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清末初代駐英使節(1877−79)における

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蘭学論集第簿巻第3号  謄競年3月

論 文

清末初代駐英使節(1877−79)における

    西洋体験と世界像の変動(4)

文明観と国際秩序観

手代木 有 児

 テ

一一C

二,

緩歩 五,

次 序説(以上,67巻i号〉

「華夷紛接近   劉錫鴻の琶雰像(以上,銘巻玉弩/

「華東斐の遜転  郭嵩蒸の盤界線(以上.68巻2号)

「華実」から「中懇匪へ  張徳舞の童舞縁(以上,本号/

絃 語

鰻,「華夷」から「中西涯へ 張徳灘の鰹界像

はじめに

 もトうとくい     かくすうとう

 叢徳郵が,郭嵩蒸に覇讃富として髄脅し英国に駐姦した際の嚢記ゼ露述奇垂は,属鋳難の郭嵩蕪

 サ うしゃくこう

と劉錫鴻の馨諾とは極めて異質な鑓遠である。すでに捲難1してきたように,郭蕎無と劉錫鴻におい ては従来の甲羅二華,聾浄業夷という認識は大きく変乾するが,あくまで伝統的文弱観の灘から西 洋文零を解験する点では変化はなかった。それに対して継述寄進の講述は,そうした郭嵩無と劉 錫鴻の記述とは全く異質な離象を我々に与える。すなわち『響遠奇壌は,英姿の「政教盛「風俗」全 般への観察を極めて詳綴に,しかも郭嵩薫と劉錫鴻のような解釈抜きに書き連ねられた,いわば醗 察メモの寄せ集めであ鋒,張徳舞の讐記の整麗・紹介に幾わった鐘巌洞氏が,記述の文化史的極値 を認めつつも手無濯のものに惑わされて有灘のものを忘れるの謙いなしとしな雛と評しているのも,

そうした記遜の特質と無関係ではない葬。確かに,纒えば連馨のように招待される茶会や舞踏会につ いて,その準薦から当露の進行,接待,主客のマナー等に関して,繰む返し異様なほどに詳総に記 録しているのを読めば,誰しもこれは単なる好事家の趣練的な鑓録ではないかとの麟象を麹くであ ろう。しかし注意すべきは,こうした栖遠寄垂の記述1ま張の窃難の薩洋体験を記録した『航海述 奇蚕や穿再遠寄郵こおいても,全く瞬様に晃鐵せるわけではなく,むしろそれら褥簸の誌録には,観

亙/鐘寂湾r張徳舞鶴継遜奇型〔蓼走商量舞叢婁毒筆i輯駈駁の『劉錫鴻・英鱈私記 張穂舞・随硬英俄記虜岳  麓醤社,1§8§隼/2磐,253頁。

一婆3一

(2)

繭  学  論  集 第驚巻第3号

察メモ的な離礁もあったにせよ,伝統的文弱観に基づいて藝洋種解をする郭嵩議らと共通の領海も 昆鐡せるという点である。それでは,この誘難浮)誓記から繊述奇』への変化は,一体どう遅解す ればよいのか。筆者は本稿の序説における予騰的考察の中で,豊富な西洋体験を有する張徳舞にお いては,伝統的な華夷的秩序から西洋中心の秩序へと騒際秩序観の転換が見鐵せるのみならず・国 際秩序観の根底にある文明観についても,伝統的なそれとは異質な新しさが見鎖せるのではないか という予見を握示しておいた。もし張徳郵の文明観紅新しさが見識せるとすれば,その新しさの意 味を考察する上で,上記のような記述のあ撃方の変髭は,重要なヒントとなるのではなかろうか。以 下,本簾では,まず少年簸紅おける羅文館での西洋文明との趣会い,および1鋳6年の鐵蕃硬鱗懇以 降の三度の墨羨1こおける蓉洋認識の変化を購らかにした上で,そうした変化の集大成として董877年 から7§年までの英靉靆在難における醤洋認識を瞬らかにし,そのことを通じて西洋体験は張徳郵の 文弱観に変動をもたらしたのか否か,もたらしたとすればそれはいかにしてもたらされた,いかな る変動であったのかについて,考察してみたい。

茎 英国出使(茎87欝以前の張徳舞

(i〉 新たなタイプの知識人

 郭毒蕪や劉錫鴻が科挙への受験・合格から官濠へという崖毯コースを歩んだ伝統的知識人だった のに対し,張徳舞は洋務運動の中で少年難から西洋式の教育を受けた新たなタイプの知識人であっ た。張徳舞(鰺蔀一玉9欝,名は徳明.字は産褥〉は,漢人八籏の鑛黄籏の家構に生れた。張氏の簸籍 は遜建であったが,後に遼東に移り,清窃に漢軍籏へ纏入され,大関後,蕊京紅居住した。張徳舞 が生まれた当懇,家は貧しく,蕊父は近くの寺鞍で仏事の手伝いをしていたほどであった。7才で義 塾に入るが,学費はi饒薮に鐵してもらっていたという。張徳舞は欝62年(瞬治元),嬉戯の時,属 隼外交官養成のために鍵設された同文館の第一難生とな彗三年驚英語を学んでお騨,この請文館 で受けた教育が彼のその後の進露を決定づけることになる。

 張徳舞が在学した麟設当蒔,隅文館の教育内容はおよそ次のようなものであった。18紀年7導に 始業した請文館は,当携英文館のみからな讐,もっぱら英藷の翻訳能力を養成したが,同時に漢文 教育を放棄せず,英文教習,漢文教習各i名が置かれた。学生には,八籏の各旗より推薦された「資 質聡慧」で,年令捻,達才以下の少年の中から韓名が選ばれ,月毎の月課.隼獲簸の季考,年一蔭の 歳試を課されたが,それらの試験は擬学後一隼闘は溝漢文字についてのみ行なわれ,二年目から外 麗語の公文書の麗訳などの試験も課されるようになった。また学生は三隼毎に総理衙鰻の行なう試 験によ婆,卒業の可否と宮盛の昇降を淡定された。

 英文館の欝代英文教習には英蟹入宣教騨」.ボードンが任命され,銘隼には」.フライヤー,磁隼に はW.A、Pマーチンがその任を継いでいる。フライヤーが科学書籍の翻訳などで活躍し,マーチンが 岡文鎮で「万馨公法」(羅無法/を講ずるのはこれよりやや後のことだが,在掌中の張徳舞が,披ら の学聡の影響を受けていた可能盤iは十分ある。ことに64隼に葺.ホイートンの著舞亙身趨ε譲ε 摩 1鋸麗麗勧解鉦薦むの麟訳蓼万匿公法邊を公刊した直後,露文館教習となったマ…チンは,少なくと 21 『光禄大夫建議将軍張公集選(申函社会科学院遷代変醗究所資料室勝藏)憂)年譜.逸事,および鐘叙海霧航海  述奇憲的露文露学生墜ぎ走嚢轡舞一中国遠代知識分子考察西方的歴史垂(中華善縁,簿酪年,第7章〉を参照。

一藝一

(3)

手代木:溝末補代駐英{吏簾善こおける西洋{奉験と巻髪界{象の変動(淫〉

も一年以上張徳舞と接する機会があったはずで,総隼の鐵嚢以隣しばしば張徳舞の醤記に晃墨せる

「万羅公法」への強恥関心が,同文館でのマーチンとの交流の申で形成されたことは十分考えられ る%

 張徳郵は瞬文館で学んだ後,66年(筒治5/には,19才で中国最密の護洋諸羅への外交綾籔懇と なった斌椿硬簸毯に参擁し,その語学力を駆僕して護洋社会への認識を深めた。以後,68年(縁治 7/のバー亨ンゲーム使籔懸,7§年(嗣治勢の崇厚使簾懇に参撫し,綴代趨整英国大矩郭嵩蕪への 縫行は鱈饗騒の鐡使であった。鰺78隼(先緒蔀盤月には,郭濤煮の帰国1こ先立ち鐵硬俄国大欝に 任命された崇厚に従って農シアに赴き,その後も出使大駆の随曼としてドイツ(i8暫一鶴/,英蟹

(i鐙愈欝欝〉,8本(歪勢簸に駐在した。またこの閥,総建衙門英文藍翻訳官や光緒帝の英文教麟な どを歴任し,最後は鐵使英蟹大臣(i鱒2一総!を務めている。さ嚇こごうした経験を踏まえて,i漁 年(先緒i瞬と93隼(先緒鯵/には総連衡門の責任者であった褒勧に離し,当鋳としては注暴す べき総合的な外交官麟嚢の改革案を提超したほか,!§経年(先緒31})には鐡嚢響大臣1こよる立憲上 奏に名を連ねるなど溝末新政下の立憲運動にも関与した。八慶に及ぶ海外出綾を好奇心に溢れかつ 冷静な観察鰻で記録した日誌は,総字数二毒万字にのほ雪,溝末知識人の茜洋体験を知る上で,無 視できな魏資料となっている4}。

