第三章 イエ ズ ス 会 宣 教師 宛 織 田信長 朱 印 状 第五章 日本 王 権 の重層 性 と二 重 性 第一章 イ エ ズス 会初期布教 期 の権力者・国家認識 第四章 永 禄 四・ 五年の畿内合戦 と イエ ズス 会の畿 内 布教 以上、第 一・第二部におい て ミ クロ・マク ロの両視点から当 該期日本の国家 ・権力を 読 み取ろ う と し た 。 以下 、章 立てで あ る 。 第一部 で は、イエズス会史料の詳細 な分析 を 行い、その上 で 同 史料から中近 世移行期 権 力の実態を 探 っ て いっ た。邦文史 料 の場合、 原文書に基づく研究が すで に定着 し て お り 、 一次史料を引用した上で の 実 証的な研究が進 められ て いる。しかしながら、南 欧 史料に つ い て は 、二 次 的な 編纂 史料集を利 用 し、かつ 訳文主義と い う 状 況が 今なお続 いて いる。こ の現 状を打破 するには 、原 本の有無 の確認、諸 写 本の校合、邦文史料 と の 比 較といった史 料研究を進 め て い く 必 要がある。 そ こで 第一 部 で は、各 章 で イ エズ ス会史料の 実 証的な 検 証 を 行い 、そ れを踏 ま え て 第六 章 で 当該期 権 力 論 に繋 げる試 み を行っ た 。 第四章 イ エ ズス 会宣教師の 「 天 下 」理解 と朝廷理解 第六章 永禄一 二 年 伴 天連 追放 の綸 旨をめぐって 本 論文は 、中 近 世 移 行 期研 究の 研 究 蓄積や 研 究意義 を 踏まえなが ら 、イエズ ス会史料 と いう 全 く 素 材 の異な る 史料 を 用 いて 、当 該 期 日本の国家・権力を検討 するものである。ま た、イエズ ス会史料が 従来のよ う な 宗教史や 修道会史の 史 料とし て だけではな く 、日本 史 の他分野にも利用価値の高い史料である こと を示 すねら い もある。かかる点から、本論文 では その 方法論を二部に 分 けて論じた。 続く第二 部は、厖大にあるイエズス会史料をもとに、宣教 師 の権力者観・国 家 観から中 近世移行期日本の国家・権力の変容 と、その 移行過 程を読みとった。イエズス会 が日本 布 教を計画し た 時期から 織豊期まで を 対象に、 宣教師の権力者・国家観が形成さ れる過程 お よび変化の 経 過を四章 に分けて 検 討 した。最 後に第五章で 王 権論を 取りあげ 、 宣 教師の 日 本権力者 観・ 国家観 の 新 た な方向性 への道 筋を 立 て た 。 第二章 フラ ン シ ス コ ・ ザ ビ エ ル の 天 皇 ・ 将 軍 認 識 一 本論文の主旨およ び構 成
イエズス会宣教師が見た中近世移行期日本の国王と国家
第二 部 イエ ズス会 宣教 師の権 力 者・国家 認識 第一 部 イエ ズス会 史料 における中近世移行期権力 序章 イエ ズス 会 宣 教師の 権 力者 ・国 家 認 識 の 意 義 概要 書 終章 連合国家と 二 人国王 第三 章 畿 内 布教 期の権力者・国家認識 第五 章 日乗 の後半生 第二章 永禄一 二 年 宗論に関す る基 礎的考 察 第一章 ルイス・ フロイス書 翰 の 日 本語表記そ こ で 、 従来とは異 な る研 究視 角から分析 を 行い、そこで 得られ た結論を従 来 の 研 究 蓄 積 と 結びつけ て中近世移行期 研 究を進め て い く こ とが有効 な研究手法の一つ で は ないかと 考え て い る 。 幸いにして 、 中近世移行期 がキリ シ タン時 代 とほぼ合 致 す ること か ら、外 国 人 宣 教 師 の日 本国家 観 、 お よ び その推 移 という研究 視 角か ら 中近世移行期 研 究に取 り 組む ことが 可能である。その中で イ エ ズス会は、 来日 当初から権 力者 と の 関 わ り が 深かった こ とが指摘され て い る。事実彼 らの書いた書 翰 や記 録には 、 日本の権力者 や国家に関 す る情 報が多数記載され て いる。しかしながら、 こ れ ま で イエ ズス会史料は修道会史や布教史に 使用されるほかは、日本史の参考史料とし て 取り上げら れ るに過ぎなかった。 そ の理由と し て 、同 史料 は信 憑性とい う点 で 欠 陥 が あるとの 偏見 があった ことや、編 纂 史料集 で ある エヴ ォ ラ 版日本書翰集やフロイス「日本史」 等の二次史料を扱 うこ とに甘んじてきた こ と などが挙げ られる。し かし、良質のイエズス 会史料を多 数所蔵する ローマ・イエズス会文 書館がすで に 一般研 究 者に閲覧を 許 可し て お り、海外に お い て は原 文書に基づ く研 究 が 進 めら れて い る 。 中近世移 行期 は、織田信 長 入京を境に中世と 近世を区分するの が 一 般的 であ る。しかし ながら、安良城盛昭氏の学説により、織 田期と豊臣期の間に大 きな 断絶 があるとい う 、中 近世断絶状 況 がクロー ズアップさ れることと な っ た。 こ れに対し て 、中世史研 究の側が 異 を唱え、戦 国 村落史研 究の諸成果 か ら、戦 国 期から近世 初 期への移 行過程に連 続 性が 認 め られると反 論 し た 。 こ うし た動き は 中 世 史 ・ 近世史両研 究 で 受 け入れら れては い るも のの 、 近世の画期を問 う 近世史研究 と 、中世・近世 の連続 性を 見 ようとす る中 世史研 究 の間で 、 見解の相違 が 今なお続 い て いる。こう し た状 況が 指摘さ れる背景に は 、緻密な 実証研 究 が 多 大 な 研 究 成 果 を 挙 げ てい る 反 面、 研 究 対 象 が細 分 化 され てい っ た こ と が 挙 げら れ る 。 す なわち 、 全 体 像を把握 し て 移行過程をどう読みとるか と い う分析が 困難 になって い る 研 究 状況と 密 接に関係 し て い る 。 