田 村 奈保子
は じ め に
『失われた時を求めて』2(以下『失われた時』)におけるコンブレーのジョッ トの寓意画をめぐる挿話は,2,000ページを隔てたパドヴァのスクロヴェーニ 礼拝堂(小説ではアレーナ礼拝堂)での挿話とのつながりを意図しておかれて いる。私たちはすでにこのひとつながりの挿話を青と金で読みつなげ,青に語 り手の母への愛を,金にその愛ゆえに生まれる罪悪感や悲しみを読み取る解釈 を試みた。本稿は,その読解を修正・補完しつつ,その他の観点についてさら なる考察を加えるものである。
1.コンブレーにおける青と金
まず,先の読解から,「スワン家の方へ」の「コンブレーⅠ」「コンブレー
Ⅱ」を分析した部分を振り返りたい。
『失われた時』が闇に等しい暗がりで始まることは知られている。小説が色 づいてくるのは「幻灯の挿話」からで,そこには語り手が「見なくても私には その色がわかっていた」(I, p.9.)として,青と金・黄3が疑いようもない一対,
ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバンのベルトの青と城と荒野の黄,ブラバンの名 にある金褐色の響きとして登場する。ジュヌヴィーヴ・ド・ブラバンの悲劇
『失われた時を求めて』 :青と金で
たどるコンブレーからパドヴァ(続)
1は,このあと一人で寝に行かなければならない語り手の悲しみ,また母への強 すぎる思慕への呵責の念にも結びつけられている。
次にこの二色が対を成すかのように登場するのは,就寝劇に続くスワン来訪 の場面で,青い庭着を着た母(I, p.13.)からのお休みのキスを奪う存在であ るスワンには,ここまでに色彩語が九つと少ない中三回も金色が充てられてい る(I, pp.14,15,26.)。そして,思いがけず父の許しを得,母がその夜語り手と 過ごすことになった時,語り手は母を譲歩させてしまった罪悪感から母に「白 髪を生じさせてしまった」と泣くのだが,母はそんな語り手に「お馬鹿さん mon petit jaunet」と声をかける(I, p.38.)。jaunet は薄黄色,古くは金貨 を意味した。
このように,「コンブレーⅠ」には,幻灯の挿話と就寝劇に青と金が一対と なって登場し,それが語り手の母への強い愛情とそれに伴う罪悪感や悲しみに 結びついていると考えられる。語り手の罪悪感は,母を侵犯しがたい聖なる存 在と考えていることによるだろう。青い服を着ていた母は聖母になぞらえられ ていると考えることもできる4。
「コンブレーⅡ」にも,青と金が一対となっている箇所がいくつかあるが,
着目したいのはレオニ叔母の部屋の描写にあるショーソン(I, p.49.)と教会 が例えられるブリオッシュ(I, p.64.)である。どちらも比喩的に「金色に焼 きあがった」5と表現され,同じく丸い金色の焼き菓子のマドレーヌとの関連 を思わせる。マドレーヌに関しては,近親相姦的な欲望と結びつけた考察が知 られている6。ショーソンを食べ終えた後に語り手が「密かな渇望をもって」
もぐりこむベッドは,快と不快が入り混じったような描写がなされている(I, p.50.)。一方,コンブレーの教会はというと,内部については青が基調のステ ンドグラスの様子が描かれ,光のきらめきは水や海に例えられている(I, pp.58-60.)。その鐘塔の外観は昼は日に映え金色に輝き雄々しく尖塔を空に突 き立てているかのようだが,母と離れて寝に行かなければならないことを思い 出す夕刻が近づくとクッションのように力なく空に沈み込んで見える(I,
p.64.)。鐘塔の男性性と先述のベッドカバーの描写を想起させる頼りなげな姿 は,語り手の母への行き過ぎた強い思慕とそれに伴う不安感を思わせる。
