については十分に語られてきたとは言い難い。
・そこで、今回は大阪大学の志水宏吉教授らが行った調査を下に、子ども達の学力低下とその背後に潜む社会・文化的な 要因について説明することにしたいと思う。
・PISA調査の結果を見る限り、国内での「悲観的な」論調に比べて、日本の子ども達のパフォーマンの度合いは、国際的 にみるとかなり高い水準にあると言ってよい。しかしそのことは、「日本の学校の現状に手をつける必要はない」という 結論を導くものではない。
b. 関西地区の調査から
志水らは1989年に大阪大学を中心とするグループが関西地区の小・中学校で行った学力テストと同じ問題を現代の子 ども達にも回答してもらい、両者の結果を比較検討した。この調査は小五と中二を対象とするもので、国語・算数数 学・英語(中二のみ)の学力を、アンケート調査で把握される子ども達の生活・学習状況と関連づけて検討するという 意図をもって行われた。以下は、その大まかな結果である。
1) 子ども達の基礎学力は全般的に低下している
表1が、各教科のテストの平均点を算出してみたものである。いずれのテストについても、89年から01年にかけて下 降していることがわかる。とりわけ、「小算」の落ち込みが大きい(12.3ポイント減)。89年の子ども達の平均点が 80.6点だったということから、出題された問題はきわめて基礎的な問題であったはずなのだが、01年では70点を割り込 んでいる。
「学習指導要領も変わり、子ども達の興味・関心を重視する授業スタイルになったのだから、多少ペーパーテストの 点が落ちるのは当たり前」という見解もありえようが、10ポイント以上の落ち込みという結果は看過できる差異ではな い。
2) その低下は、家庭学習離れと関連している
子ども達に対する生活・学習状況アンケートの結果を89年の数値と比較してみると、いくつもの点で大きな変化が認 められた。
まず、表Ⅱ-1は、子どもたちの生活時間の変化をみたものである。まず、「家で勉強する」時間の平均値をみると、
小学五年生で約13分、中学二年生で約15分少なくなった。2001年の中学生の勉強時間はわずか29分である。それに対し て、「テレビを見る」「ゲームをする」時間は大幅に増えている。他方で、「読書(マンガ・雑誌を除く)」時間は、
それほど落ち込みはひどくないものの、小学生で約25分、中学生で約26分と短い時間にとどまる。
一方、表Ⅱ-2は勉強の仕方(「しない」率)の変化であるが、とりわけ中学生で家庭での学習離れが進んでいる。
「宿題をしない」が21.6%増えているのを筆頭に、いずれの項目も10%以上「しない」が増大している。その結果、
1/3の生徒が「宿題」をせず、6割の生徒が「復習」を、4分の3の生徒が「予習」をしない。
こうした「家庭学習離れ」の状況が、基礎学力の低下の原因の全てであるということはもちろんできないが、両者に 密接な関係があることは明白である。1990年代を通じて、子ども達の「自ら学ぶ」主体性を期待して「ゆとり教育」は 展開されてきたわけだが、皮肉にも子ども達の姿はその期待とは裏腹な方向へと進んでしまったわけである。
3) 「できる子」と「できない子」への分極化傾向が見られる
次の図2-1は、中学校数学の得点分布を10点刻みで表示したものである。注目すべきは、折れ線で示したように、黒 い棒で表される01年の子ども達の分布が「ふたコブらくだ」の形状を示していることである。30点台のところにある小 さな山は89年には見れなかったものだ。これは、「子ども達の学力がおしなべて低下している」わけではなく、「でき る子は依然としてできるが、できない子がどんどんできなくなっている」ということを示している。
また図2-2は、「塾に通っていない者」(全体で5割程度)だけを取り出して、同じように得点分布を図示したもの であるが、「ふたコブらくだ」の形状はより顕著な形を取っている。つまり、塾に行かない(行けない)中学生は、数 学で「落ちこぼれる」確立が極めて高くなっているわけである。
志水らが関西地区の小・中学校を対象に行った調査結果は、日本の子ども達一般にも適応できる結果なのだろうか?
