支 考 の 方 法
︱ 支 考 俳 論 用 語< 先 後>︱
中 森 康 之
は じ め に
支考の俳論はこれまで︑難解︑衒学的であると言われる一方で︑
組織的︑体系立っていると言われてきたが︑論自体の具体的な研究
は十分なされたとは言えない︒とりわけ支考の俳論は︑支考の人
柄︑活動等と結びつけられ︑いわば自己の勢力を広めるための方法
論として読まれることが多かったのである︒
そのため次のような疑問には答えられていない︒結局支考の俳論
は︑俳論として優れているのだろうか︒もう少し正確には︑支考の
俳論は︑俳諧の原理論としてどこか魅力があるのだろうか︒(1)
もちろんこのような疑問自体︑当時の俳論の常識から外れている
かもしれないが︑支考の俳論を読めば︑そのような疑問を持つのも
また自然なことではないだろうか︒(3)それに少なくとも︑支考の俳論
がそれ自体として︑いかなる点で体系立っていて︑いかなる点で無
意味な衒学に過ぎないのかを具体的に明らかにすることは必要なこ
とである︒
そこで本論では︑これまで取り上げられる事のなかった︿先後﹀ という語を支考俳論のキーワードとして取り上げ︑それを考察して
いきたい︒支考の俳論には独自のニュアンスを込あた俳論用語キーワードがい
くつか使われており︑支考の俳論︑そしてそれを支えている俳諧観
を読み解くためには︑それを一つ一つ明らかにする必要があると考
えたからだ︒
これまで︿先後﹀は姿情論や虚実論などで︑例えば﹁姿先情後﹂﹁虚先実後﹂というキーワードの中に論じられはしたが︑それ自体
とりたてて意識されることはなかった︒それは単なるあとさきとい
う意味にしか受け取られなかったたあだ︒例えば﹁支考の姿情論をる﹃姿先情後﹄の説としてとらえ﹂(4)ておられる堀切実氏は次のように
述べておられる︒
次に︑いわゆる﹁姿先情後﹂説は︑啓蒙俳論家支考の︑大衆
指導上の便宜的手段としての様相を次第に濃くしてゆくのであ
って︑それはまた︑支考一派の実作における低俗化︑浅薄化の
傾向と並行していたのではないかという観点から︑姿情論の展 35
開の跡を眺めてみたい︒この観点についてはすでに﹃俳諧大辞
典﹄に各務虎雄氏により次のように解説されるところである︒
姿も情もともに﹁心﹂(情)から出︑情は無形︑姿は情が物
の形をとって現われているのであるから︑厳密にいえば︑
区別し得ない︒互いに相通ずる要素を含み︑対立を超えて
融合する性質をもっている︒従って姿と情とは︑一つのも
のとして考えるべきであるが︑説明の便宜から︑二つに分
けたまでであった︒支考が︑風姿︑風情といったごときは
それである︒
私はこの姿情分離を︑単なる﹁説明の便宜﹂以上の︑支考の作
法指導上の積極的な意図としてうけとりたい︒伝統的な姿情融
合の論を︑敢て﹁姿先﹂の理論へ展開させたところに︑その独
自性があるわけである︒(5)
このように支考の姿情論では﹁姿先情後﹂がその独創として強調
されたけれども︑﹁姿先情後﹂という時の︑﹁先﹂﹁後﹂とはそも
そもどういうことを意味しているのかということについては︑全く
問われなかった︒
しかしこれは意外に大きな問題なのではないだろうか︒というの
さばきは︑﹁先後の二字は我家の常談にして︑物の好悪は此さばきによるべし﹂(﹃十論為弁抄﹄561)と述べていることからも分かるように︑支考は
様々な場合にこの︿先後﹀を用いているからである︒今例えば﹃俳
諧十論﹄﹃十論為弁抄﹄から用例をあげてみると次の如くである︒(6)
﹁勧懲の先後﹂・﹁三才の先後﹂・﹁物の先後﹂・﹁一念の先後﹂・﹁詞
の先後﹂・﹁道に先後あり﹂・﹁先後の理屈﹂・﹁法ノ先後﹂・﹁先後
序ノツイデ﹂・﹁文章と教誡の先後﹂・﹁理の先後﹂・﹁虚実の先後﹂・﹁花実 ノ先後﹂・﹁趣向﹂と﹁句作﹂の﹁先後﹂・﹁学文の先後﹂・﹁先後
の﹂など︒