大航海時 代、ヨーロ ッ パ人による非西欧諸 国 への進出が盛んに行われた ことで 、世界 各 地 で 異文化 接触 が 行 わ れ、東西文明双方に多大 な 影響を与えた。日本も例外 で は なく、多 くの南蛮 文物とともにキ リ ス ト 教が伝 え られ た。フ ラ ンシス コ ・ザビエルを嚆矢とし て 、 実 に多くの宣教 師 が日本 で 宣教活動にあたった。キリスト教 は、仏 教 徒や一部の識者に よ る抵 抗 こ そあった ものの、 西日 本を 中心に急速 に広 ま っ て いった。そ の 後、豊臣 秀吉の伴 天連追放令 や 、江戸幕 府によるキリ シタン弾 圧 ・ 迫害が 行 わ れ たにも かかわら ず、多く の 民衆が キ リ シ タン信 仰 を堅 持した 。キリ シタ ン研 究で は 当 該期を「 キリ シタン 時 代」と 呼 ん で おり 、日 本史の 時 期 区 分 で は中 近世移 行期 に位置 する 。 従っ て 、 キ リ シタン研究 が 日本 史研究の 中 に 十分位置づけられ、かつ世 界レ ベルにお い ても評価 され るには、 南欧 諸国に多数 所 蔵さ れ て いる一 次 史 料によ る研究が 不 可欠 で ある。 そこ で 、 本 論 文で は 、 で き る 限 り 一 次 史 料 を 扱い、イエズス会宣教師の日本国家観・権力 者観を 明 ら か に し て い く考えであ る 。 第一 部 イ エ ズス 会史料 に お け る中 近世 移行期 権 力 序章 イエズス会宣教師 の 権 力 者・国家認識の意義 二 各章の概容
また、日本語表記が 多 用され て いた ことは 、 書翰の受 取手もこ れ を 理解し て いた こと を 示 し てい る。 この ことは、 日 本 国内 の 宣 教 師 の 間 では、 あ る 程 度 日 本 語 によ る伝 達 が なさ れ て いた も の と推 測 で き、外国人宣教 師の日本語習熟度の高 さ が窺われる。イエズス会宣 教師 の 語 学 力 を 問 題視 す る 向 き も あ る が 、再 考の 余 地 の あ る こ とが 証 明 さ れ た 。 一五六九年六月一日 付 ルイス・フロイス書翰は、織 田 信長関連記事が多数含まれ て い る ことから、 永 禄年間の 織 田 政権の 実 態を知る 上 で 貴 重 な 史 料となって い る。し かし、従来 引用され て き たエヴ ォ ラ 版 日本書翰集は、編集時に原文の一部 省略あるい は 改変 がされて いることから、史料価 値と い う 点では二次史料とし て 位 置 づけられて い る。本 来 ならば 原 文書 によ る研究 を 進め て い くべ きである が、残念 ながらこの書 翰の原 本 は現存し ない。だ が、 リス ボア国 立 図書館 に 良質 の 写 本 が 現存 する。 こ の 写 本の 詳細 な史 料 研 究と翻 訳 は行 われ て い な い ため、 第 一 章 から 第三 章にわたっ て 同 写 本の 検討を行っ た。 永禄一二年四月二〇 日妙覚寺にて 宗 論が 行われたと い うフロイス 書 翰の記事は、邦文 史 料 と 照合 し て も十分整合 性 が認 め ら れ、 史実 と 確 定 す る こ とが できる 。 そ の 宗論 の内容 は 、 信仰 対象デウスに関す るロレンソ の 説明から 始 ま り、続 い て デ ウスが見えるか否かという 問答 に移行し、 最 後は霊魂 が不可視 なもの で も存在 すると述 べ るフロイ ス に 対し、 日 乗が 激昂し て 長 刀 を手に取った ところ を 取り押さえられた、とい う の が 大筋の流れである。こ れにつ い て 、 フロイス書 翰 と 「 日本史」 で 一 致し て い るが、 「 日本 史 」 の 方が よ り詳 細 で 、 書翰に記される内容より も 一層宗 論 らし く表現され て いる。 こ の点から、 「日本史」の記 第二章は 、永禄一二年にフロイスと日乗の間で 行 われ た宗論を題材とした。こ の 宗論が 記 載 さ れ たイ エ ズ ス 会 史 料 は、前章 で扱 っ た ルイ ス・ フロイ ス 書 翰 とフ ロイ ス「日 本史」 に限 られ、邦文史料は 存在し な い。そのため、 こ の宗論はイエズス会史料を もとに恣意的 に解釈 さ れてきた観 が ある。 本 章では、 宗論の背景 や 内容 を整理 す る と ともに、書 翰 に 書 かれ た フ ロ イ ス の 発言 部分 に 注 目 し て 分 析し た。 日本で は 、こ れまで エ ヴォラ 版 日本 書翰集 に 依存した研 究 が続 い た が 、 イエ ズス会史 料 の利用価値を十分に活 か す ならば 、 本 書 翰の 場合リ ス ボ ア国立図 書 館所蔵 書 翰 の 方がは る かに史料価 値 が 高い。 イエズス会 史料を日本 史の一史料 と し て 位 置 づけるためには、本 章 で 検 証した よ うな原文 書や良質の 写 本による研究が 必 要であり、それによっ て 日 本史研 究 に 有 益 な 史 料 とし て、そ の 価値 が高 まっ てい く も の と 考 え る。 第一章で は 、 同 写 本 に 特徴的な 日本語のロ ー マ字表記 の分析を行 っ た。こ の 日本語 表 記 を 見 て い く と 、当 該部 分 に 下 線 が 引 い て あ り 、欄 外に そ の語 句 のポ ルト ガル語 注 釈が 付 さ れて いる。 その数は約 六十 箇所に 及ぶ。内 容 は 地 名 ・ 人 名 など の固 有名 詞や 政 治 ・宗 教関 連語句、日 常 生 活 で 必 要な語句等様々で ある 。イエズス 会 は来日当 初から日本 の 宗教事 情 は も ち ろんの こと、 日本の国家 ・権 力 に も注目 し てきた。そ の 把握のた め に 、現 地 語 であ る日本語の収得および日本語理解を進め て い った ものと 考 えられる 。よっ て 、ここに書か れた政治・宗教 関 連記事は、日本での宣教活動における重要 語 句 と し て 宣教 師に理解 され てい た 可 能 性 が高 く 、 宣 教 師 の 国家 ・ 権 力 者認 識 を 検 討 す る 上 での一 指 標 に なる と考 えら れ る 。 本 章 で の 分析に おい てもエヴォ ラ 版書 翰集 では得 られ な い情 報を得ることが で きた。 第二章 永禄 一二 年宗論 に 関する基 礎的考察 第一 章 ルイス・フロイス書翰の日本語表記
