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版位制の展開と標の成立

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(1)

議 論

版位制の展開と標の成立

平安前朝の検討から

鈴 木 琢 郎

はじめに

 近年、古代の儀式の欝究が漬発になってきている。本稿で考察を行う版位・

標は、儀式においてその参列者が自分の立つべき場解を示す標識として使題さ れたものであ馨、平安時代に記された諸儀式書を饑くと多種多様の版毯・標の 事が記され、むしろこの記違が無い儀式の方が珍しいく

      がゆ、.一・努       壌き嘉.率

       鰐界        繋、ゑ解、脅

       軽愚,

       舞/翻,

      躍汐劉

  園葉 奈良鬱血文化財馨究駈罫軍機宮跡資料館

    麟録麟鱒8年      醒2 蔽位國        一237一

(2)

行政被会論集 第焉巻 第3号

 このように豊富な史料が存在する販趣・標であるが、その碍究はさほど進ん ではおらず、鰯懸儀式の蟹究において、その儀式空間を後療するのに綾羅され ている程度である。そこで本穣では羅臣が朝庭や諸殿舎の庭に列立する鰹に縫 購される腹盤・標に注目し、版位・標それ農体がどのような性狢のものであむ、

量つどのように使い分けられているのかを明らかにしていきたい。

 さて、本議に入る毒彗に版綾・標が実際どのようなものなのかを確認しておき たい。まずは販{譲こついてであるが、儀溺令版位条には方七サ、厚さ五寸とい うサイズで漆で品位を記すとされる。甲城塞跡から出土した「公事」「私事」

と記された文字博(緩i)も版位の実物であるというのが現段階では遜譲となっ ている鐙。また属ビく平城京跡から版位と考えられる1携体を措いた折敷の藪片

(泌2)が鐵止しており、版位の形状・絹途を示した最古の史料として注§さ

れている121。

 続継て標についてであるが、版位のように奈良時代から使われたという痕跡 は史料上無く、平安時代になってから頻繁に史料に現れてくる。この形態につ いては後代の史料ではあるが、ゼ江家次第秘捗遜「踏歌」に1ま「立.襟〈(中路〉

長五寸、纏露寸許ノ露木髭、公事工預ル人ノ数ホド立ル毯、3コ迄ト云臨

雀、>」{31とあ善、擦の箕捧的な形態を知ることができる。

 先にも述べたように標は平安時代になってから使矯されるものであり、諸儀 式や政務において宮人の立つ綾置を示す標識としては奈良時代からみられる蔽 位の方が先駕している。版{擦こついては橋本義則氏により縫驚法馨彗に分類さ れ{嚇、①朝政のために軽羅に常置されていたものであ鯵、「朝堂における官人 たちの霞常的な政務のときに、(申酪〉窟人たちが立ち定まるべき蒙羅を示し た標識である」。②朝儀のたびごとに韓庭に臨時1こ設けられたもので、「儀式1こ 参列する官人たちの位墜に基づく秩窪による成立のための標識として縫われ、

儀式のあるごとに、その執行以葎葬こ一定の形式で朝1莚に醗置された玉という 二種類に分類している。このうち平城筥から出土した二つの文字博は①に分類 されるものである。

       一238一

(3)

腹趣驚麺)展醗と標の成立(鎗木琢簾)

 本稿では、主として儀式に絹いられた版位・標を開題としていくため、綴本 分類の⑨を中心に考察していくことになるのだが、単に儀式に使照される販綾・

標とはいってもその絹途は様々なものがある。そこで考察の便宜上、その霧途 に感じて次の三つに分類する。五型、群臣が殿庭に列立するために使照される もの。塞型、諸儀式において特定の行動、動作を行うため、または特定の後彎 を奉{圭する者が就くためのもの。一挺を挙げれば霊命を行・う霧韓こ宣命{吏(宣命 大夫〉が就く宣命版位等は代表的なものであるが、その飽にもそれぞれの儀式 に応じて多様な版位・標が使購されている。最後に聡型、尋常版位である。こ れは紫宸殿や豊楽殿等で標を設麗する鰹にその設置の基準として機能する飽、

儀式空麗1こおいて欝臣が天皇に遍づける鰻界点を示したものであるともされて おり!5!、鰻定された機能は持っていないものである。この至・葺型ともに蔽続・

標が見られる。

 これから版娃・標の痩馬のされ方につも・て考察を行っていくのだが、先ずは 奈良時代からその存在が認められる版位について考察を行っていきたい。

1 版位の後飛と特徴

 版位の鱗度は馨本独轡のものではない。ゼ唐金拾遺董儀麟令復饗欝条には

「諸蔽位、皇帝餓方一尺二寸、厚三寸、題云皇帝猿、皇太子方九寸、厚二寸、

題云皇太子綾、百官一品以下、方七寸、際一寸半、題云某品位、益黒質赤文、」

という規定があり、またゼ大唐購元礼盤巻三序列下雑麟にもこれとほぼ講擾定 が載せられており、この譲位の叢経度が甲羅に由来していることは一目縢然であ

る。

 縢本令では版位について次のように媛定されている。

 揮律令露儀麟合鍵叛鐘条

  瓦版紘。皇太子以下。各方七寸。厚五寸。題云。其品位.益漆字。

これは先にも縺れたように版位の規格について規定したものであり、ゼ令集解垂        一239一

(4)

賓テ麺隻社会妻翁集  第i藝誉  第3覧}

表歪 董獲飯粒・標の縫罵儀式

匿内裏儀式遜 論叢武道 罫儀 韮﹃︑昌

・劇i葬曇 轡  鞘 離離離桑馨

1  鱒鑛麟擁躾・鑓援

…総斜魏勤i蟻優勝六畷敬艇七海

1み〉       難儀・毅難論儀・五舞五蕎節儀・

        i丸航繭艘儀、肉離簸

        }

に古記の説が載せられていることから大宝令にもこの規定が篠在したことが確 認できる。唐金との相違点としては、「皇帝位」に態応ずるものが麩本金には ないことが挙げられる。また職員令欝式部省条には騨の職掌として「蔽位」と 記されている。さて、律令に趨走されている版位とはどのような灘途を想定し ているのであろうか。匿令義解選職員令式離省条では「謂。朝賀及祭紀。定、

群臣井蟹宮刑位一之版滋。3という解釈を示し麟、朝賀儀乃至「祭紀」で嚢繕 されるもので、それは群窪百首が列立するために使われるものであるとしてい る。また彫金集解翁儀舗令賑位条の張説では「朱云。版位皇太子以下。謂広 至二凡人_者。未.難。髭髭蓉時云歎。答。然艷冶という闘答を載せ、元薯蓑こ 使購されるものであるとしている。つまり講説とも朝賀儀で使霧されるものと してお善、また鐵令義解遜では誓輯賀及祭羅」としているが、このヂ祭紀」も おそらく一般的な祭認全般に徳電されるものではなく、結論から先に述べるな

らば、おそらく大嘗祭を捲すものであろうと考えられる。

 律令条文やゼ令義解選ζ令集解遭から版位の使鰐について考えてきたのだが、

これだけではその具体的な綾絹法は詳らかではない。そこで以下、実際の儀式 の中で版位がどのように綾堰されているのかを検討していきたいのだが、奈良 時代の髭史ゼ続霧本紀壌には、その史料の性格もあ滲儀式についての詳纏な記 述は載せられておらず、賑位の淺購についても韓ら記してはいな蔦・。そこで平 安萌期に成立した置内裏儀式磨(建内裏式』以前〉、匿穴襲式遷(弘仁十二年懲鍵 隼撰上〉、置儀式遜(およそ貞観鰯)の儀式書の綾討を通して蔽緯の使購法につ       一2韓一

(5)

蔽毅凝の展購と繧の疲立(鈴木琢嚢葦)

