容 不動産 財
に する関 の さである。『清 』戸 は内 により ・ ( 4 6 9 )
産争い を う等 扱 前半 巻 ~ 、巻 の前半 と、婚姻や継嗣問題を う扱 後半 ( 7 8巻 ・ 、巻9の後半)に かれており分 、前半は72条、後半は123条 収録が されている。18) ということは、前半部分の72条中 県令 判語、 の は47条
割以上 占 事 判明
あるので、実に6 を めるという 実が する これはまさ。
16)前 注 拙稿掲 1 「宋代県令赴任地についての一考察」参照。
17) 周知のとおり、『清明集』の分門中 最 判語で も 数の いのは多 戸婚門であり、懲 門がこれに ぐ この りが次 。 偏 編者 意圖の によるものか當時 案件 多の の さによる 悪
不明 事 必要
ものかは だが この、 実をふまえておく がある。 18)前 注掲 4大澤氏論文表1に う従 。
婚田土 不動産 財産 案件 県 扱 に、戸 、とりわけ ・ 争いに する関 が で われ、 決着される可能性が かったという高 前述 推測 裏付の を けることになろ
県令 扱 案件 傾向 些 判明
う このように。 の う の が かなりとも したことは、 未だ具体的な検討が くされているとはいえない尽 県令 職務の に する関 研 究の手掛かりになるという で點 重要である。
次に戸婚門以外 分門の についても ておきたい見 。二番目に い多 懲 門悪 県令 扱 案件 誣告事件 誘拐事件 豪民 暴 比較 で が った は、 や 、 の横 に する関
6
的軽い事件である。賦役門 判語の は 例とも免役に する関 案件であり、全
范西堂 手 范西堂 任地 崇
て の によるものである これについては。 の である 仁県 免役が に する関 問題 特 抱を に えていたのか または、 免役に する関 彼
判語 優 考 余地 人倫門
の が れていたから収録されたのか、 える はあろう。 3 2
判語 例中 例 財産 婚門 扱 容 近 の は 争いに するもので関 、戸 で う内 に いと 言えよう。
分門 討 最後 指摘
ところで、 に する関 検 で に しておきたいことは、『清 明集 中 占』 に める判語数が比較的多いはずの官吏門 人品門 案件と の がみ
分門 扱 容 連 思
られないことである これは。 両 の う内 と関 しているものと 恐 官吏門 判語 官僚 腐敗 戒 容 われる。 らく に がないのは、 の を める内 であ
県令 県尉 巡 判語 書 立場 戒 象 り、 や ・ 検などは を く というより、 めの対 と
多 人品門 判語 人品門 胥吏
なることが いためであろう。 に がないのは、 は
罰 案件 主 県令 県政 運 胥吏
を する が であり、 は をうまく 営するために に実 務を る頼 必要があるが ゆえに、 胥吏 罰を する判語 書を くことは比較的少
胥吏 罰 判語 書
なかったのではないだろうか また。 、 を する を いたとして
州 路 官僚 比 切 名公書判
も、 や の と べて歯 れの いもので このため悪 、 「 」 明集
として『清 』に収録されるようなものがなかったのではないだろう 背景 推測 當時 県令 立場
か このような。 を すると、 の の というものがここ 改 鮮明
で めて になってくる。
次 視點 県令 下 置 討
それでは に を えて変 、 の した処 について検 したい。
< >
県令 下の した処罰については 表1 に げたとおりであるが挙 、他にも県 令 措置 提案が を するという解決法が くみられる これは多 。 當事者同士の
調停という解決法とあわせると、県令では最も い多 解決法である ま。 措置 暫定的 多 今後如再詞 押上施行
た その、 は なものが く、「 、 19)」 、等 今後再犯したら するという罰 表現が い これは多 。 、調停 放免・ と同様、 所謂 法理「 」より「人情」による解決 多が かったことを すものと わ示 思
No.4
例 和 之事 豈無 曲親戚可以
れる いくつか を げると。 挙 、 には「 対 、 郷
調護」とあり、県令 法 罰が で するよりも「郷曲親戚」で解決すべきであ No.43 以人情揆之 No.74 此非法 るとしている また。 、 には「 」、 には「 意、但官司 厚従 、聴自抛拈」という がみられる語 。
県令 基本的 罰 當事者同士 調停 このように、 においては に処 よりも の
人情 解決 多 県令
