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Pafomansu : mubumento ni yoru yokusei kanjo no gaika to kanjo inyu ni yoru sei no jikkan

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Academic year: 2021

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(1)Title Sub Title Author Publisher Publication year Jtitle Abstract Notes Genre URL. Powered by TCPDF (www.tcpdf.org). パフォーマンス : ムーブメントによる抑制感情の外化と感情移入による生の実感 宮嶋, 歩(Miyajima, Ayumi) 國枝, 孝弘(Kunieda, Takahiro) 慶應義塾大学湘南藤沢学会 2013-09 研究会優秀論文 國枝孝弘研究会2013年度春学期 Technical Report http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=KO90003002-2013-0010001.

(2) SFC-SWP 2013-001. フオ— マンス 一ムーブメントによる抑制感情の外化と 感情移入による生の実感. 2 0 1 3 年 度 春学期. 宮嶋歩環境情報学部4年 國枝孝弘研究会 慶應義塾大学湘南藤沢学会.

(3) 宮嶋歩君の卒業論文によせて. パフォーマンスアートということばは今や一般的な用語であるが、 この アー トは私たちの日常世界と果して関係を持ちうるのだろうか、 もし持つとするな らば、その意味は何か。宮嶋君の研究論文はこの問いから始まる。 まず宮嶋君が行ったのは語義の捉え直しである。 パフォーマンスは即興的に 演じられる身体活動である。 しかし身体活動はもちろんパフォーマーだけでは なく、人間が生きている以上、常に行っている存在の根本活動である。 アート はどうか。 これも芸術家のみの創作行為ではなく、私 た ち は 、文 を 書 い た り 、 絵 を 描いたり、 たとえ強い意図性はないとしても、何かを作り出す行為を常日 頃から実践している。 このように考えれば、パフォーマンス も ア ー ト も 、私た ちの日常活動世界に深く根ざしている「 生の実践行為」 なのである。 宮嶋君の研究の目的は、 こ の パ フ ォ ー マ ン ス ア ー ト の も つ 「 生 の 実践行為」 の側面を、抑 圧 さ れ た 自己感情 の 解 放 、固定化した他者との閨係の更新へと結 びつけていくことにある。 私たちは確かに日々の生活においてさまざまな活動 を行っている。 しかしその活動は、必ずしも自分自身の欲望に根ざしたもので はなく、社 会 や 所 属 す る 共同体 か ら 要 請 さ れ た り 、他者 と の 関 係 に お い て 、そ の他人から望まれたものであったりする。 すなわ ち 私 た ち の 日 々 の 生 活 と は 、 決められた役割に限定されたものであり、それは私たちの存在をときに一定の 型へと落とし込み、本心を問うことのないまま、生きることを意味する。 アートは、 このような制約を受けた社会のなかで、 自己を回復するひとつの 方策である。 実際にアートセラピーという分野が存在する。 た だし、アートセ ラピーはすでに何らかの精神的外傷を負ってしまった人々 を対象とする。だが、 アートの意義は治癒だけではない。 宮 嶋 君 が 着 目 し た の は 、 日常の中で私たち だれもが経験している、他者 と の 関 係 に よ っ て 生 じ る 抑 制 さ れ た 感 情 を 、 パフ. ォーマンス実 践 によって回復す る こ と で あ り 、 さらにその パフォーマンスを通 して、他者との関係を結び直すことである。 宮 嶋 君 は 、 このパフォーマンスを、その日常的側 面 を 強 調 す る た め に 、ムー ヴメント.という言葉で捉え直し、 ム ー ヴメントの実践を通して、感情移入の体 験を丹念に観察する。 そしてこの感情移入を自己と他者の共通感情の生成と捉 え、そ こ に 「 生の実感」が芽生えるとした。.

(4) 宮嶋君の 独 創 性 は 、 こうした考察を、実際に自らがワークショップをするこ とによって裏付けた点にある。 実践と理論の 両 面 か ら 、現代社会に生きる私た ちが、 パフォーマンスアート を 通 し て 、 自らの感情を見つめ直すとともに、他 者とともに生きるための関係構築を見つめ直す機会として捉えたところにこの 研究の魅力がある。. 2013年 8月 20日 総合政策学部 國枝孝弘.

(5) 2013年度春学期卒業論文. パフオーマンス. ― ムーブメントによる抑制感情の外化と 感情移入による生の実感. 慶 應 義塾大学環境情報学部4 年 宮嶋歩 学籍番号:70949049.

(6) 目次 はじめに.............................................................................1. 第 一 節 本 研 究 の 目 的 .................................................... 1 第 二 節 本 論 文 の 構 成 .................................................... 2. 第一章. パフォーマンス先 行 研 究 と そ の 問 題 点 ............................. 3. 第 一 節 舞 台 芸 術 、芸能と してのパフォーマンス 第二節. 日常生活におけるパフォーマンス. 第三節. 文化としてのパフォーマンス. ........................... 4. ................................. 7. ..................................... 8. 第四節抑制される感情-日常生活におけるパフォーマンスの問題点...........9. 第 二 章 ア ー ト と こ こ ろ の 治 癒 の 再 考 ....................................... 13 第一節アートの治癒的効果の再考 一 「 孤独な表現行為」 と 「 社会からの評価」は治癒となりうるのか……13 第二節アートセラピーの再考 —. 「自己肯定感J と 「 他者からの承認」は治癒となりうるのか....... 16. 第 三 章 パフォーマンス. - ムーブメントによる感情体験と感情移入による生の実感............ .20 第 一 節 ム ー ブ メ ン ト に よ る 感 情 体 験 .................................... 20 第二節表現者と鑑賞者間の感情移入がもたらす生の実感 .................. 29 第三節パフォーマンスワークショップ一報告および考察 .................. 32. 終 わ 19 に ...................................................................40. 謝 辞 ...................................................................... 41. .................................................................. 42. 参考資料. 44.

(7) はじめに 第一節本研究の目的 私たちは感情を自由に感じ、自由に表現することができているのだろうか。結婚式 において新郎新婦は幸せな気持ちで満たされているのが当然であり、招待客は彼らと その家族を祝福しなければならない。葬 式では、故人をあまり知らなくとも、彼を傯 んで悲しんでいるように見せなければならない。冠 婚 葬 祭 を は じ め と し た 「 イベント」 は、その場に望ましい感情を装うことを私たちに要求している。 「 イベント」 のみな らず、私たちが長い時間を生きる家族、学校、会 社 な ど の 「 共同体 J の中でも、感情 を自由に感じることは難しい。それぞれの共同体は夫、学 生 、上司などの役割を与え、 私たちは意識せずともその役割に見合った感情の表現方法を目指している。 さらに、 その役割に不適切な感情を抱いてしまったときには、まるでその感情が最初から存在 しなかったかのように自分に言い聞かせ、別の感情を置換しようとすることもある。 このように感情を抑制することは他者と生きていくうえで必要不可欠であり、日常生 活にすり込まれ、自動化された行為である。そしてオートマティックな行為であるが ゆえに、感情抑制は知らぬ間に私たちのこころにストレスを蓄積させていくのではな いだろうか。 筆者自身も、感情表現のしかたをその都度変えたり、他者に対する嫉妬や不満を抑 えたりして、円滑な他者関係を保とうとする人間だった。 しかし、そのせいで、一時 は家族や親しい友人といるときでさえ、 「 ふさわしい私」 という仮面を被っているよ うな感覚を味わうようにまでなっていた。筆者が実感していたこの抑圧感は、決して 私の個人的な感覚にとどまるものではないと考える。近年うつ病や解離性障害などの 心因性精神疾患者の数が増加傾向にあるが、これらの病は先天的に抑うつ傾向にある 人 や 、心理的外傷を負った人だけが罹るものではない。その原因の一端は、他者と生 きる上で私たちが意識せずに行なっている「 感情抑制」 にあると考える。 抑圧された感情に悩んでいた筆者に大きな変化をもたらしたのは、留学先のパリ第 一大学芸術学部で履修した「 パフォーマンスアート」の授業であった。パフォーマン. スアートは、1960年 代 の ア メ リ カ 実 験 演 劇 に 起 源 を み る 身 体 芸 術 で あ る 。 その特徴 は、道路や公園などの公共空間に身体を投じる公共性と、即興的に身体を立ち上がら せる即興性の二つに集約される。留学中の一年間、私はそれまで抑えてきた感情を発 露する ボディ•ペインティング•パフォーマンスを 行 なったのだが、そこで得たのは 感情を吐き出す解放感だけではなかった。まず、感情から身体を動かすことで、今ま で周りの人々に押し付けてきた怒りや不満の原因が自分自身にあると気づいたこと があった。 また、 パフォーマンスを行なう度に鑑賞者である友人との対話が始まり、 1.

