続・教育行政の地方自治原則と市町村教育委員会
一中津川市教育委員会にそくして・1
森
田道 雄
1.はじめに
筆者は,同名の主題をもつ前編で,現行の教育 行政制度における市町村教育委員会の,主として 法制的地位について考察し,わが国の教育行政が
「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(以 下単に地教行法と言う)によって,実態として著
しく中央集権化され,基礎的な行政単位であるは ずの市町村教委が形骸化されている現状につい くのて,その問題点を掘り下げてみた。その際,戦後 の教育改革,とりわけ教育委員会制度の成立をも たらした旧教育委員会法の意義を評価して,地教 行法といえども前法たる教委法の地方自治原則 を,教育基本法10条1項との関連のうちで教育委 員会制度の基本理念として継承している側面を有
している,との解釈論に立ち,市町村教育委員会 の教育行政機関としての主体的・自律的な行政活 動を確立させる必要性を考察した。
ただし,前編でも注意したように,教育行政の 中央集権化の拠り所となった地教行法の,その制 度理念として地方自治原則を容認するという論理 矛盾を,むしろ批判的に逆用していくといういわ ば技術的な問題にとどめておくことは正しくない であろう。現代行政制度全体からみたとき,教育 委員会という行政委員会制度が地方行政のレベル で採用され,それが中央教育行政とは相対的独自 性をもって組織されている事実は,ほかならぬ教 育行政の組織・作用の特殊的性格も顧慮すること
に由来している。この点で,例えば全国一斉学力 調査にかかわる最高裁大法廷判決(1976年5月21 日)は,「現行法制上,学校等の教育に関する施設 の設置,管理及びその他教育に関する事務は,普 通地方公共団体の事務とされ(地方自治法2条3 項5号),公立学校における教育に関する権限は,
当該地方公共団体の教育委員会に属するとされる
(地教行法23条,32条,43条等)等,教育に関する地
方自治の原則が採用されているが,これは,戦前 におけるような国の強い統制の下における全国的 な画一的教育を排して,それぞれの地方の住民に 直結した形で,各地方の実情に適応した教育を行 わせるのが教育の目的及び本質に適合するとの観 念に基づくものであって,このような地方自治の 原則が現行教育法制における重要な基本原理の一 つをなすものであることは,疑いをいれない」と 述べており,兼子仁はそのコメントで「地方自治 の教育的意味あい(政治的な地方自治ではない)
きまでを明言した」ものと評価している。
教育および教育行政の地方自治という場合に,
単にそれを中央集権との対比で地方分権論一般で 論ずるのではなく,何故に教育行政においてそれ が必要であるのかが教育の本質にそくして論じら れなければならない。地教行法立案に参画した文 部官僚は,同法の理念の第一に「地方自治の尊重」
をあげてはいるが,地方自治体の行政権能は「国 家から附与されたもの」と観念されており,国家 ねラ 権力の後見を必要とする地方自治論であって,前 記の最高裁判決によってのりこえられてしまって いると言えよう。問題は,そのような「地方自治」
論の行政学的克服と同時に,兼子コメントに言う 教育学的構築なのである。そしてそれは,国民(住 民)による主体的な地方自治実践,すなわち住民
自治の創造の努力に依存しているのである。
本稿は,地教行法その他の制約下にあって形骸 化されている市町村教育委員会の中で,教育行政
における住民自治の創造の努力が認められ,かつ その成果を生み出してきた岐阜県中津川市の教育 委員会について考察する。今回はその第一回とし て,同市教委の地域(住民)と学校(教職員)と の協働によってつくり出されてきた,同市教委の 教育行政の基本姿勢を中心に紹介・検討し,以降 に学校行政,社会教育行政,教育計画・財政な どの個別問題の調査・検討をおこなう予定である。
2.対象設定の理由概要
岐阜県中津川市は,県東南端で木曽路に接した 旧恵那郡の産業・交通・文化の中心地で,いわ ゆる 恵那の教育。の拠点といわれる地域であ る。戦後から今日に至る(その戦前のうごきを無 視しえないが)教育実践,教育運動の質の高さと ての層の厚さは全国的にも有名である。また,岐阜県