(齢 斌椿嚢籔毯(i866トパーリンゲーム葦簾慈農8§8略傷鯖の     西洋捧験と思想形成一郭航海遠寄遜野再遠寄遜の懇懇  a/ 悪洋文墾への礼賛

 張徳舞が斌椿使籔麩(66年3月一驚鋤に参撫したのは,露文館での三年の課程を修了した翌年,

欝才の蒔のことだった。当鋳の張徳郵が請文館での外蟹人教麟たちとの交流や学習を通じて,すで に翼織筋としてはまれに見る西洋還となっていたことは想檬に難くない。琵京を崖発した一行は天 津で英霞船に搭乗するが,この霞の張徳舞の巽記には,英羅船の購造,設欝,接客の震到さ.豪華

3》 難文館については,ぎ舞弁夷務餓寒蓋織豊朝.巻讐,誓一器葉.威豊欝年鴛月3韓恭覇王等奏擢.構書繊始期,

  巻8,2§.3i葉.購治芳年7層器琶1恭親王等葵鍔を参照.麟文館に麗する懸究としては」く錘熱慮1総ersta喜   「構文館考ま,興宣易「京麺舞文館史酪1(ともに張静癒輯謹望中愚息販史料三編書群聯鐵蔽社,婚騒年撰叡/

  を参.窯。

垂〉 蓬萄椿{吏寮難遜諺ま来, 薩覇餐慧{吏の叢も璽塗要な{壬務は, 夏蚕洋事磐彗を朝廷に幸暴琶}することであ辱, 享葬議1無らの蕪護吏1こ

  轟たって定められた「患綾章程」でも濫外嚢簾は齊洋事鷺の朝野への鞍告を義務づけられていた。蚕簿繋が   轟轟の度に響記を残したのも,各露認の海序や飛騨からも窺える遜り.そうした任務を遂締するためであっ   たと考えられるから,各総記はすべて総遅籍酎を通じて朝莚へ提路されたと発てよかろう。また8種の讐琵   のうちゼ航海遠寄壌4巻と…1霧違憲糞藤巻.舞、述鳶蓄2嚢巻はそれぞれ.講名で鷺春さ畿てお紅).望聾述欝≦は   腺こ懸綾露毒多伎還霧携影硬葉雑寵劃綾法雑記ま(後に罫小方壷斎輿地叢鋤第翼蜘こ駿録/に分けた   形でも飛行されている轄走海嶺1弊一中醗潅代知識分子考察西育的羅愛妻8?,認爽)。

  張徳舞の著作や睡究文献については本稿(葺の淫騰で紹介しているが,その後ζ穂牽航溝述奇遷編烈全欝欝L   載寒馨霧笛籔社,臆§7年/が鷺行されていたことを知った。該書は,張徳舞が残したとさ麗る8獲の蟹謎」)

  うち破毀されたと伝えられる罫七述奇書を除く7種を丁張登場が清書した稿本を藤本として影印・鐵版され   たものである。張徳郵の雑記は鸞鏡一編年に刊行された鐘叔漏壷纏ζ走海量界叢劃策至難(岳麓醤縫,活   字本〉にゼ懸1灘遠奇圭から「醒述青雲までの尋種力競更録され入手しやすくなったが,ζ稿本航海遠寄灌纏業の   モl/行により,健来羅本がなかった3種も含めて現存する7覆すべてが読者に饗換されることとなった。

屍3

(4)

商  学  論  集 第簿巻第3号 さ,購綴さが極めて詳総に書き込まれている荘蕃。次に寄港した上海では,醸知のマーチンを訪ねた華 美書館で電動麟翻機に馨を見張婆,また西洋婚人の奏でるピアノに縄き惚れた様子を記している碁)。

こうした鑓述から窺えるように,当時の張徳舞にはもはや華夷観念に凝む纏まった藪洋文瞬への機 械的な拒否反癒は見懲せない。

 むしろこれ以降,直接の西洋体験の窃甥段購において張徳舞が示した主要な反癒は,産業革命後 の醤洋盤界に灘現した物質文瞬の績縁さ,力強さ,そして有益さに対する感嘆と礼賛だった。約一 か月半の航海の後,マルセイユに到着してから数舞霧の露盤こは,一行が宿泊した七踏建のホテル    ガスとう  でんわ  エレベヘタ        ダハビン

で見た罫煤気欝葺「伝声篇3綜行屋欝など績巧な設備や,「火機盛の導入によって原韓料の運鍛に全 く人力を必要としない造殺所8},そして残聴郵が西1洋の富強が鼕々盛んである所以とみなした鉄道 事業魯}などについての記遜が溢れている。

 もっとも,張徳舞が震を見張ったのは,決して遜洋文畷の梅質的な懸だけではなかった。張徳舞 はマルセイユで子僕の乞食にであった嚢祭,フランス人通訳のドゥ・シャンがフランスには瓢独で身 寄鯵のない人,難害を持つ人,貧乏な人などを保護する施設があり,乞食1ま灘罪とされていると語っ たこと覇,マンチェスターで唖者に読み書きを教える施設を見学した様子n},ロンドンで参撫した仮 装舞踏会の鞭益が姦晃醜に寄付されたこと鱒など,西洋の福鮭のあ多方を注意深く記録に残してい

る。また灘ンドンで訪問した大学の教饒が「言葉は穏やかで,とても礼儀正しい」(言語温恭.頗解 礼貌/人だったこと賜,英馨女王との会見は対等な影式で「下聞は丁箪で,言葉の調子は穏やか」(垂 閻愚懇,講気灘鵜/鱒だったこと,ストックホルムでの警護役の斌官は「言葉は忠実で真心があ彗,

気立てはさっぱ酎(言語忠誠.性情灘濟/していたことなど樹,蓉洋人の礼儀についても熱心に記録 している。こうした配達からは,張徳舞が従来「夷狄露と見なさ轟ていた薩洋における懸盤や礼儀 のあ多方について,好感を持って受け生めていたことが窺える。

 以上のように,張徳舞は藩洋灘硬の当擁から西洋文聡の物質面を礼賛したのみならず,福蟹や礼 儀の懸でも西洋文購を欝定的に縫えて雛た。但しいうまでもないことだが,こうした概して脊定的 な西洋文弱への評懸の羨提には,西洋文弱による中国の圧迫,それに対する中国の抵筑という緊張 関係が存在していたことを忘れてはならない。霞ンドン嚢着の三日後,ある博麹館を訪れた斌嬉ら 一行は,i総馨年に英仏連合軍が北京の欝醗園から鴎奪した宝物のコレクシ3ンを見学させられた 上.その購入を求められたという。その鰹,張徳舞はヂこれを見て憎しみをこらえることができな

5§789爵墨2345      玉垂Iiii

『航海逐奇数ぎ走晦選界叢書垂第玉諺漸毅の替鍼蓄西海紀游革嚢飽との合講本,藷麓書社.1§8§彗1踵郵一麟§頁。

属土護5i一菊2貰。

野上4簿一4懸賞。

犀.ヒ銘i頁。

矯.と銘ξ雌87頁。

岡上婆82頁。

懸上53i頁。

羅上533貰。

瞬上523頁。

雇上52§頁。

瞬ま二5墾頁。

一鶴一

(5)

手代木1清末窃代駐英後難における薦洋俸験と轡界豫の変動紛

かった」(繕之不勝擬根/と記してお解6),張徳麹こはまれな感鋳的な記述が事件の衝撃の大きさを 麹藷っている。

 b/ 伝統約文瞬観,儒教的懸魑観の保持

 このように張徳郵の灘洋文明への反応は概して妻定的なものであった。すでに見た郭護譲と劉錫 鴻の場合も,茜洋体験を通じて書足的な護洋評懸をするようになるが,その評懸は,中羅文瞬を唯 一の普遍的文聡とみなし,今Bの西洋の繁栄はその影響を受けた結果であるとの認識に立って,申 請文明の核心をなす儒教的簸纏観を基準としてなされたものであった。それでは,張徳舞の場合は

