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「近代フランス教育思想」の平等原理

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「近代フランス教育思想」の平等原理

荻  路  貰  司

 「能力主義教育」の是非が問われている今日,

それに対する批判原理を近代思想の中に求めよう とする動きがある。そうした中で,「能力選別」を 否定する主張として注目されたのが「近代フラン ス教育思想」の平等原理であった。①

 この原理が現代教育の批判原理となり得ると考 えられたのはなぜかと言えば,それは次のように 解釈されたからだと言えよう。

 〈感覚論の上に築かれた「近代フランス教育思 想」では,人間は白紙の.「精神」をもって生まれ てくる存在と措定される。このことは,人々の間 に不平等を生じさせる原因が教育だということを 意味している。したがって,もし同じ教育が全て の人に施されるとすれば,彼らは平等になること ができると言える。〉②

 ところで,こうした平等原理解釈が教育運動に おいて一定の役割を果したことは認めることがで きる。しかしながら,白紙の「精神」の存在を語 るだけで「近代フランス教育思想」が「能力選別 と教育の多様化」を否定していると判断すること はできないであろう。

 なぜならば,その「思想」においては,「精神」

(esprit)の外に「魂」(ame)なる先天的能力の存 在が人間の中に措定されており,その「魂」は彼 の生存全般に直接関わる能力として「精神」に知 識を供給する役割を担わされている。③そのため,

平等原理が展開されていると主張できるためには,

その力が全ての人に対して等しく備っていること が明らかにされる必要があるからである。

 本論文において,私は,「近代フランス教育思 想」の構造分析を通してそれが有していた歴史的 使命を探ると共に,そこで展開された平等原理が 従来言われてきたように「能力主義教育」の批判 原理となり得るようなものであったかどうかとい

うことを明らかにしょうと考える。

 ところで,ここで「近代フランス教育思想」と は,感覚論の上に展開されており,そのため「平 等原理を提供する近代の典型的思想」とみなされ

てきた次の三人のフィロゾーフ,コンディヤック,

エルベシウス,コンドルセの思想を指すものとす

る。

 まず,この「教育思想」がいかなる認識論の上 に展開されているか見てみよう。

 感覚論の創始者であるコンディヤックは,「物体 が目の前に存在する時私たちは感覚を通してそれ を知る。また,目の前にない時,感覚の記憶によ ってそれを知る。それら以外に私たちは物体を知 るための方法をもっていない」④として,人間が感 覚を通して知覚する以外の一さいの事柄を認めな

いという認識論的立場に立った。

 このことは,エルベシウスが述べているように,

「(人間の)精神が,魂ないしは感覚能力の活動の 結果であり」,⑤「(その活動によって得られる感覚の 表象形態としての)観念の集合より成り立つ」⑥

と措定されたことを意味する。

 私たちは,この「精神」についての規定を,「近 代フランス教育思想」の第一テーゼとしてとらえ

ることができよう。

 では,このテーゼはいかなる意味をもっていた のであろうか。

 まず,感覚にその源をもたない先験観念と,そ の観念に依拠してきた神法とが,「人間精神の限 界を越えた願望」⑦の産物としてその不当性を宣言 される。それに伴い,神法に自らの根拠を置いて いた封建道徳と国王支配とが,自らの支柱を失い 原理的に崩壊する。そして,その後には,身分制 から解放され自由な身となった人間だけが残され ることになる。近代の人々が望んでいた「自由で 平等な社会」の理念的誕生だと言えよう。

 では,次に,「魂」しか備えて生まれてこないと される人間がその社会の中でどのように行動する と,また,自らの「精神」を何によって統合して いくと考えられていたかを見てみよう。

 それについては,「感覚が快ないしは不快の感 を伴っていて」曾その感は人間にとって行動への 欲求となると共に自らが「精神」を観念の連鎖に

(2)

によって形成していく時の核にもなる,と述べら れている。⑨

 このことは,エルベシウスが語っているように,

「人間の原動力が彼の有する肉体的快・不快だ」⑭ と措定されたことを意味する。

 これが第二のテーゼである。

 このテーゼはいかなる意味をもっていたのであ

ろうか。

 まず、人間の全活動が「魂」以外の能力(例えば,

ロックの「反省」能力等)⑪の存在を措定することな く説明されることになる。そして,その結果,人 間存在全体が快・不快という利己性の観点からの みとらえられるのである。欲求追求を目指して行 動する利己的人間の理念的誕生を意味している。

