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EU NATO - 日本国際問題研究所

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(1)

はじめに

1) イラク戦争と米欧関係

2003年3月20日、アメリカは「有志連合」とともに、イラク戦争に突入した。その1年後 に、欧州の最大の変化として、北大西洋条約機構(NATO)・欧州連合(EU)の拡大があった。

2004年3月、NATOは中・東欧7ヵ国が加盟して計26ヵ国となり、同5月、EUは中・東欧8 ヵ国と地中海2ヵ国計10ヵ国が加盟して25ヵ国となった。2007年1月には、ルーマニア、

ブルガリアもEUに加盟する。これによって東はロシア・ベラルーシの境界線、南はバルカ ン諸国を除くヨーロッパ大陸のほとんどがEU・NATOの枠組みに入ったのである。

しかし1990年代とは異なり、EUとNATOの関係は、コソヴォ空爆、9・11米同時多発テ ロ事件とアフガニスタン空爆、イラク戦争を経て、次第に変化していた。その変化を促し たのは、ひとつはイラク戦争の開戦か大量破壊兵器の査察継続かをめぐるアメリカとフラ ンス・ドイツの対立であった(2)が、いまひとつは、中・東欧のいわゆる「親米派」政権に よる「新しいヨーロッパ」の登場であった。現実には、フランス・ドイツを支持したのは ギリシャ・ベルギーの2ヵ国のみで、中立4ヵ国を除く他のEU諸国7ヵ国と中・東欧10ヵ 国は、アメリカのイラク戦争開戦を支持したのである(3)

アメリカのブッシュ政権が2期目に入り、再び米仏接近があり、またEU・NATOの棲み 分けが始まって米欧の軋轢は収まったかにみえた。それはアメリカ・仏独ともに、自領域 内での孤立と批判を避けるために必要な措置でもあった。

しかし中・東欧においては、イラク戦争時に表面化したEU大国(仏独)への不信は今や 経済面も含めて継続しており、それが2005―06年の総選挙で一部の例外を除いてEU推進 派政府の敗北や、民族派ないしEU懐疑派の勝利につながっている。また安全保障面では、

中・東欧各国政府はNATO・アメリカに依拠せざるをえない側面があるが、イラク戦争の長 期化と自国兵士の犠牲の増大やアメリカの国際的評価の低下のなか、市民レベルではNATO への批判は根強い。

本稿では、こうした最近の変化や選挙での民意の選択をも踏まえ、イラク戦争後のEU・

NATO拡大と中・東欧の外交・安全保障を、東西欧州の思惑の違い、アメリカとの関係、政 府と市民のずれなどに焦点を当てつつ、検討していきたい。

EU NATO

(1)

Haba Kumiko

(2)

2) 冷戦の終焉とEUNATOの拡大―戦後秩序構築の問題

冷戦終焉と東欧・ソ連の社会主義体制の崩壊の後、1990年代前半は、米欧は一致して

「民主化、自由化、市場化」によるグローバル化を、とりわけ旧社会主義国に対して推進し てきた。

しかしコソヴォ空爆後、アメリカの民族・地域紛争への武力介入に対する反発が中東や 中国を中心として各地で強まった。9・

11の同時多発テロは、そうしたなか、大統領選挙に

おけるブッシュの不正疑惑が高まっていた最中に起こった。9・

11の事件後、チェチェンへ

の対処に苦しんでいたロシアのプーチン大統領によるすばやい対応もあり、「国際対テロ協 力網」が敷かれ、米・欧・ロシアという共同の国際秩序作りが始まったかにみえた。とこ ろが現実には、その後のアフガン空爆、イラク戦争に至る経緯で、アメリカのブッシュ・

ドクトリンに象徴される、「悪の枢軸(イラク、イラン、朝鮮民主主義人民共和国〔北朝鮮〕) への(核使用をも辞さない)先制攻撃」という態度表明のゆえに、世界でアメリカの単独 行動主義

ラ テ ラ リ ズ ム

に対する危惧が広がった。フランス・ドイツのアメリカ批判は、現実には両国の 国家利害に基づいた外交戦略でもあったが、アメリカの行動を危惧する国際世論の代弁者 と映り、その国際的評価は一挙に高まった。

しかし問題は、現実には仏独はEUの多数派を代表しておらず、EUの多くの国(7ヵ国)

と中・東欧(10ヵ国。EU・NATOの加盟候補国)が、アメリカのイラク攻撃を支持する声明 を出したことであった。これはブレア英首相の働きかけによる「有志連合」形成の戦略と して行なわれたが、その結果、中・東欧政府の「親米性」が表面化することになった。