(8) 私が隠し続けてきた感情について共感するという人や、さらにはその気持ちを即興で 絵にする人までいた。 パフオーマンスアートは私たちが抑制している感情を外化することを助け、その感 情に対する省察を促すのではないか。そして、感情を身体イ匕する営みを他者と共有す ることは、人間相互の感情移入を促して、身 体 、ことば、絵などのさまざまな表現媒 体によるコミュニケーションを可能にするのではないだろうか。本研究はこの二つの 疑問から出発している。感 情 抑 制 は 、他者と生きる上で必要不可欠でありそれを放棄 することはできない。それならば、 日常生活で他者関係を持ち続けながら、それとは 別の文脈で抑制された感情を外化する方法、環境を獲得しなければならないと私は考 える。その方法のひとつとしてパフォーマンスアートが貢献する可能性を探ることが、 本論文の目的である。. 第二節本蹌文の構成 第一章では、パフォーマンスが芸術、社 会 学 、文化人類学の分野でどのように研究 されてきたかを振り返る。社会学におけるパフォーマンスは、帰属する共同体や他者 との閨係性に応じて喋り方、立ち居振る舞い、さらには性格までも変えるという、誰 もが日常生活の中で行なう演技を意味する。章 の 最 後 で は 、日常生活におけるパフォ. 一マンスを行なう中で私たちが意識せずに感情を抑制し、そ れが ストレスの蓄積や心 因性精神疾患の原因となっているという問題を提起する。 第二章では、アートが持つ治癒的側面について再考する。今まで感情の浄化をもた らすと信じられてきた芸術家の創作行為とアートセラピーが、果たして抑制された感 情の問題を解決することができるのかを考察する。 第三章では、まず、科 学 的 観 点 か ら 情 動 ( emotion ) と 感 情 ( feeling ) の相違を考 察 し 、抑 制 さ れ た 感 情 ( feeling ) を外化する必要性があることを論証する。そして、 パ フ オ ー マ ン ス ア ー ト の 二 つ の 特 徴 で あ る 即 興 性 、 そ し て 表現者と鑑賞者が同じ空 間 •時 間 に 存 在 す る こ と が 抑 制感情 の 外 化 を い か に 助 け る の か 、その可能性を考察す る。章の最後では、以上の研究をもとに実施したパフォーマンスワークショップを報 告 し 、評価および考察を加える。. 2.

(9) 第一章パフォーマンス先行研究とその問題点. 「 パフォーマンス」という単語を日常よく耳にするが、その意味はさまざまである。 例えば、芸 能 ニ ュ ー ス で 「 歌手の〇 〇 さんが武道館で圧巻のパフォーマンスを披露し ました」 という文句が頻繁に流れる。 こ の 文 に お け る 「 パフォーマンス」はアーティ ストが舞台上で観客を意識しながらする行為を意味している。また、同僚同士の会話 で 「 K は上司のごますりばかりしている、あれは出世のためのパフォーマンスだ」と 言うと、人が他者関係において特定の目的を達成するために意識的に行なう行為、振 舞いを意味する。 このように、 「 パ フォーマンス」 という言葉は芸術領域から、 日常 生活の態度や所作にいたるまでさまざまなシーンで使われており、それが何たるかを 明確に定義することは難しい。 本 章では、アメリカで興ったパフォーマンス研究をいち早く日本に取り入れた高橋 雄 一 郎 の 『身体化される知』 1を参考にしながら、曖 昧 で 抽 象 的 な 語 「 パフォーマン ス」 の概念を整理する。 高橋は本書で、1960年 代 の 実 験 演 劇 か ら 派 生 し た 前 衛 芸 術 としてのパフォーマンスがその後社会学、文化人類学の分野でどのように研究されて きたかを学問横断的に考察している。そのため、芸 術 だ け で な い 複 数 の 視 点 か ら 「 パ フォーマンス」 について理解を深めるために適切だと考える。. 高橋はパフォーマンスを以下の三つの枠組みに分類している。. 一 、 舞台芸術、芸能として捉えられるパフォーマンス ニ、 日常生活におけるパフォーマンス 三 、文化的パフォーマンス12. 「 一 、舞 台 芸 術 、芸能として捉えられるパフォーマンス」 は芸術、 「 ニ日常生活に おけるパフォーマンス」 は社会学、 「 三 、文化的パフォーマンス」 は文化人類学にお けるパフォーマンスに相当する。 パフォーマンス研究がその領域を拡大させていく 1 9 6 0 年代より前の時代においては、パフォーマンスは芸術家と美術史家の研究対象 であり、舞 台 上 か ら 観 客 に は た ら き か け る 意 図 的 な 「 演技 J と捉えられていた。 しか し、芸 術 家 に 限 ら ず 全 て の 人 間 が 日 常 生 活 で 「 演 技 」 をしているという着眼点から、 社会学、文イ匕人類学においても研究されるようになった。. 1 せりか書房、2 0 0 5 年 2 高 橋 雄 一 郎 『身 体 化 さ れ る 知 パ フ ォ ー マ ン ス 研 究 』 P.8. 3.

(10) 第 一 節 舞 台 芸 術 、芸能としてのパフォーマンス 芸術における 広義のパフォーマンスr パフォーミング •アーツ| 一 、舞 台 芸 術 、芸能としてのパフォーマンスを、高橋は以下のように定義している。. 英語の「 パ フ ォ ー ミ ン グ •ア ー ツ 」 という単語で括られる、映 画 、演 劇 、 ダ ンスなど、観 客 を 意 識 し た 「 演 技 j であり、舞台芸能や身体芸術とも言い換 えられる3。. 芸術史の中で「 古典 j と さ れ て い る も の か ら 「 前衛」 と言われるものまで、身体をも って観客に働きかける表現行為は全てパフォーマンスと呼ぶことができる。高橋が挙 げている映画、演 劇 、ダンス以外にも、クラシックバレエやオペラ、能 • 狂 言 • 歌 舞 伎 •落 語 な ど の 日 本 の 古 典 芸 能 、そしてミュージカル、大道芸やサーカスなどといっ た娯楽性の高い大衆芸能までがこの語に含められる。 ここで注意したいのは、 1960年 代 以 降 ハ プ ニ ン グ や フ ル ク サ ス な ど の 運 動 を 生 み 出していった、身 体 表 現 を 中 心 と す る 芸 術 潮 流 で あ る 「 パフォーマンスアート」が 「 パ. フォーマンス」と呼ばれるようになり、今日ではこの呼称が定着しているという点で ある。そこで、本論文 で は 、身 体 芸 術 全 般 を 指 す 「 パフオーミング •アーツ」を芸術 における広義の パフォーマンス、そ し て 1 9 6 0 年 代 に 起 こ っ た 前 衛 的 身 体 芸 術 「 パフ. オーマンスアート」 を狭義の パフオーマンスとして区別する。. 狭義のパフォーマンス「 パフオーマンスアート」 芸術における狭義のパフォーマンスである「 パフォーマンスアート」は、演劇やダ ンスなどと並び、パ フ ォ ー ミ ン グ •ア ー ツ の 一^3 とみなされている。 ここでは、パフ ォーマンスアートの持つ四つの特徴、即 興性、公 共 性 、実 験 性 、政治性について理解 を深めながら、パフォーマンスアートが他の身体芸術とどのように区別され、新たな 芸術のジャンルとして認知されるようになったのかを明確にする。. 1 、 即奧性 パフオーマンスアートの最大の特徴とも言える即興性は、パ フ オ ー マ ン ス が 1960 年代のアメリカ実験演劇の影響を受けていることにある。そ れ 以 前 は 、演劇の目的は 戯曲が持つ普遍的テーマを後世に受け継ぐことであるとされ、そのために練習を重ね、. 3 同書 P .18. 4.