旨!地割︐引剥翻跡闘旨

       大甕言霊建参載位ズ︵.︵︵    猛墾㍑厭縫        敏大納納響恥鉦露瞬豊位韓﹇鍵盤位  ・ーー      太一猛−天挙薫聾王麗五六七八︑霧魑洲     菱    簸    馨蟹避難鬱鬱撞鐘嚢蓊鬱簸駿譲皇騒  認      茎 塑 駿 髄澱   子縷  賀       馨︹絵雛省群玄審察︺極目大豊︑太嚢  継奏 尾審﹈毒饗         隣︹蕃客︺大   壷

  

@ 、

ソ籠 碧郵.誕塁蟹纒 ﹃日 礒  諜霧糞 ︑

       ︑︑      講参ーーー      参穽

  

@ 

@  @ 

目u 無臭U一

麟3 朝袈儀(朝堂醗〉

 藤森縫叢豪蓼「El摩古代発讐勃璽蟻菱の特質」(舞∫代 天髪の響紘蟻義謹厳購弦支離、2総客年〉よむ…謬駿変。

隊、本蕩において鞍が叛綾、轡が霧iを摂すものとする導

いて遼っていきたい。

 表董は至聖版位・標の 使購される儀式をまとめ たものである。これを見 て瞬らかなように、この 欝鍔戴立は蟻例の儀式で は元裂1彰i賀儀と葬賀蜜太 子儀、また臨時の儀式で は大嘗祭と天象響緯儀、

そして譲湿儀1こおいて見 られる。そこでこれらの 儀式について機観してい

く。

 朝駕儀 朝賀儀におけ る、版位の醗置については 先学により復原されてい

るが鑑、書髭軽篭の便宜圭1、

復原溺を麟3として揚げ る。朝堂醗において行わ れる朝賀儀においては、

蒙太子の飯泣とその地葺甕の版位が縫尾壇、しに設選されるが、その飽霧王以下 無縫までの擁立の版歓は韓庭に設羅される。鶏王以下飯蕪は籠尾遜南一頭を基準i に設緩され、…籍極にそれぞれ一粥、南龍方華1に設羅される。

 舞臣縁この蔽鐙を暴漢に朔宣するのであるが、今泉隆雄氏によれば麟、競賀 儀において酵臣は蓬本的に朝縫に粥1宣するだけで朝堂に養簸することは無い。

そしてこのように群藷が粥賞して行われる輯賀儀は、大癒殿に出継した天華華墨に 対して朝纏にダ彗慶した群臣が簿社をする儀式であった、としている。またこの       一24重一

(6)

得政疑会読集 第懇巻 第3号

寝 殿

 敷   里  ︸   騒 着痩散  縫亜    き幾王○し◎太鼓大蓮大二王  五獲互 霞健鐘L毬鍵綾 ○◎◎γ毒○○○

塾産大窪

○大締言

○中納需

◎鑓麺参議

○至醇童簾綻 轡駆騒鐘  掌儀

轡蚕郵。ポ㌔

     賛春

画4 舞賀皇太子儀(葉黛)

拝礼は奈良時代においては拍手と いう具体的な作法によって行われ ていたことが箆敏生氏によむ指鶴

されている麟。

 輯賀儀において蔽載を設置する のは儀式の前警であるが、それに 先んじて露羅前には式藩省が朝堂 羨において標を立てて習礼(予行 練習)を行う。この習礼に際して 立てられる標はおそらく版{立と凝 様の配置で設置されたと考えられ、

式額省はその標に基づいて習礼を行ったのであろう。

 尚、天蓋躍位儀はこの朝賀儀と同様の儀式構造を持つとされている。ゼ儀式藩 には天墨即位儀について燧定があるが、そこには版位設置については繕ら記さ れてはいない。しかしながら、朝賀儀と同様の版位が朝蛍醗朝庭に設置された と見て聞違いないであろう。

 薄賀皇太子儀 『内裏儀式垂ゼ内裏式遜にはこの儀式に臠する規定は載せら れておらず、蓼儀式薄藍弘仁式蚕罫延喜式遜にその矯定が見られる。この儀式の 縫われる場議は先の三書とも明確には定めていない。おそらく皇太子の居所で ある東宮で行われたのであろデ欝。この儀式では澄接に版位設置に鞣して具体 的な醗置の記逓はなく、標の配置のことが記されている。この繰設謹記事から その醗遷を復原すると蟹遵のようになる。しかしながら使霧される群臣列立の 基準襟識は標ではなく版位である。この点について験試していく.

 謬儀式遜巻六「同繕葬賀皇太子儀」

  当響后宮社畢、掃部寮設.式部輔已下座於監物曹司東遠一、設二弾薤露已   下座於大膳職硬麩一、式部録率、史生一、入.瀬二西霞一堂.標、(中整、襟   の設置記事)詫式部輔已下・雀掌已上、率二五位以上・六位已下一、列二

一2藁2一

(7)

蔽建凝の展鵜と繰の成立(鈴寒琢躯)

  立南限左右■、〈左聾一と跳懸、姦吏一1二跳嚢、〉弾乏憲裁下舞…立欝欝左右㎜、

  く左薦懸載一と、巻藁嚢髪上、>手.時鵜.門、省丞・録・史生分、こ頭東藻_、

  欝.笏執.叛参入、各置二襟下.。退象、次省掌二人執二六位已下藪一、置.

  於外稗鐸軽棄西端一■、(中略)霧王以ド・五位已上、次参人就.控、<省掌   一二入立二懇外左右一、互称二容生一、〉次省丞・録・史生・省掌槍.分左右、.、

  引、六位謹下■.、就二跨外位〜、(後酪)

 この記述からも分るように、式部省がまず標を設置する。その後、麗門を待っ て「捲.笏執.叛参入、各置、標下…退治、」とあり、式蕩省が再び販紘を持ち、

先に標を羅いた翫に版位を置くことになる。そして、親王以下五趣以上が参入 し擁立する際には「就.載」とあ鯵、標ではなく版位に蝿立しているのである。

つまり葬賀皇太子儀では最総に標を設置するものの、その後改めて販赦を設鬱 していることから、版鐘を使離した儀式であることが確認できる。そしてその 版位の醗置は鐵4に示した標の醗鐙をそのまま置き換えた形で後療できるであ

ろう。また版位と襟の闘係において、標が版位を設置する際の馨鶏として機能 していたことも確認しておきたい。では韓数この儀式において初めから譲位を 置かず、標を縫いたのであろうか。この標が朝賀儀のように習礼の為に麗1いら れたとも考えられるのだが、標の設置が儀式当蕪であり、式薬省の輔以下は標 を設置したのち宮人たちを率いて南鰻の左右に列立するとあることから、この 醒能性1ま極めて低くなる。しかしこの解毅は匿儀式薫条文を時閤軸一隻1に煮ては め連続したものとする解釈である。この標の設置を当縫の儀式の流れから醒し ては考えられないだろうか。ζ弘仁式量では次のように記している。

 ゼ弘に式譲式部「講嚢難太子受賀」

  遇欝纂部講設.鰹於優越.。韓ξ三一ド就.痙。五位巳上就.版受.点。先,是   録率.史生一。入撰二版標…。詫輔已下倶興醒立。史生執二大籍.謙.,三朔於   麟跨外一。左右分立。麗.跨。騨丞録史生棄西分執一飯泣一。入羅類.標蕪   退。省筆■二人置二六隷巳下版位於懇外左右..。誼解官五線以上入就。門内   版一■。〈録二人立、需磐一夏称.容壼一■書>六経以下就,勝外版位…再拝舞踏。

       一243一

(8)

行政娃会議集 第懇拳 第3号

 礼翠雨退。撤.販麹レ襖。

ここで標の設置は「先.是録率二史生_。入掛二販標_。注とし、五位以、とが飯

(この賑位は列立のものではなく、闘外に置かれたもの〉に就蕎・て点響を受け る以前で、版{立を置く直前ではないことがわかる。具体的毒こ{馨鋳設謹するのか は定かではないが、おそらく式部省は儀式当馨、朝拝皇濤儀にも参駕せねばな らないので、その設置は羨醤乃至それ以前ではないかと考えられる麗。

