• Tidak ada hasil yang ditemukan

Ryosho bunko zo "Jokyu monogatari" kaidai honkoku

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

Membagikan "Ryosho bunko zo "Jokyu monogatari" kaidai honkoku"

Copied!
18
0
0

Teks penuh

(1)Title Sub Title Author Publisher Publication year Jtitle Abstract Notes Genre URL. Powered by TCPDF (www.tcpdf.org). 凌霄文庫蔵『承久物語』解題・翻刻 德竹, 由明(Tokutake, Yoshiaki) 慶應義塾大学国文学研究室 2000 三田國文 No.32 (2000. 9) ,p.58- 74. Departmental Bulletin Paper http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koar a_id=AN00296083-20000900-0058.

(2) 料 紙 ・緒 紙 。 行 数 ・半 丁 十 行. 墨 付 丁 数 ・四 十 二 丁 。. 德 竹 由 明. (一行 二十 四 字 内 外 )。. 内 題 ・ 一丁 表 一行 目 、 二丁 表 一行 目 に ﹁承 久 物 語 ﹂。. 久物 語 ﹂ と墨書 。. 凌霄文庫蔵﹃承久物語﹄解題・翻刻. 解題 こ こ に紹 介 す る 四 国 大 学 附 属 図 書 館 凌 雷 文 庫 蔵 ﹃承 久 物 語 ﹄ は 、 ﹃国 書 総 目 録 ﹄ に よ る と 軍 記 物 語 ﹃承 久 記 ﹄ の 一系 統 で あ る. 奥 書 ・( 翻 刻 参 照 )。. ﹁承 久 兵 乱 記 ﹂ に分 類 さ れ て い る が 、 ﹁承 久 兵 乱 記 ﹂と は 全 く 関 わ り が な く 、 冒 頭 部 分 は 改 変 さ れ て い る も の の、 近 世 前 期 成 立. 印 記 ・ 一丁 表 右 下 に ﹁佐 和 蔵 書 ﹂ の 朱 印 。. そ の他 ・表 紙 に 四 国 大 学 附 属 図 書 館 凌 雪 文 庫 の 蔵 書 票 二枚. で浅 井 了 意 著 と さ れ る ﹃北 条 九 代 記 ﹄ 巻 五 巻 六 の 承 久 の 変 関 連. 平 成 十 三 年 一月 刊. の記 事 を 、 そ の ま ま 抜 き出 し た も の の よ う で あ る。 本 書 の特 徴. 貼 付 。 本 文 に朱 に て、 傍 注 、 振 り 仮 名 、 誤 字 脱 字 の補 記 等. ( 四国大 学発 行. 等、詳 細 は ﹃ 凌 害﹄ 第 八号. 書 き入 れあ り. 所 蔵 ・四 国 大 学 附 属 図 書 館 凌 害 文 庫 。. 入 れ た も の カ)。. ( 野 口年 長 が ﹃ 北 条九 代記﹄ と対 校 し て書 き. 行 予 定 ) で 述 べる こ と と し て 、 以 下 に簡 単 に書 誌 を 記 す 。. 形 態 ・袋 綴 、 写 本 、 一冊 。. 字 の ﹁連 ( と て )﹂等 、 一部 仮 名 に 改 め た も の も あ る 。 ま た 私 に. る よ う 努 め た が 、 旧 字 体 ・異 体 字 は 概 ね 現 行 の字 体 に 改 め 、 国. 翻 刻 に際 し 、 本 文 は 書 き 入 れ も 含 め 底 本 に な る べく 忠 実 に な. 写 年 、 筆 写 者 ・[ 天 保 十 一 (一八 四 〇 )年 十 二 月 二十 日 、 野. 句 読 点 を 記 し 、 改 行 を 行 った 。 底 本 に 丁 付 け は 記 さ れ て いな い. 函 架 番 号 ・凌 雷 文 庫 一二 四 四 八 五 。. 口年 長 写 ]。. ( 天 保 十 一年 十 二. 月 二十 日 、 野 口年 長 写 と す る 。)を 有 す る 伝 本 が あ る が 、 両 伝 本. な お 、 香 川 県 の多 和 文 庫 に も 、 同 一の 奥 書. が 、 (一表 ) の如 く 略 記 し た 。. ( 縦 十 六 ・四 糎 、 横 三 ・三 糎 ) に ﹁承. [ 原 装 力]。. 寸 法 ・縦 二 十 八 ・五 糎 、 横 十 六 ・八 糎 。 表 紙 ・紺 色 表 紙. 外 題 ・表 紙 左 上 、 題 答. 一58一.

(3) 井 平九 郎胤義 参 仙洞事. 座 て、平清盛 に高 官 を授 け て三十余 州を 押領 せさ せ しかば 、清. みな摂 政を 以 て朝 政 を委 せ給 へり。 然 る に後 白河帝 叡慮 浅 く御. 間 の先 後 関 係 等 に つ い て は 未 考 。. 付記. ﹁本朝 の古神 代 より以来 人 倫 に伝 りて、 世 々の帝御 位 に立 給 ふ 資 料 の翻刻 ・掲載 をご許 可 いただ いた 四国大 学附 属 図書 館 、 並. 盛 四海 の権 柄を取 て叡慮 を 苦 しめ奉 る。 事法 に過 た り。是 にも. 院 とも申。 土御 門院 を は新 院 とそ申 け る。是 に因 て本 院新 院 の. は當 腹御寵 愛 の故 とそ聞 へし。 後鳥 羽院 を は 一院 共申 、 又は本. 奉り て、第 ニ ノ皇 子 順徳院 を 以 て御 位 にぞ 即 ケ奉 ら せ給 ふ。 是. 在位十 二年 の後、 何 の子細 も御 座 まさ ゴり ける に御位 を おろ し. 憤 リ、御 位 を第 一ノ皇 子土 御門 院 に譲 て隠居 さ せ給 ひ、此 君御. 天下 の権 を 取り て王威 を蔑 に思 奉 り、禁 中 の政 道 の衰 へ行 事 を. 倉 を滅 さ んと思 召立給 ふ。 往初 上皇 御在 位 の御 時 よ り武 臣 既 に. 慮 に背 く事 多し。 比 は承久 三﹂ ・年 四月 の比 より後 鳥 羽上 皇鎌. 家 盛 に成、 政道雅 意 に (二表) 任 する事 今 に至 て少 からず 。叡. 取り て此政 道を行 ふに、多 く は京都 の叡 慮を う かが はる。 北條. 懲 給 はす、 源頼朝 に六十余 州 の惣追 補使 を給 はり て、 武家 世 を. び に凌 害文庫 等委員 会 に厚く 御礼申 し 上げ ます。. 翻刻. 附 }院御 謀叛 之根 元. 承久物 語巻 目録 北 面西 面之始 附 西園寺 右大将 父 子被召 籠事. 井平 九郎判 官胤 義参 仙洞事 徳 大寺殿諌 言 伊 賀判官 光季 討死 之事 附推松 使節 附 御所焼 之太 刀 之事. 御中快 からず。 天下 国家 の政道 は當 今新 院 には任 (二裏 ) せ給. 院宣 大炊渡 軍 附北陸 道軍 勢責 登事. 附 関東勢 手賦 之事 (一表). 井 二位禅 尼評定 之事 株瀬川 軍. 附 土護覚 心謀 略之 事. 和歌管 弦 の御暇 には国家 の政 理を聞 し め ・其 間 には専 ラ武 藝 を. ずし て、 一向本院 の御 計 ら ひ也 。然 るに本院 は仙 洞 に籠給 ひ、. 蒲原殺 所謀 宇治川 軍敗北. 面 と云物 を置 れた り。今 又本 院武藝 を 好ま せ給 ひ て武 士多 く参. 召集 ら る。 往昔 白河 院 の御 時 に始 て北 面 の侍 を召 仕 はれ、 又 西. 事 とし給 ひ、院中 北 面 の者 の外 に西面 の侍 を置 て諸 国 の武 士 を. 附鏡 月坊 歌 附土御 門院 配流 之事. 井実 害死刑 之事. 京 方武 将没落 本院新院 御遷 幸. 子息 太郎 をは十 五 に成迄 元服 せ させず 。宿 願 の事 有 て子息 を 召. 覚 へた る。信 濃国住 人仁 科 二郎平 盛遠 と て弓馬 を嗜 む者 あ り。. り仕 ふ。 是偏 に関東 を亡 さ はや と思召 さ る ﹀御企 の御 用意 とそ. 附能登 守秀 康被 諌事. 附 一院 御 謀叛根 元. 附禁 裏大 嘗會 之事 (一裏). 後嵯峨 新帝践 詐 鎌倉 天変 地妖 北 面西面之 始. 承久物 語. 一59一.

(4) 殿 に思 は れ 進 ら せ て 若 者 一人 設 奉 リ し を 、 右 京 大 夫 義 時 に 故 な. に 成 て 云 け る 様 、 義 時 が 事 は 内 々院 中 の御 気 色 も よ か ら ぬ 者 に. 連 、熊 野 へ参 籠 い た し け り 。其 折 節 一院 も 熊 野 へ詣 で さ せ 給 ( 三. て候。 如何. て 候 と そ 申 け る 。 秀 康 聞 て 究 寛 の事 成 と 思 ひ て 、 近 く 立 寄 小 声. れ て 京 都 に伺 公 申 事 は 面 目 也 と思 ひ て 、 父 盛 遠 も 同 し く 仙 洞 に. ふ べ き と 申 け れ ば 、 胤 義 聞 て、 一天 の君 の 思 召 立 せ 給 は ん に、. く 失 は れ 、 余 り に泣 歎 き候 が 見 捨 か た く て 、 久 敷 逗 留 仕 る 事 に. 伺 公 い た す 。 右 京 権 大 夫 義 時 此 事 を 伝 へ承 り て、 関 東 御 恩 の 侍. と申 す。. 其免 さ れもな く て、院 中 の奉公頗 心得ず と て、関東 御恩 の二 ヶ. 何 条 叶 は ぬ 様 の 侍 は ん 。 日 本 国 重 代 の侍 共 勅 を 承 ら ん に は 誰 か. 表 ) ひ し が 道 に て参 合 奉 る 。 誰 ぞ と 御 尋 有 。 し か く. 所 を 没 収 せ ら る 。 仁 科 盛 遠 深 く 歎 き 申 間 、 返 し 遣 す へき 由 院 宣. に て 候 。是 を 招 キて 日 本 国 の 惣 追 補 使 に被 レ 成 と 仰 候 は 、喜 ひ て. 背 き 奉 る へき や 。 某 が 兄 に て候 三 浦 駿 河 守 義 村 は 極 て鳴 呼 の者. 最 清 げ な る 童 な れば 召 仕 は れ ん と て西 面 に そ 成 け る 。 子 共 の 召. を 被 下 と い へと も 、 義 時 更 に用 ひ 奉 ら す 。 又 其 比 摂 津 国 長 江 倉. 秘 計 を 廻 ら し 給 へと 申 け れ ば 、 近 比 神 妙 の 仰 か な 。 此 趣 能 々 奏. 御 味 方 に参 り 候 は ん 。 胤 義 も 内 護 よ り 申 遣 は し 侍 ふ へし 。 早 く. (四 裏 ) にも し て義 時 を 討 せ 給 ふ べき 御 計 ら ひ や 侍. 橋 の 両 庄 は 、 院 中 に近 く 召 仕 は る ︾白 拍 子 亀 菊 に 下 さ れ し を 、 其 地 頭 更 に開 渡 さず 。 亀 菊 深 く 憤 り て 歎 き け る を 、 一院 よ り 関. 聞 を 遂 、 貴 殿 に お いて は御 本 意 達 せ ら れ 抜 群 の 勲 賞 を 給 は ら ん. 所 に帰 り て胤義 が申 け る趣 を ( 五表)奏 聞 す。 一院御 感 ま しく. ( 三 裏 ) 付 ら れ 改 易 す へき 由 御 沙 汰 有 。 義 時 申 け る は 、. て、鳥 羽 の城 南寺 の流 鏑馬挑 に事 を よ せ て近 国 の武 士 を 召 さ. 東 へ仰. 頭 御 家 人 等 或 は 親 を 討 せ 或 は 子 を 討 せ家 ノ 子郎 等 を 損 せ ら れ 、. る ﹀に、 五畿内 は申 に及ず 、丹 波丹後 紀 伊但馬 伊賀 伊勢 美 濃尾. 地 頭 職 の事 は 上 古 は 無 り し を 、 故 右 大 将 家 平 氏 追 討 の勧 賞 に 日. 既 に 忠 戦 の勲 功 に随 て分 ち 給 り た る 領 地 を 、 さ せ る 罪 科 だ に な. 張 江州 十 四 ヶ国 の兵 共我 もく. ず る そ や 。 穴 賢 、 先 ッ深 く 隠 密 し 給 へと て 、 秀 康 は 嘉 陽 門 の御. から ん に は 、 義 時 が 計 ら ひ と し て 改 易 す べ き様 な し と て 是 も 用. 本 国 の惣 追 補 使 に補 せ ら れ 、 平 家 追 討 六 力年 の間 に 、 国 々 の 地. ひ奉 ら ず 。 一院 愈 安 か ら す 思 召 け れ は、 関 東 を 亡 さ る へき 御 心. 付 け る に、 宗 徒 の兵 一千 七 百 余 騎 と そ 記 し け る 。 一院 御 謀 反 の. 司 盛 綱 を も 潜 に 召 れ て仙 洞 に 参 り た り。 三 浦 平 九 郎 判. 門 院を は中 院 と申。 順徳院 を は新院 とそ申 け る。 一院 と ・御心. 親 王 とそ申 け る。此 時後鳥 羽院 をば 一院 又 は本 院 と申 す。 土御. 御 内意 ま しく. け り。同 月 に御 位を 四歳 の宮 に譲 り給 ふ。 懐成. 官 胤 義 在 京 し て 居 た り け る を 、 西 面 の侍 能 登 守 藤 原 秀 康 を 御 使. と馳集 る。内蔵 権頭 清範 着 到を. に定 め ら れ 、国 々 の 軍 兵 を ぞ 内 々 に召 れ け る。関 東 に志 深 き も 、. 事 御 色 に出 給 へは 、 新 院 は 此 事 御 無 用 之 由 諌 め 申 さ る。 主 上 は. と し て 仰 ら れ 遣 は さ る ︾様 、 関 東 奉 公 の 身 に て 久 敷 在 京 す る を. を 一ツ にし て義 時追 討 の事 を相 計 らは せ給 ふ ( 五裏 ) よ り外 に. ( 四表 ). 力 及 は す 召 に随 ひ て 伺 公 す る も 多 か り け る 。 関 東 の 武 士 下 総 前. は 所 存 も 有 に や 。 子 細 を 申 へき と 也 。 胤 義 申 け る は 、 別 義 有 身. 附 西園寺 右大 将 父子被 召籠事. 又他事 な し。 徳大 寺殿 諌言. に て も 候 は ず 。 當 時 胤 義 が 相 具 し て候 女 房 は 、 故 右 大 将 家 の 御 時 に 意 法 坊 生 観 と て 隠 な き 功 者 也 し が 其 娘 に て候 。 故 左 衛 門 督. ・1.

