• Tidak ada hasil yang ditemukan

PDF 仙台七夕まつりの変容に関する一考察 - 福島大学

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2024

Membagikan "PDF 仙台七夕まつりの変容に関する一考察 - 福島大学"

Copied!
8
0
0

Teks penuh

(1)

(鎗37)

難文繍 難論鵬

仙台七夕まつりの変容に関する一考察

高橋綾子(東北綜合警備保障)

初沢敏生幅島大学)

1.序

 富城県仙台羨では,毎年8月6霞から8鷺までの三

§隅にわたり,鹸台七夕まつりが行われる。七夕まつ りは全国的な年中行事であり,本来は各家縫・村落を 単位として行われてきた異俗行事である。しかし,畿 台七夕まつりは今や観光イベントとして成立しており,

その知名度は全国に広がっている。

 現在の七夕まつりを主催しているのが,綾台商工会 議所が主体となって運営している銚台七夕まつり協賛 会であることからもわかるように,良俗行事であった 七夕は,現在は経済毯体主導のイベントヘと変化して きている。どのような経緯を経て民俗行事が観光イベ ントヘと変化したのだろうか。その変遷遜程は葬常に 興辣深い。また,これと七夕まつりのメイン会場とも 言えるアーケード衡との関係も重要であろう。一方で,

鵬2年から紬台七夕まつ鱗こ周辺藻の商店街の七夕蘇 り見学を目的としたバスツアーが開始された。この背 景には何があるのだろうか。現在の継台七夕まつりは 民俗行事から観光イベントヘと変化しただけではなく,

それ以後も大きく変髭しっっあることがうかがわれる。

 現代の祭りはどのような慈的を持って行われるのか,

また,現代の祭りの要となるのは蕎であろうか。森籔

(欝9§)は文化人類学的なアプローチから,定期的な 儀礼,祭りの実施は集団内の秩淳の再確認,集懇の維 持,存続という効果をねらって,集遜自身または集鑓 のメンバーが企画するものと説明している。そして,

鰹人がどの祭りに参擁するかは,どの集団に自己のア イデンティティを求めるのか,と瞬義であるとしてい る。芦蟹(鴻艇)は,熊本の「火の国まつり」を事舞 として,祭りによる地域社会の再生,アイデンティティ

の確認には懐疑的であるものの,現代の祭りの興隆が 葬欝常的な集合的沸騰,井溝牲・関係牲への現代人の 希求に裏付けされていることを指摘している。

 一方,各地で増撫の一途をたどるイベント的な祭り に関して,江嚢(欝鱗)は観光・祭りから地域の再創 造が実現できるとし,京都と小京都薬毒を事綱として 地域での祭りの実施が住民の所属意識や統合牲の強化 だけでなく,地域外の観光客の誘致にもつながるとし ている。小松(婚97)は,地域おこしイベントは,地 域住長のアイデンティティ醸成を図るという点で「祭 り」の本質に近い性格を持っているとしている。しか し一方で,地域住民が§分たちの共同体を纏織し,維 持するために行ってきた伝統的な祭りが,地域活性化 を嚢的に売り趨される事態の中で,祭りの伝承者たち はその祭りが誰のための祭むなのかを改めて闘わなけ ればならないことを指摘している。

 祭りの変化はイベント化だけではない。松平

(欝8§)は,現代の人々はその生活構造にあった新し い地域生活の結合力を求めているため,住畏結合を目 的とする町内の祭りもそのスタイルを変えざるを得な いと指摘している。また.松平軽9鱗)は神田の祭り の事擁碕究から,本来,町の中で鰹の人々のためにつ くられた祭りが,現在では欝の中だけでは完結できな くなり,そこで生活する人々によって祭むが再解釈さ れ,新たな形に改変されていることを示している。ま た,真野(鴻綴)は祭りの見物人が祭りの発展に貢献

してきた歴史をとらえた上で,近年では見鞠客だけで はなくそれに参策する人々が無視できない存在となっ てきていることを指摘している。安藤(2総2)は盛岡 の祭りを事擁に,祭りの運営に関わる様々な立場の集 団によるそれぞれの意味づけや思惑によって,祭りが 変化する過程を論じた。岡・初沢(器蟹)は須賀纐松

(2)

(遵938) 橿鳥大学地域毅造 第蔦巻 第i号 2雛3.§

明あかしを事1隷こ,伝統行事がイベントに変質してい く遍程とそれに繋する市長意識の調査から,外的な要 瞬によって変化した文化の存立形態を論じた。

 このように,様々な新1たな擾1点から祭りの馨蓄究が 進む中で,絵台七夕に関しては,柴襲(欝鷺),竹内

(欝讐),種部(欝8§),菊地・菊地(鱒繊)などの醗 究がなされているものの,その内容は七夕まつりの歴 史や錬りの意義,民俗信擁としての麟究・解説が中心 となっている。これらの先行醗究では盤台七夕まつり の異体的な変遷遍程やその背景には触れられていない。