の教育行政も,公選制期の県教委や,任命制以後 の「教育正常化」などの施策においていくつかの 特徴を有している。すなわち,公選による県教育 委員会には比較的リベラルな行政姿勢がみられ,
一般行政からの独自性を発揮し,予算問題などで しばしば知事部局と対立したし,知事選挙におい て現職知事に対抗する候補者が,県教委関係者か ぐのら出たこともあった。教育界は,教職員組合はも ちろん全体として,地方政治の中における有力な 野党的勢力を形成していた。1956年地教行法が成 立して任命制教委に切り換わると,県教育委員会 の構成が一変し,高校の学区制がはずされたり教 員組合の専従制限条例がつくられるなどし,62〜63 年にかけて「教育正常化」と称する組合切り崩し 工作が激烈をきわめ,岐阜県教職員組合は大きな 打撃を受けた。
中津川市を含む岐阜県教組恵那支部は,その「正 常化」施策に対して唯一組織を守った支部であっ た。この教組運動の根強さは,単に組織的な強固 さではなく,教育は国民のもの地域のものとして とらえ住民とともにそのあり方を不断に話し合っ てきた運動論の正しさである,と評価されている が,その運動論は,教育委員会(地教委)や管理 の
職である校長を敵視せず,地域の教育の重要な担 い手としての側面を認め協力共同の取り組みを追 求する,という点で当時において特異な方針を
もっていた。1958年,県教委が勤務評定実施の計 画を明らかにすると,この地域では地教委連(2 市11町村の教委連絡会議),校長会,PTA,教組 の四者からなる「恵那教育会議」が結成され,勤 評以降も多数の住民参加による教育集会をもちな がら,地域の合意形成のための討論が組織されて
きた。「正常化」に耐えた力は,この教育会議運動 の中にあったのである。地教委はもちろん任命に よっていたが,恵那地域では教育界のまとまりが 固く良心的な人が多く教育長を勤めていた。教育
会議の代表格の議長には,中津川市教育長が就き,
同氏が市長選挙に立候補して教育長を辞した後 は,恵那市教育長が就任している。
この当時の中津川市教育長西尾彦朗氏は,1968 年再び市長選挙に革新勢力に推されて当選し,こ れにともなって,終始教育会議の事務局長であっ た校長会長三宅武夫氏が,西尾市政のもとでの教 育委員長となって,教育行政の民主化に大きな役 割を果すのである。この地域での全体の動きをみ るならば,教職員組合を中心とする地域教育運動 の果した役割が大きいことは当然であるが,教育 行政機関である市町村教育委員会が国や県の施策
に追随するのではなく,良識をもって地域の教育 に責任を負おうとする立場に立ったことは重要で ある。とりわけ中津川市の場合,起伏はあったが その点でもっとも多くまた質的にも,地域に目を むけその実情にそくした教育行政を行なおうとす る努力が認められるのである。このような事例は 全国的にみても数少ないと考えられる。
3.中津川市と同市教委の教育行政姿勢の 特徴
中津川市は,1952年恵那郡中津町と苗木町の合 併によって市制を敷き,以来坂本村,落合村,神 坂村などを加えて,現在では人口約五万人,小学 校8,中学校7,市立昼間定時制高校1がある。
古くから中山道の宿場町として,また木曽を含め た商業の中心地として栄え,裏木曽の木材や豊富 な河川を利用した製紙などの内陸工業も興って,
「日本経済の縮図のような形の産業構成」を示し くマンているとも言われた。明治維新には,反幕府の国 学運動の拠点の一・つであり,自由民権運動も盛ん で,この地域には「反権力」の気風がある,とも 言われた。戦後、全国的に新教育がもてはやされ た頃,恵那の教師たちは地域の現実を見つめ戦前 の教育を反省するとはどういうことかを模索し ながら,その新しい教育を生活綴方教育に求めた。
1952年には作文教育全国協議会(日本作文の会の 前身)の第一回大会がこの中津川に開かれ,再建 間もない教育科学研究会が地域調査を行っている
(注7参照)。
1948年はじめて実施された県教育委員選挙で,
郡校長会長であった西尾彦朗氏が選出された。氏 は恵那地域の教育界の文字通りの中心人物で,戦
前郡下蛭川村で村民との対話を重視した全村学校 型の独自の『興村教育の経営』実践をおこなって いる。中津川市教育委員会は,市制施行の直後に いわゆる「一斉設置」によって1952年発足した。