(5) せ ては亡 さ ・ず し て、壱岐 判官知 康 が勧 に付 せ給 ひて、院 中 に. ず。 其故 は、故 法皇 の御時 木曽義 仲勅 命を 背 れしを 、頼朝 に仰. 給 へかし。大形 此度 思召立 給 ふ御 事 は、然 る べし とも覚 へ侍 は. せ る弓矢 取者 に (六表 ) ても侍 はず。 子細 有 らは静 に計 ら はせ. 思召 立給 ふ事軽 く、 若又討 洩 さば 御大 事重 か る べし 。彼 人 はさ. 道家 公 の舅也。 義時 に付 ても親敷 人 に て侍 へは、討 負 せ給 は ゴ. 臣申 されけ るは、西 園寺右 大将 は関東 将軍 家 の外祖 と して摂 政. の諸 卿色 を失 ひ、互 に顔 を見合 せ て物 申人 も なし。徳 大寺 左 大. 関東 に親 敷御座 し ます故 に、先此 父 子を討 べしと企給 ふ。 當座. と そ仰出 れけ る。西 園寺右 大将藤 原公 経同 子息中 納言 実氏 卿 は. 一院愈 御 心猛く 成 せ給 ひ、 公卿殿 上人 を召 て巴 の大将 を討 ぼ や. へた り け れ ば 、 家 ノ 子 郎 従 一所 に集 り 軍 の 評 定 し け る 処 に、 塩. と て 、 夜 の明 る を 待 掛 た り 。 伊 (七 裏 ) 賀 判 官 が 許 へも 此 由 聞. 三 年 五 月 十 四 日 、 今 日 は 既 に 暮 に 及 ぶ。 明 日 卯 ノ刻 に 向 ふ べし. 門 尉 時 連 を 始 め と し て、 八 百 余 騎 を ぞ 遣 は さ れ け る 。 比 は 承 久. 有 則下総 前司 盛綱肥 後前 司有 俊筑後 大院 左衛 門尉 有 長間 野左 衛. 大 江少輔 入道 親廣佐 々木 山城 守廣綱 同弥 太郎 判官 高重 筑 後 入道. さ ら は 伊 賀 判 官 光 季 を 討 へし と て、 能 登 守 秀 康 平 九 郎 判 官 胤 義. 勅 を 承 り 、 遁 る ﹀処 な く し て 起 請 文 を 出 て 御 味 方 と 成 に け り 。. そ 申 返 し け る 。 佐 々 木 大 江 は 疾 参 り て 、 一院 の御 前 に し て直 の. べ き 身 に て候 ・は、 子 細 を も 承 ら ず し て 率 爾 に は 参 り 候 ま じ と. ん 申 沙 汰 の候 。 某 関 東 の御 代 官 と し て、 一方 の防 ぎ に も 罷 向 ふ. べき由御 使有 ければ 、光季 御返 事申 様、 京. 屋 藤 三 郎 申 け る は、 御 身 に誤 な く し て 大 勢 に取 ・ら れ 暗 々 と 討. ( 七表 )中 何 とや ら. 兵 を召 れ合戦侍 ひしかば、 浅猿 き事 共出来 し て候。 東国 には武 士多 く候 。御味 方 の兵 は千 が 一にも 及が たく候 。御 本意 を遂 ら. レ 給 は ん は、 甲 斐 な き 狗 死 に て 候 。 只 夜 の 内 に都 を 出 て 、 美 濃. 尾 張 迄 は 馳 せ 落 給 は ん 。 然 ら ず は 、 北 陸 道 へか ︾ ら せ 給 ひ て 、. れ ん事 は、定 て希 に侍 ・ん。能 々御 思惟有 べき にて候 と申 され け れ は、 一院 以 ての外 に御 気色損 し て、後 ロの障 子を荒 ら ﹀か. へか し と そ 申 け る。 判 官 聞 て 、 鎌 倉 殿 も 思 召 様 の有 て 社 、 都 の. 守 護 に も 差 置 せ 給 ひ つら め 。 一天 ノ君 日 本 一の御 大 事 を 思 召 立. 御 船 に 召 て越 後 の府 中 に 着 給 ひ、 信 濃 路 に か ﹄り て 鎌 倉 に 入 給. 西園 寺右 大将 は此事 夢 にも知給 はず 。仙洞 よ り の召 により て父. せ 給 ふ 程 に て は 、仮 初 の 御 計 ら ひ に て や 有 へき 。今 は 定 め て道 々. に開 さ せ給 ひて入 らせら れた りけれ は、後 には思召 合 せら れん. 子共 に出 立 て、嘉陽 門 の御 所 に参 ら れけ る所 に、小 舅 二位 の法. せ て 笑 は れ、 鎌 倉 へも 聞 へて 臆 病. 関 々 も 塞 が れ て ぞ有 る ら ん 。 と て も 遁 れ ぬ 物 故 に、 敵 に後 を 見. 物 をと つぶや きな から、徳 大寺 殿 は退出 ( 六裏 ) し給 ひけ り。. 印尊 長出向 て、 父 子共な がら馬 場殿 に押籠 進 らせ けり。 是 は如. (八 表 ) な り と 思 は れ ん は 、. 何 にと宣 へ共、 本院 の仰也 とて 一言 の子細 にも及 さり けり。 伊 賀 判官 光 季佐 々木 左 衛 門尉 廣 綱 大 江廣 親 入 道等 を召 れけ る. られ よ。光 季少 しも恨 なし と、中 々思 ひ切た る有様 也 。 深行盤. 足 も 引 へか ら す 。 只 討 死 と 思 ひ 定 め た り 。 誰 々 も 落 べき 人 は落. 王 城 に 屍 さ ら し 、 名 を 万 世 に 留 め ん 事 は 、 勇 士 の願 ふ 処 也 。 一. 死 後 迄 も 恥 か し か ら ん 。 一天 の 君 を 敵 に受 、 我 身 に 誤 な く し て. に、光季 は北條 義時 が妻 の弟也 。近 き縁者 な れば、 此 事を聞 よ. 伊 賀判官 光季 討 死之事. りし て関東 に飛脚 を遣 し、軍 の用意 を致 しけ る所 に、急 ぎ参 る. 一61一.

(6) に郎従共 次第 く. 小門 を開 きた りけ るを、 寄手押 寄 て我劣 ら しと込 入 り ければ 、. ば 、是 に責 口を 癖易 し て引 退く 。京極 面 は平 門 にて、 扉 閉堅 め. 志 賀 五郎 岩 崎 右馬 允 同 弥平 太 高 井 兵 衛大 夫 矢庭 に射 ら れ し か. に落失 て、残 る輩 には、蟄 田 三郎同 四郎同 右. 近 武志次 郎塩 屋藤 三郎片 切源 太同大 助同 又太 郎園 平次郎 同 子息. 判 官 が郎従 共防 く とはす れど も、流 石大 勢 に責立 ら れ、 痛手薄. 弥 次郎 政所 太郎治 部次 郎熊 王丸を 始 めて、僅 に二十七 人也。 判 官 の嫡 子寿 王冠者 は今年 十 四歳、 元服 し て光 綱 とそ号 し ける。. 勝岡 を作 り て引 返 す。昨 日迄 は鎌倉 殿 の御代 官 とし て伊 賀判 官. 判官 父子 は今 は是迄 と て腹掻切 て、 焔 の中 に飛入 た り。 寄手 は. 光季都 を 守護 し て有 し かば、 世 の覚 、時 の鈷 、肩 を 並 る人 もな. 手 負 ぬ者 はな し。皆 討死 しけ れば、 寄手 前後 より 火 を懸 た り。. へを思 ひ知程 にて奉公 にも出 べし。某 は鎌倉 殿御 為 に討死 す へ. く目 出 度 栄 し に、 一朝 に滅 亡 し て忠 義 の道 を 顕 し け る志 こそ. 判 官是 を前 に呼 て、汝 は未だ 幼稚也 。夜 の内 に落 て関東 に下り、. しと 云けれ は、寿 王冠者 は袖 かき合 せて、 弓矢取 人 の子共 の十. 世の ( 八裏) 静 なら ん迄 は千 葉 の姉が許 に居 て、 人 の重代我 古. 四十 五に成 て敵向 ふと聞 な がら、親 の討 れ んず る所 にて諸 共 に. ゆ ﹀し (一〇表 ) けれ。 井 二位禅 尼評定 事. 付 推松 使節. 一院 は御感 斜 ならず 、関 東 は早御手 に入た る様 に思 召、 猶 も人. 院宣. 死 なず落 て助 り候 は、幼 稚 なれ はと てよも人 は許 し候 は ん。 親 を 捨 て逃 た る臆病 の不覚 人 とて、 人 に面を見 ら れん は恥 か敷 覚 候 。 只御 供申 て如何 にも成候 べし。今度 鎌倉 を上 り侍 ひ し時 、. 数を 召給 ふ に、 山 々寺 々 の僧侶 法師 原、 国 々所 々 の武 士 住 人等. 御 母御前 簾 の際迄 立出給 ひて、寿 王又 い つ比 か と仰 られ しを、 御 供 にて頓 て下 り候 はんと申 候 ひき。今 思 ひ候 へは最 後 の御 暇. 召 に応し て馳参 る。 熊野 よ り田邊 法印十 万法 橋万 劫禅 師 、山 法. 国 の院 宣 一通 を書 れた (一〇裏 ) り。鎌 倉 の北条 右京 権 大夫 平. む悪 僧等 少 々応 し て参 り集 る。按 察前中 納 言光親 卿 承 り て、東. 奈良 法師 には土護覚 心、 堂衆 に園音 坊、 是等 を初 とし て事 を好. 師 には播 磨竪者 小鷹 ノ智性 房丹 後、清水 法師 に は鏡 月 房帰 住 房、. とそ落 しけ り。 父判官 は寿 王が. と守 り、涙 を押 拭 ひて申 け るは、器 量 も. 乞 と 成 て 候 と て、 涙 を は ら く ( 九 表 ) 顔 を つく く. 思 ふ故 也 。 申 処 は 理 り 有 。 さ ら は 諸 友 に 討 死 せ よ 。 如 何 に 治 部. 世 に清 げ な り 。 心 も 別 に有 け り 。 落 よ と 云 は 世 に も あ れ か し と. 次 郎 、寿 王 に 物 具 せ さ せ よ と 云 け れ は、 丁 絹 の直 垂 小 袴 に萌 黄. 武 田小笠 原千 葉小山 宇都 宮 三浦葛 西 にぞ下 され け る。御 使 は推. 義 時 ・敵 た り。早く追 討 せら る べし。勧 賞 は請 に依 る へき の由 、. 松 とて無 双 の逸足也 。平 九郎 判官 胤義 が私 の使 を相 添 て、 同五. 匂 の小 腹 巻 に 、 十 五 差 た る 染 羽 の 矢 、 滋 藤 の 弓 を そ 持 せ け る 。. め し 、 矢 二腰 並 へて 寄 る 敵 を 待 居 た り 。 ・夜 已 に 明 て ま だ 卯 の. 月十 五日 都を出 て、 同 しき十 九日 鎌倉 に着 て駿河 守 に斯 と告 た. 伊 賀 判 官 光 季 は 、 繁 目 結 の直 垂 に 鎧 一領 前 に打 置 、 弓 の弦 歯 し. り ければ 、文 を披 見し て使 をば追 出 し、駿 河守義 村 は権 大 夫義. 時 の許 へ行 ・、胤義 が文 を 見せ進 ら せ、世 の中社 乱 れ て候 へ。. 刻 計 に、 寄 手 八 百 余 騎 、 判 官 が 宿 所 京 極 の 西 の方 高 辻 の北 四 方. と 詰 懸 し か 、 内 よ り 射 出 す 矢 に當 ( 九 裏 )り て 、. を取巻 て、時 声 を上 たり。高 辻面 は小 門成 け るが、寄 手初 め は 侮 り て ひた く. 62.