さらに支考の絶筆には﹃論語先後鈔﹄というように︑︿先後﹀が
そのまま使われている︒(7)
このような点から見て支考には︑︿先後﹀という︑様々な問題を
考えるのに非常に有効な︑独自の発想の方法があったとは考えられ
ないだろうか︒もちろん﹁先後﹂という語は︑何も支考の発明によ
るものではなく︑どこでも使われる語であるし︑今あげた﹁先﹂﹁後﹂
を︑単にあとさきの意味に取っても文意は通じる︒しかし︑もし支
考がそこに独自のニュアンスを込めているとするならばどうだろう
か︒
これまでは﹁姿先情後﹂や﹁虚先実後﹂は︑姿情論や虚実論とい
った論の枠中だけで︑それぞれバラバラに考えられてきたが︑もう
少し視野を広げて見れば︑支考俳論全体に通底する︿先後﹀という
発想法が見えてくるのではないだろうか︒そしてそこから考えなけ
れば︑例えば姿情論でいえば︑﹁姿先情後﹂ということの本当の意
味︑つまりそれが支考のどのような考え方から出てきたもので︑支
考の俳論の中でどのように位置づけることができるのかといった大
きな問題に直結していかないのではないだろうか︒
ではその︿先後﹀とは︑どのようなものなのか︒
二
まず初めに﹁文教﹂の﹁先後﹂から見てみたい︒﹁文教﹂とは﹁文
章﹂と﹁教誡﹂のことで︑支考はこれを儒仏老荘︑特に儒仏を論じ(8︾るときに用いている︒ 63
此故に我家の白馬経にも︑文章訓と教誡訓といへる両様の家
訓ありて︑文は世法に風雅あるをいひ︑教は人法に勧懲あるを
いへり︒されど文とは礼楽の和にして︑紙にかき筆にうつす文
の事とのみ思ふべからず︒爰に論語の一貫抄より先後抄のおも
む むきをあはせて︑両訓に文教の差別を弁ぜば︑儒書は現在をと
ゝなへて詩書礼楽の文章ををしへ︑仏経は未来をいましめて殺
盗婬妄の教誡をさつく︒畢竟は朝四暮三の先後なれど︑家を建
る時の意地なれば︑儒文仏教の当用をしるべし︒(﹃十論為弁
抄﹄549)(傍線引用者︒以下同じ︒)
実二膳中ノ物好ミナラバ︑小人ノ間居ト云ベケレド︑,不厭ノ
詞二文章ヲ盡セル︑爰二論語ノ雅俗ヲ知リ︑爰二孔子ノ虚実ヲ
知ラバ︑爰二文章ハ先ニシテ︑教誠ハ後ナルヲモ知テ︑爰二儒
仏ノ差別ヲ知ベシ︒(﹃俳諧十論﹄93)
ここで述べられているのは︑一つは儒教が﹁文先教後﹂(﹃十論為
弁抄﹄細)であり︑そのことが儒仏を区別する基準になるというこ
と︑そして二つめはそれが﹁畢竟は朝四暮三の先後﹂︑大した違い
はないということである︒(9)これらは支考の儒仏老に対する次のよう
な考えから出ている︒
儒釈老の差別は文章にわかれて︑教誡は三道一致なるをや︒
今いふ文章と教誡の先後は︑三家の説ざる所なるを︑はじめて
俳諧の発明といふべし︒(﹃十論為弁抄﹄550)﹁教誡﹂という点では儒仏老﹁三道一致﹂している︒逆に言えば
三道の違いは﹁文章﹂にしかないというのだ︒だからその﹁文章﹂
に重点をおくのが﹁文先﹂の儒教であり︑あまり重点をおかないの
が仏教であるということになる︒これが正しい儒仏理解であるかど うかはおくとして︑少なくとも支考は儒仏を理解する時︑﹁文章﹂
と﹁教誠﹂の︿先後﹀という切り口でもって︑それを理解できると
考えていた事になる︒
このように︿先後﹀には大きなメリットがある︒しかしこれでは
まだ︑単なるあとさきということ以外に︿先後﹀の意味内容自体は︑
あまりはっきりしたとは言えない︒そこで次に儒仏の﹁文章﹂の違
いを︑支考がどのように考えていたかを見てみることにしたい︒
三
当然のことながら︑支考は儒仏の﹁文章﹂の違いも︿先後﹀で考
えている︒例えば支考は次のように述べている︒
白馬ノ教誡訓に︑そもく儒仏の教といふは︑内秘外現の二相
ありて︑釈迦も孔子も虚実は知ながら︑それは虚にして是は実
なりと︑一道の意地を説給へば︑聞人は言語の粕によひて︑そ
れか是かと思ひまどふ︒日夜に迷ひくて後に虚でも実でもな