また,今や観光イベントとして認知されている盤台七 夕まつりを醗究する上で,主催団体である紬台七夕ま つり協賛会や参撫団体の各商店街の調査は欠かせない。

 そこで,本概究では七夕まつり協賛会等の保有文書 の分析と聴き取り調査から紬台七夕の機要と歴史的変 遷を把握し,民俗行事である七夕がどのように「纏台 七夕」というイベントに変化していったのかを瞬らか にする。次に参撫蕎店街の調査から,各参撫蔭店街の 七夕に対する意識や参鱗状溌を建握することにより,

現存の七夕まつりの特籔とその変容を明らかにする。

登.盤台七夕の概要

 種部(欝8春)によれば,ξ葺本の七夕祭りは古くから 存在した祭り・信舞に,外藩文化が変形しながら受容

された一鱗と考えられている。すなわち,「たなばた」

というをill本古来の疑総懸簿を母胎とし,その中から盆 行事的な部分が仏教の伝来によって分離され,さらに 串縫伝来の乞巧奠(きこうでん)という星祭りが融合 した結果,麗在の8本の七夕祭りがあるとされている。

 七夕が癒疑の闘で全魑的に行われるようになったの は江戸時代1こ入ってからであり,その契機は七夕祭り が玉簾句の一 つとされたことだった。柴田(欝7鱗に よると,継台で江戸風の七夕が取り入れられ,「たな ばたさん」と呼ばれて観しまれてきたのは,藩祖正宗 公が雛女子文化のために七夕鴛事を奨励したからであ るとも,天明・天保の冷害による大艫作の鰹にその世 腐し策として盛大に行われたからだとも言われている。

しかし,このような七夕祭りも明治維新後の改革にと もなって衰退した。

 このような状況に嬉し,懸台七夕を復活させようと いう動きがあらわれた。懸台商工会議駈の資料による と,継台七夕の復活が提曝されたの1灘g留年,大覇五

} 欝の商店街からだった。翌欝28隼,強含協賛会(継 台観光協会の前身)・商工会議所・商工会の令嗣で七

夕まつりが麗催された。この時に闘{畿窪は新暦の月遅 れの8月6〜88に設定された。参加は市内大通りの 簸ヶ鞍(棄一番丁,名識丁,新伝馬鱗,大町通り,露 分町,立町還り,二日町,南海,小懸療難,肴臨,木 町選り)で,多くの竹飾りが立てられた。竹飾りを競 う連合競技会もこの鋳初めて実施された。これが今日 の七夕コンクールの前身となる。この時大町の商店街 で実施された「中元大売穆出し」は,「嚢舗内外の装 飾商品の整理が模範である」として表彰されており,

当時の七夕が商店街の大売り鐡しのイベントであった ことがうかがわれる。 この時の経済効果は著しく, こ れが欝29年4月に実施された商店街と商工会議所の共 催によるε連合大売り出し」ヂ店頭装饒競技会」の開 催,欝3§年の「商工記念購の凝定につながっていく。

繍台七夕は商店街の事業展開に大きな影響を与えたの

である。

 触合七夕1誰§42〜違5奪の中数を経てi縫6奪に復活,

欝52年には現在の主催懇体である七夕まつり猿賛会が 誕生した。協賛会は繭玉会議所が中核となって設立さ れたもので,①継台七夕の継承・実施,⑫県艮・市民 と乗懸観光客とのふれあいの推進,③地域文化と盤台 毒産業の振興,を馨的としている。構成団体は行政と 商工会議勝,繭工会,臨席街,企業が中心となってお

り,経済題体中心の緩織であると言える。ここから,

経済的な効果を追求した,現在に続く豪華絢爛なシ葺一 的・イベント的な七夕が推進されることになったので ある。さらにi弱2年には羅鉄とタイアップし,青森ね ぶた,秋類竿灯とともに東詫三大祭りとして観光客の 誘致に乗り饑し,知名度をさらに霧上させた。

 また,協賛会は懸台七夕を全市的な行事とするため,

まつりの中心となる竹輪むの奨励を馨的として参擁商 店街に助成金を支聾している。動成金は嚢工会議所の 予算から支出され,対象は七夕まつりに参撫するすべ ての商店街,その使途は自由となっている。この飽に 七夕コンクールの入賞者(団/本)にも賞金が与えられ ており.これらを通して七夕まつりへの参撫が拡大さ れている。

 このような七夕まつりのあり方とは異なり,大正難 以前の伝統的な懸台七夕の復活を求める人々もいる。

これらの人々は欝55年頃から全市一戸一一本の七夕飾り を復活させようと運動してきているが,その成果は芳

しくない。全戸的な年中行事として七夕が行われてい た時代,人々は自然と対麟し,その驚異を恐れ,神に 祈り,複霊にすがることで救いを得ていた。異俗行事 的な七夕はそうした背景から人々に根づいた磐擁であ