どうだったのだろうカ㌔

 結論から誓えば,郭嵩蕪らに見鐵せる西洋に対する評懸のあ今方は,少なくとも西洋体験の擁難 段躇においては張徳舞にも見鐵せる。舞えば.ロンドンで監獄を見学した際には,英撰の監獄は中 国紅比して待遇が手厚雛ばか参か,鐵獄鋳に獄霧での労働への報醜を支給することや,飛には軟着 の飛はなく,重くとも絞首飛であると捲摘した上で,「多分1こ唐虞三代の遺風をそなえている」(饒 有籍嚢三代之風焉/と逐べている覇。すなわち張徳舞は,騰教において連想の治権とされる伝説の帝 王塁舜の鋳代と夏・駿・麗の「三代淫の政治を基準として,それを今鐡こ再現したものとして英露 の監獄や飛鱗のあ塗方を礼賛するのである。またバ〜ミンガムの知事を訪問した際には,「番付鎮が       いボしえ

みな一人ずつを公選し,もっぱら地方の行政を舞らせるは,古の謬を治める役人がそうであったの と溝じである」(各村鎮皆公挙一人,專司地方公事,嬉古論郡老熟)と遠べている麟。「魏吉治郡者無涯 という表現からも窺えるように,張徳舞が英蟹の地方甦治翻を「公挙」によって特徴づける時,そこ には「郷挙塁選涯などいわゆる「三代の潟が投影されてお馨,張徳舞はこの場合も「三代の測を 基準にして,英羅の地方露治舗を肯定的に評癒していると考えられる。さら1こ雛えば,すでに見た

ように張徳舞が西洋£おける張独で身寄りのない人,瞳害を持つ人などへの手摩秘篠鮭を欝定的1こ 記しているのも,いうまでもなく「鰥寡孫独廃疾の者みな養う所あらしむ匪(礼寵,社運篇〉といっ た「三代」の樫想の政治を念頭紅置いてのことであろうし,藩洋の礼儀についての妻定的な記述1こ ついても,講様のことが毒摘できよう.

 付言すれば,こうした儒教的懸絶観の普選性への確穰は,張徳舞における嚢洋出使の初顛覆贈に おいては,郭嵩譲の場合に見られたのと隅様に,様々な外穰人との趨会いの中でむしろ強化される こともあった。饑えば,バーリンゲーム健康懇(67年簸月略§年鎗屋/の一員としてアメリカに 晦かう航海の懸中で,張徳舞は自蕪の漢詩への斧正を求めてくる馨本の武士らとの交流の中で,El 本にも義子購があ塗,暦も中撰と同じであることなどを知多.破らの意外なほどの教養の豊かさや 礼儀正しさが,「事書の{紛,すなわち中羅文萌の教化を被った結果であることへの認識を深めてい

る蟻。

麹 属上灘6嚢。

至7〉 属目鉦52春霞。

玉8)羅上52?震。

1傷 ゼ歎美環游套麗螺走海髪界叢書壌第i輯漸駿の躰鍼ζ西海紀游草遜楚との合憲本,岳麓書栓.雄蕊年鶏25一§鍛   頁。

一47一

(6)

商  学  譲  集 第簿養第3号  ところで,すでに遠べたように郭嵩煮や劉錫鴻の場合,「三代の治墜を理想とする儒教的懸纏観は,

決して単に藩法舗度,教育麟度,地方嚢治舗度,あるいは礼儀や福緩のあり方など,護洋における 鰻々の麟獲や風俗に蝿する評懸の基準として機能しただけではなかった。科挙に合格し官僚になる のために,幼少から儒教経典を学ばされた伝統的知識人にとって,朱子学において確立された自己 の道徳性の完成(修身/を天下の安定・繁栄(治鬱乎天下)に塵結させる思考様式は.政治に携わ る上で最も基礎的な素養であむ,そのことは清宋においても基本的に麟様であった。すなわち,郭 嵩無らにとって儒教的懸値観における礫懇としての「三代の治」とは,まさに「三代」の聖人がこ うした思考様式1こよって示される手顧・方法によって達成した港燈巻こほかならなかった。それ故,彼 らが茜洋の綱渡や風俗を,「三代の治」が生んだヂ政教」「黒総」の再現と見なす時,それは彼らが 嚢洋の調度や颪俗を生み出した政治のあ塗方自体を,「三代の治」の場合と講様に「修身3からヂ治 蟹平天下盛へという手瀬1こ基づいて行われたものにの場合,政治は単に治めるだけでなく,教え ることでもありナその意味で伝統的に「政教」と呼ばれる/と見なしたのと講義であった。

 張徳舞の場合にも,纏えばあるフランス人との会話σ)中で,震教について談霧するの1こ「修斉治 平之道藩(すなわち『大学茎の八条§ヂ修身斉家治遷平天下」をいったもの,手代木/を説いている働

ことからも窺えるように,当然のことながら上記のような思考様式を共有していたのであ参,彼が

「三代の治」を嚢洋文明に結び付ける鱒.そこにはやはり西洋の敢濤のあ多方(政教/についての郭 嵩煮らと隅様の遅解があったと考えるべきであろう。

 以上のように張徳舞の擁簸の墨整においては,確かに伝統約文窮観を麟提としつつ儒教的懸纏観 によって齊洋の文瞬を解蔑し評慰する領海が見鐵せる.撮し,それは郭濤煮や劉錫鴻に見られたよ うな濃厚なものではなかった。そもそも科挙を受験せず舞文館を趨て外交官へという醍酪」を歩 んだ張徳郵と.「正途盤鐵身の郭趣意らの縣教的素養にはおのずと大きな差があったと考えら翻る。

旗えて,郭嵩窯らは儒教的素養の深さ麟えの強熱な政治参与の意志をもち,それゆえにまた儒教観 念を駆使してみずからの政治的主張を緩立てる思考・表現に熟達していた。飽方,若年であるうえ,

「異路旦暮身である欝葛の官罪における分際轡えに,政治的発言を回避することを常に心掛けざるを 得なかった張徳舞の場合,敬治的発言をする機会は多くはなく,郭嵩蕪や劉錫鴻と比べれば儒教観 念を駆愛しての思考・表現にも習熟していたとは患われない惣。張徳鼻の蓉洋認識における儒教的簸

2§/ 瞬■と7灘頁。

2聾 李疑諸氏は.洋務運動簸に洋務事業を遂行するために罠縫から被覆された台,新式教霧機麗で養蔑されたい   わ侮る「洋務知識人」が置かれていた灘難な状溌を,およそ次のように議窮している。政治経済文乾の特権   的地盤を煮めていた縁続的知識人にとって.洋務運i難の中で養成された新塗知識人〔洋務知識人/の窟吏購   屠への進入は裳らの特権領域を混獲するものであった。それ故伝統的知識人は新型知識人が洋務事業に綻事   する新里知識人を「雑品」r末流茎と軽蔑し,被らが政治の参与することを捲盃した。特権的地位にあった伝   統麟知識人一般のこうした態度は,新里知識人に麹卑心憂を捲かせることになる。こうした申で在野の新里   知識人を該鐘あるし蝿ま養成し,彼らの活躍の場を与えたσ)は慧統的知識入ながら洋務運動の推進を主張した   いわ塗る洋務宕覆であむ,妊驚翻護の不安定な申にあって新塗難i識大雄洋務官僚に強く依存する立場紅あっ   たが.その洋務官簸にしても新肇知識人に実権を与えることは残どなく.遜翼として被らを漢いながら,常   紅その思悪行勲を菜縛したのであった。こうした中淀あって瑛実勇変革への強烈な實薮懸を有していた新灘   知識人は.洋霧實鰹を介して脅己の主張を実蔑することを麟毒したが,保守滋官濠の蕎力の下で,それも容   易ではなく,新盤蟻識人は密着の能力を発揮し得なレ挫新懸を麹き.孜蕉論を文章免せず,文章化しても霧

一 48 ・一…一

(7)

手代木1濤家構我.駐英嚢簾における藪洋捧験と重葬像σ)変動紛

纏観の灘からの解毅・評簸が,郭嵩譲らに比してかなり淡白なものであったことは,およそこうした 事驚によっていたと考えられる。

 c/ 茜洋中心の醒際秩序の発見

 このように張徳舞の酋洋体験の窃難段贈における酋洋認識慧,なお伝統的文弱観に少なからず依 擁したものであった。だがその一方で,張徳舞慧嚢洋での諸体験を通じて,実際の童舞を認識する