 この儀式において羅逐が列立する基準は版位であることは先遽した。しかし 版位は発露こ朝賀儀に綾絹されており、葬賀皇太子儀において、朝賀儀のよう に羨響に設置しておくことが不可能であった.また更月二蓉は舞賀皇太子儀以 萌に朝鐸皇后儀も行われ、この儀式にも式部省が参撫することから、当讐の儀 式以爺に版笹を置くことも不曙能であったのであろう。そこで頼め標を設置し ておき、舞賀豊太子儀痘譲に版位を置くに鞣して適窮な場亮騒に版麺を置くこと ができるようにした一つの対麺策として捉えることができるのではないだろう か。そしてこのように考えるのであれば、標を設置した時に購縛に習礼を行っ たとも考えられる。

 この葬賀皇太子儀について藤森健太郎氏1こよれば、「元§競賀儀礼と瞬じよ うな空鷺権威が現象している」とし、「天皇への韓賀でも皇太子への賀でも、

その空懸の差異を超えて共通して現れるこの空縫権威、さらには観念的秩序は・

儀礼を行う場漸の勃理的麟約などによる便豊的な現象ではなく、君主ないしそ れに準ずる者への拝礼に関わる強露な観念であった」と述べているll瓢つまり 朝賀儀と舞賀皇太子儀という、君主、またはそれに準ずる者1こ講ずる拝礼の儀 式において亜型の版位が綾絹されているのである。そして葬賀皇太子儀の成立

が九覆紀に入ってからのことであるので麟、当窃は朝賀儀において、そして舞 賀皇太子儀の成立に伴いこの儀式でも蔽位が綾絹されたのであろう。

 以上の二つの儀式が、儀式書において詳総な版位の畿置を記しているもので ある。続く二つの儀式には詳纏な醗置の記述はないが、群臣列立の版毬が穫i溝 されることが確認できる。

一2麟一

(9)

販蒙麟の緩聡と標の成立(鈴木琢鋸〉

 大嘗祭  『儀式選によると「式藻設二皇太子以下飯焚大嘗官爵需外庭..、」と あ鯵、大嘗筥の南霞の外庭に亜型蔽位が設置されることが確認できる!鍵。そし てこの大嘗筥であるが、平安時代はもとより、奈良時代においても朝堂醗に設 置されることが明らかにされている器。さて大嘗祭における版位の綾絹のされ 方であるが、「皇太子以下・五位以上、就二莚中版一、鏡拍.手翼度、(割注賂)

六載以下亦妬.是、(割漉餡)詫遜鐵、曝五位以上退就二緩痙一、3とし、皇太 子以下・五位以一と、そして六紘以下の者がこの販{譲こついて拍手を奪い、その 後五位以上の者のみが耀に設置されている痙に就くこととなる。

 大嘗祭は天皇響泣後に行われる一代一度の新嘗祭であむ、縫猛っ天皇灘位儀 礼そのものではないにしてもその一環を成す儀礼である欝。またこの儀式で

「捲手」と見られるように朝賀儀では早く衰退した捻子礼(註ξ§1参窯〉も大嘗 祭では弓iき続きそテわれていることも注醤される。つまりこの儀式が朝賀儀購様、

天墨に端する群整の拝礼の儀式でもあったためであろうと考えられる。

 譲国儀 紫廣殿で行われる儀式で、罫儀式磨には紅式藻置一綬王以下行立版」

とあり、また親王以下参入に翳する作法として「親王以ぞ参入等儀麺.常、

〈親モ以苓・五位以上列.門内一、六位以下列謂弓外一、〉」とあるので、親王 以下五位以上の版位は承明門内、つま鯵南殿前庭、そして六位以峯の版位は承 明鍔と建礼鍔の簡に置かれると推灘される。

 この譲麗儀は譲紘の宣命を読むという行為とレが鯵アの移動という二つの要 素から成るのであるが、群整が版位に就いて行う儀礼はこの内譲乾の宣命の霧 告のみである。この譲猿の宣命の布告は皇太子が天皇のとしての礼遇を受ける

「狭義の即嚢嬉であり、またこの譲驚の宣命が皇太子に嬉して窟舗されるので はなく、そこに参列している群議達に端して布告されることが藤森氏により指 摘されており、また露盤儀との麗係においては、譲露儀によ鯵天塞としての礼 遇を受けている君主が、麟位儀1こおいてその正式の礼遇を受けていることの一 つの象徴として箆式の臓を着て淫式の擁痩に轢き、臣下の朝を受けて宣命を発 する儀礼であったとしている鱒.

       一2鵯一

(10)

行政挺二会講築 第蛎巻 第3簿

 以一L、ここまでの考察により至壅蔽紘の使羅されている儀式について発てき たのであるが、そこからは朝賀儀・豊太子葬賀儀といったような天皇(ないし それに準じる者〉紅対する群臣の拝礼儀式、または天皇灘{壷儀・譲覆儀・大嘗 祭といった天皇郷毯の関する儀礼において綾絹され、そしてその儀式において

も参擁している群議は天墨に対して拝礼を行うという姓狢が箆て取れることが 朝聡した。またこれらの儀式においては全官人が儀式が行われる殿舎の前庭に 擁立していることも版続使驚の儀式の性格を窺わせる。

 さて、これら五つの儀式は全て奈良時代から存在したものではない。先述し たように耳翼皇太子儀は九勝紀に入ってから成立したものであるし、また靉靆 儀の成立は梅裁朝であり、それ以前は律令麟下における躍泣儀が唯…の露泣儀 社であった。つま馨叢叢蒔代において夏型版位が使購された儀式慧、朝賀儀・

律令凝下における天皇露紘儀・大嘗祭に鰻定されてくる。そして朝賀儀と即位 儀は平安時代に於はほぼ講様の儀式構造を持つことは麗知のことであるが、奈 良縛代における轟泣儀において、その儀式の一磯として輯賀が含まれているこ

とが鮨摘されている曝。つまり奈良時代の露位儀においても群議たちは翰賀儀 購様に天墾に対する拝礼を行うこととなる。

 嚢本畢こおける版{立の舗度は中蟹の齢/穫ilこ藤来していることは先達してお鯵、

つま鱗3本の版毬の裁縫は律令の導入と其に談叢したと解せるのであるが、奈 良時代において版鏡が綾絹されたと考えられる躍毬儀、そして大嘗祭は律令麟 の導入難に轟る持統朝に成立したとする鮨携があるll藩。つまり羅本における版 鏡の使鼻撫まこれら儀式の整備と深く護漣し、さも聾然のようなことではあるが、

律令凝導入と儀式の整鰭に課して使曙され始めたのだと考えららる。また平安 時代になり巌々な儀式が絞立・整繋されていく中においても、特に玉璽蔽紘の 使灘は奈良時代から引き続き天皇に端する拝礼の儀式にのみ使醗された。そし てそれは全官人が殿庭に列立するものであ善、また列立・拝礼というものが儀 式の重要な要素を構成するものであった。ボ令義解選では版位の使霧を「朝蟹 投薬紀盛であると記すが、この解釈は本稿における結論と一致する。つま姿        一2妬心

(11)

版位麟の展驚と標の成立(鈴木琢郎〉

「朝賀」は輯賀儀、乃至羅綾儀における朝賀で綾羅されることを意賺し、ヂ祭殿憾 とは大嘗祭を指しているのである。また「定一群欝井毒官列泣一之飯豊。」とあ ることからも版{立の使舞罫ま群臣避ぎ密が 彗宣するためのもの、つまり夏型蔽盤が 版位の基本的な使灘方法であったことが確認できるのである。また撰じく朝賀 儀で綾羅するという意蘇で奏賀・奏環等の嚢璽の蔽位もそれに含まれるのだと 考えられる。

