「日本語教育ボランティア」による日本語指導の課題
−取り出し指導の実践報告から−
渡辺 啓太
1. 本稿の趣旨
早稲田大学日本語教育研究科と新宿区教育委員会の協定による「日本語教育ボランティ ア」ではこれまでに新宿区内の幼稚園、小・中学校を対象に日本語を母語としない児童生 徒に対するJSL 教育支援を行ってきた。大学院と行政の連携によるこの取り組みは「早稲 田モデル」として2004年度日本語教育学会春季大会のパネルセッションで紹介されるなど、
年少者JSL教育の分野での先進的な取り組みとして注目を集めている。
本稿ではこれまでに「日本語教育ボランティア」の実践として報告されたものから、取 り出し指導の形態で行われたものを対象として分析と考察を行い、「早稲田モデル」の取り 組みから示されるものを年少者JSL教育の今後の課題として抽出する。「日本語教育ボラン ティア」は取り出し指導だけではなく、放課後の支援や家庭での支援も行う幅の広い取り 組みである。本稿で取り出し指導を特に取り上げる理由は、それが学校の正規授業の時間 中に行われる支援でありながら、ボランティアの大学院生がその場を任されていることに よる。実践現場の分析として後に述べるように、学校教育の中での位置づけが明確にされ ないままに対症療法的に行わざるを得ない「ボランティアによる取り出し指導」という形 態は年少者JSL教育の現状を象徴的に映し出すものであろう。
ここで本稿の構成を述べる。本稿ではまず年少者に対するESL教育での取り出し指導に 関する議論を取り上げる。これは取り出し指導そのものを批判的に検討し、この形態によ る年少者JSL教育支援の課題を浮かび上がらせるためである。続いて年少者JSL教育に関 する先行研究を取り出し指導という観点から分析する。これは、その次に述べる「日本語 教育ボランティア」の課題を一つの事例としてではなく、年少者JSL 教育そのものの課題 として捉えなおすためである。そして、結びとして「日本語教育ボランティア」の取り組 みから、学校教育の中での年少者JSL教育を確立するために求められるものについて提言 を行う。
2. ESL の子ども(1)に対する取り出し指導
アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、イギリスといった移民受け入れの経験を持 つ諸国では、英語を母語としない子どもの教育を受ける権利を保障するためにさまざまな 取り組みがなされており、英語力が不足していると見なされる子どもを在籍学級から切り 離して行う取り出し指導はその一つの方法として行われてきた。
ESL の取り出し指導は、学校を含む社会生活および現地校での学習に参加するための現 地語を身につけるまでの間の過渡的な措置として行われる。従って、その発想は年少者JSL 教育の取り出し指導の場合と基本的に同じであると言って良い。
こうした国々では取り出し指導の是非について既に多くの議論が交わされてきており、
年少者JSL教育の場合を考える上での参考になると考えられる。本稿ではその一例として イギリスの場合を取り上げる。
イギリスでは1940年代末から50年代にかけて西インド諸島やインド大陸などの旧植民 地から大量の移民が入国し、これらの移民の子弟に対する教育が現地の学校が抱える大き な課題となった。
子どもたちへの教育は当初は「同化主義」に基づいて行われ、その後は「統合主義」と 呼ばれるモデルへと転換された。これらのモデルに共通して言えることは、「イギリス社会」
「イギリス文化」を中心にすえ、ニューカマーである移民たちをいかにその中に取り込ん でいくかを前提としているということである。従って、ESL 教育の対象となる子どもたち にとっての第一の課題は「イギリス社会」で成功するための英語の習得にあるとされた。
こうした年少者ESL教育においては、英語を母語としない子どもをその他の子どもから引 き離して行う英語教育は一種の肯定的差別と考えられる傾向にあった。(松井、1996)