「コンブレーⅡ」からもう一か所青と金が対になって現れる挿話を取り上げ たい。それはアドルフ伯父の部屋の挿話(I, pp.71-79.)である。伯父の部屋 の天井は青く壁には金泥塗の装飾があると語られている(I, p.72.)。着目した いのは,この挿話がアレーナ礼拝堂に飾られたジョットの寓意画の小説導入
(I, p.79.)と間をあけずに前置されていることである7。そこには礼拝堂の名は あるものの(I, p.80.),青と金を基調色とした堂内の描写はなく,寓意画にの み言及されている。アレーナ礼拝堂を思わせる色調の伯父の部屋の描写は,礼 拝堂への暗示,小説へのジョット導入の伏線とも考えられるだろう。
ここまで,「コンブレーⅠ」と「コンブレーⅡ」に青と金が一対となって現 れる箇所を見てきたが,だからといって,「コンブレー」は青と金を基調とし て描かれているわけではない。Davide Vagoによれば,「スワンの恋」は小説 7巻のうちでもっとも色彩語が多い巻で,そのうちの3分の2ほどが「コンブ レー」にあるとされている8。確かにコンブレーには色彩豊かな印象がある。
しかし,その中で青と金の語が圧倒的な数的優位にあるとは言えない9。本考 察ではこの二色が一対となって現れることに意味があると考えている。そこに は語り手の母への強い思慕とそれに伴う罪悪感がそこに見え隠れする。パド ヴァへの伏線としての解釈も可能である。また,「コンブレーⅡ」冒頭での町 の描写がモノクロームであることは,陽光溢れるヴェネチアと色彩的に対比さ れていると考えられ,その点も興味深い10。
2.草稿におけるアレーナ礼拝堂11
プルーストが小説執筆の早い時期12からジョットをめぐる挿話をコンブレー からパドヴァへとつながるものとして構想していたことは,カイエ50にある 以下の部分からも明らかである。
[そして特にアレーナ礼拝堂]に行くことを何年も前からどんなにか夢見 ていた。というのは,私が何度も見ていた子供のころから親しんだ友達の ような絵,コンブレーで毎日間近に見ていたこれらのジョットの美徳と悪 徳が住まっていたからだった(…)私はアレーナ礼拝堂に向かった。そこ はa.約束の場lieu de rendez-vousであり(…)また b.私の子供時代の 芸術の夢le rêve d’art de mon enfanceでもあった(…)。そんなふう に私は進んでいった。コンブレーと私の過去を手に,それらをアレーナ礼 拝 堂 と い う ま さ に そ れ ら の 合 致 点 に 到 達 さ せ よ う と し て い た。(IV, p.724.)
アレーナ礼拝堂は,当初,ピュトビュス男爵夫人の小間使いとの逢引きの場 として設定されていた。小説とは異なり,語り手は母とは後でヴェネチアで落 ち合うこととし一人で礼拝堂に出掛けていたのである。引用の下線部a.にある
「約束」とは小間使いの娘との逢い引きを意味する。そして,それと同時に,
下線部b.にあるように,コンブレー時代に親しんだジョットの寓意画で芽生え た語り手の芸術作品への夢と礼拝堂とを関連させようとしていたこともわか る。
ピュトビュス男爵夫人の小間使いとは執筆の初期段階において語り手の欲望 をそそる対象として設定されていた登場人物であったのだが,恋人アルベル チーヌの物語の成立に伴いその存在意義は薄れ,パドヴァの挿話から削除され るに至った。その結果,小説に残されたパドヴァの挿話は,量的にはプレイ ヤード版で約1ページと小さくなり,内容も当初の意図とは性格を異にするも のとなった。しかし,上の引用から,創作当初のこの挿話の意図と重要性は明 らかである。
コンブレーとパドヴァをつなぐものとして揺らぐことなく小説に残されたの は,ジョットの寓意画である。小説では,アルベルチーヌの死によりヴェネチ