 版位の使霧が基本的に以上のようなものであったとするならば、勉の儀式の E叢慧の版{立や橋本分類の①璽の政務に痩馬された版位はどのように理解したら よいのであろうか。先ずは①型について考えてみたい。

 この版位が平安時代において、韓堂院の朝堂や太政實曹還庁やその飽の曹司 などに設置されていたことがゼ延喜式雌や転本三代実録講などから確誌でき る盤。例えばゼ延毒式雌には次のような矯定がある。

 ゼ延喜式遜式部、と

  瓦甕福堂、含草堂及念嘉堂版位、豊麗一麟庭一鶴.鑑北一、余講各置.購   後…、其額綾皆二紋、〈公事就.前、私事就.後>

この霧定によむ、朝堂駝の朝堂にはそれぞれ官鬱鬱に二枚の販鐘が麗かれてい ることが確認できる。また諸藩司に置かれた版位もおそらく二枚づっ置かれた のであろう。平安時代においてはこのように①型の蔽麺が一般的に綾羅されて いたことがわかる。しかし奈嚢時代・版位の調度が嚢本に伝来して闘もない時 期についてはどうであろうか。この腿題はドはじめに」で離れた平城宮諸士の 二つの文字博を妬韓に解観するかという開題に直結する。

 積出氏によれば、この文字簿は奈良時代麟半まで遡ることができ、また「公 事」r私事」の亥畦字から『延喜式轟に見られる「〈公事就.麟、私事就.後肩と

ある版位と懸崖し、「文献資料では平安時代にならなければその存姦を確認で きない宮懇常置の版がすくなくとも奈良時代の醜半に遡る」としている縫.ま た熊谷公男氏は致務における雛伏礼の醗究から、令麟下の嚢常政務である読申 公文に鰹しては庁麟の版位に立って公文を読み上げるものであるとしている嚇。

       一247一

(12)

行数鑓会譲葉 第葛巻 第3号

これらの議論縁①讐量蔽猿が奈良時羊惣こおいても存在するというものである。

 確かに令凝下の読申公文という形態においては、庁の羨1こおいて読申する蕎 が薩らかの標識を緊難にその場に立ち談i申を行ったということは懸違いないだ ろう。そしてその標識がこの文字博であったことも考えうるものである。しか

しながらその標識が版綾であったかどうか1ま検討を要する。これまで験試した ように令文に燭定されている販推は韓賀蟻や雛旋議・大鷲祭で使醗されるもの で、それは羅鋲が列立し天皇に鰐する拝礼を行うことを韓的に設議されたもの であった。そしてその版韓は中麟の麟慶1こ霞来している。中麟の嚢常政務にお いては1=1本のそれと違い、庭を購いることが無く、殿1二のみにおいて完結して いることが講じく熊谷氏により揚構されている盤。そうであるとするならば、

中鶴の鰯度において欝常政務に版鏡が穫iわれることが舗痩化されているとは考 え難い。つまり、ξ1常政務に畿紘を縫離することを中鑓の麟度から導入するこ とは不審能であるα

 また令の蔑定では飯緯は木製であった。しかしながら出二ll二した文字博は「博」

であり、これが叛鏡であるとした根絶は準安時代の事縫からのみである.この 点からみても販{窪と懸達するのに1ま1霧意しかねる.私見として、この文字博は 確かに嚢常政務において縫講された一標識ではあった。しかしそれは厳密な意 味で版位ではなく、当時の官人たちも叛緯とは認識していなかった。敢えて誘 うならば案麦季鷺■朝堂等に麗かれた飯{立に先そ¥するもの、 と縫えておきたい。 この 文字博のように奈良時代には叛載としては認識されていないのだが、嬉らかの 愚図をもって綾灘された標識が多く存在したのだと懲う.そしてそれは後の朝 賀・灘泣・大嘗祭以外の翼整版緯1に帽幽するものも含まれていたことだろう。

しかしながら律令が厳密に施行されていた奈良時代において、「版位」と誘え ばそれは朝賀等に/吏罵された駿続を愚昧したのではないだろうか。それが次第 に「叛縫」というモノの媛定が厳密ではなくなってきて、甲安時代になると多 種多様の蔽泣が史料、L遷れてくるのではないだろうか。

一248一

(13)

版{豪驚茎の展舞舞と標の超と.立(鈴本琢欝募

2 標の使用と群臣の列立

 縷籔では主として暇位の使絹される儀式の験討を通じて、奈良時代では朝賀

{義麟、議・大嘗祭で使購され、平安難題おいても1姫ダ粒1こ{翻するとい うことでは、それらに対応する儀式である朝賀儀・葬賀皇太子儀・郵位儀・譲 麟儀・大嘗祭のみで縫講されていることを捲摘した。また政務で縫購される① 穫鏡授泣や競賀儀等以外の葺石版位に見られるように平安時代になると版位の使 絹1ま敏く行われるようになる。しかしそのような中で欝欝列立における飯粒の 縫縮縁先の五つの儀式のみにi襲定され、その飽の儀式で群臣が列立する鰹には 標というものが使鐸1されるようになる。本節では、この欝欝列立に{吏繕される 襟を中心に考察を行っていきたい。

 さて前簸において、朝賀儀・天.窯鐸泣儀において標が習礼に綾絹された鯵や、

辞賀甕太鐸義でも版紘を置くための露葎として使編された溺を見た。これらの 標の養購方法1ま儀式本番において直接機能せずにいわば副次的なものに遍ぎな

かった。

 しかし標1壽叢緯と聞様に群隠列立に課しての標識として硬矯されたり(墨型 檬)、諸儀式鱗磯定の繕睦漿たす勧戒くために/趨され(曜標)・瞬姦 と瞬様の機能を饗たしている。

 以霞塗擦についての考察を行うのだが、再び表圭を見ていただきたい。至 穰擁は『内裏儀式遜には晃られず、また『内裏式選においては毒馬簾会のみに 記毅されているが、これは蕃客が参列する時のみである。しかし正型標の縫灘 はr儀式遜において飛躍的に増撫する。そこで以下の考察では納裏式選にお ける至難標の使灘縫と置儀式壌での使購纒とを比較し、標の性格について考察 していく。先ずは蓼内裏式遜における綾羅携の分析を行う。

 竜鬢衰馬節会  『内裏式選においては宍馬簾会のみで夏型標の使編が記載さ れている。露馬簾会の鬱する記遮は大きく二つに分けられ、麟半は蕃客が無い       一24§一

(14)

鴛政袿姿譲葉第葛巻 第3号

通常の儀式、後半は蕃客参灘の際の儀式である。この内亜型標と考えられる

「群密行立標葺が見られるのは蕃客時のものである。そこでまず蕃客時の記述 を見ていきたい。匿内裏式麟には次のようにある。

  著有二蕃客一考、(中略)鰹座定開一豊楽・儀鷺雨霧一、少納言躾.逢春門   外.、、大舎人同候、難二元舞会儀一、少納書奉.實、蜜.自三儀驚湾棄扉…、

  召二群宮一、羅参入、〈入.懇二東扉一、〉六位以下東西権分参入、<欝密行   立標異二式部式_、〉坐定治部・玄蕃・通事騎.客等_参入、(後略)

ここでは具体的に舞臣が「群盲行立標」に「就く」とは記されていないのだが、

少納書が群盲を召し、群盲が豊楽殿繭麺に参入し、鍵群盲行立標」に就いたと 考えられる鱒。それでは蕃客が無い時の欝欝の参入及ぴ列立はどのようなもの であったのだろうか。比較縷説のためにも以下考察を行う。

 まず準騰に麗しては以下のようにある。

  蒲一馨、醗司弁二籔豊楽殿■.、構二舞台於殿前一、〈自一段南懲.爵去十一丈   七尺、舞台高三尺方六丈、>設二楽人纒於舞台東南角一、<索去状許文、棄   去二許丈、>舞台北懸丈、中務蟹.宣命版位一、南去一許文、置、、尋常藪   位_、瞬位・五趣鰹於乙顕陽・承歓講堂..、六位以下座於二明義・歓徳両   堂一、

麟響の準備において設置されるものとしては、舞台・楽人纏・宣命版位・尋常 飯錘と懸位以下の慶のみしか記されていない。またこの時の尋常蔽位は璽型と 分類したもので、この儀式では内舎人が就いて「翻弓進転、兵燕雀宿姓名等 躾.鰐幽牢」と奏したり、少納言が群凝参入に際してこの版位に就き、大癒が

「喚二大夫」との宣に対して称唯するのに編いたりする。また天皇舞座以下参 議以上の座が設けられたであろうことは「弁一締豊楽殿.」とあることからも 慧定できる薦。さてここまでの記述では群臣が豊楽殿の前庭に列立するための 標の設置は見られない。そこで実鰹に群臣が参入する時の作法について見てい

きたい。

  (前略)大臣喚二舎人.、二声、余人縷二選春需夕紅称曝、少納言替入.