この誕生によって,人間の自己生存権保障機関と しての近代社会は自らにふさわしい近代的人間像 を手に入れたと言える。

 以上見てきたことから,私たちは次のように結 論付けることができよう。「近代フランス教育思 想」は,認識論として感覚論を採用することによ って,教育論を展開していくのに必要な,自由で 平等な理念的社会とこれまた自由で平等な理念的 人間とを手に入れることができたと。

 では,次に,教育論がどのように展開されてい ったか見てみよう。

 まず,教育がなぜ必要だと考えられたかから明 らかにする。

 新しく生まれる人間は「魂」だけを備えた感性 的人間だとされた。彼は肉体的欲求によってのみ 動かされる自動機械,すなわち「人間機械」だう たのである。⑫したがって,自らの肉体の命ずるま ま動き,その活動範囲は動物と変わらないほど限 られていた。ところが,●近代社会で生きていける ためには,その社会の原理である「利己性の飽く なき追求」のため,自らを取りまく全ての事柄に 対して欲求を抱くと共に,欲求充足の手段の選択 において合理的な判断を下すことができなければ ならなかった。したがって,本能的能力である

「魂」の活動範囲を広げ近代人の「理性」にまで 育成する教育が必要だと主張されたのである。

 次に,その教育について見てみよう。

 人間の「魂」は感覚と欲求とを同時に感じること のできる能力だとされていた。感性的人間にあっ ても,両者は同時進行的にまた相互規定的に受容 されていたのである。ただ,互いに原因となり

結果となる相互作用によって共に限りなく拡大発 展していくことができるようになるためには,彼 の関心が肉体的欲求以外のものに向けられなけ ればならないと考えられた。そのため,教育では,

「魂」に潜んでいるこの無限あ完成可能性⑬を発 展させることを目指して,「魂」の活動範囲を肉体 的欲求以外に広げるのに役立つ魅力的でかつ有用 な数多くの知識が彼の「精神」に対して詰め込ま れていくのである。そして,詰め込まれた知識の 量が彼の完成の度合を示すことになる。

 私たちは,ここに,知育万能主義の主張を見る ことができよう。

 また,この知識の注入は,「魂」を「理性」に高め ることができるものとされた。なぜならぱ,この知 識とは人類の文化遺産としての「言語」であり,

人間はこの「言語」を道具として物事についての 分析と推論とを行うことができるようになると考え

られたからである。⑭

 ところで,教育において教授される内容は具体 的には何だったのだろうか。

 それは,まず第一に,当時の社会において最も 進んだ分析的言語であるとされたフランス語(の文 法)であった。そして,次に,これまた有用でしか も当時最も分類整理された知識とみなされていた 科学・技術知識だった。更に,文化・政治・経済

・道徳など人間の生活全般に渡る人類進歩の過程 を示す歴史知識が含まれていた。⑮

 私たちは,これらの内容が,フランス啓蒙思想 の最大の仕事である「もろもろの科学・技術・工 芸の分析的(合理的)辞典」⑯としての「百科全書』

に含まれていた知識であって,当時の知的エリー トであるフィロゾーフが社会の進歩と人間の完成 のためには是非とも教育しなければならないと考 えたものだったと言うことができよう。

 以上のことから,私は,近代人育成のためのこ の教育論が,利己的活動に役立つ有用な知識を教 授することによって近代社会での全ての人の完成 と生活向上とを達成することを目指して展開され たものだったと判断する。

 この教育論のもつ重要な意味は,それが「魂」

を備えた人間一般を措定し,その彼に対して教育 を行っていることにある。なぜならば,「魂」を備 えた人間一般の措定は人々の間の能力の平等を意 味し,また,教育がその人間一般を対象に行われ るということは彼らの受ける教育が平等なもので

(3)

あることを意味しているからである。そこには,

全く不平等の生じる余地はなく,完全な平等原理 が働いていると言えよう。

I l

 ところが,「近代フランス教育思想」には,以上 の解釈を否定しているように思える次の主張が見 い出されるのである。

 すなわち,コンディヤックによれば,「全ての人 が等しい力で,また,等しい量で観念を連合する ことはできない。したがって,想像力と記憶力とは 全ての人に対して等しく与えられていない」⑰とさ れる。そして,コンドルセにいたっては,「例え平 等な教育が行われたとしても,生まれつき恵れた 素質の持ち主の優越性を増大させないわけにはい かない」⑱と語られるのである。