(11) 本番の舞台では練習を忠実に「 再現」することが要求されていた。この戯曲解釈中心 主義から脱却しようとしたアメリカのアーティストたちは、練 習 の 「 再現」を作品と して発表することをやめ、 「 いま、 ここ」 で感じたことから自分の身体をたち上げる 即興表現を試みるようになった。. 2 、. 公共性. 二つ目の特徴、公共性はパフォーマンスアートがアメリカの実験演劇に起源を見る ことに由来する。 1 9 6 0 年代にブロードウェイをピラミッドの頂点とする商業演劇か ら脱却しようとしたアーティストは、劇場を飛び出してビルの一角や倉庫、ロフトな どを転用して作品を公演するようになった。場 所 の 任 意 性 、予告なしに行なわれる上 演形態が、パ フ ォ ー マ ン ス ア ー ト が 「 ハプニング」 と言われる所以である。 公共空間に身体を投じる際の観客を考えてみると、自らチケットを買って劇場を訪 れる演劇の観客に対して、パフォーマンスアートをみる人というのは観客というより も 偶 然 そ の 場 に 居 合 わ せ た 「目撃者」であると言えるだろう。つ ま り 、パフォーマー は自分の作品を誰が観るのか本番まで分からず、またその鑑賞者が作品の最初から最 後までを観られるとも限らないのだ。作品の途中で通りがかった人にとっては、不可 思議な何かが目の前で起こっているだけであり、それから能動的にメッセージを理解 しようとすることは困難だ。それゆえに、演 劇 の観客に比べて、パフォーマンスの目 撃者が作品を理解するのはより難しい。このように、パフォーマンスをパフォーマン ス足らしめる最大の特徴である公共性は、しばしば鑑賞者の理解を妨げ、アーティス トの自己満足に終わってしまう原因の一つではないかと考える。 公共性のもう一つの視点が、パフォーマーと観客の閨係である。観 客 は 、パフォー マンスアートを「 視る」だけでは なく、時 と し て パ フ ォ ー マ ン ス に 「 参加」し た り 「 助 力」 を求められたりすることがある。. 3、. 実験性. 三つ目の特徴は、実験性である。アメリカの美術史家でパフォーマンスアート研究 の第一人者と評されるローズリ 一 • ゴ ー ル ド パ ー グ (Roselee Goldberg ) は、パフォ 一マンスアートの実験性について以下のように述べている。. パフォーマンスアートは複数 の 分 野 、テクニックにたよることができる一文 学 、詩 、演 劇 、音 楽 、 ダンス、建 築 絵 画 、そして ヴ イ デ オ 、映 画 、スライド ショーや朗読までも一想像しうる全ての組み合わせの中にこれらを( 表現手. 5.

(12) 段の可能性として)並べることができる4*。. 彼女の 言 葉 か ら 、パフォーマンスアートは今日、芸術のジャンルとジャンルの間にあ る境界線を消す概念として機能していることが理解できる。パフォーマンスアートの 誕生以前にアーティストに求められていたのは、形 式 主 義 ( formalism ) である。画 家 は 一生画家、役者は一生役者であり、自分の選択した芸術ジャンルを突き詰めてい くことに一生を捧げていた。 しかし、パフォーマンスアートは絵とダンス、詩とイン スタレーシヨンなど、それまでの芸術ジャンル間の壁を壊して複数の表現手段を組み 合わせることの可能性を追求する。また、パフォーマンスアートは演劇との差別化に よって生まれた新しい身体芸術の一ジャンルとして認知されている。 しかし、芸術ジ ャンルという垣根を取り払い、複数の表現方法を組み合わせる実験を重ねるという特 徴 か ら 、 「自分の表現」 を追求するアーティストの姿勢として捉え直すことができる と考える。. 4 、政治性 ア メ リ カ 実 験 演 劇 と 並 び 1 9 6 0 年代以降パフォーマンスアート隆盛期の担い手とな つたのが、ホモセクシュア八^やフェミニストなどのアクティヴィストである。体制転 覆 的 な 思 想 が 高 ま る 1960年 代 の ア メ リ カ で 、政治的発言力を有していなかったマイ ノリティの人々は、ことばではなく身体を使って平等の権利を主張しようとするアー トアクティヴィスムの時代を築いた。彼 ら の 目 的 は 、自 分 た ち を 排 除 •抑 圧 •搾 取 し てきた社会に対してアートを通じて訴えることであり、自分たちの作品が新聞、雑 誌 、 テレビなどのメディアを通して多声的な議論を誘発することを望んでいた。 このような社会的、政治的なメッセージを込めたパフォーマンスアートは、アメリ 力だけ、またアートアクティヴィスムの時代だけに限られたことではなく、近年活躍 するアーティストにも他例を探すことができる。例 え ば 、過激なパフォーマンスで批 判 の 対 象 に な っ て い る 日 本 人 の ア ー テ ィ ス ト 集 団 C h im T P o m は、東京電力第一原 発 問 題 か ら 発 展 し て 、渋 谷 駅 に 設 置 さ れ て い る 水 爆 を テ ー マ に し た 岡 本 太 郎 の 壁 画 「 明日の神話」( 1969)の 上 に 新 た な 絵 を 足 す パ フ ォ ー マ ン ス 「 R E A L T IM E S 」( 2011) を実行した。近年のパフオーマーたちは、アートアクティヴイスム時代のアーティス トが共有していた平等の権利のような集団的な目的意識は持っていないものの、自分 の社会的、政治的意見を表明していく方法としてパフォーマンスアートを利用してい るという点では共通している。. 4 Goldberg , Roselee uPerform ance du faturism e a nos jour^ 1 p .9•(訳 は 筆 者 に よ る) 6.

(13) 以上の四つがパフォーマンスアートの特徴であるが、全ての特徴を満たしていなけ ればパフォーマンスアートの定義から外れるというわけではない。表現媒体を組み合 わせる実験的側面が強いが政治的意図を全く持たない作品や、あえて公共空間ではな く劇場を使用する作品も存在する。しかし、パフォーマンスアートの出自が即興を重 視した実験演劇にあることから、 「 即興性」 だけは欠くことができない性質であると 言える。. 第二節日常生活におけるパフォーマンス 1 9 6 0 年 代後半、アメリカ実験演劇から生まれた前衛芸術としてのパフォーマンス アートは、学問の分野を超えて社会学者、文化人類学者を惹きつけた。その結果、 日 常生活におけるパフォーマンスお よ び 文 化 と し て の パ フ ォ ー マ ン ス と い う 二 つ の 新 しい概念が誕生した。 アメリカの社会学者、ア ー ヴ ィ ン グ • ゴ フ マ ン ( Erving Goffinan ) が 自 著 『日常 生活における自己の提示』 ( 邦 訳 題 名 :『行為と演技』)5において、人はドラマと見立 てた日常生活の中でパフォーマンスをすると唱えたのが、社会学におけるパフォーマ ンス研究の始まりである。私 た ち は 、家庭、学 校 、職場を始めとする複数の共同体の 構成員として生きており、どこに誰といるのかによって態度やしやべり方、さらには 性格までも無意識に変えていく。例 え ば 、友人とくだけた口調で思ったことを素直に 言い合うのに対して、上司と話す時は礼儀正しく、気 を 使 っ て 、時には本音を隠す。 誰もが経験したことがあることだろう。 ヴ ィ ク タ ー •タ ー ナ ー (Victor Turner )6がヒ トをパフォーマンスせずには生きられない動物「 ホ モ •パ フ ォ ー マ ン ス J 7と呼んだ ように、帰 属 す る 「 場 」 に応じて、ま た 対 面 し て い る 「 他 者 」 に応じて、 自分がどの ように話し、 どのように振る舞うのかを変化させることを私たちは求められている。 その点で、私たちは自分自身と距離をとりつつ、一 つ の 「 他 者 」 として観察してい ると言える。 ラ ン ボ ー の 「 私は一個の他者である」 という言葉のとおり、一 つ の 「 他 者 」 としてふさわしくあるべき姿を考えながら振る舞っているのである。. 6 アメリカの文化人類学者。宗教の儀礼や国家の慣習と、芸術としてのパフオーマン スとの共通点を見出し、パフォーマンス研究の学問横断性を高めた。 7 Turner , Victor w The A nthlopology o f Perform ance ^ p .81. 7.