かりし物をと悟るは︑我とさとる事なり︒(﹃十論為弁抄﹄616)
釈迦も孔子も﹁虚実﹂の両方が重要であることは分かっていて︑
その上でたまたま教える筋道︑順序として︑一方は﹁虚﹂を︑他方
は﹁実﹂を強調したにすぎない︒それを聞く方が言語の表面的な意
味にとらわれて︑仏教といえば﹁虚﹂︑儒教といえば﹁実﹂しかな
いように思い込んでしまうのだ︒傍線部はほぼこういう意味である
が︑このことを支考は︿先後﹀を使って次のように説明している︒
一字録の儒仏ノ篇に一節とは家くの意地なり︒釈迦は世法の
虚をさとりて虚を先に説給へば︑仏学者は虚にほれて︑其虚の
癖となる事をおぼえず︒孔子は世法の実をしりて実を先に教給
へば︑儒学者は実にほれて其実の癖となる事をおぼえず︒世は
たゞ虚実の虚実といふをしらで︑虚実に虚実をとむる故に︑ど
ちらも道の害となれり︒其いう釈迦の孔子のは不虚も不実も合
点にて︑一問一答に其事はちがへども︑たとへば愛着の色にか
はらず︒学者もほれたる心より其事ならぬ詞のはしにも︑そな
たにはかく思ふやとをのがよきかたに聞なしてくらぶの奥にや
ふみまよふらん︒それを唯心ノ所造とも随類得解ともいへりと
そ︒(﹃十論為弁抄﹄593)
解云︑古ヨリ三道ノ論者ハ︑其経ハ虚ナリ︑此経ハ実ナリト︑
其家二虚実ヲ定レドモ︑虚実ハ詞ノ先後ノミニテ︑何ノ道力虚
実ヲ兼ザラン︒差別ハ文章二知レトナリ︒(﹃俳諧十論﹄94)
今また虚実の先後を論ぜば︑虚に居る人は是非をとがめず︑
蚊虻のそしりに耳を遊ばしめ︑実に居る人は親疎をわけて︑金
石のちぎりに命をはたす︒彼は仁にして是は義ならめど︑仁義
に好悪の変あるを知るべし︒しかれば虚に居るも実に居るも︑
例に両翼の用あれば︑虚実の先後する所は︑しばらく家くの
立派と見て置べし︒(﹃俳諧十論﹄62)
儒仏の教えは同じだと考えている支考にとって︑儒教で説く﹁実﹂︑
仏教で説く﹁虚﹂は︑どちらにアクセントを置くかという︑その家
の立場の違いに過ぎない︒そしてそれが支考の言う︿先後﹀という
ことに他ならないのである︒
以上儒仏について︑﹁文教の先後﹂と﹁虚実の先後﹂を見てきた
が︑ここからどのようなことを引き出すことが出来るだろうか︒
まず重要なのは︑︿先後﹀が単に︑二つあるもののうちの一方を
重視し優先させるという意味ではなく︑認識や表現の根本に関わっ ているものだということである︒
儒仏老荘の一番大事な点は何か︑また儒教は﹁実﹂を仏教は﹁虚﹂
を主張するが︑どちらが正しいのか︑あるいはその争いをどのよう
に考えたら解決できるのか︑というような問題を︑支考は︿先後﹀
という発想法を用いることでうまく考えられると信じていたのであ
る︒つまり︿先後﹀という発想法の一番の中心点は︑それが何もな
いところに何かをよりよく考えるための筋道をつけるための発想法
のことであり︑その筋道のことであるということなのである︒︿先
後﹀という発想法は︑何かを説明したり︑教えたり︑考えたり︑理
解したりする時に︑どのような筋道でそれを行えばいいかという︑
実践的な発想の方法を意味しているのである︒
このことの意味をもう少し考えてみると︑私たちはよく儒なら
儒︑仏なら仏が︑何を主張しているかということを第一に考えてし
まいがちだ︒そしてそれを比べてみて︑こっちの方が正しいとか︑
あっちの方がより真実を言っているとか議論する︒そして最後には
喧嘩になって物別れということがよくあるが︑支考のこの︿先後﹀
という発想法は︑そのような時に役立つ発想の転換を意味してい
る︒つまり︿先後﹀は︑ある主張がいかなる論理的根拠でもって正
しいと言い得るかという発想を︑どのように考えたら現状をいい方
向に向かわせられるかという発想に転換するのである︒
以上で︿先後﹀という発想法自体の意味内容が︑おおよそ明らか
になったように思う︒そこで次に︑支考俳論の中でこの︿先後﹀が