しかしながら、1970年代後半にはこうした形態での教育の限界が明らかになった。すな わち、英語を母語としない子どもたちが学業不振の傾向にあることと、彼らに対する否定 的なイメージが学校の中に依然として蔓延していることがさまざまな調査、研究から明ら かになったのである。
こうした事態を受け、イギリス政府によって組織された調査委員会が1985年に発表した 報告書がʻEducation For Allʼ(通称『スワンレポート』)である。『スワンレポート』では 学校におけるESL教育そのものの是非ではなく、そのあり方が問題にされた。そして、そ こでは分離方式の年少者ESL教育について、以下に述べるような問題点が明らかにされた。
『スワンレポート』では分離方式の年少者ESL教育について、それが正規のカリキュラ ムや授業から分離することによってそこで用意されているはずの学習機会を奪っているこ とが学業不振の一因であるとされた。つまり、在籍学級から切り離して行う英語指導は英 語習得と教科学習の面においてマイナスに作用することがはっきりと述べられたのである。
また、学校のʻsocial realityʼから切り離されることが子どもの社会化と発育に与える影響 に対する懸念が表明された。そして、在籍学級から切り離されることで、ESL の子どもた ちは自分たちのマージナルな気持ちを強める一方、メインストリームからの分離というこ と自体があるメッセージ性を持ち、英語を母語とする子どもと在籍学級の教師による偏見 を助長していることも重要な問題として指摘されている。
このように、『スワンレポート』は、言語習得、教科学習、対人関係を含む心理面という
三つの側面で、取り出し指導には大きな問題があることを表明している。こうした前提に 立った上で、『スワンレポート』ではバイリンガルまたはエスニックマイノリティグループ 出身の教師の増員と学校教育の中に母語による教育を取り入れることが提言された。
本稿では、イギリスの教育の文脈で挙げられたこれらの問題点を基本的な視座として年 少者JSL教育における取り出し指導の問題の洗い直しを行う。それは、『スワンレポート』
がメインストリームからの切り離しという形態そのものを問題視している以上、年少者JSL 教育においてもその議論は避けて通れないと考えるからである。
3. 年少者 JSL の取り出し指導
本節では前節で挙げられた年少者ESL教育における取り出し指導の問題をもとに、年少 者JSL 教育に関する先行研究を、取り出し指導の学校の中での位置づけと指導内容という 二つの観点から分析する。
日本の学校で日本語を母語としない子どもに対してかけられる同化圧力の強さを指摘し たものとしては太田(2000、2002)、恒吉(1996)が挙げられる。このうち太田(2000)
は、日本語教室について、日本語を母語としない子どもを切り離すことによって「学校の
『不変性』を維持する役割を果たす存在といえるのである。」(太田、2000:p209)と述べ ている。また、恒吉(1996)は日本の学校文化の特徴を「一斉共同体主義」と述べており、
両者はともに差異を矯正の対象とする学校文化の存在を指摘している。こうした学校文化 の下では日本語指導のために在籍学級から取り出されることから本人と周囲が受けるメッ セージが否定的なものであることは用意に推察することができる。
しかし、一方ではこうしたメッセージが不変のものではないことにも留意する必要があ る。縫部(1999)は「日本語指導学級で隔離されているという意識を日本人児童も入国児 童も持っていることが結構多いが、これは相互理解が不足していることを示している」
(p.52)とした上で、公立小学校での調査の結果、日本語を母語としない子どもが「日本の 学校社会に軟着陸するのを援助するためには、日本語指導学級と在籍学級との有機的な連 携プレーが非常に大切であるということができる。在籍学級の日本人児童生徒が、入国児 童生徒を理解し、日本語指導学級の役割と意義を十分理解することが必要であり、逆に入 国児童生徒も日本人児童生徒を理解することが同じ意味で重要なことである。」(p.63)と述 べている。