 以上のことは,人々の間には「魂」における能 力差が存在していて,それは教育されればされる ほど顕在化し人々の間に不平等を引き起こす⑲と 考えられたことを意味する。

 したがって,前節で行ったような解釈はできな いことになる。

 しかし,感性的人間段階では平等な存在だと考 えられていた人間が教育されればされるほど不平 等になっていくとされているのはなぜなのであろ

うか。

 それについて見れば次のようになる。

 感性的人間とは自らの行動を肉体的欲求充足に 直接関わる事柄にのみ限られた存在であり、彼の

「魂」はその限定された範囲内でしか働くことが なかった。そのため,能力差が存在していても,

その差は完成可能性と同様に潜在化したままであ り同胞との間に差を生じさせはしなかった。とこ ろが,教育によって完成可能性が開発され「魂」

の活動が拡大していくに従って,それまで潜んで いた能力差がその姿を現わし他者との間に不平等 を引き起こしていくことになる,とされるのであ

る。

 では,教育が人々の間に不平等を生じさせるこ とがわかっているのになぜ教育を行うことが主張 されているのであろうか。

 それは,教育が,一方で人々の間の能力差を顕 在化させ不平等を引き起こすという働きをしなが ら,もう一方で「精神」の充実とそこでの平等を

達成し彼らの完成可能性を発展させることができ ると考えられたからに外ならない。

 それについて見れば次のようになる。

  「人間精神の歴史は,私たちが教育において従 わなければならない順序を提示している」⑳として,

教育が人類の永年の遺産である文化をその歴史的 成立過程にそった形で人間の「精神」に与えてい く方法を取ることが主張されている。このことは,

人間の発達過程が人類の進歩の過程とアナロジー されて,人間は全員人類の後を追っていくことに よって自らを完全に発達させることができると考 えられていたことを意味する。したがって,例え 能力差が存在していても,この方法に従うならば 全ての人が人類の遺産である文化を自らのものと し同じ「精神」の充実を手に入れることができる ということになる・そして,その結果,彼らは「魂」

の活動範囲を広げ自らの生活を向上させていくこ とができるものとされるのである。

 だが,私たちは,こうした「近代フランス教育 思想」の判断が間違ったものであることを明らか にすることができよう。

 なぜならば,教育によって達成される「精神」

の充実は,「魂」の活動が等しく保障された時に初 めて全ての人に対して幸福をもたらすことになる と言えるからである。能力差が存在し平等な活動 が保障されない時は,例え「精神」の平等が達成 されても,それは知識を利用して「魂」の活動を 拡大していくことのできる人だけの優越性を増さ ずにはおかないのである。

 私たちは,「近代フランス教育思想」が,約説原 理にもとずく教育方法を採用することによって,

ある特定の人々(つまり,「魂」が優れている人と されたブルジョア)を人間一般と措定した「理念 的人間集団」,即ち「人類」を創出し,次にその「人 類」を媒介としてそれらブルジョアの文化を全て の人に対して教え込むことを正当化しようとした のではないかと考えることができよう。つまり,

教育を行うことによって,ブルジョアたちには彼ら の生活向上に役立つ知識を与えると共に,民衆に 対してはブルジョアたちの優越性を正当化するの に役立つ知識を与えようとしたのではないかとい うことである。

 それが証拠に,教育内容であった科学・技術知 識は,当時の経済関係のもとでは全ての人の生活 向上のため必要とされたものだというよりは,社

(4)

会の強者であるブルジョアの欲求充足に直接つな がる「生産力の向上」に役立つ知識であった。

また,歴史知識の主要な内容である道徳は,ブル ジョアの有利な立場を保護するために役立つ「利 益追求の自由と私有財産制の遵守」を規定した近 代社会道徳であった。⑳そして,洗練されたフラン ス語は,彼らのステータス・シンボルとして役立 つものだったと言える。

 以上のことから,私たちは,この教育論が,当 時の社会での経済的実力者であったブルジョアの 子弟を一人前の近代人に育成することを主眼とし て展開されたものだと見ることができよう。

 ところで,このように階級性を帯びた教育論を 全ての人を対象とした形で語らなければならなか ったのはなぜかということが問題となろう。

 それは,当時ブルジョアが置かれていた歴史的 状況に深く関っていたと言える。

 近代社会は未だ理念的存在の域から脱しておら ず,近代的経済関係が成立しつつあるも多くの封 建的障害が残されていた。そのため,彼らは社会

では二重の対立関係のもとに置かれていた。(少な くとも,コンディヤックとエルベシウスの活躍し たアンシャン・レジームにおいては。)それは,

封建諸勢力と民衆とに対してであった。こうした 状況の中で,ブルジョアは,前者にはその封建支 配の不当性を,また,後者に対しては自らの経済 支配の正当性を,同時に主張しなければならなか ったのである。