や、「 」による が くみられることがわかった これは。 の 扱う案件が比較的凶悪なものではなかったためとも えられるが こう考 、
調停 暫定的 措置 県令 基本的 解決法 推測 した や な が の な となっていたと す
人情 県令 意識
ることもできよう しかし。 、「 」に する関 の については、 最終的には や の州 路 官司による判語との比較という作業 必要が であり、
點 今後 討 要 この については 検 を する。
次 県令 含 地方官 立場 言 それでは に、 を む としての についての発 につい てみていきたい。
2) 地方官 という 立場 についての 発 言
地方官、とりわけ県令という立場についての発言 引 出を き すのは非常
難 考 手掛 明集 中
に しい しかし。 、 える かりがある。『清 』 にはしばしば 官司 という がみえ語 筆者の 討した りでは限 多くが ある特定
「 」 、 検 、 「
部署 役所一般 指 中 自分 含
の 」「 」を すものである しかし には。 、「 も
下 官 立場 者 指 用例 県令
め、処断を す という にある 」を す もみられ、 であ
自身 判 述 子 意識
る の 断を べている様 がみられる そこにはどのような。 が 官司 語 注目 可能 限 討 みえるだろうか これより。 「 」という に し、 な り検 19) No.56の葉岩峰 判語 照の 参 。
思 してみたいと う。
No.31
例えば翁浩堂の判語をみてみれば、 は、契約書を偽造して寡婦
孤 財産 奪 話 中 翁浩堂 使
と 児の を おうとするという である その で。 は、「
阿宋不能扶病力陳、官司不與 情根理 則此田遂陷入 宗智之手 使孤尽 、 黄 、 兒寡婦坐受抑屈 豈不可憐、 」といい、官司 情 理が と をつくして解決して
寡婦 財産 不當 奪
やらなければ らの が に われてしまうとしている ここで。 官司 以下 県令 自分 使命感
の「 」 にはまさに たる の がこめられているので
同時 官僚 使命 述 思
あるが、 に としての が べられているように われる。
翁浩堂 判語 官司 知県 語 用
また の には、「 」ではなく「 」の を いている No.37
例もある。 には、「知県若復曲徇、當何面目見吏民乎」とあり、知 県 判が 断を れば誤 「吏民」に顔向けができないと っている ここでの言 。
知県 にも 官司 と じく同 官僚としての意味合いが じられる感
「 」 「 」 。
No.4
次 劉後村 判語は の についてである。 では すでに、 婚約の同意書を 提出した に後 、女 家の の が側 後悔 訴訟し になったという である この話 。 中 劉後村で は「官司未欲以文法相繩 仰謝迪父子更自推詳法意、 、従長較 議 不可待官司以柱後 文 事 悔之無及、 恵 従 、 」といい、婚約 手の 続き に後 後悔した場合には杖六十という法律があり この、 場合は當法律にあては
劉後村 官司 法 判決 下
まるのだが、 は「 」としては、 のみに い従 を すので 當事者同士 十分 話 合 上 柔軟 判
はなく、 の な し いの 、 に 断するべきである 官司 語 県令 自分
と いている ここでの説 。 「 」の には、 である だけではな 當裁判 解決 立場 官僚 意味
く、 を する の としての がこめられている ま。 No.7 兄 弟 財産 奪 判語 中 劉後村 た、 では、 が の を うという である その で。
官司不當以法癈恩 不欲 情根究 法 柔軟 は「 、 尽 」といい、 のみによらない
判 下 最良 方法 本件 決着 官
な 断を しており やはり、 の で を させるべき「 司」としてのあり を している方 示 。
No.74
最後 著者不明 例に の もみておきたい。 は、三人兄弟のうち、死
( )
亡した末弟 遺産 元妻 再婚の を 済 と兄弟が うという である争 話 。判語の 著者 本件は に し、「対 今官司不欲例行籍沒……此非法意、但官司 厚従 、 自抛拈」と べ述 、「法意」によらぬ、「官司」としての特別な 置で
聴 処
No.84 叔父 契約書 作 田業
あるとしている。 は、 が の偽 を り を盗売したこと
姪 訴 話 著者 官司 叔父 桂子
で に えられたという である。 は「 」として の黄 貢士 考慮 官司不欲因姪以坐叔 桂子與免罪
が であることを し、「 、黄 」
No.85
叔父 罪 問 最後 小作人 寡婦 所