こ の 点 に つ い て 検 討 す る た め に 、 O E C D ( 経 済 協 力 開 発 機 構 ) に よる学習到達度調査(PISA:Programme for International Student Assessment)の結果を参照することにしよう。
1) 「読解力」以外はトップレベル
表2-11(別紙資料)は、PISA2003の結果を示したものである。「数学的リテラシー」が6位(2000年に実施された前 回は1位)、「科学的リテラシー」が2位(同2位)、「問題解決能力」が4位(今回から)となり、いずれも1位グルー プに位置する結果となっているのに対して、「読解力」は14位(前回8位)というふるわない結果となっている。
「読解力」以外の3つのテストのけっKはは、それほど悲観視しなくてもよい結果となっているが、3年間という短い 期間における、「読解力」のスコアの大幅な低下(前回から24ポイント下がる498点、全体平均を2点下回る)は、気が かりな結果である。
2) 格差の拡大?
さらに見逃せないのは、表2-12で示した得点の分布である。生徒達の得点を6つのレベルに分けてみたところ、「レ ベル1未満」の水準にとどまる生徒が日本で7.4%と、参加国平均の6.7%をも上回る結果となっている。「レベル1未 満」というのは、スコアが335点未満で、「もっとも基本的な知識と技能が身についていない」ため、きわめて不十分 な読解力しかもたない層をさしている。
注:逆に、フィンランドの場合は、「できない子」の割合が極めて少ないことが目につく。
この数値は、第1回の2000年調査では2.6%であった。つまり、40人のクラスがあれば、そのうち1人が「レベル1未 満」という状況だったのに対し、3年後の第2回調査では40人中ほぼ3人が「レベル1未満」にカウントされる事態になっ ていたわけである。
志水らの関西地区の調査で見出された「できる子」と「できない子」との二極分化への趨勢は、PISA2003の「読解 力」テストによって裏付けられたこととなる。つまり、問題なのは、子ども達の全般的な学力の低下なのではなく、
「できない」層の下支えが効かなくなってきていることなのである。
2. 教育と階層
a. 教育における「階層」問題
前節で触れた学力の「ふたコブらくだ」化は、中学校で顕在化してくる。その理由の一つは、もちろん「中学になると 学校の勉強が難しくなる」ことにあるが、それと並んで、「中学生になると勉強がつまらなくなる」という要因も見逃し てはならない。
「勉強がおもしろくない」「勉強をやっても意味がない」と感じるために、学校の勉強や宿題をやらなくなっていく中 学生が存在する。彼らは、さして高校や大学に進学したいとは思わず、仲間や異性とのつき合い、あるいはバイトや趣味 の世界に打ち込むことで自己確証を得ようとする。彼らが次第に成績を落としていくのは、もっぱら彼らが「勉強をしな くなる」からであり、彼らの「頭がもともと悪い」ためではない。
逆に、たとえ「勉強がつまらない、意味がない」と感じることがあっても、進学することを当たり前と考え、「将来の ために」今の楽しみや喜びを限定的にしか追及しないタイプの中学生もまた存在する。勉強があまり得意でなくても、彼 らは「懸命に学校の勉強に取り組む」。そして、その結果として、そこそこの成績をキープする。
なぜ、そのような違いが生じるのか。教育社会学では、「(親の)階層ごとに価値観や子育てが違うからだ」と考え る。この点についてより理解を深めるために、バーンステインとブルデューの2人の社会学者の議論を紹介することにし よう。
b. バーンステインの言語コード論 1) 2つの言語
イギリスの教育社会学者バーンステイン(Basil Bernstein)によれば、われわれが用いる言語には2つの種類があると言 う。1つは「精密コード(elaborated code)」と呼ばれるもので、正しく論理的な文法に従い、洗練された表現を用い て明確に事実を記述する言語の使い方である。この表現方法においては、話し手が自分の体験を客観的に一般化して述 べるので、聞き手は話し手の経験した具体的な状況を知らなくても、その内容を理解することができる。
注:「コード(code)」とは言語表現を組み立てる一群の規則のこと。例えば、関西弁でのコミュニケーションなら、