一方 、フ ロイスはこ の 朱印 状を 得たこ と に より、京都で の 居住が 保 証され た も の と 理 解 し 、 今 後 自由 に 布 教 が 行 え る こ とを 期 待 し て い る 。 し かし 、 この 文 書 自 体 が 布教 を 許 可 す るも ので は な いこ とは フロ イ ス 自 身 も 分 かって お り 、 書 翰に も そう した 記 述 は 一 切 な い。 永禄一二年宗論の性格 につい て は、信 長 が た また ま同席した 日 乗に質 問 させ て 始 まった ことから、安土宗論の よ う な政治的な思惑はなかった。 よ っ て 宗論だけを見れば、よ くあ る宗論の一つ であった。しかし、宗論後日乗は宣教師追放を信長に 進言し、それが 無 理と 悟ると 今 度は天皇 から 伴天連追放 の 綸旨を 手 に 入 れる。こ の綸旨は 、信長や足 利 義昭の 宣 教 師 居住許 可 の朱 印状や制札と対立する内容の も の で あ っ た こ とから、 これが後に大 きな 問題とな って くる。以上の点から 、永禄一二 年宗論 は、キ リス ト教と仏教 による宗教 上の 対立 から 、 そ の後 日乗 を 宣 教師 追 放 に 駆 り立 て 、 宣 教 師 の 京都 居住 を 巡 る 問 題 に まで 発 展 し て いく一連の事件 の 契機となった 出来事 と し て 位置付けること が できる。 従っ て 、 永禄一二年 宗 論は宣教師と仏僧の対立と い う 宗教史と いう 側面だけでなく、 政 治 史 の面から も位置 づ けるべ き出来事 で あった。 また、宗論 後 の 日 乗の行 動 も含め て 考え ると、日乗 に 対し て 何 の処罰も しな かった信長の行動は 、永禄年間 の織田政権の実態を 解 明す る 上 で 重 要 な 問題 と い え る 。 フロイスは信長との対面の場 で 朱印状を求 め 、後日信長から朱印 状 を与えら れた。し か し、こ の 朱印状は 現存 せず、フロ イ ス書翰お よびフロイ ス 「日本 史 」に 書かれ たポルト ガ ル語訳文のも のしかな い。こ の ポ ル ト ガル語で 書 かれ た 朱 印状の存 在は 、早く か ら研 究 者 の間で 知ら れ て い るが 、朱印状 自 体 の分析は こ れ まで 厳 密 にな され たこ とがな か った。 そ こで 、こ の 朱 印 状 の復 元的 考 察 を 行 い 、 その 上 で こ の 朱印状 の 性格を読 み と っ た。 この朱 印 状は従来フロイス宛信長朱 印状と さ れ て きた。 と ころが 、 宣教 師側の記録を 見 て も 宛所に 個 人名が 書 かれたとす る 文言はな く、邦文史 料 と し て 現 存 す る足利 義 輝の宣 教 師宛禁制にも個人名が な い ことから、単にイエズス会宣 教 師に宛 て た朱印状 で あ った こ と が 推 定され る 。従っ て 文書名は「 永禄一二年 四月八日付 、 イエズス 会宣教師宛 織 田信長 朱 印状」とす る方が正確である。ま た 、朱 印状 の内容は、 寄 宿の禁止 、町の勤めと義務の 免 除、他者の妨害からの 保 護の三ヵ 条 が 書かれて いた ことがフロイス 書 翰から読 みとれる 。 よって 、 こ の朱印 状は 、 こ の時 期 信 長 が 多数 発給 し た 禁 制 の 一 つと 評価す る こ とがで きる 。 問題はフ ロイスの発 言部分を彼 自身が 実 際 に 言い得た かどう か で あ る。こ れ につ い て 、 フロイスの日本語の語 学力を疑問視し、文言通りに論じることがで きなかったとの見解が 出 さ れ て いる。 確 か に 、 フ ロイ スの発 言 内容は相 当高 度 で は あ った。 し か し 、 こ れ以前に イエ ズ ス会はす で に山 口な どで 宗 論 を し て お り、 その 論 破 の 方 法も 研究 して い た。 従 って 、 一見高度 とも いえる内 容も、論破の研究を行 ったフロイスにはさほ ど困難 で はなかったと 考 えられ、書 翰に書 か れた内容 はほぼ首肯 で きるもの とい える。 第三章 イエズ ス 会 宣 教師宛織田信長朱印状 布教許可状とする見方もあるが、 そ の見解 は 改め なければならず、滞在許可状と位置づけ なければな ら な い 。ただし、発 給 者側の信長は布教許可状とも滞在許可状とも 考 え て おら ず、禁制と し て 宣 教師 に与えて い た に過ぎな かった。こ れまで 、朱印状に対す る 発給者と 受給 者の理 解の違 いを 踏まえ ず に 、 フロイス の記録をも と に布教許 可状で あ る と か居住 許 事 は 事実 を相 当脚色し ており、 史料 価値とい う点 で 書 翰よ り質 が落 ちる。