第2期ブッシュ政権は、2005年

2

月、ライス米国務長官の訪仏に続いて最初の訪問先にヨ ーロッパを選び、EU、仏独との関係の修復を試みた(4)。ブッシュ大統領が仏独と再び手を 結んだのは、「有志連合」に基づくユニラテラリズムから脱し、世界における米欧共同によ る戦略的優位性を維持する故であった。しかしアメリカを支持した中・東欧を強く批判し たフランスのシラク政権と中・東欧のしこりは、その後も中・東欧の政府および市民層に 残存することとなった。

イラク戦争を契機とし、加盟直前の移民・農業政策問題や欧州憲法条約をめぐる対立を 要因として、EU既加盟国と新加盟国の相互不信が著しい。今後ルーマニア、ブルガリア、

バルカン諸国の加盟に際しても、国益と安全保障の違い、認識の違いをめぐる西と東の相 互不信は容易に解消しそうにない。

近年の各国におけるナショナリズムの高まりと「市民への配慮」の必要性の結果、東西 欧州の加盟国政府は、移民・農業問題や安全保障政策において、自国の権益を重視せざる をえず、それがさらなる不信感を強めている。

3) イラク戦争がもたらした国際秩序の変動と拡大EU

イラク戦争後のブッシュ米政権も、国外・国内においてその影響力を弱めつつある。国 際規範の担い手としてのアメリカの評価は低下し、ブッシュ政権は国内でも支持を低落さ せている。2004年以降のこうした国際関係の変容の下では、日本も、日米

2

国間関係を超え て、アジア・欧州・アメリカという広い枠組みのなかで国際関係の再構築を検討していく
(3)

必要があろう。

近年特に、「東アジア共同体」構想が、政治的思惑やナショナリズムの対立により、十分 な進展をみないなか、旧社会主義体制の

2

大国、中国とロシアが主導する「上海協力機構」

(6ヵ国)が、急速に影響力を拡大し機構を整えつつある。インド、イラクなどオブザーバー 諸国を合わせると、実に世界人口の半分を覆い、軍事力(核兵器を含む)、経済力、国際秩序 にも大きな影響を及ぼす勢力が、アメリカの武力による民主化への反発と、それに有効に 対抗する指針を示せなかった欧州を乗り越える形で、旧ソ連に代わる新たな世界秩序の一 翼として登場しつつあるかにみえる(5)

こうしたなか、拡大

EU

は、アメリカとは異なるより世界の公共権に基づく国際規範を、

中・東欧をも巻き込み打ち出すことができるかが問われている。現在、世界の富の5割が国 内総生産(GDP)上位5ヵ国によって占められており、上位10ヵ国で世界のGDPの実に

75%

を握る。この

GDP

先進国

10

ヵ国からこぼれ落ちた

190

の国々といかに提携し共存するか。

EUは東・南へ拡大し、ロシアや中東、アフリカとも提携・協力することにより、戦略的に

は「多国協調路線」をとらざるをえない。

以上を踏まえ、イラク戦争後の拡大EUと中・東欧の国際関係を分析する。

1 コソヴォ空爆、911からイラク戦争へ―欧州の安全保障と中・東欧の役割

(1) コソヴォ空爆

冷戦終焉後、欧州は当初、全欧安全保障協力会議(CSCE)という

1975

年に発足したヨー ロッパの東西全体を包摂する緩やかな枠組みによる安定化を意図した。しかし

91

年のソ連 の軍部と保守派のクーデターが中・東欧諸国にソ連のアナーキー化の脅威への危惧を強く 感じさせ、中・東欧諸国はヴィシェグラード地域協力(ポーランド、チェコ、スロヴァキア、

ハンガリー)を基礎とし

NATO

加盟を強く要求することとなった。他方NATO側は、北大西 洋協力理事会(NACC)、次いで「平和のためのパートナーシップ」(PfP)を設立することに より、参加諸国との軍の相互協力関係の確立、NATOとの合同演習などにより対応していた が、90年代半ばになると、米大統領クリントンは中欧諸国をNATOに加盟させることによっ て、欧州の東半分(ロシア、バルカン半島)への影響の拡大を試みた。

前述のように、EUと

NATO

の拡大はいずれも、冷戦後の米欧による「民主化、自由化、

市場化」による秩序形成と結び付いていた。しかし1999年のコソヴォ空爆は、民族紛争と 世界戦略に対する第2期クリントン政権の戦略の変化であった。

その第1は、「武力による民主化」という路線をバルカンに対してとり始めたこと、第2 は、民主化と市場化の遅れる「ロシアを見限り」オルブライト米国務長官の起用に象徴さ れるように、ヨーロッパに積極的に介入し始めたこと、第

3

は、「中欧諸国を

NATO

に取り 込み」、短期的には中欧とバルカンの分断、長期的には旧東欧全体にアメリカの影響を強め ようとしたことである。

しかし1999年のコソヴォ空爆を踏まえ、NATO50周年の首脳会議で確認された「新戦略概 念」は、域外派兵、人道的介入、緊急の際には国際機関を回避してでも介入することを謳

(4)