ア旅行への障害がなくなった語り手は,1900年のプルーストの実体験と同様 に,母とともに彼の地を訪れた,とされている。「囚われの女」では,語り手 が青と金のフォルチュニーのドレスの布地の煌めきによって陽光で煌めく紺碧 のヴェネチアの大運河に思いを馳せる様が描かれているが(Ⅲ, p.896.),その 青と金はヴェネチアの先のパドヴァのアレーナ礼拝堂へと語り手をいざなうこ ととなっていたのである。背景のほとんどが青く塗られ,聖人や天使たちの光 輪の金が鮮やかなジョットのフレスコ画に飾られた礼拝堂は,矩形の大広間の ような形状からも青と金の聖なる洞窟と形容されうる神々しく厳かな空間であ る。語り手がそこに来たのは,「コンブレーの家の勉強部屋におそらくまだ掛 かっている」(IV, p.226.)スワンから複製写真を贈られたジョットの寓意画を 見るためであった。礼拝堂に着き堂内に入る語り手の様子は,小説では以下の ように描かれている。
さんさんと陽光のふり注ぐアレーナの庭園を横切って私がジョットの礼 拝堂にはいると,丸天井の全体とフレスコ画の背景がどこまでも青いの で,まるで快晴の一日が,見物客といっしょに敷居をまたぎ,その澄み きった空を堂内のひんやりした日陰へ移動させたかと思われた。澄みきっ た空といっても,かすかにくすんで見えるのは外光という金箔をとり払わ れたからで,いかに快晴の日でもそれが翳る短い休息があり,雲ひとつ見 当たらないのに太陽が一瞬わき見をしただけで,そのほうが穏やかとはい え青空がふと翳ったと感じるのに似ている。青味をおびた石の壁面へこう して移された空に,天使がたくさん飛んでいる。私はその天使をはじめて 見た。というのもスワンがくれた複製は「美徳」と「怠惰」の寓意像だけ で,聖母マリアとキリストの生涯をものがたるフレスコ画の方は含まれて いなかったからである。(IV, pp.226-227.)
寓意画の複製写真を眺めていたコンブレーとその実物が飾られているアレー
ナ礼拝堂は,時空を超えてここで結びつけられた。語り手が礼拝堂内の基調色 を青と感じていることは明らかである。また,外光を例えた「金箔dolures」
(I, p.227.)の語は,フレスコ画の色調への暗示でもあろう。が,しかし,特 徴的な色調の一色であるにもかかわらず,小説での描写に金の語は一度もあら われない。金と描写することをあえて避けているのかといぶかりたくなる。
内部が詳述されていない理由にはプルーストの信仰心の問題もあろうが,先 行研究では,それはラスキンから距離をとることを表すため,また,ジョット の宗教観を無視するような姿勢がうかがえる,と解釈されている13。小説の描 写にあたるような天使が群れ飛ぶ絵には,『キリスト誕生』,『キリストの磔 刑』,『聖母と弟子たちの哀悼』がある。これらには画面上方には群れて飛ぶ天 使たちが,下方には青衣の聖母が描かれている。天使たちの独特な描写に目を 奪われることは不自然ではないだろう。「絶滅した鳥類の一変種」や「ギャロ スの若い弟子たち」(IV, p.227.)という独特な描写からもそれがうかがえる。
とはいえ,絵のテーマであるキリストと聖母に,プルーストは目を止めること はなかったのだろうか。実際,プルーストが早い時期からジョットの寓意画に 関心を持っていたことは知られている。しかし,マリアとキリストの生涯の連 作についてはどうだったのだろうか。その興味については明確ではないが,以 下に引く草稿部分では,語り手は絵具の裂け目がわかるほどフレスコ画の聖母 を観ていることがわかる14。
ジョットの素晴らしい聖母に近づき,「これはなんだ?」と自問した ベールの下に,私は聖母の顔に入った亀裂lézardéを見た。それは『慈 愛』の複製の顔にあった亀裂と似ていた。その亀裂は,スワンがフレスコ 画の壁の亀裂だと教えてくれるまで,写真が悪いのか元々のものなのか,
ずっと疑問に思い続けたものだった。(IV, p.725.)