(3)

鶴台七夕まつ陰の変容に臠する一考察 囑3§)

り,これなくして伝統的な七夕まつりの復活はないの

である。

 現在の仙台七夕はもはやその本質から商業イベント・

観光イベント的な要素を切り離すことはできない。こ とあるごとに強調される薪伝統牲」は,飽地域との差 馨ll化を図るための手段となっていると言っても過言で はないだろう。七夕飾りの形式や難馨などに伝統の片 鱗を課守しながら,商業的・観光的に大成を目指して

いこうと模索しているのが,現在の仙台七夕の姿であ ると考えられる。

 以下においては,縷台七夕の参加商店街の観点から 論を進める。

璽.中心商店街と七夕まつ鱗

葉.中心商籍街の七夕まつ》に録する意識

 前章で示したように,態台七夕はその海容・あり方 を大きく変化させてきており,七夕まつりに薄する市 民の意識も一様ではない。それでは,中心商店街では,

どのような考えを持って七夕まつりに参撫しているの であろうか。以下.中心部のアーケード街に位置する 各商店街へのヒや撃ング調査から中心商店街の七夕ま つ鯵への意識をとらえていきたい。

 ① A商店街

 A蔭店街は,七夕へ参擁する巽的として伝統の継承 をあげている。継続して参加することによって伝統が 継承されると考えており,一戸一本運動を積極的に広 げ,商店街内での競争意識も強い。A商店街では,大 1ξ朗以前の伝統的な七夕の復活を追求する性格が強い と言えよう。一方で七夕を通しての消費者サービスも 活発で,紬台七夕というイベントを利耀して商店街の

イメージづくりを蟹り,商業効果を高めることも目的 としていると考えられる。参擁形態は基本的には自由 参撫で海店街内の各店が主体となり,商店街振興総合 が全然のサポートを行っている。ただし,実擦には縁

とんどの商店が参撫している。これは,歩道上に竹簸 りの瞬定用の穴が等闇編にあいているため,全店が参 加しなければ竹蘇りの空自部分ができてしまうためで

ある。七夕まつりへの全諾参趣は暗黙の了解となって いるとも言える。

 竹蘇りに関しては,一番臨通りの各商店街は歩道上 に竹蘇りの露定離の穴があけてある。これは基本的に は商店ごと,等瞬鶴にあいているもので,鰺8§年に現 在のアーケードが建設される鰹に七夕を想定し,懸隔

に臠しては実験までして設計したということである。

七夕への熱意が堤題見える。ただし,簸りに関しては 伝統を遵守した秘紙の使絹を申し合わせてはいるが,

実藻には各繭店の店員,家族による手作りは減少し,

業者に発注している商繕が大勢を占めている。

 このように,A商店街は積極的に七夕まつりに参撫 してきたが,その商業効果に関しては,懇々の商店に はないと言ってよい。ワゴンサービスやセールは利益 率が低く,購買客よむも観光客が多い難問中には売り 上げが落ち込む店が多い.ここから七夕まつりを続け

る意義への疑閣が墨てくるわけだが,商店街としての 誇りや義務感がそれを上回っている。すなわち,地域

の誇りと義務感が七夕まつりを継続する原動力となっ ているのである。ただし,その一方で市民参擁に関し ても力を入れている。七夕まつり当馨も各商店の齢し た錨りに混馨って子供会・老人会・小中学校の手作り の饒鯵が鵡されている。今後の方向としては余毒をあ げて一戸一本の竹飾りが蘇られる七夕を目指し,観光 客がいなくとも成り立つまつりにしたいとの意向を持っ ている。この点からもA商店街は,比較的伝統性の志 鶴が強いととらえることができる。

 ② B商店街

 8商店街では,七夕まつり参擁の§的として集客効 果をあげている。確かに七夕難題中は売り上げは減少 するものの,そのPR効果は大きく.七夕まつりに参 給することが商業振興につながるという意識が強い。

ただし,参撫形態は窪由参撫であ鯵,そのため参撫し ない商店も存在している。また商店街内には空き店舗

も存在していることから,不足分は縫合が負担,また は企業スポンサーを起継して簸りの空白部が無いよう にしている。竹醜りに関しても,逐年では遍半数の商 店が業者委託としているためマンネ薯1此が進んでおり,

商店街で独自にバランスを取るように工夫している。

 商業効果に関しては,麟述の選り商籍の難間中の売 り上げ高は減少し,かっ竹驚りの業者への発涯など

(七夕飽りは最低韓万円から)で赤字になる計算であ る。これに嬉しては協賛会から助成金も支給されるが.