■とで,その伝統的文題観は必ずしも妥当なものではないという現実に直醤することになった。すで に指摘したようiこ,中馨力}ら琶藝浮きこ使欝薬嚢力勢薮遣さ才しるようになったi§盤是己垂髪畢は,大航海鐸毒殺以 来進められた茜洋中心の人類の分類・序粥髭の結果,動麺物露や博物館,さらには万騒博覧会等,薦 洋中心の経界像を諸国民に示すため」)諸装置が,茜洋諸麟こ墨揃った蒔簸であった2%濤未に西洋を 訪れた中露の知識人の醤記には,各地で露撃したそうした中震の伝統的鍵界像とは異質な展示1こ臠 する記述が,鱗外なく見越せる。張徳舞の謡記織海述奇遜はその最も鱗類の最も詳纏な記録の一 つであ警,そこには「天下万闘」の文物・風搭の展示に興する記事が溢れている。

 そうした中でも張徳舞は,殊にコペンハーゲンの「集奇館ゴで見た展示に強い曄象を受けたよう で,その内容を詳しく記録している。張徳灘はまず「北極載承洋未化σ)国葺南極南氷洋の野人」「南 海墨穰撫野人淫などの「未化」の地域の原始的な生活様式の展示を詳しく鐵写鉱次いで「已化の 騒」の物産の展示を次のように記している。「E化の羅であるヨー窪ッパのイギリ礼フランス,ロ シア,プロシア,ドイツ,スペイン等,およびアジアの諺綾部,悉邦.欝本,琉球,安毒,朝鮮,蒙 古,嚢蔵等のあらゆる梅産はないものはなかった。ただ中華の産物や食器類は縫覆よ参も多く,(牛 酪/枚挙にいとまがなかった」(登化之遜,類歓羅駐之英,法,俄,奄,露耳曼,大呂宋等,憂纏亜 之諸園部,番邦,駐本,琉球,安南,朝鮮,蒙古,西蔵等,繕有土産醸麹,無一不有。簸中華土産 器難較多於他国,<牛酪〉不再校書轟)鋤。当時,藪洋人が行っていた文瞬髭のランク付けについては,

郭嵩煮が文瞬c1翠蛋ze6(歎州諸馨1,半麗鮎鞍cl嬢圭ze蚕中啓,トルコ,ペルシャ〉,野蛮雛爵鍵量麗

(アフ鯵力諸回国麺)三褻分であったことを指摘してお離,これは当時の醤洋人の中国観を正確に襲 えたものであった鋤。西洋人1こおける文明化の三区分を瞬確に遠べる郭嵩煮の記違1こ比べると,張徳

  行しないか.衰理を癒プ露癖凝するなど,政豪奢を奮堺透する繧霧を強めた(李長霧罫先覚者的悲藤墾一洋務知識分   子講究露営輝思議祇.雛§3年か第4童銭§一欝§頁,第さ章翼i 蔦4貰)。こうした状渓ギにあってi叢徳餐iは/輝   外的に高い{書類を受診ていたといえるが,そうであればこそ以ヒのような状溌には.一隣敏感になちざるを   得なかったともいえよう。

  なお張徳郵の嬢教的素養と八縷畢弟の受けた教官の縫孫紅ついていえば.清朝を遜じて八旗の子弟にお謬る   漢文紀(霧教文イ勃の騒取は梅藷程痩進んでいったのであり,軽挙ついても,溝祷,八旗の子弟グ)ため1こ猫糞   の科挙が設けられたものの,康難年闘以降は漢人の科挙との一一捧化がはから就た。この繕黒八旗子弟から   も少数とはいえ科挙合格者がでるようになき),溝未の総遷霧野象こも倭餐,文祥.崇導申撚綱ら八籏鐵身分進   諭,挙人がいた.こうした状溌からすれば.繕教魯素養にお謬る郭嵩議.墾錫鴻らとの藻の主な療讐叢曳や   は導科挙受験を難振さず,洋務人纏〃)養薩機経たる請文館接こ学んだことに求めるのが妥当であろう。縢紹箴   『溝代ノ叉籏子弟圭[芦羅華縫撫叛公買1.欝欝年,韓に3、毒、5章を多難。

2助 誘発俊蔵ζ簿驚会の政治学妻中央公論社.緯盛年,特に厚章。

23) ぎ航海述轟重灘2.5轄−賞。

2薪 ぎ郭嵩窯醤記毒(湖毒人買出敏社,欝鍵年鶏拳4簾夏(韓聾,!)内縁罫繍敦厚罷黎誓露鑛伴走鶴嚢界叢叢1第

讐一

(8)

簡  学  論  集 第鴨巻第3号

舞の配述はアジア諸羅や中国をも「已牝の蟹fに分類しているようにも見えるが,それは必ずしも 超然としない。もともと人類を「已化」と「未化淫の二区分に分類していた喋奇館まの展示をそ の遅参に記したσ)か,郭嵩煮のいうような三区分だったのを意識的に「已化」「未化珪の二区分に改 めたのか,あるいは三襲分をそのまま記録することを灘って曖蘇に書いたのか.そのいずれの可能 性も否定できない。もっとも,張徳舞が目撃した展示が,たとえ申蟹の麹産が多かったとはいえ,中 国が量罫の中心であった伝統的華夷秩序観と全く異質なもσ)であったことは問違いない。張徳舞が わざわざ華東秩序観とは異なるこうした記遽を残したのも,その異質性から受けた優撃の大きさと 決して無闘係ではなかったはずである。

 こうした体験とともに,西洋人の現実の蟹課秩序観を張徳舞に実感させ,張自身の伝統的な秩序 観欝体に大纏な修正を越えることになったのは,各国磐交騨孫者との交流などを通じて深められた 西洋諸国懇の国無関係への認識だった。携えば,欝欝隼に罎優した鰹の馨記では,当欝欝 窟パ全 土で閣心の的だった普墺戦争(欝66〉に言及しており,ことに戦争終結の際には,この戦争の背景に,

デンマークをめぐるプロシアとオースト婆アの対立,英国の中立,フランスのオ ストサア支援と いう,戦国時代の「合従連衡まを彷彿とさせる茜洋諸蟹間の鑓孫があると揚摘し,あわせて戦数撰 オ ストリアによるプロシアヘの賠縷は,r泰西公約」(すなわち「万国公法」,手代木/において示 された西洋諸国繕1の戦争麺,理のルールに従って行われることを記している聯。また張徳舞は,こうし た中で形成された西洋の大蟹として,英羅,フランス,ロシアを挙げ,その覆土は「数量でいうと

ロシアは中華の五慾,その飽の各露は中華に二倍の国土を有している盛(以度数論餓倍予中華者五,

具縫各羅有倍畢中華者/と述べ.茜洋では諸国問の対貌驚係の中で,串縫を上躍る大麟が形成され ていることを瞬書している雑。

 このように張徳舞は,すでに窃蟻の鐵使における齊洋体験の申で,蓉洋では諸国鷺の激しい鰐立 を経て「万国公法諜などの規範が確立されるとともに,中震を、と護る大石が台頭し,そうした列強 を中心とする蟹瞭秩序が形成されるにいたっており,少なくとも藝洋人から見れば,中国もまたそ の片鶴に位置する一匿にすぎないことを認識していったのだった。

 由 伝統約文墾観の嚢揺

 これまで見てきたように,張徳舞は窃簸の濃使において,伝統的文聡観に依鍵しつつ西洋文弱を 肯定的に認識する一方で,西洋を中心に伝統的文弱観とは撰容れない馨際秩序が形成されてお箏,中 園もその中に績み込まれようとしていることを,認識しはじめていた。こうした蓉洋認i識は遠から ず次σ)ような問題に甕面せざるを得なかったであろう。すなわちそれは,中国文窮が曜一普遍の文 明なら,何故その中心であるはずの中国が,西洋中心の蟹鰹秩序に緩み込まれようとしているのか。

  1輯醗叡.暴麓毒桂.茎§霧年1の責数を示す/以下瞬様1。また当蒔の藤洋人における交墾駕のランク置けに   いてはP.}.マーシャル,G.ウィ書タアムズ著.大久保縫子訳『野蛮の博物誌一箆量紀イギリスがみた轡1膵圭単   穐社.鯵蹄年,東霞農博ぎ大英帝羅のアジア・イメージ叢ミネルヴァ書麓,欝§§年.ドーソン著ケ霞中蕉蔓   飽談罫ヨーロッパの申譲文聡観至大修館露店,欝穫年などを参撰。

2溝 ぎ航灘違灘、15磁,57{1頁。

2櫛 醗上灘6頁。

…憩一

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手代木ユ清末擁代駐英蔑籔における西洋体験と鍵舜像の変動紛