また、縫部(1999)はこうした相互理解を生み出すものは在籍学級の「支持的風土」で あるとして、在籍学級の教室文化の及ぼす影響の重要性を指摘している。縫部(1999)は また、日本語指導教室が日本語を母語としない子どもがそこで安心感を得る「居場所」と しての役割を果たしていることを述べておりこの点も取り出し指導の機能として見逃すこ とはできない。
これらの論考から、JSL の取り出し指導においては日本語を母語としない子どもをステ ィグマ化し、マージナルな存在に追いやる危険性が確認できる。また、実際の教育現場に おいては在籍学級の雰囲気作り、在籍学級と日本語指導の連携といった担当教師の認識や
力量による影響が大きいと言うことができるだろう。続いて取り出し指導の内容について 見ることにする。
日本語を母語としない子どもへの教育においては、日本語習得と教科学習をいかに支援 するかが焦点になる。この点については両者をいかに統合して伸長させるかという観点か ら「内容重視のアプローチ」を取り入れた実践が注目される(齋藤1998、1999、2000)。
このアプローチは意味のある活動を通じて、伝達や理解のためのコミュニケーション力を 育成しようとするもので、「日本語が出来ないうちは学べない」という日本語と教科が段階 的に積み重なる指導からの脱却を目指すものである。同様の言語教育観に基づくものとし て「体験、探求、発信」のサイクルをその柱とする『JSLカリキュラム』(文部科学省、2003)
が挙げられる。ただ、この『JSL カリキュラム』についてはその運用のための教師研修が 十分ではないことや、取り出し指導の授業時数自体が少なくそのままでは活用しづらい面 があるなどの課題が指摘されている(渡辺、2004)。
一方、日本語と教科の学習という点から取り出し指導で問題となるのは学びのための対 話が特に質の面において限られるということであろう。特に教師一人対子ども一人で行う 取り出し指導の場合には、同学年の子どもと当該の学習内容について対話する機会がない 上に、どうしても教師が「教える」結果になりがちである。これは必ずしも一方的な知識 の伝達を行う授業形態がとられた場合にのみ見られるのではない。教師が子どもに「考え させ」たり、子どもの経験から何かを「引き出し」たとしても、それは例えば何らかの学 習項目を意識した教師の誘導の結果ではないかということである。あるいは「答えを知っ ている人」と「答えを知らない人」が固定化されると言い換えても良いだろう。これは教 師対児童生徒の役割関係という構造的な部分に起因するものだけに、取り出し指導の場で 対象の児童生徒の自ら学ぶ力をいかに育成するかを構想する上での大きな課題である。
以上、取り出し指導で行われる内容について特に教科と日本語の学習という観点から述 べた。その結果指摘できることは、教科学習と日本語習得の両面を支援するための方策と して「内容重視のアプローチ」が年少者JSL教育において試みられており、既に一定の評 価を得ていること、しかしそれが広まるには現在の環境に多くの制約があること、また多 くの学校で行われている少人数の取り出し指導では学びを促すための対話が質的に不十分 であるということである。
続いても、取り出し指導の内容に関係することについて触れるが、ここでは対人関係に 関するものおよび母語を活用した教科指導に関わる実践を取り上げる。
矢崎(2004)はソーシャルスキル学習を取り入れた日本語支援を行っており、その結果 こうした支援が日本語を母語としない子どもの教室内ネットワーク形成のきっかけとなっ たと述べている。これは縫部(1999)が述べた「支援的風土」を、日本語を母語としない 子ども自身の手で作り上げることを目指した実践として注目に値する試みである。ただし、
矢崎のこの研究は来日直後から約半年の期間にわたっての調査によるものであり、その後、
当該児童の教室内ネットワークがどのような変遷をたどったのかについての報告が待たれ るところである。日本語を母語としない児童を担任した教師から、当初非常に親和的であ