と、 を に わないとしている。 に は、 が の 有する墓地 不法を に み るという である盗 取 話 。翁浩堂は、「官司若不與 之主盟 非惟段氏有妨安葬乃夫 切恐向後凡有田地去家之遠者 人皆得、 、 、 以 占 夫亦奚取乎張官置吏也哉強 、 」といい もし、 県令たる自分が処置し
今回 事件 決着 今後同 起
なければ、 の が しないだけでなく、 じケースが
場合 前例 張官置吏 意義 言
こった の い悪 となり、「 」の にもかかわると っ
官司 県令 自分 上級
ている ここでも。 「 」は である はもとより その、 にあ
理想的 官全体 思
る な をさしているように われる。
以上 本章、 では「官司」の に語 注目し いくつかの、 判語を てきた見 。 取 地方官 末端 県令 立場
そこから み れるのは読 、 の である という であって
県令 民 個別的 係 民
も、 と というレベルの な関 ではなく、「 」に対する 名公 たる 官 という立場を く意識しているということである
「 」 「 」 強 。
県 末端 判 意識 天子 意向
そこには、 レベルの での 断という ではなく、 の を 体言する官僚としての判断であるという意識を ることができ見 、宋代の 官僚が える考 「模範的な官僚像」を み ることができる読 取 。
筆者はこれまで、制度史 面の からも県令について検討してきた その。 際に じられたのは感 、中央 定が めた制度と それを、 実行する立場にある 県とのギャップである。制度は、厳密にというよりも むしろ、 各地 應に
柔軟 形 行 思 小論 討 現場
じた な で実 されているように われた。 の検 で、「
人 県令 特 意識 存在 見出 中
の 」である 独 の の を すことはできなかったが、 央 意向 背負 立場の を う としての自覚を てとることができた。見
. おわりに
Ⅳ
明集 の判語 語句は の りもみられ誤 容も めて極 片的なもの
『清 』 、内 断
多 明記 判語 著者名 正確 疑
も い。また、 されている の も であるかは わし
不利 件 十分 分析可能
い こうした。 な条 を にふまえつつ あえて、 ないくつ 要素 判 明集 中 県令 判語 取 出 かの から 断し、『清 』 にみえる の を り した。
容的分析 各分門 中 県令 判語 多 婚門 そして、内 から、 の で の が いのは戸 で
中 不動産 財産 案件 割以上 県令 判 あること、 でも ・ 争いに する関 の6 を の 語 占が めることを らかにした また明 。 、県令による訴訟 解決法の は、処 罰するよりも県令から暫定的な処置 促を したり、當事者同士での和解を
多 明 次 官司 語
すすめるものが かったことも らかとなった。 に「 」という
見 県令 立場 言 注目 県令 意識
に られる という についての発 に し、 の を み読 取ろうと みた試 。検討の結果、劉後村 翁浩堂・ の県令時代の判語から
県令 立場 理想的 官僚 言 子
は、 という のみならず、 な として発 している様 中央 意向 直接的 行 立場 意 がみられた そこには。 、 の を に実 する としての 識 垣間見を ることができる。
小論の検討では、県令 判語 識別の を する方法とその結果を べるだけ述 止 今後 明集 限 士大夫 県令時代 書 に まったが、 は『清 』に らず、 が に いた
( )
文書 朱熹・黄勉齋など についても検討し、彼らの地方社会・地方行政 意識 明
への について らかにしていきたい。
附錄
< 1>表 『清明集』中 県令 判の の ( ´
判 基準 は 著者名 地名 著作年號 書式上 特の 書式上 特の はないが県
*「 断 」 ① ② ③ ④ 徴④ 徴
) ( ´
令 判語 判の と 断したもの ⑤最終的な処罰⑤処罰の記載はないが で県 処置したと推測 ) 記述 容 示
できるもの⑥ 内 を す。
( 1986 )
注 梅原郁 注 名公書判 明集は 同朋 年 高橋芳 注 名公書判 明
*訳 訳 『 清 』 舎、 ・ 郎訳 『 清
( 2006 )
集』戸婚門 創文舎、 年・同『訳注 名公書判 明集清 』官吏門 賦役門 文字門・ ・ (北海道大 大学 学院文学研究科 究叢書研 12 2008 )、 年・清明集研 会究 『名公書判 明集清 』 (懲 門 一 五悪 〈 ~ 〉、人品門 上 下〈 ・ 〉、人倫門、官吏門 上〈 〉1991~2008 )年参照。 著者 題名 『清明集
No.