それでもなお中国文題は曜一普遍の文明といえるσ)か,という翼題である。英謹に出疑し講様の開 題紅直面した郭嵩嘉が,伝統的文題観に露執しつづけ,華夷懇懇が内包していたギ葦夷の逆転」の 論運に依麺することによって,この問題を麩遷したことは前簸で詳述した。それでは張徳郵慧露ら の藪洋認識の藩提であった伝統約文墾観と霧実の西洋中心の国際秩序の矛盾を.麺樗にして麺遷し たのであろうか。この問題への反応として,我々が藝洋体験」)窮窮段繕1こお毒うる張徳麹こ晃墨すの は,一言でいえば,郭嵩蕪や劉錫鴻に比して伝統的文霧観が擁護され.中国文窮の墾確な影響の及 ぶ範麟が限定的紅擬1えら蕊ていることである。

 鰹えば,薦無の鐵嚢から煽った時点で,張徳郵はすでに次のように遊べている。「我が朝廷の徳は 中震全土にあまねく広がむ,富江ついていえば天下を鎮有し,領土は広漠であ警,吉代以来,今馨 以上の広が穆を有したことはない。ただ東西南誌の人民は.天子の徳化を講じくすることを慶ばな い者はないが,しかしながら遠く離れた海葬祭や出典には,いまだに天子の徳嚢1が及ばない地がある。

まして瞬大難からなる轡罪は広大で,中華の影響下にあるものとしては朝鮮,タイ,日本,琉球,イ ンドなどの議露があるが,その広が瞬ま大地の響分の一を占めるに過ぎない」(我馨家徳簿九州.富 有醤海,幅員遼縣,露霜以来,未有途予今聾者胞。但東薄霧朔,難無不慶声教之講,藏海満山籔,究 有未盤感通之地。溌聾灘之大,其醗近干中華者,羅蔦朝鮮,逡羅,日本,琉球,麟度等議,要之以 地輿嘉言,不遇僅得纒分之一算)。さらに張徳舞は露大難,すなわちアジア,アフサカ,南北アメ蓼

力,3一ロッパの蕩員の広が鯵を具体豹妾こ記した、ヒで,「聾大難の内1こは,あわせて大小三喜余羅が あり,このことから毘ると,大地の侮と広漠であることか」(遜灘之内,計大小三鷺余羅。由競観之,

則地輿之遼縫,果講麹哉/と述べている鱗。こうした張徳舞の記述からは,申国文窮によって教化を 受けているのは,醗大難からなる地球上の饗分の一一に当たる地域,つま鱗まアジアの範纏に隈られ ているという認識を講み取ることができよう。

 このように中国文購による教化の範麗をアジアに限定する績陶は,張徳舞のその後の記述1こも晃 議せる。鍵えば,バーサンゲーム使簾懇の一員としてワシントンに滞在した鰹,ある中国人宣教締 が,中国へ帰国したら齊洋の鰭痘・風俗の優れた点をもって華人の欠点を改めるよう勧めるべきだ.

と述べたの1こ薄し,張徳舞は次のように応じている。「そもそも各轟には皆善政蕃俗あり,飽響のも のを自国に移麺することには,適当な場合とそうでない場合がある。ましてや中国数千年来6)書聖 先賢の遺したよき欝葉よき行いは数駿りなく,どうして地固の数醤年来の善政をとって,我が数千 年来の善政に代えられようか長夫各霞皆有善致美俗,以彼移薩,尚有宣与不宣,況中国麗来数千年.

古聖先賢,霧遺嘉言誌行,不可勝数,舞必取波数百年之議政,以易我数千年之善政乎/。さらに張徳 舞は次のように述べている。「孔子はキリストの五百五十余年羨に生まれ,題の時代に生き,遺した よき言葉よき行いは伝えられてアジア各霞及び付近の島々を教化し,羅本,琉球.安南などの各国 人観は,みなその恩沢を被り,代々その教えを奉じてきた。あなたがアジア人ならば,どうして孔 子の教を捨ててキサスト教を鱈輝することなどできようか」(孔子生子耶鯖煮蓉五十余年之藩,在周 之量,瞬遺嘉言隷行,伝流教化亜綴亜各国及漿近島縷,蕪罎本,琉球,安南各瞬火炙域被其沢,灘 導其教。汝亜纏亜大慰.簿棄麗霧爆破裁/2㌦ここでは「アジア」という領域を開示することによっ

27) 溝上尋3§,藝{1頁σ

28}罫欧美濃游隷637噂58嚢。

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商  学  講  集 第蒲巻第3嘗

て「孔子の道」の影響力の籠翻が鰻定されている。

 中鑛文墾の影響饗を,アジアに鰻達して擬えるこれらの発言が,もしも張徳郵の薄洋鵡硬以前の 留)であれば,清朝の実効的支醗が及んでいた範鑛の広がりからいって,決して奇異なことではな い。しかし,簿度かの鐵硬を体験した上での発言となれば,この発露の持つ意味は変ってくるだろ う。77年にはじめて聾洋へ磯嬢吏を体験した郭嵩譲と劉錫鴻は,伝統的文窮観と伝統的懸値観に依 擁しつつ蓉洋文窮を高く評樋し,「孔子の道」が茜洋に伝えられ,その給桑藏洋が「夷」から「華」

に転じ,或い1ま「夷」から「華」へ近づいたと考えた。これに対して張徳舞の場合は,やは警邏洋 文墾を伝統文畷の灘から遷解する頓癖を残してはいたが,その一方で中露文醗の影響グ)広がりに臠

しては,明確な影響の範麟をアジアに醸寇する籏向があ撃,中蟹文明の護洋への影響については,後 述のように霧及がないわけではないにせよ,郭嵩蕪や劉錫鴻ほどには強調してなも㌔このことは中 雷文醗を唯…普遍のものとする伝統的文窮観が,西洋体験を通じて張徳郵において変容しつつあっ たことを示す一つの事携とも考えられよう。

 転統約文明観の変容の兆候を窺わせるものは,実は決してこれだけではない。さきに引駕したよ うに,張徳舞は中撰人宣教麟に対して「孔子の遵匪の優建牲を説いてはいるが,各国にはそれぞれ

「善政養俗ゴがあり,その意味で甲羅には「孔子の遵曇が最も適合的だといっているのであ参,伝統 的文霧観のように「孔子の遵」が天下に普遍的に適合する曜一の道だといっているのではない。伝 統約文明観に露執する醸拳,おそらくこうした発言をすることは不可幾組近く,現に郭嵩蕪や劉錫 鴻にこうした発言を見鐵すことは鐵来ない。我々はこの点でも・張徳郵における中羅文瞬への普遍 性を確信する伝統約文明観は,郭嵩i譲らに比して,墾らかに擁麟されていることを見織すのである。

 もっとも,張徳郵は各羅にはそれぞれド善政蕃俗」があ拳,中撰文弱だけが天下£普遍的に適合 する唯一の文墾ではないと考えていたものの,将来的に申露文鞘が天下に普遍的なものとして広く 受け容れられる藩籬盤蜜でも否定し去ったわけではなかったように見える。例えば,ニューヨーク の公立学校では,求めに講じて繧教の「忠孝簸義等の藷涯を生徒に講義し,生徒たちは「よく遅解 できたようだった」(明靉靆以懲孝籔義等語,諸生似有鑛欝)と記している鋤。またパサの知人宅で 疑簾更したフランス人が,キ肇スト教(カトサック/の弊害を論じるとともに,「中置の孔聖の遵は,海 外にまで伝わっているが,その聞違魏を責める者は少ない。洋文へσ)翻訳によってはその詳纏を遅 解することはできないけれども,その梗概は早くから遠人をして敬譲させてきた」(中国1孔聖之道,

聞干海外,鮮有験其葬者。据洋文所課,難不得其許綴,瞬其擾機,早令遠人敬騒1斐/鋤と遠べたこと を記し,蓉浮人が「孔墾の遠」をカトリックの真の教えと符合するものと饗えていたことを,わざ わざ紹介している。こうした記述を念頭におけば,張徳舞においては,郭嵩叢らに銘して伝統的文 瞬観が擁舗される一方で,中蟹文明が将来的に天下1こ広く受容される可能性への確信は完全に放棄

されたわけではなかったことが窺えよう。

 中蟹文弱の普遍性を麟提として,その麺長上に西洋文瞬を位置づける郭趣意や劉錫鴻1こおける懇 洋文鞠蓬解は,麟述のように張の擁鞘段購での蓉洋認識紅おいても形式的には見惑すことができた。