った受け入れ側の児童が、意思疎通の難しさや背景に持つ価値観の食い違いなどから次第 に疎遠になっていく様子が語られることが多いことから、この点は重要であると考えられ る。
朱(2003)では子どもと母語を同じくする支援者(母語話者支援者)による実践が紹介 されている。朱(2003)によればこれは岡崎敏雄の提唱する「教科・母語・日本語相互育 成学習」モデル(岡崎:1997、茨城県教育庁)に基づくもので、このモデルは母語を用い た教科内容の先行学習を取り入れることによって、教科、母語、日本語をそれぞれ伸長さ せることを目指すものであるとされている。朱(2003)の実践は大学に設けられた放課後 の支援教室で行われたもので、対象となった子どもの学校の授業での様子や、学校とこの 支援教室の関係については明らかにされていない。しかし日本語を母語としない子どもが 既に持っている力を積極的に活用しさらに伸ばすための方法として、取り出し指導の可能 性に示唆を与えるものであるといえる。
本節では年少者JSL教育に関する先行研究を取り出し指導と関連付けて検討した。ここ では、年少者JSL教育の取り出し指導においてもESLで指摘されたスティグマ化、マージ ナル化の問題が存在し得ることが確認された。しかし、それは絶対的なものではなく在籍 学級と取り出し指導の連携によって肯定的な意味合いを持ちうるものであることも一方で 言うことが出来る。無論、それが「本当に」あるいは「継続的に」肯定的に捉えられるも のであるのか、「居場所」を日本語教室に求めること自体がマージナル化の所産ではないの か、といった点には依然として疑問が残る。しかし在籍学級と取り出し指導の連携によっ て取り出し指導の意味づけがある程度は肯定的なものになり得ると述べることは可能であ ろう。
指導の内容については日本語と教科の学習を統合することが方向性として示されたが、
これも実践の上では、取り出し指導が時間的に限られていること、教師の資質の問題、学 びのための対話の不足といった課題を抱えていると言える。さらに、在籍学級での関係作 りのためのソーシャルスキル訓練、教科学習参加を支援するための母語を用いた学習支援 の取り組みなど、取り出し指導の場を対象児童生徒の持てる力と現状に合わせて有効に活 用するための試みについて見てきた。
このように、年少者JSL教育における取り出し指導は、現状として多くの課題と可能性 をともに持つものであると言える。次節ではこうした課題と可能性を踏まえた上で、大学 院生による日本語教育ボランティアによる実践を分析し今後の取り組みに向けて求められ るものを探る。
4. 「年少者日本語教育実践研究」
本稿では早稲田大学日本語教育科の実践研究科目である「年少者日本語教育実践研究」
(担当教員は川上郁雄教授)のレポート集『年少者日本語教育実践研究』No1および No 2(『実践研究1』『実践研究2』)に掲載されたレポートのうち、取り出し指導についての
ものを取り上げる。対象とした実践は【表】の通りである。
【表】「日本語教育ボランティア」による取り出し指導
院生の名前 児童の学年と性別 開始時点の滞日期間 取り出し時間(週)
と在籍クラス授業 森元桂子 小5(2名)男子 7ヶ月と2ヶ月 2時間 国語・音楽 朴智映 小1女子 2ヶ月 2時間 おもに国語 実践研究1
間橋理加 小3女子 3ヶ月 2時間 上記児童に対する支援
間橋理加
小5(2名)男子 13ヶ月と8ヶ月 各1時間 飯野令子 中1女子 4ヶ月 2時間
山田裕子 小6女子 9ヶ月 2時間 図書など 実践研究2
森沢小百合 小5男子 7ヶ月 3時間 社会など
これらの実践では、朴が対象とした小学校 1 年生の女子児童を除く全員が新宿区の規 定に寄る適応指導を受けていた。またここで関係する全ての学校には常設の日本語指導教 室がなく、これらの児童生徒は本来であれば特別な日本語支援を受けることのない環境に おかれていた。また、朴が対象とした女子児童は幼稚園の終わり近くに来日しており、こ の小学校には転入ではなく入学している。一概には言えないが、筆者の知る範囲では小学 校入学直後には児童の背景についての把握が不十分であるために日本語力の不足が見逃さ れる場合がしばしばあるようである。朴の実践では対象児童を来日直後から幼稚園で支援 していたことから、朴の側から学校に働きかける形で支援が始められた。