(7) 判 官 光 季 は 京 都 に し て 討 れ た り 。 如 何 御 計 ら ひ候 ・と ・、 胤 義. て 二 位 の 禅 尼 の御 前 に参 り 、世 の中 既 に乱 れ て 候 。去 ル十 五 日 、. へて 来 り ぬ 。 院 宣 を 奪 取 て焼 捨 ら れ 、 北 条 義 時 駿 河 守 を 相 具 し. 御使 推松 も鎌倉 に入 ぬらん とて尋捜 さ れし に、笠井 が谷 より捕. 来 侍 は ぬ 社 不 思 議 な れ 。 兼 て よ り 存 知 し た る事 也 。 今 は院 宣 の. 言 を 以 て申 入 た り 。 義 時 打 笑 て 、 掬 は 心 安 く 候 。 今 迄 此 事 の出. 忠 を 存 ぜ ず 候 。 今 よ り 後 も 疎 略 を 存 べ か ら ず と て、 (= 表 )誓. 大 将 家 平 氏 御 追 討 よ り 以 来 、 度 々 の 軍 に忠 義 を いた し 一度 も 不. 去 ル十 五 日 、 伊 賀 判 官 光 季 は 討 れ て候 。 義 村 に お ゐ て は 、 故 右. へと て 、 御 前 を 立 て宿 所 く. へ。 誰 し も 一人 と し て 此 志 を 背 く 者 は 侍 は ず 。 御 心 安 思 召 ・候. 度 罷 り 向 ひ 侍 ひ て、 都 を 枕 に し て 屍 を 禁 中 に 晒 さ ん と 社 存 し 候. も 人 の 恩 を 忘 れ す と社 承 れ 。 ま し て代 々恩 深 く 蒙 り し 我 等 、 此. ひけ る。是 を承 る大名 小名 皆袖 を校 りて申 け るは、 拙 き鳥獣 迄. 留 り て (一二 裏 ) 味 方 に奉 公 仕 ら ん と も 、 只 今 槌 に 申 切 と そ 宣. 座 す ら ん 。 萬 に 付 て情 深 き御 恩 を 忘 れ て 京 方 へ参 ら ん と も 、 又. 分 際 に 応 じ て 諸 人 の助 を 計 ら ひ置 せ 給 ひ 、 今 は何 れ も 栄 耀 に御. ば 下 向 に は歩 跣 に て帰 り け る を 、故 殿 憐 み 給 ひ 六 ヶ月 に つ ゴ め 、. 一期 の大 事 と 出 立 、 郎 従 一族 迄 畏 と 晴 と 上 に し も 、 カ ラ 尽 ぬ れ. 浩 る 事 を 見 聞 こ そ 悲 し け れ 。日 本 国 の侍 達 昔 は 三 年 の大 番 と て 、. に帰 られけ り。. が 文 と院 宣 と を 御 前 に 指 置 れ た り 。 武 蔵 守 泰 時 相 模 守 時 房 前 大. 鎌倉 軍 勢上洛 之事. 官 令 廣 元 以 下 参 集 り て 、 評 定 有 。 二 位 の禅 尼 は 妻 戸 の 間 へ出 給 (一 =畏) に 巻. はやと申 さ れけ れば、権 大夫義 時 申 されけ る は、 君 の御 為 に忠. せられ、 片邉 土 に居住 する若 党冠 者原 をも召 具 し 二 三表) 候. 去程 に大 名小 名集 り て軍 の評定 有 ける処 に、 武蔵 守泰 時申 され. ひ、 御 家 人 等 を 御 簾 の前 に 召 寄 ら れ 、 御 簾 を 半. に あ ら じ 。 故 殿 頼 朝 公 に逢 初 進 ら せ し 時 は 、 世 にな き 振 廻 す る. のみ存 じ て不義 なし。 人 の識 に因 て朝敵 と仰 下 さ る ﹀上 は、 仮. け るは、 是程 の御 大事、 無勢 にては如何 有 べき。 両 三日 も延 引. と て 親 にも 疎 み 悪 ま れ 、 其 後 平 家 の 軍 初 り し か ば 、 手 を 握 り 心. 令 百千 万騎 の勢 を具 したり とも、 天命 に背 く程 に ては 、君 に勝. 上 さ せ 、 御 覧 し 出 し て 宣 ひ け る は 、 日 本 一州 の中 に女 房 の 目 出. を砕 き六年 が程 は打 暮 し、平家 亡 て世 は治 るかと思所 に、大姫. 進 ら す べきや。 只運 に任す べし。 早疾 上洛 す べき なり と、 軍 の. 度 例 に は 、 此 尼 を こ そ 申 な れ と も 、 尼 程 に物 思 ひ し た る 者 は 世. 君 に後 れ て 、 同 じ 道 に と悲 し く 思 ひ な が ら 月 日 を 重 ね し 間 に、. は武蔵 守泰 時、三陣 は足利 武蔵前 司 ・、四陣 は三浦 駿河 守義 村、. 故 殿 に 後 れ 奉 る 。 左 衛 門 督 ・幼 稚 な れ ば 見 立 進 ら せ ん と せ し か. 五陣 は千葉 介胤 綱 とそ聞 へけ る。相 随 ふ輩 には、 城 ノ入道 毛利. が本 に軍立 し、 翌日未 明 に打立 給 ふ。先陣 は相 模守 時 房、 二陣. 二 表 )し に 、 思 外 の 事 有 て 大 臣 殿 失 給 ふ 。 是 社 浮 世 の限 り な れ 。. 蔵 人入道 少輔 判官 代駿河 次郎 左原次 郎左 衛門 尉同 三郎 左 衛門 尉. 手 分 をぞ定 ら れけ る。 明 れは五 月 二十 一日、藤 澤左 衛 門尉 清親. 何 に 命 の存 へて 、 斯 る 歎 き に 堪 ぬ ら ん 。 如 何 な る 渕 河 にも 身 を. 同 又太郎 天 野 (=二裏 )左衛 門尉 狩野介 入道 後藤 左衛 門 尉小 山. 共 、 又 督 殿 に さ へ後 れ て 誰 を 頼 む方 も な く 、 鎌 倉 中 に は 恨 め し. 投 ば や と 思 ひ 立 し を 、 権 大 夫 義 時 が 様 々申 事 有 て 、 三 代 将 軍 の. か ら ぬ人 も な く 思 沈 し を 、故 右 大 臣 実 朝 公 長 り 世 も 静 に 侍 り (一. 御 跡 を 誰 か は 役 ひ 奉 る へき と 思 し 程 に 、 今 日 迄 空 し く 存 へて 、. 一63一.

(8) 馬 允入道 を始 とし て、 其勢 都合 五万余 騎也 。式 部 丞朝時 は 四万. 郎 父子 八人小笠 原次郎 父 子七人遠 山左 衛門 尉諏 訪小 太郎 伊 具右. 其勢 十万余 騎東海 道 をそ押 上 る。 東山 道 の大将 軍 には、 武 田五. 野松 田河村 飯 田土肥土 屋成 田伊藤 宇佐 見奥 津 を始 とし て、都 合. 足立 三郎佐 々目 太郎階 太郎 早川平 三郎 丹児 玉猪 俣本 間渋 谷波 多. 兵衛 尉佐 野小次郎 入道 同七郎 太郎 同 八郎伊 佐大 進太 郎江 戸 八郎. 五郎 兵衛尉 角 田太 郎同 孫平次 相馬 三郎 父 子三人 國分 三郎大 須賀. 新左衛 門尉 中佐太 郎伊吹 七郎 宇都宮 四郎 筑 後太郎 左衛 門尉 葛 西. 時 が首 は取 て進ら する者 の有 ら んす るぞ とは勅 定有 け れ とも、. さ まし て物を も申 されず 。 一院聞 召、 武士 共 の上 らん 跡 にて義. 時 も早 く告申 さん と て急 き上 り て候 と申 す。公卿 殿 上 人皆 興を. 侍 らん。 鎌倉 より尾 張迄 は野 にも 山 にも軍 兵充 々 て推 て行。 一. し て三方 より推 上候 。十 九万余 騎 と は申 せ共、如 何 様 百万騎 も. 忍び て其有 様 を見侍 ふ に、大 名小 名諸 国よ り馳集 り、 京都を さ. 権大 夫義時 に見 せし よ り、 鎌倉 中騒 動 し、 (一五 表 )推松 は深 く. 涙ぐ み て申 け るは、 平九郎 判官 の御 文 を三浦 駿河 守義 村 受取 て. 付 御所 焼太 刀之 事. 思 ひ の外 の大 軍 に、 倦 み てぞ 思召 さ れけ る。 大 炊 ノ渡リ 軍. 余騎 を (一四表 )率 して北陸 道 より責 上 る。鎌倉 には大 膳大 夫 入道 宇都宮 入道葛 西壱 岐入道 隼 人入道 信濃 民部 太輔 入道 隠岐 次. み存ず る身を、 諦を 信ぜ られ違 勅 の者 に成 候 。舎弟 時 房を始 て. 京 都 に返 す べし。院 に参 り て申 べき 様 は、義時 昔 より忠 義 を の. る。鵜 沼 の渡 り へは美 濃 の目代帯 刀左 衛門 尉神 士蔵 人 入道 父 子. 衛 門尉 同 六郎 左 衛 門 尉 に西 面 の者 共 二千 余 騎 を 差 添 て遣 は さ. て、大炊 の渡 り へは駿 河大夫 判官 糟 谷 四郎 左衛 門尉 筑 後太 郎左. かる べけれ。 尾張 河 には九瀬 有。 手 分し て瀬 々 に遣 し防 れん と. 一院 は、 関東 大軍 に て責 上 る由聞 し召 れ、 京都 の内 へ入 (一五. 子 にて候 泰時朝 時以 下、 三方 の軍勢 十 五万余 騎を進 ら せ ・て、. 三人 に 一千余 騎を 差添 て向 ケら れ たり。板 橋 の渡 り へは朝 日判. 裏 )来 らは悪 かり なん。 出向 て追 散 す べし。先宇 治 勢 田 の橋 を. 御 腹居 させ給 (一四裏 ) ふ べし。未叡 慮納 ら ずば 、三郎 重 時四. 官 代 海泉 太 郎 其 勢 一千 余 騎 を 向 は せ ら る。気 瀬 の渡 り へは富. は留り、 子息登 れば 父残 り、兄弟 迄 も引分 て上せ留 む る心有 。. 郎 政村を 先と して 二十 万騎 を伴 ひ、義 時参 り て申 べし と、 必奏. 木 ・判 官代関 左衛 門尉 一千余 騎 。大 豆途 の渡 り へは (一六表). 郎 左衛門尉 、是等 を始 とし て御留 守 をぞ勤 め ける。 親 上れば 子. 聞 いた せよ とて出 された りけ れは、 辛 き目を免 るされ命 助 かり. 能 登守 秀康 平九郎 判官 胤義 下総 前 司盛綱 安藝 宗内 左衛 門尉 同藤. て、若敵 強く し て味 方破 れたら ん時 にこそ、宇 治勢 多 にても防. たるが嬉 し さに、跡 をも 見 か へらず 、 六月朔 日京着 し て嘉 陽門. 左 衛門 尉、 是等 を初 とし て都合 一万余騎 にて向 ひた り。食 の渡. や引 て待 べき。尾 張川 へや向 ら る べきと評 定有 。 尾張 河迄馳 向. の御所 に参り しかば 、物 にも覚 ぬ公 卿殿 上人 立出 給 ひ、推 松帰. り へは阿波 太郎 入道山 田左衛門 尉 五百余 騎 に て馳 下 る。稗 嶋 の. 北 條右京権 大夫義 時 は鎌倉 将軍家 の執 権 たり。 若 君を守 護 し奉. り参たり 。如何 に義時 が首 をば 誰 か取 て進ら す るぞ。 関東 には. 渡り は矢 野次郎 左衛 門尉 長瀬判 官 代五 百余騎 。墨 俣 川 へは河内. りて態 ・留り御座 し ける が、院宣 の御 使推 松 を召出 し 、汝 をば. と仰 けれ は、推 松打. ざ り し か 。 左 社 彷 裡 ・る ら ん。 如 何 に く. 合戦 の始 り しか。義 時鎌倉 に泳り得 じ。 何方 へも落行 音 は聞 へ. 一64一.