話し手がボケたら、聞き手は「ツッコミ」を入れるのが「コード」となっている。地方出身者でこのコードを知らな い人は、「ボケ」に対してまともに受け答えしたり(「うどんが100万円するわけないだろ」)、ツッコミを返せな い。すると、関西人の会話の「ノリ」についていくことができず、「疎外感」を味わうことになる。
これに対してもう一つの「限定コード(restricted code)」は表現方法がより直接的で、話し手の経験した具体的な状 況を直接知らない限り、聞き手にはなかなか理解できない表現方法のことである。経験を共有する身内で用いられる個 別的でローカルな言語と言えるだろう。一方、精密コードは、具体的な場面を超えて、より広く公的な意思疎通が可能 となる言語である。
また、こうした言語の使用法は、単にそれを使う者のコミュニケーション能力を規定するだけでなく、思考様式にも影 響を与える。とりわけ「精密コード」を用いる者は、限定コードのみを用いる者に比べて、抽象的・論理的な思考が容 易にできる。
注:ここで注意しなければならないのは、限定コードと精密コードはあくまでも「分析上の区分」であって、どちら が優れているなどの「価値的な区分」ではないことである。確かに、限定コードは「仲間うち」の言語であるから、
よそ者に対して閉ざされた言語であるとも言える。しかし、同時に、出来事を「いきいきと具体的に」表現すること もできる。「標準語」に比べて「方言」がいかに感情表現に優れているかは容易に理解できるであろう。
そして、「精密コード」は中流階級に特有の言語表現であり、「限定コード」は労働者階級において多く用いられる言 語の使用法であるとバーンステインは言う。
2) 2つの家族/しつけ
なぜ労働者階級と中流階級とでは使用する言語が異なるのか?それは、2つの階級のしつけの様式に関連している。労 働者階級の家族の場合、構成員の役割や権威の構造が、年齢・性別などの地位によって明確に決まっているケースが多 い。このように家族内の地位/序列が明確な家族のことを「地位的家族」とバーンステインは呼んだ。
このような家族では、しつけも序列の高いものが低い者に対して「命令する」という形を取る。しつけの様式は「権威 主義的」で、言うことを聞かなければ体罰も辞さない。しつけに使われる言語も「泣くのは止めなさい」「勉強しなさ い」のような、命令的で直接的なものとなる。こうして、労働者階級の子どもたちは主として「限定コード」を身につ けていくことになる。
一方、中流階級の家族は地位の境界が緩く、メンバーはむしろ個人の差異によって分化しているタイプが多い。このよ うな家族をバーンステインは「個性中心的家族」と呼んだ。
異法、ずっと「限定コード」(労働者たちのラフでタフなことば)に馴染んできた子どもたちは、学校の教師が自分に 要求することを理解する上でも困難を感じる。はじめから「自然に」こうしたコードを駆使できる中流階級の子どもた ちと比べれば、労働者階級の子どもはこの時点で大きなハンデを背負っていることになる。
さらに、労働者階級の子どもたちはこうしたコードを学校に入ってから「意識的に」学習しなければならないわけだ が、優秀な子どもでもコードを習得することで手一杯だから、余裕がない。中流階級出身の生徒達が作文やレポートで
「華麗な言い回し」や「鮮やかなレトリック」を使っているのに対し、労働者階級出身の子弟は愚直で素朴な(固く真 面目な)言い回ししか使うことができない。教師は中流階級的な文化に馴染んでいるから、当然、前者の方が点数が高 くなる。こうして、たとえ学校文化に適応しても、その先、中流階級的・知識人的な文化を習得していくには、さらな る「意識的な努力」が必要となってくる。茨の道が続くわけである。
このように、学校文化は一方の言語コード(中流階級の言語)を介して文化伝達を行っているにもかかわらず、その事 実は隠蔽され、学校での成績は「普遍主義的」で「客観的」な尺度に基づく、とされるのである。そして、学業の失敗 は「個人の能力ないし努力の欠如」とされてしまう。こうして、労働者階級の子弟は学校で失敗し、親と同じ労働者の 道に入って行かざるをえなくなる。こうして、既存の階級構造は文化的に「再生産」される、というわけだ。
問題:日本では、バーンステインの言語コード論はどの程度、当てはまるだろうか?