これらの実践の中で、対象の生徒が在籍学級で緊張状態にあったと考えられるのは飯野 が対象とした中学 1 年生の女子生徒である。飯野のレポートによれば、この生徒は日本語 指導修了の10分ほど前になると表情が暗くなる、指導を受けているところを他の生徒に見 られることを非常に嫌うなどの様子が見られたとある。これは在籍学級での心の安定が得 られていない児童生徒は、取り出し指導の場においても学習に集中することが困難である ことを示すとともに、そうした児童生徒にとっては取り出し指導を受けることもそれ自体 ストレスとなるということを示すものである。
一方、取り出し指導の場で緊張状態にあった例としては森沢の実践が挙げられる。森沢 は取り出し指導の場でほとんど発話しようとしない児童との関係構築に苦心している。そ こでの森沢の内省は「K(対象児童:筆者注)の指導に対する担当者の戸惑いや不安が K に伝わっているのではないか、『日本語指導』『教科指導』ということばにとらわれ、彼が 本当に必要としている助けが担当者に見えなくなっているのではないか。そしてK に対し
(中略)ある種のレッテルを貼り付け、担当者が望む願いや期待を勝手に押し付け、K 不 在の指導を行ってきたことに気付かされたのである。」というものであった。これまでに取 り出し指導での支援者側の心的態度に焦点を当てた研究は見られないが、一対一での人間
関係をいかに築くかは非常に重要な課題である。
内容については山田が自身の実践を振り返って、「失敗」した活動は対象児童の考えを表 現する機会がない活動、「成功」した活動は話したくなるきっかけやテーマを設定できた場 合であると述べている。山田の実践で特徴的なのは、「木があると水がなくなるか?」とい うテーマで山田と対象児童の意見が対立した場面である。山田はここで「森林は水資源保 全のために重要な働きをしている」という「正解」を与えない。その代わりにお互いに相 手を説得する材料を集めるというタスクを山田と対象児童で競作している。これは、説明 する、まとめるといった学習に必要とされることばの力を育成することにつながる活動で あると考えられる。
ただし、山田の実践では一対一の取り出し指導であるため、対話を積極的に取り入れて もそれは大人対子どものものにならざるを得ず、その点が先に述べたように構造的な問題 としてついて回ることは否めない。一方、児童二人の取り出し指導を行った森元は児童同 士のインターアクションを引き起こすことを念頭において実践を行っている。この実践を 通じて森元は自らが教えられる立場になって児童に説明してもらう、児童が作ったストー リーをお互いに批評しあう、といったさまざまな仕掛けによって児童自身の語りを引き出 している。また、森元は滞日期間の異なる二人の児童の日本語力は必ずしも滞日期間の長 い児童のほうが全ての面において優れているわけではなく、子どもによって得手不得手が あるということを述べている。同様のことは在籍学級での学びにおいても言えることであ ろう。日本語を母語とする児童生徒が日本語を母語としない児童生徒から学ぶべきことは 多いはずであり、そうしたことを在籍学級に伝えていくことも日本語指導者の役割の一つ であろう。
森元はまた、この実践において在籍学級の担任が協力的な態度であったことによって、
取り出し指導が在籍学級の中で認知され肯定的に受け止められたことや在籍学級と取り出 し指導の間で児童に関する情報の交換が可能であったことに触れ、学級担任と連携をとり ながら取り出し指導を展開していくことが重要であると述べている。
学級担任との連携については間橋の分析に詳しい。間橋は指導前後に欠かさず学級担任 に連絡を取り、報告を行っている。その結果実践を通じて学級担任とのコミュニケーショ ンが円滑なものになり、実践の後半では間橋自身が「孤立した日本語指導者ではなくなっ ている」と述べている。ただし、間橋の関わった二つの実践事例のうち一方ではこのよう な関係性が成立したが、もう一方の事例では間橋からの働きかけに対する学級担任からの レスポンスが得られず、良好な関係性は築けなかった。