一25§一

(15)

版硫鰹の展開と標の銭立(鈴木琢鄭〉

  縫、二進春霞、.就二版猿一一、大臣宣、喚二大夫等、、称唯、灘。自三儀鷺鍔一

 喚.之、鰻王已下・五控巳.ヒ称礁、霧王以下・参議・非参議三位以上…

  列、入.自三儀驚門葉擁一、比.入.開講杖粟興、次五位已上東茜分頭参入、

  <藁罵、.東西雛一、〉式部錘重.容儀一、帽次六盤以下参入、省掌歪二容儀_、

  〈参議以上後.自二親王一五許丈、墾位後.霞二参議一、七許丈、五位翼二   醗続一連霧、五位最後者比.到二購義堂北頭_、六位已下参入、軽参議以上   列行之闘三許丈、〉親王已下・六位已一と、東西分頭立二庭中一、去二舞台一   南二鉾丈、東西立定、〈未.入之麟、酒部等各立二悪博下_〉大痘宣、蒋   座、粟穂曝謝座、詑造濤.罷把二空蓋_、〈梗絹二昇.殿者漣蓋_、〉来援二第   一■」人.、<共雛受授、>蔓還趨二・三許丈銘面立、親王以下謝瀦、言乞造酒影   受遺、く麹皆敏.之、〉参議巳上・非参議三位已上、以.次昇就.座、次五   歓已上・六位已下、東西相分著.座、(後酪)

大難が群臣参入を命じ、群籍が参入する。そして実鰹に座に就くまでのプ麓セ スは以下の通りである。欝臣の参入は、第一グループ(親王以下・参議・非参 議三位以上)、続いて第二グループ(五位以上)、最後に第三グループ(六位以 下)の獺であ鯵、そのグループ間やグループ内でもそれぞれ参入する際、先行 する者との鋲離が定められている。続く豊楽殿醜庭での列立では舞台から南に

、二丈程離れた勝に東藝に分かれて立つとあり、六鼓までが参入し・列立し終え たならば大臣.の命により痙に一就くことになる。

 ここで当靭の閣題である欝欝列立のあむ方であるが、舞台から二丈程の駈に 親王以下六銑以上が東藪に分かれ立つとのみあるので、標を基準として整然と した列立1まなされていないと考えられる。で1ま簿故群臣列立の基準となる標を 設けなかったのであろうか。その解答の…つとして、この白馬節会は欝欝が殿 庭に列立し、儀式を行うことが第一の§的ではなく、群臣参入後まもなく座に ついていることからも分るように、豊楽殿やその勉の堂に設けられた座におい て宴をすることが第■…の譲的であったからに纏ならない。橋本義雛氏によれば、

平安宮で行われた儀式は大きく二つに分類でき、一つは韓堂醗型、もう一つは 一2騒一

(16)

行政社会譲葉 第語養 第3弩

    ○無位     ○     ○      霧続     :    亙○八位

    3雛

   塗○_

    ○ハ{宣    標○蕊綾     o駆露盤     ○玉露萱至純     ○醤位参議     ○申継琶     ●大納露   大薮○

.欝講蕪

   しび (玄輝解痩東蝋  玄輝懇聚、鰍

蟹§ 朝拝皇鍍儀(玄輝門・鵬箪門間の庭〉

豊楽院型とする。このうち 豊楽醗型の儀式(元露難会・

白馬節会・踏歌簸会・大難・

豊萌籔会)は「饗宴を中心 とした簸会で、それは天皇 と臣下との「共購体意識の 高揚の場霧・葬コミュニケー

ションの場封であったと している懸。つまり白馬節 会で欝整列立の場が設けら れなかったのは、豊楽殿及 ぴ講堂での饗宴が中心であ り、殿庭で群匿が列立して 行う行事に重きを置かなかっ たからであると考えられる。これは納裏式雲の記述において、白馬締会1こ留 まらず、豊楽院で行われる元8籔会以下の儀式でも欝臣灘立の標識が立てられ なかったことに対する理解にもつながるだろう。

 それでは白馬簸会において蕃客時にゼ群盲行立標」が置かれたのは轄故だろ うか。その建由としてはやは警そこに蕃客が参列することにあるのだと考えら れる。蕃客時にはヂ欝富行立標」以外にも通事が蕃客に射して宣命を宣告する 儀礼があり、それに綾羅される獲塑の蔽位も設置されている。蕃客時には鬱憂 が豊楽院に参入後すぐに座には就かず、この儀式に参列することになる。つま り欝臣は殿庭で蕃客の儀礼に粥立しているのではないだろうか。この為に蕃客 時のみ亜型標野欝蛮行立標」が使購されたのだと考えられる。また嚢馬簾会は 饗宴のみではなく、銀鏡と白馬を覧じる儀礼も講時に行う。嚢馬籔会の玉璽標 の醍置1こついては後遽するが、殿庭の中心から外れた駈に置かれている。これ

らのことから勘案すると蕃客時においては灘整列立の後には殿庭は勉の儀礼を        一器2一

(17)

版位麟の展雛と標の成立(鈴本琢躯)

殿 楽 豊

 叙鮭行立擦︵支宮︶ 垂−OO●OO●○ ︐恐 ︐︷

むル宜一

 E 匡  睾 {  垂 モ

 i

P嚢宣命蔽鮫

 !

 旨β

 :  垂

  撞詫案標︵文官︶窃蔚○○む   マま−箏 尋常版位 強 ○○○  盤記案標︵武官︶

ユ︸﹄今

 ま−一●OOOOO● 叙建付立標︵議官︶

一一Yノー一

  15.(}

    譲位 臣蓑  参五 大大蚕 贋拉麺麺王政麿継続聾羅露位綻親太左大準琶獲蓬玉六﹁−−−○◎○○OOOOOO む 2 1 型 標

白馬簾会(豊楽院)

一253一 馨6

(18)

行政社会論集 第轟拳 第3号

行うことから比較的撤去が可能な標を購いたのではないだろうか。標が比較的 撤去しやすいものであることは拝賀皇太子儀において標に代わり版位を置き直

したことからも想像できる。

 以上、白馬節会における亜型標の穫鰯舞を見てきたのだが、推灘を巡らせれ ば、蓼内裏式選におけるその飽の蕃客参列の儀式においても濯様に亜型繧を使 署したのではないだろうか麟。

 ここまでは『内裏式露に晃られる亜型繧について考察を灘えてきた。続いて、

多くの五型標の記述があるゼ儀式遷について、儀式ごとにその縫われ方を見て いくこと1こしたい。

 箆月二8朝拝皇后儀 『内裏儀式鍍内裏式壽には見られない儀式である。

儀場は内裏北離の玄輝習と朔平間の闘の空購で行われる盤。この儀式で使われ る五型標は、玄輝闘東馨を基準に親王標以下、無鎧までが設けられる(籔5参 照)。籔を見ても明らかなように、朝賀儀のように磐が南靴に.二二列平行した羅 列をとらず、一聯1に、しかも南から髭に議かい上位から下位へ肉かう醍列をと る。おそらく皇賑が玄輝碧弓に串縫し、その北に魔があるという儀場の凝約があ るからであろう。講、この儀式縁輯賀蟻・辞賀霊太子儀と瞬様に建弄1に欝欝が 拝礼を行うという儀式であるが韓拝皇后儀のみで標が使欝される。この渥霞1に ついて積極的に説明することは繕来ないが、天墨・皇太子と箋后の関係、それ に嶽来する拝ネし儀式の権違が療霞であり、また1儀土塁の簿!約ということで標が{吏 講されたのではないか。現時点ではこの点のみを指摘しておきたい。