ここで使われている亀裂lézardéは,当然トカゲlézardを連想させる。この
語は,ひび割れたトカゲの皮膚の質感だけでなく,洞窟の側面にトカゲが張り 付いてるような礼拝堂の壁の古さや冷たさも感じさせるだろう。この亀裂は,
複製写真にあった『慈愛』の女性の顔の亀裂を経て,ピュトビュス夫人の小間 使いの火傷の痕に関連づけられる。その皮膚には恐らく引き攣れたような痕が 残されていて,それを表すために単なる細い線状の亀裂を指す語ではなく,
lézardéが適切と考えたのだろう。小間使いの娘は以下の引用のとおり,すで に庭に姿を現していたのだが,その時はまだ語り手には火傷の痕が見えていな い。
私が太陽で焼けつくような庭に到着すると,(…)大柄で,威厳のある,
金髪を厚く額におろし,寓意画の女性のようなクロシェットで頭を覆った 女性がその人だとわかった。(IV, p.724.)
寓意画の写真の亀裂をもって小間使いの娘と聖母マリアが重ね合わされてい るのだから,聖母の顔に傷があるとしたにとどまらず,肉欲の対象を聖母と重 ねせているということになる。これは聖なる存在への大変な冒涜である。そし て,金髪の女と青衣の聖母という色彩面での対比にも着目しておきたい15。 語り手が彼女のひどい火傷atrocement brulée(IV, p.725.)に気づくのは,
聖母の顔の亀裂の記述のやや後である。語り手は彼女と二人で背景が青いフレ スコ画で覆われた礼拝堂に入り,堂内を歩く。このとき,語り手はイエスの生 涯を描いた一連のフレスコ画の前を通ったとある。そして,彼女がコンブレー の近くに住んでいたことを知り,語り手は以前より募らせていた土地の女への 欲望を思い起こす。が,彼女が思った通りの女性ではなかったと落胆する
(IV, p.730.)。つまり,草稿段階でのコンブレーとパドヴァのつながりは,女
性への欲望から落胆という『失われた時』によく見受けられる挿話を構成して おり,小説に残されたのとはまったく性質を異にしていたのである。草稿では
「太陽で焼けつくような庭 le jardin brûlé du soleil」とある礼拝堂到着時
の描写も,小説とは印象が異なる。小説では陽光のまぶしさ(「陽光のふり注 ぐ en plein soleil」,「快晴の一日 la radieuse journée」)は語られるもの の,堂内の印象は涼しさや静けさの方が強い。草稿で陽射しの強さを表した bruléの語は娘の火傷の痕の暗示であろうが,娘との逢引きに逸る語り手の心 の熱さともかけられているのだろう。
このように,草稿には聖母に逢引きの相手が重ねられるという冒涜的な表現 が存在していた。これは母への思慕とそれゆえの罪悪感にもつながる。そこに は聖なるものと冒涜的な存在に割りふられた青と金の対比が見られる。しか し,それらを含むピュトビュス夫人の小間使いに関わる挿話自体が削除された ことで,背景としてあったそれらの描写も小説から消えてしまった。こうして パドヴァの挿話は質・量ともに限定的なものとなったのである。小説では冒涜 的色合いの濃いパドヴァの性格は物語の前面から消え,コンブレーとパドヴァ を結ぶ草稿執筆当初の意図はジョットを通じての「私の子供時代の芸術の夢」
という点のみが残され,母と訪れたことで一層パドヴァは愛する母を悼み偲ぶ 地ヴェネチアの挿話の一部としての意味を深めることとなったのである。
次に,小説では触れられていないものの,この礼拝堂で誰しもの目を引くで あろう『キリストの逮捕』について考えてみたい。画中でキリストに接吻しよ うとしているユダのマントはキリストの体のほとんどすべてを覆っているが,