 前者に対する思想的自己主張が人間一般として の感性的人間の措定であったと言えよう。そして,

後者に対しては,その感性的人間を対象とした教 育においてブルジョアが優れていることを証明し てみせなければならなかったわけである。そのた め,教育論は全ての人に対して平等に開かれた理 論として展開される必要があった。そして,人々 の間にはっきりとした差が現われなければならな かった。こうして,教育論においては,一方で機 会均等原則なる平等原理の存在が,また,もう一 方で人々の間に不平等を生み出す能力差の存在が,

同時に主張されることになるのである。

l11

 ところが,「近代フランス教育思想」の中には,

以上述べた機会均等原則さえも否定する次のよう

な主張が見い出せる。

 それは,人々の間の能力差を最初から既定のも のと認め,能力に応じた教育を行わなければなら ないとの主張である。人間は生まれた時から自ら の能力に応じた社会的役割を振り分けられていて,

その役割に応じた教育を受けなければならない。

その教育を受ければ,例え機会均等原則を働かさ なくても,それを働かせたと同じ結果を生じるこ とになるとされる。したがって,最初から,それ ぞれの人に予め定められている教育が実施される のである。

 では,この主張において,人々はどのように弁 別されると考えられていたかを見てみよう。

 「人間精神の完成可能性が保障されるためには,

あらゆる真理が全ての人の精神に到達し得る所に あること,そして,その真理が明らかな形で提示 されていること,の二点が必要である」㊧とされ,

したがって,「高級な真理が凡庸な人の手にもとど くものとなるのは,それが単純な言表に環元され 発見者である才能人の手から科学の領分に移され た時だ」㊧ということになる。凡庸人は,自らの「精 神」の充実のために「才能ある人にただ従ってい くのに必要な力しか備えてなく」野「彼らの切り開 いてくれた道を群をなして追いかけていく」㊧存在 だと考えられたのである。

 このことは,人間が,真理発見者としての才能 人と,発見された真理をただ受け取るだけの凡庸 人とに分けられ,それぞれの人が自らに与えられ た職分を果す時にだけ真理を自らのものにして社 会全体を発展させていくことができるようになる

と考えられていたことを意味する。

 ここで重要な点は,才能人と凡庸人との間の分業 体制が確立して初めて人類全体の進歩が行われる

とされていることである。この分業なくしては,

人類の進歩も,人々の幸福も存在しないというこ

とになる。

 そして,更に,次のような主張がなされている。

 「全ての市民が同じように社会に貢献するもの としてつくられてはいない。したがって,教育も それぞれの市民が自らに定められた社会的条件に 応じたものを受けなければならない。最も社会的 条件の低い人にとっては,自らの労働によって生 計を立てていくことができるだけで十分である。

しかし,社会的条件が高くなっていくにしたがっ て,人は多くの知識を必要としている」㊧とされる。

(5)

それぞれの人が自らの社会的条件に応じて最初から それにふさわしい教育を受けなければならないと 主張されるのである。

 では,社会的条件を異にしたそれぞれの人に与 えられる教育内容について見てみよう。

 社会的条件の高い人に対しては,前節で述べた,

フランス語,科学知識,民衆支配のための諸原理 等であった。

 それに対して,民衆には,「全ての社会的条件の 市民に対して何らかの関わりのある真理を提供す る観察集としての歴史」⑰の中からブルジョアによ る支配に都合のよい道徳的教訓が選び出される。そ こでの主要な内容は,すでに見たように,「所有権の 維持が国家の道徳での神でなければならない」㊧とい うことであり,また,経済においては「レセフェ ールが全ての目標でなければならない」㊧というこ

とであった。

 このように,「近代フランス教育思想」では,近 代社会がしだいに実現化されていき社会進歩の要 請が明確になるに従って,社会分業体制の必要性 が強調される。そして,その体制の確立と維持とを 容易にするため,機会均等原則を無視して不平等 な教育を行うことが主張されるのである。