また、 こ うした京都で の状況と 対照的に堺 の 安全性が 語られ て いる。宣教師は京都で 身 の危険 が生 じ ると、京都を離 れ て 堺 に避難 す る行 動をと っ て い る。本書翰には 堺 ほど安全 な場所は な い と記さ れ ており、 堺のアジール的性格 が イエ ズス会 史料からも窺え る 。 こ の ヴィ レラ 書翰に は 、こ の合戦が与え た 畿 内布教へ の影響につ い て も 記さ れて いる 。 将 軍 足利義 輝 の義兄弟にあたる人物が、京都 の教会を宿舎とし て借 用 す る許可を将 軍 から 得たとい う 記 事がある 。イエズス 会 は将軍義 輝から寄宿 禁 止の禁制 を得 て い たが、今回将 軍自 ら 禁 制を 無 視 し た の で あ る 。 ま た 京 都 で は反キリ シ タンによる 京 都の教会への妨害が あった ことも伝 え ている。 これらは、い ず れも親 キ リ シタンの 異教徒の尽 力 によ っ て 事な きを得た が 、 今回のように、混乱 に乗じ て 教 会を奪取し よ うとい う 動きがあり 、 宣教師は 度 々 そ う した危 機 に直面し てい た。 反キ リシタンの多い京 都 で の教界維持の 困難 さを 物語 って い る 。 第 四章は 、本 格的に 畿 内 布 教が 開 始 され た 永 禄年間 の 畿内 情 勢 に つ い て 考察 した。一 五 六二年付ガ ス パル・ヴィレラ 書 翰には、永禄 四・五年に 起 きた畿内 合戦記事が 記 され て い る。 この記事は邦文史料 で も確認できる こと から、宣教師史料の信憑性を確認する上 で 格 好の記 事 と い える。そ こで、畿内合 戦に関 す る記 事を①四万 の 兵 が 京 都 を包囲 し た 場 面、 ②堺の安全 性 に関する 場面、③久 米 田合戦等三好方敗北 の 場面、④ 教興寺の戦 い等 三 好 方 勝利の場面 の 計四場面に分けて 、内容的検討を試みた。 そ の結果、フロイス「 日 本史」は ヴィレラ 書 翰を そ のま ま引 用 、 部 分 的には 要 約と いう 形で 載 せ て い るこ とが 判 明 した。 ま た、書 翰 の内容 は 邦文史 料 と合致する点 が多く、 日 本 史の一史 料 と し て の 価値を有 す も の であることが証明された 。 天正元年 に入っ て 間もない頃 は 、足利義昭への使者 と なっ て い たが、 義 昭追放以降は毛 利への使者 や 丹波 国山 国荘への入 部 に関わ る 職務に移って いった。こ れ は 、 義 昭 と 信 長 の 対立が軍 事 的 対立に移 行し て 日乗 の 活躍の場がなくな っ た こと、織田 家 臣による京都 支 配 第五章は 、永禄・元 亀年間で 活 躍 した日乗 の後半生に関する考察である。日 乗 は信長が 足利義昭を 奉じ て 上洛 した頃から 、 信長や義 昭、さらには朝廷 と深 い 関 わりを 持 ち 、 畿内 で重要 な 地位にいた 。また 、 日 乗は反キ リシタンの 中 心人 物 で もあり、 フロイス と宗論を 行い、天皇 か ら伴天連 追放の綸旨を得るなど 、宣教師追放に奔走し た。しかしながら、 天 正年間 に 入 ると 、 史料 上に日 乗 の 名 が 登場 し な くな る 。こ のこ と か ら 、事典 類で は 信 長 か ら追放され たと説明さ れ 、それが 史実 とされて いる観が ある。しか し 、日乗が 追放され た とす る 時 期は諸 説 あり 、実態が 解 明さ れて いな いのが 現 状 で あ る 。 こう した状況下で 起きた今回の畿内 で の合戦を、畿内 布教担当の ヴ ィレラは 教 界 維持に 係 わ る 深 刻な問題 とし て受け止め て いた に違 い な い。従っ て 、 宣教師は この出来事を正確 に伝達 す る 必 要 があり、その点からも史料の 信憑性が読 み とれるのである。イエズス会 史 料の性 格 を 踏 まえる こ とに よっ て 、 日本 史史料と して 扱うこ と の で きる好例 で あ る 。 第五章 日乗 の後半生 第四 章 永禄 四・ 五年の畿内 合 戦と イエ ズス会 の 畿 内 布教 可 状 であるとか 評 価し てきた 。 しかし、同 一 の史 料 で あっ ても、 両 者の 間に は そ の捉 え方 に大きな違 い があった ことを看過し て はならない。
一方、義 昭は幕府権力復活 という慢心から 、 自身の主張を誇示して綸旨をも 否定する態 度 を とった。 だが、 こ の 態 度 に 信長は批判 的 であった 。 こ の頃 、 ま だ敵 対勢 力が残存 し、 畿内情勢 は 不 安定なも の で あった。それに加え て 、公武関係をも悪化させか ねない この行 動に対し て 、 信長は義 昭との連携ではなく、 朝廷との協 調体制を選 択する。その後、条 書 以 上 から 、 日 乗が 信長 のも と か ら 追 放 さ れ たとす る 通説は誤 りで あ る こ と が証 明さ れ た 。 フロイス書翰 で 、 日乗が信長のも と から追放 されたかの よ うに記さ れ て い るのは、フロ イ スが日乗に 敵 意をもって いたから に 過ぎな い 。また、それ以降イエ ズス会書翰に日乗関 連 記 事 が少 なく なったのは、 日乗 が イ エズス会に と っ て 脅威 ではなくなり、特記すべ き事項 に日 乗が関わらな くな ったから で あ る 。 にも かかわらず、日 乗 追放が議 論されて き た 背景には 、イエズス 会 史料が 大 きく影響 し て い ると思われる。フ ロイス書翰によれば、和田 惟政が 信 長から勘当を解かれ た 後、今 度 は日乗の不正を知った日乗が信長 か ら叱責さ れた とある。一般に、この記 事 をもっ て 日乗 が追 放された と する向き が多い 。 この点 に つい て、 『言継卿記』 にも関連記 事がある こ と から、信長が日乗を叱 責した こ と 自 体は史実と確定 で き る 。しかし 、フロイス 書 翰の後 半 には、日乗が信長から 追放されたあとも内裏 にい る が 、信 長はそ れ を無 視し て い る と 記さ れ て い る 。前 半部 分 だ け見 れば日乗 は追 放された と受 け 取 れる が、実 際 はそ の後 も内裏に 出入りし て い たのであ った。 