• Tidak ada hasil yang ditemukan

samyueru beketto no terebi sakuhin ni okeru hanpukuteki kozo ni kansuru kenkyu

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

Membagikan "samyueru beketto no terebi sakuhin ni okeru hanpukuteki kozo ni kansuru kenkyu"

Copied!
11
0
0

Teks penuh

(1)

2011年度

博士学位請求論文

概要書

題目 サミュエル・ベケットのテレビ作品に

おける反復的構造に関する研究

指導教授 岡室美奈子教授

片岡 昇

(2)

サミュエル・ベケットのテレビ作品における反復的構造に関する研究 概 要 片岡昇 本論はサミュエル・ベケットのテレビ作品における反復的・幾何学的要素および構図 の分析を通じて、作品内の主人公によってなされる自己像の相対化の過程を解明しよ うとする試みである。ベケットの後期作品は一般的にあまり知られておらず、特に本 論で扱うテレビ作品に関しては、ベケットが直接あるいは間接的に制作に関わったも のが主に七十年代から八十年代にかけてイギリスとドイツで放映されただけであり、 その後再放送あるいはまとめて上映される機会もなかった。また、その後長らく一般 公開や市販もされなかったため、ベケット研究者にとっても按する機会が少なく、先 行研究の数もあまり多いとは言いがたい。そのため本論では各テレビ作品の作品分析 を行ったうえで、カメラアイを基点に構成された知覚の構図を洗い出し、すべての作 品に共通する理念を鮮明にするという作業を行っている。 序章ではベケットによる▼−・一連のテレビ作品発表の流れおよび先行研究を簡単に整 理した。先行研究はいずれも独自のアブローーチから後期作品を分析しているが、作中 で多用される反復や規則性、順列組み合わせ、幾何学性といった数学的要素の分析に 関しては必ずしも十分になされていない。また、ベケットが抱いていた数学に対する 関心に着目し、専門的観点から後期作品を分析した論文も存在するが、理論が先行し ている傾向がうかがえる。この点を踏まえ、本論ではより作品構造を構成する反復や 幾何学性に着目したうえで各作品の分析を入念に行った。 論文の構成としては、作風の変遷を僻略しやすくするため全体を六十年代、七十年 代、八十年代の三部にわけ、各年代の作品を時系列に沿って論じた。 第・部 六十年代 第 一草 『芝居』『フイルム』『残り火』『ねえジョウ』

(3)

サミュエル・ベケットのテレビ作品における反復的構造に関する研究 片岡昇 第二章 『クヮッド』『行ったり来たり』『死せる想像力よ想像せよ』 第二部 七十年代 第三章 『幽霊トリオ』 第四章 『……雲のように……』 第三部 八十年代 第五章 『夜と夢』 第六章 『なに どこ』 以上の構成で各作品を分析していくうえで、ベケット自身が規則性や幾何学性、反 復といった作中の数学的諸要素をどのようにとらえていたのかを簡単に確認しておく。 ベケットはいくつかの小論において、ピュタゴラスおよびその一派の有理数に対する 信仰について触れている。ピュタゴラスは、神の御業としての自然現象や、非言語的・ 情緒的要素である音楽はすべて数値化可能であり、ゆえに実体として捕捉可能と考え ていた。このようにすべての事象を数値によって割り切れるものとみなし、不合理な 偶然煙を認めない姿勢は一見すると、ベケットに通じるものがある。だがベケットは、 ピュタゴラス的方法論に従いつつも、その限界を意識し、批判的姿勢をとっていた。 このことからも明らかなように、解明不可能な不合理を内包する自己のあり様を、合 理的視点から問い直し続ける主人公の姿をこそ、ベケットがテレビ作品において描こ うとしていると考えられる。 本論文では、ベケットのテレビ作品における作品構造がこのように徹底した無機性 を指向しつつ、視聴者に対する劇的かつ詩的訴求力を宿しているメカニズムを分析す る。そしてこの分析を踏まえたうえで、そうした構造のなかに見出されるベケット自 身の求道者的姿勢の輪郭を描き出すことが、本研究の最終的な目的である。 1第一一部 六卜年代 ・第 一章 『芝居』から『フイルム』へ ベケットは六十年代、演劇のための『芝居』、そして映画のための『フイルム』と

(4)