(14) ただし、日常生活の パフォーマンスは決して周囲の環境に求められる役割を演じる 人間の受動性および適応性を強調するものではない。演劇学者の山崎正和は、自著『演 技する精神』の中で、日常生活において私たちが行なう演技について以下のようにま とめている。. 人間が表現する「 かたち」は、通 常 、社会に広く認められた習慣にしたがって、 一定の普遍的な「 型 J にもとづくことを目標としている。 しかし、同時に、 さ うした「 型 」 を踏襲しながらも、ひとびとはそのなかでなほ最大の自由の実現 をめざすのであって、そこには、 自己を普遍化することと、個性化することと の巧みな調和が求められている8。. 日常生活におけるパフォーマンスは、自 分 の 帰 属 す る 社 会 が 求 め る 「 型 」に完全にあ てはまるように自分を矯正することではない。 「 型 」 を意識することはその社会で踏 襲されてきた振る舞いや表現の仕方を知ることであり、それによって生きやすくはな るだろう。 しかし、私 た ち が 「自分自身として」 その社会で生きるためには、 「 型」 と、 自 分 が 思 っ た こ と を 言 う 「自由」、 自 分 が 振 る 舞 い た い よ う に 振 る 舞 う 「自由」 の均衡が必要なのである。 以上を踏まえ、 日常生活のパフォーマンスは、帰 属 す る社会が求める役割、振 舞 、 表現方法の「 型 」を参照しつつ、 自 分 の 感 情 や 考 え に 正 直 で あ る 「自由」 を求め、 自 分の対社会的な姿勢と立場を見つけていくことであると定義できる。. 第三節文化としてのパフォーマンス 文化人類学におけるパフォーマンスとは、 「 宗教や共同体の伝統に根ざしたさまざ まな儀式や慣習」9 と定義できる。 式典やスポーツの試合などで国歌を歌うことが代 表的な例として挙げられる。 「 君 が 代 」 を歌うことによって、普段当たり前のことと して意識することのない日本国民としての自分を再認識することになる。また、寺で 葬式を行なえば、仏教の家に生まれた自分を改めて自覚する。このように、ある共同 体の慣習を行なうことで、成員としての帰属意識を喚起する行為は全て、文化として のパフオーマンスと呼ぶことができる。. 8 山 崎 正 和 『演技する精神』 p .29. 9 高 橋 雄 一 郎 『身体イ匕される知パフォーマンス研究』 p .19. 8.

(15) 文 化 人 類 学 者 ジ ョ ン •マ カ ル ー ン (JohnMacaloon )は、文化的パフオーマンスは式 典や儀礼を通して「 文化や社会全体が、 自らについて省察し、自らを定義」する行為 であると説いたが、日常生活におけるパフォーマンスにも同じことが言える。日常生 活では言葉と身振りを通して_ 分を表現し、相手からの反応を観察することで表現の しかたを修正していく。このように表現と内省を繰り返すことで、どのように発言し 振る舞うのかを身体的な記憶として保存しているのである。. 第四節抑制される感情-日常生活におけるパフォーマンスの問題点 本節では、 アーリー•ラッセル•ホックシールド (Arlie Russell Hochschild ) の 『管理される心-感情が商品になるとき』 を引用しながら、先に紹介した日常生活に おける パフォーマンスを行 な うなか で 、私たちが意識せずに感情を抑制していること、 そ し て この感情抑制が心因性精神 疾 患 を も た ら す 危 険 性 が あ る こ と を 問 題 と し て 提 起したい。 感 情 は 、脳科学においては、ある 出 来 事 を 刺 激 と して受 け 取 り 、大脳皮質で発生す る生物学的反応と定義されている。 しかし、感 情 の 発 生 契 機 で あ る 「 出来事」はいつ も自己と他者の人間関係の中で起こる、 ということにホック シールドは注目する。 私 た ち が 社 会 の 一 員 と して生きていく上で、法 律 と い う 「 規 則 J を参照しながら飲酒 や運転を行なうように、感 情 も 、社 会 に よ っ て つ く ら れ た 「 規則J や 「 規 範 」によっ て コントロールされているのではないだろうか。感 情を科学的、生 理 的 事 象 と してで はなく、抑制や橋正することが可能 な 社 会 的 事 象 と して扱ってい る 本 書 は 、日常生活 における パフォーマンスの中で起 こ る 感情の問題を明るみに出すために適切だと考 える0. 感情抑制とは ホックシールドは、感 情 規 則 を 「どの感情が当該の出来事に対して適切なのかを判 断する規則や規範 J 10と定義し、 「 役 割 は 、 ある一連の出来事にはどんな感情が適切 だと思われるかについての基本線を規定 J 11すると言う。私たちは目前で起こってい る 「 当該の出来事」 と、そ の 出 来 事 に 関 わ る 自 分 の 「 役割」 を照らし合わせ、 自分が. A .R .ホ ッ ク シ ー ル ド 『管理される心一感情が商品になるとき一』 P .69. 1 1 同書 P.85. 9.

(16) 感じる「 べき」感情は何かを判断している。文献 の 中 で 、結婚式における花嫁が感情 抑制を振り返って、以下のように語っている箇所がある。. 私 の 結 婚 式 は 雑 然 と し て い て 、そ ら ぞ ら し く て 、私が思い描いていたものとは まったく違っていました。 運 悪 く 、 リハーサルは結婚式当日の朝八時でした。 私 は 、み ん な は §分 が す べ き こ と を 心 得 て い る だ ろ う と 思 っ て い た の で す が 、 そ う で は あ りませんでした。 私 は 心 配 に な り ま し た 。 姉は私がドレスを着るの を 手 伝 ってくれないし、 ほめて喜ば せ た り も し て く れ ま せ ん で し た 。私が頼む まで、 ド レ ス •ル ー ム に い た 人 た ち は 誰 一 人 手 伝 っ て く れ ま せ ん で し た 。 がっ かりしました。 結 婚 式 の 日 は 満 ち 足 り た 気 持 ち で い た い と 思 っ て い た の に 、結 婚 式 の 日 に 泣 く な ん て 夢 に も 思 い ま せ ん で し た 、人の人生の中で最高に幸せな 日なのですから。 ( 中略)私 は 「 友人たち、親 戚 、 出席者の人たちのためにも幸 せな気分になろう」 と思っていました12。. この女性は「 満ち足りた気持ちでいたいと思っていた」と言うが、それは彼女自身か ら出た望みというよりも、結 婚 式 と い う 「 イベント」では幸福なのが当然であるとい う考えによってできた願いと言うことができるだろう。結 婚 式 や 葬 式 は 「 慣習」であ り、偶 然 発 生 す る 「 出来事」 よ り も 感 じ ら れ る 「 べき」感情のイメージが強いと言え る。 また、 「 友 人 た ち 、親 戚 、 出席者の人たちのためにも幸せな気分になろう」 と言 っているように、幸せという感情はもはや花嫁一人が体験するものではなく。周囲に いる人々と「 共有」するものである。彼 女 は 式 場 の 雰 囲 気 、周囲の人々が求める幸せ な感情に自分の感情を矯正しようとしたのだ。 つまり、感 情 の 抑 制 と は 、 「 私 が く 実 際 に 〉感 じ 、考えることと私が感じ、考える < べ き > こと」13にずれが生じたとき、 < 実 際 の > 感 情 の ほ う を 抑 制 し 、あるくべき > 感情に矯正することである。このとき注意したいのは、< 実 際 の 〉感情の存在を認. めつつ、あるく べ き 〉感 情 を 感 じ て い る よ う な 振 り を す る の で は な い ( スタニスラフ スキーが言うところの表層演技ではない) ということだ。感 情 抑 制 は 、自分が< 実際 に > 感じた感情をもともと存在しなかったことにして、あ る く べ き 〉感情を本物の感 情として置換する行為である。. 12 同書 13 同書. P.68. p .69. 10.

(17) 日常生活におけるパフォーマンスがもたらす感情抑制とその圊題 感情抑制の問題が深刻化するのは「 私 が < 実 際 に > 感 じ 、考えること」の抑制を意 識せずに、そして持続的に行なうときではないだろうか。感情管理の持続性について、 ホックシールドが言及している箇所がある。. 花嫁や会葬者は、ある場面に特有の役割をやりぬけばよい。 しかし、 より長く より深く持続するような役割における心の達成はもっと大変なものである。親 と子ども、夫と妻、恋人同士や親友同士は、感情規則からより自由であること と、感情作業の必要性がより少ないことを期待している。 しかし現実には、内 なる望ましい顔をアンビバレンスの上に被せるという水面下の作業が、彼らに とっては一層重要なことである。事 実 、つながりが深くなればなるほど感情作 業は多くなり、そして私たちはそのことにますます気づかなくなる14。. 結婚式や葬式は「 慣 習 」であると同時に、終わってしまえば二度と繰り返されること がない「 イベント」 である。 「 イベント J は そ の 一 過 性 ゆ え に 「 特有の役割をやりぬ けば良い」。それに対して、「 親と子 ど も 、夫 と 妻 、恋人同士や親友同士」が共に生き る 家 庭 •学 校 •職 場 は 私 た ち が 根 を 下 ろ し て 人 生 の 大 部 分 を 過 ご す 「 持続 的 な 場 」で ある。 そのような情動交流の場でさえも、人間は絶えず感情管理をする。 ホックシールドの感情管理の理論から、筆者は感情管理の無意識性、必要不可欠性 の裏に「 病 性 」を認めることができるのではないか、 と考える。ホックシールドが述 ベているように、感情の抑制は意識されずに日常生活の中で常に行なわれ、他者と共 生し、その他者と自分との間に望ましい関係が持続するためには必要不可欠である。 しかし一方で、感情管理を意識せずに行なうことは私たちに心的負担をもたらしスト レスとして体感されるが、その発生原因に気づくことができない人がいるという問題 が発生する。そして、感情管理が限界をむかえた先には、抑制した感情が爆発して人 間閨係に支障を来したり、ストレス性の精神疾患を引き起こしたりする危険性を孕ん でいるのではないだろうか。. 以上を踏まえ、日常生活における パフォーマンスの中で、以下の二つの問題がある と考える。一 つ 目 は 、家 庭 、職 場 、学校のような人と人とが深い情動交流を持つ場に おいて、感情の抑制を意識せずに行なうことである。二つ目は、抑制感情がもたらす 心理的負荷の蓄積が、うつ病、解 離 性 障 害 、過 剰 適応症候群などの ストレス性精神疾 患を引き起こしかねないということだ。疾患には至らなくとも、抑制し続けた感情が 14 同書. P .78. 11.

