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報道ディレクターとして奔走する小﨑亮輔さんを訪ねて──

Dalam dokumen Socially (Halaman 68-75)

今回インタビューさせていただいたのは、TBS の報道番組「NEWS23」のディレクターをされて いる小崎亮輔さんです。現在のお仕事の内容や、

制作の現場についてお話を伺いました。

─現在NEWS23の制作をされていらっしゃると思 うのですが、どのようなお仕事をしているのか についてまずお聞きしてもよろしいでしょうか。

卒業後に番組の制作会社に入社して、最初はみ んなAD(アシスタント・ディレクター)から始ま るのですが、最初はその会社で作っているドキュ メンタリー番組をやっていて、忙しくてその間も 本当にずっと帰ることが出来ないことの方が多く て、床で寝たりとかしていました。半年ぐらい経っ てTBSの方に出入りするようになって、2年目か らNEWS23の現場に入って5年ぐらいかな。AD

をやってから2016年にディレクターになって今に 至ります。どういう仕事かというと、毎日やって いる夜のニュース番組の生放送はスタジオから放 送するのですが、その間にいろいろVTRを作らな いといけないので、そのVTRを作るための取材を したりだとか、あとその構成と原稿を書いたりだ とか、その編集のあとVTRだけじゃなくてスタジ オの演出とかそういうのを考えたりしています。

─勉強不足なところもあるのですが、TBSという 会社にお勤めされている、というよりかは別の 会社があってそこからという感じなのですか。

テレビ局ってどこもそうだと思うけど局員って 本当少なくて、うちの番組でいっても局員は1/3 ぐらいかな。それ以外は全員の制作会社の人間 で、制作会社って星の数ほどあって大きいところ

がちっちゃいところまで、そういうところから人 を集めてスタッフが集まっています。

─NEWS23を制作されている方も色々な会社か ら集まった方たちで制作されているのですか。

そうそう。基本的には局員の指示の下でやって いて、編集長とかプロデューサーは局員で、その 人達を中心にやっています。ほんといろんな会社 があります。だからテレビ局に入らなければテレ ビを作れないってわけではないです。

─制作会社に入社してテレビ局で制作する、それ ぞれの番組を作り上げていくということです か。

そうそう。だから逆にテレビ局に入っちゃうと 番組をプロデュースしたりする機会は多いかもし れないですが、逆に営業とか音声とかそういう色 んな部署が制作以外にあって、そこに移ってしま うとテレビ制作が全然できないですね。仕事自体 はテレビ制作に関わっているけど、直接はテレビ 制作をすることができない。それなので制作会社 に入ってディレクターになった方が制作には関わ ることができます。

─紹介していただいた柘植あづみ先生にもお聞 きしていたのですが、元々報道に携わりたいと 思っていたと伺いました。何故現在のお仕事を 志されたのか教えていただけますか。

あまり人に話したことがないのでまとまって ないかもしれないですが、僕が中学生の時に父親 が癌になってあと半年ですっていわれてそこで ショックを受けるのかもしれないけど、あっそう なんだって感じに思っていて。その後父親は7年 くらい生きるのですが、7年後くらいに僕が高校 3年生のときに急に容態悪くなってしまって亡 くなりました。その時には元々癌になったって分 かっていて、あと半年ですって言われていて、い つか父親が亡くなることは、頭ではわかっていた

はずだったのですが、本当は理解できていなかっ たなと思います。元々もうすぐ死んじゃうかもっ てわかっていたのに、立ち直れないくらい悲しく て、なんでこんな悲しいんだろうなと思って。本 当にこうお父さん死んじゃうかもってその時は 思えなかったし、その後もずっと思えませんでし た。でもその時に思えていたら少しは会話できた かもしれないし、両親は離婚していたので父には あまり会えなかったんですけど、なんでそういう ことできなかったかなと思っていて。なんかその 理由についてなんとなく普段考えたりしていたり すると、多分よく新聞とかテレビとか見てしょっ ちゅう人が亡くなっているじゃないですか。誰々 さん亡くなりましたとか、毎日誰か亡くなってい るんだって。だけど自分の生活に近いところであ まり人が亡くなっていない。だけどこんなにたく さん人が毎日亡くなっている。それなのに何故自 分の家族が死ぬっていうことをリアルに考えら れなかったのかなと思って。不思議じゃないじゃ ないですか。この歳になると事故とかあったりす るかもしれないし、そういう時に何か隠されてい るなと思ったんですよ。人が死ぬということが何 かの意図か分からないですけど、何となくこうタ ブー視するみたいなところがあるのかなと思っ て。本当にその日に家を出る時間が1分違うだけ でもわからないじゃないですか。1分違うだけで 事故に遭わなかったかもしれないし、そう考える と普段どなたか亡くなりました、事故に遭いまし たとか、事件がありましたというのがどうして自 分に伝わらなかったのだろうかって思いました。