(9) 東 海 道 の 先 陣 相 模 守 時 房 は 、 六 月 五 日 の辰 の刻 に 尾 張 国 一の宮. 其謀 は有 もぞ すら ん。先 は拙 き 軍謀 かな と心有 人は思 ひけ り。. か 一にも 及 は さ る に、し か も 是 を 分 ケ遣 し 小 勢 に て大 軍 を 防 ぐ 。. 光 定 五 百 余 騎 。 以 上 一万 七 千 余 騎 也 。 敵 の人 数 に 比 ふ れ は 、 十. 判 官 秀 澄 山 田次 郎 重 忠 一千 余 騎 。 市 川 前 の渡 り は加 藤 伊 勢 前 司. 太腹 を射 させ て、馬 は平 に転 ひ たり。千 野六 郎太 刀を 抜 て、逆. 渡 す処 を 又矢を 番 ひ て射 たり け れは、 六郎 か乗た る馬 の弓手 の. 近 が引 合 せを箆 深 に射 させ て倒 に落 て流れ たり。千 野 六郎 続 て. 等 が 一門 ぞかし 。川 上殿 に申 承ら んと て能引 て兵 ど射 る に、左. 此 武者 聞 て、某 も同 国住 人 に大妻 太郎兼 澄 と云者 ぞ。 千 野は我. 郎殿 の御手 に属 せし信 濃 国住人 千野 六郎 河上左近 と名乗 け り。. 端 に下 り て只今岸. 渡 す は何者 ぞ と詞 をかけ たり。 是 は武 田五. に着 陣 し て 、 (一六 裏 )軍 の 手 分 を せ ら れ け り 。 東 山 道 よ り 押 上. 六郎 をば討 取け り。 是を初 めて常 磐六郎 吾妻 太郎内 藤 八続 て渡. 茂 木 の上 に飛上 る。 京方 の陣 よ り武 者 六人馳 (一八表 )寄 て、. る 大 将 は 、 武 田 五 郎 父 子 八 人 を 初 と し て其 勢 五 万 余 騎 、 何 れ も 聞 ゆ る勇 士 共 也 。 武 田 既 に本 国 を 出 る 日 は 十 死 一生 と て 極 た る. て責 懸る 。京方 す て に敗 れ て引色 に成 け るを、鵜 沼 の渡 り に向. 勢物 共せず 、打 入 く. しけ る所 に、大 妻太 郎 に射 落 さ れ て川 に流 れて死 たり け り。武. 悪 日 な り 。 如 何 有 べき 、 只 明 日 軍 立 し 給 へか し と 申 者 多 か り け. 奉 り 、 矢 を 放 つ へき 道 な し 。 只 疾 東 方 に参 り て 朝 (一七 表 ) 敵. ら れた る美濃 の目代 帯 刀左衛 門尉 五十 騎計 にて馳来 ると い 二. る 。 武 田 五 郎 云 け る は 、 何 条 去 事 の有 べ き 。 侍 の 軍 に向 ふ 程 に. を 討 て奉 れ と 有 け れ ば 、 小 笠 原 則 武 田 方 へ使 を 以 如 何 御 計 ら ひ. 八裏 ) へとも、 終 に打立 ら れて引 退く 。同 国 の住 人蜂 屋冠 者 は. 田五郎 易 からず 思 ひて打 入 て渡す を見 て、舎 兄悪 三郎舎 弟 六郎. 候 と 云 す る に 、 唯 切 て捨 給 へと い ふ。 信 光 も 左 様 思 へと て 、 三. 信濃 国住 人伊豆 次郎 に組 れ て討 れた り。筑後 六郎左 衛 門尉 は洗. 同 七郎 武藤 五郎内 藤 七新 五黒 河岩崎 五郎 以上 九人 そ渡 し ける。. 使 の 中 に 二 人 は 首 を 刎 て 一人 は追 放 て 京 方 にぞ 帰 し け る 。 武 田. 革 の鎧 に母衣 かけ て白月 毛 の馬 に乗 りて落行 け るを、 武 田七郎. て は 命 生 て 帰 る べ し と は 覚 へす 。 是 社 吉 日成 れ と て勇 み 進 み て. 五 郎 が 郎 等 に武 藤 新 五 と 云 者 有 。 水 練 の達 者 也 。 大 炊 ノ渡 り 瀬. 逢し 、余 すま じき ぞと て追懸 た り。六 郎左衛 門返 す に難 き事 か. 上 り し が 、 既 に市 原 に 陣 を 取 る。 斯 る 所 へ院 宣 の 御 使 と て 、 武. 踏 し て見 よ と 云 け れ は 、畏 り と て 渡 り の 瀬 踏 仕 負 せ て 帰 り 来 る 。. と て、御 所焼 と云 太刀 を抜 て引 返し撃 てか ﹀る。 抑此 太 刀 は、. 京 勢雨 の降 る如 く に矢を 放 つに、 少し も眼 ふ色 も なし 。小 笠原. 行 の 西 の 岸 極 て高 く 、 轍 く 馬 を 扱 ひ か た く 、 水 底 七 八 段 に 菱 を. 備前 国住 人藤原 三郎 家次 と 云鍛 冶を ︺院 に召上 せて、 君御 手 つ. 田 五 郎 小 笠 原 次 郎 両 人 が 中 へ三 人 迄 ぞ 下 さ れ け る 。 一天 の 君 の. 植 流 し乱 杭 逆 茂 木 を 打 て 候 を 、 馬 四 五 疋 を あ げ ん 程 、 菱 を 取 捨. から鍛 はせ られ て打立 られ し太 刀 にて有。御 所焼 と名 を付 ら れ、. 雲 霞 の ことく渡 し かけて、時 の声 を作 り. 乱 杭 を 抜 捨 て 験 を 立 て 置 た り と 申 す 。 武 田 川 端 にす ﹀め は 、 信. 公卿 殿上 人北 面西 面 の輩、 御気色 能 程 の者 は皆給 は り て帯 しけ. 次郎 百騎計 にて押渡 る。 京勢 河端 に下 り向 ふて戦 ふ。 寄手 の大. 濃 国 の 住 人 千 野 五 郎 河 上 左 近 馬 を 打 入 て 渡 す 所 に、 (一七 裏 )京. 思 召 立 給 ふ 此 度 の御 大 事 に 、 如 何 で か 怨 敵 と 成 て 内 侍 所 に 向 ひ. 方 よ り 黒 革 威 の鎧 に月 毛 な る馬 に乗 、 塗 籠 藤 の 弓 持 た る兵 、 川. 一65一.

(10) ら ひ て京 方 に は 成 給 ひ け り 。 降 参 し 給 へ。 如 何 に も 申 さ ん と 云. 人 に て関 東 の御 恩 深 く 、 仰 に 因 て都 へは 上 ら れ た り 。 悪 く も 計. 郎 父 子追 懸 て 、 如 何 に大 竹 殿 と 見 る は 僻 目 か 。 和 殿 は 武 蔵 の住. し て そ拍 へた り 。 大 竹 小 太 郎 も 落 け る 所 に、 信 濃 国 住 人 岩 手 三. 延 た り 。 武 田 下 り 立 て離 馬 に乗 替 て 、 哀 敵 を 遁 し け り と 歯 咀 を. 並 ぶ を 、 馬 の 平 首 手 綱 を そ へて 切 て 落 し 、 其 間 に 筑 後 左 衛 門 落. る時 一院 よ り 給 は り て此 度 帯 し て 下 り し が 、 武 田 七 郎 掛 寄 て 押. 後 六郎左 衛門. (一九 表 ) 今 度 大 炊 ノ渡 り に向 ら れ て、 都 を 出 け. り 。 名 詮 自 性 の道 理 な ら ば 、 此 太 刀 の名 こ そ 忌 々 ま し け れ。 筑. 人岳嶋 橘左 衛門 五十余 騎 に て川を渡 し散 々 に戦 ふ。岳 嶋 が郎 等. 騎を前 後左 右 に立 て、杭瀬 川 の端 に て敵 を相 待所 に、奥 州 の住. 近 大金 太郎 太 田五郎兵 衛藤 兵衛 伊豫 坊荒 左近 兵部 坊 以下 九十 余. らん。 重忠 一軍 し て此 憤 を散 せん と思 ふ也 とて、 郎等 に水 野左. 関東武 士 に笑 る ﹀のみ にあらず 、 君御尋 有 ん には何 と か答 へ奉. て落 て帰 り、道 の程 にも 甲斐 く. の、 尾 張 川 に て も 恥 有 る 矢 の 一 つを も 射 ず 跡 を も か へり 見 ず し. て云様. 討 取 れ、 又散 々に落 て行。 尾張 国住 人山 田次 郎重 忠 此有 様 を見. て 戦 ふ と 云 へと も 、 大 軍 折 重 り 荒 手 入 替 り け る 故 に、 多 く は 皆. 失 て 防 く 者 一人 も な し 。 美 濃 国 錘 田 と 云 所 に し て 京 勢 少 々 出 合. し 、 指 殺 し て首 を. 加 治 丹内佐 賀羅 三郎矢 庭 に射 臥ら れ、其 外 の者共 も 手を 負 ぬは. 敷 軍 をせ で京迄 も追 立 ら れ、. (二 〇 裏 ) は 、 君 の 仰 を 蒙 り 京 都 よ り 討 手 に向 ら る 者 共. (一九 裏 ) 取 る 。 此 大 竹 は 相 撲 を 好 て 力 も 強. け れ は 、 大 竹 馬 を 引 返 し 思 案 す る 所 を 、 岩 手 父 子押 並 べ て組 落. く 心 も 剛 也 。 先 年 一院 よ り 関 東 へ仰 ら れ て、 力 強 く し た ﹀ か成. と川 を渡 す。 山 田次. 無 り けり。 大 ( 二 一表 )将 軍 ・蔵守 泰時 川端 に打 臨 み軍 の下知. 中 に取籠 て戦 ふ に、 高枝 片足 を 田 の中 に踏 入 て片足 は縄 手 に脆. を せら るれば、 跡 より大 軍重 り てひ たく. ん 相 撲 の達 者 を 進 ら せ よ と 有 し かば 、 選 び 出 し て 上 せ ら れ 、 元. き、 立寄 る敵 二人 が諸膝 薙 て切伏 、立 上ら ん とす る所 に、 遂 に. は 家 光 と 名 乗 け る を 、 西 面 に 召 れ て 家 任 と い ふ名 を は 院 よ り ぞ. 大 炊 渡 り 破 れ て 東 山 道 の 大 軍 打 入 と 見 へけ れ は 、 平 九 郎 判 官 胤. し て切伏 られ、 敵 一人馳 寄 て首を 取 んとす る処 に、 大軍 圏 と続. 郎叶 はす し て南 を指 て落 て行 。武 蔵国 住人高 枝次 郎 只 一騎 川瀬. 義 、 口 惜 き 事 かな 。 胤 義 罷 向 ふ て 一戦 せ ん と て 五 百 余 騎 に て馳. を渡 し て細 縄手 に掛 り て追 かけし に、敵 七 八騎返 し合 せ高枝 を. 来 る 。 能 登 守 秀 康 申 け る は 、 此 大 軍 に前 後 を 包 ま れ な ば 由 々敷. に成 て誰 とも更 に見 へ分 す。 大将 武蔵 守あ ら無漸 や (二 一裏). き たれば 打捨 て落 て行。 関東 勢近 付 て手負 を見 れば 、鎧 物 具朱. ぬ る 故 にや 、暗 々 と 討 れ し は 、二心 の起 り て 謀 ら れ け る 処 な り 。. (二〇 表 ) 退 ぞ き て宇 治 勢 田 を 防 げ. 付 給 ひ け る。 岩 手 程 の男 に は中 々 討 る ま し き 者 成 し が 、 運 の尽. 大 事 也 。 尾 張 ・敗 れ な ば 引. て鎌 倉 へそ下 され け る。 軍兵 を憐 み給 ふ大 将 の志 を感 せ ぬは無. に痛 手薄 手 三 ヶ処 、是 に ても死ざ る は天命有 者也 と て、 人 を副. れ と有 し に、武 蔵 国住人 高枝 次郎 と 云け れば 、能 々見 せら る ﹀. な。 此者痛 手負 た れども 、未 だ死 ず片息 な るぞ。 何 者 ぞ、 名乗. と 社 院 には 仰 下 さ れ し 。 秀 康 は 引 上 り て宇 治 に て 防 き け ん と て. 付関東 勢手 賦 之事. 落 行 ければ、 平九郎 判官 も力 及ず 打連 て社落 上 りけ れ。 株瀬 川軍. 大 豆 の 渡 り へは 相 模 守 足 利 武 蔵 前 司 向 は れ た り 。 足 利 小 太 郎 兵 衛 阿 曽 沼 小 次 郎 近 綱 を 初 め て 川 に 打 入 渡 し け る に、 京 勢 は 皆 落. ・・.

