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9 月 23 日 鹿児島県肝属郡串良町下小原 水神祭 八月踊

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9月23日 鹿児島県肝属郡串良町下小原 水神祭 八月踊 串良に宿をとって、すぐ下小原へ電話で照会する。

連絡場所、下小原公民館前の十文字屋という下小原唯一のよろづや。午後 4 時半頃から水神様の祠へお参りする という話ですぐタキシーで下小原へ駈付ける。

見学要領は、どうしても高山町と比較することになる。概覧。祭と踊りに対する部落の人々の一般的なフンイキ は下小原の方が濃厚なようである。これは高山本町でも下小原のことを話していたが、下小原では高山本町の祭の ことは殆んど誰も口にしない。

高山本町は小さいながら既に「町造り」を整えている。バスセンターがあり、本町の本通りというのは勿論補装 されて、各メーカーの電気製品販売店を始め各商品の店舗が軒を並べている。水神講も現在 4 組ある。これに引か えて下小原は、駅は無人駅、全戸殆んど農家。篠竹の防風林にかこまれた家々で、埃りぽい草ぼうぼうと生えた径 が無秩序に延びて、ともすれば家の庭先に入る道の方がよく踏まれていて迷ひ込むような村落である。品物を売っ ている店といえば恐らく公民館前の十文字屋という家が唯一であろう。それだけに村人の娯楽としての踊に対する 関心は高山よりも、ずっと深いように思われた。高山では盛んに青年の離脱をなげいて居たが下小原では殆んど青 年。祭も踊も青年が担当していた。串良と下小原の駅は可なり距離があり同じ串良町でも別個の村落を形成してい るが、串良からも可なり多ぜいの人達が踊見物に行くらしい。高山では同じ屋並続きでも橋 1 つ向う側の人達は踊 りのことを知らないのに比して、串良では大ていの人が知っていた。尤もその知っているのは水神祭ではなく 8 月 踊のことであったが。

その土地で言っている言葉は双方とも水神祭。八月踊には変りなかった。

鹿屋労政事務所に勤務している宮地俊貴さんは下小原の人で当日の水神祭の神職を兼務しているが可なりこの地 方の祭祀のことにつき関心を持ち且つ詳しい。宮地さんから聞いたところによると、やはり水神祭と八月踊は関連 はあるが別のものらしい。八月踊は水神祭に奉納される村人全般の芸能といった姿のようであった。例えば肝属地 方には各地に水神祭があり且つ八月踊がある。所が年によって八月踊はやらない場合がある。八月踊は五穀豊穣の 御礼踊りの意味があるらしい。従ってやらない年もあった。その場合に水神祭は必ず旧暦8月15日にやった。所が 八月踊をやることに決めるとその決めた日に水神祭も一しょに行われることになる。即ち八月踊の日取りが決まる とそれによって水神祠の祭日が旧8月15日を中心に前後に変更されることになるという。若しこれを是認すると水 神祭は旧8月15日、即ち、名月の祭に関することになる。

「鹿児島県文化財調査報告書第 9 輯」によれば下小原の水神祭にも、もと一才衆、二才衆等講が分れていたよう であるが、現在、そのことを知っている人は少ないらしい。下小原では水神祭より踊の方が中心となっている観が 強く、その原因は青年層の勢力が健在であると言えそうである。これに反して高山本町では水神祭の信仰が中心と なっている観があり、その原因は老年組の結束にあるようである。