そうしたら父親がいつか死ぬことが母親も当然そ うだけど、どうしたら普段起きていることがその 身近に感じられるように伝わるのだろうかと思い ました。そこからメディアの方に興味を持ち始め て、たぶんそれが最初だったと思いますね。どの タイミングかは分かんないですけど、もはや覚え ていないけどそういう所だと思いますね。

─確かにそうですね。テレビで見ていると最近も 大きな事件があったりして報道されても画面だ とどうしてもフィクション感がすごいという

か、実際身近な自分の両親の死であったりが現 実に起きるとそれは現実として受け止められる と思う。

あまりも軽いなって思って。軽く伝えているつ もりはないと思うけど、伝わってくる時に何か軽 くなっちゃうというか、それがどうにかなればも うちょっとこう、もう少し身近に感じていたらそ の人との接し方も変わるんじゃないかなって思っ ていて、それできっかけを考えてみたらそういう 事かなって思います。

─7年後にお父様が亡くなられて高校三年生とい うタイミングで大学に進学するわけですが、そ のメディアとの関連もあって社会学科に入学さ れたのですか。

明学を選んだのも父親が亡くなったのが高3の 8月でとっくに受験勉強を始めないといけなかっ たときで、でも全然できてなくて結局9月くらい から勉強を始めて、本当にたまたまですね。別に その時はそんな考える余裕なかったから、自分の 学力だとこれくらいかなっていう基準で選んだの が正直なところですかね。明確な基準はないけど なんとなく武蔵大学も受験して後々考えると自分 の中で基準があったかもしれないですけどね。

─それでも武蔵大学でも社会学科を受けたという ことですよね。

なんで社会学科を受験したのかは全く覚えてい ないですが、元々母親もそういう関係の仕事をし ていたっていうのもあったかもしれないですね。

今母親は共同通信で勤めているのですが、そうい う影響もあったかもしれないですね。その時は違 う仕事をしていましたが当時もそういう話はして いたので、もしかしたらそういうのも影響してい たかもしれないです。

─大学に入学されてからはサークルとかに入られ たりしていたのですか。

サークルは全く入ってないですね。戸塚の明学 生専用アパートに住んでいてそこのやつらと大体 つるんでいましたね。

─インターンはされましたか。

インターンはしなかったですね。就活もあまり してなくて10社くらいしか受けてない。

─何月くらいに就活をやめようかなと思ったので すか。

7月くらいかな。高校の同窓会中に会社の採用 通知のメールが来て。

─今勤められていらっしゃる会社の採用通知です か。

“当時”のね。今は色々合併したので、TBSの孫 会社みたいになって、今は正式に子会社になりま した。

─小崎さんは2011年卒ということでそのときも社 会学科はメディアが人気でしたか。

当時も人気でしたよ。佐藤先生のゼミの入室倍 率は高かったです。佐藤先生の授業で凄く覚えて いるのは、テレビって今視聴率が出るじゃないで すか。ビデオリサーチってところがサンプルの家 庭に視聴率をモニターする機械を置いているの ですが、そのサンプルが少なすぎて調査としての 精度が低い。それで視聴率何%か出るんだけど、

±5%ぐらい誤差が出ているって言っていて。

へーそうなんだなって。

─視聴率は報道の番組にも影響があるのですか。

もちろんあります。みんな選挙とか大事なこ とってスルーしがちじゃないですか。そういう番 組は数字取れないからやらないとなると、誰のた めにもならないというか。ただ数字が取りたいだ

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