(11) 上 に成 下 に成 半 時 計 揉 合 た り 。 伊 佐 三 郎 が 雑 色 一人 具 し た り け. 郎 を 追 詰 て引 組 て 堀 の 底 に 落 入 た り 。 敵 も 味 方 も 是 を 知 ら ず 、. り け り。 伊 具 六 郎 有 時 が 郎 従 に 伊 佐 三 郎 行 正 と 名 乗 て 、 山 田 次. 左衛 門尉 中沼 五郎 伊吹 七郎 を差添 ら れ、都合 一万余騎 、 小関 よ. かり けり 。北 陸道 は小笠 原次 郎を 大将 とし て、千 葉介 筑後 太郎. 兎角申 に及す 、赤 面し て引 退く。 用な き誓 言 かな と笑 ふ人も多. て勢 挑 し、加 治入 道 父子三 人太湖 太郎 左衛 門尉小 出 四郎 左衛 門. 北陸 道 より向 は る ﹀式 部丞 朝時 は、 五月晦 日 に越 後 国府 中 に着. 付 北陸道 軍 勢責登 る事. り伊 吹山 の腰 を廻 り湖 水 の西を近 江路 さ してぞ責 上 ら る。. く へき 色 (二 二表 ) も な し 。 其 間 に 山 田 が 郎 等 藤 兵 衛 尉 立 帰 り. 尉五 十嵐 党 を始 とし て都合 其勢 四萬余 騎、越 後 (二三裏 )越 中. 蒲 原殺 所謀. る が 、主 の 軍 す る 加 勢 に も 成 ら ず 、敵 と 打 合 時 は 立 退 て 見 物 し 、. て 伊 佐 を 押 伏 、 山 田 を 馬 に拾 乗 せ て 落 て行 。 伊 佐 も 討 れ さ る を. 戦 ひ労 れ て 休 む時 は突 と し て傍 に 居 た り。 組 合 共 只 見 物 し て助. 幸 に し て、 味 方 にそ 馳 入 け る 。 去 程 に東 山 東 海 両 道 の 軍 勢 壱 つ. の境 な る蒲原 と云 所 に行 か ﹀る。 此所 は極 めた る殺所 な り。 一. 石弓 を張 設 け て、 敵推 か ︾らば弛 し けん と用意 した り。 関東勢. 方 は岸高 く し て人 馬更 に通 ひ難 く、 一方 は荒 磯 に て、風 烈敷折. 如何 す べき と案し 煩 ふ所 に加 治 入道申 け るは、能 計 の候 そ やと. に 成 て 上 り け れ は 、 野 も 山 も 兵 共 充 々 て幾 千 万 と も 数 知 ら ず 。. ひ 給 ふ物 か な 。 相 模 守 殿 の 若 党 等 に は (二 二裏 ) 軍 を な せ そ と. て、 近辺 の在 家 に人を遣 し 、七 八十 疋 の牛 を取集 め 両 の角 に続. 節 は船路 も 又心 に任 せず 、 岸 に添 た る細道 を認 め て行 には、 馬. 思 し 侍 ふ か。 如 何 な る 御 心 に て 斯 は あ て か ひ給 ふ や ら ん と 申 け. 松 (二四表) を結 付 て、日 の暮 る ﹀をそ待 かけ た る。既 に夜 に. 野 上 に 垂 井 に 陣 を 取 、 震 に て 軍 の手 賦 を ぞ い た さ れ け る 。 相 模. れ は 、 義 村 申 さ れ け る 様 は 、 某 当 家 に久 敷 者 也 。 関 東 よ り ケ様. 入 けれ は、彼 続松 に火 を燈 し て道 筋 を追続 けた りし か は、数多. の鼻 を 四 五騎 並 べて通 り 得 ず。 わ つ か に 一二騎 宛 身 を そば た. の 事 を も 計 ら ひ申 せ と て 上 洛 せ し め給 ふ 。 我 往 昔 よ り 御 大 事 に. の牛 共続 松 に恐 れて走 り懸 り、突 通 る上 の山よ り是 を見 て、 す. 守 時 房 は 勢 田 へ向 ひ給 ふ べし 、 供 御 の瀬 に は 武 田 五 郎 信 光 、 宇. は 度 々 に逢 て 、 多 く の 事 と も 見 置 て 候 。 平 家 追 討 の時 、 関 東 の. は や敵 の寄 るぞ とて、 石弓 の有 る限 一同 に逃 ヅ し かけた れば 、. て ﹀打過 る。 市降 浄土 と云 所 に逆 茂木 を引 て、宮 崎左 衛 門尉 政. 兵 共 を 差 上 せ ら れ 侍 ら ひ し に、 勢 多 へは 三 河 守 範 頼 、 宇 治 へは. 数多 の牛 共是 に打 れ て死す 。軍兵 等 は事故 なく打 過 て、 夜も 曙. 治 の渡 り は 武 蔵 守 泰 時 、 ︼口 へは 毛 利 蔵 人 入 道 、 淀 ノ渡 は 駿 河. 九 郎 判 官 義 経 向 は せ 給 ひ、 上 下 の手 に て平 家 を 追 落 し 軍 に 打 勝. に成 け る。比 逆茂 木近 く押 寄 て見 た りけ れは、折 節海 の面 はな. 守 義 村 向 は れ 給 へと 定 め ら れ し 処 に 、 相 模 守 殿 の手 の 者 に 本 間. せ 給 ひ て 候 。 是 は 先 規 の御 吉 例 な れ は 、 斯 手 賦 は い た し て 候 。. ぎ に成 て風静 に波 も なし。 究寛 の時 分也 と て汀 に添 て馬 を打 入. 時 と云者 近 辺 の溢 者共 三百 余人 を集 め て堅めた り。 上 の山 には. 軍 せ さ せ し と は 思 ふ へき 事 に て も 侍 は ず 。然 る を ケ様 に被 申 条 、. 兵 衛尉 忠家 と云者 進 み出 て申 け るは、駿 河守殿 は悪 しく も計 ら. 存 外 の 至 に候 。勢 多 へは 敵 の向 ふ間 敷 に て 候 か 。軍 は 何 く も (二. 海 を渡 し て向 ふも有、 足軽 共 は手 にく. に逆茂木 取 退 て打 て通. 三 表 ) 嫌 は ず 、 只 兵 の 心 に有 べき 物 を と 申 さ れ し かば 、 本 間 は. 一67一.

