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Shiryo shokai senkyuhyakusanjunendai niokeru dokusaisei shiko

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Academic year: 2021

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(1)Title Sub Title Author Publisher Publication year Jtitle Abstract Notes Genre URL. Powered by TCPDF (www.tcpdf.org). 資料紹介 一九三〇年代における独裁制指向 T A Bittson(Uchiyama, Hideo) 内山, 秀夫 慶應義塾福澤研究センター 2004 近代日本研究 No.21 (2004. ) ,p.289- 319. Departmental Bulletin Paper http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koar a_id=AN10005325-20040000-0289.

(2) 次. 資料紹介. ・A. ・ビ. ッ ソ. ン. ﹁日 本 お よ び. へ の 驚 き だ った 。 最 近 、 私 は W ・フ ラ イ シ ャ ー と いう こ れ も. 目 本 人 論 ﹂ と し て的 確 な こ の書 物 が ベ ス ト セ ラ ーだ った こ と. 様 に み ら れ た のが 、 太 平 洋 戦争 開 戦直 後 に出 た. 予 想 外 に多 く の方 が 取 り 上 げ て く だ さ った のだ が、 そ こ に 一. ヒ ュ ー ・バ イ ア ス の ﹃敵 国 日 本 ﹄ を 訳 し て 出 版 し た と き 、. 訳者まえがき. 内 山 秀 夫 (訳 ). T. 一九 三 〇年 代 に お け る 独 裁 制 指 向. 近 代 日本 研 究 第 二十 一巻 (二〇 〇 四年 ). 目 訳者まえがき. フ ァシ スト 、 権 力 を 追う. はじめに. 一九 三 一年 九 月 十 八 日 から 一九 三 二年 五 月十 五 日 ま で 斎 藤実 政権 一九 三 二 年 五 月 二十 二 日か ら 一九 三 四 年 七 月 三 口 ま で 岡 田 啓 介内 閣. 戦 直 後 の ベ ス ト セ ラ ー だ と す る と 、 こ の フ ラ イ シ ャ ー の ﹃火. Oo二. コ9。。,o﹁.δ 、 ら§ 討 ミ 魯 之o≦ くo﹁宥 02 互o畠 ざ Oo﹁9コ 僧邑. 当 時 在 日 し た ア メ リ カ 人 ジ ャ ー ナ リ ス ト の ﹃火 山 島 ﹄ ( を =キこ. 結論. 一〇と ) を 訳 出 し 刊 行 に そ な え た の だ が 、 バ イ ア ス の 著 書 が 開. 一九 三 四 年 七 月 七 日以 降. 訳者あとがき. 289.

(3) よ ろ し か ろう 。 も っとも 、 ベ スト セ ラー と す る 根 拠 は 、 バイ. 十 日 、修 正 第 三 版 十 二月 十九 日) の ベ スト セ ラ ーと 称 し ても. 山 島 ﹄ は、 開 戦 直 前 ( 初 版 一九 四 一年 九 月 五 日 、 第 二版 十 月. そ の いず れ な のか 。. 性 が 承 認 され て い ると は 言 いが た い。) し か ら ば 、 日 本 国 は. た し 、 現在 でも 中 国 が そ う し て いる が 、 政 治 学 的 に そ の普 遍. こ の問 題 に つ いて の発 言 は な い。 君主 制 国家 と し て 日 本 帝 国. 天 皇主 権論 者 は 別 と し て. な いし 日本 王国 が 主 張 さ れ て いる と は 思え な いし 、道 州 制 に. 急進的改憲論者側からも. 論説 ( 昭 和 二十 年十 一月 四日) での指摘 であ るが 、 フライ シ ャー. 改 組 す る こ と で 日本 連 邦 共 和 国 が 構想 さ れ て いる と も 思 え な. ア ス の場 合 は 中 野 五 郎 ・朝 日新 聞 記 者 の ﹃週 刊 朝 日 ﹄ 誌 上 の. いこと を 断 ってお き た い。. う 。 そ の私 の始 原 と き っち り向 か い合 う ま で に、 私 には 約 六. 不安 に た いす る関 心 で あ る 。あ れ は い った い何 だ った のだ ろ. 報 の奔 流と 日常 的 体 験 と の乖 離 に よ る違 和 感 と 、 そ れ に伴 う. ち 世代 が、 敗 戦 によ って 一挙 に遮 断 を と か れ 、 押 し 寄 せ る情. 心 も 知 識 も も ち よ う が な か った ︿遮 断 ﹀ の歳 月 を 送 った 私 た. さ に無 知 そ のも の であ って 、鬼 畜 米 英 と 教 え ら れ た 以 外 に関. 最高 司令 官 ノ制 限 ノ下 二置 カ ル ル モ ノト ス。 ⋮ ⋮ 最 終 的 ノ政. 限 ハ降伏 条 項 ノ実 施 ノ為 其 ノ必 要 ト 認 ム ル措 置 ヲ執 ル連 合 軍. しかし、 ﹁ 降 伏 ノ時 ヨ リ 天 皇 及 ヒ 日本 国 政 府 ノ国 家 統 治 ノ権. 問題 な のは 、連 合 国 が 天皇 制 国家 を承 認 す る か否 か であ った 。. 皇 制 維 持 を 唯 一の条 件 にし た こ と は も は や 言 う ま で も な い。. 諾 と いう 形 で執 行 した 日本 政 府 が 、 ﹁ 国 体 の護 持 ﹂ つま り 天. 確 に し な け れば な ら な いは ず で あ る 。 敗戦 を ポ ツダ ム 宣 言 受. こ の疑 念 に答 え る には 天 皇 制 を どう 考え 、 どう 扱 う か を 明. あ る。. い。 つま り 、 ︿国 家 Vに つ い て こ の国 は 宙 吊 り のま ま な の で. に つ いては 短 期 間 に 版を 重 ね た事 実 か ら の私 の類 推 にす ぎ な. 私 の 現在 の関 心 は 私自 身 に据 え ら れ て いる 。 す な わ ち 、 一. 十年 の ︿生 活 ﹀ の歳 月 が す ぎ な け れば な ら な か った 。 そ の向. 九 三 〇年 代 か ら 四 〇 年代 の敗 戦 に いた る十 五 年 戦 争 期 に、 ま. か い合 いの起 点 が バイ ア ス の訳出 だ った の であ る。. 表 現 さ れ た 文 言 が実 行 に移 され 、 こ の問 題 を 結 着 す る こと は. ス ル意 思 ニョ リ決 定 セ ラ ル ヘキ モ ノト ス﹂ ( 傍 点 11内 山 ) と. な か った。 つまり 、 敗 戦後 に ﹁最 終的 ノ 日本 国 ノ 政府 ノ形 態 ﹂. 府 ノ形 態 ハ ﹃ポ ツダ ム宣 言 ﹄ 二遵 ヒ日 本 国 国 民 ノ自 由 二表 明. た こ と に直 接 かか わ って いる 。 つま り 、 国名 は政 治 の形 態 を. 政 治 学 者 と し て私 がず っと抱 いて き た 疑 念 は 、 ﹁大 日 本 帝. 国 の内 外 に表 明 す るも の であ る 。 そ れ は 原則 的 に共 和 制 か 君. を 決定 し な いま ま 国 家 のよ う な も のを ﹁国 ﹂と 称 し てみ た り 、. 国 ﹂ が 敗戦 に よ って新 憲 法 の採択 を 経 て ﹁日本 国 ﹂ に変 わ っ. 主 制 以 外 には な い。 ( 人 民民主主義が掲げ られたこともあ っ. ㎜.

(4) 一九三〇年代 にお ける独裁制指向. は 現実 性 を 維 持 し てき た の であ る 。. 権 力 作 用 の限 定 さ れ た 領 域 を 国 家 と 呼 ん だ り し て 、 ﹁日本 国 ﹂. え 方 が 間 違 っ て いな い こ と を 明 ら か に し た し 、 H ・B ・シ ョ ー. (中 村 政 則 / 三 浦 陽 一訳 、 三 省 堂 、 一九 八 三 年 ) は 私 の と ら. を つく り あ げ た 八 人 の ア メ リ カ 人1. 戦後日本. 信社 、 一九 九 四 年 ) で の ﹁T ・A ・ビ ッ ソン﹂ の章 も 私 を 鼓. ﹄( 宮崎章訳 、時事通. 本 の 国家 形 成 期 であ った。 これ 以 外 に日 本 人 が 国 家構 想 を提. 舞 し た 。 た と え ば 次 のよ う な 指 摘 が あ って、 私 を 凝 然 と さ せ. ン バ ー ガ ー が書 いた ﹃ 占 領 一九 四 五 ∼ 一九 五 ニー. 出 ・展 開 し た こと は な い。 ( 石 原 莞 爾 の満 州 国 構 想 を 取 り 上. 明治 維 新 か ら 大 日本 帝 国 憲 法 発 布 に いた る 期 間 が 、 近 代 日. げ る者 も あ るか も し れ な いが、 私 は そ れ が 結 局 は 大 日 本 帝 国. た 。 あ え て長 引 す る 。. ﹁夏 か ら秋 に か け て ビ ッ ソ ンも 憲 法 問 題 に深 く か か わ る よ. の従 属 国 で しか な い点 で、 国 家 と し て の普 遍 性 は 決定 的 に 欠 落 し て いる、 と 考 え て いる。). は 当然 占 領 軍当 局 に突 き と め る作 業 が あ ってよ い。 そ し て そ. は 考 え て いた が 、 そ れ は 勘 違 いだ った のであ る 。 G S の翻 訳. に よ る 憲 法 草案 が 提 示 さ れ た こ と で 解決 し て いた と ビ ッソ ン. 定 的 に な った 。憲 法 問題 は ⋮ ⋮幣 原 内 閣 に対 し GS ( 民政 局). う に な り 、 日 本 の旧 勢 力 に 対 し て抱 いて いた積 年 の疑 念 が決. の突き と め作 業 は占 領 研究 に含 ま れ な が ら 進 め ら れ て ゆ く 。. 担 当 官 が 日 本 語 訳 の言 回 し を 丹 念 に検 討 し た と こ ろ、 ア メ リ. 日本 側 に ﹁ 国 家 ﹂ の新 概 念 が 準 備 でき て いな いとき 、 そ れ. だ が 、 私 か らす る と 、 そ れ は ﹁日本 国 国 民 ノ自 由 二表 明 ス ル. カ 側 の意 図 か ら か な り逸 脱 し て いる こと が 判 明 した ので あ る。. 憲 法 前 文 や天 皇 の地 位 を 規 定 し た 第 }条 で 、英 語 で は ﹃人 民. 意 思 ニ ヨリ決 定 セ ラ ル ヘキ﹂ と こ ろ で立 ち 止 ま ってし ま う 。. の意 志 の主 権 ﹄ ( の o<o邑 。q三曳 oら葺o ℃oo℃司。。 ≦≡) と いう 言. と す ると 、 将 来 に お い て ﹁ 決 定 ﹂ さ れ る こと は な いに し ても 、. ニ ュー デ ィ ー ラ ー の ラ デ ィカ ル派. 葉 遣 いが 数 か 所 あ る 。 日本 人 は℃。o 豆。 を ﹃ 国民﹄と翻訳した。. ビ ッソ ン は 日本 政 府 の交 渉 者 の鉄 面皮 に愕 然 と した 。 例え ば 、. 革 意 欲 に燃 え た 人 た ちー. の 思惟 と 提 言 に 、 こ の ﹁ 決定﹂ へ. ︽リ メイ ク ・ニ ッポ ン︾ に専 念 した 占 領 当 局 者 、 と り わ け 改. の方 向 で 探 る べき こ と が ら が多 分 に埋 没 し て いる の では な い. 七 月 中 旬 の ホイ ット ニー ( 民 政 局 長 ) に宛 て た 長大 な覚 書 の. と でも 称 す べ き 人 た ちー. 中 で、 ビ ッ ソ ンと 二人 の G S 局 員 は 、 こ の文 脈 で の℃。 o且oの. ℃8℃δよ り も ロ巴 8 で あ り 、 国 民 と いう 表 現 に は 天 皇 の 意 志. 適 切 な 訳 は ﹃人 民 ﹄ であ る 。 な ぜ な ら ﹃国 民 ﹄ は 英 語 で は. か 。 私 が 捜 索 を は じ め てゆ き当 た った何 人 か の ア メ リカ 人 の. ( ↓ずoヨ器 ﹀ユず自 ロσ凶 。。。。oP 一ΦOO1 一〇刈O). 中 で 、 い く つ か の 点 で 関 心 を 深 め ざ る を え な か った の が ト マ ス ・ア ー サ ー ・ビ ッ ソ ン. で あ った 。 古 書 店 で 入 手 し た ビ ッ ソ ン の ﹃日 本 占 領 回 想 記 ﹄. 291.