った。これに対し、ヨーロッパはその介入の是非に関して社会が2つに分断される状況を呈 した(6)

またクリントンの言う「きれいな戦争」が、現実には中国大使館への誤爆、アルバニア 人の列車や難民への誤爆、100万人に及ぶ大量の難民の創出、橋やテレビ局、メディアビル への攻撃など、戦争の長期化とともに多くの誤算と問題を生んだこと、劣化ウランを使用 していたことからイタリアをはじめ欧州各国で批判が高まり、モニカ事件への食傷ともあ いまって、アメリカの紛争への介入のあり方に批判を強めることとなった。

最終的に

2000

年12月におけるユーゴスラヴィアの大統領選挙、総選挙でミロシェヴィッ チが敗北し、コシュトゥーニッツァが勝利したことにより、民主派が影響力を拡大するこ とになった。こうして、バルカンの「民主化」は道筋がつけられることとなったが、コソ ヴォ紛争へのNATO介入については、多くの疑念を欧州の加盟国に与え、その後の地域紛争 にNATOとしてかかわることを困難にした。

2 911からイラク戦争へ―紛争・戦争への参加要請

9・ 11

からイラク戦争への過程では、①「対テロ」を掲げたアメリカが、中東の反米政権 に対し戦争による介入と政権の転覆を目指したこと、②NATOの東方拡大による欧州東半分 へのアメリカの影響力の拡大、③アメリカが、中央アジアからロシア、ウクライナを取り 込む目的とがすべて重なっていた。

9・ 11後、ロシアのプーチン大統領は他の国に先駆けてブッシュに対テロ国際協力を提唱

した。そうすることによりロシアは、国際的孤立状況から脱出するとともに、欧州から非 難を浴びていたチェチェン問題を「対テロ闘争」として正当化することができた。またブレ ア英首相の提案により、

2002年 5月には、 NATO・ロシア理事会が設置されることとなった

(7)。 こうした状況は、NATO加盟をロシアの脅威への安全保障としていた中・東欧に緊張を強い たが、逆にNATO側にとってはロシアの承認の下に拡大を遂行する保障となった。

2002

11

月には、プラハでの

NATO

首脳会議で、中・東欧

7

ヵ国への拡大が決定され、

MAP

(Membership Action Plan)諸国への拡大の展望も承認されたが、並行してイラク戦争の 可能性が示唆され(8)、それへの参加は、中・東欧にとっては踏み絵となった。

9

11

からイラク戦争においては、戦争への参加は

NATO

の義務ではなく、「有志連合」

とされたが、NATO加盟候補国にとって参加要請は疑う余地のないものでもあった。それで もイラクへの介入に関しては2002年

12

月頃までは、中・東欧諸国の政府・市民は国連によ る大量破壊兵器(WMD)の査察継続を基本的に支持し、イラクへの武力介入には慎重ない し否定的であったのである。

2 イラク戦争と「新しいヨーロッパ」―ポーランドの役割

こうしたなか、介入の是非が国際連合の場を中心に世界的に議論されることとなり、ア メリカの戦争による介入は孤立の方向に向かっていた。そうした矢先、2003年

1

月30日に、

欧州8ヵ国によるアメリカ支持の声明が出された。次いで

2

4

日にも、中・東欧の

NATO

加盟国および加盟候補国、ヴィルニュス

10

と呼ばれる国々が、アメリカ支持の声明を打ち
(5)

出したのである(9)。これはイギリスのブレアが準備した、アメリカの孤立化を回避し欧州の アメリカへの支持を復するための試みであった。結果的にはこれにより仏独の面目がつぶ れる形となった。またフランスのシラク大統領が、アメリカを支持する中・東欧に強い批 判を行なったことにより、中・東欧は強く反発することとなり、その亀裂は、後々までフ ランスの主導権に対する懐疑につながることとなった。

仏独を支持する国がEU内ではギリシャとベルギーのみという状況のなかで、ラムズフェ ルド米国防長官はアメリカを支持する中・東欧諸国を「新しいヨーロッパ」と呼び、仏独 を「古いヨーロッパ」と揶揄した(10)。「新しいヨーロッパ」のうち特にポーランドは、イラ ク戦争に参加する「有志連合」21ヵ国軍の兵士9000―

1万 2000

人を率いて、危険な戦線に 従軍した。その結果、中・東欧は、アメリカの評価を得た見返りに、仏独からは

EU

内の

「トロイの木馬」(油断ならない身内の他者)と称されることになり、他方、中・東欧の国内 では、政府の戦争参加に異を唱える野党や市民のデモが政権を揺るがすこととなった。

しかし国連で孤立していたアメリカを支持した見返りとして、中・東欧中でもポーラン ドは多くの貴重な国際的地位を獲得した。ひとつは、NATO事務総長安全保障担当補佐官の 地位、第2は、イラク国際調停委員会委員長へのベルカ元首相の就任があった。また(失敗 に終わったものの)