関わっているいくつかの間題を見て︑さらに︿先後﹀に迫ってみる
ことにしたい︒ 38
四
まず第一に︑これまで引用した文章からも明らかなように︿先後﹀
は言語と密接な関係にある︒
むかしより筆陣の力をつくして︑儒者は仏者にかちたりと思
ひ︑仏経は儒書にまされりと思へど︑今いふ儒法にも虚実あれ
ば仏法にも虚実ありて︑あらそふ人は字面を学びて︑言語の表
裡をしらぬかたに落べし︒(﹃俳諧十論﹄62)
すでに見たように支考によれば︑儒仏において﹁虚実﹂はどちら
も重要なものであり︑それぞれが一方だけを強調するのは︿先後﹀
に過ぎなかった︒それを知らないのをここでは﹁言語の表裡をしら﹂
ないと言っている︒このことからも分かるように︑︿先後﹀とは具
体的には言葉に対する態度︑言葉の扱い方の問題だといえる︒つま
り︿先後﹀をよくわきまえるとは︑言語の表裏をよく知ること︑言
葉を聞く方で言えば︑言語の表面的な意味に惑わされず︑相手が本
当は何を言わんとしているのかを︑よく考える事ができることを意
味しているのである︒
︿先後﹀に関わる問題でもう一つ重要なのは︑この︿先後﹀とい
う発想法は︑少なくとも支考にとっては勝手に思いついたものでは
なく︑あくまで俳諧ということの中から出てきたものであるという
ことだ︒支考にしてみれば︑これこそが儒にも仏にもない︑俳諧独
自の発想法なのである︒例えば次の文章で︑﹁俳諧﹂と言われてい
ることに注意しなければならない︒
儒釈老の差別は文章にわかれて︑教誠は三道一致なるをや︒
今いふ文章と教誡の先後は︑三家の説ざる所なるを︑はじめて 俳諧の発明といふべし︒(﹃十論為弁抄﹄550)
さて文教の先後をわけて︑儒仏の意地を差別せしは︑例に俳
諧の微中にして︑委曲は大綱の弁に見るべし︒(﹃十論為弁
抄﹄553)
そも俳諧の虚実といふは︑儒仏の説ざる内証を︑例の察して
いへる也︒(﹃十論為弁抄﹄581)
支考が一つめの文章で言っているのはこういうことである︒︿先
後﹀を実践することと︑それが︿先後﹀であるとはっきり言う事と
は違う︒儒仏はどちらも﹁虚実﹂を︿先後﹀の実践として強調した
が︑それが︿先後﹀であるとはっきり言わなかった︒俳諧だけが︑
それが︿先後﹀の問題である事をはっきりと言ったというのである︒
そしてさらにそのことによって俳諧は︑儒仏老荘よりもより自在に
物事を考えられるようになったと支考は考えている︒それは次の文
章からも分かる︒
しかれば俳諧の道といふは︑儒・仏・老荘の間をつたひて︑
虚実に中庸の法ありといはむ︒本より儒仏の大道は︑虚実の先
後に家をわけたるを︑俳諧はそれが仲人としるべし︒(﹃俳諧
十論﹄53)
さるを十論の明白なる︑遠く儒仏の表裏をもしり︑深く老荘
の意地をもしりて︑三道の間の糸筋をつたひ得たらん︒爰を第
二段の要としるべし︒(﹃十論為弁抄﹄561)
俳諧はたゞ虚実にして︑其虚を談ずれば釈老となり︑其実を
論ずれば孔孟となる︒爰に論語の名をもしるべし︒いつれの言
語か虚実によらざらん︑いつれの虚実か先後によらざらん︒法
は変化の橄カヂとしるべき也︒(﹃俳諧十論﹄83)
儒仏と違って俳諧は︑あらかじめこれが正しいという前提を持た
ない︒だから俳諧は︑その場に応じて儒仏老荘どれにでもなれる︑
どのようにでも自在に考えられる︒つまりどのようにでも自在によ
りよい筋道をつけられるというのである︒だから︿先後﹀という発
想法を持っ俳諧は︑思想という点で儒仏よりはるかに実践的で優れ
(10)ている︑そう支考は考えていたのである︒
さて︑以上でおおよそ︿先後﹀に関係する重要な点が出尽くし
た︒まとめると次のようになる︒
(一)︿先後﹀という発想法は︑物事をよく理解(認識)したり︑
うまく考えたり︑説明(表現)したりするための︑よりよ