(5) と 論 じ た 。 ビ ッ ソン に と って、 民 主 主 義 と いう 概 念 は 、 人 民. が 人 民 の意 志 の中 に溶 け込 ん で い ると いう 意 味 合 いが あ る 、. て いた の であ る 。 たと え ば 、太 平 洋 問 題 調 査 会 ( ぎω ユε8 9. が 、 ﹁東 方 の エイ リ ア ン﹂ と あ る ア メ リ カ 人 が称 し た ﹁日 本. 家 と し て の大 日本 帝 国 を 知 る た め の絶 大 な貢 献 であ った 。 だ. ℃僧。凶 膏 ﹀§ 冨 以 下 I P A ) は 一九 二 五 年 七 月 の ハ ワイ 会 議. 人 ﹂ に つ いて の理 解 を 啓 蒙 す る 活動 はず っと 早 く に は じ ま っ. を 起 点 に し て恒 久 的 に組 織 化 さ れ 、 日本 でも 一九 二 六年 四 月. いた 。﹂ (= 一 五頁) ピ ー プ ルに ど う い った 日本 語 を 宛 て るか は 、 私 も 翻 訳 作 業. が 天 皇 の意 志 と は 別 個 の意 志 を も って いる こと を 必 要 と し て. で悩 む 場 合 が多 いが 、 少 な くと も 人 民 ・民 衆 ・国 民 と い った. に 日本 I P R が設 立 さ れ た 。. 烈 な 活 動 が こ の国 で は行 わ れた のだ ろう か 。 誤 解 を 恐 れ ず に. し た 議 論 を拡 げ 深 め る こと で、 民 主 主 義 の理 解 を 深 化 す る 痛. 主 主 義 体 制 に と って致 命 的 な命 題 な の であ る 。 そ し て、 こう. ( 油谷大 三郎 ﹃ 未 完 の占 領 政策 ﹄ 東 京 大 学 出 版 会 、 一九 八 九. す る 国 際 主 義 的 な 理 念 に主 導 さ れ て 誕生 し たも の であ った 。﹂. 通 じ て太 平 洋 地 域 に関 係 す る 諸 民族 間 の友 好 を 促 進 し よ う と. 太 平 洋 地 域 を 背 景 と し て、 民 間 団体 に よ る学 術 ・文 化 交 流 を. ど を め ぐ って対 立 が 表 面 化 し 始 め て いた 一九 二 〇年 代半 ば の. こ の I P Rは 、 ﹁日 系 移 民 問 題 や中 国 の 不 平等 条 約 問 題 な. 言 葉 で訳 し違 いを す る に し ても 、 本 質 的 には 国 民 でな い こと. 言 え ば 、新 憲 法 で市 民 的自 由 を 開 放 す る こ と に よ って人 民 問. 年、六頁). が 前 提 にな る 。 こ れ は 政治 主 体 を 確 定 し な け れ ば な ら な い民. こ の問 題 は いま な お結 着 が つけ ら れ な いま ま に 放 置 さ れ て い. 題 は 解 消済 と さ れ て しま った の では な か った か 。 だ け れ ど 、. う な 性 質 の問 題だ か ら であ る。 だ が 、 そ う だ か ら と い って放. は 、 お そ ら く無 理だ ろう 。 それ は 次 元 を 異 にし て いる か のよ. この ﹁ 放 置 ﹂ を 問題 化 し 、現 在 の政 治 日 程 に組 み 込 む こ と. 油 谷 教 授 の 説 明 を 引 い て おく 。 ( 後 者 が ビ ッソ ンの 活 動 の 場. 的 問 題 を 主 た る 関 心 対 象 と し て いた。 こ こ で は後 者 に つ いて. 政策協会. 係協議会. ( 聞o﹁ 魚oqコ ℃o=。蜜 ﹀ω 。。 09㊤自o昌以 下 F P A ) は 、 時 事. ( ∩o琶 o 臨 8﹁﹁o﹁ 虫αqコ カ¢冨一 δ諺以 下 C F R ) や外 交. こ の I P R に先 行 し 、 第 一次 大 戦 直 後 に設 立 され た外 交 関. 置 し た まま で よ いこと に はな ら な い。 そ こ に十 五 年 戦 争 期 の. で あ った か ら であ る 。) ﹁こ の団体 の場 合 は、 外 交 問 題 に 関 す. る のが 実態 な の であ る 。. 大 日 本 帝 国臣 民 の無 知 情 況 を 自 覚 す る 要 請 が 内 面 化 さ れ る契. ト を 多 数 刊 行 す る な ど し て、 草 の根 の レ ベ ル か ら国 際 問 題 へ. る 世 論 の啓 発 に主 た る 関 心 が あ り 、討 論 資 料 用 の パ ン フレ ッ 最 初 に紹介 し た バ イ ア ス や フ ライ シ ャー の著 書 は 、 対 戦 国. ⋮ 機が あ る か ら で あ る 。. 蹴.

(6) 一 一九 三 〇 年 代 にお け る独 裁 制 指 向. の国 民 の関 心 を 高 め よ う と し てき た 。 そ れ に よ って 、外 交 政 策 の決 定 過 程 の民 主 化 を 計 ろう と 意 図 し て いた ので あ り 、極. ロロ毬 勘 o 明a薗腐 房曽 o。。 ぎ ζ m8 暮 ﹁雷 9 暑 ¢oコ 智 忘 コ 9コα 〇三爵 ・. だ け で 、十 分 に 了 解 でき るは ず であ る 。油 谷 教 授 が 指 摘 し た. レ ベ ル の 論 説 で あ る こ と は 、 こ こ に 訳 出 し た も の を 一読 し た. ﹁討 論 資 料 用 の パ ン フ レ ッ ト ﹂ と し て 、 か な り 高. の専 門 家 、 と り わ け 、政 治 的 、経 済 的 に影 響 のあ る エリ ー ト. ﹁草 の 根 か ら の 国 際 問 題 へ の 国 民 の 関 心 を 高 め る ﹂ 活 動 は 、. これらが. <o憎 く戸 Zρ 卜○一・Oo8 ヨ9 ﹁ 卜○ω・一Φω一.. 間 の意 見 交 換 を 通 じ て政 府 の外 交 政 策 決 定 に実質 的 な影 響 を. た と え ば 前 述 し た F P A の =o巴 ぎ o 切oo厨 で 果 た さ れ て い る 。. め て リ ベ ラ ル な 志 向 性 の 強 い団 体 で あ った 。 こ の点 は 、 少 数. (油 谷 前 出 、 五 九 頁 ) ビ ッ ソ ン は こ の F P A に 専 門 研 究 員 と. 嵩 Ψ 09 0σo﹁. 軍 国 日本 の. 行 使 し よ う と 意 図 し て い た C F R と は 、 対 照 的 で あ った 。﹂. 一Φ卜。Φ.. < O一 冒 × 曽 ZO● bOμ. Zρ. Zo. 。。り診 ⇒① N卜。曽 一㊤も。卜。・. 貯 ℃き 曽 くo︻ ≦ 戸. 討 B P. G。ρ. あ った 、 と 私 は 考 え て い る。 つま り 、 た と え ば ビ ッ ソ ン のよ. 前 述 し た 天 皇 制 の存 否 を 決 定 す る 日 本 人 民 の意 思と し た点 に. 必 然 で あ った ろう 。 こ の 日本 民 主 化 に た いす る大 き な布 石 が. そ れ が ︿日 本 民 主 化 ﹀ に凝 縮 す る 思 念 と行 動 に発 現 す る の は. ビ ッ ソ ンは 民 主 主 義 への確 信 を 抱 いて 戦後 に備 え て い った 。. ゆ く。 当 時 の米 国 で の数 多 く は な か った アジ ア研 究 者 と し て 、. フィ ック ・ア フ ェア ーズ ﹄ の副 編 集 長 への方 向 を 切 り 開 いて. こう し た ビ ッ ソ ン の活 動 は やが て、 I P A の機 関 誌 ﹃パ シ. 二 冊 が 発 行 済 であ り 、 そ れぞ れ 二五 セ ント であ る。). いる 。 (こ の=。巴 ぎ o ロ⇔oo厨 は こ の裏 表 紙 記 載 に よ る と 、 十. を 、 日 本 の古 代 か ら 紹 介 し つつ日 本 の運命 を客 観 的 に説 いて. 筆 姿 勢 で貫 か れ て お り 、 満 州 事 変 以 来 の 日本 と アジ ア の 問題. 一 逡 飼 ㊤①℃. ) は 、 ア メリ カ国 民 の啓 発 を 目的 と す る 平 易 な 執. ﹄ ( 吻ぎ§ ミ ミ ミ } § 、§ Q 凌鴇 ミ ミ ミ亀ミ ξ § b. 私 の手 許 に あ る ビ ッ ソ ン の ﹃アジ アを覆 う 影 ー. 一〇や. 09 0σ9. くoピ く 戸 Zo.. 拾頭. し て 所 属 し 、 隔 週 刊 の ぎ 8ヨ 巨 δコ Qり臼 く繭 8 と 共 に 、 =$ α含 。 口﹂oo冨 の執 筆 に 当 た っ た 。 私 が 入 手 し た ﹁℃﹀ ぎ 8∋ 重 δコ 。。。﹁≦8 と し て の ビ ッ ソ ン の 論 説 は 、 こ こ に訳 出 し たも のを 含 め、 以 下 の通 り で あ る 。. ヨ. きα︼ ≦き 9 0呉 ⊆ρ <or ≦ 戸. O¢ヨ 8 鑓ok ヨ 討 彊 戸 くoピ ≦ 曽Zo・ 。。し 5 ¢ 卜。ρ 一りωρ 一ぽ . 富 ℃き 一〇℃ ﹁. 凌 。。o oh 凄 。。9 。。∋. 一㊤ω9. 目﹁0昌α ↓O≦ 碧 O 望 9讐 O﹁。。三 ℃ 言. 一Φωb。曽 一〇℃・. ↓滞 b 。9 ﹃冨 一ρ. O o<o∋ § ¢鼻. こ の ほ か 、 三 点 の 論 説 を 私 は 確 認 し た 。. ﹁oげヨ 9。曙. ↓ゴ① Zき 寄 お. 一㊤ωO・. 目ゴo 力oO ﹁δ 口δ 二〇コ o蛎 匂巷 ①巨。。 ﹁o﹁ 9 αqコ ℃o=oざ 一ρ O o8 σo﹁ 一μ. 93 2.