正親町天皇は、永禄八年に伴天連追放の女 房奉書を、 永 禄一二年 には綸旨を 発 する等、 キリ シタンに対し て 一 貫した立場 を 取っ て い た が 、宣教師追放は不徹底に終 わ っ て いる 。 天 皇にはそれを執行しうる だけの権 力 が 伴っ て い なかったから であ り、 綸旨 が 執行されな かった事例 は 他にも 数 多くあ っ た 。 しかし、 今回信長が 天 皇に一任 した態 度 を と っ たこ と に よ り 、 天 皇 の 権 威 は 失 墜 する こと な く 、 面目 を 保 つ こと が で きた。 綸 旨 の 執行 を強 要し なかった正親町天皇の判 断 は、 当時の自身の 立場を的確に捉えて い た も のといえる 。 永 禄 一 二 年にフ ロイス は 京 都 復帰を実 現 さ せ た が、 反キ リシ タ ン一 派 の 宣 教師排 斥 工作 のため、 京都 で の 布教が困 難な状 況 にあ った。 た だ、 信長 の も とで宗 論 が 行 われるまで は 、 フロイスと 日乗の対立は単 なる宗 教 上の対立 に過 ぎなか った。しかし、イエズス会は布 教 地 で の布教を優位にす るため権力 者からの許 可状を望み 、 一方の仏僧は仏教 界 の 現状維 持 のため敵 対する宣教 師 の追放を権力者に進言した。 こ れにより、フロイス と日乗の 対 立は キリシタンを擁護 する和田惟政 も 加 わった 対 立に発展して い く 。そし て 、その拠り所 が そ れぞれ宣 教 師 の京都 滞 在を許 可 す る 信長 朱印 状と 伴天連 追放の綸 旨 で あ ったこ と から 、 正 親町天皇や 信 長 等 もこ の対立に 巻き込まれて いった。従 っ て 、キリ シタンと 仏 僧と の対 立 は宗 教史の範 疇だけ で なく 、政治史の立場から も 検討 す る必要がある。 第六章は 、前章まで の イエズス 会史料の研 究 成果をも とに、永禄年間の中央 政 権の実態 を読 み 取っ た 。 第六 章 永禄 一二 年伴天 連 追 放 の綸 旨を めぐっ て が一 段 と 進展 した た め と考 えられる。 天 正 三 年に なる と信 長の指 示 で「典済 」と改め るよ う 指 示され る が 、特に 追放される と いった こ とはなく、 そ の数日後 には信長の 養女の嫁 入 の際、警 固 役 となっ て い る 。『言継卿記』の天正四年二月二六日条ま で 日乗の動向が確 認 でき、少 なく とも そ の 時点まで信長のもとにい た こと が 判 明する。
ところが 、ザビエルは入京 すると天皇の 非 力さを悟り、日本の最 高の国王 で は ない と の 認識に至る 。天皇 ・将軍が「 命 令 権・支配権」を所持して いると いう 情 報はかつ て の 話で あり、 当 該期 では名誉の み の権 力者 に過 ぎ な い との認 識を もった わ け で ある。そ の 後、イ エ ズス会 は山口等 で布教 を 行う ことになり、 戦国大名 を 「 国王」 と 表記 するよ う に な った 。 すなわち 、ザビエル入京をもっ て 「国王」「領主」の該当者を改め、日本の実質 的 な権力 者 は 戦国 大名 で、そ の う ち最大 の権 力者 が大内 義 隆 である と認 識した の である。 これ は、 戦国期の 日本が複数の大 名 領 国から なる国家 で ある と宣教 師 が認識した こ とを意味し て い る。 そ こ で、「国 王」 「領主」の該当者 が一定し ない 原因を探るため、 来 日以前か ら時系列 に 従 って 、 彼 ら の 権 力 者 観 を 読 み 取 って い っ た 。 ザ ビ エ ル 入 京 以 前 の 権 力 者 観 は 、ラ ン チ ロッ トの日本報告 にある権 力者情報によっ て 確定した と い える。 こ の日 本報告によ れ ば、 天皇は 教 皇 の 如き 存在で 「 最高の 国 王」と位 置づけられ 、 世俗の者にも聖職者にも 権 限が あると記され て い る。しかし な が ら 、天皇は 自ら裁許を 行 わず、その全執行権を将 軍 に 委 ねて い る と あ る 。 一方 、 将 軍 は 西 欧 の皇 帝 の 如き 存 在 で 「 命令 権 ・ 支 配 権 」 を 所 持す る 「 国 王」 と評価さ れ、 武家による政 庁を持 ち 、 裁判 や 戦争 の任 務を帯 び ていると ある。 つ まり 、 来日 以 前 の日本 国 家観は、 天皇 ・ 将軍を頂 点 と し たヒエ ラ ルキー 構 造をも っ た国家 で あ り 、 その 理 解 のもと に 宣教師は 来 日 し た ので ある 。 では、宣 教師が「国王」「領主 」の該当者を改める必 要性とは何だ ったのか 。宣教師は 権力者を評 価 する際、「命令権・ 支 配権」を 有 す か否かで 判断し て いる。彼らは 実質権力 が及 ぶ範 囲を 「国 」、そ の 支配者を 「国 王」と捉 え て いた。実質権力を有 す る 権 力者 を優 先 す る宣教師の布教姿 勢 が 宣教師 史 料から読 み取れる。ゆえに日本 全国を支配する実質 権 力者 がい な い 戦国期の日 本 を統一国家 と せず、大 名 が 実際 に支配 す る 戦 国大 名領国 を 一国 家 と し て 認識 したの で あ る 。 そ の結 果 「 国王」 「 領主」 の 該 当 者 が 変 化した と考 えられ る 。 イエズス会 は 、 布 教地 情報を伝達 す る際、 布 教地の 主 た る 権力者に 対し て 「 国 王 ( rei )」 とい う語句を用い て いる。その該当者 が 日本 とそ の 他 の国 で異 なっ てい る。 日本以 外 の国 々に用い られるそれは 、 まさに文字通り各国の国 王を指し ており、例外は確認 で きない。 一方、日本 の場合「 国 王」の該当 者 が 、 天皇 ・将軍 を 指す 事例と戦 国大名を 指す 事例に 分 かれ る 。 