(18) 爆発して他者関係を自ら崩壊させたり、不適切な感情を抱いた自分に対して罪悪感を 抱いたりしてしまう可能性もある。 私 たちは、こころを病むのは先天的に抑うつ傾向のある人、また虐待やいじめ、天 災 や 事 故 な ど で 精 神 的 外傷を負っ た 人 だ け で あ る と 思 い 込 ん で い る の で は な い だ ろ うか。 しかし現実には、 日常生活にすり込まれ、意識せずに行なっている感情抑制が こころの病の原因の 一つになっている。 また、心理療法は、既に精神疾患にかかってしまった人を治療対象とするが、ここ ろの病として認定されていない私たちも、抑制される感情を外に出す必要があると私 は考える。 しかし、感 情 の 外 化 は 、 日常生活の中で自分の感情をありのまま吐露する ことではないということに注意したい。感 情 抑 制 は 、もともと自分が望ましいと考え る他者閨係の在り方を獲得、持続させるために行なっている。つ ま り 、それを完全に 放棄することは他者との共生を放棄することと同じであり、それまで築いてきた閨係 を破綻させることになりかねない。よって、筆 者 は 、他者関係が築かれる日常生活と は 「 別の文脈」 で抑制された感情を浄イ匕する必要があると考える。. 12.

(19) 第二章アートとこころの治癒の再考. アートは今日まで、社会的に認められない感情を治癒する手段として貢献してきた。 アートの治癒的性質は「 昇華」と呼ばれ、芸術家はこころの内側に抑え込んできた衝 動や感情を「 作品」という社会的価値のあるものに置き換えて精神を充足させようと する。 また、2 0 世紀中頃からアートの治癒的効果は心理療法に取り入れられるよう になり、アートセラピーとして主に心因性の精神疾患を患った人々の治癒に寄与して きた。 しかし、プロフェッショナルな芸術家と精神疾患患者が享受してきたこのアートの 治癒的性質を社会一般に提供できたとしても、第 一 章 で 問 題 提 起 し た 「 抑制感情」を 浄化することはできない、と私は考える。本 章 で は 、イ ギ リ ス の 哲 学 者 ロビン •ジョ ー ジ •コ リン グ ウ ッ ド ( Robin George Collingwood ) の 理論とアート セラ ピーが 患 者にもたらす心的変化を考察しながら、 ア ー ト が も た ら す と 考 え ら れ て き た 「 治癒」 を批判する。. 第一節アートの治瘡的効果の再考 _. 「 孤独な表現行為 J と 「 作品に対する社会の評価 J は治瘡となりうるのか イ ギ リ ス の 哲 学 者 ロ ビ ン •ジ ョ ー ジ •コ リ ン グ ウ ッ ド ( Robin George Collingwood ). は、1 9 3 8 年 に 出 版 さ れ た 自 著 『芸術の原理』 において、初めてアートの治癒性に着 目した人物である。 彼はまず、芸 術 を 「 真の芸術J と 「 擬 似 芸 術 」 に分類した。 「 擬 似 芸 術 J とは、本 来芸術ではないにも関わらず大衆が芸術と認識しているものであり、 「 魔術芸術」 と 「 娯楽芸術」 の二つに分けられる。 「 魔 術芸術」 は、プロパガンダや布教など、政治 的ないし宗教的目的を持って行なわれる芸術活動である。 「 娯楽芸術」 は、特定の目 的は持たず、単純に鑑賞者の気持ちを高揚させることを意図して行なわれる芸術活動 である。 『 擬似芸術 J を 排 除 し た 「 真の芸術 J は、芸 術 家 の 「 感 情 J から生まれるものであ り、 「 感情J が 「 治 癒 」するプロセスこそ芸術の存在意義であるとコリングウッドは 主張した。 以 下は、 コリングウッドの理論を要約した山崎正和の文である。. 芸 術 と は 、人 間がみづから の 内 部 の 曖 昧 な 感 情 を の ぞ き こ み 、それをことば 13.

(20) やかたちや音 に よ っ て 定 着 し 、何 よ り も 自 分 自 身 の た め に 、その感情を明確 化する営みにほかならない。 けだし、人間はみづからの感情の動揺によって 苦しむ動物であるが、 とりわけ苦しいのは、 内部に何かしらの無形の衝動が 渦 巻 い て い て 、 しかも、その気分の性質がわれながら名状しがたいときであ らう。 芸術 は 、 まさにさういふ人間に た い す る 救 済 と し て あ る の で あ り 、そ の混池たる感情に輪郭をあた へ 、指 さ し て 語 り う る 明 快 な 者 に 変 へ て 、彼の 意識の支配下に置く活動なの で あ る 。 表 現 と は 、第一義的にさうした感情発 見の作業なのであり、外に相 閨 物 をつくることによって自己の内面を確認す る営みであって、お よ そ 、 内部にある既知の何ものかを外に投げ出す行為で はない15。. 芸術はしばしばアーティストの類まれなる才能が具現イ匕したものと考えられ、作品が 完成するまでの「 過 程 」に關心が持たれることはあまりなかった。コリングウッドの 論で注目すべきなのは、芸 術 家 の 「 創 作 過 程 J に注目して、そ こ に 「 治癒的プロセス」 があると主張した点である。私たちはこころの中で感情を抱いても、その感情をなぜ 抱いたのか分からなくなったり、言葉にできず悩んだりする。芸 術 は 、そのような曖 味な感情を絵、彫 刻 、音 楽 と い う 「 作品 」に 「 具現化」する営 み で あ り 、感情につい て、そして自分自身について理解を深めるプロセスであるというのがコリングウッド の主張だ。 しかし、コ リ ン グ ウ ッ ド が 表 現 の 「 主体」である芸術家にしか着目しておらず、観 客という「 他 者 J の存在について考慮しなかったのは見直すべき箇所だと考える。感 情 と は例外なく、 自 分 の 周 囲 で 起 こ る 「 外 的 変 化 」 をもとに発生して、 「 他者との閨 係 」の中で形成されるものである。芸術家がアトリエに籠って作品を創作することは、 他者との交流から離脱して、閉鎖的な空間に独り閉じこもることと同じなのだ。その ような場では、感 情 を 表 現 す る と き に 常 に 考 慮 さ れ る は ず の 「 他 者 」を 「 排 除 」して、 感情を自分の思うままに「 瀑 発 』 させること満足するだけではないかと私は考える。 また、芸術家が作品から自分の感情について理解を深めようと試みても、感情の原因 を他者や周りの環境に押し付けるような、自分に都合の良い解釈になってしまう危険 があるのではないだろうか。. 次 に 、心理療法にアートを取り入れ、コリングウッドと同様にアートの治癒的効果 を 考 察 し た シ ョ ー ン •マ ク ニ フ ( Shaun Mcniff) の論を考察したい。彼 は 、誰もが 感 動 し 涙 す る ス ト ー リ ー を 描 く 、戦 争 や 差 別 の 悲 惨 さ を 繰 り 返 さ な い た め に 後 世 の 巧 山 崎 正 和 『演技する精神』 P .131. 14.