(7) う強 め、 反 連 合 国 的感 情 を 増 幅 さ せ る恐 れ があ る点 で 、全 く. ﹃殉 教 者 ﹄ にし た てあ げ 、 日 本 人 の天 皇 崇 拝 の心 情 を い っそ. リ フ ォ ル ニア大 学 の教 職 を 追 わ れ た し 、 財 閥 解 体 で大 き な 業. 占 領 軍 当 局 か ら 追 わ れ た だ け でな く 、 た と え ば ビ ッ ソ ンは カ. 示 的 に排 除 さ れ て い った 。 ラ デ ィカ ル ・ニ ュー デ ィー ラー が. イ デ オ ロ ギ ー の米 ソ衝 突 であ り 、 日 本 占 領 の理 念 的 作 動 は 黙. 内 に猛 威 を 振 った ︿赤 狩 り ﹀と つな が る と こ ろ が あ った 。 そ. 逆効 果 であ る と 考 え て いた 。 そ れ故 、占 領 軍 と し ては 、 思想. 績 を あ げ た E ・M ・ハド レ ー も 職 がえ ら れ な か った 。 ( バト. う に、 ﹁天皇 制 に対 し て極 め て否 定 的 な 見 解 を も つ論 者 でも 、. の自 由 や報 道 の自 由 を 徹底 し 、 日本 人 に 天皇 制 を 批 判 的 に検. リ シ ア ・へ! ガ ン ・ク ワ ヤ マ、 田 代 や す 子 訳 ﹃ 財閥解体 ﹄. れは 物 質 的 豊 富 を 民 主 主 義 体 制 の成 果 と す る 、 思 想 な き 覇 権. 討 でき る条 件 を 保 障 す る こ と に よ って 、 日 本 人自 身 が 主 体 的. 東 洋 経 済 新 報 社 、 二 〇 〇四 年 、 参 照 ). 占領 軍 によ って ﹃外 か ら ﹄ 天皇 制 を 廃 止 す る こ と は 、 天皇 を. ( 油 谷 、 前 出 、 一七 七頁 )。. に 天皇 制 の存 否 を 決 定 でき る よう に す べき と 考 え て いた 。﹂. 占 領 軍 に よ って開 始 さ れ た 民 主 化 は 、 冷 戦 の進 展 、 日 米 同 盟. こう した 過 程 は 日本 にお け る 民 主 化 の終 了 を 意 味 し た の で. 関係 の強 化 等 に よ って 、︿戦 後 の終 焉 ﹀と し て完 了 を 提 示 さ. はな か った 。 言 いか え れ ば 、 民 主 化 と は プ ロジ ェク ト によ っ. 民 主 化を社 会 化 過程 に同調 す る こ の視角 は 、 お そら く 、 ヨー. れ た か の よう であ る。 し か し 、 今 の日 本 人 は 果 た し て、 敗 戦. つま り 、 天 皇 制 に つ いて の 評価 が でき る ま で に 、 日 本 人 が. ロ ッパ的 寛 容 の極 致 であ った だ ろう 。 も ち ろ ん 、 こ の背 後 に. 直 後 の帝 国 臣 民 の無 知 を 克 服 し 、 そ の克 服 を 身 体 化 し て、 強. 民主 化 さ れ る 条 件 を と と のえ る こ と が そ こ に措 定 さ れ て いた. は占 領 軍内 や連 合 国 間 で の熾 烈 な ヘゲ モ ニ ィ闘争 が あ った 。. 靭 な 民 主 主 義 を 形 成 す る過 程 に身 を お い て いる 、 と いえ るだ. て始 ま り 、 そ の終 了 に よ って終 わ る性 質 の こと が ら で はな い。. さ ら に、 戦 後 世 界 の構 図 を 決定 的 に変 え た 冷 戦 の 発 現 は 、 こ. のだ 、と いえ る だ ろ う 。. う し た民 主 化 の深 化 を 中 断 す る だ け の 緊急 性 を も た ら し た 。. ろう か。. わ れ の 居 場 所 と し て の ︿此 処 ﹀を 根 こ そ ぎ に し 、 一種 の. む し ろ 、 さま ざ ま な ︿反 動 ﹀思 潮 が 一挙 に殺 到 し て、 わ れ. 米 ソ代 理 戦 争 と 称 さ れ た朝 鮮 戦争 も 、 戦争 そ のも のを も 民 主. 等 質 化 過 程 を つく り だ し て い る の では な いか 。 そ れ は ま た 国. 化 と す る思 想 的 弛 緩 を 許 し た 。 そ こ に 提 出 さ れ る のが 、 経 済 成 長を も って民 主 化 達 成 の条件 と す る S ・M ・リ プ セ ット 仮. 内 外 のす べ て の事 態 を 眼 前 の そ れ に還 元 し て説 述 す る問 題 の. 説 と いわ れ る よ う にな る テー ゼ で あ った 。 こ の ﹁イ デ オ ロギ ー の終 焉 ﹂ イ デオ ロギ ー は 、 ア メリ カ 国. 294.

(8) 一九三〇年代における独裁制指向. 狭 窄 化 と セ ット に な って いる ので は な いか 。 こう し た 日本 に. 多 く の他 国 と 同 様 、 日本 に おけ る政 治 危 機 は 不 況 と 、 そ の. に成 功 し た のだ が 、 そ れ が政 党 政 治 への復 帰 を 促 進 し て いる. 結 果 と し て の経 済 的 な ゆ き詰 り の直 接 的 なな り ゆ き であ った 。. のか 、独 裁 制 への道 を 開 いて いる のか は 、ま だ 確 か では な い。. 日 本 にお け る ︹ 第 一次 大 戦 ︺ 戦 後 調 整 は 、 多 く の西 欧 諸 国 に. て否 定 的 に と らえ て み せ 、 そ れ に 代 わ る べき も のを 提 示 しな い。 私 が こ こ に 書 いた 舌 た ら ず の論 説 は 、 こう した 等 質 化 に. お け る 一連 の 権力 作 用 は 、 戦後 のさ まざ ま な ︿回復 ﹀を す べ. あ え て抵 抗 す る 創 造 -想 像 作 業 の いさ さ か こ ね く り か え った. 較 べ ると は る か に遅 れ た た め に、 一九 二七 ( 昭 和 二)年 頃 に. 公 約 の多 く を 取 り 入 れ 、 そ の こと に よ って 軍 部ーフ ァ シ ス ト. 日ま で 政権 の座 を 確 保 し た 。 斎 藤 内 閣 は 軍部 -フ ァ シ スト の. 軍 大 将 が 超 党 派内 閣 を 組 閣 し 、 一九 三 四 ( 昭和 九 ) 年 七月 三. て出 るき ざ し を 示 し た 。 犬 養 首 相 暗 殺 の 一週 間後 、斎 藤 実 海. 軍 部 ーフ ァシ スト 勢 力 は 、 日 本 の立 憲 体 制 の完 全 打 倒 に打 っ. た 八 ヶ月間 に、 二 つの政 党 内 閣 が 政権 を 追 わ れ た。 こ の時 期 、. と い った 費 用 を 農 民 は 負 担 しな け れば な ら な か った 。 非 常 に. ふえ た。 重 税 に加 え て、 高 利 の負 債 、 米 価 変 動 、 高 価 な 肥 料. 八円 、 一九 三 〇 (昭和 五) 年 ー 二 五 ・八円 と い った ぐ あ い に. ( 明 治 四 十 四 ) 年 - 一〇 ・ ﹁円 、 一九 一九 ( 大 正 八 ) 年 ー十. 接 税 は 、 一八 九 一 ( 明 治 二 十 四 ) 年 - 二 ・二円 、 一九 一 一. 比 重 を か け て い る。 国 民 一人 当 た り の国 税 お よ び 地 方 税 の直. 税 制 度 は 、直 接 税 と 間 接 税 の 二本 立 てだ が 、 圧 倒 的 に 農 民 に. 民 経 済 は 、 農 民 が つく り あ げ て い る基 盤 に依 存 し て いる 。 課. 近 代 的 な 産 業 の時 代 にな っても 、 封 建 時 代 同 様 、 日 本 の国. 村 は 慢 性 的 貧 窮 の状 態 にあ った 。. 働 者 お よ び 下 層 中 産 階 級 の状 態 は 確 実 に悪 化 し つ つあ り 、 農. の分 配 も 階 級 によ って不 公 平 であ った 。 不 況 以 前 で す ら 、 労. の時 期 のも う け は 一時 的 な も の にす ぎ な か った ば か り か 、 そ. き び し い金 融 恐 慌 を 引 き 起 こす こと にな った 。 ﹁に わ か 景 気 ﹂. 言 回 し であ り 、 ビ ッ ソ ン引 出 し の弁 証 な のであ る。. はじめ に 日 本 陸 軍 の 首脳 た ち が満 州介 入 に乗 り出 した ﹁九 三 ﹁ ( 昭 和 ⊥ハ) 年 九 月 十 八 日 、 日 本 の 政 治 機構 は 深刻 な 危 機 の時 代 に. が推 進 す る方 向 と 速 度 にた いし て、 あ る 程度 の統 制 力 を獲 得. 突 入 した 。元 蔵相 、 資本 家 代 表と し て首 相 の暗 殺 が 現実 にな っ. した 。 そ れ と ほ ぼ 同 じ 機 能 を そ の後 果 た し た の が、 一九 三 四. 多 数 の小 作 農 民 は そ の上 に 、高 い小 作 料 を 背 負 って い る。 不. 況 が は じ ま る と 、米 価 お よ び生 糸 価 格 が大 き く 下 落 し、 こう. (昭和 九 ) 年 七 月 七 日 に 結 成 さ れ た 岡 田 啓介 内 閣 だ った 。 こ の 二 つの内 閣 は こ のき わ め てむ ず か し い移 行 期 を 乗 り 切 る の. 295.