い筋道をつけようという発想法である︒これは︑どのよう
に考えたらうまくいくか︑という実践的な発想法である︒
(二)具体的には一つのものを二つの契機に分けて︑仮に優先順
位をつけるという発想法である︒
(三)一般に﹁先後﹂という語が持つ﹁優先順位﹂という意味も︑
支考においては(一)でいう筋道においてのみ意味を持つ︒
だからそれは︑よりよい筋道をつけるための︑仮のものに
過ぎない︒(四)ただし仮とは言え︑それがその人の立場を表明することに
もなる︒(五)︿先後﹀は具体的には︑言語に対する態度に関わる︒つま
り︿先後﹀をよく知るとは︑言語の表裏をよく知ること︑
すなわち言語の表面的な意味にとらわれることなく︑奥(真)の意味をよく理解することである︒(六)︿先後﹀は︑単なる思いつきではなく︑支考の俳諧観から 出てきたものである︒(七)︿先後﹀は︑虚実論(虚実自在)の一つの具体的な実践で
ある(このことについては後述)︒
五
さて︑︿先後﹀がこのようなものであることに注意すれば︑冒頭
に触れた﹁姿先情後﹂の理解はどのようにかわるのだろうか︒
まず﹁姿先情後﹂自体の解釈について言うと︑︿先後﹀というこ
とによく注意すれば︑﹁姿先情後﹂は︑︿姿情のどちらも重要だが︑
うまく句(文章)を作るために敢えて順序をつけると︑姿を優先さ
せたほうがよい﹀というように解釈できる︒これは結果だけを表面
的に見れば︑堀切説や各務説とそれほど違っては見えないかもしれ
ない︒しかし堀切論文に引かれていた各務氏の説明や︑堀切氏の
﹁いうまでもなく︑姿情論は﹃続五論﹄にみられるごとき﹃本情論﹄
を背景にして︑﹃姿情融合﹄への契機をつねにもっているはずのも
(11)のである﹂という言い回しからも分かるように︑両説では﹁姿情﹂
の両方が大事だということに注意が向けられているにもかかわら
ず︑その根拠を︿先後﹀自体ではなくその外(例えば﹃本情論﹄)
に求めておられる︒これはもちろん両説が︿先後﹀とは何かという
問題を素通りしたためで︑本論で明らかにしたことの一つは︑少な
くとも支考本来の用法としては︑﹁姿先情後﹂という語の中に両方
重要だという意味がきちんと含まれているということなのである︒
しかしこのことは﹁姿先情後﹂自体の解釈でいえば︑それほど大
した問題ではない︒それよりも︑︿先後﹀ということを踏まえるか
踏まえないかは︑﹁姿先情後﹂という説が持っ意味の受け取りに大 40
きな違いを生むのである︒
これは姿情論の枠の中でその独創は何かを考えようとするのと︑
支考俳論全体に通底する支考の発想法を考えようとするモチーフの
違いにもよるが︑例えば堀切説では﹁姿先情後﹂を﹁作法指導上の
積極的な意図として﹂受け取っておられる︒(12)しかしこのような受け
取りは︑﹁姿先情後﹂の一番大事な点を︑俳諧を広めるため︑指導
するための方法論に還元してしまうものである︒もちろんそれが指
導に好都合なものであったことは確かである︒しかしそれはあくま
で︿先後﹀という方法が持つ一つの契機に過ぎないのであって︑す
でに明らかにしたように︿先後﹀という方法はもっと広くて深いの
である︒
﹁姿先情後﹂が︑支考が持っていた︿先後﹀という俳諧独自の発
想法を使って︑姿情論を考えた時に出てきたものであることをよく
考えれば︑﹁姿先情後﹂が出てきたのはまさしく︑支考にとっては
俳諧の実践そのものからであり︑支考の俳諧観と直結していると言
えるのである︒その意味で︑﹁姿先情後﹂は︑原理論として支考俳
論を読んだときに︑その中にきっちりと位置づけることが出来るも(13)のなのである︒
だから︑もし﹁姿先情後﹂という説が持つ一番重要な意味をどの
ように受け取るか︑つまりどの点を支考の独創として評価するのか
といえば︑堀切氏のように指導のために﹁敢えて﹃姿先﹄﹂を主張
したことではなく︑﹁風情﹂という問題を考える上で︑よりよい筋