赤字を補うほどの額ではない。商店街としては伝統行 事化しておりやめるにやめられないというのが本音の ようである。しかし,紬台七夕は商店街のPRとして は格好の場でもあり,今後も参籠を継続していく予定 である。ただし,外部資本による大型店の増撫なども あり,地元商店街が積極的に活動していかなければ,

将来纏台七夕も実施鍵難になることもありうるとの危

(4)

(鱒憩〉 懸島大学地域麟造 第欝巻 第i号 2鼕鼕3.§

機感も持っている。そのため,今後は外編からの参撫 を募ることも必要になるかもしれないと考えている。

 ③ C商店街

 C商店街としては,七夕まつ蔭参撫の目的として伝 統の継承を強調しつつも,P Rや集客効果も大きな意 妹があるとしている。縫台七夕を介して見秘密へ商店 街・各商店を紹介しようという意泌もあセ),伝統牲と 商業効果を董列的にとらえていると考えられる。ただ

し,伝統性についてはA灘店街とは異なり,大正顛以 前の「民総行事としての七夕」への回帰と言うよりも,

昭和期以降の「商店街の七夕まつりとしての伝統」が 主に意識されていると言える。参撫形態は各商店の自 由参加で,消極的な商籍へは総合から参撫を呼びかけ るなどの対1応を取っている。饒むの不足分はそのまま か,あるいは参撫を希望する団体があれば受け入れる ことにしている。竹錬りは弛の講席街と購様,過半数 の商店が業者に委託している。

 七夕まつりの経済効果については,靉靆中の経済効 果は薄いがPR効果は大きいので,結果的に見て掻は ないと考えている。また,この商店街では七夕まつり の伝統行事としての灘嚢も重複しているため,継続す ることが繭提であるとしている。ただし,経済的な開 題から外部のスポンサーを募ることも必要になるかも

しれないと考えている。

 ④ D商店街

 D商店街では.七夕まつりに参撫する目的としては P Rが主なものであり,七夕まつりをイメージ戦略の 一部として位置づけている。当初は七夕期開申の売む

、しげ効果を難待する向きもあったようだが,現在では 商業効果については懇待されていない。参撫形態は各 商店の自由参簾である。

 D商店街と後述するE商店街では,簸鯵の形態が勉 の商店街とは異なる。これらの商店街が位置するアー ケード衡は簸メートル遵驚であるために竹飾りを下か

ら立てることが璽難であり,アーケードの上部から飾 りを下げるという形を取っている。この取村金具はアー ケード衡の建設当時からのものであり,一番舞通りの アーケード街と同様,当初から七夕を意識して設計し たということである。飾りには一貫して秘紙が購いら れてきたが,近年ビニール等も使われはじめている。

なお,凝作は業者委託の割合が高い。

 七夕まつりの経済効果については,商店を統括する 総合は収益事業ではないとしており,直接的な経済効

果は鰯待されていない。鱗台七夕はあくまでもP Rを 目的としており,それがまつりを続ける意義となって いる。しかし,大手資本のチェーン店を中心として,

轟轟駒の質の低下が進んでおり,その改善が課題と

なっている。

 ⑤ ε商店街

 E商店街では七夕まつりへの参撫目的としては,伝 統行事の継承としての意識が強い。ただし,伝統牲に ついてはここにおいてもC商店街と同様.「商店街の 七夕まつりとしての伝統まが主に意識されているよう である。参擁形態は各商店の自由参撫であるが,不参 簾の商店からは縫合に協賛金を出してもらい,績合は それを簸鯵の不足分に当てているとのことである。飾 りの材質については飽と瞬榛和紙にこだわりを持って いるが,簸りの翻作に関しては約8割の商店が業者に 委託している。

 七夕まつり懇間中の経済効果に関しては,特に鞘待 せずに採算抜きで行っているということである。飲食 店等にはそれな馨の効果が見えるものの,その弛は平 常時よりも売鯵上げは低下する。しかし,だからと言っ て七夕まつりへの参撫を疑問視する声はなく,逆に中 心商店街として七夕まつりをなくしたら簿が残るのか という意見が強籍。ε商店街では,七夕まつりに参撫 することは商業効果を簸待するのではなく,織台商人 の心意気を示すイベントとして位置づけられているの

である。

 以上のヒヤ}ナング結集から,中心商店街の申でも綾 台七夕まつりへの参撫目的などがそれぞれ異なること がわかった。参撫羅的としては,伝統行事の継承と,

商店街等の曾段に大磯される。

 野伝統の継承涯を目的としているのはA商癌街,C 商店街,それに£商店街である。これらの商店街では,

藩政時代から続く商業地域としての歴史と,商人の祭 りとして定着した七夕まつりを伝統として残すために 誇りと義務感を持って参撫している。しかし,七夕ま つりのダ伝統」とは簿であろうか。本来的な意味での

「伝統」は.民俗行事として人々が行ってきた七夕を 指すが,その一方で,昭秘密簗に誕生した,商店街が 行う行事としての七夕を指す「商店街の伝統」も確か に存在する。商店街が主張するゼ伝統」という言葉の 中には講者が混在しているが,相鰐的に後者の比重が 高くなっている。ド伝統董という言葉が内包する意味 は,おそらく当事者たちも意識しないうちに変化して