高山本町では講活動が健在であり、座元(ハナコ)制が現存していて、座元が 1 年間水神様の御神体を入れた箱 を預って家の内で祀るのであるが、下小原では現在、この信仰はない。この座元の家で1 年間祀られる水神様の外 に別に部落内(といっても双方とも村外れの特定の場所)に水神様が石祠に祭られていることは、両方とも同じで ある。高山ではその場所が今は町中になっている稲荷神社の境内片隅にわびしく並んでいる(その左側に 1 基自然 石の碑がある。恐らくこれは田の神サーであろう。これにもヒロヒロを供えてあった)が下小原では村外れの薮の1 隅を開いて、入口に鳥居を設け、水神祠が2基その両脇に石灯篭を設け祀られてあり、左側に1基田の神サーの碑 があった。法楽(フラク)はその前のあまり広くない空地で青年達によって踊られた。但し法楽の比較は高山の方 を見落しているのでこゝでは出来ない。下小原の水神祠も、聞けば現在の所へ合祀したもので、並んでいる2 基の 水神祠はその傍を流れている、細い溝川がも相当幅のある、大きい河であってその川の畦に「上の堰」「下の堰」と いう2 ヶ所にそれぞれあった水神を河川改修と鉄道の鉄橋設設のとき現在の所へ移したもので、そのもとの地点に は現在何も残ってはいないが水神祭のとき、法楽を奏している間に神職と講中の1人が5色の幣を持って、そのも との上の堰、下の堰の場所へ行き、少し土盛して幣を挿して来たものである。

水神祭(下小原)

当年の五穀豊穣を感謝する祭で、五穀の稔りは水神の庇護がある故との信仰がある。「鹿児島文調第9集」によれ ばもと村落でも階級的な講があったらしい、が現在は公民館を講の場として行われる。祭祀の総代をする座元の制 は残っていて役員はやはり年番で勤めるらしいが、その大半は神職(宮地さん)が来てやる。そのため、修祓、献 饌、祝詞の祭典形式は一応整えているがこれは、どうも水神祭のもとの姿ではないらしい。公民館で午後 4 時頃か ら一応この祭典があり、続いて午後4時半頃、水神祠へ参る。このとき6人の青年が参加する。黒の紋羽織、黒足 袋、草履ばきで、造花をつけた編笠を被る。この編笠は褐色の萱草の芯で編む。6人のうち、2人は鉦、1人は締太 鼓他の3人は素手であるが、素手のうちの1人は高さ2.5m位の葉付の笹を持つ。この笹にはヒロヒロといって15 cm×20cm位の色紙を縦に糊で継いで細長く長さ1m位にしたもので、片方の端を紙撓にして笹に結びつけたもの で2條づゝ、2ヶ所に吊る。これを捧持したものが先頭となり、6人が並んで楽を奏しつゝ行く。そのあと座元、神 職が行くが、祭典用の張太鼓、笛は世話人の 1 人が担いで行く。この太鼓、笛は道中打たない。外に世話人のもの 数人、注連縄、5色の小幣、蝋燭等持って従う。

水神祠に津尾着するとヒロヒロ笹は鳥居に立掛け、世話人が座元と共に水神祠 2 基及び田の神サーに注連縄をか け、お明りをあげ、洗米を供える。またその碑の前に筵を敷き、神職及び座元の座となし、その筵の席で祭典用の 太鼓、笛を奏しつゝ祭典が始まる。祭典後、鳥居の中の空地へ楽器を持った 3 人が入って前方中央に締太鼓、その

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後方左右に鉦が鼎立し、内側に向合ってまづ法楽の前曲を奏する。

締太鼓は締紐を左手でつかんで太鼓を肩の高さに保持し右手の撥で打つ。鉦は吊紐で長さ16cm位の竹の把手に 吊下げたのを左手で掲げるが、把手を握るとき、予備の撞木を 1本併せて握る。別の1本の撞木(白木)を右手に 取って打つ。

前曲が終ったとき他の 3 人の素手の青年(踊子)が別の鼎立の輪をつくり踊りに入るのであるがこのとき囃子方 の3人も輪を拡げて足を前方に振出す所作をしつゝ囃す。而して踊子も鳥居の外に蹲んでいる人達も唄う。