その色は金色に見える。見える,というのは,西洋美術において通例ユダの衣 服は黄色で描かれることになっているからである。ジョット以降多くの画家が 画中でユダに黄色をまとわせて描いているのは,このジョットのユダに倣った と考えられている16。確かに,観る者に強い印象を与えるマントの色は,相対 するキリストの頭の光輪の聖なる金とは明らかに異なりわずかに光沢がなく黄 色に近い。キリストや他の使徒にはある頭の光輪がユダには描かれていないこ とからも,このマントの色は聖なる金色と区別すべきだろう。が,やはり ジョットのユダのマントは見る者の目には金色の印象を強く与える。
マントの色のみでなく,画中に描かれた「接吻」という行為も考慮に値す
る。ユダの接吻は,銀貨30枚というわずかな報酬と引き換えに,権力側にイ エスを引き渡すための行為,つまり,この接吻はキリストを死に追いやる行為 であった。ここには,草稿で聖母と逢引きの相手を重ねられていたことと同様 に,聖なるものへの冒涜の意味も見出せる。
就寝劇とこのことを結びつけたい。母のおやすみのキスを待ち眠れずにいた 語り手は,母が自分の寝室で過ごすことを望みながら,父から禁じられている ことから罪悪感を感じていた。そして,それが叶えられた時に母の髪に白髪を 見つけた思いがし,母を苦しめ死に一歩近づけてしまったと語り手は泣く。つ まり,イエスへのユダの接吻同様,語り手の母へのキスは,母を死に近づける 意味を持っていたことにもなる。そして,その時母からかけられた言葉が,薄 黄色,そして銀貨同様世俗的な価値観につながる金貨も表しうる「お馬鹿さん jaunet」だった。
このように,『キリストの逮捕』の考察を通しても,金色には聖なる存在へ の冒涜の含意が読み取れる。これに関連して,先の引用部分にあったピュト ピュス夫人の小間使いが金髪であったこととが思い出される。ちなみに彼女が 金髪であることは,「誰の事?ああ,あの大柄のブロンドの,ピュトビュス夫 人の小間使いのことだね。(Ⅲ, p.94.)」と小説の他所に残されている。このこ とからも,金はやはりプルーストの中で性的魅力にもつながる冒涜的な意味合 いの一面を持っていたと考えられる。先に,小説での礼拝堂内の描写に金の語 がないことにふれたが,金に関連する内容が削除されたためか,それとも金が 暗示するものの隠蔽のためかなど,やはり何か意味があると考えるべきなので はないだろうか。
ここまで,母に対する複雑な思いを内包したさまざまな描写の中に青と金が 一対となって描きこまれていたことを見ながら,コンブレーからパドヴァにつ ながる挿話を読解してきた。そして,青と金は美しいコントラストを生む一 対,またキリスト教絵画における聖なる一対であるだけでなく,小説中では母 を強く慕う息子の罪悪感を伴った母子の物語を象徴する色彩として読み取れ,
青に嘆きの聖母に例えられた母,金色に母をめぐる悲しみと自身の罪悪感,そ して冒涜の意が,それぞれ結びつけられると解釈した。青が聖なる色であるゆ えに,それに対置される金は罪悪感や背徳を意味する役割を与えられたととる ことも出来るのかもしれない。また,これには西洋絵画において蔑みの意味合 いを持ちうる黄との隣接性の影響もあるのかもしれない。
結びにかえて
最後に,プルーストがいかに色彩を考慮して推敲を重ねていたかが推察でき る箇所についてふれたい。それは,以下のスワンの庭園の花の配置である。こ の箇所はカイエ4, 12, 14などで17何度も推敲され,引用した決定稿の形に整え られた。
私たちの前には,キンレンカを両端に植えた小径があり,陽の光をあび て城館にまでのぼってゆくのが見える。右手には,それとは反対に,平ら な庭園が広がっている。泉水は,まわりをとり囲む大木の影で暗くなって いるが,スワンの両親が掘らせたものである。(…)人工の池を見下ろす 小径の下の,明暗なかばする水面の岸辺がつくる額には,ワスレナグサと ツルニチニチソウの花で二列に編まれた青くはかない自然の冠がまきつい ている。さらにグラジオラスが,王者らしく両刃の剣がたわむにまかせ,
湖に咲いた王杖のように,足元を水に濡らすヒヨドリバナやトチカガミの うえに拡げているのは,紫色をおびた黄色の,ユリの紋章が崩れたような 花である(I, p.134.)