サミュエル・ベケットのテレビ作品における反復的構造に関する研究 片岡昇 いう、いずれも各表現媒体を意識した題名の付された作品の準備を交互に、あるいは 並行して進めていた。だがそれだけではなく、いずれの作品も、登場人物が舞台ある いはスクリーンの外部における他者から「見られる」ことを強く意識していることを 示唆する言動が前景化されており、これは『芝居』の撮影後に書かれた初のテレビ作 品『ねえジョウ』においても踏襲されている。これらの作品は、時系列的にも、また 内容的にも強く関連しているにもかかわらず、媒体を異にしているため、視線という 共通項から併せて論じられることがなかった。本章ではこれらの作品において舞台・ スクリーン・テレビといった外枠がいかにして主人公の主体の外延として位置づけら れているかを分析している。 これらの作品における理性の目欄−スポットアイやカメラアイ一一は、それが観 察する主体に属するものであるがゆえに、その客観性のかげに隠蔽された主観性が問 われる。他方、不合理の合理化を志向する理性の目は、主観性を排除し、想像力を制 御する傾向を持つ。ゆえに理性の目は自己言及的に、その正当性を問い続けるのであ る。これは裏返せば、理性の目そのものはア・プリオリに自明性を獲得しているわけ ではなく、その客観性の反復的な問い直しを経る過程を通じてしかその正当性が保証 されないことを意味している。このように主体が自己像を相対化することで自己の客 観視を試みる過程が表現媒体の差異を踏まえて再構成されている点で、これらの作品 は共通している。たとえば演劇は映画と異なり、演技者と空間を共有する観客に見ら れることによって成立する表現媒体である。しかし同時に、演技者と観客が分断され ているという矛盾も抱えている。その境界は鏡として、見る対象に対し注ぐ観客の視 線が内包する主観性を映し出すのである。こうした作品内における個の内的葛藤、お よび作品と観客の関係は、個人が箱を覗き見るパーソナルな媒体としてのテレビへと 継承されるのである。 ・第 ̄二車 『クヮッド』 『芝居』においてその特徴が顕著に示されているように、ベケットの後期戯曲は、 登場人物の自己同一−▲性や対話の十全性が否定され、場面・言葉・動作の順序すなわち

(5)

サミュエル・ベケットのテレビ作品における反復的構造に関する研究 片岡昇 構成自体が前景化される傾向にある。中でも『クヮッド』は、その規則性・幾何学性 が特化された作品である。だが、すべてが制御されているかのようなその規則性にそ ぐわない要素が暗に存在する点についてはこれまで指摘されてこなかった。本章では この作品の元として書かれ、未完のまま放棄された六十年代の作品「J.M.マイム」、 および同年代に書かれた諸作品を参照しながら、それらの作品の規則性および不規則 性が、いかにベケットの生に対する洞察を逆説的に表象しているかを分析する。 ベケットの数学に対する関心は、その機能美というより、むしろ無矛盾であるべき 公理によって図らずも不合理が導かれてしまう、無理数や無限といった値に向けられ ていた。たとえば無理数の存在を認めようとしなかったピュタゴラス教団に対するベ ケットの認識が示すように、表面的な合理性のかげで不合理が無祝されることに対す る批判的視点は、中期から後期にかけての、規則的調和に支配された『クヮッド』な どの作品群と、一見すると相反している。だが、そのように規則性や幾何学的合理性 に依拠しているかに見える作品世界に不規則性を内包させることで、むしろピュタゴ ラス的見解に異を唱えているのである。 ベケットは活動初期から順列組み合わせや幾何学性などに対し関心を寄せていたが、 それが作品構造へと明確に反映されるのは六十年代に入ってからだった。この時期に 書かれた作品からは、順列組み合わせや幾何学的構図を採用することで、合理的に完 結しているかのように見えるやり取りの中に不合理をまざれこませる手法を用いてい る。ベケットは、他者の理解可能性と世界の合理性を本来保証するはずの言語に対し、 根強い不信感を抱いていた。ゆえに創作活動を通じて、その欺瞞の構造を数学的簡潔 さをもって再現することに熱意を注いでいたと考えられる。六十年代に行われた一連 の「実験」の集大成ともいえる、この純粋な幾何学美に彩られた作品にあえて不規則 性を含ませることで、ベケットはその完結した合理性のかげに不合理が隠蔽される構 造を逆説的に暴いているのである。

(6)