(9) れ 、 そ の 一方 で学 校 や大 学 の卒 業 生 で就 職 にあ り つく の は ほ. こ の 十年 間 の終 わ り に当 って、 こう し た 状 況 はす で にき わ. ( 昭和 四 ) 年. め て 深 刻 に な って いた た め に、 都 市 と 農 村 を 問 わ ず 、 広 範 囲. し た産 物 か ら 日 本 農 業 が得 た所 得 は 、 一九 二九. そ し て 一九 三一 二 ( 昭 和 八 )年 の七 億 七 八 ○ ○ 万 円 に 下落 し た. に わ た る社 会 不満 を 生 み だ し て いた 。 地 主 にた いす る小 作 争. と ん ど 不 可能 であ った 。. のであ る。 農 民 の負 債 は確 実 に増 大 し 、 一九 三 二 ( 昭和七). の十 五億 円 か ら 一九 三 二 ( 昭 和七 )年 の 九億 二 二 四 〇 万 円 、. 年 に は 総額 五十 億 円 に な ん な ん と し た 。 こ の時期 、 日 本 の農. た 。 ]九 三 二 (昭和 七 ) 年 には そ の争 議 は 三 四 一四件 と ピ ー. 議 は 、 一九 二 六 - 二八 ( 大 正 十 五 -昭 和 三 ) 年 の六 六 六 九件. ク に 達 し 、 一九 三 三 ( 昭 和 八) 年 には 三 三 八 四件 だ った 。 こ. か ら 、 一九 二九 - 三 ] ( 昭 和 四 ー六 ) 年 の八 三 三 一件 に ふ え. 有 す る と こ ろ でも あ った 。 一九 二 七 ( 昭 和 二 )年 の恐 慌 以 後. う した 農村 紛 争 の中 で 、 一九 三 二 ( 昭 和 七 )年 のそ れ の四 四 ・. 農 民 階級 が こう む った苦 労 は ま た 、都 市 の労 働 者 階 級 の共. 次 第 に 効果 を 発 揮 し てき た 企業 の合 理 化 に よ って 、労 働 者 の. 五 % 、 そ し て 一九 三三 ( 昭 和 八 ) 年 の 五八 ・三 % の たね を ま. 業危 機 の苛酷 さは 、多 く の農 村 地域 を 飢 餓 状態 に追 い つめ た 。. ベ ルに ま で追 いやら れ た の で あ る 。 カ ルテ ル と 政 府 が 設 定 し. そ う で なく と も 悲 惨 な わ ず か ば か り の収 入 が 、 さ ら に 低 い レ. 頑 強 に 抵抗 す る こと が 、 だ ん だ ん で き な く な った 。 独 占 系 列. え か ね る状 況 にな った 。 小 企 業 に し て も 、産 業集 中 の推 進 に. 経済 危 ⋮ 機 の衝 撃 を 受 け て 、 下 層 中 産 階 級 に し て も 同 様 に耐. 争 議 は 六 一六 五件 、参 加 人 員 は 五 一万 八 四七 七 名 だ った 。 弾. 二 五 一〇名 であ った。 一九 二九 ⊥ 二 一 ( 昭和 四 ー⊥ハ) 年 で は 、. 式 記 録 に よ れば 、労 働 争 議 は三 四八 三件 、 参 加 人 員 は 三 三 万. た 。 一九 二 ⊥ パー 二 八 ( 大 正 十 五 -昭 和 三 ) 年 で は、 政 府 の公. 都 市 部 に あ っても 、 労 働 者 お よ び 中 産 階 級 の抵 抗 が増 大 し. いた のは 、小作 人 か ら土 地を 奪 おう と し た地 主 側 の策 謀 であ っ. 企 業 は 不況 のき び し さ を 無 傷 で 切 り 抜 け た け れ ど も 、 そ う し. 圧 が増 大 し た にも かか わ ら ず ]九 三 二 ⊥ 二一 二 ( 昭 和 七 -八 年 ). た。. た 企業 でも 操業 短 縮 を しな か った 企業 は 大 損 失 を こう む った 。. た 割当 で強 制 さ れ た 操業 短 縮 お よ び改 良 機械 の広 汎 な 採 用 に. 小 企業 は、 一九 三二 ( 昭 和 七 )年 に は負 債 額 二 五億 円 に達 し 、. いる 。 小 売 業者 の デ パ ー ト 反対 運 動 、 職 人 お よび 小 工 場 主 に. で は 四 一一四件 の争 議 、 参 加 人 員 二 四万 四六 名 と 記 録 さ れ て. よ って、 日本 では じ め て 二三 〇 〇 万人 の失 業 軍 人 が生 ま れ た 。. 一途 を た ど った。 中 産 階 級 イ ン テリ も ひ ど い損 害 を こ う む っ. よ る減 税 ・貸 付金 利 軽 減 要 求 、 そし てイ ンテ リ の仕 事 要 求 は 、. そ れ に 加 わ る 圧力 は 、 小 中 銀 行 の閉 鎖 の進 行 に よ って激 化 の. た 。 企 業 や官 公 庁 の月 給 取 り には 大 幅 な 資 金 カ ット が 課 せ ら. 296.

(10) 一九三〇年代 にお ける独裁制指向. 国 民 の中 間 層 にわ だ か ま って いた社 会 不 満 のさ ま ざ ま な 徴 候. の成 長 、 そ し て共 産 主 義 者 の活 動 に も 表 出 し た 。 そ れ は マル. の あ ら わ れ であ った 。 こ の社会 動揺 は 社 会 主 義 の政 党 や組 合. フ ァシ スト 、権 力 を 追 う. 心 が 広 が った 事 実 が 、 日 本 官 憲 の関 心 を 招 いた 。 そ れ に対 応. 過 激 運 動 に も ま し て、 ﹁ 危 険 思 想 ﹂ に た いし て広 い範 囲 に関. そ の翻 訳書 は 日本 で広 い範 囲 にわ た って買 わ れ た 。 他 のど の. 学生 も マルク ス主義 の古 典 の研究 と解 説 にそ の関 心 を集 中 し 、. イ ンテ リ のあ ら ゆる サ ー ク ル に浸透 し た 。 大 学 では 、 教 授 も. を 、と りわ け社 会 革命 の脅威 から守 ると いう基 本 的要 請 があ っ. てお 互 いを破 滅 さ せ るも の で はな か った。 彼 ら の支 配 的 地 位. あ った。 こ の支配 グ ル ープ は対 立 は し て いても 、だ か らと い っ. は 、資 本 家 、 地主 、天 皇 制 官 僚 、 軍部 の派 閥 の 四 グ ル ー プ で. 間 の激 烈 な 政 治 闘争 の結 果 であ った 。 こ の 闘争 に加 わ った の. 一九 三 〇 ( 昭 和 五 )年 以 降 展 開 さ れ てき た 日本 の支 配 諸 勢 力. タ ︹ 柳 条 湖 の満鉄 線 路 爆 破 、満 州 事 変 勃 発 ︺ は 、 基本 的 に、. ↓九 三 ㎝ ( 昭 和 六 )年 九 月 十 八 日 に起 き た満 州 で の ク ー デ. す る作 業 が行 わ れ た が 、 そ の範 囲 は 、 大 量 逮 捕 に よ る 直 接 弾. ク ス主 義 への傾 倒 の増大 と し て表 出 し たし 、 マルク ス主 義 は 、. 圧 か ら 日本 の文 化 と 歴 史 の基 本 を 対 象 と す る 大 学 カリ キ ュラ. て、 そ れ が 相 互 間 の強 力 な 結 束 の絆 を な し て いた の で あ る 。. いた穏 健 派 リ ーダ ー の旧 態 依 然 た る 方 法 では 、 特 権 が ら み の. の問 題 に直 面 した 。 こ の危 機 に際 し て、 当 時 権 力 を 掌 握 し て. 支 配 グ ループ は、 断 乎 た る 行 動 が 要 求 さ れ る 一連 の空 前 絶 後. 経 済情 勢 と それ によ って生 じ た 社 会 動 揺 によ って、 日 本 の. こう し た 対 立 は 、 国家 機 構 の支 配権 を 握 った グ ル ー プ に 有 利. ジ ョ ア問 に は 、も っと 激 し い対 立 が生 じ た 。結 局 の と こ ろ、. 間 では 、 関税 等 の 問題 を め ぐ って衝 突 が生 じ た 。 軍 閥 と ブ ル. を め ぐ って 対 立 が はげ しく な った の に 反 し て 、資 本 家 と 地 主. 危 機 にあ って先 鋭 化 し た の だ った 。資 本 家 相 互 で は 通 貨 政 策. 害 と 政 策 の重 大 な違 いが、 範 囲 は 限 ら れ て いるも の の、 経 済. し か し な が ら 、 こ の本 質 的 な結 束 を前 提 と し て は いた が 、 利. ム の導 入 にわ た った 。. 社 会 秩序 維 持 に不 向 き にな り 、 も っと 大 胆 な リ ー ダ ー シ ップ. な 形 で解 消 さ れ た 。 こ の対 立 の 中心 に な った の は 、 軍 首 脳 と. を 発 揮 す る新 政 治 勢 力 が 急 激 に前 面 に 躍 り で てき た の であ っ た。. 第 一次 大 戦 中 お よ び 以後 、 日 本 の産 業 上 ・財 政 上 の関 心 は. 資 本 家 と の国 家機 構 の支 配権 を め ぐ る も のであ った 。. 297.

(11) 頂 点 に達 し た 。 郡 部 か ら の小作 料 の徴 収 者 と し て の独自 の役. え ば内 閣 は執 行 権 を 枢 密 院 、 宮 内 省 、 元 老 、 軍 部 と 共 有 し て. いる ので あ る 。最 近 に な って、 政 府 が た った 一度 だ け だ が 、. いる 。多 数 の要 因 が組 み合 って、 衆 議 院 を 下位 に位 置 づ け て. も 、 地代 の形 で小 作 農 か ら し ぼ り と った 資 本 は 主 と し て、 工. 割 を 伴 った 重 要 な 地 位 を 依 然 と し て地 主 は 握 って いた け れ ど. こ の理由 で 、資 本 家 が こ れま で遮 断 さ れ て いた 政 府 機 関 で. 議 会 で 行 わ れ た 不信 任 投 票 で ひ っくり 返 さ れた のは 、 重 大 な. の権力 の座を 獲 得 した と いう 事 実 にま す ま す 重 要 性 が 加 え ら. 意 味 が あ る。. 占 資 本 と の 一体 化 も 進 ん で い った 。 日本 の半 ダ ー スも の巨 大. れ た ので あ る 。 か って は、 貴 族 の制 度 だ った貴 族 院 の多 数 の. 業 と 銀行 に投 資 さ れ た 。 こ こ数 年 間 に、 日本 の工 業 と 貿 易 は. な家 族企 業 連 合 が 今 日 、 世 界 中 でも っと も 強 力 な 金 融 寡 占 企. か な り の規 模 に達 し 、 重 要 性 も 増 大 し た だ け でな く 、 金 融 独. ビ ッグ スリー. に 、大 金 融 資 本 連 合 によ って貿 易 お よ び 工 業 の支 配 権 が 増 強. グ ・エイ トが 二分 の 一を 握 って いる 。 一九 二 〇年 代 の 十 年 間. ー. 過 激派 の 標的 にな って いる。 最 後 の元 老 た る西 園 寺 公 爵 は 、. た め に 、 軍首 脳 が 天皇 に接 近 す る のを 妨 げ て い ると さ れ て、. 爵 が大 臣 であ り、 牧 野 伯 爵 が枢 密 院 議 長 と し て存 在 し て いる. 議 員 が 、今 や大 企 業 の代 表 にな って いる。 宮 内 省 は 、 一木 男. 業体 の 一つを な し て いる。 三井 ・三菱 ・住友 ー. し た た め に、 日本 の国 民 経 済 は 、 高 度 独 占 資 本 主 義 段 階 に達. 住 友 財 閥 と密 接 な 関係 を も って いる。 首 相 の選 任 に関 し て天. の銀 行 家 系 列 は 日 本 の金 融 資 本 の四 分 の 一を 握 り 、 ビ ッ. した。. た 逸脱 は 、 陸 海 軍 が占 め た特 殊 な 地 位 であ る。 文 官 は 、 勅 令. 日本 の統 治 機構 にあ って、責 任内 閣制 か ら のも っと も 目立 っ. 皇 へ の進 言者 と いう 戦 略 的 な有 利 な地 歩 に よ って活 動 し て い. 的 に は 、戦 後 には 最 高 に達 し て いた 。 三 菱 系 企 業 と 民 政 党 の. に よ って 陸海 軍大 臣 に はな れず 、 大 臣 は 現 役 の陸 海 軍 将 校 で. そ の経 済 権 力 が 増 大 し た た め に、 日本 の金 融 資 本 家 と 産 業. 密着 は誰 知 ら ぬ者 は な く 、 政 友 会 は 、 依 然 と し て地 主 を 代 表. な け れ ば な ら な か った 。 時 に は、 西 園 寺 内 閣 の 一九 = 二 ( 大. 一九 三 一 ( 昭和 六 )年 ま で 、党 の総 裁 の継 承 にも あず か った 。. し続 け て いる にし ても 、 三井 系 と 密 接 な 提 携 関 係 にあ った 。. 正 二 ) 年 の場 合 の よう に 、陸 軍 が大 臣 を 内 閣 に送 り 込 む のを. る 西 園 寺 の影 響 力 は、主 と し て、 一九 二 五 ( 大 正 十 四 )年 か ら. だ が 、 こ のよ う に政 党 を 支 配 し た か ら と い って、 日 本 の政 治. 拒 否 した た め に、内 閣 が倒 れ てし ま う事 態 を 迎え る こと も あ っ. の 政党 に た いす る影 響 力 は ま え か ら 確 立 さ れ て いた が 、 実 質. 機構 は議 会 の活 動 の通 り に機 能 し な い のだ か ら 、 資 本 家 の政. 資 本 家 は 、政 府 機 関 にた いす る強 い支 配 力 を 獲 得 した 。 彼 ら. 治 的 ヘゲ モ ニィを 必 ず しも 保 証 す るも の で はな か った 。 た と. 298.