(12) 心安 く押通 り、 越中 と加 賀 の境 なる砥 並山 に懸 りて、 黒坂 と志. るが、 大勢 の向 ふを 見 て皆打 捨 て (二四裏) 山 の上 に逃 上 る。. る。逆 茂木 の内 には郎従 共僅 に四五十 人計、 篭を焼 て居 た りけ. 浦 より今 津 の宿 を打過 るに、今 は手 を指 す者 もな く夜 を 日 に継. を申 に、 思 ひ の外な る事成 と て事故 なく打 通 り、漸 既 に海 津 の. 御通 り有 べし と返事 し て、 皆散 々に開 退 けれ は、使 帰 り て此由. 付土 護覚 心謀 略之事 (二六表 ). て都 を指 てそ責 上ら れけ る。 宇 治川 軍敗 北. 保 の山 と両道 有 け るを、砥 並 へは仁 科次郎 宮崎 左衛 門向 ひた り。. 山 田次郎 重忠 は杭 瀬 川 の軍敗 れ て後 、都 に帰 り参 り て事 の由を. 志 保 の山 へは糟 屋有 名左衛 門 伊王 左衛門向 ひたり。 加賀 国住 人. 奏聞 す。 海道 所 々 の要 害 共甲斐 なく 打落 され、 北陸 道 の軍 勢も. 為 と て、 新院 冷泉 宮諸 共 に日吉 へ御 幸な る。東 坂本 梶 井宮 の御. 林 富樫 井上 津旗 、越 中国住 人 野尻 河上 石黒 の者 共京 方 とし て七 れば叶 ず して砥 並志 保黒 坂悉 く破 れ て次 第く. 所 へ入御 ましく. 都近 く責 寄 る と聞 へし かば 、 六月九 日酉刻 に 一院 は御 祈願 の御. 所 に山 法 師 に美 濃 ノ 竪 者 観 賢 と て 悪 僧 有 。 京 方 に参 り て 若 大 衆. れ、 兎角 の全 義 も仰出 さ りし かは、 謀叛結 構 の公卿 殿 上人 、去. に責 上 る。浩 る. 法 師 原 近 辺 の百 姓 等 一千 四 五 百 人 を 集 め て、 水 尾 坂 を 堀 切 て 逆. にても打 手 を遣 し防 がれ て とそと、 進 め申 て手 分 を そ致 され け. 百余騎 集 り、殺 所を 切塞 き て防戦 ふと い へど も、大 軍 の寄手 な. 茂 木 引 て待 か け た り 。 式 部 丞 朝 時 加 治 入 道 を 初 (二 五 表 ) め て. る。山 田次郎 重忠 に山 法師 播磨 竪者 小鷹坊 智性 坊丹 後 を始 め て、. 候 。 只 先 使 を 立 て 敵 の有 様 引 見 ら れ 候 べし 。 其 上 に異 あ ら ば 又. 尉 進 み 出 て申 け る は 、 山 法 師 は 心 浅 く 百 姓 は 臆 病 な る者 共 に て. て は叶 ふ べか ら ず と 、 取 々 に 申 さ れ け る 所 に 、 小 出 四 郎 左 衛 門. 何 と か 計 ら ひ 侍 は ん 。 さ れ は と て味 方 の 兵 一人 も 大 切 也 。 討 せ. 門 尉朝 俊、 武士 には山城前 司 廣綱 子息太 郎左衛 門尉 筑 後 六郎左. 御 の瀬 へ向 へらる。前 中 納言 有雅卿 甲斐 宰相中 将範 義 朝臣 右衛. 安藝 宗内 左衛 門 尉伊 藤左 衛門 尉、是 等 を先 とし て 一万 余騎 は供. 少輔 入 (二六裏 )道近 廣 佐 々木弥太 郎判 官高重 中條 下 総守 盛綱. 二千 余騎 を 差添 て勢多 の手 へ遣 はさる。能 登守 秀康 平 判官 胤義. 、 翌日 卯 ノ刻 に都 へ還御 有 て四方 の門 を閉 ら. の人 数 は 長 途 に疲 れ た り 。軍 を い た す と も 墓 々 敷 か る へか ら ず 。. 又 軍 の 評 定 あ り 。 愛 は 又 六 ケ 敷 殺 所 の要 害 に し て、 し か も 味 方. 術 も 侍 ・ん と て 、 我 手 の 郎 従 畑 野 太 郎 河 瀬 藤 次 両 人 を 遣 し 、 観. 衛 門尉 熊 野 の田辺法 印十 万法 橋万劫 禅師 奈良 法師 土護 覚 心圓音. 将 信能 二位 法印 尊長 は 一千余 騎 にて }口 へそ向 ら れ け る。坊門. 坊 、是 等 を初 とし て 一萬 余騎 は宇 治 の渡 り に向ら れ たり 。長瀬. 大 納言 忠信 は 一千余 騎 にて淀 へ向 はる。 河 野四郎 入道 通 信子息. 賢 が 方 へ云 や り け る 様 は 、 唯 今 打 通 る は 北 条 式 部 丞 朝 時 、 随 ふ. てま し ま す 故 、 禮 義 の為 に案 内 を は 致 す 所 也 。 関 を 開 き て 通 さ. 太 郎 は五百 余騎 にて廣 (二七表)瀬 にそ向 られ ける。 去程 に東. 判 官代 足立 源左 衛門 尉 は五百 余騎 にて牧 嶋馳 向 ふ。 一條 宰相中. る べしと そ云遣 し ける。 観賢 思 の外 の大軍 にあ ぐみ て、百姓 等. 海 道 の先陣 相模 守時 房、 承久 三年 六月十 二日、勢多 の橋近 く 野. て ・ 候 と も 、 一時 に踏 破 り 候 は ん 。 然 (二 五 裏 )れ と も 沙 門 に. は 我 々 に て 始 終 叶 ひ 難 く 覚 け れ ば 、 さ ん 候 。 京 方 以 後 の 御 外口 を. 軍 勢 四 万 余 騎 、 京 都 に責 上 る 所 也 。 無 用 の我 執 を お こ し 小 勢 に. 存 す る 故 に 、 一旦 斯 は 構 へて候 。義 勢 は 是 迄 也 。 逆 茂 木 引 退 て、. ・:.

(13) 掻 楯を か き、 山 田次郎 を始 とし て山法 師大 勢 に て招 へた り。相. 路 に陣 を取 る。人 を遣 し て見せ らる ﹀に、 橋 の中 二間を引 落 し. 白 月 毛 の馬 に金 輻 輪 の鞍 置 て 打 乗 た る 武 者 一騎 、 小 河 太 郎 に寄. 俊 は敵 に組. 防 戦 。 討 も 有 、 討 る ︾も 有 、 物 の色 目 も 見 へ分 す 。 右 衛 門 佐 朝. 打 に 甲 の真 甲 を 打 れ て 目 昏 み け れ と も 、 組 付 た る 所 を 放 さ す 馬. せ 合 て 打 笑 み た る を 見 れ は 鉄 漿 黒 也 。 小 河 押 並 へけ る 処 を 、 抜. (二 八 裏 ) れ て 討 死 せ ら る 。 又 京 方 よ り 緋 威 の鎧 に. 模 守 の手 の郎 等 早川重 三郎 階見 太郎佐 々目五郎 足立 三郎讃 岐 太 れ て倒 に落 て流 れた り。熊 谷平内 左衛 門久 米左 近吉 見十郎 廣 田. 郎 等、 橋爪 に押寄 て行 桁を 渡 りて戦 ふ に、 江戸 八郎 真 甲を射 ら. よ り ど う ど 組 て 落 た り 。 心 を 静 め て 見 た り け れ は 、 我 組 て押 へ. 住人 平馬 太郎 ぞ かし。和 殿 は誰 ぞ。駿 河守 殿 の手 の者 、小川 太. た る 敵 は首 も な き 髄 計 也 。 こ は い か に 、 人 の組 た る 敵 の 首 を 傍. 郎 経 村 と名 乗 る 。 さ ら ば と て 首 を 返 す 。 小 川 是 を 受 取 ず 。 後 に. 小次郎 押詰 て、 三 の掻 楯を 切破 り、 鍛を傾 け て責 かか る。 山 田. て、大 長 刀水 車 に廻し て寄 手六 人掻楯 の際 に薙 伏た り。熊 谷 平. 此由 申 ければ 、平馬 太郎 が僻 事也 と て小. よ り 取 事 や 有 と は 呼 は り し か ば 、 武 藤 太 郎 殿 の手 の 者 に伊 豆 国. 内 左衛 門尉小 鷹坊 に引 組 て首 を掻 ん とす る処 に、山 田次郎 が郎. はり ぬ。 甲斐宰 相範義 朝 臣 の御首 にてぞ侍 り ける。 佐 々木太 郎. させ給 ふ ぞと云 ひけ れは、 (二七 裏)播 磨竪 者小 鷹坊 心得 たり と. 等 荒左 近落合 いて熊谷 が首 を取。 大将 相模 守 は、此 軍早 く過 て. 左 衛 門 尉 氏 綱 は 同 名 四 郎 左 衛 門 尉 信 綱 が 甥 也 。 秋 庭 三 郎 に組 て. 次 郎是 を見 て、山 ノ大 衆 に向 ひて、 あれ程 の小 勢を は如何 に亘. 人数を 損す る事、 然 る べからす。 暫 く静 めて色 を見 よ と下 知 せ. 入、瀬 枕を切 て金 に渡 し、 近江 国住 人佐 々木 四郎左 衛門尉 源 信. の馬其 長 ヶ八寸 に余 り た るに白鞍 置 せ、彼 二岐 の瀬 にかはと打. 上 る処 に、佐 々木 四郎 只 一騎、御 局 と云逸 物 の栗 (二八表 ) 毛. を中嶋 に游付 て、 敵 の様躰迄 能 々見負 せ て、立 帰 りて有様 を申. 田橘 六を召 て河 の瀬踏 を いた せと有。 芝 田は槙 嶋 の 二岐 な る瀬. て車軸 を流 す如 くな る に、武 蔵守 泰時 如何 思 はれ けん、家 子 芝. 九 裏 ) 居 け る 僧 を 敵 そ と 心 得 て、 取 て 押 へ て首 を 取 て ぞ 帰 り け. 出 て 頭 を そ り て 居 た る 所 に、 敵 続 き て 打 入 て 、 物 具 の 傍 に (二. 前 に 、 物 ・具 を 脱 置 て、 剃 刀 の有 け る に、 水 甕 を 取 具 し て 縁 に. 走 り入 て、客 殿を見 れば 、住 持 の僧 かと覚 し くて睡 り 居た る其. 懸 る 。 覚 心 元 来 歩 立 の達 者 な れ ば 、 三 室 堂 の僧 坊 迄 飛 が 如 く に. は 是 迄 ぞ と て南 を 指 て 落 て行 。 敵 三 十 騎 計 に て 、 遁 さ し と て 追. 終 に 皆 討 れ た り 。 土 護 覚 心 は 散 々 に戦 ふ て 、 今 は 叶 ふ ま し 。 軍. 討 れ た り。萩 野 次 郎 中 條 次 郎 左 衛 門 尉 も 寄 手 大 勢 に 取 籠 ら れ 、. (二九 表 ) 川 に勧 賞 給. られ しかば、 橋爪 を引 退 て只矢軍 計 ぞ いたし ける。 折節雨 降出. 綱 、今 日宇治 川 の先 陣 とそ名 乗 ける。 是を 見 て中山 佐野浦 野白. る 。 一挙 の 謀 に 無 漸 な か ら も命 を 助 か り 、奈 良 の 方 へ落 行 た り 。. 井 多胡 秋庭 を初 とし て小笠 原 四郎 内海 九郎 河 野九郎 勅使 河原 小 三郎長 江小 野寺関 左嶋 を初 め て、 諸軍 打 入く. に ぞ 帰 り に け る 。 宇 治 の 渡 り 京 方 已 に 敗 北 し て 、 横 川 ノ橋 小 幡. 熊 野 ノ田辺法 印 は子息千 王禅 師 を討 せな がら、 其身 は泣 々熊野. 渡 しけ るに、水. は せ か れ て陸 は 海 にぞ 成 に け り 。 其 中 に も 馬 弱 き は 押 流 さ れ て. 山 伏見 岡屋 日野勧 修寺 に至 る迄 、落 人多 く道 々 にて討 れ たり。. 死す る者多 かり けり。 後 に人数 を尋 ぬれ は、 八百余 人 は流れ て 死 た り 。 さ れ と も 大 軍 な れ は 数 にも あ ら ず 。 京 方 下 合 て 散 々 に. ・・.