サミュエル・ベケットのテレビ作品における反復的構造に関する研究 片岡昇 ■第二部 七十年代 ・第三章 『幽霊トリオ』 六十年代における・一連の試みは、自己像を相対化する構図、あるいは規則性や幾何 学性に彩られた構図という違いによって大別できるが、いずれも客観的視点の限界を 露呈するという点において共通している。七十年代の『幽霊トリオ』において女の声 によってなされる「語り」は、『ねえジョウ』における女の声に類似している。だが、 女の声とは別に知覚される音楽の音量の法則は、この作品の舞台となる閉じた小部屋 に隠された不合理を導き出す。この点において、『幽霊トリオ』は六十年代におけるふ たっの志向を継承し、組み合わせた試みであると言える。 また、主人公が「見る主体」と「見られる客体」に分離している点に関しては『フ イルム』を踏襲している。だが『フイルム』がそうであったように、この作品におい てもそれらの分離は破綻していると言える。主体が対象を知覚する過程で生じる本質 的矛盾、すなわち主客二元論が内包する境界の暖昧さがここでは問われている。その 暖昧さは、自己像を相対化する視線というかたちで作品に組み込まれている。それに よって、主体が対象を知覚するとき、自らの外延である対象から逆に知覚される構造 が提示される。したがってこの原理が主人公の自意識の次元のみならず作品と視聴者 の関係においても働いているという点において、この作品は複数の知覚の枠組みが入 れ子をなしていると言える。この作品に当初つけられていた仮題「逢引」の相手であ る他者とは、そのような入れ子の外側に存在する視聴者をも意味しているのである。 ・第四章 『‥‥‥雲のように……』 ベケットのテレビ作品が一見すると無駄のそぎ落とされた簡素な構成であるよう に見えるのは、無駄を嫌う彼の志向からだけではなく、撮影技術に対する配慮による ところも大きい。事実、撮影が困難であることから当初の計画が変更された『フイル ム』を踏まえて書かれた『ねえジョウ』においては、閉じた部屋が舞台であることも あり、カット構成は極度に簡素化されている。だが、撮影技術に対する配慮と着想の 反映は両立しづらい。その点、数年の空白期間を経て書かれた『幽霊トリオ』は比較

(7)

サミュエル・ベケットのテレビ作品における反復的構造に関する研究 片岡昇 的複雑なカット構成と反復によって構成されているという意味において多弁であった と言えるが、視聴者にとっては作品の知覚構造が複雑化し過ぎた点は否めない。それ を踏まえ、『……雲のように……』(以下『雲』)においては、再び簡素化の方向へと向 かうことになる。 ベケットのテレビ作品は先人の作品から想を得て創作されたものが多いが、それ らは単に先人に対し敬意を表するためだけに用いられているのではない。先人の作品 に含まれる自己との類似点に着目し、自らの思索の中心に至るために、幾何学的構成 に収赦させる独自の手法に基づいて援用しているのである。登場人物の言葉や動きが もつ無駄を極力省いていくその手法は、結果としてその構成要素を一見すると無機質 な反復へと極小化しているように思える。だが、このような過程を経て残された必要 最小限の言葉や動きには、引用元の作品の志を汲んだ研ぎ澄まされた意図が内在して いる。『雲』に関してもそれは同様であり、登場人物の機械的な反復動作によって構 成されているこの作品の題名と台詞の一部は、W.B.イェイツによる詩「塔」から借 りられている。無駄の省かれた機械的反復によって構成される『雲』の内容からは、 イェイツの詩が台詞に引用されているという事実以外の何がその世界観に継承されて いるのかを窺い知ることが容易ではない。ゆえに、ベケット作品全般において数学的 要素や幾何学性、機械的反復のもつ比重が大きいことは度々指摘されているにもかか わらず、この作品における構造を通じてその精神性を分析する研究が本格的になされ たことがない点は否めない。だが『雲』における一見すると無機的に見える反復行為 には、作家としての生に対するベケット本人の姿勢が大きく反映されているのである。 作中における主体の自意識が消尽の一一点(作中では「真夜中」と表現される)に限 りなく近接することによって、作中の反復行為が潜在的に内包する動性が逆説的に明 らかになる。その潜在性は、死を見据えながらも、今この場において生を問い直し続 けようとする意志ととらえられる。そしてその意志の根幹には、この作品を創作する うえでベケットが想を得たイェイツの「塔」における、老境に到りながらもその苦境 に甘んじず魂を鍛え続けようとするその語り手の意志に対する、深い共鳴が存在する のだ。

(8)