(21) 人々に訴える作品を創るなど、芸術家の創作動機は多様であると述べつつ、全ての芸 術家に共通する根源的かつ内面的な創作動機が存在するとして、以下のように主張す る0. 最もよく知られている芸術の 治 癒 的 な 性 質 は 、芸術家が潜在的に有害な情動 を、社会的に許容される表現へと導く昇華のプロセスでしょう。偉大な芸術 を制作しようとする動機は、その人自身に破壊的な影響を及ぼし得る、深い 怒りや不快感に由来する場合もあります16。. マクニフの論で興味深いのは、コ リ ン グ ウ ッ ド が 説 い た 「 感 情 の 発 見 j よりも高次の 段階に至る必要性を強調している点である。彼 は 、感 情 に 「 作品 」 という輪郭を与え て分かりやすいようにするだけでは十分ではなく、そ の 「 作品」 が 「 社会的に許容」 されることで初めて治癒が達成されると考えた。 こ こ で 言 う 「 社会的な許容」 とは、 キュレーターや 美 術 館 が 芸 術 家 の 「 作品 J が 展 示 さ れ る価値を 持っていると判断する こと、より多くの人が展覧会を訪れること、そして美術批評家から良い評価を得るこ となどを意味していると考える。 日常の他者関 係 で は 吐 き 出 す こ と が で き な い 「 深い 怒りや不快感」な ど を 鑑 賞 価 値 の あ る 作 品 に 「 転換」 し、そ の 作 品 が 「 評 価 」 される ことがマクニフの主張する「 治癒 J なのである。 マクニフは、 「 社 会 」 という言葉を使いながら、芸術家と鑑賞者の關係性について 考慮しているように見える。 しかし、彼 の 展開する治癒論も、コリングウッドの理論 と同様に、 「 感 情 自 体 J の治癒を達成することはできないと私は考える。 その理由の 一つが、芸 術 家 が 作 品 を 創 る 場 所 •時 間 と 鑑 賞 者 が 作 品 を み る 場 所 •時 間 の あ い だ に 「 ずれ」があるということだ。芸術家は孤独に作品をつくり、鑑賞者はそれから時間 を置いて、またそれが作られた場所とは異なる空間で作品をみることになる。この作 品は芸術家から鑑賞者に対して「 一方的」に提示されたメッセージであり、それゆえ に自分に都合の良い作品づくりと感情の解釈から脱却することができないのだ。また、 「 社会的な許容」が治癒となりうるのかについても、改めて問い直さなければならな い。芸術的活動の場合、賞賛されるのは作品の技巧、そしてそれを実現することがで きる芸術家の技能である。つま り 、芸 術 家 が 抱 い た 感 情 の 「 存在自体」が認められる わけではないのである。. 創作行為が芸術家にもたらすと考えられてきた「 治癒」は、抑圧された感情を孤独. I6 シ ョ ー ン • マ ク ニ フ 『芸 術 と 心 理 療 法 -創 造 と 実 演 か ら 表 現 ア ー ト セ ラ ピ ー へ 』 p .xx . 15.

(22) に 「 発露」 し て 「 解 消 J す ること、そして社会的に認められない感情をもとにした作 品が社会的に「 評 価 」 されることであった。 これは、感情の存在自体が浄化されるの ではなく、創 作 行 為 を 通 じ て 満 た さ れ る 気 持 ち を 「 代 替 感 情 J として、抑圧してきた 感情を「 埋め合わせる」 ことであると考える。. 第二節アートセラビーの再考 -. r 自己青定」. と r 他 者 か ら の 承 * j は治癒となりうるのか. アートセラピーとは アートセラピーは日本語で芸術療法とも呼ばれ、ことばを介した一連のセラピーセ ッシヨンに組み込まれている。摂食障害や虐待のトラウマなどの心因性精神疾患、お よび身体疾患を患った人々を主な対象者として行なわれる療法である。また、疾患の 原 因 と な っ た 体 験 を こ と ば で 語 る の が 困 難 で あ る と 判 断 さ れ た ク ラ イ エ ン ト 1?に適 用されるケースが多い。セラピーは一人のセラピストに対して、一人もしくは複数の クライエントで展開される。 クライエントはセラピストからさまざまな表現媒体を提示され、その中から自分の 好 むものを選択し、_ 由に表現することを促される。用い られる表現媒体は、絵 、粘 土、ダンス、音楽が代表的なものとして挙げられる。セラピストは、完成した作品を もとに「 描 い て い る あ い だ 何 を 感 じ ま し た か ?」 「この絵には黒が多く使われていま す が 、そ れ は な ぜ だ と 思 い ま す か ?」などの質問を投げかけ、クライエントとはその 質問に答える。創 作 行 為 と そ れ に よ っ て 出 来 上 が っ た 作 品 を 「きっかけ」 として会話 を始めるアートセラピーは、ことばによるコミュニケーションが著しく困難なクライ エントにとって、セラピストとの対話に慣れていくための足掛かりとなる。. アートセラピーと表現精神病理学の違い アートセラピーの「 治癒」について論 じ る 前 に 、 アートセラピーと表現精神病理 学の相違に ついて理解しなければな ら な い 。 二つは、心因性の疾患を患った 人々に 表 現活動を行なわせるという共通 点 が あ る た め に 混 同 さ れ や す い が 、全く異なるも のである。. n アートセラピーを含む心理療法において、心理療法士をセラピスト、セラピーを 受ける人をクライエントと呼ぶ。 16.

(23) 表現精神病理学は、患 者 の 表 現 活 動 を 「 分析対象」 として扱い、 あらゆる表現媒 体のなかでも絵画を用いることが多い。 医者は担当する患者が描いた絵画の中にみ える、モチーフとその配置、大 き さ 、色 彩の選択、縁 取 り や 境 界 線 の 有 無 を 「コー ド」 として観察し、患者の心理状態を分析する。 つ ま り 、表 現 精 神 病 理 学 は 、患者 が言語化することを憚られている強い感情とその原因を、絵 画 か ら 解 釈 し 、 「 診断 J しようとする試みなのである。 一方 ア ートセラピーにおける絵は、前項でも述べた ように、セ ラ ピ ス ト と ク ラ イ エ ン ト の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン が 始 ま る 「出発点」 と言 えるだろう。 では、 クライエントが表現行為を行なうこと、それによってできる作品からクラ イエントとセラピストが会話をすることの先に、 アートセラピーが目指しているも のとは何なのか、次項で考察する。. 「 副次的丨な瘇しとしてのアートセラビー アートセラピーの目的は、セ ラ ピ ー と 名 が 付 く と お り 「 治癒」である。では、ここ で の 「 治 癒 」 とは何を指しているのだろうか。本 項では、 「 創 造 性 」 をキーワードと して、アートセラピーを通じて患者のこころにどのような変化が起こるのかをみなが ら、アートセラピーの目的に ついて理解を深める。そして、アートセラピーをもって しても、第一章で述べた抑制感情の解決にはならない理由を考察する。. 楽しみや自己表現の一形式であるアートや音楽、 ダンスをいつごろやめたの か正確に言えるクライエントや友人、 グループ参加者から、たびたび私は胸 の痛む話を聴きました。教師が低い成績を与え、 ダンスしたときに人びとが あざ笑い、他の人が歌ったときに誰かが悪く言ったのです。彼らは誤解され たり、否定的に評価されたと感じました。 心 に 残 っ た イ メ ー ジ は 「 私は描け ない J 「 私は音楽的ではない J 「 全く楽しめない」 というものでした18。. 私たちの中には、過去に自分の創作活動を批判され、それ以降何かを創ることから遠 ざかってしまった人が少なからずいる。また、そのような経験がなくとも、アーティ ストを「 表現の技巧に長けたスペシャリスト J とみなし、 自 分 と は 「 異なる」人間と 認識している。 アートセラピーを受ける人々が同様の気持ちを抱くのは当然であり、 それゆえに自分の「 創 造 性 の 欠 如 J を懸念した状態、セ ラ ピ ー へ の 参 加 に 「 消極的」 な状態からセッションを始めることになる。. 18 ロジャース,ナ タ リ ー 『表 現 ア ー ト セ ラ ピ ー -創 造 性 に 開 か れ る プ ロ セ ス 』p .29. 17.