(14) の在家 に火 の手 の上る を見 るよ りも、我 先 にと落失 て残 る兵 一. 供 御 ノ瀬 鵜 飼 ノ瀬 廣 瀬 槙 嶋 所 々 に向 へら れ し 京 勢 共 、 宇 治 の 北. 出 さ れ、道 にてか らめ捕 れ つ ﹀首 を そ刎 られ ける。 坊 門大 納言. 信綱 に預 けら れ六條 河原 に て切 れた り。熊 野法 印 も故 郷 より追. 徳 な れ。佐 々木 山城守 廣綱 同弥 太郎判 官高 重 も生捕 ら れ、舎 弟. 所 に、 其比 西 八條 の禅 尼 と申 は大納 言 の妹 にて、鎌 倉 故右 大臣. 信忠 卿 をば 千葉 介預 り、関 東 に下り給 ふ へき に て打 立 ら れけ る. に静 か に 川 を ぞ 越 ら. 付 鏡 月坊歌 (三〇表). 人 も な し 。 夜 に入 け れ ば 、 寄 手 は次 第 く. 京方 武 将没落. れ ける。. は れ、今 は内 にた に入 られず 、憂 死せ んず るはと て南 を指 て打. 門を も開 か で突 放 さる。 山 田次郎大 声上 て、大 臆病 の君 に語 ・. ま す四辻 殿 へ参 り たれば 、武 士共 は是 より何方 へも落行 け と て. 等共 は或 は討 れ或 は落失 て、 頼 む影な く成 果 て、 一院 の おはし. 能登 守秀康 平 九郎判 官胤 義山 田次郎 重忠 は散 々 に打 成 され、 郎. めけ る. そ書 付 給 ひけ る。. と聞給 ひ、 最度 心細 く思 しめ ければ 、木瀬 川 の宿 の亭 の柱 に斯. 新 左衛 門尉 具 し奉 りて下 りけ るが、 浮島 が原 に て切 れ給 ふ べし. に帰 りけ ん。目 出度 けり事 也。中 御 門前中 納 言宗行 卿 は、 小山. 帰 り上 り ( == 裏)給 ふ。 籠中 の鳥 の雲 に翔 り、 姐上 の魚 の海. 旨有 ければ 、 さらば助 け奉 れ とて遠 江国舞 坂 より忠 信 卿 は都 へ. 実朝 公 の後 室也 。鎌倉 の二位 の禅 尼 左京大 夫義 時 へ申 さ れけ る. け るが、 嵯峨 野を 心 にかけ つ﹀西 を遥 に落 行処 に、 子息 伊見 伊. 井雲 客死刑 之事. 豆守 に行合 た り。桂 川 の辺 にて天 野左衛 門尉 百騎計 にて追詰 た. 羅 に渡 さ れ、関 東 に下り給 ふ道 々 にて失 ひ進 らせ け り。其 跡 の. 失 ひ、 山 野 の嵐 に身 を 任 せ 、 心成 ぬ 月 を 詠 め 、 只 悲 し み の 涙 に. は焼 払 はれ、姫 君北 の方 と云 れ て日比 は 人 にも. 其 日 の暮方 に大 澤 にてぞ切 奉 る。 其 外 の人 々も皆 六波. 今 日過 る身 を浮島 が 原 にてぞ露 の命 は捨定. り。人手 に懸 らじ とや思 ひけ ん、山 田父 子は小 竹 の中 に走 入 て、. 沈 み て 、 晴 ぬ思 ひ に あ こ か れ 給 ふ 。 同 し 世 に だ に住 な ら ば 、 千. 見 へじ と 奥 深 く 籠 り て住 給 ひ し も 、 情 な く (三 二表 ) よ る べ を. て出 たり しを、 則切 て捨 ら れた り。 後藤 大夫判 官基 清 は降 人 に. 有様 、 宿所 く. 出 たりし を、御 許 され なけ れば子息 左衛 門尉 基綱申 請 て切 にけ. 里 の雲 は 隔 つ と も 又 見 る由 も 有 へき を 、 冥 途 如 何 な る 境 そ や 、. 腹掻 切 て死 にけり。 ( 三〇 裏 )平九郎 判官 は、 父子共 二人西山 の. り。佗 人 に切 せ て死 骸を申 受 て孝養 せ んに は遥 に劣 れ る事也 と、. そ な き 。 僅 に残 る 者 と て は 、 主 を 離 し 面 影 な り 。 見 る も 中 々悲. 便 り に通 ふ事 もな く、黄泉 如何 な る旅 なれば 、帰 り来 る によ し. 方 に行 て心静 に自害 を そ いたしけ る。 天野 四郎 左衛 門 は首 を延. 人人 傾け 云合 けり。 駿河 大夫 判官惟 宣 は行方 なく落 失 ぬ。 二位. 本院 新院 御遷 幸. ( 三 二裏). 亡 父 の 後 世 を 弔 ひ給 ふ。 哀 な り し 事 也 。. 達 余 り の事 の堪 が た さ に 、髪 を 剃 世 を 遁 れ 苔 の 衣 に 身 を な し て 、. し き は 、 書 す さ ひ た る 筆 の跡 、 形 見 と な る ぞ 心 憂 。 北 の方 女 房. 法印尊 長 は十津 川 に逃籠 る。 清水 法師鏡 月坊 同弟 子常陸 坊美 濃 坊 三人 は、搦捕 れ て既 に切 へき に極 け る所 に、鏡月 坊 一首 の歌 勅 な れば身 を は寄 てき武士 の 八十 宇 治川 の瀬 ( 三 一表 )武蔵 守泰時 此歌 を感 じ て、 命 助よ と て. を そ詠し け る。 には立 ねと. 許 されけ り。 一首 の歌 に師弟 三人命 を継 る ︾こ そ深き 恵 みの陰. 一70一.

(15) れ は 、 一院 は兼 て よ り 思 召 設 さ せ 給 ひ た る 御 事 成 共 、 今 更 指 當. ツ 辻 殿 へ参 り て 、 本 院 を 鳥 羽 殿 へ御 幸 な し 奉 る ら ん と 奏 聞 し け. 同 七 月 六 日 、 武 蔵 太 郎 駿 河 次 郎 数 万 騎 の勢 を 率 し て院 の御 所 四. しかと 月は明 石 の浦 にき にけり. くそと御 尋有 。明 石 の浦 と申 けれ は、. 瀬 川霧猶 晴 れ ぬ行末 の空. 責 て (三四表 ) の御 事 と哀 れ なり 。. 給 ひ、水無 瀬殿 を御 覧し やり て、愛 にあ らば やと 思召 れ け るも、. 頭清 範、 女房 二人、 伊賀 局白拍 子亀 菊 ぞ参 りけ る。 既 に都 を立. り て御 心 惑 は し 御 座 す 。 先 女 房 達 を 出 さ る べし と て 車 を 輯 り て. 井土御 門院 配流之 事. 遣 り 出 す に、 若 謀 反 人 も や 乗 ぬ ら ん と て、 武 蔵 守 近 く 参 り て 弓. と の中 山を越 さ せ給 ふと て、 向 ひ の岸 に細道 の見 へけ るを 、何. 影 は さこそ明 石 の浦 な れと雲 井 の秋 そ猶 も恋 し き. 月. 美作 と伯看. 白 拍 子亀菊 斯 そ読 け る。. 都 を はく ら闇 に こそ出. 播 磨国 明石 の浦 に着 せ給 ふ。 愛 は何. 立 籠 る関 と はな さ て水 無. の筈 に て 御 車 の 簾 を挑 け て 見 奉 る こ そ 、 理 な が ら も 情 な く そ 覚. く へ通 ふ道ぞ と御尋 有 ければ 、都 へ通 ふ古 道 にて候 と申 け れは、. ( 三. へた る 。 一院 頓 て 御 幸 な る 。 往 昔 に替 り て 警 躍 も な く 供 奉 も な し 。 姑 躰 仙 宮 の 玉 の淋 を 余 所 に成 し て 立 さ り 、 九 重 の 花 の. 濱 の湊 と いふ所 に着 せ給 ふ。 見尾崎 と 云所也 。修 明 門院 の御 方. 出 雲 国大. 千 代 の古 道 ならば、 都 にも近 か る べき にと思召 やら せ給 ひて、. へ麦 よ り遣 し給 ふ御 書 の奥 に、. 都 人 誰践初 て通 ひけ ん向 ひ の道 のな つかしき かな. 三表 )都 は今 日を限 りと思 召す叡 慮 の程 こそ悲 しけ れ。東 の洞. 鳥 羽 殿 へ入 せ 給 へは 、 関 東 勢 雲 霞 の こ と く 四 方 を 囲 み て守 護 し. 泣 々し ほ る袖 のけしき を. 院 を 下 り に 、 七 條 殿 の軒 の 妻 を 心 の外 に御 覧 せ ら る。 作 道 よ り. 奉 る。 玉 戻 に近 付 臣 下 は 一人 も 見 へ給 は ず 、 錦 帳 に参 る 女 御 も. 是 よ り御船 に召 て雲 の波 煙 の崎 を漕. 知 るらめ や浮身 を 崎 の濱 千鳥. な く 、 只 御 一所 の み御 座 ま す 。 同 し き 八 日 、 六波 羅 よ り 使 を 以. る怪し けな る庵 の内 に入せ給 ふ。 海少 し近 け れは寄 せ く る波 の. 過 て、 隠岐国 あま の郡 刈田 ノ郷 と云所 に、御 所 と て造 り設 けた. 音 高く 、梢を 伝 ふ嵐 の声御夢 を だ に結 ねば 、最 度浮 世 を儒 ひし. て 御 出 家 有 へき由 を 申 す 。頓 て戒 師 を 召 れ て 御 飾 を 下 さ せ 給 ふ 。. 七 條 院 へ奉 ら せ給 ひ け れ は 、御 覧 し も 敢 ず 御 心 も 昏 ま せ 給 ひ て 、. ら に、猿 な泣 そ と悲 し ませ給 へども、都 にか へる つてもな し。. 替 り 果 さ せ 給 ひ た る御 姿 を 、 信 実 を 召 て似 絵 に写 さ せ ら れ て 、. 修 明 門 院 を 誘 ひ進 ら せ ら れ 、 一ツ御 車 に召 れ て鳥 羽 殿 へ御 幸 な. 家 隆卿 此歌 を都 にて承 り、後 の便 に読 て奉 ら れけ る。. 寝さめ. し て聞 ぬを聞 て悲 しき は荒磯 波 の暁 の声. 我 こそは新 嶋守 よ沖 の海 の荒 き波 風心 し て吹 け. 簾 を 引 遣 ら せ 給 ひ て 、龍 顔 を 差 出 さ せ ら れ て ま み へ御 は し ま し 、. 佐 渡 の国 へ遷 さ れさせ給 ふ。 御供 には冷泉 中将 為家 朝 臣花 山院. ( 三五表 ). 疾 早 御 帰 り有 れ と 御 手 に て 招 き遣 せ 給 ふ。 七 條 女 院 も 修 明 門 院. る 。 御 車 を 指 寄 て (三 三 裏 ) 斯 と 申 入 給 へは 、 院 は 手 つ か ら 御. も御 目も 呉れ心 も消 て、絶 入給 ふも 理り也 。同 き十 三日 、隠 岐. 少 将 甲斐 兵衛 佐 教 経上 北 面 藤 左衛 門 大 夫 安 元女 房 右 衛 門 佐 ノ. トま ど の御送 り をも申 さ れず 、花 山院 少将 は労 リと て道 より上. 局、以 下 三人そ参 り給 ふ。斯 は定 め聞 へし か共、為 家 朝 臣は 一. 同 二十 二日 、新院 は. 国 へ遷 し 奉 る べし と聞 へけ れ ば 、文 遊 し て 九 條 殿 へ参 ら せ ら る 。 墨染 の袖 に情を か けし より 御 供 に は殿 上 人 出 羽前 司 重 房 内 蔵 権. 君 し が ら み と 成 て と有 。 其 奥 に 、 涙 は かり も 朽 も こ そ す れ. 一71一.