しかし儒教的素養において少なからぬ差があった郭嵩煮らと張徳鼻では,伝統的文題観へのこだわ

2響 講鉦§尋5.総§翼。

欝〉 講窯?盤慶。

ハノ︸F3

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手代木1溝未擁代,駐英綾籔における西洋体験と繊響像の変動(麟

撃方の度合いにおいておのずから格差があった。難灘,張徳舞は購文館で6)教育を通じて郭嵩毒ら とは比較にならぬ西洋との村議能力を脅していた。こうした条件の下で,張徳舞は欝粥年と鋸年 の鍛使体験を通じて,西洋文鞘と警わ諺西洋諸毯鶴に展麗する現実の覆豫秩序を目の当た瞬こし,伝 統約文瞬観の枠内で藪洋の文明を捉えようとすることの葬現実性を,全く認識しないでいるわけに はいかなかった。我々はこうした中で,この時簸の張徳舞の記述が,一方では,なお転統麟文聡観 による藝洋認識を残しながら,地方で,伝統約文醗観を擁纒しながら茜洋中心σ)醒際秩序,そして その背景にある中国文明とは異質な濯洋文醗の存在を許容しようとする領海を,徐々にもちはじめ ていたことを見鐵すのである。

(3/ 崇厚健簿羅(麹簿一72)難の西洋体験と新たな轡1界像の形成      ぎ三遠奇邊の懸、想

 瞬 藪洋人の文瞬観との遭遇

 すでに箆たように/8懸年,68年の襲踏で,張徳舞の伝統的文聡観には一定の変動が見出せた。天 津教案の謝罪のためフランスに漂遊された崇厚使節藝蟹欝欝年給月一72隼3月)に参撫した際それ はより墾確なものとなるが,その背景1こは当鋳の西洋人の文窮観と正嚢から清き会う機会が,以講 に比べて大囁に増撫していたという事情があった。

 本稿の序謙でも述べたように,鐵嬉使簸懇を皮切りに籠始された濤末の蔭洋墨整の背景に1舞文 瞬。茎v議zat沁鼓の唯一の基準は西洋にあるとの文嘆観に基づき.中震を藪洋化・文鋸化しようとする 灘浮人欝の聡確な意轡が存在していた鉛。それ融え西洋灘の聡係者は稜等♂)もつ優越感を露骨に示 すのではなく,中蟹人使簸に茜洋への好意と関心をもたせ,それによって中国を藤洋中心」)螢際社 会に蛋き込むべく,撥鏤・駐在先の各霞で一行を手厚く歓還し,また一行に護洋文墾の成果を髭せ つけることに,多大なエネルギーを後入することを欝しまなかった。そしてこのことは,欝鷲年の 糊代駐英硬簾一行の場合においても基本的に変化はなかった。とはいえ轟洋文墾の優越替を確舞鶴 そうした高みに立って中蟹を否定的に捉える謄量紀における茜洋人一般の風潮に,一鴛が全くふれ ずにいられるはずはなかった踏。携えば,郭嵩薫の場合は,マカート二一や厳復に翻訳させていたゼタ

イムズ叢の記事や,ウェード等との討論を通じて,醤洋人の中響撹半彗にしばしば接していた。瞬交 館で学んだ英語力によって茜洋人と護接対話することができ,かつ責任ある地位にはな鵠という気 楽さをもち合わせていた張徳郵の場合は,そうした欝鞍以外紅も灘力で情鞭を収集することがある 程度瞭能だった。従ってラ欝77年以前の三種:の鐡使においても,案内役だった茜洋鍵の関係者の包 囲纒を越えて,茜洋文墾の普遍性に陶酔し葬西洋を軽視する当時の西洋人3)一般的な風潮を,認識 することができた。

 張徳郵がまだ西洋に不婆れだった綴窮の二度び)串蒙においてさえ,そうした風潮に接する機会は 皆無ではなかった。各地を裾察する一行を見物しようと雲集する群衆6)ものめずらしげな視線は,張 徳舞にとって決してこころよいものではなかった。またバー婆ンゲーム使簸獲に参撫した銘年に鐵

3葺 本稿鬱ぎ鱒学識集書第§7巻第i号「序譜」8,§頁。

32〉 蔚掲のぎ野蛮の薄霧誌一一…露量葦登イギ》スがみた童舞書,ζ大英帝露のアジア・イメージもTlヨーロッパの中   匿丈競観垂などを参顯。

…53

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濤  学  論  集 第簿巻第3号 会った.七難の中隣人宣教翻が,薦洋の優れた「政教」「織俗聾こならって中蟹人の欠点を改めるよう 述べたのは,当時の西洋人の認識を代弁したものといえるだろう。さらに霧年ワシントンである名 士ぴ)家を訪問した際には,その妻から中国1こは「溺女」(貧家に女子が生まれると承に投じて殺した 騒俗,手代本〉の屡習があるのかと闘われたことを記している轡。いずれの場合も張徳舞は一応統議 や反論を試みてはいるが,この種の体験を還してみずからの文瞬の普遍性を確信する西洋人一般の 風潮を意識しはじめたはずで,前述の中震入宣教締への反論1こ発られるような伝統約文明観への一 定の修正は,そうした意識がある程覆:反験した結果といえるだろう。

 崇尊に陸行した三度霧の出健(嬢7韓においては,錘洋慣れによって行動力・対麺力が増したた めであろう,張徳舞の対語の穣手は,中石に好意を持ち,あるいはそう見せようとする接待役の外 交官,政治家,学者,実業家やその家族などにとどまらぬ広範な茜洋人にまで拡大する。i8灘年の 鑛使を記録した『三述奇一1の記述からは,そうした状温の下で,張徳舞が当鋳の西洋人の…般的な 文鵜観に竃に触れる場面が急増していった様子が,はっき静と窺える。

 舞えば,マルセイユ上陸び)約半月後,あるフランス人がヂわが露の教化に比べて,貴馨はやや劣っ ているように見える匪(以我羅教化比之.貴露諏稽遜之)といきな参張徳聲に議論を仕掛けてくる。

そのフランス人によれば,フランスでは老若男女を緯わず人と趨会えば接晦の礼によって恭敬の意 を示すのであ参,これこそ教鑑の露だる燐以である,という。これ.に対して張徳郵は,ヂ恭敬の意を 示すには,わが国σ)雛痒の礼こそが相応しい」(若鎌錠為恭敬.則不如我露之跨拝為合實奏/と述べ,

さらに「父母が子を産めば,終身1こわたって孝養してくれることを庫裏望んでいるの1こ,驚いたこ とに貴麗では結婚後すぐ携癒して飽に家を建て,雨霧が年老いても,飽人のように見なして,息子 は父母1こ住えず,嫁は翁嬬に仕えないのは,どうして教化が不十分でないからであろうか」(父無生 子,猿望奉養終身,不意貴国之人華婚後,懸分居癒男立開戸。双鶉難老,観若警人,子不待父懸,嫁 不奉翁嬢,壷葬少経教化者乎/などと疲論している騰。

 また張徳郵は,八年闘にわたる中震駐在の経験があるという英霞人が「西洋にもう三度も来てい るのに,どうして西洋各国の有馬なものを詳継に鑓録して帰国後人々に伝え,それを学ぶことによっ て進歩させようとしない」)か」(襲来泰齊三次,簿不穏各講有馬之物,詳纒記載.煽告衆人,令其励 学麟進)と闘いただしたのに対し,「(申醗に遷年も駐在したならば,我匿の有驚のものについても,

きっと見齎したものがあるはずだ」(醗駐八年,躍我国有絹之物,亦必鳶燐冤縄〉と述べ,遜になぜ それらを西洋に紹介しないのかと反駁したことを記している微。張徳舞はこの二つの論争を属羅の 嚢記に壷べて記しているのだが,それは嚢考がともに中国入が甲羅文鞘の普遍性を確信するのと瞬 様に,西洋人はみずからの文題の普遍性を主張するという現実を痛感させられた鐵来事として,被

にとって共通の意味をもっていたからであろう。

 さらに張徳郵はその半月後の既記に,フランス人の二人の主教との論争について記している。そ の中で張徳灘は,なぜカト婆ック(天主教/を奉じず,総裁を上として奉じるのかとの主教の闘恥に 対し,「その蟹の人はその蟹の本来の教えを最高のものとして奉じるべきであろう。しかも儒教とカ

33)

34〉 事窪藝吏法舞舞議蓑(ぎ走藍建無毒琴叢毒婁毒筆…輯所珪翼の容1鏡蚕灘学東灘叢蓑書室3篇と〔今合言下本,壽}麓i霧釜)3艇チー:3§7頁。

33! 鷲一塁13§7貫。

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手代木:溝宋擁代.駿英整簾における西洋体験と置罪縁の変動(4/