サミュエル・ベケットのテレビ作品における反復的構造に関する研究 片岡昇 {第三部 八十年代 ・第五章 『夜と夢』一一「見えない顔」を見ること 『夜と夢』はベケットの後期短編戯曲群の中でもとりわけ短いものであり、上映時 間は十分に満たない。主人公は一人の男である。小部屋の中で項垂れる彼がシューベ ルトの「夜と夢」の一部を歌い、眠りに落ちると、彼の夢が吹き出しのように、その 頭Lに現れる。夢の中でも彼は項垂れているが、現実とは異なり、彼の頭上より何者 かの手が現れ、顔を拭う布や、Hを潤す杯を彼に差し伸べる。登場人物の孤独を癒す かのようなこうした小道具や、登場人物によって歌われる「夜と夢」それ自体の情緒 と相まって、他のテレビ作品、特にこれまで論じてきた七十年代における二作品一輝 『幽霊トリオ』と『雲』一一一と比較して、一見するとより豊かな叙情性をたたえてい る印象を受けるのが特徴である。 もっとも他の後期作品には見受けられないその叙情性ゆえに、作品自体の構造分析 がこれまであまりなされていない点は否めない。また、ベケットは作品内の夢の中で 差し伸べられる布が、ゴルゴタの丘へ向かうイエスの顔を拭う聖女ヴェロニカのベー ルに材を得た点を認めていた。さらに夢の中の杯はエウカリストのそれを連想させ、 かつ頭上より差し伸べられる慰めの手も宗教画において頻繁に用いられる題材である。 ゆえにこの作品が論じられる際は、そうした宗教的題材と絵画、およびシューベルト の歌曲との関連を中心に、これまでの作品における極小化への志向とは一線を画すそ の叙情性について論じられることが多かった。だがこの作品に登場する手、そしてそ の手を差し伸べる者を見ようとする主人公の関係を、叙情件という文脈においてのみ 語ると、作品の価値が限定されかねない。本章では、上方から差し伸べられた手の主 である「見えない顔」を見ようとする主人公の行為が、老いてなお創作を続けようと するベケットの姿勢全般に通底する重要な題材であるということを明らかにする。 『夜と夢』では、老人が「夜と夢」の歌曲を歌い夢を見ることによって孤独を癒す という感傷的な見方には収まらない駆け引きが行われている。また構造面においては、 テクストとテレビ放映版の比較から示されるように、反復可能性および終焉への到達

(9)

サミュエル・ベケットのテレビ作品における反復的構造に関する研究 片岡昇 不可能性の有無を判断することの困難な曖昧さが意図的に生成されている。ゆえにこ れらの複雑さは逆説的に、ベケットが宗教的題材やシューベルトの歌曲から材を得な がらも、自意識に対する自問という−【一貫した主題に即す限りにおいてのみ活用すると いう定例に、この作品もまた適合することを示唆している。それを顕著に示している のが、作中における「見えない顔」の位置づけである。 従来同〉一一視されがちである夢の中に登場する手と「見えない顔」は別個の存在であ り、「見えない顔」はベケット自身が認めた聖女ヴェロニカの逸話に倣えば、むしろ 主人公自身の顔ととらえるべきである。イエスの額を拭ったベールにイエスの顔を写 し取った伝説を残すこの聖女は、「真の偶像」を意味するその名にしたがい、イエス から「真の偶像」を分離することで彼の奇跡を再現した。鏡に映る顔を見ることによ って主客の境界が崩れる『幽霊トリオ』を書いたベケットが、同じテレビ作品を書く 際、この逸話における聖なる顔の位置づけに着目しなかったとは考えられない。事実、 この作品の夢における手は聖女と同様、主人公の「真の偶像」である自己同一一性を「見 えない顔」として分離し、間接的にその恩恵を当人に還元する存在だからである。ゆ えにこの作品で描かれている夢は甘い夢なのではなく、むしろ自己完結性という楽園 から追放され不完全性という原罪を背負った彼の立場を相対化した苦い夢なのである。 こうしたモチーフは、ベケット自身もまたその創作活動において自らが自己充足に陥 っていないかを、常に厳しく監視していたことと関連している。なぜなら晩年におい てなお、人のあるべき姿を模索し続けていた彼の求道者的な固い信念が、夢という題 材を適してここに示されているからである。 ・第六章 『なに どこ』】一終わりなき流離 『なに どこ』は、登場人物が暗闇から現れては簡単なやり取りを繰り返し消えて いく短編戯曲である。本論はこの作品における登場人物の反復的なやり取りを分析し、 その構造が循環を繰り返す円環、および、終焉に向けてやり取りが収束する螺旋とい う二通りの可能性を指向している点を明らかにする。さらに、全体の構造が両可能性 のいずれにも確定し得ない点を確認したうえで、このような不確定性が作者によって