「 領 主 ( senho r ) 」 も 同 様 で 、大名 と 大 名 家臣 に分かれる。 第一章は 、来日以前にイエズス会 が 得 て いた 日本 情報 と 、 来日後 に その認識 を改めた 経 過 を 分析し、 初期布教時代にお け る彼らの 日本国家観・権 力 者観 を明 らかにした 。 信長が こ うした態度を とった 背 景 には、 永禄年 間 の織 田政権 が 強 大 な権力を もちつつも、 中央政権 と し てはま だ 未 確 立の 段 階 であった ことが挙 げられる。信長もそ れ を 自 覚し て い た。そのた め 、朝廷を 無視し て 独 自 の政策や 方針を展開するの ではなく、自身 の政権維 持 のためにも 、 幕府や朝廷を本来のかた ち に戻し、正常 な 機 能 を 果たす よ う執り 行 ったので ある。信 長は相 反 する法令 が出 された 状 況 を 穏便 に片 づけよ う とした の であり、そ れ はこ の時 期 の 織田 権力 の実態を 端 的に 表して いる 。 第一 章 イエズ ス 会 初期布教期の 権 力 者 ・国家認識 第二部 イエズ ス 会 宣 教師の権力 者 ・国家認識 を発す る など義 昭 の行動を牽制して いくこととな る。
以上の点を踏 まえ て 来日後の書翰に書かれ た 「国 王」を見 て い くと、該 当者とい う視 点 で考 え れ ば確 か に 将 軍 と な る が 、イ エ ズ ス 会 の 認 識 で は天 皇 の 情 報、 あ るい は天 皇 か ら全 責任 を委 ねられた 将 軍 情 報 と な るの である。個 々 の 文 脈か ら 「国 王 」 が示 す 対象 と、 ザビ エル の 認 識上の「 国王 」の対 象 は 区 別 し て 考 えな け ればならな い。 そ こ で 、 ザビエルが 天 皇・将軍 をどう 認識 し て いたの かとい う 面 か ら検証し た。ザビ エ ルが 天皇と 将 軍 に 関す る詳 細な 情 報 を 得 たの は 、 ラ ン チ ロ ット の日 本 報 告からで あ っ た 。 こ の 日 本 報 告 で 注 目す べき は 、 ザ ビ エ ル は 天 皇 と 将 軍 を と も に 「 国 王 」 と 認 識 し て い たが 、 両者は対等な関係にあ るとは捉え ず 、将 軍は 天皇から委任された権力者 で 、 最 終 的な権限 は天皇に ある との認 識 を も っ て いた点 で ある。 も し両者 が 対等 で あ ると捉えていた ならば、 「国 王」表記の際 複数形を用い て も よ か ったはず である。実 際 スペイン では二人国 王 に よ る共同統治が行 わ れ て いたため、複数形表記がされ て いる。しかし 、日本の場 合 は天皇 と 将軍 に よる 共 同統 治 で はな く 、 全 体 的 権 限を 有す のは 天 皇 ただ 一 人で あ り、将 軍 は そ の 権 限 を 委任 された「国 王 」 と 宣教 師に認識さ れ ていたの である。 イ エ ズス 会書 翰 に 書 か れ た 日本 の 「 国王 」 の 該当 者を 見 て いくと 、 来日 前は 天皇 ・ 将 軍 、 来日後から 入 京前 ま で は将 軍 、入京 後は天皇 ・ 将 軍とな る ことが読みとれる。しかし、来 日後 から 入 京 前まで 将 軍 の みを 指すと い う の は 、以下の 点 から疑問 点を残す 。来日後「 国 王」を将軍 の みと 改め たならば、 そ の理由を 書翰に 記し た は ず で あ るし、将軍 訪 問を 試み ても よかった で あ ろう 。 だ が 、 ザビエル書 翰に 「国王」 に 対す る認識 を 改めた形跡はなく 、 また彼が訪 問 を 試 みたのは 天皇の方 で あ った。 ザビエル 入京後、イエズス会宣 教 師は、戦 国大名を日本の一国王と認識し、西国の大名 領国 を 中 心に宣教 活 動 を行っ て いた 。永禄 年 間に入 り 、そ の布教 活 動の一 つ と し て畿内布 教 が 開始さ れると、天皇 ・ 将軍 関 連 情報や日 本全国にわ た った情報などが 伝 達 され、権力 者認 識 の 変化 を窺 わせる記 事 が みら れ るよ う に な る。 かつ ては天 皇 が日 本国 王とし て 君臨 して いたが 、 将軍 と 争 う よ う に な っ て 権 限が 将軍 のもと に 移 っ たこ と 、 さらに は その 家 臣 であった 大名 が謀 叛 を 起 こ したため 、 天 皇と 将 軍 の権力が失 わ れたことを宣教師は説明す 第二章は 、ザビエルが 在日し て いた時期を対象に、彼が天皇と将軍 を日本の「国王」と し て どう位 置 づけて い たかを考察 し た。ザビ エルは来日 以 前から、来日後すぐ に 「日本 国 王」の も と を 訪れる こ とを書翰に 書 き記し て い る。その「国王」が誰を指 すのか、 すなわ ち天皇か 将軍か で 従 来 見 解 の分かれ るとこ ろ であった 。 第三章 畿内布教 期の権 力 者 ・ 国家 認識 第二章 フランシスコ・ザビ エ ルの天皇・将軍認識 その 後、畿内宣教 が本 格 的 に開始されると、イエズス会 書翰に再び天皇と将 軍 に関する 記 事 が載せられる。そ こには、天皇は尊位のほか は持たない 「 国 王 」 と し て 、将 軍は権力 を有 する「 国 王」 とし て 書 かれ て い る。 この時期 に こ のよ うな説明をしたの は 、 受取手の 外国人 宣 教師 が天 皇・将 軍 両者 を区 別し て理解 し てい な か った 所 以 である。 つまり、 畿内 布教期に入っ て 、 宣 教師はようやく天 皇と将 軍 を区別 し て 把 握す るようにな っ たの で あ る。 しかし、「 命 令 権・支 配権」を有す戦 国 大名も安定した 権 力 で はな く、結局宣 教 師は複 数 の地域で 布 教 保 護 を求 め な け れ ばならな かっ た。