(5)

餓台七夕まつむの変容に関する一考察 (蓬強〉

きたのではないだろうか。

 このような椀点から見ると,「商店街の伝統]を比 較的強く主張しているのはC商店毒と登商店街であむ,

A商店街においては「本来的な伝統オが重視されてい る。これらの商店街は昭和擁顛の新生七夕まつりの初 朝参擁商店傷である。特にA商店街では古くから操業 している店舗が多い。これらの商店街は行事の衰退と 復活を経験しており,一度失われた行事の復活の毯難

さを体験している。ここから碧伝統」を守るためにど んな不溌の中でも催合七夕という行事を継続しようと いう意識が生まれたのではないかと推灘される。ただ し,「本来的な伝統擁を重視するA商店街とド商活街 の伝統」を重視する飽の醸店街とでは,市長の参撫に 対する積極性が異なる。前者が市長参撫に積極的であ

るのに嬉し,後者1ま消極的である。しかし,そうした 意識も世代交代や商店街自体の店饒権威の変化で薄れ つつあり,C商農街のように伝統の継承と蔓立するよ

うにPR等の商業戦酪も見え始めている。

 一方,P殺を主な参撫冒的としているのは,内部に 大型店を抱えるB商店街とD商店街である。これらの 商店街では伝統の継承(これには「本来的な伝統韮と

「商店街の伝統」の双方を含む)よりも商業振興を七 夕まつりの欝的に置いている。この二つの商店街では 大型店以外にも地域外から進出してきた店舗が多く立 地している。このような商店街の特性が,七夕まつり の欝的が纏の商店街と異なっていることにつながって いると考えられる。

 ただし,経済効果についてはどの商店街も七夕開催 難開申の効果は薄いと答えている。これについては紬 台七夕というイベントで商店街を馨象づけることで,

その後の顧客獲得につなげようという意纒であると考 えられる。言い換えれば,絵台七夕は商店街のイメー ジづくりの場であり,長難的な経済効果を企臠した地 域PRととらえられていると言えるだろう。

 2.中心商店街の変化と七夕まつ》の変化

 以.との検討より,七夕まつりは今や罠俗行事として の「まつり」から,商店街を中心としてのゼイベント3 に変化し,その核は商工会議漸と中心商店街が擦って いるといえる。そのため,中心商店徳の変イヒは必然的 に蟻台七夕に影響を与える。本節では櫨台毒中心商店 街の変化が紬台七夕に与えた影響をまとめる。

 中心商店街に大きな変化をもたらしたものとしては,

商店街のアーケード化があげられる。アーケード街の 建設は,商店街に景観以上の変化をもたらした。アー

ケード化されたことにともない,代々その場所で店を 営んでいた商店主が郊外へ転居し,通いで店を開け閉 めする,あるいはビルオーナーとして貸しビル経営に 乗り鐵すという流れができた。これにともない,外部 からのテナントの流入も増撫した。

 中心商店街のアーケード化は,欝8§年代から9§年代 半ばにかけて進められた。アーケード化によって商店 街は整備され,ビル化も進んだ。これにともなって職 注分離が進み,外部のテナントが進塁しはじめた。こ れらの店舗は出店時に地元商店街との闇で各種イベン トヘの協力を求められている。しかし・大手資本のチェー ン店にイベントヘの協力が窮待できるのは3〜嬢年が 鰻度であるというのが地元商店の本音である。チェー

ン店は商葺毒そ封1こ所緩しつつも,纏i営本体は商店街の外 部にある本社である。商店街からの要請は一.量本社に まで上げられ,その裁決が否であれば商店街の中にあっ てもイベントヘの協力は不再となる。鎗馨2年度におい ては大手都市銀行の支店が不参撫となっている。

 こうした変化の根本は,仙台市という場のとらえ方 の帽違にある。それは仙台市中心市街地が生活の場で あるか,それとも利潤追求の場であるかということで ある。古くから商店街を生活の場としていた人々には.

失われかけた行事を中心秦街地が復活させ,全国的な 知名度を誇るまでにさせたという自負がある。しかし,

現在の商店街の構成店舗は,利潤追求の場を求めて纏 台市中心商店街の繁栄後に流入してきたものが多い。

さらに近年の不溌が地元商店と外部資本との意識の差 を大きくした。現在のところ,七夕まつりへの参簾に ついては講者が折り合いをつけているが,錬りについ ては広・告色の強い外部資本のものに,伝統にこだわる 地元の老舗商癒が眉をひそめているのも事実である。

しかし,空き店舗に積極的に露店してくる外部資本の テナントは,中心商癖街活性化のためにも不可欠であ り,外部資本無き纏台市中心高艨衝は考えられない状 態である。今後,爾考がどのような鱗台七夕を作り上 げていくか,継続的に瞬究していくことが必要である。