道をつけようとした点︑すなわち﹁姿﹂と﹁情﹂を二つに分けて考
えようとした点だということになる︒(14)極端な話︑もし﹁情先姿後﹂
であっても︑それは支考の独創と言えるのである︒それは次のよう に考えればいっそうはっきりする︒
﹁姿﹂﹁情﹂の二つに分けた事と︑﹁情先﹂ではなく﹁姿先﹂を主
張したことと︑発想としてどちらがより根源的かというと︑明らか
に前者と言わなければならない︒なぜならそもそも﹁姿﹂と﹁情﹂
のどちらが重要かという議論︑発想の土俵があって︑言い換えれば
それまで﹁情先姿後﹂という説があって︑それに対して支考が﹁姿
先情後﹂を自らの立場として打ち出したのではないからだ︒逆に支
考の︿先後﹀という発想法が︑﹁姿先﹂か﹁情先﹂かという問いを
生みだしたのである︒どちらが﹁先﹂かという問いは︑二つに分け
る事から自然と導かれるが︑その逆は言えないからだ︒
両説もよっておられる去来の次の文章は︑傍線部の後ではなく︑
傍線部にこそ重点をおいて読むべきではないだろうか︒
去来日く﹁句に姿といふ物あり︒たとへば︑
妻よぶ雉子の身を細うする去来
初めは︑雉子のうろたへて啼く︑となり︒先師曰く︑汝︑いま
だ句の姿をしらずや︒同じこともかくいへば姿あり︑とて︑今
の句に直し給ひけり︒支考が風姿といへる︑是なり︒風情とい
ひ来たるを︑風姿・風情と二つに分けて︑支考は教へらるる︑
(15)尤もさとしやすし﹂︒
支考自身も次のように述べている︒
されど連歌は情をはこびて其実の先なるよし︑連俳はいさ儒
仏の意地ならん︒諸道は本より虚実の先後ながら︑風の一字に
姿情をさばけるは︑例に虚に居て実をおこなふといへる優游自
在の為なるべし︒(﹃十論為弁抄﹄581)
風姿風情の二法を分ちては東花坊に﹃五論﹄おこり(略)
(16)(﹃南無俳諧﹄)
六
以上のように考えてくると︑二つの大きな問題が出てくる︒ここ
ではそれをきっちり考える余裕はないので︑それを指摘するにとど
めたいと思う︒
まず一つめは︑︿先後﹀における優先順位をどうやってきめるの
かという問題である︒もちろんそちらを優先させたほうがうまくい
くということが最終的には根拠になるけれども︑それでも例えば︑
なぜ姿情論では﹁姿﹂を優先させたほうがうまくいくのか︑という
問題が残る︒もちろん支考はこの問題についても︑俳論の中できち
んと述べている︒(17)しかしこれは︑︿先後﹀という発想法を明らかに
するという本論の目的とずれるので︑ここではこの問題が支考の他
の俳論用語に大きく関係する問題であることだけを指摘しておきた
い︒
もう一つは原理論ということと関係するが︑︿先後﹀と虚実論と
の関係についてである︒
本論でこれまで見てきたことからも分かるように︑︿先後﹀とい
う発想法は︑支考の中でかなり根源的な位置にある考え方だといえ
る︒したがってもしこれまで支考俳論の中で重要だと言われてきた
虚実論と︑この︿先後﹀との関係が支考の俳論の中できちんと説明
できるのでなければ︑支考の俳論は原理論としてそれほど優れてい
るとは言えない︒支考の俳論全体を見直す上でもこの問題は重要で
ある︒もちろんこの問題をきっちり考えるためには︑虚実論の側を
十分検討する必要があるけれども︑あえて私見を述べさせていただ くと︑すでに(七)としてあげたように︑この︿先後﹀という方法
は︑支考の虚実論の一つの具体的な実践であるといえる︒
例えば支考は次のように述べている︒
そも俳諧の道といふは︑第一に虚実の自在より︑世間の理屈
をよくはなれて︑風雅の道理にあそぶをいふ也︒誠よ︑俳諧の
寛活なる︑其人にして此道なからんには︑狂言・綺語の仮アダ事な
らんに︑虚実の間に心をあそばしむる︑言語のサパキを宗ムネとしるべ
し︒本より虚実は︑心より出ておこなふ所は言語ならんをや︒
(﹃俳諧十論﹄53)