2006

年には、クワシニェフスキ元大統領に国連事務総長のポストがアメ リカより示唆された。さらも

EU

内で唯一、仏独との首相・外相からなる会合「ワイマー ル・トライアングル」においても、ポーランドはアメリカの後ろ盾をえて独自の発言権を 維持することとなった。その結果、ポーランドはイラク戦争後、「欧州の大国」意識が強ま った(一時ヴィシェグラード諸国の地域協力関係から手を引いたが、2004年のEU加盟後は、EU の財政予算配分などから再び中欧の地域協力を基礎に、域内での利害に結束してあたるようにな った)。

ポーランドをはじめ中・東欧が、仏独に反対して「親米政策」をとり、イラク戦争を支 持し派兵を行なったことは、周辺国の疑念と驚きを呼び起こした。以後日本も、アメリカ を支持しイラクに派兵を行なった中・東欧諸国に急速に接近することとなる。

中・東欧のイラク戦争支持の原因は、補助金や石油権益など物質的なメリットも含めさ まざまあるが、根本的には、中欧の安全保障観の問題である。彼らは本質的に、①

NATO加

盟を目前にして、アメリカに依拠した安全保障を放棄するわけにはいかなかった、②東の ロシアに対する脅威と警戒の継続、が決定的なものとして存在する。加えて、③歴史的な ナチス・ドイツの侵略と、「ミュンヘンのトラウマ」(1938年、のるかそるかの決定的な時、英 仏はナチス・ドイツを融和するためにチェコのズデーテン地方をドイツに割譲し、親英仏のチェ コは解体した)などの歴史的記憶の傷の深さにより、安全保障を独仏にゆだねることにはい まだ警戒感が強かったのである。

3 イラク戦争後の中・東欧の安全保障―軍の近代化と戦争への参加

NATOの拡大は、中・東欧にとっては、2

度と自国が戦争に巻き込まれないための保障で

あり、ロシアの影響下から離れ「ヨーロッパに回帰」する保障であった。だからこそ、1999

(6)

年NATOに加盟した中欧

3

ヵ国は口々に、「われわれはヨーロッパに帰ってきた」「もはや自 由の防衛に1人で立ち向かうことはない」と語ったのである。中・東欧諸国は、NATOへの 加盟はアメリカによる防衛と戦争の終焉による「不戦共同体」への参加と期待したのであ る。

ところが冷戦終焉からイラク戦争への過程でNATOの役割は大きく変化していた。新しい 状況下ではNATOは、「地域紛争やテロの新しい脅威」に対抗する域外での平和支援活動に 活路を見出し、新加盟国に対して、域外の紛争・戦争防止への不断の実戦参加を要請する こととなったのである(11)

それは、まずコソヴォ空爆、次いでアフガニスタン、イラク戦争への参加と続き、中・

東欧の兵士たちに「なぜ戦争終焉のために入った

NATOにより自国から遠くはなれた地域で

戦争に参加し、殺されなければならないのか」という素朴で根本的な疑問を起こさせ、国 内での反NATO気運を上昇させることとなった。他方、国内においては、NATO加盟国と加 盟候補国は、ワルシャワ条約機構軍の戦車や装甲車を中心とする旧式の軍装備の解体と再 編が求められた。すなわち軍の近代化、軍の民主的統制、徴兵制から志願制へ、機動力向 上を目標とした軍事費の増大(GDP比2%)が目指され、それによって、NATOの他の軍隊と の相互運用能力を高めようとしたのである(12)

加盟後の国防戦略として、中・東欧各国は、自然災害からテロリストによる攻撃などの 広範囲の脅威やリスクに対応するよう、軍の近代化と職業軍人の育成、さらにコソヴォか らイラク戦争にまで、域外の広範な地域への派兵が要請された。また、ポーランドやチェ コは、(西欧の多くが懸念している)アメリカの弾道ミサイル防衛に参加することを決め

(2006年)、ルーマニアやブルガリアは、在欧米軍のドイツから自国への移動を積極的に受け 入れた。またルーマニアは、2004年、黒海の安定化のために、アメリカ・イギリスと結ん で、ロシア・中央アジア・中東に対するNATOの東方外交に積極的に関与する姿勢を示した が、それは東のモルドヴァに対する自国の利害とも重なっていた(13)

以上のように、中・東欧とりわけロシアと国境線を共有するポーランド、バルト諸国、

ルーマニアの政府にとっては、自国の安全保障は密接にNATO・アメリカとの同盟にかかわ っているという前提の下、NATOの要請に積極的に応えてきた。そのため逆に、EUの欧州 安全保障防衛政策(ESDP)という、サンマロ宣言以降に