 ところで,こうした主張が問題を抱えているこ とは明らかである。

 なぜならば,論拠とされた能力差の存在が大変 疑わしいものだからである。このことは,教育内 容がいかなる性格のものだったかを見ればわかる

だろう。

 科学知識や市民道徳は「生産力の向上」と「社会 秩序の維持」とに役立つものだった。それらの知 識を習得することは,経済関係において弱者の位置に 置かれていた民衆にとって,自らの生活向上に役立つ どころか却って欲求充足を疎外され自らの置かれ た不平等な状態を一層強化することになるのだっ た。したがって,彼らがこうした性格をもつ知識 を自ら進んで学ぶようなことはなかったと言える。

彼らには,それよりも,自らの生存を保つため行 う日々の労働の方が重要だったのである。そして,

こうした民衆の状況は,ブルジョアたちが自らの 生活向上に役立つこれらの知識の習得に精一杯努

力するのとは対称的だったと言える。能力差が存 在すると主張された民衆とブルジョアとの間には,

教育内容の性格から生み出される学習意欲の違い があったわけである。したがって,能力のあるな

しにかかわらず,彼らの間には最初から差が現わ れてくることがわかっていたと言えよう。

 このように,「近代フランス教育思想」の「能力 主義教育」は,本来の意味での人間の能力にもと ずいたものではなかったのである。したがって,

機会均等原則を無視して最初からそれぞれの人に 異った教育を与えるとしても,何ら新らたな矛盾 を抱え込むことはなかったわけである。

 もちろん,全面的に能力主義が否定されたわけ ではない。今述べたことは,対民衆視点から 見てそうだということであって,ブルジョアの間 では能力主義が貫徹されて機会均等原則のもとで の自由競争が守られたと見ることができる。

 ところで,私たちは,「近代フランス教育思想」

内部において,フランス革命前とそれ以後では平 等原理に対する力点の置き方に変化が見い出せる ことに注意しなければならないだろう。前者のコ ンディヤックやエルベシウスの場合には,対封建 の意識が強く「権利の上での平等」という意味で 機会均等原則の主張が前面にうち出されている。

ところが,近代社会がすでに成立し民衆支配が自 らの視野の中に入ってきたコンドルセの場合は,

社会の進歩発展という目的と相いまって社会分業 の主張が現実的要請としてクローズ・アップさ れることになる。こうした違いは,近代社会の発 展段階の相違にもとずく変化だと言えよう。

IV

 では,民衆支配という観点から「近代フランス 教育思想」における教育論の性格変化を明らかに するため,まず,社会秩序の推持に関する考え方 が革命前と革命後ではいかに変ったかを見てみよ

う。

 第一に,社会の成立についての考えに違いがみ

られる。

 コンディヤックは,次のように語る。「人間が自 らの欲求,快・不快,その他自らの経験した全て の状態に思いをめぐらせればめぐらすほど,互い に助け合わなければならないことを感じるだろう。

したがって,彼らは,互いに契約を結び,認め合 うことそして禁止し合うことを定めることになる。

この契約こそ,彼らが従わなければならない法で あり,そこに全ての道徳の始まりがある。」⑳と。こ のことは,松平氏が述べているように,黙示の社

(6)

会契約によって社会が生まれると考えられたこと を意味する。⑪また,エルベシウスの場合も同様で,

「増加した人間が社会を形成していく時,食物が 足りなくなり土地を耕さざる得なくなる時,彼ら は互いに契約を結ぶ」⑫と述べており,人間の数が ふえ互いの欲求充足を犯す危険性が生まれた時そ の危険性を除くため社会契約を結び社会がつくら れるものと判断している。

 このように,コンディヤックやエルベシウスに おいては,社会は,人間が自らの本性である生存 欲求の行使を保障するため自発的に契約によって っく})出すものとされる。そのため,そこでは,

人間が本性に従い利己的活動を行っていくならば それは同時に「利己的活動を保護するために成立 した社会の秩序」を守っていくことでもあると考 えられている。そして,こうした利己性のもつ予 定調和的社会秩序維持機能が社交性の原理と呼ば れているのである。㊤

 もちろん,この原理は,それが人間の中に措定 された生存欲求のコロラリーとして誕生するもの であるため,全ての人に対して平等に働くものと されている。

 ところで,こうした考えが全く幻想的なもので あって,ブルジョア以外の人々が存在する現実の 社会においては決して達成され得ないものだとい

うことは,次のことで明らかとなろう。

 つまり,社会において実力を備えていてそのた め社会秩序を守ることが自らの生活向上につなが るブルジョアのみが,社交性の原理の働きによっ て自ら進んで秩序を守ろうとするのである。だが,

