9月8日 山口県美祢郡秋芳町別府字堅田 厳島神社 念仏踊 念仏踊。檜波部落(下)、江原部落(上)
宿はくじを曳いて極める。9月5日、そのとき花をつくる。
下は桧波部落と流田部落と年交替で宿をする。道具は 9月9日に江原部落の当屋へ当渡しをする。メンバーは両部 落から出る。
太鼓(胴頭)どうとり2人、檜波と流田35~40位、から各1人 杖 2人 中学生 各部落より
うちわ 大うちわ2人、小うちわ2人、中学生 鉦打ち 8人 小学校生
年寄 2 人(先導)この役につくものは年行司として極っている。部落の最古老(村の優秀なもの、水の心配をする 人)
鉄砲 2人 のぼり 2人
お旅所で逢う。曲目の名称はない。
水上部落からは小踊が出る。前のは厳島神社(弁天さま)、後のはおおそら様をあげる。
厳島神社の念仏踊は2度目の採訪である。台風13号が南方洋上をうろうろしているというのに今日は全く、眼が 痛くなる程の、秋晴といった天候で、厳島神社の深い森の内と外で、カメラのL.V.が5から13まで移動する難し い写場であった。
厳島神社の境内にある泉は今年も清冷な流れとなって涌き出ている。厳島神社は明かに竜神であり、この地方の 水利の根底をなしている。厳島神社の秋祭には氏子から子踊と念仏踊とが奉納される。神社のある水上部落から毎 年子踊が奉納される。子踊は或いは小踊かも知れぬ。神社の拝殿に向って右側にある芝居小屋風の舞台で水上部落 の小年が奴振りの小舞を数曲演ずるのであるが恐らく、これが芸能の始めであるらしい。現在はこの方は殆んど村 人達の余興といった様になってしまっているが。
念仏踊は水上部落より更に上手にある部落と、下手にある部落と両方から奉納する。
上の方は江原部落から出る。下の方は檜皮部落から出る。双方から道楽を奏しつゝ午後 3 時半に厳島神社の御旅 所という弁天用水にかかった橋の袂で落合うことになっている。
下の部落の頭屋である桧皮部落の寺田宗四郎さんの家へ行った。稲穂の重く垂れている畦路を行くと萱葺の 1 軒 屋に赤い幟が2本屋根に立てかけてあって、子供が炎天下の庭に盛んにうちわをあふぐ練習をしていた。
下の念仏踊は檜波部落と流田部落とが共同で毎年出すが、頭屋は両部落が毎年交替で勤める。
9月5日に世話人が頭屋の家に集って「花つくり」をする。花つくりとは胴取が頭につける鶏の冠物を造花で埋め るように飾るのである。そのとき来年の頭屋(流田部落)のくじを引く。而して9月9日には念仏踊の道具切を檜 皮のもの10人ばかりがくじに当った流田の頭屋の家に運んで当渡しをする。
念仏踊の構成は次の通りである。道中の行列の順に
1、幟 2 人。長さ約2m位の赤 1色の幟、幟の竿は竹で天辺に葉付の笹をつける。檜波の者と流田の者とが 1
本づゝ担いで行く。役につく者は何れの役も偶数であるが、以下全部、その半数を両部落から出す。
2、年寄(先導)2人。麻の裃、暑い折柄なので、パナマ帽を被る。白足袋、草履、青竹の杖。この役につくも
のは大てい古老であるがそれも年令的の古老というのではなく、常々部落の全般のことを世話をし、殊に水 不足のこの地方のこと故弁天の水をどのように分配するかということ等、この地方の水利権について権威を 持っている部落の代表者であるという。
3、頭屋。1人。当年の頭屋、黒紋付羽織。
4、杖 2人。男子、中学生。紺がすりの着物、袴、赤襷をかけ、赤鉢巻を向う結びとする。両端に色紙の総を
つけた樫の棒を持つ。
5、胴頭(どうとり)縦縞の黒赤の袴、しゅろの草履ばき、袴は両褄をからげる。袴の腰紐に腰輪をつけ下着の 上に白の布を襷がけに巻き、腹に小さな布団をあてゝ、その上に締太鼓をやはり白い布で縛る。腹と肩に布 をかけて、先に襷がけにした布に掛け結ぶのである。締太鼓には赤の前垂をつける。花笠をかむり、笠緒は 白い布、これをしっかりと顎に結ぶ。次に赤い手抜きを背に着る。手抜きは羽織程の丈けがあって、すっぽ りと腰輪を上から包み、前は丁度羽織の紐を結ぶように太鼓の上で結ぶ。赤紐。