 また,このような店舗の変化は,業者委託という形 で七夕飾りにも影響を与えている。外部から新規に簾 わった店舗経営者は,竹饒りの綱作や取り付け方のノ ウハウを持っていない。こうした店舗は地元商店の協 力無しには七夕まつりに参撫できず,また商癒街とし てもメインスト甘タートに面した店舗には竹簸りを鐵し てもらわなければ歩道を埋め尽くす豪華絢爛な餓りに 穴があく。こうした中でノウハウの伝授を引き受けた のが老舗紙開鑿である。紙闘渥はもともと七夕飾りに

(6)

(4942〉 福島大学地域麟造 第焉巻 第i号 泌総.§

使われる和紙を商っていたこともあり,ノウハウの提 供も行っていたようだが,雄蕊年頃から顧客の要望に 応じて七夕飾りそのものの翻作も開始した。しかし,

受注が鯵びたのはアーケード化以降で,受注数は現在 も捧び続けている。

 業者委託に拍車をかけたのは,ノウハウの欠落だけ ではない。ビル化・テナント化によ吟七夕籔りの麟作 場所.保管場駈がなくなったのもその一蓉である。職 住一致であった時代は店舗の奥で従業員が仕事の合間 に饒りを作り,そのまま住宅部分に七夕当馨まで保管 しておくことができた。しかし,ビル化,テナント建 により商業スペースが拡大され,余分なスペースは跨 り落とされた。さらに従業員のタイムカード的な勤務 彫懸が一一駿的になるにつれ,従業員が七夕飾りを麟作 するという臨席も減少の一途をたどっている。こうし て紬台七夕のメインというべき七夕簸蟹ま,業者委託 が進み,それがマンネ書タ化.没懲性化につながってい るのである。

鐸.周辺商店街と七夕まつ蓼

 紬台七夕に参撫しているの1麟葺心高居街ばかりでは ない。欝総年以降,識賛会は毎年毒内の全商店街に七 夕まつり開纏の告知を行い,参撫を促している。しか し,周辺部の商店街では中心商店街とは異質な開題を 惟えているところが多い。

 その一つがアーケード衡に見られるような飾り竹専 購の設緩器具がないことである。このため,餓り付け も小振りにならざるを得ない。アーケードのように商 店街が■ 本道になっているとも譲らず,車速も意識し ながら舗卑り盤けを行わなければならない。このような 凝約から,鰹えばある商繕街では七夕のために鉢纏え の「ほてい竹」を育て,それに簸りを付けるミニ竹飾 りをつくっている。地域の実椿に癒じた創意工夫と並々 なら掩努力が見られる周辺部の商癒街であるが,そう であるが故に業者委託が醗難で,作業負担が増えるこ とから不参撫の商店も多い。また,周辺弛緩では観光 客の入り込みや大きな商業効果も見込めない。しかし,

こうした縁辺蕩の厳しい状況の中で,新たな七夕まつ りの形を模索して活発な動きを見せる商居街も存在し ている。ここでは,そうした商店街の一つである商店

建玉を紹介したい。

秀.七夕まつ》を通した地域づく蓼

書葉籔嘗地区にあるF繭店街では,七夕まつりに商

店会だけではなく地域ぐるみで取り緩む姿勢を見せて いる。商店会が中心となって,七夕鮪りの講彗作に関す る講習会を地域の学校体育館や公民館などで開催し,

商鷹以外の人も七夕まつりに参加できるように配癒し ている。参撫者は主婦や老人が多く,商店会は七夕を 通して地域往戻のコミュニケーシ葺ンを醒る場を提供 する役割を果たしている。

 F商店会の七夕飾むには特色がある。材料となる紙 は購入したものではなく,各家庭や商店で一年聞集め たチラシ・包装紙等で,竹も竹林の所有者からの譲渡 晶である。また,ここで使用された竹は再利雪されて いる。竹を器や楊枝に加工し製薬諾で利駕する飽,竹 炭にしてから穴をあけ,ひもを通して懸鈴にする。こ の加工には臨内の商店や工務店が協力している。この 飽,竹の輸送や取り付けには舞内の男盛が多く参撫し ており,地域住民が何らかの影で七夕まつ蟹こ参撫す るようになっている。

 F地区はマンシ華ン等の集合住宅と商店が混在し,

住民の出入りが多く,地域往戻の相互交流は希薄であ る。商農会では,だからこそ七夕というイベントを交 流の機会にしょうと奮麗している。こうした取り緩み は現在のところ成功しており,七夕まつりへの参簾は 籍のイメージアップにもつながっている。F地麩では まちづくりの手段として七夕まつりを利絹し,地域社 会の結ぴつきの強化に成果を上げていると言える。

 2.七夕ふれあい事業と周辺商癒街

 観光客や鱗台濃疑が機台七夕の飾りの麟作などを体 験することにより,麟台七夕をより心懸理解し,また そうした場を提供することで商店街とのふれあいの拡 大を籔ることを§的として臨賛会が企聾しているのが,