登場する植物の中から色彩鮮やかな花を語られる順に確認すると,まず,目 の前の小径のキンレンカは黄からオレンジ色の花である。池を見下ろす小径の 下のワスレナグサとツルニチニチソウは青から紫色の花である。黄色・オレン
ジから青・紫というほぼ補色の花が順番に登場した後,紫と黄色をひと花の中 に併せ持ったグラジオラスで池の描写が締めくくられている。これらの花の一 般的な開花時期は必ずしも同時期ではない。キンレンカは初夏から秋,ワスレ ナグサとツルニチニチソウは春先,グラジオラスは夏である18。そのグラジオ ラスには様々な色の花がある中,一花に黄と紫の二色を併せ持った花として描 かれている。また,色彩以外の要因19との関連もあろうが,草稿で徐々に花の 選択と配置が整えられていったことなども考慮すれば,この箇所がいかに色彩 的によく練られた描写であるかがうかがえることとなる。細心に花々を配置し たプルーストの色彩へのこだわりは,この箇所からも疑いようがない。こうし たプルーストの色彩感覚を味わいながら,今後も色彩にまつわる読解を続けて いきたい。
1 本稿は,田村奈保子「『失われた時を求めて』:青と金でたどるコンブレーから パドヴァ(『行政社会論集』第31巻第4号,福島大学行政社会学会,2019)の 続きである。また,日本プルースト研究会第31回定例研究会(2019年5月25日,
於成城大学)における口頭発表「色彩で読む『失われた時を求めて』-青と金で たどるコンブレーからパドヴァを中心に」の一部をもとにしている。その際の質 疑やその後の考察を経て,本稿に加えている部分もある。ご教示いただいた方々 には心から感謝いたします。
2 Marcel Proust, À la recherche du temps perdu,
≪
Bibliothèque de la Pléiade≫, Gallimard, I-IV,1987-1989. 引用箇所は,巻数と頁数で略記する。引 用文中の下線や注はすべて引用者による。また,訳文は,マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(吉川一義訳,岩波文庫1~ 13,2010-2018年)を使用 する。
3 Davide Vagoは 色 彩 語 の 数 を 出 す 際, 金 と 黄 を 同 色 と し て 数 え て い る。
Davide Vago, Proust en couleurs, Honoré Champion, 2012, p.235.
4 長谷川富子『モードに見るプルースト――『失われた時を求めて』を読む』, 青山社,2002年,p.194.
5 どちらにも同じ動詞dorerが用いられている。I, p.49, p.64.
6 Serge Doubrovsky, La place de la madeleine, Edition de Mercure de France, 1974.
7 Liza Gabastonも,本稿とは別の解釈ではあるが,この二つの挿話は単に並置さ れているのではなく必然性の下に深く結びついているとしている。Gabastonは,
二つの挿話を結ぶのは『失われた時』に散見される「失望」の概念で,高級娼婦 オデットと芸術作品「慈愛」への期待と外見から受けた印象の乖離への失望に類 似性を見出している。Liza Gabaston,
« La
Charité de Giotto ou la naissance d’un roman de la déception»,
Bulletin d’informations proustiennes, no 43, 2013, p.109.8 Vago, Op., cit., pp.235-239.
