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厦門留学と親友

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Academic year: 2024

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私は2016年

9月から2017年

7月の

10ヶ月間、中国の福建省の厦門市とへ語学交換留

学生として留学をしていた。

元々中国には興味があった。しばしばメディア

やネットで見かける反日の様子、日本嫌いは本当

なのか、中国や中国人の実情を知りたくて中国語

学科に入学した。入学後、中国語の面白さに引か

れ、自ら進んで勉強するようになった。その過程

で様々な先輩や先生方で出会い、中国を直で感じ

る事と、中国語を伸ばすためには留学が一番だと

思い、留学を決意し、留学するに至った。

中国人にも色んな人がいて、これこれこうだか

ら中国人、と一概に言える訳ではない。もちろん

日本人のような性格の中国人もいた。

だが私が会った人を統計的に見てみると、基本

的に皆我が強い。自分の意見をしっかり持ってい

る人が、日本人と比較してもかなり多いイメージ

だった。(一度中国人と討論をしたことがある。日

中間のわりと際どい議論だったが、こちらが気を

使う一方で、向こうはとにかく自分の意見を曲げ

ず、遠慮は日本人に比べても圧倒的に少なかった)

また、いい意味で距離感が近い。日本人の友人

や知り合いの間で「今何してるの?」「ご飯食べ た?」などと、唐突に聞くと変な印象を抱かれる

だろうが、中国ではこれが普通で、日本のように

怖がられたりはしない。

何より中国人の方が日本人よりも格段に仲良く

なれる。日本人には礼儀の精神があるし、とにかく

何でも失礼のないようにと考えながら話す人が多

い。だからほとんどの人が初対面の人に敬語を使う。

しかし中国語は日本語と比較して敬語が少な

い。全く無いわけではないが、かなり少ないと感

じた。そう言うわけで話し方に差が出ないからど

んな人にも自然体(もちろん地位の差はあるが)

15

厦門大学の図書館

厦門留学 親友

外国語学部 中国語学科 3 年

 菊地 蘭丸

(2)

言った。

加えて彼の中国語は今までで誰よりも早く、一

文字も聞き取れなかった。ここだけの話、当時私

は彼は本当に中国人なのか疑っていた。正直彼と

は友達になれないなと思ったのを覚えている。

しかし、恐らくもう話すことはないだろうとい

う私の予想とは裏腹に、彼は事あるごとに私に会

いに来て、会話をしてた。とは言え最初は全く分

からず、苦笑いを浮かべているだったが、それで

も彼と話した後は他の中国人の中国語がゆっくり

聞こえるなど、意志疎通は毎回大変だったが、着

べ終わってからようやくコミュニケーションがと

れるような相手である。そう仲良くなるはずもな

かった。気持ちとか片言でもいいとかそういう意

見もあるが、限度はあると思う。

そんな時、ある一人の少し変わった中国人に出

会った。彼と初めて会ったとき、私は相変わらず

の拙い片言の中国語で彼に話し掛けた。これが普

通(の中国人)であれば、頑張って何を言ってい

るのか聞き取ってくれるが、彼は考える素振りす

ら見せずに笑いながら「わかんねーよ」と、そう でいられる。初対面で自分の事をマシンガントー

クで延々と話す人も日本に比べればかなり多い。

そうやって遠慮なく話し掛けてもらえるとこちら

も話したいことが出てくる訳で、自然と話が弾む。

もちろん本当に敬語の差異が100%この違

いを生んでいる訳ではないと思うが、結論から言

えば中国人はとてもフレンドリーだと思った。

中国に留学したばかりの時だった。日本にいた

ときから中国語は比較的頑張って勉強していた

方だし、(資格もHSK5級と言う、上から二番

目のレベルを取っていたから)正直話せるものだ

と思っていた。だが現実はそんなに甘くなく、留

学先の大学では中の下のレベルのクラスに入れら

れ、それも日本人の漢字が読める、と言ったもの

を利用したからに過ぎない。何よりクラスにいる

人の殆どがスラスラと中国語を話す姿は、私に衝

撃を与えるのに十分すぎた。

そういうことで、焦った私はどうにか中国人の

ラングイッジパートナーを見付けなくては、とい

う想いにかられ、必死に色々なイベントに参加した。

先程言ったように中国人は比較的フレンドリー

で、そう言ったイベントに参加した際には大体話

してくれる人はいたし、皆優しかったが、一言話

すたびに単語を書かせて、携帯の辞書を使って調

16 厦門大学の日本語学科の学生達

クラスメイトとの集合写真

(3)

実に成長を実感した。

それから私も積極的に彼と会うようになり、拙

いながらも中国語で話し続けた。

半年もすると、その内自然と意志疎通が出来る

ようになり、彼とも深い話をすることが出来るよ

うになっていた。そして、ありがたいことに友人

もたくさん出来るようにもなった。

そして留学が終わるころには、彼は私にとって

大切な友達になっていた。

彼と会ったのは偶然だったが、会えたのはとて

も運が良かったと思う。もちろんここでは話し切

れないほど、他にも多くの出会いをしたが、中で

も私の中国語が伸びた大きな要因は彼のお陰だと

思っている。

中国で最も印象的なのは、やはりお店の店員の

態度だろう。

初めて中国のお店に入ったとき、びっくりした

のが、店員が座ってスマホでドラマを見ていると

いう点だった。日本であれば絶対クレームものの

光景に流石中国という感慨を抱いた。更に物を買

うときですらスマホから目を離さないでお金を受

け取り、お釣りを渡すのを目の当たりにして、軽

いカルチャーショックを感じた。

これは別に私が行ったお店に限らず(どの定員

もドラマを見ているわけではない)、中国のお店に

入れば大体適当で当たりが強い。ただ高級店であ

ればわりと丁寧ではあるが。もし中国に行ってお

店で何か買うことがあって店員が怖くても、別に

気にする必要はない。確かに態度はよくないし、聞

き取れないでもう一度言ってもらったときなどは露

骨に嫌そうな顔をするが、別に怒っている訳ではな

い。日本が逆に丁寧すぎるのが当たり前なように、

中国ではこういう風にやるのが当たり前なのだ。

最初はこうした習慣に慣れなかったが、段々慣

れてくると面白いもので、むしろ日本よりも楽に

感じていった。日本では人に失礼のないようにと

無意識に気を使っていた自分が解放されて、常に

素の自分で接していられる気楽さがあった。 私が言いたいのは、別に店員がどうとかではな

い。店員のことはあくまで一つの例で、店員など

がそういう風にできる空気が中国にはあること

が、個人的にかなり印象的だった。

中国に一年という期間の留学は自分にとって本

当にいい経験になったと思う。当時の目標だった

中国語の向上と、中国の文化に触れるという二つ

は自分なりにある程度達成できた。日本ではそう

そう会えないような人にも会えたし、自身の価値

観も広げることもできた。

本当に留学を勧めてくれた先輩(李美大一先輩、

横田竜一先輩)にはとても感謝をしている。

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厦門留学と親友

厦門大学のすぐ近くにある南普陀寺

大学の湖。建物は教室のある講義棟

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