 鑑月七8儀(白馬籔会)  ゼ内裏式壌では、蕃客がある蒔のみ{塗擦の使用 が見られたのだが、匿儀式虚においては蕃客の有無を幾わず至塗擦の綾絹が見

られる。儀場は納裏式董と同様に豊楽続である。観望以下六粒までの標が箆 られるが、その設置基準となるのは鑛錫鬘髭第囲柱である鱒(鐵6参照)。また この亜型標は叙{譲こ麗する獲型標の後ろに醍置され、儀式空聞の中心には銀経 行立標(東が文官、西が武官)と位記案標(棄が文官、西が武官。紘記案を羅

くための標識)及び舞台、宣命販載・尋常版位が置かれ、生として叙読に聴す        一2暴4一

(19)

版位議1茎の震霧垂と標の成立(鈴木琢舞茸

       る難型標が設置される。

       このような標の翫置がな        された蓬由としては、

       ゼ内裏式遜と購様に鰻王        以下は参入後、繧に就き、

       まもなく殿・堂に設けら        れた座に就くことから、

       殿庭での列立を重視して        いなかったためであ甑        また殿庭で行う儀式の申        心が叙櫨儀であったため        であると考えられる。

      蕉月十六霞踏数儀(簸        会〉 露玉以下、五位ま        での標が豊楽醗庭に設置  馨7 踏歌節会(豊楽醗)

      される。設置の基準とな るのは尋常版位であるが、この尋常版位も宣命版位の南一丈程の鋳に置かれる。

醒置は東に親王以下五位までの標が置かれ、また茜には羅位・五鍵標のみが東  彗に女鐘毒する形で設置される(麟7参照)。欝欝が参入し、おそらくこの標に 立ち定まったならば大臣はr侍座雌と宣し、群臣は講座・謝濡して塵に就く。

白馬簸会構様に群臣列立が儀式の中心ではなく、座に就いてからの饗宴がその 中心である〇

 十七蒙観財儀 豊楽錠庭に1型標が設置される。露玉以下五鑛までが顕揚堂 の跳第三雛を基準として設置され、六泣以下の標は歓徳堂の詫第一懲を基準に 護罎される(襲8参黙)。観財儀では翼型の版麺・標も多く設置されるのであ るが、特に対者西向標・購者行立標は顕陽堂詫第二違を基準に設けられておむ、

玉璽標と藁に殿舎の柱が設置の基準となる。さて舞臣は儀鷺跨から参入し標に        一2総一

豊 楽 殿

宣命膝位雛

1童.§

尋常版位嚢 Σジ。粧

@       肇太致大疑

亙○座麿大疑

◎大綾書 璽轡準納書

◎窪懸盤参議 標○王饅鰹五位

◎一一一一一一一一一群淫露盤1 麗縫五種○至      拳玉鮭

◎型      轡購 標

(20)

行酸縫会論集 第蔦誉 第3響

 対者行立標対者嚢肉標     笹驚ゑ一 笹一斑一 修一一一一一一一一一一一

 綬王    瞼.5

 参大慶  轡大納需  ◎中納憲  轡窪聾位参議 璽

◎◎◎■

王難宣五旋 駆露盤

五難1

青玉◎

(申黙 約鐙丈〉一

●一一一一一一一一一一一一    六位

 ◎  ◎  ● 七種 饗◎

 ○   敷盤 標◆

 ■ 霧鮭

 o無位

縫一套

       ◎         臣

堂▼十孟▼ームT◎

騒8 観難儀(豊楽饒)

 嵩、儀鷺跨の奪を基準に三懸の登撰擦と、その楚に工 程藝の琵壅蔽{壷毒壕設置されるカ{、この纒で1ま省嚢吝している。

立ち定まったならば、大 幾の「侍鰹」との寛に称 曝し謝慶・誕清して褻に 就く。この儀式において 群融ま纂本職こ殿11棚薬 1こ就くのであ鯵、殿竃は 騎馨を行う空薦として使 瞬される。

 蔽婁講論儀大学寮翻 堂醗で行われ、鰻王以下 小学生以 との檬が総堂の 中酷を基準に設羅される

(鐵9参鰹)この儀式は 講論と饗宴からなるのだ が、まず初めに講論、続 いて饗宴という懸で行わ れる。儀場への参人は、

「参議巳L入ン欝.i縫稽。、

舞。難毎、韓.慶、註式 薬省率、二五位磁、転・六位 已下刀禰井小学生以垂二、

分拳襲鷺縄磐東海.、」と あ善、参議以1二が参入し 座に就く、その後式謬省 が五授以L・六位以下

(刀醸)・小学生を率いて

1誉謬彗の東蓄琴奪に分 暮する。

一25ε一

(21)

籔{立毒諺の緩闘と標の成立(鈴本琢鶴)

その後「石鼓以上入.欝二閤聾一就.座、(割注酪)詑六毬以下夷懸繕分参入、」

とあり五位以上、六位以下という顯で参入し慶に就く。ここで参入の後すぐに 馨  堂

王騨窒五位○董       璽    六{立◎漂    七位◎_

   八位○大    窃旋。学    無位◎寮   小学盈○)

 「癒㎜慮「

3・㍉     1翌3  1     墜親王

1匠ヨ隊駆大縞

 i       O中納叢        {○瞬位参議         ◎露位        墾〇藍建         〇六位        標●七位         ○八位         態霧位         o無盤

蟹§ 釈奠講論儀(大学寮都堂院)

 弦水責三「露伐毅葵につも・て」(壌庫太躯博士 嘗稀記念会編鞍本吉氏愛論集2下憲購弘文館、

馨72年)よ鯵一蕊改変。

座に就くとあるが、おそらく着 座の前に一一度標に就き、その後 着座したのであろう。欝欝参入 の後には先ず講論のことが行わ れる。続き饗宴が行われるのだ が、講講終了後一度欝藷は退出 する。その鰻に饗宴の座が堂上 1こ設けられへ再び群1亜が初めと 同む作法で参入し饗宴が行われ る。 この儀式で{蔓絹される場断 の中心は殿舎に設けられた座で あ善、饑饉は基本的に綾絹して

いない。

 正月五経難儀  武奪惑殿1こおも、

裁 宴 松 厚

琢茜懇 爵東懇 殿

         至 璽 標   6.登一一一一一一一一一●◎○○○拳○

縫.5悪し}君津奏事標

親人大串玉露五

董霞納納麩種{立

@ 書誉薩

ぎ2.5匡匹

五位

一重ポ遭鰍拉漂     重

9大輔標 轟少韓繧 露欝 五月玉露簾会(輩徳殿)

 右兵衛騒と兵部省縫からそれぞ聡一つの鷺灘標が置かれるがこの麟では省酪した。

      一257一

(22)