ま た、全 国平定を目 前 にし て 、 秀 吉 が関白 と いう 称号 を天皇 か ら 賜 った こと を伝えて い る。 この時 、 宣教 師は「日本全国の君主」と なった 秀 吉を評価 するとともに、関白を授与 した天皇に も 注目す る の で ある。 そ れは 、秀 吉が日本の君主と し て 新たな 政 権機構を 創成 することは せず、旧 来 のそれを利 用 しながら 政権づくりを行ったから で ある。すなわち 、 豊臣政権と い う 名 実と も に 日本 の 支 配者たる 権力の誕生 に よっ て も 、天皇 の 権 威 は失わ れ な か ったと 宣 教師は理 解したの で あ る。「天 下の君主」 に よる 支配と い う 側 面 ( 新しい動 き) と、 公武の併存 関 係(旧 来 よりの 動 き)の両面を読み取 る ことによっ て 、織豊政権の 特徴 を 読み 取 るこ とがで き よう 。 第五章は 、前章まで で 明らかに したイエズ ス会宣教師 の日本 国 家 観 をもとに 、中近世移 行期王 権 論を論 ず る試みを 行 っ た。 イエズス 会書翰から 権 力者情報 を読み解く と 、宣教師は日本全国 ・ 大名領国 ・ 国郡制 の 三種類の「 国 」認識をも っ て い たことが 判明する。その中でも 基本 的な「国」は大名領 国 の「国」 で あ った。それは、宣教師が 実質権 力者と 認 識する「国王 」の支配 す る 「国」で あり、西洋 の枠組みに当てはめ て 捉 えた国家だったからである。し かし、畿内 布 教開始に 伴い 、 天 皇や 将 軍とい う名誉の みの権 力 者 も 伝 達 する必要 が生じた。そ の結 果、 天 皇 と将 軍 を 「日本 全 国の国王 」とす る 場 合 の「 国」 と 、 変わ ら ず 大名を「 国王」と し 、 天皇と 将 軍をその 「統 括者」 「 皇 帝」と する 「国」 の 二 種 類の 国概 念によ っ て伝達し た。 しかし、 その上位部分にあたる 武家政権の 捉 え方には 、大きな変 化 が 認めら れる。信長 が 安土に 居 城 した頃か ら 、 宣 教 師 は 信長を「 天下 の君主 」 と評す る よう にな っ た 。本 能 寺 の変後、秀 吉 をその後 継者とし て 認 め、信長 同様「天下 の 君主」と 位置付け、 徳 川政権に 至る と家 康に も同 じよ うに 「天 下」 を 用 い て 説 明 する。宣教 師 は、「天 下」 を君主国 と理 解し て お り 、 京都を中 心とす る 畿 内 地域を 支 配 す る者は 、 全国の命令 権・支配 権 を掌中 に したと し て 、 日本全国 への支配力がお よ ぶも のと 認識して いる。つ まり、彼ら に「天下 の 君主」 と 呼ばれた信 長 ・ 秀吉 ・ 家康 は 、 日本 の 中 央政権の 君主とし て 認 められた の で ある。 第四章は 、 こ れまで 検 討した戦 国期日本の 国 家観を踏まえ て 、 織 豊 期にその 認識が改 め られ るか否かを明らかにし 、中世・近世の移行過 程を読みとった。イエ ズス会宣 教 師 は 、 大名領 国を 一国家と 捉え、それを 幕府や朝廷が 統括す る と いう 、連 合国家的要 素 を持つ 国 家で あ る と 認 識 し て い た 。 そ し て 、 こ う し た 国家の枠組 み の捉え方 は、 戦国期か ら織豊期 に至 っても 基 本 的 に変 化は み られな い。 つまり、戦国期日本 は 、実態と し て は大名が各領 国を 支配 す る複 数からなる 国家 で あ る が、そ の 大名を名目 的 な権 威 に よっ て天 皇と将 軍 が統括し ており、そ の 点 で は統 一国家 で あるとい う の が、 この時期の宣教師の権力者 ・国家理解 で あった。宣教 師は、天皇・ 将軍 と大 名の 関係を名目 的 権 威 と実 質権 力 と い う 両面か ら 捉 え る こ と で 日 本 の権 力者 を理解 し 、 その 結果 戦国期 日 本 を連合 国家 的要素 を もった国 と把 握した の である。 第五章 日本王権の重層性と二重 性 第四 章 イエズ ス 会 宣 教師の「 天下」理解と朝廷理解 る。しかし、実質権 力 者の 戦国大名 が天 皇と将 軍 に一 定の 敬意を 払 う様子 を 見 て 、権 力だ けで は 読 み 取 れ な い戦 国日 本 の 国 家 を 理 解し た。
こうした新た な武家政権の誕生 を読みとる 一 方で 、 彼 らはこ の 時 期 天皇 の 権 威にも 注 目 する。 秀 吉は全国制覇 の過 程 で 関 白 に就任 す るが、その際天 皇 より授与されることを宣 教 師は 知り、 天 皇に対す る注 目 度 が 一 気に上が る。武 家政 権 に よっ て 全 国 統一が 果 たされて もなお、天皇および朝 廷の存在 が 否 定されな かった こ と が 、宣教師 にとっ て 奇異に映っ た の で あろう 。 天皇の権威の源泉をこれま で の 偶像崇拝の象徴とし て だけ でなく 、 官職授与 その一方で 、 織豊期に至ると、 国家構造上 の変化はな い も のの、 そ の上位部分にあたる 武家政権 に変化 があると認識した。永禄 年間 頃の織 田 信長は、絶 対 的 な 権 力 を 有 し て い て も中央政権とし て は未 熟 で あった。イエズス 会の京都滞 在 をめぐって 、 天皇と 信 長はそれ ぞれ宣教師 に 対す る態 度が異な って いたが 、 にも かかわ ら ず穏 便に 事を 片づけて いく状 況 が窺 え る 。そ の 信 長 も 本能 寺 の 変前 後 に 「天下 の 君 主 」と 評 さ れ る よ う に な る。 