そも俳諧の虚実とは︑例に言語のなるより︑道を説時の両
翼にして︑それが変化をしるにはしかず︒(﹃俳諧十論﹄60)
少なくともこれらから︑﹁虚実(自在)﹂とは︑その﹁心﹂(認識
や発想)においても﹁言語﹂(表現)において も︑何かにとらわれ
ることなく自在であることを意味していることが見てとれる︒(18)これ
を例えば︑言語の問題について見てみると︑支考は次のように説明
している︒
むかし今の儒仏論にも︑仏祖通載の金湯篇の補教篇は文章に
いたり︑異端弁正は論にたらず︒まして我朝にも此論ありて︑
どちらへか勝負をさだめむとすれど︑さるは釈迦孔子の意地を
さとらず︑聖人の言語の粕によひて︑虚実の変をしらぬ故也︒
(﹃十論為弁抄﹄550)
俳諧は親子兄弟とても︑まして老若尊卑をへだてず其時の言
語にあそぶ事は︑例の虚実に自在なれば也︒(﹃十論為弁抄﹄
561 )畢竟はたゞ虚実の変をしりて︑其日の言語にあそぶといへる 42
遊の一字を師とすべし︒(﹃十論為弁抄﹄556)
このように﹁虚実自在﹂﹁虚実の変﹂が︑言語の表面的な意味に
とらわれることなくその裏(真)の意味をよく理解すること︑その
場その場にうまく対応できる(遊べる)ことであるならば︑先に見
てきた︿先後﹀がその一つの具体的な実践であると私が言う意味も
少しは納得していただけるのではないだろうか︒
おわりに
以上支考の俳論を原理論として追いつめるというモチーフから︑
支考独自の発想法である︿先後﹀について見てきた︒これは支考俳
論︑そしてそれを支える俳諧観の根底にある俳諧の発想法であっ
た︒
今後その他のさまざまな支考の俳論用語を検討することによって
支考の俳論自体に迫りたいと思っているが︑私自身としては支考の
俳論は︑全てではないにしても︑俳諧とは何か(俳諧の原理)を考
える上でいくつもの面白い︑意味のある問題を持っているように思
われる︒
本論がそれの︑初めの第一歩にうまくなってくれればいいと思
う︒
注(1)ここで原理論というのは︑俳諧とは何かという問題を最後ま
で突き詰めて論じるという意味である︒(2)例えば尾形仂氏は﹃俳句・俳論﹄(昭和三十四年 角川書店)
で︑当時の俳論は﹁どこまでも実作者としての実践の立場を忘 却したものではない﹂と述べておられる︒
(3)三枝博音氏は﹃俳諧十論﹄を﹁注目すべき詩の理論﹂(﹃日
本哲学全書﹄第十一巻昭和十一年第一書房)と述べておら
れるし︑潁原退蔵氏も支考の俳論を﹁彼一流の芸術論﹂(﹁俳
論史﹂﹃潁原退蔵著作集﹄第四巻昭和五十五年中央公論社)
として見れば面白いと述べておられる︒
(4)﹁支考の﹃姿情論﹄に関する一試論﹂(﹃連歌俳諧研究﹄三十
号昭和四十一年三月)︒
(5)(4)に同じ︒
(6)引用は﹃俳諧十論﹄は日本俳書大系4﹃蕉門俳話文集﹄(春
秋社)により︑新字に改めた︒﹃十論為弁抄﹄は古典俳文学大
系6﹃蕉門俳諧集一﹄(集英社)による︒数字はその頁数︒以
下同じ︒(7)各務虎雄氏が﹃初音﹄ニ一三号(昭和四十三年五月)の表紙
に紹介されており︑氏による解説がある︒また堀切実氏﹃支考
年譜考証﹄(昭和四十四年十一月笠間書院)参照︒
(8)支考は﹁老(荘)﹂については﹁文教﹂で説明しない︒それ
は次のような老荘理解のためである︒
そもく老荘の道たるや︑心の天遊を先として︑聖人の
仁義を後とすれば︑世情の理非をおしまげて︑虚実のはじ
めにあそばむとす︒(﹃俳諧十論﹄53)
一字録の儒仏篇に︑むかしより儒釈老の三道といへど︑
人間をみちびく大道は︑釈迦と孔子とに虚実の二道あり
て︑老子のは道と名付がたし︒其故は天理の動ざる先は道
といふ名もなし︒動て後に善悪の道あれば︑道とは勧善懲
悪の名也︒まして老子は自撰の経にも︑道の道とすべきは
道にあらず︑名の名とすべきは名にあらずと︑寂然不動の
其先をいへり︒(﹃十論為弁抄﹄559)