}§9i年から始められた七夕ふれあい事業である。これ は七夕に参超する商癖街が観光客や華氏に短難を提供 して顯い事を書いてもらうなどの体験交流事業を金聾野 実施するもので,中心部・周辺部を闘わず約欝の商店 街が参撫し,様々なイベントが閉催されている。

 このふれあい事業に2§鎗年から登場したのがr馬辺 部七夕バスツアー」である。これは協賛会の主催によ り周辺部の竹醜りと商店街の鱗並みや歴史・名勝を観 光客に紹介するとともに,観光客に実課に商艨衝を散 策してもらい,ふれあいを図りながら簸り付けを見て もらうのが目的である。なお,この付帯事業として

「薦辺部商店街笹饒り付けご紹介マップ」が作成・配 布された。

 かねてから・周辺部の商店街は見麹客が少なく,中

(7)

麟台七夕まつ鯵の変容に関する一考察 (欝43)

心部の商店街に対して不平等感を捲いていた。このこ とから,このバスツアーには,鷹辺部の七夕参撫商店 街の減少をくい止める意味も込められていた。2§§2年 の参癩者は8G余名にとどまったが,バスツアーの実施 はまちおこし的なP段にもなり,好評を博した。この ような取り緩みは矯辺商店街の落盤化にもつながるも のであり,今後の展弱が観待される。

 3.周辺繭癌街における七夕まつ琴の展望

 以L,野地籔の取り績みと,協賛会によるバスツアー を鰭に,周辺部の商店街における七夕まつりの勤向を 紹介した。周辺部の商籍街における七夕まつりで注霞

されることは,中心商店街の七夕が「商店街の七夕」

にこだわりを見せるのと韓照的に.鷹辺部では「地域 の七夕」を前薩に押し出していることである。周辺部 の商店街の七夕は,中心部の商店街の七夕とは異なり,

そこから派生した「新たな懸台七夕」として位置づけ られるのではないだろうか。中心嚢店街の七夕は商業 イベントとして復活し,商店街のイベント行事として 根付いていった。それは中心商居街がダ商店街」とし て独立した等質的な空題であったためと考えられる。

対照的に,霧辺部では寓居街はあくまでも地域の…一部 としてのみ存在する。地域住民と密着していかなけれ ばならない震辺海籍街の七夕まつりは,今後地域住民 のイベント行事として根付いていくものと考えられる。

V.結

 七夕は.本来,民俗行事・盆行事・外来文箆が離合 して作り出された「まつり]である。しかし,縫台で 七夕まつりが広く浸透し,継承されてきた背景として は綾台蕎人の存在が大きい。昭和初類以降の翰台七夕 は櫨台の商人.繭籍街と歴史をともにしてきたと言っ ても過言ではない。露と俗行事であった「七夕」を現在 の「鹸台七夕まつり」というイベントにしたのは彼ら である。現在の纏台七夕から商業的・観光的な要素を 切り離すことはできない。ヂ伝統」を標榜しっっも本 来的な意練での民俗行事的な七夕の復活はかなわず,

また近年においては,商店街の誇りという意瞭での伝 統も,商籍街の内部変化から次第に方針転換を余儀な くされている。懲台七夕の変化はすなわち商店街の変 化,そこに生きる人々の変化である。

 絵台七夕の変遷を考えたとき,その転換点を次のよ うにまとめることができる。第一の転換点は欝28年の 商業イベントとしての七夕まつりの復活であり,この

時から七夕まつりの主体は商工会議所・中心商鷹街へ と変化した。商業イベントとして位置づけられたこと により,それまでの戻俗行事的な七夕は失われること になった。

 第二の転換点は中心商店街のアーケード化である。

アーケード化によって外部資本の企業が商店街で大き な位置を占めるようになり,それによって七夕まつり に鰐する意識に変化があらわれ始めた。この結果,商 店街が主体となって行う七夕まつりにも変化があらわ れることになった。

 第三の転換点は纈辺商繕1街の参加の増擁である。講 辺商店街の中では参撫意識に差も見られるが,地域住 鼠を巻き込んで活発な活動をしている商店街も箆られ る。これは七夕まつりの市民への回帰ととらえること

もできる。このような動向は,協賛会や中心商店街の 内部にも見られる。

 現在の懸台七夕は新たな過渡難にあると覧ることも できるだろう。今後は観光客誘致と市民参撫を二つの 柱として両立を羅捲していくことになると考えられる。

そのときには,薦渓参撫の擾点からも新たな麟台七夕 が発えてくるのではないだろうか。

 摩羅究を進めるにあたむ,調査にご蟻力いただきまし た皆様に感謝いたします。

 本心譲は高橋が卒業醗究において作成した論文をベー スとしたものである。ただし本醗究を進めるにあたって 全鉢を遷して靭沢が指導し,また本稿の作成にあたって 初沢がそれを再構成したため,共著とした。本小論の内 容については,両者が紮羅で責を負うものである。