教育委員候補者は地域代表のような形でしぼられ てしまったために無投票によって決められてい る。当時,市(町)政は旧来の「旦那衆」といわ れる保守的な実力者によって握られ,新制中学校 くの 設立に際して住民に過重な負担を強いるなど,教 育行政に無理解であったが,教委発足以後はしば しば予算折衝において教育委員会法に依拠した教 育委員会側に有利に展開した。それでも地方財政 全般がきわめて逼迫した状況に変わりはなく,み
るべき行政の成果をあげえなかった。教育委員会 議は,当時の議事録をみると,委員に住民代表と いう自覚がうかがわれ,教育長などへの質問が活 発でそれなりに実質的な討議がおこなわれてい て,任命制期とは異なる雰囲気であったことが推 測できる。
さて,56年任命制教委になって,県教委は総入 れ替えとなうたが,西尾彦朗氏は急死した前教育 長の後任として中津川市教育委員会に迎えられる ことになった。これは,市長といえども県教育委 員としての実績をもちこの地域の教育界の中心人 物を無視しては教育長の選考にあたれなかったた めである。この西尾教育長の時代に,恵那教育会 議がつくられ,氏が後に市政に関係する契機と なったのである。これについては次節でさらにふ れることにする。
62〜63年にかけて,中央政界に直結する知事と
「天下り」文部官僚をブレーンとする県教委,そ れに結びつく地方の保守勢力の一体となった「教 育正常化」施策は,岐阜県の教育行政をきわめて 党派的なものに歪めた。県教委の地方事務所が統 合強化され,行政・管理職と教職員が対立させら れるか,もしくは行政の側に「吸収」される状況 が一般化した。教緯が壊滅的な打撃を受けたとこ ろでは,さらに進んで県教委の「指導」の枠内で それぞれの「独自」の施策を,管理主義を徹底さ せる方向で行う事例もあらわれた。文部省の奨励 による地教委統合がいくつか計画化され,一カ所 でそれが実現している(これについては前編でふ
れた)。
一方「正常化」が不首尾に終った中津川市にお いては,そうした党派的な動きに対する住民の批
判が高まり,教育運動が組織的な力を拡大し,地 方自治への革新勢力の進出をもたらすことになっ た。西尾彦朗氏は,60年市長選では敗れたが68年 にはこのような勢力の支援を受けて勝利し,県下 初の革新市長となり,労働運動出身者や前述した 前教育会議事事務局長を教育委員に送りこんだ。
三宅教育委員長の時代になって,中津川市教委の 教育行政姿勢は,基本的には民主的な方向に転換
し行政機関と学校が一体となった活動が多面的に 展開されることになった。特に,60年代後半期以 降において,恵那地域の教育実践が全国的な注目 を集め,地域にねざした生活綴方教育が学校をあ げて取り組まれるという状況になっていくと,そ れが地域への影響力を強め,中津川市全域で社会 教育的な意味も含んで「市民参加」を標傍する西 尾市政を下から支えることにもなったのである。
70年,全教職員による中津川市教育研究会が発足 し全市的に教育実践の自主的な取り組みが強化さ れ,71年には市立教育研究所が設立された。72年,
西尾市政は無投票で二期目を迎えた。教育行政の 面では,学校での自主的な教育実践を支持後援す るだけでなく,神坂地区の越県通学問題の解決策 の模索,市行政における幼保一元化への条件整備 などの懸案の課題への積極的な取り組みがおこな われるようになった。74年には,中津川市教育市 民会議が結成され市民参加の教育行政の上で画期 的な発展をみせた。
しかし,ここ数年来このように全国的にも注目を 受けてきた教育実践と市教委の教育行政姿勢に対 する政治的圧力が強まっている。生活綴方教育が 学力低下をもたらす偏向教育であるという非難と ともに,学習指導要領から逸脱した教育を許して いる教育委員会に責任を問う,という主張が市議 会の中で行なわれるという事態もおこった。77年
7月には,野党の反対をおし切って岐阜県議会で
「教育正常化要望決議」が採択され,県教委及び その地方事務所を通して強力な「行政指導」の名 による教育への干渉がおこなわれた。同じ恵那地 域の中での恵那市では,卒業式で「君が代」斉唱 が市教委によって事実上強制されるという事態も のあらわれた。中津川市教委は依然と学校の自主性 を尊重する立場を保持しているが,政治的にむつ かしい状況に置かれていると言える。
4.教育会議における教育委員会