c. ブルデューの文化的再生産論 1) 文化資本
・一般に階級や階層というと、我々日本人は「経済的な上下関係」(お金持ちか、貧乏か)を思い浮かべることが多 い。しかし、このような経済的な上下関係に加えて、ブルデューは「文化的な上下関係」というもう一つの軸を導入す る。
・例えばヨーロッパの社交界では、急速に富を蓄えた「成金」が登場すると、その「垢抜けないファッションやマ ナー・言葉づかい」が名門家系の出身者によってひそかに笑いものにされる。彼は経済的には貴族をしのぐほどの富を 蓄積することができたが、上流階級に固有の「文化」をマスターする余裕がなかったため、こうした「差別」に苦しむ ことになったわけだ。
・このように、広い意味での「文化」にかかわる有形・無形の所有物の総体を「文化資本」とブルデューは呼んだ。具 体的には、家庭環境や学校教育を通して各個人の身体に蓄積されたもろもろの知識・教養・技能・趣味・感性など(身 体化された文化資本)、書物・絵画・道具・機械のように物質として所有可能な文化財(客体化された文化資本)、学 校制度やさまざまな試験によって付与された学歴・資格など(制度化された文化資本)、以上の三種類に分けられる。
・このように文化資本という軸を導入することによって、これまで経済資本の多寡から比較的単純に把握されてきた階 層構造(労働者階級と資本家階級、あるいは、「上流階級」「中流階級」「下層階級」)が、より複雑な関係の総体と して立ち現れることになる。
2) 社会空間
・「社会空間」とは、人々の相互の位置関係、すなわち、近接関係や隣接関係(「あの人とは同じ世界に住んでい る」)、あるいは隔たりの関係(「あの人とは住む世界が違う」)、序列関係(「あの人よりは自分は優れている/
劣っている」)によって定義されるような、複数のポジションの集合のことである。この社会空間は経済資本と文化資 本の総量と配分構造に従って、大まかに以下のような見取り図を描くことができる。
・この空間のどのポジションに位置するかによって、職業だけでなくその人のライフスタイル(住宅の規模や種類、居
住地域、食事習慣、ファッション、レジャーの過ごし方、読書の量や傾向、芸術や音楽の好み、etc.)も一定のバイア スを受けやすくなる(別紙資料を参照)。
3) ハビトゥス
・社会空間のどこに位置するかによって、趣味や好みといった個人的な属性までがかなり規定されていることが資料か ら見えてくる。このように、人々の個々の属性に一定の傾向や方向性を与えるものを、ブルデューは「ハビトゥス (habitus)」と呼んだ。ハビトゥスとは「習慣」を意味するラテン語である。
・本人の所属する階級や階層、あるいは家庭でのしつけや教育など、過去の経験によって形成された個人の「心の習 慣」(ベクトル)のシステムであり、知覚や嗜好・感情、何気ないふるまい(practice)といったものを産み出すための
「装置」となるもの。
・ハビトゥスは、その人が占める社会空間上のポジションによって規定される(構造化される)とともに、個人のさま ざまなふるまい(practice)や選択を産み出し、その反復・積み重ねによって今度は社会空間を構造化する(規定す る)。つまり、ハビトゥスと社会空間(構造)は、「構造化され、構造化する」という循環的な関係にあるわけだ。
4) 場 field
・社会空間はいくつもの「フィールド(競技場、ゲームの場)」に分割される。それぞれのフィールドは、社会空間の 力学の影響を受けつつも、相対的に自律したルールや価値観・組織・制度を持っている。
・人々はそれぞれのフィールドで特定の位置を占める。各人のポジションは、その人の持つ資本の量と質によって決定 されている。ただし、人々のポジションを配分する規則は、社会空間の影響は受けるものの、各フィールドによって異 なっている。例えば、「教育」というフィールドでは、「文化資本」(知識の量、頭の良さ、言葉遣い、文体、学習に 対する態度、etc.)が大きな力を持つ。