さし花笠であるが、仲々見事なもので、「お花」といっている。頭にかむる所は伏せた椀型になっていて頂 きの所に別の輪形の枠をつけ、その枠の中央に鶏の絵を描いた皮製の鶏の形につくったものを立てる。この 鶏を周囲から見えなくなる位に青い茎付の造花で垣のようにとりまいて、造花の束のようにする。更に上の 方は違った種類の造花(上段の方は牡丹にしてあるが、下の方は赤い造花で何の花とも見分けられない)。 この造花の花の数は 40~50 はあるであろう。花笠は束にくくりあげる朝顔開きに上の方で少し開いた形と なり、並んでいる茎の間から、僅かに中の鶏が見えている。この花笠の上に更に 5~6 本の花串を挿してあ る。これを冠るのである。風が吹くと顎を少し風下の方へいくびにして、風をのがす外はない。
両手に撥、木、両端に少しばかり、色紙総をつける。言い忘れたが花笠の縁にしては色紙を細く切った紙片 を、すだれのように垂らせる。
35~36才位の壮年。
6、団扇 4人。大団扇2人、小団扇2人。いづれも中学生の男子。紺縞の着物外服装は杖と同じ。経1mから 1.5m位の青竹の柄の団扇を持つ。別に定った模様ではないが、鶴亀、松竹梅などの彩色模様をかき、団扇 の周囲は色紙の細片をつける。大きい方は年長の中学生。
7、鉄砲 2人。平常服。
8、鉦打ち 8人。小学生、男童、紺縞の着物、袴、赤白の紙の幣垂をつけた腰輪をつける。冨士笠(紙)をか
むる。笠には造花をつけ、また縁には五色の細片の紙を垂らす。鉦と五色の紙総をつけた撞木を持つ。道中 鉦は重いので首にぶら下げる。
下の組の念仏踊が檜波の寺田さんの家(宿)を出発したのは午後 3 時頃であった。まづ役のもの全部が寺田さん の家の前の庭にそろって宿の方を正面として 1 庭踊る。このとき胴頭は「お花」と手抜きはつけない。手拭で向う 鉢巻をして踊る。
まづいよいよ出発の鉄砲を青空に向ってぶっ放す。
まづ杖2人が庭の中央に進み出て杖を右手で抱え、向き合って左手を組んで、くるくると2-3回廻り上手と下手 とに分れて、棒打の所作をし、お終いに背中合せになって杖を両手で水平に 2 人とも高くさしあげる。このときま た鉄砲を打つ。杖庭を退き、代って胴取とうちわが庭に入る。最初は上図のように胴取2人が正面を背にして並び、
その前に胴頭と対面してうちわ2人づゝが並ぶ。このとき大うちわは前、小うちわは後である。
胴取の太鼓と、鉦打ちの鉦の囃子に合せて胴頭はまづ足拍子に合せて、上半身を前にかがめる振をし、そのとき 胴頭 2 人が向き合いとなり、又巴となって左廻りに庭を巡る。そのとき、うちわは(1 人の胴頭につき大うちわ 1 人、小うちわ 1 人がつく)胴頭の前に大うちわが対面して踊り、小うちわは胴頭の後をついて行く風にし、あぶぎ ながら踊る。
踊の途中で 2 人の胴頭が頭を寄せ合って太鼓を打つ所がある(これを鶏の蹴合という)が、そのとき大うちわは サッと両脇に退く。
胴頭の踊が済むと、再び杖が庭の中央に出て、最初の振を繰返し、鉄砲が鳴って一踊りが終る。
全く歌詞はない。また可なり複雑な踊りであるが曲に名称はない。唯踊りの1節、1駒の振に前記の「鶏の蹴合」
とか後に神社で演ずる「散米」とかの名称が、つけられているのみである。囃子は踊っている胴頭が打つ太鼓、鉦 打の子供の鉦のみであるので、これも亦非常に簡単なリズムの繰返しである。
宿の庭で 1 踊りして、すぐ行列を組む。このとき胴頭が初めて、花笠を被る。而して幟を先頭に、秋田の畦道を 約2キロ、道中楽を奏しつゝ堅田にある厳島神社のお旅所へ向う。
御旅所は檜皮の方から堅田を経て江原へ通う街道筋と、厳島神社へ行く道とが交叉している四ツ辻を神社とは反 対の方へ少し下った所にある。この地方の人が弁天用水といっている枯川にかかった橋の袂にある大きな猿田彦大 神の碑の傍に、丁度、神輿を乗せる程の大きさのコンクリートの台がつくってある。弁天用水というのは今は濁川 で、大して役に立って居そうにもないが、もとはこの地方全般の耕地用水として非常に大切に管理され、その水源 は厳島神社の湧水だといわれている。
その御旅所の所まで道中楽を奏しつゝ行列していく。而して、こゝで上の組の江原部落から、やはり道中楽を奏 しつゝ行列して来た念仏踊の組と会うことになっている。この出合は別に儀式はない。双方の年寄が帽子をとって 挨拶する位なもので、胴取を初め、鉦打を付添うて来た世話人や、母親にすぐ花笠をとって貰って、風を入れてい る。