教育委員会が参加した「教育会議」運動は,以 上の叙述の中でふれたように1956〜62年の恵那教 育会議と,74年から今日に至る中津川教育市民会 議があり,両者ともに教育行政機関としての市教 育委員会の参加がきわだった特徴となっている。
中津川市教委の行政姿勢を検討する際の中心的な 問題がここにあると言えよう。(なお以下の叙述で は,前者を教育会議,後者を市民会議と略記する。
また,地教委とは旧教委法時期の用語であるが原 資料に用いられているので市町村教委の意味で使
用する。)
まず,勤評問題を契機につくられた教育会議は どんな要因で成立しえたのであろうか。一つは,
勤評に反対の立場をとる教員組合が全国的な統一 闘争という戦術をとらずに,独自の運動方針を
エゆもっていたことである。もともと,岐教組恵那支 部は任命制教委への転換という事態に対する方針
として各市町村に教育会議を設置させる課題を提 起していた。それは教育基本法,特に第10条の精 神から,教育行政の具体的あり方として「真に国 民的立場において執行する任務を有する各市町村 教育委員会の責任で,憲法ならびに教育基本法の 精神にもとづき,各市町村ごとに設置させるべき 教育問題審議機関である」と教育会議を構想し,
それは「各市町村の教育関係者,教員,校長,P TA会員というようなものをとりあえずその内容 とし,議会文教委員,各種団体,一般市民の代表 者によって構成され,あらゆる教育問題について 話し合いをおこない,国民的立場に立つ市町村民 の意志と要求の統一をはかる機関として,恒久的
く り
なものとし」て組織する,というものであった。
勤評問題は,この方針の具体化をはやめるものと なったのである。すなわち,勤評実施を強行する 県教委に反対するために,地教委や校長という行 政・管理職を,地域・学校の教育に責任を負う代 表者としてみたて住民を含めて一体となった反対 運動にとりくもうとしたのである。
したがって,もう一つの要因は,恵那における 多くの行政・管理職が県教委の勤評強行に対して 不信や批判の態度をもち,教育への権力的介入を 教育者の立場からこれに反対の意志を良心にした がって表明した,ということである。住民の中に
は「いい先生もいればおぞい(よくない)先生も いるから」という素朴な勤評賛成者も少なくな かったが「教育の現場に混乱が生ずれば子どもが 犠牲になる」として,教育会議における行動の一 致点がつくられた。こうして教育会議は,中津川 市教育長が議長となり,校長会長が事務局長,連 合P TA会長・教組支部長が常任幹事という構成 で結成されたのである。恵那における教育会議運 動は,勤評実施を阻止することはできなかったが,
それ以降むしろ地域住民の多数参加する教育集会 を何度も行うなど地域に根をはった活動を五年に わたって継続させた。
勤評問題が主題であった時期までは,教育会議 は上記した四つの構成団体の代表者による戦術会 議としての色彩が強かった。いかに教育長個人が 勤評に対する批判的見解をもっていたとしても,
地教委としては県教委との関係上「反対」の立場 を堅持するだけの力関係にはなかったのである。
58年11月,県教委の4月実施の計画から半年遅れ たが,教育会議は「悲涙をのんで,子供を守り抜 こうことを根本において」妥協の道を選んだ。校 長は「差別し難し」と全員Bを記入して提出し,
教組は「勤評強行の本当のねらいを,教育会議に よる地区の一致した歩みで達成させぬことが評定 書の紙よりも大切だ」という態度をとって,教育 ほの
会議の「統一」を守った,とされている。したがっ て,教育会議運動はむしろ以後において活発化し,
激論をかわしながら「めあて113ト規約」を定め活版 の機関紙を出し,年2回の総会と千名をゆうに越 える地区別集会,無数の枝下・部落の小集会を組 織していったのである。
その活動形態と具体的内容はまったく多様で あって,それだけを対象にして地域教育運動論と してだけでなく教育法社会学的な研究が必要とさ れるが,地教委の行政活動にとってもった意味に ついてだけ,ここでその要点をまとめておきたい。
第一は,既にふれたことではあるが,任命制教 委ということで多くの教育委員会が自主性を失っ たが,この地域では中津川市をはじめ,地教委は 地域の教育に関する行政上の管理責任をもってお