(9)﹁朝四暮三﹂は︑﹃荘子﹄の﹁朝三暮四﹂のもじりである︒
(10)支考が俳諧を︑あらかじめ前提を持たないという点で︑儒仏
に匹敵する思想として考えていた面があるということを堀信夫
氏に御教示いただいた︒
(11)(4)に同じ︒
(12)もちろん堀切氏もそれが全てだと考えておられるわけではな
く︑﹁﹃姿﹄重視のモチーフが︑俳諧表現における﹃私意﹄﹃理
屈﹄の排斥にあり︑芭蕉晩年の﹃かるみ﹄の説と深くかかわ
る﹂((4)に同じ)と述べておられる︒それについては(17).参照︒
(13)そのことは﹁姿﹂﹁情﹂を明らかにすれば︑もっとはっきり
する︒
(14)﹁姿﹂と﹁情﹂の二つに分けることが︑どのような視野を切
り開いたかというと︑支考が﹁姿情の奥義をさだむ﹂(﹃発願
文﹄)と述べた﹃続五論﹄の﹁新古論﹂(内容は姿情論)で﹁そ
の詩哥.連俳に風情・風姿のふたつあり﹂と述べた上で︑それ
を俳諧の新古を区別する基準としている︒さらに﹃俳諧十論﹄
などでは︑連俳の区別の基準にもなっている︒つまり支考は
﹁姿﹂﹁情﹂という切り口で︑古俳諧や連歌と蕉門の俳諧の違い
を考えているのである︒このような視野を持っていた点こそ支
考の姿情論の独創と呼ぶべきではないだろうか︒
ただし﹃続五論﹄ではまだ﹁先後﹂という言葉は使われてい ないので︑その基になる発想が支考に早くからあったことを示
してはいるが︑厳密には︿先後﹀とは言えない︒この時点では
二つに分けるということを実践してはいたが︑本論で明らかに
したような︿先後﹀の様々な点を含め︑自分が行っている方法
を︑方法としてはっきり自覚していたのではないからだ︒
本論で論じている︿先後﹀ということも︑それを持ち出して
から支考の論は格段に深化しているのであって︑それまで持っ
ていた方法にちょうどいい名前を後から付けただけという単純
な話ではない︒
ついでにいうと﹃葛の松原﹄にはすでに﹁結前生後﹂という
言葉が見える︒(15)引用は﹃連歌論集・能楽論集・俳論集﹄(日本古典文学全集
51小学館昭和四十八年七月)による︒
(16)引用は南信一氏﹃総釈支考の俳論﹄(昭和五十八年風間書
房)による︒
(17)これについても堀切説とは考えが違う︒ここで詳しく言うこ
とはできないが︑例えば氏は﹁﹃姿﹄重視のモチーフが︑俳諧
表現における﹃私意﹄﹃理屈﹄の排斥にあり︑芭蕉晩年の﹃か
るみ﹄の説と深くかかわる﹂((4)に同じ)と述べておられ
る︒もちろん﹁姿先﹂と﹁理屈排斥﹂が関係あることは否定し
ないけれども︑例えば﹃俳諧十論﹄﹁第五姿情論﹂などでは︑
なぜ﹁姿先﹂なのかという理由が述べられており︑原理論とし
て読む限り︑そこでは明らかに支考の言語観等が大きく関わっ
ているのであり︑少なくとも﹁理屈排斥﹂が﹁姿先﹂の根拠と
はされていないのである︒ 44
(18)引用した文章ではほぼ次のことが述べられている︒
(1)﹁俳諧の道﹂は﹁虚実自在﹂によって︑﹁世間の理屈﹂を離
れ︑﹁風雅の道理にあそぶ﹂ことであること︒
(2)虚実が行われるのは言語であること︒だから﹁言語の﹂が
重要であること︒
(3)虚実は﹁心﹂と﹁言語﹂の両方に関わること︒
(4)虚実とは﹁道を説時の両翼﹂であること︒
(5)虚実の変化を知ることが重要であること︒
︹付記︺本論は俳文学会第四十四回全国大会(於熊本女子大学)に
おけるロ頭発表を基にしている︒当日及びそれに先立つ大阪
俳文学研究会九月例会で︑貴重な御教示を賜りました島津忠
夫先生︑堀切実先生︑田中道雄先生︑藤田真一先生︑塩崎俊
彦先生に深謝申し上げると共に︑一々注記しなかった部分に
ついても︑堀信夫先生の演習内外におけるさまざまな御教示
に負うところが大きいことを記して厚く御礼申し上げます︒
さらに私の支考研究に惜しみないご協力をいただいた各務ヒ
ロ氏にも深く御礼申し上げます︒