1、今朝の寒さ。

今朝の寒さに笹山、笹山を越えて、露で羽織の裾ぬらす、露で羽織の裾をぬらす、露で羽織の裾ぬらす、

裾ぬらす 2、五尺手拭

五尺ヨイノ手のごい、五尺手のごい中染めた染めもイヨト染めたよ 染めも染めたよ紫に 3、いとし若衆

いとしゆ若衆と寢たる夜はいとしゆ若衆と寢たる夜は杉の板戸をたて込めて雪や霰が七日降れがな雪や 霰が七日降れがな

4、深山桜(この歌詞は記録がないのでテープから復元したものである、従って非常にあいまいなものである)

深山雪桜お庭に置かれヤンヤン雪櫻お庭に置かれ目もとはさよさよと。

法楽はこれで終る。次いで田の神サーに奉納する踊となる。囃方 3 人も楽器を鳥居の外の世話人に渡し、受取っ た人が囃し方に廻り、6人の青年が輪となって踊る。囃子は締太鼓と鉦の撞木2本を拍子木に打合せる。

1、五尺手拭 2、誰に呉りかよ。

3、音に聞えし。

音に聞えし音に聞えし佐渡原に 4、淀の川瀬

この踊歌は例えば「五尺手拭」は法楽のときと同じであったが節廻しや相の手のかケ声は異なり、法楽よりも稍 軽快な調子の歌い振りであった。

田の神サーの踊となるとき座元と神職とは小幣を奉持して上、下の堰の所へ献幣のために出向く。

踊り初ると水神祠へお参りした一同は、一度自分の家に帰って午後 8 時頃から公民館前広場で初まる八月踊に再 び参加する。

私は一行に別れて上の堰と称えられている実際の場所を見に行ったのであるが土盛した草叢の中に小幣が立てら れ、その前方の小川には古めかしい水車が掛っていた。残照がもとは河原であったと思われる三日月型の小さな稲 田の稔穂の上にもキラメキ、今日の晝間の暑さにも拘らず、今宵の可なりの冷込みを知らせているようであった。

1人で重いテープコーダーとカメラを引提げて、公民館まで帰る村の中の径は案の状、分らなくなってしまって、

人家の庭先へ入り込んでその家の人を、びっくりさせたりした。

八月踊の踊り場

高山本町の踊り場が油屋の前というのは恐らく江戸末期から変らずにある踊り場のようであるが下小原の公民館 前の広場とするのは最近の定着場所であろう。もとは双方とも座元の庭で踊ったという。高山本町で音頭櫓(楽棚 という)が踊の輪の外に出てしまったのは最近の道路交通事情によるもので、下小原の現状のように輪の中心に置 かれるのが元来の形であろう。楽棚の床の高さ双方とも1.8m位、楽棚の柱周辺は紅白の腰幕をめぐらし、柱は造花 で飾る。下小原では更に四方の柱に添うて外側へ弓状に張出す。行燈吊竿を曲げて出し角行灯を4方にぶら下げる。

この角行灯は白紙貼で「水神祭」「八月踊」「五穀豊穣」「村内安全」等墨書してある。下小原はこの楽棚を左廻りに 巡って踊るが、踊り子が廻る通路は縄を張ってあって、その通路の内側、外側がいづれも見物人の席となる。即ち 踊りの輪の内側、楽棚との空地には筵を敷いて、見物人の席となるのである。高山本町では楽棚もこの輪の中には なく、道路上全くの空地として残るので、写真をとるためその中央へ入るのも遠慮勝ちであったが、下小原ではこ の点助かった。唯楽棚が中央にあるので、写真撮映のためには中からよりも外から撮る方が多かったが、

油屋の座敷、公民館の部屋が来賓の座となり、そこで芋焼酎が盛んに応酬されて、昔の講の偲影を止めているこ とは両所共通である。

囃方

両所共楽棚に上る。胡弓、三味線、太鼓、音頭より成る。但下小原の三味線は女で 1 人であった。音頭は人数は 下小原の方が多く、且つ咽もよくて、歌の節廻しも正確なようである。下小原では12曲を完全に当日歌い*した。