りその責務は文部省や県教委に対して,いわんや 政治勢力に対してではなく,教職員と一体となっ て地域住民に対して,子どもに対して負っている との認識を,教育委員会の見解としてもっていた ことである。中津川市教委の場合,教育長として
の西尾氏個人の一定のリーダーシップに依拠した ことは否定できないであろうが,教育委員会が四 者の一角を占めて運動に持続的に参加してきたこ とのもつ意義は大きいと言える。教組との共同行 動という場合,教育研究集会を共催するとか,教 育界がこぞってある候補者を選挙で応援するとい うことの実績がこれまでにあったことに留意すれ ば,地教行法による任命制教委への転換は,教育 界分断の手斧の役割を果したのであるが,教育会 議はその分断を阻止するためのものであった。
第二に,教育会議は教育委員会として,教育行
政への住民・教職員参加を制度的に保障するとい うところにまでは至らなかったとしても,実質に おいてそのような役割を一定程度に果してきたこ とは重要である。勤評以後の教育会議運動は,県 教委などへの条件整備の陳情をおこなうほか,活 動の主体は大小様々な集会にあり,そこでは主に 教職員・学校と親・住民の対話集会,相互交流の いわば「教育の広場」であった。しかし,そこで は同時に,あるべき教育行財政のあり方も議題に され,市町村の教育予算や父母負担の問題,高校 増設をいかに推進していくか,といった点での地 教委と住民・教職員との問での意見交流もおこな われていたのである。これは,具体的にどのよう な成果を生み出したのか,ということで厳密な評 価が必要であるが,これは後日とりあげてみたい
と考える。
第三は,そのことと関連して,教育会議がどの ような要因と過程で「崩壊」していったのか,とい う点での問題である。教育会議運動は,それが行 政や管理職を含む教育界ぐるみの運動から住民を 含む地域ぐるみの運動へ発展したために,県教委 や保守勢力には座視できないものとなった。この 運動の前進を阻むために打たれた手は,教育会議 の要求する高校増設問題を逆手にとって(1962年
という時期に注意),市町村長や議会関係者などか ら成る教育振興会議をつくりこれに地教委や住民 の一部を参加させ,「県にタテをつく運動の要求に は応えない」として,教育会議の中に分断をもち こんだのである。振興会議も高校増設を要求する とすれば,行政機関として地教委はその課題に関 する限り歩調をそろえなくてはならない。こうい う論理で地教委に対する軍揺さぶり。がかけられ,
他方で「教育正常化」の名のもとに,日教組は革 命団体であり,公務員規律とあいいれない,とす
る教組非難をおこなって住民の中に対立をもちこ んだのである。教育会議は,結局この「正常化」
施策によって分断され崩壊したのであるが,そこ には運動の主体的力量の未成長(特に住民の中で)
があるにしても,政治的圧力や財政上の問題とい う,教育行政制度において本来的に守られねばな らない教育委員会の自主性が侵されたところがら 突き崩されている,という点で教訓的である。地 教行法という枠を前提とする限り,これは必然的 な結末であったと言えなくはない。
しかし,第四に,あえて総括的に教育会議を評 価するとすれば,次の西尾教育長の発言に要約さ れる問題であると考えられる一「私たち教育行 政に関係しているものとしては,問題を恵那だけ で解決して,恵那だけで天国をつくってはおれな いのです。それは校長会でも,PTAでも同じだ。
行政機構というものがあり,どこまでが上の行政 につながり,どこまでが地域の特殊性としてやっ てゆけるか,その限度はどこにあるか,この地域 の運動が進むほどに,問題はそこにしぼられてく ユのると思います。」地教行法の体制が,その地域の 自主性(それは教育の自律性を含むものである)
を侵害するものとして作用したことは,いかにそ の法理念に「地方自治の尊重」があると説教して みても事実に反することになるのである。しかし 同時に,その地教行法をのりこえて,運動が進展 する余地があることも,この恵那教育会議の経験 は示している。
〔教育市民会議における発展〕
前記の教育会議は62年に「崩壊」したのではな くて,そこで一時中断し,74年に再び甦ったと言っ てよい。その中津川市民会議の内容については既 ほらきにふれたことがあるので,教育会議と比較した市 民会議の特徴について簡単にふれておく。