EU

が進めている独自の危機管理に は、NATOに抵触しない限りでかかわる、という消極性を示してきた。

しかし、そうした政府のNATO加盟と戦争参加に対して、市民の反応は対照的であった。

イラクへの派兵の長期化と、兵士の安全確保の困難さは、国内で(NATO批判以上に)、市民 の政府批判を高めた。国民レベルでは、アメリカとの同盟の結果、遠くイラクに兵を送り 命を危険にさらす状況を是とするものは多くなく、繰り返し議会で兵の帰還要求が出され た。派兵の長期化に伴い、兵士の殺害や、派兵の費用がかさむにつれ、また政権内や国内 企業に石油権益をめぐる疑惑が暴露されたケースも起こり、これらの結果、兵の撤退や政 府の退陣要求が高まった。

以上のように、中・東欧政府の

NATO

加盟と親米政策は、国内では必ずしも支持されてい
(7)

たわけではない。国民の間では、EUと

NATOでは相対的に EU評価のほうが高かったが、他

方で、EUの厳しい達成基準と加盟後の移民・農業補助金の制限など、EUの対中・東欧政策 にも不満をもった国民層は、結果的に、国益よりもEU・

NATOに追従するようにみえた政

府の批判に向かい、EU・

NATO

加盟後に急速なナショナリズムの高揚がおこり、2005年秋 から06年にかけ、体制転換後5度目の自由選挙で、いくつかの国で政権の転覆に帰結するこ ととなった。

4 2005―06年総選挙―ナショナリズムの成長(14)

1) 総選挙からみる国民のNATOEU

中・東欧では、2004年の

NATO

EU加盟直前のユーロバロメータで、とりわけ経済面で、

貧富の格差が固定化されるのではないか、加盟によりさらに格差が拡大し経済的な困難を 強いられるのではないかなど、加盟への危惧を表明する声が強まっていた(15)。それを反映 するように、2004年5月

2日、加盟の翌日にポーランドの政権が倒れ、政局の混乱が続いた。

またEU25ヵ国拡大後初の欧州議会選挙では、中・東欧各国の投票率は、これまで欧州議 会選挙で最低の20―

28%という信じ難い数値となり、政権党でなく、野党、EU

懐疑派が上 位を占めた(16)。それは

2005― 06年の国政選挙にもそのまま反映する形となった。議会では、

対外関係を重視して国内改革とりわけ雇用対策や財政対策が進まない政権に対する不満が 野党の間に強まり、それは国民の生活面での不満をすくい取る形となり、EU・

NATO

の外 からの要請に振り回される政権党への批判が相次いだ。既加盟国では、欧州憲法条約の批 准がフランス、オランダの国民投票で否決され、移民やさらなる拡大への警戒感・嫌悪感 が高まるなか、中・東欧各国でも国益・市民益の擁護が声高に叫ばれ、結果的に東西欧州 相互の国益・市民益は対立するようになった(17)

ポーランド、スロヴァキア、チェコで軒並み政権党が敗北し、EUに懐疑的な勢力が成長 した。ハンガリー社会党のみが例外的に2期目の政権運営に入ったが、ユーロ加盟基準整備 のため、財政赤字の克服と規制緩和を断行して、秋の地方選挙では大敗を喫し、首相退陣 の声が高まった。ポーランドでは、左翼民主同盟の政権が下野し、「法と正義」(PiS)を中 心とする右派の連合政権となった。連合には、「家族同盟」、「自衛」など急進的農民政党が 入閣した。PiSの双子の兄弟カチンスキが大統領と首相を占め、急進農民政党「自衛」の顧 問を務めるレッペルが副首相となる異例の右派政権となった。スロヴァキアでも、民主派 連合が敗北し、これまで野党であった左派の「スメル」(道標)とメチアル前首相の「民主 スロヴァキア運動」など右派の諸党が連合政権を組んだ。チェコでは、EU批判を繰り返す クラウス大統領の母体、最大野党「市民連盟」が多数を占め、政権党となった(18)。中欧諸 国は、財政赤字からもなかなか抜けられず、2007年のユーロ加盟は、現状ではスロヴェニ アのみで、バルト諸国は

2008年の予定、中欧 3

国もまだ

2010年にユーロを採用する見通し

は立っていない。

NATO・ EU

加盟後も、中・東欧諸国はNATO・

EUの課題達成に精一杯で、それに対する

市民の不満が鬱積している。安全保障対策は、国民の意識としては、生活や経済の建て直
(8)

しすらできていない状況のなかで、最優先課題とは言いがたい状況である。しかし他方で、

アメリカとの同盟関係を誇示することで、経済的には不安定な

EU内での地歩を強化しよう

とする動きもポーランドやルーマニアなどにはあり、政府と国民との緊張は深い。

2) 西バルカンのNATOEU加盟交渉の始まり

今年に入り、ルゴヴァ大統領死後のコソヴォの不安定化を懸念して、NATOのデ・ホー プ・スケッフェル事務総長がコソヴォを訪れた。彼はコソヴォはモンテネグロのように独 立の国民投票を行なうつもりはないと述べ、国連暫定統治下のコソヴォにおいてはコソヴ ォ中・東欧国際平和維持部隊(KFOR)が、コソヴォの治安を強化し、地位確定をめぐる歩 み寄りを強化するよう呼びかけた。クロアチアは、2005年10月に、トルコと共に