(12) 一九三〇年代 にお ける独裁制指 向. た 。 こう した 行 動 に出 る とす る表 面 に は で な い威 嚇 が常 に 、. に挑 戦 せざ るを 得 な か った 。 し か し な が ら 、 将 軍 たち は す で. らす ると 、 年 長 の保 守 派 将 軍 たち が 陸 軍 部内 で 得 て いた 地 位. 占 資 本 主 義 の影 響 に反 対 の意 向 を も ち 、 彼 ら の個 人 的 関 心 か. に 、 より 貧 しく 力 も な い藩 出 身 で小 地 主 お よ び 下層 中 産 階 級. に、 陸 海 軍大 臣 は 、 首 相 に こ と わ り な し に、 天 皇 に直 接 拝 謁. 出 身 の佐 官 ク ラ ス の将 校 に押 しま く ら れ て いた のだ った 。 一. 内 閣 の構 成 と 政 策 に 一定 の圧 力 と な って いた の であ る 。 さ ら. 陸海軍大臣. す る権 利 ︹ 帷 握 上奏 ︺を も って いる 。 こ の権 利 を も つ者 は 、. 九 三〇 ( 昭 和 五 )年 にな ると 、武 藤 、荒 木 、真 崎 、林 将 軍を. 陸 軍 参 謀 総長 ・海 軍 軍令 部 総 長 お よ び 大 本 営 i. 加 え て 、 こ の佐 官 ク ラ ス の将 校 は 、大 本 営 ︹こ の英 語 表 記 は. 部 員 で あ る 。結 局 、 参 謀 本 部 員 は 軍 にた. いし て最 高 の指 揮 権 を 行 使 す る のだ か ら 、 こう し た 行 動 は 通. の管 轄 下 に な いー. 述 は 誤 って い る。 昭 和 五 年 には こ の種 の格 別 の機 構 設 置 は 見. のは 、 一九 三七 ( 昭 和 十 二 )年 十 一月 二十 日 だ から 、 こ の記. 当 た らな い。 訳 者 ︺ の支 配 権 の獲 得 に着 手 し た 。少 な く と も. 。。毛δ∋① ≦碧 60琶 。鵠で あ る。 た だ し 、 大 本 営 が 設置 さ れ た. る。 コー ル グ ロー ブ が いう よ う に、 ﹁軍 を 文 民 統 制 か ら は ず. じ て、 軍 の行 動 を 開 始 あ る いは終 結 す る こ と が でき る ので あ. と の つな が り で評 判 を 落 と し た こ と は な か った 。清 廉 な 軍人. 外 見 的 に は 、 こ れら の将 軍 は、 大 企業 ・官 僚 な いし政 党 首 脳. いう も の の、参 謀 本 部 員 は 、 政 府 の承 認 が な く と も 、 時 に応. し てし ま った た め に 、天 皇 に巨 大 な権 力 を 与 え た だ け でな く 、. 常 内 閣 の決定 に た いし て 天皇 が 裁 可 を 与 え た 結 果 であ る と は. 天皇 が 閣 僚 では な く 軍 首 脳 の いう こと に耳 を 傾 け る の であ れ. 陸 軍 の最 高 司 令 部 を 押 え て いた 長 州 閥 の勢 力 が 衰 退 す る に つ. 保 した 一九 二 〇年 代 に 、陸 軍 部 内 に抜 本 的 な 変 化 が 実 現 した 。. 政府 機 構 内 に資 本 家 た ち が 従 来 にま し て確 乎 た る位 置 を 確. 資本 家 を含 む 、 日本 の支 配 グ ル ー プ す べて の地位 を 強 化 し つ. に よ って、 国家 改 造 運 動 に曲 げ 入 れ た の だ が 、 彼ら は結 局 、. な 不満 と を 、 反資 本 主 義 の ス ロー ガ ンを 幅 広 く 利用 す る こと. でき た 。青 年 将 校 の抑 圧 さ れ た 不平 と 下 層 中産 階級 の 一般 的. て 、 ﹁国 家 ﹂ 改 造 を 主 導 す る勢 力 と し て名 乗 っ て出 る こと が. の立 場 を 堅 持 す る こと で、 彼 ら は挙 国 一致 を 推 進 し 、 か く し. れ て、 将 校 階 級 の社 会 構 成 が いち じ る しく 変 化 し た 。 一九 二. ば 、軍 閥 の支 配 力 が 高 ま る 。﹂. 〇 ( 大 正 九 ) 年 か ら 二七 ( 昭 和 二) 年 ま で の問 に、 新 し く 将. つあ った の であ る。. 政 権 ︹一九 二 九 -三 一年 (昭 和 四 年 - 六年 )、 浜 口雄 幸 内 閣. 軍 の こ の派 閥 が指 導 的 地 位 に つ いた の が 、ち ょう ど 民 政 党. 校 にな った 者 の三 〇% は 、 小 地 主 ・裕 福 な 農 民 ・都 市 部 の下. 増 加 し た。 彼 ら の家 族 環 境 か ら し て、 こ れ ら の青 年 将 校 は独. 層 中産 階 級 の家 族 出 身 であ り 、 こ のパ ー セ ン テ ージ は 着 実 に. 299.

(13) 胎 に瀕 し た 。 国 家 政 策 が 要 求 し た のは 、 大 陸 に強 力 な. ロ ンド ン海 軍条 約 を 批 准 す る こと で、 日 本 の国 防 は危. 植 民 帝 国 を 創 立 す る こ と 、 ソ連 の粉 砕 、 さ ら には ﹁皇. モ ニィを 握 った事 態 を も っ・ とも鮮 明に表現した、まさにその. 道 ﹂ を 他 の諸 国 に 拡 大 す る こと であ った 。. お よ び 第 二次 若 槻 礼 次 郎 内 閣 ︺ に よ って資 本 家 が 政 治 的 ヘゲ. は 、幣 原 ・浜 口 ・井 上 ・若 槻 と い った傑 出 し た リ ーダ ー だ っ. 資 本 主 義 は ﹁国 家 社 会 主 義 ﹂ にお き 代 え. 着 を つけ ね ば な ら な い。 ﹁アカ の脅 威 ﹂、 つま り あ ら ゆ. 首 脳 ) は 財 政 と 産業 の支 配 権 を 握 り 、 農 業 の危 機 に 結. ら れ ね ば な ら な い。 政 府 ( す な わ ち 、 天 皇 親 政 下 の軍. 三 、経済的目標. 時 期 であ った 。議 会 で多 数 を 擁 す る単 独 政 党 内 閣 を 率 いた の. た 。 一九 三 〇 ( 昭和 五 )年 十 月 に 、彼 ら は 、 陸 海 軍 の強 烈 な. そ の後 す ぐ に 、武 藤 ・荒 木 の 二将 軍を 先 頭 に し た 陸 軍 の リ ー. 反 対 をも のと も せず 、 ロ ンド ン海 軍 条 約 の承 認 に踏 み切 った 。. ダ ーた ち が 、全 国的 な 国家 主 義 高 揚 運 動 を 開 始 し た 。 浜 口首. る 革命 の芽 は 断 固 と し て つみ と ら ね ば な ら な い。. も って いた 。 彼 ら は 、 約 三 〇 〇 万 人 に のぼ る 旧 軍 人 を 含 む 在. こ の型 の運 動 に 関 し て 、 軍 国 主 義 は多 く の戦 略 的 な 利 点 を. 相 は、 ﹁愛 国主 義 ﹂ 暗 殺 者 の い け にえ と し て 、 一九 三 〇 ( 昭和 五 )年 十 一月 十 四 日 に 射 た れ た 。 こ の事 件 は 軍 部 ーフ ァシ ス ト の運動 を 激化 し、 そ の攻撃 目標 を 以 下 の三 項 目 に展 開 し た 。. 郷 軍人 会 を 握 って いた 。 在 郷 軍 人 会 は 、 愛 国 主 義 の提 携 組 織. を加 え 、 全 国 に存 在 す る 約 五 万 の支 部 を 擁 し 、 約 五 〇万 人 と. 政党 と資 本 家 と の癒 着 が 日 本 の政 治機 構. を 腐 敗 さ せ て いる 。 こ の腐 敗 ﹁構 造 ﹂ を 廃 棄 し な け れ. 一、 政 治 的 目標. 員を 擁 す る、 あ ら ゆ る 色 合 い の多 数 の反 動 団 体 が 存 在 し 、 そ. れ らは す べ て何 ら か の形 で 軍 の首 脳 と 結 び つ い て いる 。 これ. 称 せ られ る 要 員 を か か え て いる 。 さ ら に 、 約 二五 万 名 の運 動. ら の 団体 は 社 会 構 成 の点 で 大 き く 違 って いる し 、 そ の活 動 実. る。 天皇 制 を 奉 じ 、 利害 の 対 立 よ り も 国 民 全 体 の福 利 に重き を おく と 信 ず る こと の でき る 、 唯 一の公 平無 私. ば な ら な い。 軍 に 政治 の指 導 権 が 与 え ら れ る べき で あ. な 勢 力 が 軍 だ か ら であ る 。. 諜 報 専 門 の活 動 す る も の、 共 産 主 義 と 武 闘 す る のを 目 的 と す. 践 の点 でも 非 常 に多 様 であ る 。 陸 軍 省 にか か え ら れ て海 外 で. るも の、 徹 底 的 な テ ロ集 団 、 スト 破 り 機 関 と い った も のが あ. 民 政 党内 閣 の外 相 幣 原 男 爵 の ﹁軟 弱﹂ 政. 策 が 、 日 本 に災 厄 をも た ら し つ つあ る のだ 。 彼 の対 中. る 。 こう した 団 体 の中 でも っと も 重 要 な も の の 一つ. 二、 対 外 的 目 標. 国 宥 和 政策 が 、 中 国 側 の攻 撃姿 勢 を 助 長 す る こと で 、. 国本. 極 東 にお け る 日 本 の威 信 を 大 き く 損 な った の であ る 。. 300.