(24) しかし、アートセラピーでは、セラピストはもちろん他のクライエントを含めた全 ての参加者が、他者の創ったものを決して批判せず、常 に 「 支持的」でいなければな らないという原則がある。支持的な人々の存在によって、クライエントは他者から「 承 認 ( validation )」 されているという感覚を味わうようになっていく。 以 下 は 、マク ニフがアートセラピーにおける「 承認」 の重要性を強調している箇所である。. 承 認 は 、心理療法に芸術を用いるうえできわめて重要な要素です。 セラピー を受ける人々の多くは、 自分の創造的な表現にはほとんど価値がないと感じ るよう条件づけられているので、表現セラピストはこの影響を弱め、 自身を 取り戻せるよう支援しなくてはなりません。表 現 アートセラピーを通して、 クライ エ ン トには欲求を満 た し 、表現に関する問題に直接応えてくれる信頼 できる環境のなかで、芸術意識を刷新できる機会が与えられるのです19。 クライエントははじめ、自分の創造的活動には価値がないという考えにとらわれてい る。 しかし、決して批判されることがなく心理的安全を確約された環境、そして無条 件に自分の描いたものを承認してくれるセラピストとともに体験するセッションを 通 じ て 、二 つ の [芸 術 意 識 の 刷 新 」が起こる。一 つ は 、何かを創るという行為自体に 「 楽しさ j を感じるようになるということである。 もう一つは、 「 他者の承認 J を得 ることで、自分でも絵が描ける、動くことができると自分の創作活動に価値づけをし て、 「自 己 肯 定 ( self -affirmation )」 ができるようになることである。. アートセラピーの目 指 す 「 治癒 』は、一見、筆 者 が 問 題 視 している抑制感情の解決 策になりうるように見える。しかし、アートセラピーではこの問題を解決できないと 考える。なぜならば、アートセラピーが目指しているのは、セッションを重ねるうち にもたらされる「 創 造 性 の 発 見 」に過ぎず、コリングウッドとマクニフの論と同様に、 「 感情そのもの j を浄化するものではないからである。ア ー ト セ ラ ピ ー の 「 治 癒 」は、 創造性の欠如に不安を持った状態から、自分の創ったものに価値付けができる状態へ の 「 移 行 」 であり、感 情 を 「 素材 」 と し て 「 創 造 す る 」 ことに目が向けられている。 そして、創 造 し た も の と セ ラ ピ ス ト と の 会 話 か ら 得 ら れ る 「自己肯定感」や他者から の 「 承 認 」は、疾患の原因となった感情自体を浄化することはできず、言葉を介した セラピーで治癒が促進されるための「 副次的」な癒しとしてしかはたらくことがない. I9. マクニフ、シ ョ ー ン 『芸 術 と 心 理 療 法 -創 造 と 実 演 か ら 表 現 アートセラピーへ』 P.51. 18.

(25) と考える。 アートセラピーがそれ自体で独立しておらず、 「 心理療法のなかに取り込まれた芸 術 」として存在している理由はここにあるのではないだろうか。アートセラピーを専 門として患者の治癒を目指す療法家もいるものの、依然としてアートセラピーは言葉 を介した心理療法の「 傍 ら 」で行なわれるものであり、「 診療補助的( paramedical)』 な役割にとどまっていると私は考える。. 今日まで信じられてきたアートの治癒的効果は、創 造 行 為 が 「 孤独 J であるがゆえ に、抑制感情を思うままに発露して、独りよがりな解釈をすることにとどまっている。 また、ア ー ト セ ラ ピ ー は 「 他者の承 認 」 と 「自己肯定感 j によってクライエントの心 的状態を調整する「 副次的」な癒しであり、ことばを介したセッションに臨みやすく す る 「 足掛かり」 としての機能しか果たしていない。 このようなアートにおける治癒の概念によっては、抑制された感情の問題を解決す ることはできないと私は考える。なぜならば、感情抑制が私たちにもたらす心的負担 が最も大きいのは、家族や友人同士など、深 い こ こ ろ の 交 流 が 行 な わ れ る 「 持続的」 な他者関係においてだからである。感情を発露する解放感や自己肯定感を享受できた としても、そ れ は 抑 制 さ れ た 感 情 を 一 時 の あ い だ 「 埋め合わせる」だけであり、彼ら とともに生き続ける以上その感情が消えることはない。 以上の考察から、私 は 、他 者 関 係 の 中 で 抑 圧 さ れ た 感 情 に 直 接 「 向き合い J 、浄化 する必要があるという考えに 至った。そ して、その可能性は第一章で紹介した パフオ. 一マンスアートの中にあるのではないかと考えている。次章では、パフオーマンスア ートの二つの特徴である即興性と、表 現 者 •鑑 賞 者 の 共 在 がいかに抑制感情の浄化に つながるのかを考察していく。. 19.

(26) 第三章パフォーマンス一ムーブメントによる感情体験と感情移 入による生の実感. 第二章では、芸 術 家 の 創 作 活 動 と ア ー ト セ ラ ピ ー が 目 指 す 治 癒 は 「 抑制感情」を埋 め合わせるための「 代替感情」 をつくることであり、 「 抑 制 感 情 J そのものを浄化す ることはできないという結論に至った。 筆 者 は 、 「 パ フ ォーマンスアート J の特徴の うち、感情から身体をたち上げる即興性と、表 現 者 •鑑 賞 者 が 同 じ 時 間 •空 間 に 存 在 する同時性の二つが、抑制された感情を外化することを促し助けるのではないかと考 える。 本 章 で は 、以上二 つ の パ フ ォ ー マ ン ス ア ー ト の 性 質 を 利 用 し て 抑 制 感 情 を 外 化 •省 察 す る こ と 、ま た そ の 営 み を 他 者 と 共 有 す る こ と を 「 パフォーマンス J と再定 義したい。そして、それぞれの特徴がいかにこころの治癒をもたらすかを検証してい く。 第一節では、心理学の観点から、身 体 を 媒 介 し て 「 意 図 的 に 」感情を外化すること について論じる。論 を 進 め る に あ た り 、身 体と感情の相閨性を提唱したウィリアム. ジ ェ ー ム ズ (William Jam es ) の 論 文 “WZiaf is an enKぬb n .ダ を 参 照 す る 。 また、 それと同時に、ムーブメントワークショップを開いたコンテンポラリーダンサー、ア ン ナ • ハ ル プ リ ン (Anna Halprin ) の実体験を紹介しながら、 ムーブメントを通し た感情の外化:のプロセスを具体的に説明する。第 二節では、表現者と鑑賞者が同じ空 間•時間に存在し、共にパフォーマンスをすることでもたらされる生の実感について、 哲 学 者 テ オ ド ー ル •リ ッ プ ス ( Theodor Lipps ) の感情移入論を引用しながら検証し たい。第三節では、以上二つの考察を踏まえて筆者が実施したパフォーマンスワーク ショップを報告する。そ して、今後もワークショップを実施していくにあたっての改 善点を分析する。. 第一節ムーブメントによる感情体験 ムーブメントとは何か一身体芸術、セラピーの視点から パフオーマンスアートの最大の特徴は、パフオーマーの身体そのものが作品として 提示されることである。同じ身体表現でも、クラシックバレエを代表するようなダン スには、練習を積み重ねて特定の型を体得した体が求められる。演劇では役の感情が ストーリーの展開の中で既に決められており、役者はその感情をより明確に観客に伝 達できる台詞の抑揚、表 情 、息づか い 、身振りを追求する。本 番 は 、練習の再現を行 20.

(27) なう場である。 このように、パフォーマンスアートが誕生する以前の芸術における身体は、 型の「 再 生産」、感 情 表 象 の 記 号 の 「 再生産 J としての機能を果たしていた。 一方、パフォーマンスアートにおいては、表現者は役になるのではなく、その人自 身であり続ける。また、多くの場合は沿うべき筋立てがなく、練習を行なわずに即興 で行なわれる。表 現 者 自 身 の 感 情 が 「 いま、 ここ」で立ち上がり、その感情の衝動が 身体の動きとなって現前する。その動きは運動の エネルギーを持って新たな動きを生 み、出発点となった感情は動きとともに変容する。このように、パフォーマンスアー トにおける身体とは、 「 いま、 ここ」 で 「 即興的に生起する動き」 の連なりの主体で あり、そ れ に 伴 う 「 感情の 変 化 J を体験する主体でもあるのだ。ダ ン サ ー の ア ン ナ • ハルプリンは、 「 型の再現」 としての身体の動きに対して、パフォーマンスアートや コンテンポラリーダンスなどの「 即興的に起こる動き J を 「 ムーブメント」と呼んだ。. また、ダンスムーブメントセラピーという分野が確立されているように、アートセ ラピーにおいても「 ムーブメント」は馴染みの深い語となっている。怒りや悲しみを おさえつけると、私たちは後にそれを爆発させてしまったり、他者と生きることが嫌 になって他者関係から遠ざかったりしてしまう。 ダンスムーブメントセラピーでは、 このように破壊的な影響を及ぼす感情を身体によって表現する行為を「 ダンス」もし くは「 ムーブメント」 と呼び、二つを同義語で使用している。 「 ダンス」 という語は 通常、鑑 賞 対 象 と し て 「 型 」や 「 記号」 を再現する行為を連想させる。 しかし、 「 ム ーブメント J という言葉は、感情を身体的次元で表現する行為までその意味を押し広 げて、 「 芸術」 と 「日常生活 j の二つの文脈を統合するようなイメージを持っている と考える。ア ー ト セ ラ ピ ス ト の ナ タ リ ー •ロ ジ ャ ー ス ( N atalieRogers ) はムーブメ ン ト に つ い て 自 著 『表現ア ー ト セ ラ ピ ー -倉 j 造性に開かれるプロセス』で以下のよう に言及している。. ムーブメントはいのちであり、いのちはムーブ メ ン ト で す 。 もし信じられなけ れ ば 、一分間全く動かないでみ て 下 さ い 。 それは不可能です。 ムーブメントは 人間の欲求なのです。 呼吸もムーブメントです20。. ロジャースの論から、歩行や物を掴むこと、呼吸、そして血液の循環さえもムーブメ ントと呼ぶことができるということが分かる。普段は意識することのない日常の動作 から、命が尽きるまで絶えず繰り返される生命活動までも含んだ、あらゆる身体の動. 2〇ナタリー•ロジャース 『表 現 アートセラピー-創造性に 開 か れ る プロセス』p .71. 21.