上の組の念仏踊の構成も全く下と同様であった。強いて異なる所をあげると、杖とうちわのしている襟、鉢巻は 下の組が赤であるのに反して上の組は白であった。胴頭と鉦打のつけている輪腰の幣紙は下の組が、白と赤とであ るのに対して、上の組は青と赤の幣紙であった。唯胴頭のつける花笠「お花」の造花の下に隠されている鶏の形の 冠ものは上の組にはなく、唯花束を束ねて笠に仕立てゝあるのみである、が、これは壊れてそのあとの製作に簡略 化されたものらしい。
両組が集合すると、両組の杖が使となって神社へ走って行き念仏踊の御旅所到着を神社へ通知する。
次に厳島神社から御旅所へ神輿の神幸式となる。神輿を御旅所の神輿台の上に置き、祭典が行われ、直ちに還御 となるのであるが神輿舁きが、仲々まっすぐに帰ろうとしない。堅田の町中や、その北側にある水上部落の中へ寄 り道をする。念仏踊はこの還御のお伴をして神社へ入るのであるが、神輿が確かに厳島神社の方へ向ったというこ とを確かめるまでは道中をしない。神輿が厳島神社の境内へ入ってからでも確かに神殿の中に納まったのを見とど
ける前は厳島神社の鳥居を潜らないのである。
水上部落の子踊、は神輿の還御に先立ち既に神社へ入り、舞台の奥の楽屋で衣装付を終り、奴姿の自分の腕より 太い綿入紐の帯をしめた奴姿が舞台の引幕の影から、顔を並べて、念仏踊や神輿の還御を眺めている。
いゝ忘れたが念仏踊がお旅所から、神社へ向って、神輿の後を行進するとき、本年の下の組が先に進んだ。この とき下の組の年寄は上の組の年寄に対し「お先に」というように、大へん丁寧な挨拶をする。
厳島神社の鬱蒼たる杉の森に囲まれた拝殿の前の広場が念仏踊の庭となる。右手の方に前述の舞台がある。まづ 下の組が庭に入り、所定の役の位置につく。そのとき、舞台の引幕が曳かれて、舞台の上では三番叟姿の水上部落 の青年が口上を述べる。この口上の装いは全く狂言役者の装いである。
それが済むと、下の組の鉄砲がぶっ放されて、念仏踊が始まるのである。この踊りの振り、囃しは宿の庭で出立 ちのときにやったのと殆んど変らない。唯胴頭はお旅を発進するとき、衣装直しをして正式に「お花」を頭につけ、
手抜きを着た姿で踊る。
唯踊振りで宿の出立の踊と違った所は踊り始めて間もなく胴頭が 2 人並んで、拜殿の方に向って下手で踊る。そ のとき 2 人の年寄が進み出て白紙に包んだ、五色の小さな切り紙を手でつかんで、胴取の花笠の造花の花束の間を 分けて、2握み程入れる、これを「散米」という。終って再び胴頭が立ち上り頭を震わすようにすると、その紙片が 胴頭の花笠の中から吹雲の如く散る仕掛となる。
踊り終って杖が演ぜられ、鉄砲が鳴って踊が終ると、参詣人や見物人は、いっせいに胴取の花笠の花を奪い合う のである。即ち花がなくなり、始めて鶏の姿が外面に表われてくることになる。續いて、舞台で水上の子踊が始ま る。1踊りあって幕をおろすと、次に庭で上の組の念仏踊が始まるのである。上の念仏踊は下のものと全く同じであ るが上の組の胴頭は下の組のものよりも若いので、それだけ活発であり、キビキビしている。中々、はげしい。そ の代りに花笠を奪われるときはも早や胴頭はくたくたである。
再び舞台の幕が曳かれて、子踊りがある。子踊については芸題や、曲目は短かいものであるが皆違うらしい。師 匠らしい人がマイクで歌を流すのにつれて、7~10才位の男の子が舞台で踊るのであるが衣装もその都度違い、どう も舞ざらえのような気がする。
この子踊のあと、再び念仏踊がある。これもやはり下、上の順で踊るのであるが第 2 回目の踊のときの胴頭は花 をむしり取られた笠を着て踊る。従って下の組の胴頭は明かに鶏の冠をつけた踊であり、上の組はこの鶏がないの で、花のむしられた笠を手抜きで包んで、これを被って踊ったのである。
傾いた初秋の太陽が少し赤味を帯びて田の面を照す頃念仏踊は終って夫々の部落へ鉦を打ちながら引揚げる。
厳島神社の舞台では子踊が、これから夜にかけて、まだまだ盛んに演ぜられようとしているようである。