(14) 一九三〇年代 にお ける独裁制指向. ( 大 正 十 三 ) 年 に結 成 し た 。 そ の会 員 は 八 万 名 と 推 定 さ れ て. 社ー. 事 変 にた いし て世 界 にむ け て弁 解 に つと め る立 場 を と らざ る. り 、外 務 省 は 無 力 でそ れ を 押 さ え ら れ な か った た め に、 満 州. を 限 定 し よ う と し た 努 力 が 効 果 を も た な い こと が 明 ら か にな. は 、枢 密 院 副 議 長 の現 職 にあ る 平 沼 男 爵 が 、 一九 二 四. いる が 、 地主 ・資 本 家 ・役 人 ・ブ ルジ ョワイ ン テ リ ・将 校 を. は 超 侵 略 主 義 的 な 武 藤-荒 木 グ ル ー プ と 対 立 し て いた 。 そ の. が あ る派 閥を 率 いて いた のだ が 、 軍 の主 導 権 を 争 って、 そ れ. 極 ﹂ 行 動 を と る よう に要 請 し た 。 こ の当 時 、 陸 軍 大 臣 南 将 軍. を 利 用 し て、 参 謀 本 部 は 外 務 省 に公 然 と 圧 力 を か け て、 ﹁ 積. は つな が って いな か った にし ても 、 満 州 で の挑 発 行 動 の拡 大. は っき り と 、政 治 行 動 の領 域 に入 った 。 軍 そ のも の の活 動 と. 継 承 の過 程 で行 わ れ る政 治 権 力 の掌 握 を ね ら って いた の であ. た いし て攻 撃 を 強 めた 。 軍 の陰 謀 は ま さ し く 、 早 急 な 政 権 の. 持 を 受 け て、 軍 閥 は 、 そ れ に伴 って弱 体 化 し た 民 政 党 政 権 に. を 含 む 広 範 な 層 が こ の国 家 主 義 化 過 程 に 屈 服 し た 。 民 衆 の支. を 占 めた 。 労 働 者 は も ち ろ ん 、 下 層 中 産 階 級 お よ び 小 作 農 民. 和 主 義 の見 解 を 厳 し く 弾 圧 す る こ と で 助 長 さ れ 、 舞 台 の中 心. 進 国家 主 義 的 な 宣 伝 活 動 は 、 直 接 間 接 の検 閲 制 度 な ら び に平. の政 治 プ ロ グ ラ ム に従 って万 事 を 推 進 す る こと が でき た 。 急. 戦 争 と いう 事 態 か ら 生 じ た 興 奮 を 利 用 し て、 軍 首 脳 は 彼 ら. を 得 な か った 。. 間 に、 政 党 に た いす る 民衆 の信 頼 が 急 速 に失 わ れ た結 果 、 民. 一九 三 一 ( 昭 和六 ) 年 の夏 にな る と 、 軍首 脳 た ち の運 動 は 、. 含 む 最 高 の社 会 階 級 に属 す 人 た ち であ る。. 政 党 政 権 の基礎 が奪 わ れ て い った。 不安 が ひ ろ が って 、資 本. る 。軍 部 の こう し た 攻 撃 は 金 融 関 係 者 グ ル ープ に強 く 支 持 さ. のだ が、 結 局 は軍 部 の攻 撃 によ って十 二月 十 一日 の民 政 党 政. れ 、 こ の グ ル ープ が井 上 蔵 相 に迫 って金 本 位 制 を 放 棄 さ せ た. 権 ︹ 第 二次 若 槻 内 閣 ︺ 瓦 解 に いた った 。 十 二月 十 三 日 に犬 養. デ フ レ政 策 の失 敗 を主 張 し始 め る者 も で てく る 一方 で 、 も っ と 強 力 な グ ル ー プ が で て拡 大 し つ つあ る危 機 を 処 理 す る 必 要. 家 の有 力 な部 分 の 人 たち の支 持 がぐ ら つき は じ め 、 民政 党 の. を 思 う 者 も 生 ま れ た 。 こ う し た 状 況 に よ って 、 民 政 党 内 閣. く し て軍 の政 策 を 管 理 す る の にも っと も 国 粋 主 義 的 な 軍 閥 を. た 。陸 軍 省 で は、 南 将 軍 が 荒 木 貞 夫 将 軍 に大 臣 職 を 譲 り 、 か. 当 て た の であ る。 内 閣 の干 渉 を 受 け な く な った の で、 軍首 脳. 毅 が 結成 し た 政友 会内 閣 は 、た だち に金輸 出 再 禁止 に踏 み 切 っ. る こ と が で き た の だ った 。 計 画 は 入 念 に ね ら れ 、 一九 コニ. ︹ 第 二次 若 槻 内 閣 ︺ の陸 軍 大 臣 と し て の立 場 に立 って行 動 し. ( 昭 和 六 ) 年 九 月 十 八 日 、 軍 は奉 天 、 長 春 、 お よ び 満 州 の そ. は 一九 三 二 (昭 和 七 ) 年 二月 に 満 州 征 服 を 完 了 し 、 三 月 に. た 南 大 将 は 、満 州 で の軍事 行 動 に対 す る準 備 態 勢 を とと のえ. の他 の地 点 で 独 断 行 動 を と った 。幣 原 男爵 が 軍事 行 動 の範 囲. 301.

(15) ﹁ 満 州 国 ﹂ 政 府 を 組 織 し 、 上 海 にた いす る攻 撃 を実 行 し た。. え も って警 告 さ れ て いた の で 、政 府 は 警 察 に 動 員 を か け 、 首. 府 と 宮 城 の警 固を 軍 の司 令 官 に代 え て警 視 総 監 に委 ね た 。 軍. 首 脳 は こ の陰 謀 に は直 接 関係 は なか った 。 も っと も 、多 く の. こう し た 利 得 が あ った にも か か わ ら ず 、 陸 軍首 脳 は ま だま だ 満 足 感 を み た せ な か った 。 西 園 寺 公 爵 は 立 憲主 義 の手 続き. 関係 を も って いた が。 成 功 し な か った と は いえ 、 そ の事 件 は. 高 級 軍 人 が 、事 件 に直 接 か か わ った テ ロリ スト 団 体 と 密 接 な. 軍閥 の 思う つぼ に なり 、彼 ら は それ 以 後 の政 界 再 編 で 利 益 を. に従 って、 野 党 政 友 会 総 裁 の犬 養 を 首 相 に と 進 言 し た の であ. 得 た の であ る。. る。 二月 二十 日 の総 選 挙 で、 選 挙 マシ ー ンを 掌 握 し た 結 果 、. した ば か り だ った が 、 軍 首 脳 は ふた た び 、 そ の主 た る力 を衆. 爵 は三 月 五 日 に射 殺 さ れ た 。 これ ら の暗 殺 を 実 行 し た の は 血. 深 刻 さを も 反映 し た 。西 園寺 公 爵 は こ の間 、 陸 軍 ・海 軍 ・議. し た こと は 、 ク ー デ タ陰 謀 に よ って推 進 さ れ た 政 治 的 危 機 の. 犬 養 首 相 の死 か ら新 内 閣 の結 成 ま で にま る ま る 一週 間 を 要. 斎藤実 政権. 政 友 会 は 圧 倒 的 勝 利 を 獲 得 し た のだ った 。 民 政 党 政権 を つぶ. 議 院 の絶 対 多 数 にお い て い る単 独 政 党 内 閣 と 対 決 し た 。 し た が って、 政 治 闘 争 は 相 変 わ ら ず は げ し く 続 いた ので あ る 。前. 盟 団 であ った が 、 そ れ は 藤 井 海 軍 中 尉 と 日 蓮 宗 の僧 侶 井 上 日. 会 ・枢 密 院 ・宮 内 省 役 人 の考 え 方 に つ い て、 徹 底 的 な 点 検 に. 蔵 相 井 上 準 之 助 は 二月 九 日 に暗 殺 さ れ 、 三 井 合名 理事 長 団 男. 日本 の警 察 当 局 は 、 血 盟 団 が 二十 名 ほ ど の有 名 政 治家 、資 本. 召 が 一九 三 〇 ( 昭 和 五 ) 年 に結 成 し た も の であ る 。 三 月 末 、. こ の陰 謀 です ら 、 犬 養 首 相 が暗 殺 さ れ 、 牧 野 伯 爵 邸 ・警 視. さ れ た鈴 木 博 士 が 、論 理的 な 選択 と いう 点 か ら す れ ば 、 政 党. の樹 立 を要 求 し た 。 五月 十 六 日 に急 遽 与 党 政 友 会 総 裁 に選 出. 本 社 の指 導 的 人 物 の平 沼 男 爵 を 首 相 と す る ﹁挙 国 ]致 ﹂ 内 閣. 没頭 し た。 陸 軍首 脳 は政 党 内 閣を 支 持 す る こと を 拒 否 し 、 国. 庁 ・政 友 会 本 部 に爆 弾 が投 じ ら れ、 東 京 市 内 の数 か 所 の変 電. 家 、実 業 家 の暗 殺 を 計 画 し て いる こと を 知 った 。. しま った。 実 行 し た の は海 軍 青 年 将 校 、 陸 軍 士 官 候 補 生 、 学. 選ばず 、妥協 の候補者-. 所 を 爆 破 し よう と 計 画 され た 五 ・ 一五 事 件 によ ってか す ん で. 任す る こ と で 、 陸 軍 と 政党 の同意 を 確 保 し た 。 超 党 派 内 閣 が. を選. 生 お よび 農 民 か ら な る 、血 盟 団、 神 武 会 、 愛 郷 塾 を 含 む いく. 登場 し、 三 閣 僚 ポ スト が 政 友 会 、 二 つが 民政 党 、 軍部 に は 二、. 前朝鮮総督斎藤海軍大将. つか の テ ロリ ス ト 団体 であ った。 そ う し た 陰 謀 は 、 軍 のク ー. 内 閣 の首 相 に な る 。 だ が 、 西 園寺 公 爵 は 平 沼 氏 も 鈴 木 博 士 も. デ タ に よ って首 府 の制 圧を ね ら った 大 謀 略 の 一部 だ った 。 ま. 302.