行政社会論集第葛巻第3号

      ,一蚕_鑛宣命叛{立

      ピ    をぴむき

      1  零尋常版{立

      1     一蓋、馨

           ヂー一懲親王       f  3・靱 25 0太敵大蓮

      ざ         ポ

      l    l    ◎左君大箆

_謀臼一1藩黌

   臨位級    標罐離

    董粒○型      〇五健   六位以下.標      ◎

國魏 菊花宴(紫震殿〉

て行われる儀式で騎射・走馬・葛 藤の献しからなる鱒。親王以下無

{立までの夏型標が使零されるが、

露玉以下の標は武徳殿葉面講繕の 南端を基準に上盤から纐に東に霧 けられて設置され、六位以下の標 は六泣の纒懸の東蠣に設けられ、

南1こ向かい鷺擾番に設置される(纒 欝参照)。これまで見てきた玉鬘 標では基本的に瞬一一 方鶴に設置さ れていたのだが、この儀式だけは 露玉以下.五位以上と六位以下の標 が違う方向に設置されている魯またこの儀式で痩矯される嚢型標は縛東簿外に 設けられている。おそらくこの儀式で行われる騎麟が樗門外で行われ、それに 関係する標は欝欝外に設けられたのであろう。さて、群臣が参入し標に就いた ならば大運は「侍座」と宣し、最霧は五位以.とが、続いて六位以下が総稚し再 舞する。この後に造溺正が空蓋を貫■惹者に授けるという儀式が行われるが、そ の後すぐに群臣は痙に就く。この儀式でも中心は武徳殿に設けられた座に就き 饗宴を行うことで、群羅が殿庭に列立することにはさほど意秣は無い。殿縫は 走馬等を行うために痩馬された。

 九月九欝菊花宴  匿内裏式遜では神寒苑で行う儀式であったが、ζ儀式垂に おいては内裏紫宸殿で行われる儀式となっている。この時に設置される墨型標 は尋常版位を基準に設けられ、親王以下五位までの標が尋鴬版位の東饗1に設1ナ られ、文人王醤盤五位・臣露盤穗・五位標・六位以下標が西綴に設けられる

(鍵盤参照)。尚、菊花宴においては尋常版位・宣命版位とともに欝欝列立の標 も中務省が設置している。菊花宴においても今まで見てきた儀式のように、欝 欝は標に立ち定まったならば大運の宣に癒じて痙に就く。参議以上の痙は紫震        一258一

(23)

蔽紘鱗の緩醗と標の成立(鈴木琢鶴)

  匡  尊   匡  お   :

1置.7雛宣命蔽覆   :

  1韓

  些

 ききじむ

デ/…

   :    i   量7.5    毛   曇    毛   ヒ    :

蓋鐘鼓翌健○至

 艶懸蜂型  董建○標

  一    (牢賂

嚢尋常藪位

約鰺丈/

   董5.轟

 .41ん

2魯  ○幾王

i●大運  ○大納書 型■中納露  ○囎蕪参議 標◎王墾位  ◎五盤

 マ

摸擬 馬

玉璽標 観徳堂

轡鐙 新嘗祭(豊楽醗)

殿に設鷺られるの であるが、それ以 躰の座の異体的な 場震は分らない。

 新嘗祭豊楽院

1こ綬王以下六位以 下までの墨型襟が 設毒ナられる。親王 以下五位以上まで の擦は鑛陽堂の跳 第三柱を基準に設 けられ、また六位 議事の標は歓徳望 の義第三柱を基準 峯こ設けられる(緩 鴛参照〉。群蓮の 参入に麗してはこ れまでの儀式と同 様、標に立ち定ま

った後、すぐに大 矩の宣に感じて座 に就くのであり、

欝臣が殿庭に列立 して行われる儀式 ではない。

 以、とゼ儀式選に見られる夏型標の使題鰯を中心1こ考察をしてきたのであるが、

それぞれの儀式において独毯の醍列がなさ貌定型が無いことが見て取れる。ま        一2鎗一

(24)

響致鮭会論集 第藩逢 第3号

た特に重要な点として欝臣が標に列立してもそれは一時的なものであ鯵、基本 的には霧の場議(多くは殿舎内)に設けられた痙に就き儀式が執鯵行われた。

つま鯵標とは、朝賀儀のような欝琵が殿i莚に列立したままで背われる儀式で使 絹されるものではなく、参入から着座までの間、一時的に殿庭に列立するため に嚢題された標識なのである。そしてこの亜型標が見られた儀式の大部分は饗 宴を主簿とする儀式(節会)であった。また置内裏式選では蕃客時に罎られた

墨型標の使羅がぎ儀式遜において綾羅鱗が増撫したことについては・…時的で ほあるが群艶の列立を整然と行おうとする儀式整備の一環であったと考えられ

る。

 それでは葬賀肇太子儀等で発られた版位を置くための目繹としての標(裂次 的綾羅)とこれら儀式に塵接続霧される標との関係はどのようなものであろう か。この点の考察を通じて標が群臣列立に綾羅されるに至った遍程を購らかに

したい。

 葬賀皇太子儀で綾絹された標は確かに儀式に直接使霧されるものではなかっ た。しかしながら「親王標嵯「大匿標涯などおそらくその形態は後の墨型標と 同様のものであったであろう。そしてこの標が置弘仁式遜の段踏でも優購され ていることは闘違いない。しかしこの置弘仁式露とほぼ同時簸に成立したゼ内 裏式藷では、先述したように麟度化された夏型標は基本的には綾絹されなかっ た。とするならば、標の使驚方法の本来的なあり方は叛毬を置くための「群薄 というものではなかったのではないか。

 以上のことから墨型標が使電されるに至った経緯は次のように考えられる。

①当補標は「目羅3として版盤を置くために積め設置されるものにすぎなかっ た。②蕃客時に群議列立を行うためには版位に類する列立の標識が必要であっ たが、特に欝欝列立の版位は輯賀儀・響毬蟻等天皇を拝礼する儀式に綾羅する ものであったので、版位を使題することはできなかった。そこで版位を置くた めの「目剛として使購されていた標を代矯した。③ζ儀式璽における儀式の 整備に鞣して、一時的ではあれ群痘を殿庭に列立させるためにその標識として        一2§§一

(25)

版{宣葦撰の展欝窪と標の滅1立(鈴本琢難)

標を正式に採賭した。この標は版位のように決まった配置をとる必要がなく、

諸儀式においてある程度自由な配列が羅}籠であることからも臨会などにおける 群臣列立の標識として相応しかったのではないだろうか。そしてまた物理的に 設麗が版位に比して容易であったこともその要因として挙げられるであろう。

おわ夢に

 馨本における版/立は天皇に対して群蓮が拝礼する儀式において綾羅され、そ の中でもその群臣が朝縫に列立する基準(亜型)として使繕されることが本来 的なあり方であった。つまり唐金では「皇帝位葺があるのに薄して日本令では それがないことの解釈にもつながるだろう。そして鋳代が下るにつれて様々な 版位(①型、昼型)が鐵現してくるのだが、群整列立に使駕するという意味で の版位は「天皇への拝礼儀式」に鰻定されていた。蔽毬の使霧が議場(異体的 には朝堂醗)に端紅するというものではなく、「天皇への拝礼」という性鰺の 儀式に封癒したものである。

 それに対して、その勉の儀式で欝欝が列立するために使購されたものが標で あり、群藷列立に霞らず広く標識として痩馬された(璽型)。その意秣で本来 の標は、具体的なモノを指すものではなく、広く一般的な名称として「しるし」

であったのだと推灘される籔。

鑓 罫国史大辞典淫r叛猿」杉奉一樹執筆。罫平城宮第37、3§、鎗、凝次発簸調蓋機  輻達(奈良羅立文姥雛醗究醍、難§?駕〉。機密浩一「嘗代文献に見える鱗授位」

 とその実物」(小鉢行雄博士古稀記念論文集耕行委葵全編罫考古学講考壌軍規駄、

 欝87年)。橋本義轟「朝政・朝儀の展開」(罫平安宮成立史の講究雲壌書房、嬉95  年)。等。

騒 奈震蟹立文化購醗究摂ぎ平駿東長握王邸宅と水簸遥(吉鱗弘文館、露髄年〉。

 註轡前掲橋本論文、補注6。

       一26i一

(26)

行政巻会論集 第葛巻 第3号

麟 尚、ゼ蟹史大群典選r標」(鎗本敬三執筆〉では、江戸時代の史料である『孝購  天皇紀羅纒虚立紡宣命拝舞籔等によむ、標は木製で鱗遜種八分角に作1気長さ  は二尺五丁寸としている。