      文  醸

芦遜徹郎(臆髄):『祭りと宗教の現代社会学』轡罪悪懇   社

安藤壷子(2馨§2):碧羅奎方翻毒豊こおける観光イと毒こ韓う 「祭

  礼欝」の再編絞一盛瞬市の六つの祭視の意味づけを   めぐる葛藤とその解消一」欝本髭俗学2議号

泣麓」信義慧(欝9豊)1「観光・祭りと地域の再禽/造」立命館   文学536号

岡夕記子・窃沢敏生(2§§i)浮つくられる「伝統行事」一   須賀繕松明あかし一」地域社会学会年報拾集 菊地ひろ子・菊地爺子(欝雛):『鹸台七夕浪漫盤株式会   縫キクチ

小松穂彦編(欝97)運祭りとイベント垂心学館 柴田量平(欝驚):ζ七夕絵巻磨高義書癌

磐内溺美(欝7の:『8本の民鯵 宮城遜第一法繰出叛 種部金蔵編(欝総)躍要談 宮城の郷土史遜宝文堂出版

(8)

(逢襲4〉 綴島大学地域麟造 第欝巻 第i弩 2§総9

松平誠(欝8§)躍祭りの祇会学2講談社 松平誠(欝94)1『現代ニッポン祭鯵考違小学館

真野後穂(2魯Gi〉躍霞本の祭むを読み解く選言辮弘文館 森鐙三郎(欝鱒〉意祭むの文化人類学選世界思想被

Referensi

Dokumen terkait

※園児や初等低学年では、読み解けないことが多数あります。保護者の方が読み聞かせをしたり、お子様がわかるよう にお話していただく、などのご協力をしていただけるとありがたいです。 日本はつい最近まで「尺貫法」を用いていました。長さにはいろいろな長さがありました。建築関係では 「一間いっけん・・・ 180 ㎝」「一寸いっすん・・・約 3

“さいえんす通信” で取り組んだ記事と 学内で見聞きしたこと その 1 11 月 15 日(8 号)「アサギマダラの話」があり ました。その後、11 月 22 日の新聞(夕刊)に ・・・富山県で放たれた“アサギマダラが ” 1 ヶ月半後に 2000 ㎞以上離れた、台湾の離島で 捕獲されたという記事がありました。・・・ あの小さな体で、「2000

《ネットに見る“カラスのくるみ割りの報告”投稿話題を集めてみました》 -鳴き声やすみかにも違いあり …日本野鳥の会 HP 身近なカラスといえば「ハシボソガラス」と「ハシブトガラス」。ハシボソガラスはガーガーと濁った 声で鳴き、ハシブトガラスはカーカーと澄んだ声で鳴くことが多い。両者の間にはすみ分けがあり、

楽興隆に大きな力となった人物でもありました。 戦後については今回はほとんど触れられませんが、戦後まもなく作られた二つの舞台の演能写真を 掲げました。街の復興もまだ充分とは言えない頃、早くも大慈能舞台と 元町能楽堂とが相前後して造 られます。この二つはどちらも大規模なものではありませんでしたが、能舞台を失った神戸の能楽師

写真から読み取る まちの様子と暮 く らしの変化 4 枚の写真は、東と う京きょう都銀ぎん座ざのまち の様子です。それぞれの写真の▼は、 時計台のあるビルをさしています。写 真アは、空く うしゅう襲を受けたまちの様子で、 焼け野原が広がっています。また、こ の時代は、時計台のあるビルがまちの 中でとても高い建物だったことがわか ります。 写真イは、アから

まえがき 第1回整数論オータムワークショップの報告集をお届けします。ワークショップのテーマ は「Koecher Maass 級数について」ということで1998年9月10日から14日まで白 馬での合宿で行われました。2名の外人参加者を含む、のべ42人の参加でした。当日行 われた全講演が記録されています。これらの活動は、平成10年度より平成12年度の文

披講教奮についての考察継欝 8§ 技術教育についての一考察(H) 一増幅回路学習一 松早宮 木坂山 友明英 正夫正 1 ま え が き 昭穏毅年度よ鯵改訂串学校学習指導要領が完全 実施されている. 今灘脅改訂によって技衛・家庭科の目繧は「生 活に必要な技衛を習得させ,そ蕊を通して生活を 糶るく豊かにするためのくふう蟹造の能力および

︵一七︶ ﹃水鏡﹄の承和の変解釈 勝 倉 壽 一 一 問題の所在 ﹃水鏡﹄﹁五十五代仁明天皇﹂の構成を﹃水鏡﹄に付せられた標目 ︶1 ︵に よりまとめると︑次の表のようになる︒この表において﹁仏﹂は仏教 関係︑﹁篁﹂は小野篁関係︑﹁変﹂は承和の変関係︑現存の文献・史料 のうち︑﹁続後紀﹂は正史﹃続日本後紀﹄︑﹁親王伝﹂は﹃恒貞親王伝﹄︑