・それぞれのフィールドで特定のポジションを割り振られた人々は、より良いポジションをめぐって互いに「闘争」す る。つまり、彼らは互いに戦略を駆使して、掛け金を最大化するゲームを闘っているのだ。ただし、このゲームに参加 するとき、個人はあらかじめ特定のハビトゥスを持ち、また、掛け金(資本)の量も不均等に割り振られている。各 フィールドで闘われているゲームに有利なハビトゥスを持っていたり、多くの掛け金を持っているプレーヤーが、ゲー ムに勝って手持ちの掛け金を増やす可能性が高い。
5) 教育選抜ゲーム
・学校というフィールド(現場)で考えてみると、生徒はその人が生まれた社会空間上の位置(具体的には、親の階層 や職業)によって規定されたハビトゥス(プレーヤーの能力)と資本(掛け金)を持って、「教育選抜」ゲーム(「進 学競争」)に参加する。
・このゲームでは、「勤勉さ」や「要領の良さ」といったハビトゥスを持ったプレーヤーが有利である。また、手持ち の掛け金の多さも勝敗に関連してくる。海外で暮らしたことがあったり、クラシック音楽や古典美術に触れる機会の多 かった名門子弟の子どもは文化資本の量が多い。一方、経済資本の多い家庭は、自分の子どもにこのゲームに勝たせる ために、なりふり構わず塾や家庭教師に経済資本(掛け金)を投入するだろう。
・フランスの選抜ゲームでは「如才の無さ」や「クールさ」といったハビトゥスや文化資本の多さがモノを言うが、日 本の受験ゲームでは塾に投資するための経済資本の多さや「勤勉さ」というハビトゥスが有利に働く(働いてきた)。
いずれにせよ、このゲームの勝ち組の報酬は、「有名校への進学」ということになる
・一方、文化資本も経済資本にも恵まれず、「勤勉さ」というハビトゥスも持たずに初めから不利なポジションでゲー ムに参加せざるをえなかったプレイヤー(たとえば、肉体労働者の子ども)は、常に不利な闘いを強いられる。彼らが 学校で成功しようとするなら、下の図に見られるように特権集団のハビトゥスや文化へ同化(ブルジョア化)しなけれ ばならない。しかし、「意識的に努力して」同化しようとする生徒と、「空気を吸うように自然に」学校に適応できる 生徒とでは、なかなか勝負にならない。多くの非特権集団の子弟はこのゲームに負けるか、なんとか教育システムで成 功しても、学校文化へ同化・適応しようと努力する過程で手持ちの掛け金を使い果たしてしまう。
・不利な状況に置かれた彼らは、この不利なゲームそのものをぶちこわそうとするかもしれない(非行、教師への反 抗、etc.)し、勝つことを諦めてこの「教育選抜ゲーム」から降りてしまって(「自己排除」)、別のフィールドの ゲーム(「アート」「ファッション」「音楽」「肉体労働」etc.)へ参加しようとするかもしれない。
・この恵まれないポジションの置かれた子どもたちの中では、「天賦の頭の良さ」に恵まれたごく僅かの子どもだけ が、この教育選抜ゲームに勝ち残ることができる(「教育によって奇蹟を受けた者」、ブルデューがそうだった)。
・しかし、大部分の子どもたちは、「負け組」として威信の低い学校に進学する。「受験競争ゲーム」を降りた子ども も、結局、彼らの多くが参入するのは「職業上の威信の低いフィールド」である。アートや音楽、ファッション・ス ポーツなどの「煌びやかな」フィールドで成功するのは、それこそ、受験競争以上にごく一部の「天賦の才」に恵まれ た子どもである。「教育選抜ゲーム」を降りたからと言って、別の世界で成功できる保証はどこにもないのだ。(注)
・ (注)「教育選抜ゲーム」が終わった後も競争は続く。卒業(退学)した後も、職業上の成功をめぐって熾烈な