ここで挙げた間橋の例が示すものは、学級担任との連携が重要であることは言うまでも ない事ながら、実際の連携には学級担任の取り出し指導に対する関心の程度が大きく影響 するということである。ただし「日本語教育ボランティア」の場合、在籍学級と取り出し 指導の連携がとりづらいことには取り出し指導担当の側にもその原因があると考えられる。
つまり、ボランティアが学校にいる時間が限られた日の限られた時間であるため、学級担 任と時間をとって話しをすることが難しいのである。間橋は取り出し指導の他に週二回の 参与観察を行っているが、これは間橋の非常な熱意の現れといってよい。多くの場合ボラ
ンティアは、授業や仕事の合間を縫って自身の担当する指導の時間に合わせて学校に出向 いている。このような条件の中で多忙な学級担任と「連携プレー」を行うことは考えるよ り難しく、先に筆者は学級担任の関心の程度と述べたが、これは学級担任の関心が低いた めに連携が取れないというよりは、学級担任の関心が高かったために連携を取ることが出 来た事例だと解釈すべきであろう。
続いて、「日本語教育ボランティア」の取り出し指導から指摘できる課題を挙げる。
まず、これは取り出し指導に限らないが支援を要請する日本語力の基準が存在しないと いう、入り口の問題が挙げられる。朴の事例のように「日本語教育ボランティア」側が児 童生徒の日本語力の情報を持った上での働きかけで支援が実施された例は現在のところ他 にはない。こうした中で、年間約百人といわれる新宿区内の学校に転入してくる日本語を 母語としない子どもたちの多くが受ける日本語指導は所定の初期指導に限られている。ま た、日本語を母語としない子供の中には日本国内からの転入者や日本生まれの子ども、あ るいは日本国籍を持つ子どもが相当数いると考えられるが、こうした子どもたちも含めて、
日本語支援を要請すべき日本語力の基準が明確化されるべきであろう。
次に、取り出し指導の内容の問題である。繰り返しになるが、取り出し指導は在籍学級 の授業中に在籍学級の授業から切り離して行う指導である。いうまでもなく、この時間は 本来正規のカリキュラムに則った教科内容を学ぶための時間として用意されている。した がって取り出し指導においても学校教育の中に位置づけられるカリキュラムなり到達目標 があってしかるべきである。しかし、筆者の調査した範囲(2)で「日本語教育ボランティア」
においてそうしたものが事前に存在したという例はない。「日本語教育ボランティア」の現 状は支援を丸投げされたボランティアが試行錯誤しながら 1 時間1時間を積み重ねている というものである。無論本稿で取り上げたようにそれぞれのボランティアはさまざまな仕 掛けをしてその1時間の中で子どもの学びを促すよう努力している。しかし、そうしたこ とと、中長期的な視野で見た指導計画、カリキュラムの開発は別の問題である。また、学 校側が独自にカリキュラムを用意することが可能であればそもそも「日本語教育ボランテ ィア」による支援を要請する必要はないはずである。これは年少者JSL教育が目指すもの が確立されていないという、より大きな問題として捉えるべき事柄である。
さらに、在籍学級と取り出し指導の連携という点に関連して二つ課題を挙げることがで きる。一つ目は間橋の実践から述べたように在籍学級と取り出し指導が連携を取ることそ のものが難しいということである。このことは取り出し指導の担当者の立場がボランティ アであることにその一つの原因があることを既に述べた。二つ目はこのことと関連して、
学校内にネットワークを持たないボランティア自身が学校の中ではマージナルな存在とな りがちであるということである。間橋が敢えて「孤立した日本語指導者ではなくなってい る」と述べているのは、通常であれば日本語指導者は孤立しているということの裏返しで あろう。ボランティアがマージナル化することの影響は、必然的に担当する取り出し指導 に及ぶと考えられる。取り出し指導もまたマージナル化されやすい存在であることは年少 者ESL教育と年少者JSL教育の論考から繰り返し述べた。この組み合わせによって、ボラ ンティアによる取り出し指導が学校の中でマージナルな存在になる可能性は高いと考えら