トサックは類綴点が多く異なる点は少ない珪(某国人舞楽以某轟本裁上,登二教多圏少異/と応じて いる。これに麟し主教は「二教は異なる点が多いが,天主キリストが生まれてすでに千八百七十一 年であ彗,今馨の鱈者はすでに数力国の多きに及ぶことを,あなたは知らないのかま(三教所異者多 突,鷺不知天主生已一千八蕎七十一年,今之奉教者,已有数蟹之多乎)と遜べ,張もまた「そ蕊は

その遜りだが,孔子が生まれてからすでに二千余年であ参,(儒教は/決して主教が異国に伝播する ことはなかったのに,今暮の信者は数力霞の多きにのぼっているではないか」(動議露是。然孔子已 生二千余年,菩無主教伝播異鄭,爾今之崇奉者,亦有数国之多乎〉と撰論している3髄

 以上の対語においては,藝洋文明の普遍難を確緩し中蟹文明への優越感を隠さない西洋人の歯に 衣を着せぬ発言に対して,張徳舞は真爽から反論を試みており,またこうした論争はみな権手を論 醸したかのような主観的な記述で結ばれている。張がむきになって反識していることは,ある程度 の伝統的素養を持つ知識人であれば,しかも西洋文聡の圧遮を受ける立場にあれば,癒洋人麟の主 張は容易に受け容れ難いものであったことを示している。しかしながら,張徳郵がそうした醤洋人 の発言をしばしば記録するようになったことは,それ自体,彼における護洋講識の深ま蓉を示すも のとして漉§すべきであろう。英国をはじめ西洋諸国においては,産業革命以降の醗力σ)神張とそ れに伴うアジアヘの優越感の高ま腕こより,欝毯紀にはいると欝量紀までの中蟹礼賛とは逆に,中 国皿劣等というイメージが動かぬものとなっていったのであ撃,張徳郵はもはやそれを無規するこ

とは鐵来なかったのである。

 癖 蓉洋文畷の異質性への認識

 西洋文窮の優越牲を確緩する西洋人の文萌観との出会いを示す記述とほぼ壷蒼して,監三遠奇玉の 記遜には,中石文聡の普遍性を縫蝿観する伝統的文弱観とは霧らかに異なる領海が,覇確な表現を

もって登場してくる。そうした傾1韓ま,すでに見た儲年の鐵使鋳の「各国有藩政蕃俗露といういい 方1こも窺えたものだが,ぎ三遠奇撰こおいてはしばしば類似した表現が繰り返されるよう1こなる。鱗 えば,あるフランス人が日本の全面的雍洋化を礼賛したのに反論して,張徳舞は次のように遊べて いる。「天下各国の政教には,それぞれ皆もとづくところがあ箏,鐸よ参その本来嚢§を失わぬよう にすべきである。武器・革綴等は,西洋諸国が戦争を重観するため,勉蟹でもそれらを模倣せざる を得ぬが,その飽については模倣の必要はなく,本来のものを変更しなくてよい」(天下各響政義 減有所本,闘当不失本来醤譲。至火器車船等,鰹藪国多以戦争為心,在地麟自不得已蘇枋行之。具 縫似不必然,霞無事更改慰/鋤。ここで張徳舞が霞本が安易な露洋化によ讐,本来具えていた懸纏観

を失うことへの危篠を述べているのは,ヂ天下各蟹政教,威有所本」といういい方をしていることか らすれば,露本に強い影響を与えた申騒文明の普遍性1こ嶽執するからではなく,「天下各副の「政 教婆にはそれぞれ本来あるべきすがた(本来面目〉がある,と考えているからなのであろう。また 上達のフランス人主教の,なぜ力卜弓ックを奉じず儒教を上として奉じるのかとの饗魏への餓答も 儒教こそが「天下各翻において唯…普遍性を持つ教えだからではなく,その国の人はその蟹の本 来の教えを上とすべきでだからなのである。つま診これらの張徳舞の発識こ見墨せるのは,「天下各

麗/ 羅一■ヒ・垂縫頁。

37/ 麗一一1二3韓蚕。

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薦  学  論  葉 箒驚巻第3号

騒」それぞれに尊董さ麓るべき鬱蒼の「政教」な撃ヂ本教∫が具わっているという考え方であると いえる。確かにこうした考え方は,上記のような発言の申で,哲洋文明に蝿し葬西洋文墾の懸値を 強請しょうとする文無で表瞬されている。しかしそうだとしても,中国文明を唯一普選の文明と見 なし,すなわちその中核をなす「孔子の道3二騰教によって全量界が教化されると見なす伝統豹文萌 観からすれば,そうした考え方は異質であるばかりか受1ナ容れ難いものであったはずである。西洋 への観察と中蟹を文弱化の録象と見る藤洋人との論争を通じて,張徳郵は西洋文墾に中羅文瞬とは 異質ながら優れた「政教」「風俗董を晃鐵し,中雷文墾の普遍性を前提とし聲奮洋の文弱を中震文明と 結びつける態度の霧瑛実性を,それまで以上に強く認識するようになる。そしてその結果,中国文 霧を絶薄観するのでなく,文明の多元牲を認める領海を示すようになったのだと考えられる。

 なお,こうした文墾観の変動を裏付ける現象として注暑しておきたいのは,窃窮の西灘捧験にお いては,郭嚢無や劉錫鴻ほど多くな鵠ものの,しかし墾確に見受けられた藝洋の優れたヂ致教」「騰 俗」を「三代の治」に結びつけて理解するいわ睡る醗会議が,蓼三遠奇邊以鋒においてはほとんど発 られなくなることである。みずからの文窮の普遍性を確繕する嚢洋人との論争によって,購会議の 葬現実性を突付けられるとと麟こ,みずからの観察を通じて中醤文略と西洋文曉の異質性を認識す

るようになった張徳郵において,それは正に必然の帰結にほかならなかった。嚢洋体験の窃覇段踏 に冤られた伝統豹文窮観に基づく醗会説は,嚢洋への観察がまだ浅かったために成立しえたもσ)だ が,岡鋳に購会説による藝洋蓬解は,弱洋社会」)実態を正確かつ詳総に擬えようとする努力を怠ら せ,観察の深化を紡げる作驚を蒼していた。この点で醗会説の消滅は,観察の深化グ)結果であった のみならず,閥縛に後述するように,その後における観察のさらなる深化を促進する作擢をもつこ

とになったと考えられる。

 cl必要に応じた茜洋文明の受容

 清未には,西洋文萌を理解しその成果を受容する鰹1こ,それがそもそも吉の中蟹に始まって涯洋 に伝わったものであったとみなす羅会説が多稽されたが,前述の通参縦会説による西洋文鵜への遅 解は,対象への観察の深化を嬉げ積極的な受容に繋が蟹こくい髄懸を有していた。しかし,これま で見てきたように,中蟹文聡を唯一の普遍的な文霧とみなす従来の見方よりも,各国にそれぞれ尊 重されるべき懸纏をもつ文題があるという見方が強記されるようになれば,中蟹が纏蟹の優れた嚢 を受容すべきだと主張することは,申蟹文醗のみを絶鱈観していた時1こ覚して,はるかに合遷性と 説得力を持つことになるであろう。実課.上達のような灘洋文畷を中震文聡とは異質な文霧として 認める傾向,およびそれに伴う購会議の消滅に響応するかたちで,張徳舞は蓉洋諸覆の優れた藤を 受容すべきことをしばしば醜くようになる。こうした主張慧,政治的発言を極力回避しようとする 領海の強い張徳舞1こお添てきわめて異携であ参,それだけ彼にとって窮実で重大な意味をもつ発言

として注§される。

 縫えば,あるフランス人がフランスの愚土・大藩は申蟹に及ばな魏と述べた際には,「天下万蟹に はそれぞれ優れたものがあ婆,飽蟹の長翫を取って露国の短所を補えば,互いに有益である」(天下 万羅,各有辮長,取長徳短.彼銚糞益/鵬と応じており,またフランスへ瞬かう麟中で鐵会った馨本

381 講■ヒ4撰頁。

6

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手代木:清末樹代駐英菱簾における齊洋雛験と量界像の変灘翰