(16) 一 九三 〇年代 における独裁 制指向. そ し て六 ポ スト が 非 政 党 員 に 配分 さ れた 。 新 閣 僚 と し て 、陸. 動 の弾 圧 であ る 。. は 当 分 は 危 険 のな いは け 口 に限定 さ れ た。 こ の広 範 囲 に わ た. 博 し た 。 日本 の支 配 グ ル ープ 問 の対 立 は続 いたけ れど 、 そ れ. ら 生 ま れた 強 い党 派 心 を 打 破 す る も の と受 け と ら れ 、 喝 采 を. 西 園 寺 公 爵 の選 択 は 、 何 か 月 にも 及 んだ 激 し い政 治 闘 争 か. 急 進 論 者 た ち に 不安 を つく りだ し た 。 彼 は 、 テ ロと いう 不 法. 軍部 の全 面支 配 を 求 めた 、 たと え ば 青 年 将 校 の 一部 の よ う な. と が でき た 。 だ が、 彼 の権 限か ら し て彼 の熱 情 は和 ら げ ら れ、. に押 し あ げ ら れ 、陸 軍 が要 求 した 政 策 の実 現 を 政 府 に 迫 る こ. で変 化 し た 。 政治 的 危 機 状 況 によ って、 彼 は 斎 藤 内 閣 の中 心. 荒 木 大 将 の立 場 は 、 五 ・ 一五事 件 後 に重 要 な いく つか の点. る妥 協 状 況 にあ って、政党 は も っと も決 定 的な 損 失を こう む っ. が事 実 な のだ が 、彼 ら の逮 捕 と 審 理 には ま った く 抵抗 を 示 さ. 行 為 に加 わ った者 た ち は 彼 が権 力 の座 に つく 手段 だと いう の. 軍 省 を お さえ た 荒 木 貞 夫 大 将 と 高橋 是清 蔵 相 が 目立 った 。. た 。 責 任 内 閣 制 の理 論 は 、 六 政 党内 閣 の連 続 で強 化 さ れ てき. なか った 。 こ れ ら の審 判 に し ても 、資 本 家 側 が今 後 の あ り う. た のだ が 、 こ こ で重 大 な 挫 折 を 経験 し た のだ った 。 斎 藤 政権. 割を 果 た し 、青 年将 校 た ち の間 に生 ま れ た 反 感 が 増 幅 す る こ. 下 にあ って 、 政 党 は 、 そ の 影 響力 を 陸 軍 ( 荒 木 )、 あ る い は. と で、 陸 海 軍 の高 級 将 校 に関心 を 高 め た。 こう し た状 況 下 で、. る ク ー デ タ に備 え た最 低 限 の保 護 策 を 講 じ な か った 。 同 時 に. そ の 一方 で、 内 閣 は ﹁ 挙 国 一致﹂ 政権 と し て党 派 心 を 超 越. 被 告 の 審 議 は な が びき 、民 衆 の興 奮 が お さ ま る だ ろう と の期. そ の審 判 は 、 継続 す る反 資 本 主 義 プ ロパ ガ ンダ の反響 板 の役. し な け れ ば な ら ぬ と す る軍 国 主義 者 の基 本 的 要 求 は満 た さ れ. 待 が生 じ た 。審 理 は 一九 三 四 ( 昭和九)年末までは終わらな. る、 将 棋 の駒 にな った 。. た にし ても 、 陸 軍 の急 進 派 は 、 軍部 が全 面的 に支 配 す る内 閣. 資本家 ( 高 橋 ) を 前 面 に出 す と いう 選択 に そ の役 割 を 限定 す. を 結 成 す る こと は でき な か った ので あ る 。 こ の こ と はあ る程. か った の であ る 。. こ の 時 期 、 五件 の重 要 な審 理 が 進 行 中 であ った 。 そ れ は 、. 度 ま で 、政 党 の権 威 は 失 わ れ た に も か か わ らず 、妥 協 内 閣 は 資 本 家 側 の勝 利 を 意 味 した の であ った 。 し か しな が ら 、 実 際. ま れ て いた 。 浜 口首 相 暗 殺 犯人 と 自 供 し た 佐 郷 屋 留 雄 は 、 一. 浜 口首 相 、 井 上前 蔵 相 、 団 男 爵 お よ び 犬 養 首 相 暗 殺事 件 が 含. 一年 後 の 一九 三 四 ( 昭 和 九 )年 二月 十 一日 に、 明 仁 皇 太 子 誕. 九三三 ( 昭 和 八 )年 二月 二 十 八 日死刑 判決 を 受 け た 。し か し、. には 、 妥 協 内 閣 は 一時 期 、 フ ァシ ス ト のプ ログ ラ ム が実 行 に. こ の 過 程 で 明 ら か に な った のは 、 テ ロリ ス ト の処 分 措 置 、. 移 さ れ る過 程 で、 軍 首 脳 と 資 本 家 と の協 力 の舞 台 に な った 。. ﹁救 済 ﹂ 支 出 の 配 分 、 満 州 、 戦 争 予算 、産 業 合 理 化 、 急 進 運. 303.

(17) 生 によ る 恩 赦 で、 ま だ 刑 が執 行 され て いな か った 佐 郷 屋 は 無. 裁 判 の 審 理 は緩 慢 であ った が 、 民 間 人 の被 告 ば か り で な く. 囲 にわ た る 関心 がわ き 立 った 。 審 理 が進 む に従 って テ ロ行 動. 陸 海 軍 人 の被 告 にた いし ても 、 民衆 の好 意 的 で はげ し く 広 範. 五 ・ ]五事 件 関 連 の三件 、 つま り 、 十 一名 の陸 軍 士 官 候 補. 三四 ( 昭 和九 )年 にか け て、 確 実 な 一連 の陰 謀 事 件 お よ び 高. を 助 長 す る刺 激 がか き た てら れ 、 一九 三 二 ( 昭和七)年から. 期 懲 役 に減 刑 さ れ た 。. 生 、 十 名 の海 軍 士 官 、 そ し て 二十 名 の民 間 人 の裁 判 が そ れ ぞ. に お さえ る差 し迫 った 必 要 が 、今 や 、 軍部 リ ー ダ ー を含 む 支. 官 暗 殺 未 遂事 件 を 警 察 が 摘 発 し た 。 し か し 、反 動 団体 を 手 中. れ 決 審 し た 。 一九 三 三 ( 昭 和 八 )年 九 月 十 九 日 、 犬 養 首 相 殺 害 にか か わ った 十 一名 の陸 軍士 官 候 補 生 は 、 陸 軍 軍 法 会 議 で. 配 グ ル ー プす べ て に明 ら か にな った 。 こ れ以 後 の陰 謀 事 件 で. そ れ ぞ れ 四年 の禁 鋼 刑 の判決 を 受 け た 。 海 軍 軍 法 会 議 で 一九. 高 位 者 の支 援 を 得 た と 思 わ れ る も の は な く 、ど れも 成 功 し な. 一九 三 二 ( 昭 和 七 ) 年 六 月 、臨 時 議 会 で 、斎 藤 政 権 は 満 州. か った 。. 三三 ( 昭 和 八 ) 年 十 一月十 日 に判 決 を 受 け た 海 軍 士 官 の中 、. 、 十 三 年 が 一名 、 十 年 が 三 名 であ った が 、 四. の 軍事 費 と し て 一億 九 三 〇 〇 万 円を 計 上 し た が 、農 民救 済 と. 農村救済対策. 首 相 を 撃 った 二名 の首 謀者 は禁 鋼 十 五年 lI仮 釈 放 さ れ る可 能性を含むー. 名 は 執 行 猶 予 を受 け 、 た だ ち に釈 放 さ れ た 。 東 京 の変 電 所 爆 破 にか か わ った 二 十名 の民 間人 は 、 一九 三 四 ( 昭和九)年 二. 無 期 懲 役 、 神 武 会 会 頭 大 川周 明 ほか 二名 は 懲 役 十 五 年 だ った. 月 三 日 、 東 京 地 裁 で 判 決を 受 け た 。 愛 郷 塾 の塾 長 橘 孝 三 郎 は. が 、 残 り の十 六 名 に被 告 に 課 せ られ た 判 決 は 、 三 年 半 か ら 十. いう 緊 急 問題 は 延 期 し た 。 こ の問 題 は 軍首 脳 、 とり わ け 小 地. 一九 三 四 ( 昭 和 九 )年 十 一月十 二 日 に 下さ れ た 。 血 盟 団 を 主. 士 の八 ○ % は農 村 地 区 の出 身 だ か ら 、農 民 の経 済 的 破 滅 が 進. 主 は絶 望 的 にな って いた か ら で あ る 。 そ の上 、徴 兵 さ れ た 丘ハ. 価 格 の 下落 、負 債 の増 大 、 小作 人 の抵 抗 増 大 に よ って 、 小 地. 主 階 級 出 身 の将 校 にと って も重 大 な 関心 事 であ った 。 農 産 物. 宰 し た 僧 侶 井 上 日 召 は 、無 期 懲 役 の判 決 を 受 け た 。 井 上 準 之. 行 す れ ば 、陸 軍 の安 定 は 危 う く な る 。. 井 上 準之 助 と 団 男爵 の殺 害 にか か わ った血 盟 団 員 の判決 は 、. 二年 に及 ぶ懲 役 で あ った 。. 助 を 殺 害 し た 小 沼 正 、 団 を殺 害 した 菱 沼 五 郎 の実 行 犯 にも 同. 一般 的 な農 村 危 機 は 、 東 北 地方 の不作 と飢 饅 に よ って、 一. じ 判 決 が 下 った 。 そ の他 の八名 の血 盟 団 員 は 、 三 年 か ら 十 五 年 にわ た る懲 役 刑 の判 決 を受 け た。. 304.

(18) 一 九 三 〇 年 代 にお け る独 裁 制 指 向. 済 対 策 が 審 議 さ れ た 。 高 橋 蔵 相 は 三 年 間 に わ た って総 額 一六. 臨 時 議会 が 一九 三 二 ( 昭 和 七 )年 八 月 に 召集 され 、 農 村 救. 時 た り とも 満 蒙 問 題 の解 決 が 最 重要 であ る こと を 忘 れ ては ﹂. 農 村 出 身 の代 議 士 、 多 数 の反 動 団 体 を 動 員 し た 。新 聞 は農 村. な ら な い、 と 語 った 。. 危 機 を 取 り 上 げ た 多 数 の論 説 を 発 表 し 、 在 郷 軍 人会 は 政府 援. 間 一億 七 〇 〇 〇万 円 の支 出 を 承 認 す るも の であ った 。 こ の補. 億 円 に 及 ぶ 計 画 を 語 った け れ ど も 、議 会 を 通過 した 法 案 は年. 九三二 ( 昭 和 七 ) 年 の夏 、 先 鋭 化 し た 。 当時 、荒 木 グ ル ープ. 助 を 請 願 す る 何 十 万 も の農 民 の署 名 を 集 め 、 農 民代 表 は こう. は 農村 救 済 運 動を 組 織 し 、在 郷 軍人 会、 帝国 農 会 ( 地方 組 織 )、. し た 請 願 を 東 京 に運 んだ 。 主 張 さ れた 以 下 の個 々の計 画 は本. れ て いた 。各 省 庁 に割 り 当 てら れ た の は総 額 の 一部 であ り 、. 助 の受 益 者 に は 農 民 だ け でな く 、 漁 民と ﹁ 小商人﹂も加え ら. そ の中 のわず か 四 こ ○ ○万 が農林 省 に当 てら れた にす ぎ な か っ. 質 的 には 地 主 側 の要 請 によ るも のだ った 。 す な わ ち 、米 と 生. た。. 糸 の政 府 買 入 れ 、 不 動 産 に 関す る政 府 の信 用 保 証 、朝 鮮 ・台. いす る政 府 援 助 が そ れ であ る。 こう い った 計 画 のど れ にも 、. 湾 か ら の米 輸 入 削 減 、農 業 用 動 産 購 入 のた め の地方 銀 行 に た. 一九 三 二 ( 昭 和 七 ) 年 秋 、 荒 木大 将 は農 村 救 済 に補 助 金 を. 支 払 う の に は っき り と 反 対 を 表 明 し 、 ﹁ 農民 、商工業者間 の. 農 民 大 衆 の切 実 な 要 求 であ った小 作 料 の撤 回 な いし支 払 猶 予 を 求 め るも の はな か った 。 こ の運 動 は農 民 を 軍 隊側 に結 集 し 、. も 、 農 民 に危 機 の突 破 口を 示 す こと は でき な か った 。 こ れ 以. 相 互援 助 ﹂ を 唱 導 し た 。 軍国 主 義者 の基 本 的 な 関心 か ら し て、. 後 、 農 村 問 題 は 斎 藤 政 権 下 では 重 大 で は な く な った 。救 済 支. た と え 軍 首 脳 が 農 村 の不 安 状 況 の危 険 を 認 識 し て いた に し て. こ の広 範 な 農 村 救 済 対 策 要求 運動 にた いし て、 地 主 に国 庫. 出 は 続 け ら れ た が 、 そ れ は 減 額 さ れ 、 一九 三 三 ( 昭 和 八 )年. 彼 らを 急 進 運 動 や革 命 運動 か ら転 向 さ せ て、 現 状 の改 革 に む. 補 助 の独 占 を 認 め る のを よ し と し な い産 業 家 た ち の反 対 が た. に は 総 額 一億 五九 二 〇万 円 、 ︺九 三 四 ( 昭 和 九 )年 度 は 七 九. け る機 能 を 果 た し た。. に た いす る政 府助 成 を 求 め る対抗 運 動 が組織 され 、そ れ に伴 っ. 四 〇 万 円 であ った 。. だ ち に わき 上 が った 。産 業 組合 中央 会 を 通 じ て、 小 中 生 産 者. て請 願 運動 と 新 聞 論 調 が高 め ら れ た。 国 家 資 金 を め ぐ る た た か いは や が て 、巨 額 の陸海 軍 予算 の承 認 の持 続 を お び やか す. ﹁経 済危 機 と 関連 し た 救 済 政 策 ﹂ を承 認 した け れど も 、 ﹁か た. 点 に 到 達 し た 。 七 月 末 に 、 荒 木 将 軍 は知 事 会 議 で講 演 し 、. 305.