大多数の民衆は,その秩序が自らの欲求充足を保 障するどころか却って制限するものであるため,

自らの本性に忠実であればあるだけそれに従うこ とができない。

 もちろん,「近代フランス教育思想」においても,

こうした社交性原理の不備は気付かれていたと言 えよう。利己性に対する社交性の働きを強化する ため道徳教育が行われなければならないと主張さ れているからである。

 しかし,革命前の段階においては,まだ「近代 フランス教育思想」自体単なる思想としての位置 にとどまっていて,民衆を視野に入れてはじめて 明確なものとなる社交性の弱点はそこではそれほ どはっきりと感じ取られていなかった,と言える。

なぜならぱ,「思想」の目的が前近代に対して近代

の理念的姿を描いて見せることだったからである。

そして,社交性の弱点はせいぜい道徳律の教授に よって補うことのできる程度のものと考えられた にすぎなかったのである。

 ところが,フランス革命が起き,「思想」が実際の 理論として応用されることが求められるようになっ た時,すなわち,コンドルセの場合には,全く状 況が違ってくるのである。

 社会の秩序へ全ての人を服従させることが社会 での第一の要請となっている。なぜならば,すでに 成立している社会では,何よりもその社会を維持して いくことが求められ,また,その社会の進歩発展 のため全ての人が協力することが必要とされるか らである。

 人間のために社会が生まれそして存在していくの ではなく,社会を維持するために人間が存在する ことになる。社会は人間のための手段から彼の目 的に変ることになるのである。

 この変化は,コンドルセが社会の成立について どのように考えていたかを見ればすぐわかるだろ

う。

 彼は,社会が個人の任意の契約によって生まれ るものではなく,家族という共同体が集まったも のと考えた。㊤したがって,そこでは,各個人は,

まず,家族という共同体の成員として生まれてく るとされるのである。そして,その証しとして,

人間は「魂」の外に「哀れみの情」(piti6)とい う共同感情を備えていると措定される。それにつ いては,すでに拙稿で述べた。⑮

 その結果,人間は,完全に自由な個的存在では なくて,集団の中でしか生きていくことのできな い共同体的存在だということになり,その共同体 の規制に従いながら生きていくものとされるので ある。そして,その彼にとって,その共同体に服 従していくことがまず第一の要請だということに

なる。

 もちろん,人間を共同体的存在と措定したコン ドルセの場合も,人間の原動力は利己的な欲求で あり,社会での秩序の内容は「所有権の保護と経 済でのレセフェール」だと考えられた。

 そのため,人間は,「魂」と「哀れみの情」とい う矛盾する二つの能力を備えた,利己的であると 共に共同体的な存在だということになる。また,

社会は,人間の自由な利己的活動の保護を目的と していると共に,その目的を達成するために共同体

(7)

規制を働かす,共同体的近代国家だということに

なる。

 私たちは,こうした二元対立的な人間規定と社会規 定とが,同時代のルソーの主張と同じものだと考え

ることはできないであろう。なぜならば,コンド ルセにおいては,ルソーと違って,共同体的存在 の証明としての「哀れみの情」は人間の利己的活 動そのものを抑制し社会での平等を維持するため に働くことが期待されておらず,ただその自由な 活動を保障する近代社会の秩序を守らせるために 働くことが求められていたからである。⑰つまり,

近代社会を維持するための手段として働くことが 要請されているのである。したがって,この感情 の存在が実際に大きな意味をもつと考えられたの は,社交性の原理が役立たない,つまり自らの欲 求充足を行うためには社会秩序を犯してしまう民 衆に対してだったと言える。

 ところで,こうしたコンドルセの考えが有効な ものでなかったことは明らかである。

 家族の間で感じる「哀れみの情」を社会全体に まで広げていくことに成功することはないと思え るからである。近代社会は,大家族としての前近 代国家ではなくて,利己性の支配する近代国家と して成立しているのである。この国家には家族に 見られるのと同じ共同体的原理は存在していない。

そこには,大きな断絶があると言える。

 そして,それを証明付けているかのように,「哀れみ の情」の自然な働きに頼ることができず,国家の 強制のもとで訓練を通じて民衆を社会秩序に習慣 的に従わせるという教育方法を取ることが主張さ れている。@

 私たちは,「哀れみの情」が,近代国家における 民衆支配のための手段である道徳訓練において,

教育に対する国家の関与を正当化するための装置 として用いられようとしたと結論付けることがで きよう。人間は,自らが共同感情をもった共同体 的存在だということで国家の行う支配に進んで従 わなければならないと考えることを強制されるよ うになるということである。