(28) きの総称が「 ムーブメント」なのである。そこで、筆 者は、パ フ オーマンスアートの 特徴である「 即興性 J も 「 ムーブメント」 と呼ぶことができると考えた。そ れによ つ て、表 現 者 が 「 いま、 ここ」で自分の感情を身体イ匕する営みが、芸術の枠組みにおけ る身体の在り方や上演方法を意味するだけでなく、そ れ な し で は 生 き ら れ な い 「 人間 の欲求」 であるという意味を付加できる。. 抑制された感情とムーブメントの必要性 では、感情の体験はどのようなメカニズムで行なわれるのだろうか。 ここでは、心 理学の視点から、 ウ イ リ ア ム •ジ ェ ー ム ズ (William James ) の 論 文 “杯Iiat is an. emo だo u f を弓I用して紹介しながら理解を深めていきたい。ジェームズは、人 は 「 悲 しいから泣くのではない、泣くか ら 悲 し い の で ある」の言葉で 有 名 な 1 9 世紀の心理 学 者 で ある。 「 感情」 と 「 身 体 」 の相関性を主張し、今日でも支持され続ける彼の理 論 は 、心身の相閨性を踏まえて抑制感情の外化について考察する本論文で引用するの に適切だと考える。. まず、感情体験を論じるにあた っ て 、感 情が情動(emotion)、感 情 ( feeling ) のニ 種類に分類されることに触れておかなければならない。情 動 ( emotion ) は原初情動 (快 •不 快 )、基 本 情 動 ( 喜 び • 悲 し み • 恐 れ • 憎 し み • 怒 り ) からなり、表情や行 動に表れる「 表出行動」である。例 え ば 、赤ん坊が不快を訴えるために泣く、怒りを 抑えきれずに手をあげるなどに見られるように、情動はその生起と同時に泣いたりぶ ったりすることで、す な わ ち 「 身体変化」 を伴って外化されるものと定義できる。 一 方 、感 情 ( feeling ) は 脳 の 大 脳 皮 質 で 感 じ ら れ る 「 内 的 体 験 j で あ り 、表出の 衝動はない。つ まり、感 情 (feeling )を表現するか否かは、各人によって意識的もしく は無意識的に決定されるのだ。また、情 動 は 表 出 が 終 了 す る と 消 滅 す る 「 瞬間 」的な ものであるのに対して、感 情 は こ こ ろ の 中 で 「 持続 J 的に感じられるものである。. では、情 動 、感情はそれぞれどのように体験されるのだろうか。ジェームズは情動 体験のプロセスについて以下のようにまとめている。. 身体変化は、それを喚起する事実の知覚に直接引き続いて起こり、身体変化が 起こるときにその変化を感覚 す る こ と こ そ が 情 動 な の で あ る 。 常 識 に よ れ ば 、 私たちは財産を失うと悲しくなって泣く。熊に遭遇すると恐ろしくなって逃げ 出す。敵に罵られると怒って殴りかかる。 しかし、 ここで擁護しようとする仮 説 に よ れ ば 、 この順序は真逆になるはずである。 ( 中略) ま ず 、身体的な表出 22.

(29) (manifestation ) が二つの心的状態のあいだに挟まれていなければならない。 そして、 より合理的にいえば、私 た ち が 悲 し み を 感 じ る の は 泣 く か ら で あ る 、 怒りを感じるのは殴るからである。怖いのは震えるからである21。. 「 感情を表現する J とよく言うように、私たちは、先ず感情が身体内部でつくられ、 そして感情は既に完成した存在として表情や行動によって外化されると考えている。 しかし、ジェームズは、二種類の感情のうち、情動は私たちの意識と逆の順序で体験 されるものだと主張する。 「 身体変化が起こるときに生じるその同じ変化の感覚こそ が情動 j と述べているように、泣い た り 、殴ったり、震 え た り す る 「 身体変化 j によ つて初めて情動が体験されると主張した。情 動体験は、ま ず そ れ を 喚 起 す る 「 事実を 知覚」 し、知 覚 が 「 身体変化」をもたらし、最後に情動が感じられるという三つの段 階を踏むことで達成される。参考までに、ジェームズの情動体験のモデルを図にした ものを下に示す( 図 1)。. 図 1 :ジェームズの情動体験モデル. 事実h f o 覚ト I# 体変イ^. さて、ジェームズは二種類の感情のうち、情 動 ( emotion ) の体験モデルしか扱わ なかった。そこで、先 に 述 べ た 感 情 ( feeling ) と 情 動 ( emotion ) の相違を踏まえて 二つの体験プロセスを図化し、どのような相違点があるのかを考察してみたい( 図 2)。. 21 James , William “. 亡is aiz emotion ? ”p .1 9 0 . ( 訳は筆者による). 23.

(30) 図 2 :情 動 体 験 プ ロ セ ス と 感 情 体 験 プ ロ セ ス の 相 違. 情動体験. 關. —. 身体変化ト闕. まず、情 動と感情では、そ の 発 生 契 機 と な る 「 事 実 」に単複の相違があることに注目 したい。情 動 は 、 「 財産を失う」 「 敵に罵られる」 と 言 っ た よ う に 「 特定の事実」 を知 覚することで発生する。それに対して、感 情 は 「 複 数の事実」の総体において形成さ れる。例 え ば 、あ る 異 性 を 「 好 き 」な感情は、落ち込んでいる自分を励ましてくれた、 つらい経験を一緒に乗り越えた等、自 分 と 相 手 の 間 に 起 こ っ た 幾 つ も の 体 験 の 「 連な り」 の中で形成されるのであり、 「 好 き 」 という感情を生じさせた特定の体験がある わけではないとされる。 感情 は 情 動 と 異 な り 、先ず脳内で感じられるため、感情体験と身体変化の過程が情動 のそれと逆になる。また、感情は表 出 の 衝 動 を 伴 わ ず 、表現するか否かは各人が選択 す る た め 、身体変化は絶対ではないものとして括弧でくくることができる。. ここで、第一章で扱った抑制感情の問題を感情体験のプロセスに照らし合わせて、 今一度考察してみたい。感 情 体 験 は 、 「 身体変化」 と 「 感 情 」 の二つによって形成さ れ る た め 、感 情 体 験 を 心 身 ニ 軸 の 枠 組 み で 図 化 す る こ と を 試 み る ( 図 3)。. 24.

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図 2  :情 動 体 験 プ ロ セ ス と 感 情 体 験 プ ロ セ ス の 相 違 情動体験 關 — 身 体 変 化 ト 闕 まず、情 動と 感 情では 、そ の 発 生 契 機 と な る 「 事 実 」に単複の相違があることに注目  したい。情 動 は 、 「 財産を失う」 「 敵に罵られる」 と 言 っ た よ う に 「 特定の事実」 を知  覚することで発生する。それに対して、感 情 は 「 複数の事実」の総体において形成さ  れる。例 え ば 、あ る 異 性 を 「 好 き 」な感情は
図 3  :感情体験の心身ニ軸のフレーミング 自由 存在 しない 身体 抑 制 # W 抑制 自由 ム ー ブ メ ン ト まず、感 情 体 験 の プ ロ セ ス が 問 題 な く 遂 行 さ れ る と き は 、感 情 も 身 体 変 化 も 「自由」 な状態であるため、グラフの右上に位置する。また、感 情 は 脳 内 で 感 じ ら れ 、その後  に身体変化によって表現されるため、感 情 が 「 抑 制 」されているにもかかわらず身体  変 化 が 「 I 由」に行なえる状態はあり得ない。つ ま

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