この 「天 下の 君主」とい う 説明は、その 後 の 秀吉・家康に も用いられ て い ることか ら、織豊政権お よび徳川政 権 を日本の 新たな中 央 政 権と位置 づけ 、その 創 始を 織田 政権に見ることが 可 能 である。 Vo と rei 両 語 句か ら読 み取った日 本 の王権構 造は、 戦 国 時 代か ら江 戸時代 に い た るまで 基 本 的には 変 化し ないことから、中近世移行期王権の枠組み自体は 連続的に読み取れる 。 し か し、 織 豊 期 に 至 る と、 武家 王権 に 対 す る 評 価 が異 なっ てくる 。 信 長 ・ 秀 吉 ・ 家 康 を 「天 下の 君主」と書 き 記 す よ う に な り、日本の 君 主国を掌握 し た 王 権 と し て 位置づけ てくる 。 この説明 は 天 皇に対 す るそ れ と ほ ぼ 同様 である ことか ら、天 皇 と天下人 によ る王権 双 方を 日本全国 を 支 配 す る日本王権 と して 捉 え て いくの である。そし て 、 戦国期 で は 室 町王権は 名誉のみ の 王 権に 過ぎ な か ったが 、 織豊期は 信長 ・秀 吉 に よる 実体 的な 王 権 と し て 評価す るこ とで 、 新 たな 王権が誕生 したことが 読みとれ る の で ある 。 イエ ズ ス 会 史 料で 「 王 」と いう 訳 語 を し ば し ば 目 にす るが 、 原 文 は す べ て 同 一語 と い う わけで は な く 、 Vo と re i の二 語が 存 在 す る 。 Vo は天皇 の みを指し ており、 邦文史料の 「 王」 の事例 と 合 致 す る こ と から 、こ れ ま で の 日本 王 権 論と 同 じ土 俵 で 議 論す るこ と がで き る 。 しか し 、 従来の王 権論も そ うで あ っ た よ うに 、 Vo からの王権論はイコール天 皇 論 となる問 題点をはらん で い る。 一方、 rei は西洋の枠 組 み で 捉え られた王 である。 こちらは天皇と将 軍それぞれを指し ており、 キ リ シ タ ン 時 代一 貫した捉え方 であった 。 そ れ に 加え て re i が大 名も 指す 事 例 も 看 過 で きな い。 rei の該当 者 と そ の 権 力を分析 した結果、 中近 世 移行期の王 権構造の特徴 は、大 名 王権 (小王 権 ) とそ れを統括 する日 本 全国の王権 ( 大 王 権 ) の 重 層 性と 、大王 権 の二重 性で あ った。 そ して 、王 権構造 自 体 は 戦 国時 代 から 近 世 初 期まで 一 貫 したも の と し て 捉 えら れる 。 イエズス 会宣教師は 、 来日以 前 で は 天皇 ・将軍 を 日本 国王とす る 統 一国家と 捉えて い た が、ザビエル入京 後に その認識を 改 め、戦国大名を日本 の 一国王と 位置づけた。畿内布 教 期にはイエ ズス会の国 家 観がほぼ確立したと い え、戦国 大名を領国の国王とし 、その大名 を統括 す る 天 皇と将 軍 を日本国王と評価した。つまり、領国の国王と日本全国の国王と い う重層的国 家 構造、お よび二人の日本国王と い う 二元体制が中近世移行期日本 の国家構 造 であり、その国家構造自 体 は戦国期から徳 川 初期まで連続したものと捉え た の で ある。 1 本論文の 結論 終章 連合国 家 と 二人国王
以上の 点 から 、本 論 文 で 明 ら か に し た連 合 国 家と いう 枠組 みを念 頭 に置きつ つ 、 如上 の 課題に 取 り組んで い く 所存 で ある 。 もう一つの 課題 は 天皇の存在 で ある。天 皇 権 威 に つい ては、 来日 前 の日 本情報か ら読み 取れ、天皇 を 呪術的 ・ 宗 教 的な 存 在 の象徴と し て 捉え、 天 皇 の 聖性と武 家政権 への全 権 授 与の二 点 が 理 解されて いた。次第 に それは 偶 像 崇拝の象 徴と 官 職授 与と いう 形で 具体化 さ れ て い く が 、その権威の 源 泉 は 天皇が日本古来の国 王 で あ った という伝統的権威に求め て いる。 こ う し た天皇の 権威は 豊 臣 期 に入っ て 、一層注目 された こ と を 踏まえれ ば、天皇 権 威に 関 し て も 織 豊 期に 注目す る 必 要 が 出 て く る。 重層的国家構造 と二人 の国 王に よ る 二元体制を考 えたとき、一国王と位置付けられ 続 け た 大 名 の 評価 、 織 田政権 の 中央 政権 に 至 る 成 立過 程、 天皇権 威 の 源 泉 が今 後 の課 題 と し て 明確にな っ た 。本論文では、永禄年間の織 田 政 権は中央 政権 とし て は 未熟 であ り、朝廷と の協調体制をとっ て い た点、天正年間に入ると「天下の君主」とな り、新た な 中 央政権の 誕生を宣教師が認めた点 を明らかにした。そし て 、その「天下の君 主」を信長 ・ 秀吉・家 康に対し て 連 続し て 用 いた ことから、「天下 の君主」に よ る政権の成立をもって 近世国 家 の誕生と し 、 その創始を 織 田 政 権に求 め るこ とが 可能 で あ ると の見 解を示した 。 今後は 、 そ の 論点 となる天下論 と織 田権 力の 実 態 解 明 を 行 いた い。 本 論文の 結果 、国家 構 造の各 部 位に注 目 す る だけで は 、中 近 世 移 行 期研 究の 統一的 見 解 は生まれ て こ な い ことが明らかになった。当 該期の国家構造 が い かなるものかを踏 まえ 、 各部 位の 研究 成 果 を も とに総 合 的に移行期 研 究 を 進め て い く必要 が ある。 本 論文 ではその 第一段 階 と し て 国 家構造の枠組みに こ だ わって 論 じてき た 。 2 今後の 課 題と 展望 とい う 世 俗面 におい て も把握するよ うになった の で あ る。