嶋 註轍表掲橋本譲文。

轍 莚繕蘇揚積出譲文。

{§1尚、匿令集解遜該嶺条が弱く義解説ではr朝賀及祭禮」としている。

鱗 莚繊藩掲摸挫1論文。今泉隆鑑「平城宮大極殿朝堂再講」ぜ古代宮簾の癖究還  吉繕弘文館、欝93隼。駿盤擬g縫隼〉。藤森健太郎「馨本古代元馨鶉賀儀礼の特  質」ぜ古代天皇の轟鐘儀零雛吉鱗弘文館、騰鋳葎。祷出1凝9髄駕)。

麟 莚{マ1前掲今泉譲文。

纈箆敏生r神・薙}へ麟套手儀祐(轟ス縛ア』騰、鵬§恥・儀撫こおけ  る捲手礼は天裁・持統朝より始まり、丸運紀初めころからの儀礼の悪騒イヒの中  で消滅していったという指摘がなされている。

鋤 塗下克墾氏により、単安遷欝以驚、靉靆天皇期の保聡親王に至るまで、釜太  子の正式雀形としての棄富が宮域内の一驚に褻久的1こ設羅さ麓たということが  指接されてお誇、その東宮が現在の大内裏復原纒に見る亜雅院であることを瞬  らかにしている(紅軍安窃墾におけるr東宮ゴとその藤在地について」ゼ古代文  {雛33畷2、i§綴隼)。またこの儀式の議場が茜雅裟であることは藤森鍵太郎氏  により詣篠されている(響儀式選『麺婁式釜における皇太子の歪力受賀儀挙しにっ  いて1麗ヌ代天皇の馨位儀礼遜吉馨弘文館、2縫§奪。祷墨は欝麗蕉)。

嚇 尚、罫延喜式遜式編下「隅雛皇太子受賞」においても、「版繧」が優絹される  こと、そしてそれが版救護遷痘羨ではないことを規定している。

麟 註/辮繭逡藤森譲文。

麟 羅、と。

麟 匿弘仁式壽式薬「銭酢大嘗会」では「置二大嘗盲溝麩緩鐘■一玉津莚毒式癬式部  下「駿群大嘗会」では「大嘗宮南蓬置二皇太子已下。及奏密語藻歌人等級紘4」

 とのみある。 この「奏密語藻歌人等彗疫位」は昼型蔽{立である。

聯 平城憲においては、第二次鵜堂饒から大警官の遺構が検塞されている。謎鱗  麟揚今泉請文。上野邦一「平城露の大嘗宮再考」置建築史学遮隠、欝93隼等。

1辮 大嘗祭に絶しては岡霧精羅農葬大王就経儀礼の原形とその麗麗 一懸盤と大  裳祭一」、む「羅綾儀・大嘗祭をめぐる問題点」(両譲文とも誓古代祭認の史的  醗究遷塙書濤、欝麗隼。擁鐵はaが欝83葬)を参考とした。

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腹癒鰯の腰弱と標の成立(鈴本琢郎)

麟 藤森健太躯「単安藥響位蟻純の譲蓬と特質」(蓼古代天皇の懸盤儀ネ謡吉撰弘  文館、2鋳導年。鱗趨は珍襲駕)。

鱈 熊谷公男r持続の灘魏儀視と「治天下大王」の豪嚢位儀挽」(粕取史続発誰薯逢、

 2曇奪2葎)。

麟熊谷公男氏は律令麟的な懸泣儀純が持統馨を癒難としているとし(註ll額鋳揚  熊谷譲文〉、また大嘗祭に関しては岡遜繕講授1こよる醗究がある艦主1欝藩掲瞬懇  a譲文〉。

灘 註轡薄掲犠畿論文。

鐙董}瞬、と。

懸 熊谷公男「跳伏礼と羅頭政務」(ζ東龍学院大学講集誰歴史学・地理学、諺、

 墨9弱隼)窃 欝 講一島

雛 尚、竃文中には「異二式部式_」とあるのだが、『弘仁式藷1こは見られないが、

 置酒書式壌式部下「豊屑七露叙鮭購宴」には、「又丞録率二史生省掌一。立.標退  鐵。〈叙位機属立之。>」と見えるQしかしこのゼ延喜i式霊の議定は後述するよう  に、蕃客参列鋳以外、つまり遜常の儀式で夏型檬を憂欝するようになったゼ儀  式凄の撰定を反駁しているものと患われる。

難 『丙嚢式違の元雛節会(項慧はr会」〉では、「豊帝受二鄭窪賀一、詑遷二御豊楽  殿一、饗一宴侍臣一、其儀南面鋪.御座一、御座西第二閣設.皇后舞塵一、〈癖  嚢、〉東第二簡設二皇太子窪_、〈蓉面、>次第三・睡翼差購去、設二幾王以下・参  議以一L痩一、〈晦龍露藝上、>」とある。また、講むく豊楽院で行われる十六暮露  激籔会(項欝はr十六馨簗歌式」)でも「供設・儀式一同一元馨会.、ゴとあり元  艮節会瞬様の痙が設けられる。七薮会では露接に座の設護の記事はないが、群  臣が獲に就く藻の作法としてr疑二参議以一L講三人昇_.殿、雛五位已一ヒ・六泣  以下縮共著.甕、」とあ箏、この「殿」が豊楽殿を指すと考えられるので霧玉縁  下参議以一ヒ座は豊楽殿に設けられると考えられる。

懸 橋毒義麟「車安富草麟難の豊楽院」確乎安富成立史の醗究違塙書募、工弱5痒。

 縫銀ま婚雛年)

欝 白馬鏤金銀翼の蕃客を想定している儀式において、踏歎節会では蕃客時の作  法として、「魔羅儀皆購一一ヒ醤一.」としている。このことから踏歌節会において  も蕃客時には至璽標の使講を想定してもよいのではないだろうか。

欝 『廼婁式凄式部下r鴬蔭皇后受賀」においてもr列二立於玄輝霧外一。史生執.

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鴛政社会論集 第焉巻 第3弩

 簿召.嚢五位以上一。〈先.是。参議以一ヒ在二玄輝糀齢鹿下…。〉詑顯鱗入。〈録  立二鵜平門鶴_称二容量_。〉粥二玄輝稽外一。南面濯一と。」とあり、この儀式が朔  平弱と玄輝門の麗の空購で待われることが分かる。

㈱ 橋本義購氏は、これらの標が尋常蔽鼓を基準として立てられたとしており  (註嶺鋳揚論文〉、またゼ蟹史大群輿邊「版趣」でも購様の箆解を示している。し  かしこの鱗からも茎墾標が必ずしも尋常版位を基準に立てられたとは鰻らない。

舗 大纛方克巳「五月五羅簸」ぼ古代蟹家と奪中行事壽志鱗弘文館、1総3奪)。

懸 六翫以下醒の霧辮については『儀式遜1こは記されていない。六猿以下の参入  について「六泣已下入.警二薦稗_、(割注鴎〉於二二幕東、.跳懸西上、」とあること  から、威徳殿と南弱の闘、もしくはその付透に六位以下の纒があると考えられ  るのだが、裁徳殿南門の場醗を復策することが露難であるので、蟹緯では六泣  以下縫を基準に設置される六麺以下の籐の翫置場斬は省賭している。

懸 本稿で整題した史料捻次の刊本によっている。神道大系(ぎ内裏式雲罫儀式麟、

 故実叢書(納裏儀式裏罫涯家次第穂妙齢、睡史大系(蓼令集解講ゼ令義解雲『弘仁  式悉ゼ廼蓄式麟睡本懇懇大系(ゼ律令鉛。尚、醗飯作銭において故実叢書ζ人糞  裏泌考謹選、古代学醸究表編『平安京饗要諜(角鱗書店、欝襲年)を適宜参照し  ていることを{寸記しておく。

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