 もちろん,コンドルセの場合には,19世紀のコ ントの場合のように,この主張はまだ社会有機体 説にまではなっていない。㊦しかしながら,分業体 制を共同体としての「人類」ないしは社会の要請だと

して強調している。そのため,分業体制の破壊は それが単に人間の完成や社会の進歩を遅らせると

いうだけでなく人類全体への反逆としてチェッ クされることになるのである。

 このように,コンドルセにおいては,ブルジョ アと民衆との間の社会分業は,それが建前としてい た全ての人の幸福を達成するという目的から離れ て,本音である「国家権力のもとでのブルジョア支 配の強化」という役割を果すことになったと言える であろう。

 「近代フランス教育思想」は,封建的政治支配 の不当性と近代的(ブルジョア)経済支配の正当 性とを同時に明らかにすることを自らの歴史的使命

としていたため,教育論の中に次のような二重構 造をもっていたと言える。すなわち,一方で,封 建的身分制を否定し全ての人に対して「権利の上 での平等」を保障するため,機会均等原則のもと で彼らを対象として教育を行うことを主張してい る。だが,もう一方では,ブルジョアによる民衆 支配とその支配の強化となる「生産力の向上」とを 達成するため,彼らに対して最初から能力にもと ずく差別教育を行うことを主張しているのである。

 そして,このような特徴を有していた「近代フ ランス教育思想」は,近代社会それ自体の実現に 伴って,理念的平等主義(機会均等原則の遵守)

から現実的差別主義(社会分業の実施)へとその 主張の重点を移していっている。そして,最終的 には,機会均等原則はただブルジョア間の自由競 争を保障するものとなり,全ての人間を対象とし た平等原理は全くその姿を消すのである。

 したがって,私たちは,「近代フランス教育思 想」の平等原理が,現代人の考えたように,「能力 選別教育」に対する批判原理となり得るようなも

のではなく,それは却って「人間の選別とそれに もとずく教育の多様化」に対してその理論的礎を 与えるものだったと結論付けることができるであ

ろう。しかも,そこでの選別は,本来の意味にお ける人間の能力にもとずくものとは言えない。そ れは,能力を有する有しないに全く関わりなく,

人々の属する階級にもとずいて行われる選別だっ たのである。

(8)

(1) 「近代フランス教育思想」は現実的機能と理 念とに分けて考察されていて,前者としてはそれ が単なる資本主義のイデオロギーとして働いたと して否定的な評価が与えられている。しかし,後 者としては批判原理としての教育理念を与えてい るとして高く評価されている。(堀尾輝久,現代教 育の思想と構造,岩波書店,1971,p,214)

(2)堀尾輝久,前掲書,p,p.209〜210.

(3)C・ndillac,C。urs d 6tudesp・ur1 inst−

ruction du prince de Parme, Oeuvres phi1・

osophiques de Condillac Volume1,P.U.E,

1947, p,p.412〜415.& Dictionnaire des synonymes,op.cit.,Volume3,P・U,E  1951,

P.41.

  HeMetius,De1 homme,Oeuvres Comp16・

tes, Tome U, P.Didot L afn6,1795,p.

171.

  Condorcet,Es uisse d un tableau histor・

ique des progr6s de1 esprit humain,

Oeuvres de Condorcet Tome VI,F.D.F.1848,

p.11.&De1 instruction commune pour les enfants,op.cit.,Tome VH,p.274.

(4) Condillac,Cours d 6tudes, P.409.

(5) Helv6tius,op.c it., p.177.

(6) Ibid, p.171.

(7) Condillac,Essai sur l origine des connaissance humaine,op.cit.,Volume1,p.3。

⑨田圃切

Condorcet,Esquisse,p.12.

Condillac,oP,cit., Pユ00.

Helv6tius,op.cit.,Tome》皿,p.8.

カシーラが指摘しているように,ロックは,

観念連合説を採用している(カシーラー,啓蒙主 義の哲学,紀伊国屋書店,1g70,p.125,)が,感 覚能力以外に「反省」能力の存在を措定し,それ なくしては人間の精神活動は満足に行うことがで きないと主張している。(ロッタ,人間知性論(以 岩波書店,1972,p.p.134〜135)

(12 Helv6tius,oP.cit.,P.8..