の風俗の西洋化を嘆くある馨本人に対しては,田中羅の場合についていえば)大きな襟,広い櫨は 中蟹6)古装であり,どうして(これを着ることを!恥じるととがあろうか。ただ西洋1こあって中蟹 にない物を取吟入れるなら,無益ではなかろう」(大領懸被,為神辮之古装,侮恥之奮。露以其所有       ダハピン  へいき 易其所無,旛葬無益)と述べ,藝洋から取吟入れるべきものとして,異体的には「輪機・火器」を 挙げ,「すでに各国と条約を結び貿易を行っているから1こは,これを学ばざるをえない。もし曝棄し てこれを学ぶことをいさぎよしとしなければ,数え切れない災いがもたらされることになろう」概 与各国換約通商,則銚事自不得不学習之。葛畦棄蒲不震為,其禍患之来,将旛不勝屈焉/鰯と述べて いる。張徳舞は西洋諸蟹との蟹藻関係の緊密化を踏まえて,中綴が羅洋から導入すべきものとして,

「輪機・火器」に注目していたのである。

 もっとも,被が西洋から導入すべきものとして注饗したのは,決してこれだけに窪まらなかった。

i8簿隼の灘健において特に霧を引くのは,茜洋諸馨を中心に形成された防国公法」(響際法/に関 する記述である。携えば,張徳郵はマルセイユ到着の日に,当縛進行中の普仏戦争(盤7争7勤の経 緯を記し,7i年i月のプロシア軍のノ燭磯撃は羅戦2霞繭に宣戦を爆定したヂ万轡公法」1こ違反す

るものであ吟,フランス外務省が望一ロッパ,アメ婆力各羅に照会し蟹際琶論に訴えている鱗,と違 べている。またノ蝉であった賑簿のアメサ方人の議として,南詑戦争後にアメサカが,戦争中英国 が溝認に軍艦を売藁したのは「万轡公法涯違反であるとして,英蟹紅賠鰹を要求したのに薄し,英 国は結局それに応¢ざるをえなかったことを記し,あわせて「万国公法」の翼連の条文(算§字)を引 馬・紹介している鋤。さらにパ婆の知人宅で奴隷として売られて騰走した中霞人青年に会った鰹に は,「万露公法」は奴隷売買を認めておらず,買主が訴え綴ても構まることはない,と記している鋤。

これらの記遠に共選するの1ま,蟹家職こ生じたいかなる問題について,「万覆公法≦のいかなる綬定 が,いかなる有効性をもちうるのか,という極めて異体的.実践的な携点であろう。こうした視点 からの観察は.中匿が醤洋中心の函際秩序の中で主権国家の一つとして西洋議馨と対等な関係を確 立することを目指すには,「万麗公法まを受容することが不再欠であるという醗確な§的意識があっ てこそ,はじめて生ま轟たものと考えられる.

 ところで,ここで想超されるのは,郭嵩叢の次のような「万緩公法」観である.畢くから外援と の交渉案件に通じていた郭嵩譲は,懲使以前から「万罎公法」についての知識をもっていた。また 英轡駐在中の箆隼8月ξこは,西洋諸馨鷲の蟹鰹緯織である万覆公法会がフランクフルトで醜く会議 への招請を受けて,随員の馬建忠を諏遣してお陰・パサで誘会議の報告会が開かれた灘は,みずか

ら趨籍してそこでの議題を配録するなど硲,現実の蟹鰹麗係の中での「五霞公法雲の実鰹の機能を高 く評魅している。もっとも,郭嵩薫におけるこうした評懸は伝統的極値観とも深く麗わっていた。早 くも英国へ麟かう航海中の馨記の中で,彼はマカート二一から麗いた議として涯洋諸国1こおける戦 時の捕虜の振いについて詳しく記した上で,捕虜を殺さないという西洋諸国闘のルールを「西洋諸

3欝

錨 鉛

垂2〉

購上353頁。

醐一ヒ382頁。

瞬一ヒ5重玉一騒3蓑。

霧鉱5圭7頁。

ぎ郭嵩蕪1藷霧雀年7月欝嚢.3巻総{1.総至《縫2) 8鐸8欝,3巻§2i.鑓2(7is,7董§頂。

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(16)

繭  学  識  集 第葎巻第3号

国が儒義を尊重して道義を顕示する姿勢は,中蟹の古の治握1に近いものであることを示している」

(鐸麓是晃藪洋列羅敦鶴瞬義之近古趨〉と述べている娼。ここで郭嵩譲は,そうしたルールが「万国 公法涯において定められたものであることを購讒してはいな雛が,3選鷲後には次のよう1こ遠べてい

る。「近年,イギ夢ス,フランス,ロシア,アメリカ,ドイツなど諸大国1は.互いに競い合いながら,

また『万蟹公法薩を生み饑し,互い1こ信義を優先し醸家同士1こ情誼を重んじている。しかも籍を致 し礼を尽くし,質と文を兼ね備えており,春秋鋳代の列鍾の関係に比べて,はるかに勝れている葺近 年英,法,俄.美,徳諸大騒角立称雄,麟為万国公法,以落義橿先,尤重邦交之誼。致構尽礼,質 有其文,糧春秋躍蟹殆遠勝之/樹。こうした記述からは,郭嵩蕪が「万遜公法鍍を生んだ懇洋諸靉靆 の関係を,春秋時代における列国翼の灘熟こ勝む,古の「三代曇こおける政治のあり方に類似した

ものとして縫えていたことがわかる。

 張徳舞の場合,ζ三遠奇曇の寵述には.郭のような伝統的癒纏観に照らしてなされた「万蟹公法]

評懸は見当たらない。だが総年礎蟹吏の鰹1こは,「万蟹公法」が戦臨こおける捕虜への人道的籔い を規定していることなどに濫聾している。こうした点を考癒すれば,西洋体験の擁難段踏1こあって は張徳舞も郭嵩無瞬様1こ,伝統的懸纏襯の耀からr万蟹公法葺を評慰していた可能性が少なくない。

ただ繰琴返すが,罫三遠奇遜に冤られるような具体鯨こ郷した実践的観点からのギ万羅公法」の機籠 への言及は,藝洋諸醗との対等な外交驚係の購築という課題への極めて窮追した認識に基づくもの であったというべきであろう。前述のように張徳舞縁ラ瞬文館時代にすでにマーチンを通じて「万 岳公法」に態れ,鶴隼の鐵健蒔1こは普墺戦争越選に関する情報を通じてその国鰹関係上の実効性へ の一定の知識を得ていた。おそらく張徳舞は,西洋文墾を中羅文馨とは異質な文嗣と見なす傾向を 強め,西洋の優れた葱の受容の必要を認識し,受容すべき対象への琶的意識的な観察をはじめる遺 程で,と参わけ中震の外交にとっての「万国公法ゴ受容の重要性を深く認識し,その結果,こうし た「万轡公法j lこ聡する実践的な記述がなさることになったのであろう。

 なおここで一つ留意しておきたいことは,こうしてはじめられた目的意識的な観察と,すでに指 摘した非ヂ正途」懲身者ゆえの鼓治的発言を醸達しようとする意識との関係である。『三遠奇蒼穐 静郵において,張徳舞は匿三遠奇庭執筆上の基本的態度に騎わって,「外国の政教・懸俗については,

近年外擁へ滋遣された星使(鐡使大臣/たちの多くの著葬がすでに人馨に謄奥してお撃,私はその 残撃津をこっそりに盗み取ったにすぎない長海邦故俗,近年諸星使著作麹林,久琶騰策大震,余羅 不遜窃其緒余悪已/と遜べ,またそれゆえ露分のヨ記は「冗長で績わしいことを鵠とわず些綴な事構

を述べた豆所叙瑣事不嫁累籏達篇/と記している磯。こうした発言から読取れるのは,張徳郵が執 筆に当たって,鐵硬大臣らの著作との内容上の棲み分けを墾確に意識していたということである。

我々の文賑に離して雛えば,この棲み分けとは,西洋のヂ政教」「風俗」やそれを踏まえた乾麺・士 大夫への撹判や西洋文聡の受容に関する提言などは郭らに任せ,張嚢身はいずれ権力者が西洋文明 の受容を決慰する時に饒え,中震に不可欠な西洋文弱の優れた成果を詳纒に観察し,実罵的な記録 を残すことであったといえよう。張徳郵はこうした棲み分け意識を明確に持つことによって,目的

鋤 簿嵩叢ヨ言蓼3巻8}貰(5§1。

逢5)ぎ郭嵩無籍慧鍵3巻欝§買(ぎ嚢難紀程一1簾稿〉(§碧。

雀嚇 罫薩鑓法緩言轟凡溺鍵5頁。なおこの「幾夢彗」の認遠は罫羅述奇書においてもほぼ欝橡である。

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