(19) 満州問題. そ のプ ロパ ガ ンダ が延 々と 繰 り 返 し た の は 、資 本 家 の搾 取 は. 満 州 で は 廃絶 さ れ ると いう こと であ り 、 日本 の失 業 労 働 者 ・. 小作 農 民 ・商 工業 者 ・従 業 員 の問 題 に解 答 を だ す ﹁ 地 上 の楽. 園﹂ が建 設 さ れ ると いう こと であ った 。 こう した デ マ声 明 は 、. 日 本 の中産 ・下層 階 級 に広 く 受 け 入 れ ら れ、 膨 張 主 義 プ ロ グ. 斎 藤 体制 下 にあ って、 軍 首 脳 の満 州 に関 す る ね ら いは 十 全 に 実 現 さ れた だ け でな く 、 日 本 の支 配 グ ルー プ す べ て に全 面. のプ ログ ラ ム の現 実 的 な 目 的 は 、 軍部 の高 級 将 校 と 大 企 業 経. 営 者 と の見方 か らす れ ば 、 非 常 に異 な って いた。 軍 部 にと っ. ラ ムに た いす る大 衆 の広 範 な 支 持 形 成 に大 き く 役 立 った 。 こ. て は 、満 州 はと り わ け 戦争 に不 可 欠 の基 地を 意 味 し て いる が、. 的 に受 け入 れら れ た 。 政 治 指 導 者 お よ び 実 業 家 は 軍 部 と の提. 対 満州 政策 に関 す る断 乎 と し た 歩 調 が す べ て斎 藤 内 閣 によ っ. 携 を真 剣 に求 め、 満州 で獲 得 し た 利権 を 強 固 化 し よう と し た 。. て採 用 され た 。 一九 三 二 ( 昭 和 七 )年 九 月 十 五 日 に ﹁ 満州国﹂. 金融 資 本家 か らす れ ば 、 石 炭 ・鉄 鉱 石 の獲 得 、 広 大 な 大 豆 農. も ち ろ ん 、有 利 な 投 資 対 象 と みな され た の であ る。 基 本 的 に. 園 、 大 量 の木 材 資 源 、 鉄 道 お よ び 公 共 事 業 のネ ット ワ ー クは. 目 的 が 一致 した か ら と い って、 満 州 と いう 新 国 家 に おけ る政. 日 本 の 国連 脱 退 が 通 告 さ れ た 。 一九 三 三 ( 昭和八)年二月か ら 三 月 にか け て日 本 陸 軍 は 熱 河 省 を 占 領 し 、 一九 三 三 年 四 月. 承 認 が行 わ れ た が、 一九 三三 ( 昭 和 八 )年 三 月 二十 七 日 には 、. か ら 五 月 に引 き 続 き 北 支 への侵 攻 が 行 わ れ た 。 最 終 的 に 溝 儀. いが 発 展す る事 態 が 生 ず る のは 当 然 の こと であ る。 一九 三 二. ( 昭 和 七 ) 年 八月 八 日 、 武 藤 信 義 大 将 が 満 州 国 特 命 全 権 大 使. 治経 済 の 中心 機 構 支 配 を 求 め て、 軍 首 脳 と 資 本 家 と のた た か. に任 命 さ れ た こと は 、 軍 事 ・行 政 ・外 交 の全 権 を 彼 に与 え た. が 一九 三 四 ( 昭 和 九 ) 年 三 月 一日 に 帝 位 に つ いた 。 こ のプ ロ. て いた 。 そ のプ ログ ラ ムは 、 陸 軍 省 の秘 密 機 関 と し て 四 十年. グ ラ ム の各 段 階 は 、 軍 部 に よ ってあ ら か じ め 慎重 に 計 画 さ れ. 間 も海 外 で活 動 し てき た 黒 龍 会 の頭 山 満 と 共 に リ ー ダ ー を つ. と は い っても 、 陸 軍 を 背 景 にし た 満 州 の開 発 針 路 は 、 日本. こ と な の であ り 、 こ こ に陸 軍 の政 治 的 覇 権 確 立 が 成 功 した の. の大 金 融 ・産 業 資 本 家 の利 益 を 脅 か す も の では な か った 。 満. であ った 。. 一九 三 一 ( 昭和六)年九月十八日 ( 満 州事 変 )前 後 に 一挙. と め て いた 内 田 良 平 が 書 いた パ ン フレ ット に 、 一九 三 一 ( 昭. に噴 き 上が った プ ロパ ガ ンダ の特 徴 は 、 満 州 が経 済危 機 を解. 州占 領 の初 期 にあ っては 、 日本 の実 業 家 の関 心 対 象 は 、 日満. 和 六 )年 当 時 す で に予 想 さ れ て いた 。. 決 す る鍵 だと いう ことを 明 ら か に し よう と す る努 力 であ った 。. 306.

(20) 一 九 三 〇 年 代 にお け る独 裁 制 指 向. も 、 安 価 な撫 順 炭 の 流 入 に た いす る 日 本 側 の炭 鉱 経 営 者 の 不. た 。 現 実 に は 関税 は 実質 的 に変 更 を加 え ら れ な か った け れど. 問 の関税 障 壁 撤去 を 含 む 、提 案 さ れた ﹁ 経 済 ブ ロ ック﹂ であ っ. 出 額 は 一五億 五 七 八 ○万 円 か ら 一= 億 四 二 五 〇万 円 に高 騰 し. 一九 三 五 ( 昭 和 十 ) 年 ・九 億 三七 三 〇万 円 。 こ の時 期 の総 支. 四 ( 昭和 九 )年 ・八億 五 一八 ○万 円 、 一九 三 四 ( 昭和 九 )年 ー. 八 ) 年 ・六 億 九 七 二 〇万 円 、 一九 三 三 ( 昭 和 八 ) 年 - 一九 三. 費 は 通 常 予算 の 二 八 %を 占 め た が、 一九 三 四 ( 昭和九)年 ー. 安 は 、 こ の輸 入 の割 合 を め ぐ る満 鉄 経 営 者 と炭 鉱 経 営 者 と の. 一九 三 五 ( 昭 和 十 ) 年 では 、 四 三 ・七 % に達 し た 。 さ ら に、. 一九 三 〇 ( 昭 和 五 ) 年 ー 一九 三 一 ( 昭 和 六 ) 年 では 、 陸 海 軍. を 克 服 し た 。新 し い資 金 が 主 と し て 、 安 田 銀行 を 大 株 主 と す. 歳 入 は いち じ るし い低 落 を示 した た め に、 一九 三 二 ( 昭和七). た こと は事 実 だ が 、 軍事 費 の占 め る 比率 も確 実 にた かま った 。. る半 官 企 業 の南 満 州 鉄 道 株 式 会 社 を 通 じ て、 ﹁ 満 州 国 ﹂ に流. 年 以 降 、 累 計 二六 億 五 〇 〇 〇万 円 に の ぼ る公 債 発 行 を 続 け る. の金 融 機 関 が初 期 にも って いた満 州 投 資 に た いす るた め ら い. 入 し た 。 こ の型 の 国家 社 会 主義 は 、 軍 国主 義 者 と 金 融 資 本 家. 協 定 によ って 一掃 さ れ た 。 同様 に 、 軍 首 脳 は 間も なく 、 日本. と の合 同 を意 味 し て いる 。 し か し な が ら 、 軍首 脳 は、 こ の合. 国 にお け る軍 事 行 動 を 推 進 し 、 さ ら に 不測 の事 態 に備 え よ う. こう し た予 算 か ら、 日本 の支 配 グ ル ープ 側 が 一致 し て、 中. こと で、 予 算 の バ ラ ン スを 維 持 した の であ った 。. と す る努 力 を 証 明 す るも のが 提 供 され る。 斎 藤 政 権 内 に占 め. し、 彼 ら の政治 力 を 利 用 し て こ の目 的 の達 成 を確 保 し よう と. 同 の基 礎 は 満州 資 源 を 戦争 準 備 に 最大 限 に集 中 し よう と 決 定. 決 定 し た のだ った 。 結 局 のと こ ろ 、 こ の目 的 はま た 、金 融 機. 長 期 にわ た って割 り ふり た いと 考 え て いた高 橋 蔵 相 が 毎 年 喚. た地 位 に よ って、 軍首 脳 たち は 、戦 争 準 備 に付 随 す る出 費 を. 関 の活 動 分 野 の拡 大 を も表 す こ と に な ら ざ る を得 な か った 。. 戦争 予算. ら れ る支 持 であ る。 広 田外 相 は 二年 間 にわ た って外 交 努 力 を. 必要 と す る財 政 負 担 の程 度 と 割 り 当 て 、 そ し て他 国 か ら集 め. であ る。 日本 の実 業 家 が抱 い た関 心 は主 と し て、 全 面 戦 争 が. 起 した 反 対 意 見 を 排 し て、 予 算 案 を 押 し通 す こと が でき た の. に増 大 し た 。 一九 三 〇 ( 昭 和 五 ) 年 - 一九 三 一 ( 昭和六)年. 満 州 で の軍 事作 戦 が は じ ま ると 、 日 本 軍 の予算 支 出 は急 速. で の 四億 四 二八 ○ 万 円 には じ ま った 陸 海 軍 費 は 以 下 のよ う に. 傾 け 、 国 連 が 一九 三 三 ( 昭 和 八) 年 二月 に可 決 し た 、 日本 軍. の満州 撤 退 勧 告 の結 果 と し て 日 本 が陥 った 国際 的 孤 立 を乗 り. 増 大 した 。 一九 三 一 ( 昭 和 六 ) 年 ー 一九 三 二 ( 昭 和 七 )年 ・ 四 億 五 四六 〇万 円 、 一九 三 二 ( 昭 和 七 ) 年 - 一九 三 三 ( 昭和. 307. ■.

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