(16) り物 共迄 も御 名残惜 ま せ給 ひて、 今 日計明 日計 と留 め させ給 ふ. られ、右 兵衛 佐教経 は道 にて身罷 り ぬ。新 院最度 心 細く 、御送. の人 々 憐 み 奉 り て、 此 上 は 力 及 ず と て 同 十 月 十 日 、 土 佐 国 へと. 経 卿 に仰 ら れ し かば 、 此 由 関 東 に 仰 遣 さ る 。 右 京 大 夫 義 時 以 下. べし 。 同 し 遠 国 に こ そ 栖 給 は め と て、 九 條 の禅 定 殿 下 右 大 将 公. な から へて降 る世 の中 の憂 には いか に春 を 待 へき. 條 殿も御 歌 の返し と て短 歌遊 し て返 し歌有 け る。 同 二十 四. いとふと も. れ ば 、 野 辺 草 む ら 霜 枯 て 山 路 の梢 も ま ば ら な り 。 御 衣 の 挟 に秋. 暁 の 夢 、 男 鹿 の 子 に や さ ま す ら ん 。 比 は 神 無 月 十 日 余 り の事 な. かり けり。 須磨 や 明石 の夜 の浜千 鳥 の声も 遠近也 。 高砂 尾 上 の. 定 め ら れ、 鷹 司 万 里 の小 路 の 御 所 よ り 出 し 奉 る 。 御 供 に は少 将. 日、 一院 の御 子六條 宮雅 成親 王 は但馬 国、 次 の日冷泉 宮頼 仁親. を 残 し て露 の滋 さ そ ま さ り け る。 讃 岐 の 八 嶋 を御 覧 ず れ ば 、 安. 九. の御別 れ、 取 々の. 長 ら へてた と へは末 に帰 ると も憂 は此世 の都也 けり. そ ( 三 五裏) 哀な る。短 歌遊 さ れて九 條殿 へ進 ら せ給 ふ返し歌. 王 は 備 前 の児 嶋 へ遷 さ れ さ せ 給 ふ 。 き ぬ く. に、. 御 歌 申 も 中 々 愚 か也 。 取 分 修 明 門 院 の 御 歎 、 世 にた く ひ も お は. 徳 天 皇 の御 事 を 思 召 出 さ れ 、 松 山 を 見 や ら せ 給 ふ に も 、 崇 徳 院. ( 三 七 表 ) 侍 従 貞 元 、 女 房 三 人 、 み ち す か ら も 哀 な る事 多. し ま さ じ と 見 奉 る も 余 り 有 。 一院 は 隠 岐 国 、 新 院 は 佐 渡 嶋 、 西. 一ツ に つま さ れ て思 ひ沈 み給 ひ け り 。 土 佐 国 に着 給 へと も 、 御. の御 有 様 思 ひ続 け 給 ふ。 何 事 を 見 聞 給 ふ に 付 て も 、 今 は 只 御 身. 住 居 余 り にち いさ き 御 事 な れ ば 、 阿 波 国 へ遷 ら せ 給 ふ。 阿 波 と. 定平. ( 三 六 表 ) 金 を 聞 し 召 ば 、 佐 渡 の有. の空 北 の 雲 何 に 付 て も 苦 し き や 。 傾 く 月 を 御 覧 す れ ば 、 隠 岐 の. 土 佐 と の中 山. 方御 云傳 せま ほし く、初 雁. 様 問ま ほし。 澤辺 の蛍 のす たく にも、 御物 思 ひと共 に こがれ、. お は し ま せ は佐 渡 院 の御 形 見 と は 思 召 せ と も 、 最 度 御 慰 は 無 り. こ そ生 れけめ 理り知 ら ぬ我 な みだ哉. ざ り し かば 、 院 御 涙 に む せ は せ 給 ひ て 、. 輿 丁 も 行 な つ み け れ は 御 輿 を 掻 居 へ奉 り 、 如 何 な る べ き 共 覚 へ. ( 三 七裏 ) にて俄 に大雪 降出 て路 更 に埋 も れ、駕. 遠 山 の霞 のた な ひく も 、 晴 ぬ 歎 き を し ら す ら ん 。 東 一條 の先 帝. け り 。 七 條 ノ 女 院 は 老 た る 御 身 に 、 い つ と も 期 せ ぬ都 帰 り 、 今. た ら ち め の絶 や ら て待. ね と も 、 折 か ら 哀 に悲 し く て 皆 涙 を ぞ 流 し け る 。 夜 も 漸 明 方 に. し 御 焼 火 を 奉 り 、 供 奉 の 人 々 も 是 に あ た り て、 衛 士 の焼 火 あ ら. あ た り の松 の 枯 枝 切 お ろ. 浮世 には か ﹀れと て. 日 や 明 日 や と 思 召 す 御 歎 の色 、 日 に随 ひ て ま さ ら せ 給 ひ 、 思 召 沈 ま せ給 ふ 由 聞 召 て 隠 岐 の御 所 よ り 、. 中 々に. 成 ければ 、雪 も晴 て空 さや か に四方 の梢 も白妙 也。 御 迎 の人参. ( 三六裏 )隠 岐 の. り 加 り 、 道 踏 分 さ せ て 阿 波 国 へ成 せ給 ふ と て、. 七條 院御 返し 、. 荻 吹風 の絶ね かし音 信 くれ は霞 そ こほる ﹀. 浪 こ と 問 ん 隠 岐 の こ と こ そ聞 ま ほ し け れ. つ露 の身 を 風 よ り 先 に い か て 問 ま し. 法 皇 第 一の御 子 は土 御 門 院 と 申 奉 る 。 去 ぬ る 承 久 三 年 三 月 に、. 成 る 年 な れ は 、 三 院 二 宮 遠 嶋 に 遷 さ れ 、 公 卿 官 軍 刑 鐵 に逢 ぬら. け る 。 時 房 泰 時 義 村 信 光 長 清 等 は 、 一天 の 君 を 檎 に し 九 重 の城. (三 八 表 ) 今 年 如 何. 浦 々に寄 る白. 御 心な らず御位 を下 し奉 り しかば 御恨 深く 、法 皇 には御 不幸 の. ん 。 不 思 議 な り け る 運 命 か な と 、 高 き も 卑 き も 時 節 の変 を 歌 ひ. 、我 身都 に安 堵 し給 はば、 不孝 の罪 深 かる. こ と く に て、 今 度 の 御 謀 反 に も 與 し 給 は ず 。 関 東 に も 兎 角 の沙. 一院配所 にま しく. 汰 に は 及 す し て 都 の 内 に お は し ま し け る所 に、仰 出 さ れ け る 様 、. 一72一.

(17) 付能 登守 秀康被 諌事. 部 一二人 辛 ふ し て逃 帰 り 六 波 羅 へ申 け れ は 、 在 京 の 武 士 二千 余. 蜂 起 し て 、 相 模 守 の使 を 四方 よ り 取 囲 み 三 十 余 人 を 打 殺 す 。 下. ふを取 立進 ら せ、御 父 の守貞 には太 政 天皇 の尊 号を 奉 り、承 久. 也 。御 子茂 仁親 王を帝 位 に仰 き奉 る べしと て、今年 十歳 に成給. 義 時計 ら ひ申 て御位 に即奉 ら んと有 し かとも 、入道 親王 の御事. も即奉 らず 、持 明院 の宮 と号 し て打 込ら れ ておはし まし けるを 、. 皇 の御 兄守 貞親 王 は、後 白河院 の御 心 に叶 はせ給 すと て帝 位 に. 廃帝 と申 て王代 の数 の ( 三 八裏 )外 にそ おはしま す。後鳥 羽 上. 関東 より計 ら ひ申 て僅 に九十余 日 にし て御位 下し奉 り、 九條 の. 調 はず 程 なく此 乱あ りし かば、 三院 共 に遠嶋 に遷 され給 へは 、. 懐成親 王 は新院 の御譲 り を受 させ給 ひけれ とも、御 即位 の式 も. 関 東 へ申 さ れ 六 條 河 原 に し て 首 を 刎 、 獄 門 に桑 ら れ た り 。. 此 乱 逆 は 此 両 人 の 謀 計 よ り事 起 れ り 。重 科 の 責 重 か る へし と て 、. 日 秀 康 秀 澄 両 人 を 河 内 国 よ り 生 捕 て、 六 波 羅 に そ 渡 し け る。 抑. 取 て 、 六 波 羅 に ぞ 送 り け る。 此 者 の白 状 す る に依 て 、 十 月 十 六. 理 り 有 と て、 軍 勢 を ば 引 取 て 帰 洛 有 リ。 不 日 に秀 康 が 郎 等 を 搦. 生 捕 て進 ら す へし 。 軍 勢 を は 引 取 給 へと 申 け れ は 、 衆 徒 の申 旨. 乱 の 本 な る べし 。 今 度 叛 逆 の張 本 に於 て は 、 尋 出 し て此 方 よ り. 逆 臣 既 に大 伽 藍 を 焼 失 せ し に異 な ら ず 。 天 下 国 家. 侍 は ゴ 、 衆 徒 等 出 合 て 力 を 尽 し て 防 き 戦 ん 。 然 ら は 古 へ平 家 の. 木 津 川 の 邉 に 来 り 合 て 使 者 を 以 て 愁 申 様 、 軍 兵 只 今 南 都 に打 入. 騎 を 催 し 、 南 都 に そ 向 へら れ け る 。 衆 徒 此 由 を 聞 て 大 に 驚 き 、. 後嵯 峨院新 帝 践詐. を壁 て、猛威 を振 ひて鎌倉 にそ帰 りけ る。. 三年 七月九 日新帝 茂仁 践 詐あ り。後 嵯峨院 と申 は此 君 の御 事也 。. ら ひとし て、今度 勲功 の武 将 に勧賞 有。 功 の浅深 に随 ひ て充 行. 居置 る。叛 逆与党 の没 収 の領地 凡 三千余 ケ所也 。 二品禅 尼 の計. 奉 る。 武蔵 守泰 時相模 守 時房を 、京 都 の守護 とし て六波 羅 にて. 九表) け る。何 事も皆 右 京大夫 義時 か心 に任 せ、鎌 倉 より計 ひ. 号 し け る 。 此 比 鎌 倉 の前 濱 腰 越 の浦 々 に、 死 せ る 鴨 鳥 いく ら と. 興 ま し ま す 。 同 四 月 十 三 日 に承 久 四年 を 改 め て 、 貞 応 元 年 と そ. 弓 始 有 。 同 二 月 六 日 には 南 庭 に 於 て 犬 追 物 有 て 、 若 君 殊 に御 入. 草 木 の色 も 新 た に 見 へ、 鳥 の声 迄 も 嬉 し げ 也 。 正 月 七 日 若 君 御. 敷 年 も 暮 て、春 た つ今 日 と い ふ よ り し て、京 都 鎌 倉 同 し く 賑 ひ 、. 世 の 中 既 に静 詮 に 属 し 、 新 帝 御 位 に 即 せ 給 ひ、 物 騒. ( 四 〇表 )騒. 摂政道 家 公は鎌 倉 の将 軍 頼経 の御 父な れとも 、順徳 院 の舅な る. は る。 自分 に於 て は立 錐 の地 もな し。浩 る所 に謀叛 の張 本能 登. も な く 波 に ゆ ら れ て寄 来 り 。八 月 の 初 よ り 戌 亥 ノ方 に 彗 星 出 て、. 坊中 に乱 入し て捜 しけ れば、佛 具 経論迄 も取 散 し、狼籍 な る事. 珍 事 も な く 、 十 一月 二十 二 日 に は 京 都 禁 裏 の 大 嘗 會 を 無 為 に遂. 泰 山 府 君 の 祭 り を そ 始 め ら (四 一表 ) れ け る 。 さ れ と も 異 な る. (四 〇 裏 ). 守秀康 河内 判官 秀澄 は、 戦場 を遁 れ出 て南都 に落下 り深 く忍 ひ. 付禁 裏大嘗 祭 事. て居 たり けるを 、武蔵 守 泰時聞 出 し、相 模守 時房 に云合 て家 人. に非 と て、 前 濱 に し て 七 座 八 怪 の祭 り を 行 は れ 、 御 所 に於 て は. 軸 星 の大き さ半 月 のこと く、色 白 く光芒 なし。 是等 の怪異 只事. 鎌 倉 天変地 妖. 等を遣 し て捜し 求 る所 に、件 の両 人は跡 をく らま し て逐 電 す。. に因 て官職 を改 補 して、近 衛家実 公 を以 て摂政 にぞ補 せら れ ( 三. 東 大 興福 の両寺 の内 に方 人 (三九裏 )有 て隠 し置 ぬら んと て、 云計 なし。 衆従 等大 に怒 て夜討 強盗 有 と笥 ける程 に、衆 徒悉 く. 一73一.

(18) 行 はれ、 大外 記師 季朝 臣書札 を 以 て関東 に申 下る。除 書等 を相. べ き 瑞 相 也 と て 、 民 百 姓 迄 喜 ひ合 奉 る 目 出 度 か り け る 事 共 也 。. 添 て 到 着 せ し め た り 。 最 度 目 出 た き 御 事 に て淳 厚 の 世 に立 帰 る. 野 口年 長. 承 久 物 語 一巻 、 湯 浅 氏 の蔵 本 を も て う つし ぬ 。. (四 =畏). 天 保 十 一年 十 二 月 廿 日. よしあき). こ の書 、 北 条 九 代 記 五 六 の巻 に あ り 。 彼 は此 書 を 取 れ る か 、 こ れ は 彼 書 を と れ る か 、 相 考 ふ へし 。 ( 四 二表) ( とくたけ. 一74一.

(19)

Referensi

Dokumen terkait

Oleh sebab itu, kami meminta pencalonan yang paling baik mewakili diri kita dengan meminta pelajar supaya mencalonkan insan yang telah melakukan sesuatu dalam komuniti atau

[r]

Kenaikan upah akan menaikkan juga biaya produksi suatu produk, sehingga hal ini selanjutnya adalah mengurangi jumlah produk yang ingin diproduksi oleh produsen.” Jika biaya atau

dilaksanakan, melakukan penetapan salah satu diantara peserta lelang yang mengajukan penawaran sama dengan melakukan pengundian.--- --- Peserta lelang mengajukan

Jangkauan penelitian dalam penulisan skripsi ini meliputi kasus para tenaga kerja Indonesia yang berada di luar negri khususnya Arab Saudi dan peran serta

Utility Approach ) → kpuasan konsumen bisa diukur dg uang or satuan lainc. Ordinal Utility Approach (

Dengan memperhatikan studi kelayakan proyek dan riset pemasarannya maka kita dapat menentukan jenis usaha apa atau produk apa yang akan kita kerjakan, dengan demikian resiko

Dengan memperhatikan masalah-masalah yang dialami peserta didik kelas X TSM E dalam pembelajaran menulis serta karasteristik dan langkah-langkah strategi Belajar Memutar,