第一は,市民会議の発足は,西尾革新市政二期 目の中での全市的な教育への関心の盛り上がりの 中で推進され,市民参加の市政という自治体行政 の基本方針に合致したものでもあった,というこ とである。それは,十年以上の前の教育会議運動 の経験を十分にふまえているのであるが,市政自 体がその基本的な点で住民自身が主体的につくり 出したものである,という点が大きく異なってい
る。
第二は,構成団体が最大限に拡大されて,市教 育委員会を頂点に,市内の幼保・小・中・高校や
PTAなどの団体はもちろんのこと,およそ子ど もの教育と福祉にかかわる団体を,公的機関と民 間の自発的なものとを問わずわけ隔てなく総数で 112団体を網羅したことである。
第三は,市民会議と名のっていることに示され るように,自治体を単位として組織されているこ とであり,恵那地域ではこの時期に,中津川市に 続いて坂下町,上矢作町,岩村町などでも同様の 教育町民会議が発足している。これは第一の点と 関連がある。
これらのことから,その活動形態においても教 育会議の場合は集会を中心にしたカンパニア的な 活動が多かったが,市民会議の場合は町内会とタ イアップした地域子ども会の組織づくり,毎月五 の日を「子どもの教育を考える日」と設定し,環 境整備や親子読書などの実践的な行動を広く市民 に呼びかけるなどの日常的な事業活動が,全市的 に展開されるようになったことである。市民会議は ほゆ「めあて」で言うように,話し合いにもとづく協
力共同の場をつくりあげる市民運動体であるが,
教育委員会のこれへの参加はこの「地域ぐるみの 子育て運動」を持続化させる体制的保障を意味し ている。また,市民会議に結集された教育行政へ の要求がその場で教育委員会に伝達され行政施策 の中に反映できるよう必要な措置がとられること は言うまでもない。この点では,障害児の学習権 保障をめざす「言語障害児の治療教室」「難聴児学 級」の開設,重度障害児の特殊学級受け入れなど の成果が生み出され注目されている。
市民会議運動の着実な成果とともに,部分的な がらそれに対する干渉が政治的なうごきとして強 められていることも事実である。しかしそれは,
教育市民会議の教育的影響力の証明でもあること は間違いない。筆者はかって「このような地域的 な教育関係諸団体・機関の,統一した 教育意志。
こそ,いわゆる 地域教育計画、の立案・推進主
く の体にふさわしい」と述べたが,その評価にはいさ さかの変更も必要ないと考える。
5.小括・中津川市教育委員会の自主性と行 政責務
1968年西尾市政の実現によって,教育委員会の 基本姿勢には明らかに「市民参加の教育行政」と いう点での一貫した努力が認められる。以上にふ
れた教育市民会議はその典型的な事例であるが,
ほかに,これまでのいくらか形式的な教育委員の 学校訪問を,全職員との対話集会にするとか,近 年始められた校区ごとに開催される「移動教育委 員会」と称する住民との直接的な対話集会などが 注目されよう。市民会議を含めて,いわば直接民 主主義的な行政参加のあり方が重視されているの が特徴である。教育委員会における「教育行政への 住民参加」という場合に,教育行政理論としてつ めなければならない課題が他にあろうとも思われ るが,形骸化が一般的状況としてある市町村教育 委員会としては画期的な試みであると言わなけれ ばならない。
教育委員会の独自の行政的責務として重視して いる課題は,市民の教育要求への積極的対応を柱
としての,越県入学問題,幼保一元化問題,障害 児教育の充実,校外の子どもの自主的活動の保障,
教育内容と方法の向上,社会教育問題などがあげ
くユのられている。これらは,市教委の教育行政計画と して描いている 文化学園都市構想。につらなる ものであって,この点の現状分析と将来計画につ いての検討は次回の課題としたい。
中津川市教委の学校行政の特徴は,学校の自主 性を可能な限り尊重している点にあり,それは,
恵那の教育。と言われて全国的に知られるこの 地域の教育実践の高い水準に依拠していると言え よう。 教育の荒廃 と言われる深刻な事態を克服 していくためには地域にねざした教育を学校の自 主的創意でつくり出していく以外にない,との見 解が表明されているのである(注18参照)。市議会
において,生活綴方や地域子ども会は学習指導要 領の根拠がなく学力低下をもたらす偏向教育を市 教委はなぜ許しているのか,との追及を受けたが,