踊子 両所共

男(主として青年)は黒紋付羽織、黒足袋、草履ばき、編笠(造花を二三つける)。

女。既婚者はオコソと唱える色布を顔から長く垂らし、眼だけを出して踊る。晴着を着る。

娘。面を隠さない。晴着を着る。この夜は子を持つ親達は息の嫁選びに血眼であると両所で着いた。

高山本町では、既婚者でもオコソをつけているものは唯1人であったが下小原では10数人が何れも水色のオコソ をつけていた。既婚の女達は高山本町では編笠を被ったが、下小原では女は編笠を被らない。既婚者の晴着という のは高山町では以前からの風習として嫁入するとき必ず八月踊の衣裳を持って嫁入したという。それも昔は絹は百

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姓は着ることは禁止されていたので藍染、白の裾模様の染抜きの木綿衣であった。これを今日でも代々伝えるもの が20軒位あると聞いたし、当日それを着て踊りに入った婦人も数人あった所が下小原の婦人の踊子は大てい現代式 の派手な衣装であった。

仮装をして踊りに参加するものは下小原ではなかった。せいぜい酔ったあげく、正式の服装をしている青年の編 笠を貸して貰って被り、ズボン、半袖シャツで踊りに加わるものがある程度であった。

踊りの輪。

両所とも踊りの輪列はまづ男衆が並び、その後にオソコ、その後に娘達と三者の列分けが判然としていた。男の 次に女が踊り、その次に又男が踊るという風に三者が入り乱れるようなことはなかった。緩かな左廻りの踊りの輪 である。

唯、輪の大きさと人数の関係がどうか分らぬが下小原では娘の列を内側にその外側に男衆という風に、娘と男衆 の列は二重となり、婦人の列の所は1重の輪で踊った。

八月踊りの始まるとき高山町では楽棚で踊子の足揃えの踊子が入ると、何処からともなく、油屋の奥から、向う 側の荒物屋の土間からという見合に踊子が集って来て、1人の世話人の指図で自然に三者別の輪となったが下小原で は公民館前の広場から横町に当る岩井さんのお宅が踊宿のようになっていて、そこで予め三者別の列のそれも踊り 上手の順にならんで、鉦太鼓の囃しを先頭に入場する。しかもその入場には男音頭(おとこおんず)と女音頭の役 があって、それに追いて入場する。女音頭というのは女の組の先頭に踊る役で、男がなる。男衆のうち踊の優雅な 身のこなし方をするものが選ばれてその役につく。

下小原ではこの入場の際の囃しは鉦と太鼓で、法楽のとき締太鼓、鉦の役をやった 3 人がなる。踊りの列の先頭 をゆく。このとき楽棚の囃子は入らない。締太鼓、鉦の 3人は入場して踊りの輪を1巡すると、踊の輪から離れて 輪のうちら側へ入る。而して第1番の八月踊の曲が始まるのであるが、この第1番の曲は「今朝の寒さ」である。

従って「今朝の寒さ」の踊っている間は楽棚からの囃子はなく、専ら3 人の締太鼓、鉦が囃子である。楽棚の囃子 は第2番の曲「五尺」から始まる。第1番が終って第2番に移る間に、3人の締太鼓、鉦は急いで公民館の縁側に楽 器を置いて、自ら男衆の踊の列に加わる。

八月踊の歌詞(下小原)その演奏順序。

1、今朝の寒さ 2、五尺 3、大坂京町 4、こちのうら 5、おはら万女 6、豊後口説 7、はなえ万女 中入

8、船頭節 9、思案橋 10、ささなんて 11、虎の子 12、忍び

13、恒吉口説(突出し)

14、一のとの 笹野原移民

15、一つとの。千歳川

もとは第15番の数え歌(一つとの)が終ると踊り子は列をときめいめいが自由な手踊をやって夜の更けるまで思 い思いに踊ったようである、が当夜は2、3人が輪の中央に飛込んで頬被り姿で踊ったのみであった。23時終了。

Referensi

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