』巻 地名 文書 処罰 判断
基準 訳注 備考 1 劉 後
村 争山妄指界 至 巻 戸5 婚
14
門 福建路建 寧府建陽 県
勘杖一百②⑤梅原242 高 150 橋戸婚
2劉 後
村 母在與兄弟 有分 巻 戸9 婚
6
門 勘杖六十④ ´
⑤ 梅原266 高 267 橋戸婚 3劉 後
村
妻以夫家貧 而仳離 巻 戸9 婚
46 門
④ ´
⑥ 梅原352 高 583
橋戸婚 「前任知県」 4劉 後
村 女家已回定 帖而翻悔 巻 戸9 婚
47
門 申 ④ ⑤
´⑥ 梅原355 高 585
橋戸婚 「由法不由知県」 知県非和 公事
「 対
之人」
5劉 後
村 定奪 婚争 巻 戸9 婚 48
門 ④ ⑤
´ 梅原358 高 588 橋戸婚 6劉 後
村 已嫁妻欲拠 前夫屋業 巻 戸9 婚
52
門 申使府 勘杖八十④ ⑤
⑥ 梅原371 高 599 橋戸婚 7劉 後
村
兄侵凌其弟 巻10人倫 17 門
④ ´
´
⑤ 人倫33 8劉 後
村 屠牛于廟 巻14懲悪 90
門 ⑥ 懲悪210 巻14懲悪90と関 連?
9劉 後
村 宰牛者断罪 拆屋 巻14懲悪
91
門 牒尉司 勘杖一百④⑤懲悪210 「本合……解府従 施行」「牒尉司 条差人都保」
10范 西
堂 乞用限田免 役 巻3賦 役
24
門 江南西路 撫州崇仁 県
② ⑤
´⑥ 高橋官吏212 11范 西
堂 贍墳田無免 之例 巻3賦 役
26
門 江南西路 撫州崇仁 県
② ⑤
´ 高橋官吏216 12范 西
堂 須憑簿開析 産 分曉銭 巻3賦 役
27
門 江南西路 撫州崇仁 県
回申 ② ⑤
´ 高橋官吏217 13范 西
堂 使州判下王 鉅状 巻3賦 役
28
門 江南西路 撫州崇仁 県
申上 ② ④
´
⑤ 高橋官吏219 14范 西
堂 限田論官品 巻3賦 役 30
門 江南西路 撫州崇仁 県
申提 使挙
台 ② ④
´
⑤ 高橋官吏222 15范 西
堂 提挙再判下 乞照限田免 役状
3賦 役 巻31
門 江南西路 撫州崇仁 県
申台府 ② ④
´
⑤ 高橋官吏225 16范 西
堂
処分孤遺田
産 巻 戸8 婚 33 門
牒県尉・ 申州
④ ⑤
´ 梅原103 高 559 橋戸婚 17范 西
堂 女合承分 巻 戸8 婚 35
門 勘杖 一
百 打錮、 ⑤ 梅原112 高 566 橋戸婚 18范 西
堂
諸姪論索遺 嘱銭 巻 戸8 婚
36 門
④ ´
´
⑤ 梅原114 高 568 橋戸婚 19翁 浩
堂
姪與出継叔 争業 巻 戸5 婚
1 門
③ ⑤
´ 梅原197 高 102
橋戸婚 「関約投印在嘉熙 四年 及今六年、 」 20翁 浩
堂 受人隠寄財 産自輒出売 巻 戸5 婚
2
門 両浙東路 衢州西安 県
牒県丞 ② ④
´
⑤ 梅原199 高 104
橋戸婚 「西安税賦陷失、 科配不行。邑號難 者、皆因 民
為 郷 変
寄田産所致」
21翁 浩 堂
僧 俗承分帰 巻 戸5 婚 3 門
申州並提
挙司 ② ④
´
⑤ 梅原202 高 108
橋戸婚 「投常山県茗原寺 行童……在故家 為七十余里」