教育長は前記の見解を重ねて表明し,学校の自主 く の
性を擁護する姿勢を崩さなかった。
もちろん以上の考察は,評価できる課題に限定 されているのであって,問題点がないわけでは決 してない。むしろ,市民参加の教育行政を実質あ るものとして推進していくうえでの教育委員会の 主体性を自治体行政全体の中に反映させていくう えでの地方財政上の制約や,教育委員会事務局の 職員の人員と専門的力量の制約が指摘される。さ らに,学校の自主性を擁護するうえで,教員人事 権の実質が県教委に握られ,特に管理職の選考や 配置において市教委としての主体性が意図的に妨
害される,という点も重大な問題として存在する のである。
また,市教育委員会の構成(任命)において,
住民自治的なあり方が東京都中野区で準公選条例 化という形で改革が進められていることに比べれ ば,制度的な面での民主化という点でまだ検討の 余地が残されている。教育委員会議そのものの内 容と運営においても,公開制や実質的な討議の保 障という点でもやはり改善すべき課題が指摘され
よう。しかしそれらは,一朝一夕で改革出来うる ものでもなければ,又現行法制上の桎梏に由来す るものであって根本的な解決には困難な課題なの である。市民会議方式の住民参加や学校の自主性 の尊重などにおいて立場や見解の相異を,話し合 と一致点に基づく行動によって止揚,統一するこ とを重視した実質的な改革が,恵那地域の教育運 動の特質であって,教育行政の住民自治と教育委 員会の主体性を創造していく上での重要な経験で あることには間違いないものと考えられる。
個別の具体的問題については継続課題として他 日を期したい。
〔注〕
(1)拙稿「教育行政の地方自治原則と市町村教育委員 会」(名古屋大学教育学部紀要一教育学科一第25巻 1978年)これは筆者が本稿を含めて継続予定の市町 村教委の実証的研究の総論部分に当たる。
(2}兼子仁「最高裁学テ判決の読みとり方」(最高裁判 決文も含めて,『季刊教育法』21号 1976年秋季号 総合労働研究所)P.95
(3)前掲拙稿,木田宏『逐条解説地方教育行政の組織 及び運営に関する法律』(第一法規 初版1956年)参 照
(4)拙稿「恵那地域における国民教育運動の展開」(名 古屋大学教育学部紀要一教育学科一第23巻 1976 年)でふれたことがある。
(5)西尾彦朗『戦後の岐阜県教育十年史一公選教育委 員の回顧』(日本教育新聞岐阜支局1957年)をみると,
教育予算二本立と高校学区制が主たる対立点であっ た。なおレッドパージは公選制教委の汚点とされて いるが同書にはそれに関する記述が見当らない。し かしその犠牲は他に比べ最小限におさえられてお り,県教委が公選期においてりベラルであったとい う評価は総じて正しいと考えられる。
(6)大田尭「国民の教育を支えるもの一岐阜県「教育 正常化』問題と教師の思想」(国民教育研究所『国民 教育研究』38号 1967年4月 所収)参照
(7)教育科学研究会中津川調査報告より,大内力,塚 本哲人「恵那の社会一社会構造と人間関係」(「教育』
1952年8月号)P、44
(8)拙編「新制中学建設後援会(岐阜県中津町)に関 する資料」名古屋大学教育行政制度研究室 1979年 参照。
(9)さし当っては,教科研・「教育正常化」問題調査委 員会・予備調査班による「調査報告・恵那市におけ る「教育正常化』問題一卒業式への君が代・日の丸 導入の問題を中心に」(『教育』1979年3月号)参照。
同報告では県議会「教育正常化」決議についてもふ れているが,こうしたあらわれは単に岐阜県に特殊 的におこっている問題ではありえない。全国的背景 をもった,いわゆる「第二次正常化」とみることが できる。
⑳ 教組の運動方針としてみれば,岐阜県教組恵那支 部「運動方針の転換と勤評闘争」(『教師の友』1958 年5月号)同「民主教育をかためるための方針」(同 1958年11月号)に詳しい。
qD 教育会議の構想は,58年3月の時点で恵那支部で 議論されている。石田和男ほか「現地座談会・恵那 教育会議をめぐるその理論と実践(上)」(『教師の友』
1959年12月号)P.23より重引