「闘争」が繰り広げられているからである。このゲームには、教育選抜ゲームとは異なるルールや慣習がある。
教育というフィールドで成功したからと言って、「実業」というフィールドでも成功できるとは限らない。たと えば、「民間企業」というフィールドでは、文化資本よりも経済資本や社会関係資本(人脈、ツテ)の効果が強 いし、「勤勉さ」よりも「如才の無さ」「目先が利くこと」といったハビトゥスが有効かもしれない。「教育選 抜ゲーム」で負け組だった人が、「職業選抜ゲーム」では成功するという、大逆転の可能性もあるかもしれない のだ(『なぜか笑助』というマンガが受けているのは、そのあたりのことを描いているからだろう)。
・ しかし、この領域においても、「経済資本+、文化資本+」の階層出身者は有利な地歩をしめることができ る。学校文化に「自然に」適応できる階層の子弟達は、自分の掛け金を十分に手元に残している。これが「職業 的競争」という場へゲームが移行した時、大きく作用する。学校への同化で掛け金を使い果たした恵まれない家 庭の子弟は、教育以外の領域で成功するのは難しい。一方、十分に掛け金を残している「(文化的にも経済的に も)恵まれた」階層出身の子弟は、手持ちの資本を「社会資本(人脈やコネ)」などに投資することによって掛 け金を増やし、職業競争の場でもさらに有利なポジションに就くことができる。
・ 近年、「引きこもり」が増えているのは、こうした全ての競争(ゲーム)から降りたいと思っている若者が増 えていることを示しているのかもしれない。しかし、「引きこもる」ことができるのは、親が子どもに残した
「資本」が残っている限りのことで、その資本がなくなってしまったら、彼は生き残るために再びこの競争に参 加せざるを得ない。世の中(社会)はこのゲームから「降りる」ことを許してくれないのだ。
B. レポートについて(5回目)
1. テーマ
「教育(学力)と階層」について授業の内容をまとめ(「要約」)、それを踏まえて自分なりに議論を「展開」する。
2. 「展開」のためのヒント
a. 事例(経験)を記述・分析する
・自分の出身階層とこれまでの学校での経験(受験や進路選択、成績の推移、など)を、ブルデューの理論枠組を使って 記述・分析する。
b. 理論的検討
1) ・ブルデュー(バーンステイン)の議論は、あくまでフランス(イギリス)の社会の分析から引き出されたものであ
る。これらの再生産論を日本にもそのまま当てはめることはできるだろうか?当てはまらない部分があるとすれば、
それはどのように説明すればよいだろうか?
2) ・再生産の圧力から自分の子どもを守りたいと思ったら、どのような教育戦略を取ればいいだろうか?あるいは、学 校が学力格差をなくすためにはどうすればよいか?
c. 他の講義との比較
・他の講義で「教育と格差」について学習したことがあった場合、その内容を紹介して、教育社会学の講義で触れた内容 と比較・検討してみる。
d. 「教育(学力)と階層」に関する文献を読んで、その内容を紹介する
・下記の志水(2005)の本は、入手しやすいし読みやすいのでオススメ。
3. 提出期限
(年明けの)「1月30日(金)」
教務学事課に提出する場合は、「13時10分」(昼休み終了)まで。メールの場合は、30日いっぱい。
C. 参考文献
1) 石井洋二郎 1993『差異と欲望』藤原書店
2) 苅谷剛彦・志水宏吉・清水睦美・諸田裕子 2002『「学力低下」の実態』岩波ブックレットNo.578 3) 志水宏吉 2005『学力を育てる』岩波新書
D. 「教育社会学」ホームページ
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/Takeshi.Usuba/