EUとの加

盟交渉を開始し、同年12月には、マケドニアが加盟交渉に入った。また

NATO

に関して言 えば、MAP諸国、とりわけウクライナやアルバニア、マケドニアが加盟に向けて準備を進 めている(19)

EUの共通外交安全保障政策

(CFSP)における東の境界線の問題やNATOによるバルトの 核配備の可能性などについても、2006年に入り、ウクライナの東への揺り戻しや、ベラル ーシの警戒、ロシアの経済面での協力と軍事面での棚上げなど、解決すべき課題は多い。

5 「上海協力機構」―米欧の国際規範への挑戦?

冷戦終焉後の世界秩序として、米欧亜の

3

極構造、ないし米欧2極構造と中国の台頭など が指摘されてきたが、先にも述べたように、現在なかなか進まない東アジア共同体の動きを 大きく乗り越える形で急速に頭角を現わしているものに、「上海協力機構」(Shanghai Cooperation

Organization)がある。とくに中国の目覚ましい経済発展とロシアの石油・天然ガス資源に基

づく協力関係に加え、近年GDP世界第12位となったインドが、オブザーバーに参加し、一躍 注目をあび始めた。これらの国々はアメリカのユニラテラリズム/武力による外からの「民 主化」への警戒も強く、近年自民族優位のナショナリズムが顕著である。

上海協力機構は、もともと「上海ファイブ」として、1996年に中国、ロシア、カザフスタ ン、キルギスタン、タジキスタンの5ヵ国によって設立された。その後ウズベキスタンが加 盟し、オブザーバーとしてインド、パキスタン、イラン、アフガニスタン、モンゴルが名を 連ねている。加盟国全体で人口15億、オブザーバーを合わせると

28.5億のメガ地域機構であ

るのに加え、近年、中国・インドは2005年のGDPでそれぞれ3位、12位のトップグループに 入った。29億のメガ地域機構が、アメリカ・

EUの米欧2

極の対抗勢力として成長しつつある のである。

彼らの強みは、それぞれが核を含む巨大な軍事力をもち、またこの間、経済・ハイテクに おいても急速な発展を遂げ、世界の半分の人口(労働力とマーケット)を有し、アメリカ型の

「民主化」に対抗できる新しい「価値」の機構としても成長・存在していることであろう。し かし権威主義的で反民主主義的な要素もあり、世界秩序にとって脅威となりうる存在とも言 える(20)

欧米の規範とは異なる価値をもつ、世界の半分を占めるグループが、「数の力」と経済力・

(9)

軍事力をもちながら、リージョナルな要求を掲げて、国際社会に参入してきたとき、NATO やEUの安全保障はどのように機能するのであろうか。これらの地域機構が相互に屹立する ことを免れるためにも、アメリカ一極の軍事力に保障された、「武力による民主主義」では限 界があり、EUの提唱する「欧州安全保障戦略」と国連の「人間の安全保障」の理念に基づい た、経済的安定と発展に依拠した新たな地域共存型国際秩序の創出が早期に期待されよう。

まとめ

以上を踏まえ、イラク戦争後の拡大EU・

NATOと中・東欧の国際関係については、次のよ

うにまとめられよう。

第1には、冷戦後からイラク戦争に至る経緯で、EUと

NATOの齟齬が拡大し、その後再び

収斂と棲み分けの方向に進みつつあるものの、この過程で、欧州内部の相互不信が進展し、

現時点では、それが各国共に政権を転覆させ EU 懐疑派を政権につけるような力となって働 いていることである。

これは、イラク戦争をめぐるアメリカ対仏独、欧州内親米派との三者関係においても、そ れぞれ政府と市民の対立を含む複雑な構図を生み出している。問題は市民の切実な利害が、

東西相互の市民間の対立を深めていることである。それは、フランス、オランダでの国民投 票による欧州憲法条約の批准拒否、その背景に移民問題や拡大への否定的感情が市民の間に みられたこととあいまって、東西市民の相互不信を強めている。

第2に、米欧関係における中・東欧の位置である。イラク戦争では、仏独のイラク戦争批 判に対して、アメリカを支持し、イラクに派兵して「新しいヨーロッパ」の異名をとった。

