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國中 明先生を悼む - J-Stage

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574 化学と生物 Vol. 51, No. 8, 2013

國中 明先生を悼む

食品の味覚において極めて重要なうま味成分の一つで ある5′-ヌクレオチドの発見を通じて,農芸化学の意義 と役割を広く社会に知らせた日本農芸化学会有功会員の 國中 明先生は,去る平成25年4月2日膵神経内分泌腫 瘍のため86歳の生涯を閉じられた.ここに心からの哀 悼の意を表するとともに,その時代を画したご業績の一 端を振り返らせていただきたい.

先生は1928年1月16日大阪にお生まれになり,旧制 浦和高校を経て1948年東京大学農学部農芸化学科に入 学され,卒業研究には坂口謹一郎教授が主宰する醗酵学 研究室を選ばれた.1951年に卒業して大学院に進まれ たときに坂口教授から与えられた,「微生物による核酸 分解」のテーマこそがすべての始まりだったとは,後年 先生が心からの感謝を込めて振り返られた言葉である.

その頃の生化学ではタンパク質と酵素の研究が脚光を浴 びる反面,核酸については生体成分としてデオキシペン トース核酸 (DNA) とペントース核酸 (RNA) の2種類 があるという程度の認識にとどまっていた.そのような 時代に核酸を研究対象にすること自体が極めて冒険的で あり,わが国の農芸化学にもともと備わっていた,新し い基礎的な研究領域を積極的に取り込もうとする先進性 の表れだったと言える.

一方で先生の研究には,小玉新太郎博士が1913年に 東京化学会誌に発表しながらほとんど忘れられていた,

鰹節のうま味成分がイノシン酸のヒスチジン塩であると いう報告を確かめようとする,農芸化学本来の鋭い実用 的関心が秘められていた.先生はこの目的に正面から取 り組んで,単なる麹菌による核酸分解の研究にとどまら ず,分解物一つひとつの味を自身の舌を検出器にして調 べていったのである.1953年になって,父君がかつて 役員を務められたヤマサ醤油株式会社に入社したが,研 究はそのままの形で継続され,ろ紙クロマトグラフ上の 分解生成物のスポットを検出するために紫外線ランプを 手作りするなどの創意工夫を積み重ねた.

こうした努力の末に,当時ヌクレオチドに 2′, 3′, 5′ の 3種類の異性体があることすら十分認識されていなかっ たなかで,麹菌による核酸分解物中のイノシン酸 (3′-異 性体)にはヒスチジンを加えても味がないのを認める と,直ちに鰹節,鰯,兎筋肉などからイノシン酸(5′-異 性体)を取り直して,それが求めていた「鰹節のうま 味」の本体であることを明らかにしたのは,優れた実験 者としての先生の真骨頂を示している.しかし,その成 功とほとんど同時に,うま味の競争相手のはずの L-グル タミン酸と5′-イノシン酸との間に,互いに助け合う強 力な味の相乗作用があることに気づいたのは,典型的な セレンディピティの結果である.たまたま両者を口に含 んで「うま味が口中に爆発するように拡がった」1955 年8月20日の瞬間を語る先生の言葉には,独創的な研究

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の原点を伝えて人を強く感動させるものがあった.この 画期的な発見をきっかけに,単独では実用化が困難だっ たかもしれない 5′-イノシン酸の調味料としての利用に,

最初の突破口が開かれたのである.

引き続く酵母RNAを原料とする製造技術の開発に当 たっては,それまで蛇毒からしか知られていなかった RNAを 5′-ヌクレオチドに分解する酵素を微生物に求め て,坂口教授の支援の下に広範な微生物スクリーニング を行い,ヌクレアーゼP1 と名づけた目的の酵素をペニ シリウム属カビから発見して,工業的量産法の確立に成 功した.さらにその工程から副生する 5′-グアニル酸が,

5′-イノシン酸を上回る強い呈味性を有するのを発見し て,新しい複合調味料の製品化が決定づけた.こうして ヌクレオチドのうま味発現に必須な化学構造が明らかに なったことは,相乗作用の発見と併せて,その後のうま 味の生理学的解明にも大きく貢献することになった.

今で言うオープンイノベーションの形で進められたこ れらの成果が1957年頃から知られ始めると,うま味調 味料の分野を震撼させるニュースとなり,やがてヤマサ を先駆けに相次いで数社が世に送り出した複合調味料 は,「日本人の舌が発明した新しい味」として広く一般 の注目を集めた.またこの技術は米国メルク社へ技術輸 出されるなど,海外にも大きな反響を引き起こした.先 生はこの一連のお仕事によって,1960年日本農芸化学 会賞,1964年には恩賜発明賞を受賞された.

改めて当時を振り返れば,1956年のグルタミン酸醗 酵発見から日を置かずに,うま味についての第二の大発 見が立て続けに起こったことは奇跡のようにさえ思われ る.この二つの発見によって生まれたアミノ酸醗酵と核 酸醗酵の二つの流れは,互いに絡み合って日本発の独創 的な微生物バイオテクノロジーの大きな流れとなり,世 界に拡がっていったのである.國中先生はその全体を極 めて公正な立場から導かれた,農芸化学を代表する巨人 のお一人であった.

この大きな成果を上げた後,先生は一転して1963年 に米国マサチューセッツ工科大学生化学研究室に研究員 として赴任し,足かけ4年にわたってT4ファージを対 象とする分子生物学の基礎研究に没頭する.そうしてヤ マサに復帰すると,生命現象についての幅広い知識のう

えに立って,工業規模での核酸生産体制を武器に核酸関 連化合物の開発を積極的に進め,それを核に抗がん・抗 ウイルス薬,体外診断薬から免疫関連まで,新しい医療 にかかわる多様な研究開発を先頭に立って牽引した.

1978年以降は取締役研究所長,研究開発本部長,名誉 研究所長を歴任して後進を育成しながら,数多くの新規 医薬品の原体,診断薬などを世に出すとともに,200種 を超す核酸関連物質の研究試薬としての供給を通して生 命科学,医学の基礎研究に貢献し,核酸と言えばヤマサ の地位を不動のものとした.その間,日本農芸化学会副 会長,アメリカ化学会名誉会員,濱口生化学振興財団評 議員をはじめ,政府委員会委員など多くの公職を務め た.それらの功績によって,先生は1983年には紫綬褒 章を受章された.

最後に,長い間折に触れて暖かいご指導とご鞭撻を 賜った後輩の一人として,個人的な思い出を2つ述べる のをお許しいただきたい.

一つは,先生がボストンからお帰りになった頃だった と思うが,ふと「僕はTVAのリリエンソールは偉い人 だと思います」と漏らされたことがあった.大恐慌後の アメリカを立て直すニューディール政策の一つだったテ ネシー河流域開発公社 (TVA) は今では忘れられて久し いが,一時はわが国でも戦禍からの国土復興を志す人た ちの関心を集めたことがあった.その指導者の,どこか 宮沢賢治に通ずるような草の根の理想主義が,晩年には 地域の子弟の教育に力を注がれた國中先生と重なって思 い出される.

もう一つは,先生が懇親の席上で乾杯の発声を求めら れるたびに,終生の師と仰いだ坂口謹一郎先生の歌を吟 詠される高らかなお声である.

「たまきはる いのちのかぎりきわめませ     いやはてしらぬ むらさきのみち」

まことに國中先生は,その明るく高潔なお人柄のすべ てを傾けてむらさき(醤油)が現すうま味の道を究め,

この世にいくつもの貴重な贈り物を残されたのであっ た.合掌

(別府輝彦)

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