れる。
5. 提言−今後の年少者 JSL 教育に向けて−
本節では前節で明らかにされた「日本語教育ボランティア」による取り出し指導の課題 を踏まえた提言を行い本稿のまとめとする。
第一は、日本語指導を受けるための基準の策定である。これはそれぞれの教師が経験に 基づいて判断を行っている現状を脱し、全ての日本語を母語としない子どもが必要な日本 語支援を受けることを可能にするために不可欠なものである。また、そうして得られたデ ータに基づくことによって始めて、日本語を母語としない子どもを対象とした言語教育政 策の実施が可能になるはずである。「日本語教育ボランティア」では支援を行っている児童 生徒を対象に JSL バンドスケール(3)による日本語力測定を行っている。こうした日本語力 測定は現に日本語指導を受けている子どもだけではなく、日本語を母語としない全ての子 どもを対象に行い、個に応じて必要な支援を提供することが求められるといえよう。
第二は取り出し指導におけるカリキュラムの充実と普及である。文部科学省による「JSL カリキュラム」については既に触れた通り、現状では運用のための課題が多い。しかし、
学習指導要領的な画一的なカリキュラムを実施するには日本語を母語としない子どもの状 況はさまざまであり、それでは対応しきれないことは明らかである。したがって、弾力的 で複線的なカリキュラムの開発とともにそのカリキュラムを運用できる年少者JSL教育者 の養成が急務である。
第三は各学校に最低一人のJSL教育の担当者を配置することである。教員養成としての
「早稲田モデル」は、実践的な経験の場としてだけではなく、森沢に見られたように年少 者JSL教育者としての気づきをもたらすことからも有効な取り組みであると言える。しか し、ボランティアという立場に起因する困難や限界が存在することも「日本語教育ボラン ティア」の事例分析から明らかになった。外部の人間であることの遠慮や、学校内ネット ワークの弱さはボランティアという立場である以上不可避のものであろう。何よりも JSL の子どもたちが日本語指導を受けることによって不必要な疎外感を味わわないために、日 本語を母語としない子どもの学校生活全般を把握する教員が必要である。また、学校教育 の枠内で行われる取り出し指導をボランティアが実質的に任されることは本来の姿ではな いはずである。この意味でも、当面は実際の指導はボランティアが担当するにしても、校 務分掌の一つとして「JSL担当」の設置が求められる。これは年少者JSL教育を正規の教 育として認識しているということを学校全体に示すという点でも必要な措置であろう。
本稿では「日本語教育ボランティア」の実践を基に分析と考察を進めた。
「日本語教育ボランティア」の最大の可能性は、それが教員養成の一環であり年少者 JSL 教育の専門家を輩出するシステムとして機能することである。一方で最大の課題は便利屋 的なボランティアに終わらないことであろう。すなわち、「ボランティア」によって年少者 JSL 教育が担われることに対する疑問を呈し、正規の学校教育の一環としての年少者 JSL 教育の実現に向けた実践と研究を重ねることである。
(注)
(1) 英語を母語としない子どもの呼び方は時代や国、論者の立場によってさまざまであ るが、本稿ではESLを用いる。
(2) 渡辺(2004)
(3) JSLバンドスケールは川上(2003a、2003b)によって提案された第二言語として の日本語能力測定のための「目盛りの束」である。これはテストによる言語能力評 価ではなく、ことばを使って何をすることが出来るかを測定するものであり、子ど もの動態的な日本語力を測定することが可能であるとされている。
参考文献
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