9 Vago, Ibid., p.235.
10 田村奈保子,Op.cit., pp.17-18. コンブレーとヴェネチアの色調の対置について は,語り手自身が前者を素朴な色調のシャルダンに,後者を色彩に満ちたヴェロ ネーゼに,それぞれ例えて語っている(IV, p.205.)。ジョットについても,コンブ レーではモノトーンのグリザイユである寓意画が,パドヴァでは青と金で飾られ た礼拝堂がそれぞれ取り上げられていることに,色彩的対置の意図が感じられる。
この点に関しては,研究会席上で吉川一義氏から指摘があった。今後の考察の課 題としたい。
11 以下で取り上げる草稿に関しては,次の論考に多くを負っている。吉川一義
「ジョットの寓意像と天使」,『プルースト美術館 「失われた時を求めて」の画家 た ち 』, 岩 波 書 店,1998年。Kazuyoshi Yoshikawa, “Remarques sur les transformations subies par la Recherche autour des années 1913-1914 d’après des Cahiers inédits”, Bulletin d’informations proustiennes, no 7, 1978.
12 パドヴァについての初めての言及は1909年頃,引用したカイエ50については 1911年頃の執筆とされている。Cf.吉川一義,前掲論文,pp.66-69. IV, pp.1002- 1005.
13 吉川一義,前掲書,pp.64-66.
14 特定はしかねるが,ベールをかぶっていることと見やすい高さに描かれている ことから,この聖母の絵は『キリスト昇天』のマリアかもしれない。数枚ある聖 母の絵を確認すると,確かに顔に亀裂があることが画集や画像からうかがえる。
寓意画についても同様である。Cf. Francesca Flores d’Arcais, Giotto, Citadelle
& Mazenod, 1996, pp.129-209. WEB GALLERY OF ART, https://www.wga.
hu/index1.html(最終閲覧日2019.8.22.)
15 『アミアンの聖書』序文でのアミアン大聖堂を飾る黄金の聖母Vierge doréeの描 写に肉感性や卑俗的な女性性を読み取り,さらには恋愛の対象(ジルベルト)を 重ねる考察がある。色彩的な観点との関係も含めて今後考察を深めたい。Yasue Kato, L’ volution de l’univers floral chez Proust De la Bible d’amiens à la Recherche du temps perdu, Honoré Champion, 2019, pp.65-67.また,同書には
語り手の母と聖母の重ね合わせが見てとれるとの解釈もある。Ibid., pp.187-195.
16 以下に数例をあげる。ハンス・ホルバイン『受難』,1524-25,150cm×130 cm,油彩,パネル,バーゼル市立美術館,スイス。パオロ・ヴェロネーゼ『シモ ン家の晩餐』,1556-60,315cm×451cm,油彩,カンヴァス,サバウダ美術館,
イタリア。カラヴァッジョ『キリストの捕縛』,1602,134cm×170cm,油彩,
カンヴァス,アイルランド国立美術館。
17 I, pp.805-814, pp.842-851.
18 この前後に登場するリラとサンザシもスワンの庭園に咲く花々と開花時期が異 なっている。引用の直前には「リラの季節は終わりに近づいていた」(I, p.134.)
とあり,直後にはサンザシの花を愛でる描写(I, pp.136-138.)がある。リラの一 般的な開花時期は四月から六月であるので,「終わり」であれば六月,サンザシは 四月から五月であるが「マリアの月」(I, p.138.)からすれば五月と,若干のずれ が生じる。さらに言えば,語り手がコンブレーで過ごした季節は復活祭の休暇と されている。「コンブレーⅡ」全体で考えれば,様々な季節の描写が点在している,
つまりコンブレーは語り手の複数の心象風景によって創造されていると考えれば よいのだろう(Cf.中野知律「菩提樹の記憶:『失われた時を求めて』における復活 のイメージ」,『Stella』36,九州大学フランス語フランス文学研究会,2017.)。 一方,同時に開花している様が描かれているスワンの庭園の花々の描写には,プ ルーストの色彩的な配慮が感じられる。
19 例えばジルベルトの目の色とワスレナグサの小説での利用の関係についての考 察がある。阪村圭英子「プルーストとワスレナグサ:『失われた時を求めて』にお けるその花言葉をめぐって」,『GALLIA』44,大阪大学フランス語フランス文学 会,2005年。