拡大

EU最初の欧州議会選挙では、中・東欧では軒並み、低い投票率と EU懐疑派、民族派が

多数を占め、西欧を幻滅させた。これをみる限り中・東欧はプロ・アメリカであるが、国民 の間には欧州意識も強い。なぜ現在欧州懐疑主義なのか。

冷戦終焉後15年後に達成された

EU・NATO

への加盟は、「ヨーロッパ回帰」による「自由 と豊かさ」を当初予想されたほどには実現しなかった。またロシアの脅威やバルカンの紛争 からの安全保障を期待して入ったNATOは、新戦略概念の下で、新加盟国にイラクやアフガ ニスタンへの派兵やバルカンの平和維持、GDP2%の軍事予算を義務付けることになった。し かし期待された急速な発展は、中欧でまだ実現されていないにせよ、中欧諸国の多くはすで に、購買力平価では西側諸国の6―7割に近づいている。国民の満足度は低いものの、キャッ チアップは遠い将来ではない。

第3に、国際関係における地域統合の意義と限界について、一言触れておきたい。

EUは、カプチャンやリードも指摘するように、国際規範やモラルにおいては、アメリカと

比較して常に、より民主主義的で多元的な国際秩序形成の方向を、イラク戦争から欧州憲法 条約の議論のなかで、示そうとした。理論的にはソーシャル・ヨーロッパという公共権と多 元的秩序による国際規範の提示として世界政治に与えた影響は大きかった。しかし欧州大国 の指導者たちは、それを自国に適用する際には、現実の国際規範の模範となることはできず、

むしろ既得権益の保護やダブルスタンダードによって置き換えてしまい、中欧諸国の幻滅を

(10)

招いた。仏独が、アメリカのユニラテラリズムを批判しつつ、欧州域内に対しては政策の多 元性に限界を設けようとしたこと、新加盟国は、アメリカの軍事力と政治力、EUの経済力の 二股に依拠しつつ自国の発言力を高め、安全を保持しようとしたことが、いずれも相互不信 を招き、生活レベルからの市民の反発を招いた。さらに、EU市民層は、移民・失業問題・農 業補助金などの利害をめぐって、東西でゼロサム・ゲームの対立を引き起こした。これらが 相互に関連して、根深い相互不信と拡大・深化への懐疑を引き起こしたと言えよう。

イラク戦争後の3年間、NATO・

EU拡大後 2

年間の欧州の国際関係の現状は、欧州の東西 不信、中・東欧のアメリカ依存の強まり、自国での平和を維持するために他国に派兵するこ との矛盾、などに収斂できよう。

しかし他方で、2007年から27ヵ国

EU、これに西バルカンとトルコが続き、また 26

ヵ国

NATO

にもクロアチア、マケドニア、中央アジアなどが加盟要請している現状において、米 欧関係の修復に加え、各国間市民と欧州内部の利害調整を早急に行ない、遠心力をこれ以上 高めず、多元性と市民意志に基づく運営を行なっていくことが、長期的には不可欠の課題と なるであろう。

1) イラク戦争後の拡大欧州、欧米関係、および世界秩序の変容に関しては、以下を参照。G・ジョ ン・アイケンベリー(鈴木康雄訳)『アフター・ヴィクトリー―戦後構築の論理と行動』、NTT 出版、2004年;土佐弘之ほか「イラク戦争後の世界秩序」『アソシエ』(特集:ポスト・イラクの 自由と民主主義)第15号(2005年);羽場久 子『拡大ヨーロッパの挑戦―アメリカに並ぶ多元 的パワーとなるか』、中央公論新社、2004年;羽場「NATOの東方拡大と欧州の安全保障」、菅英 輝・石田正治編『21世紀の安全保障と日米安保体制』、ミネルヴァ書房、2005年;広瀬佳一

「NATO拡大と中東欧」、六鹿茂夫「ルーマニアの東方外交」、岩田昌征「旧ユーゴスラヴィア―

多民族共存戦争の欧米的諸要因」、いずれも、羽場久美子・小森田秋夫・田中素香編『ヨーロッパ の東方拡大』、岩波書店、2006年;Philip H. Gordon & Jeremy Shapiro, Allies at War; America, Europe and the Crisis over Iraq, Brookings Institution, McGraw-Hill, New York, Chicago, et al., 2004; David M.

Andrews(ed.), The Atlantic Alliance under Stress: US–European Relations after Iraq, Cambridge University Press, 2005; James Sperling(ed.), Europe in Change: Two tiers or two speeds? The European security order and the enlargement of the European Union and NATO, Manchester University Press, 1999; Foreign Policy Review, Budapest, Vol. 2, No. 1, 2004; Martonyi Janos, “Europe in the Global System,” “EU-Russia Policies and the Visegrad Group,” “Strategic Partnership between the European Union and the Russian Federation,” Foreign Policy Review, Budapest, Vol. 3, No. 1―2, 2005; A. Bessmertnykh, “The Iraq War and it’s implications,” A.

Iurin, “In America, after the War in Iraq,” S. Kortunov, “Russia’s National Identity,” International Affairs, East View, Moscow, Vol. 49, No. 4, 2003; Andrew A. Michta, The Limits of Alliance: The United States, NATO, and the EU in North and Central Europe, Lanham: Rowman & Littlefield Publishers, INC, 2006; “Foreword” by Brent R. Scowcroft, in Simon Serfaty, The Vital Partnership: Power and Order America and Europe Beyond Iraq, Lanham, Boulder, New York, 2005.

