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化学と生物 Vol. 52, No. 9, 2014
巻頭言
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論文に見る化学構造の誤り
林 英雄
昨年3月に大学を定年退職するまでの 三十余年,筆者は天然物化学の領域で教育 研究に従事してきた.学生のころ,天然物 化学は化合物の精製および構造決定を行う
「物取り屋」と目的物質を化学合成する
「合成屋」とからなると言われていた.天 然物化学は両者が車の両輪として発展し,
今日ではさらに,生合成経路,特に生合成 酵素遺伝子群の解析を行う「生合成屋」と 生理活性物質の活性発現機構を解き明かす
「生理屋」からなる四輪駆動車として力強 く前進している.天然物化学の入り口であ る構造決定を行う物取り屋と合成屋が生理 活性天然物化学を牽引していると筆者は今 でも思っており,論文に載る化学構造には 特に注目してきた.
誤った構造が論文に掲載された例として 最も有名なものはKöglによるauxinであ ろう.元素分析と融点に基づいて構造決定 を行う古典的な時代の話である.ユトレヒ ト大学の実験台に当時の試料が保存されて おり,ラベルに記載されている融点と機器 分析により明らかとなった試料の融点が良 い一致を示していたとのことである.この 事例は,西欧の大学における歴史と伝統を 感じさせるものでもあった.
ワモンゴキブリの性フェロモンとして報 告されたperiplanone Aの最初の構造式は 誤ったものであり,混乱を生じた.すなわ ち,本物質を精製する過程でガスクロマト グラフィーによる分取を行ったために熱転 移反応が生じ,本来の構造とは異なり,後 にisoperiplanone Aと命名された構造式と して報告された.Periplanone Aにかかわ る混乱は森 謙治先生により収拾された.
上記の例では正しい構造を導けなかった ものの,そこには納得できる理由があっ た.一方,筆者が関係した化合物である nomofunginとthailandolideも誤った構造
がそれぞれ と
誌に報告された例である.これらは下記の とおり,未然に防ぐことのできる誤りであ ると思われる.
微生物から微小管重合阻害剤として単離 され,構造決定された化合物がnomofun- ginで あ る.そ の 構 造 に 疑 問 を も っ た Stoltzによりそのモデル化合物が合成さ れ,スペクトルデータの比較が行われた.
両者のスペクトルデータが一致しなかった 理由は ‒NH‒ とすべきところが ‒O‒ に なっていたためであることが判明した.す な わ ちnomofunginとcommunesin Bは 同 一化合物であった.マススペクトルにおけ る分子イオンピークの解釈に誤りがあり,
これが誤った構造を導く結果となった.本 論文はほどなく取り下げとなり,現在では 幻の論文である.
殺虫性物質chrodrimanin Bを同定して いるとき,立体異性体としてthailandolide Bを見いだした.しかしながら,スペクト ルデータを比較するとこれら2つの化合物 は同一化合物であることが強く示唆され た.Thailandolide AはX線結晶構造解析 に よ り 構 造 決 定 さ れ て お り,論 文 に ORTEP図が記載されていた.注意深くそ の図を見ると,その図はchrodrimanin H を表しており,構造式に書き改める際に縮 合環の立体化学を誤って表記したために異 なる構造式になったことが明らかとなっ た.
筆者らが単離構造決定したokaramine Mの立体化学も合成品との比較により訂 正された.スペクトルデータから導かれる 構造,特に立体化学の不確かさは避けがた く,合成屋の手助けがいつまでも必要であ るように思われる.構造式が間違っている 場合でも論文には化合物の正しいスペクト ルデータが記載されており,検証が可能で ある.天然物化学を目指す若い人々は論文 に記載された構造式を見るとき,常に生の スペクトルデータを読み解き,構造を確認 してほしいものである.なぜなら,最善を 尽くして解析をした結果得られた構造で あっても,そこに記載されている構造式は 必ずしも正しいものではないからである.
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化学と生物 Vol. 52, No. 9, 2014 プロフィル林 英 雄(Hideo HAYASHI)
<略歴>1972年京都大学農学部食品工学 科卒業/1977年同大学大学院農学研究科 博士課程単位取得退学/1979年大阪府立 大学農学部助手・同講師・助教授を経て,
1996年同教授/2000年同大学農学生命科 学研究科教授/2005年同大学生命環境科 学研究科教授/2013年3月定年退職/同 年4月大阪府立大学名誉教授/現在,(株)
ファーマフーズ技術顧問,(株)三香堂技 術顧問<研究テーマと抱負>天然生理活 性物質の探索,最近はボランティア活動 を通じてアーティストとサイエンティス トの相違点に注目しています<趣味>テ ニス,山野散策