(19 拙稿,ルソー教育思想における自由の問題,

福島大学教育学部論集29号の3,1977,p、2,

(C・ndillac,C・ursd 6tudes,P.P.401〜402.)

(14) Condillac,Essai, P.42.

(19 コンディヤックの『学習教程』では,〈Gra・

mmaire〉とくDe l artd 6crire〉において,フ ランス語の習得方法が扱われ,〈De1 art de raisonner〉とくDe1 art de penser>では,自 然科学がその内容を構成している。そして,〈His・

toire ancienne〉とくHistoire modeme〉では,

歴史が展開されている。(Condillac,Cours d 色tudes,Volume1&2.)

(16 ディドロ,ダランベール編,百科全書,岩波 書店,1971,P.1&

(1の Condillac,Essai,p.18.

(1♂ Condorcet,Nature et objet de1 instruc・

tion publique,op.cit.,Tome孤,p.170.

(19私たちは,教育されればされるほど人間が他 者との間で不平等を生み出していくというこの点 が同時代のルソーによって鋭く批判されたという ことを思い出すことができよう。(Rousseau,J.J.,

Discours sur les sciences et les arts,

〈De Contrat Socia1》,Gamier,1962,p.64.)

⑫(》 Condillac,Cours dフ6tudes, P.402.

(cf.Condorcet,Esquisse,p.12)

(21)注の(28)と(29)を参照。

(22Helv6tius,・P.cit.,P.125.

(⑳Ibid,P.127.

(2φ  Ib id, p.127.

(20  1bid, p.p.126〜127.

(2e C・ndillac,・p.cit.,P.404.

(幼Ibid,P.404.

(2曾 Helv6tius,bp.cit.,Tome皿,

(cf.Condillac,Le commerce et le

nement consid6r6s relativement l,un a1,autre,

op.cit.,Volume2,p.266.)

(29  Condillac,oP.cit., P.356.

(30 Condillac,Trait6des animaux,op.cit.,

Volume1,p.370.

(3D 松平斎光,フランス啓蒙思想の研究,有斐閣,

1958, p.p.248〜249。

(32 Helv6tius,oP.cit., P。P.92〜93.

(33 Helv6tius,op.cit.,Volume孤,p.P.223〜

224.

(鈎 コンディヤッタにおいては,すでに見たよう に,経験の社会的蓄積に助けを求め,.歴史の中か ら適当な逸話が選び出されて教授される・これに 対して,エルベシウスの場合は,正義(所有権法)

が貫ぬかれるためには,良識(正しい判断力)と 誠実さ(有用な習慣)とが必要だとして,良法(ご

P.P.92〜93.

  gouver

(9)

く一部の人だけに富が集中することがないように 国富の分配を定めたもの)の支配する社会のもとで・

道理問答と社会での実践とを内容とした道徳教育が 行われる。そこでは,徳性への賞与である賞罰と,

その賞を求めようとして抱かれる競争心とが,徳

(所有権の遵守)への原動力となると考えられて

いる。

(39 Condorcet,Es(1uisse, p.p.25〜26、

(3e拙稿,コンドルセの道徳教育における「哀れ

みの情」と「理性」について,九州教育学会研究 紀要第2巻,1975,p.29.

(訪 この点については,すでに注の(13)と(36)で 掲げた拙稿において論じている。

(謝C・nd・rcet,RapP・rtetpr・jetded6cret

sur rorganisation g6n6rale de  l instruction publique,op.cit.,Tome孤,p457.

(39 本田喜代治,フランス革命と社会思想,法政 大学出版局,1970,p.p.264〜265.

       Le principe de l 6galit6

dans la《pens6e6ducative moderne de France》

Kanji Ogiro

 Aujourd hui que on a des doutes sur le juste de l 6ducation selon des capacit6s individu・

elles,c est le principe de1 6galit6dans la〈pens6e6ducative moderne de France〉   qui attire1 attention de beaucoup de monde.Car ils jugent que ce principe pourvoit devenir le moyen de critiquer1 6ducation susdite、

      つ

 Mais dans cette〈pens6e6ducative〉nous trouvons l intention de reconna↑tre l in6galit6 des capacit6s parmi les hommes et les instruire selon les leurs.

 Est−ce que cette〈pens6e6ducative〉a deux opinions contraires?

 Dans ce m6moire,je me propose de chercher la mission historique de cette〈pens6e6duca・

tive》 par l analyse de structure de ses id6es et examiner si ce principe a la fonction de criti(1uer l 6ducation in6gale dans le r6eL

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