(12)恵那教育会議編『地域の人々と共に一恵那教育会 議三ケ年の歩み』(小冊子 1960年8月刊)より。当 時,この恵那方式という教育会議運動に対しては高 い評価とともに,全国の統一行動からの 脱落 に よって守られる地域の「統一」に疑問を呈する主張 もあった。一つの例として,講座教育第3巻『国民 と教育』(青木書店 1959年)所収 矢川徳光「国民 教育論」 西滋勝「当面する国民教育運動論の問題」
参照。
q3)全文は次のとおり 「めあて
子どもたちの健やかな成長をねがう私たちは,
このねがいをつらぬき通すため,恵那の地の教育の 実を挙げるために,つぎのことを共通のめあてとし て,みんなで話し合い,みんな分りあい,みんなで 力をあわせて,共々に歩を進めたい。
憲法や教育基本法や児童憲章に示されている教育 の精神,大綱,観念などを家庭,学校,社会の現場 に確立し日常生活の中に具現する。
このために私たちは,常に高きを求めて,絶えざ る研修を続けると共に,外からの不当な圧迫に対して は,公正なる民意の結集によって,きっぱりとこれ をおしのけて,恵那の地の教育をゆるぎないものに したい。
けれども,このために無理強いや,押しつけで夫々 の自由を侵し弛り,夫々の立場を無視して分りあう までの話しあいを打切るの愚をしない。」前掲注12の
小冊子より。
(1心 西尾彦朗ほか「現地座談会・教育基本法の精神を いかす道」(「教師の友』1960年3月号)P.39 q5)拙稿「教育および教育行政における住民自治論と 地域事概念」(名古屋大学教育学部紀要一教育学科 一第22巻 1975年)
㈲ 全文は次のとおり 「めあて
わたしたちは,地域の未来をつくる子どもたちが,
児童憲章に基づいてしあわせに成長することをねが います。
わたしたちは,憲法・教育基本法・児童福祉法の立 場による教育・福祉を,この地域に具現することを めざします。
わたしたちは,子どもの教育・福祉に直接責任を 負う人々の意見をだいじにし,それらの機関・団体 の結集をはかり,公正な民意の集約と反映につとめ ます。
わたしたちは,それぞれの独自な立場を尊重しあ
い,納得と一致点に基づいて,協力と協同の場をひ ろげ,共通のねがいの実現のためにつくします。」原 資料による。
注13にあげた「めあて」と並べてみると,共通の 精神とともに市民会議における発展がよく把握でき よう。
(17)前掲注15 P.187 なお,藤岡貞彦・中内敏夫「教 育計画の主体と課題」(講座日本の学力第4巻「教育 計画』日本標準 1979年)P.26以下には同旨の観点か ら市民会議を評価する叙述がみえる。
(1④ 渡辺春正「自治体行政に住民の教育要求をどうい かすか」(日本教育法学会「地域住民と教育法の創造』
学会年報第4号 1975年)同「教育課程研究の計画 化一岐阜県恵那地域の場合」(前掲『教育計画』所収)
による。氏は中津川市教育長の現職にある。
qg)「だれのための教育委員会」(『月刊教育の森」1978 年11月号 毎日新聞社)中の,勝野尚行「教育正常 化決議と地方教育委員会」参照のこと
一1979. 9. 10一
A Study on the Principle of Local Autonomy and Boards of
Education
Michio MORITA
InpostworldwarII Japan,oneofthemostimpo貢antprinciplesineducationadministrationrefomisthat
the people themselves should take the intiatlve conceming the local education.The l㏄al autonomy was adopted and boards of education system was established、
But the refomlation was changed bジt Organizations and Conducts of L㏄al Educational Authorities Act
(1956).The principle of l㏄al autonomy in educational administration was not realized,if the people did not sustain the l㏄al boards.This paper is the case study on the movement of the people(inhabitants).