2 Gordon & Shapiro, op. cit., 2004; Andrews(ed.), op. cit.; op. cit.

3) 佐瀬昌盛・羽場久 子「一つになれない欧州」『毎日新聞』2003年4月11日夕刊;羽場「イラク 戦争とは欧州にとってなんだったのか」、羽場・小森田・田中編、前掲書『拡大ヨーロッパの挑戦』

および羽場、前掲「NATOの東方拡大と欧州の安全保障」;Michta, op. cit.

4) ホワイトハウスにおけるブッシュ訪欧の資料は、http://www.whitehouse.gov/news/releases/2004/12/

(11)

20041209-1.htmlを参照。

5) 東アジア共同体についてはかなり多くの著書が出されたが、代表的なものとして、谷口誠『東ア ジア共同体』、岩波新書、2004年;伊藤憲一・田中明彦監修『東アジア共同体と日本の進路』、

NHK出版、2005年;小原雅博『東アジア共同体―強大化する中国と日本の戦略』、日本経済新聞 社、2005年など。上海協力機構に関する説明として、http://www.panda-mag.net/keyword/sa/kyouryoku.

htm、『朝日新聞』2006年6月16日などを参照。

6 Albrechit Schnabel and Ramesh Thakur(ed.), Kosovo and the Challenge of Humanitarian Intervention, United Nations University Press, 2000.

7 Summit Meeting of NATO and Russia, at the level of Heads of State and Government, Rome, Italy, 28 May 2002, NATO homepage(http://www.nato.int/docu/comm/2002/0205-rome/0205-rome.htm).

8) プラハのサミットについては、http://www.nato.int/docu/comm/2002/0211-prague/index.htmを参照。

9) ヴィルニュス10ヵ国のアメリカ支持については、http://www.rferl.org/features/2003/02/

07022003192525.aspを参照。10ヵ国は1999年にNATOに加盟した3ヵ国(ハンガリー、ポーランド、

チェコ)と第2次拡大でNATOに加盟した7ヵ国(バルト3国、スロヴァキア、スロヴェニア、ブ ルガリア、ルーマニア)

(10) ラムズフェルドの「新しいヨーロッパ」と「古いヨーロッパ」の発言については、http://www.

heritage.org/Research/Europe/wm200.cfmを参照。

(11) NATOの中・東欧への拡大とコソヴォ紛争については、Kosovo and the Challenge of Humanitarian Interventionのほか、“NATO Enlargement and the Iraq War: Central and Eastern Europe under the shadow of the US,” Working Paper in the International Conference Russia and NATO: New areas for partnership in St.

Petersburg, 7 February 2004. 羽場、前掲「NATOの拡大と欧州の安全保障」

(12) 広瀬、前掲論文。

(13) 広瀬、前掲論文;六鹿、前掲論文。

(14) 羽場久美子「EU統合下のナショナリズム―グローバル化と「民主化」の帰結」、田中俊郎ほか 編『EU統合の軌跡とベクトル』、慶応大学出版会、2006年(近刊)、を参照。

(15) Candidate Countries Eurobarometer, 2003. 4. First Result Autumn, 2003, European Commission(http://

europa.eu.int/comm/public_opinion/archives/cceb/2003/cceb2003.4_first_annexes.pdf);羽場、前掲『拡大ヨ ーロッパの挑戦』、62ページ。

(16) 2004年6月の欧州議会選挙結果は、http://www.elections2004.eu.int/ep-election/sites/en/results1306/

turnout_ep/index.htmlを参照。

(17) 羽場久 子「EU益より市民益、欧州憲法条約否決」『読売新聞』2005年6月20日;羽場、前掲

「EU統合下のナショナリズム」

(18) それぞれの選挙結果は、インターネットWikipediaに自由選挙5回にわたる、各国ごとの政党・投 票の分布が記されている(http://en.wikipedia.org/wiki/Politics_of_Poland, http://en.wikipedia.org/wiki/

Czech_legislative_election,_2006, http://en.wikipedia.org/wiki/Hungarian_parliamentary_election%2C_2006 ど)

(19) ウクライナやMAP諸国の加盟と相互協力の発展に向けてのアクション・プランは、http://www.

jamestown.org/edm/article.php?article_id=2371183を参照。

(20) 上海協力機構については、www.kyoiku-shuppan.co.jp/kousha/wadai.pdf/wadai22.pdfを参照。

はば・くみこ 法政大学教授

Referensi

Dokumen terkait

Koh, Byung Chul, Between Discord And Cooperation: Japan and The Two Koreas, Yonsei University Press, 2007 Lee, Chong-Sik Japan and Korea: the Political Deimension Stanford Hoover

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