(10)

サミュエル・ベケットのテレビ作品における反復的構造に関する研究 片岡昇 意図的にもたらされた経緯を検証する。『なに どこ』はこれまで、政治的意見表明か、 あるいはベケットの最後の戯曲であるという事実から、老いを重ねた彼の追憶が反映 された叙情的な作品とみなされてきた。だが本章における分析により、それらの見解 にはそぐわない創作上の戦略が敷かれていることがわかる。そこから導き出せるのは、 理性的主体であらんとした結果、自意識の限界に直面するひとりの作家像である。す なわち、隠された情報の追究を目的に想像の産物としての「他者」を虐げる者、そし てそれを想起し相対化する主体はいずれも、作者の創作過程における葛藤を反映した 彼の分身であると言える。だが、同じやり取りが循環するのか、あるいは最終的に作 者の分身だけを残し終焉するのかも不明なまま進行し続けるその構造は逆説的に、自 らの生み出さざるを得ない「失敗」を常に問い直し、自己を相対化し続ける作者の潜 在的な推進力を浮き彫りにする。その力は彼を苦しめると同時に、ベケットの愛した 『冬の旅』の主人公のように、その力を見極め「よりうまく失敗する」ため進み続け る彼の意思を支えてもいるのである。 ベケットのテレビ作品におけるカメラアイは、機械であるカメラに同化した、登場 人物の客観的視点として措定されている。だがカメラアイを介して相対化された登場 人物の自己像は、「見られる客体」ではなく、むしろ「見る主体」の理性に鏡として働 きかけ、その客観的視点が隠蔽する主観性を暴きだす役割を果たす。このような主客 の関係は、テレビの画面を介して対象に一方的視線を投じる視聴者と作品の関係に符 合する。だが、そのとき我々が眺めている対象は、テレビ画面に投影された自らの主 観なのである。このとき、テレビ画面によって分断された主客の関係は崩れ、我々は 登場人物にとって「見られる客体」と化す。作中の入れ子構造はこのようにして、テ レビという箱の外部に疎外された他者である我々の視点に接合されるのだ。 このようにテレビ作品における反復的構造の分析を通じて、本論文はその構造が、 作者の創作活動や創作への姿勢と密接に関連している点を明らかにしてきた。かつて 「もっとうまく失敗しろ」と草稿に記したように、ベケットの創作活動には生産性以 卜に、常に挫折感が伴っていた。自己充足に陥らず、かつ理性的主体であろうとする

(11)

サミュエル・ベケットのテレビ作品における反復的構造に関する研究 片岡昇 以上、自らに対する際限のない問い直しは不可避である。だが他方で、その間い直し の反復を一一種のメカニズムとしてとらえ、これら後期テレビ作品の構造形成に活用し ている。その点において、これらの作品は特異なのだ。そしてその反復的構造には、 徹底して理性的であろうとしたベケットの強かさだけでなく、挫折を経てなお自らの 創作に対し常に真筆であり続けたその誠実さもまた如実に反映されているのである。

Referensi

Dokumen terkait

bahwa untuk menyikapi perkembangan dinamika kondisi faktual di tingkat Desa dalam rangka menjamin hak masyarakat untuk memperoleh kesempatan yang sama

Penduduk asli yang berprofesi sebagai petani kecil tidak terlalu tertarik untuk memperluas lahan seperti yang dilakukan oleh petani pendatang yang saat ini menjadi petani besar

Kata kunci pada soal di atas adalah tanda koma yang terletak disebelah Noun „Taj Mahal‟ sesuai dengan rumusnya maka jawaban yang tepat adalah appositive, yang berfungsi

Dalam jangka panjang Program KKN – PPM ini adalah peningkatan keberdayaan masyarakat melalui peningkatan pendapatan masyarakat khususnya kelompok

(1) Setelah memiliki Izin Usaha rumah potong hewan yang berlaku efektif sebagaimana dimaksud dalam Pasal 156 ayat (9), Pelaku Usaha dalam melaksanakan kegiatan

Oleh karena itu pada perencanaan pelaksanaan program/kegiatan tahun 2019, perlu dilakukan mendasar terhadap program-program yang akan dilaksanakan dan substansi

Pola Perubahan Volume Lalu Lintas Kecamatan Cimenyan, Cilengkrang dan Lembang Alternatif solusi terhadap dampak lalu lintas yang timbul dari pembangunan perumahan di Kawasan