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大西磨希子
博士学位請求論文 概要書
概要書
西方浄土変とは、阿弥陀仏の西方極楽浄土の依正を、絵画や彫刻によって造形化したものである。主に中国で 盛んに造られ、現存作例では南北朝時代のものが早く、隋唐の浄土教勃興に伴い、大きく発展・流布した。その 盛時の西方浄土変はまた、唐仏教を輸入した日本にも伝えられたのであり、当麻寺に伝わる綴織当麻塁茶羅は、 その一つである。 西方浄土変に関する研究は、その当麻畳茶羅に始まり、鎌倉時代に浄土宗の証空 ︵二七七∼二面七︶ が当 麻蔓茶羅の図様と善導︵六三一∼六八二 の教義とのt致を見出して宣揚したことが端緒となって、以後ながら く浄土宗の僧侶によって受け継がれてきた。こうした当麻皇茶羅を対象とする教理的研究を一変させたのは、松 本柴一による﹃倣煙蓋の研究﹄である。松本は敦燈莫高窟に残る西方浄土変の作例を紹介し、西方浄土変を︵阿 弥 陀 浄 土 変 相 ︶ と ︵ 観 経 変 相 ︶ ︹ ﹃ 観 無 量 寿 経 ﹄ ︵ 以 下 ﹃ 観 経 ﹄ と す る ︶ の 変 相 図 ︺ と に 分 け 、 そ れ ら の 定 義 づ け を 行なうとともに、︵観経変相︶については画面構成によって分類を行なった。この松本の研究によって、西方浄土 変に関する基本的な問題はすでに解明されたかのごとくみなされ、松本が提示した認識は、敦煙研究院による壁 画の主題認定をはじめとして、今日の西方浄土研究の大枠を決定するにいたっている。一方、当麻皇茶羅に関しては、仏教史の重鎮である望月信亨が、浄土宗僧侶による当麻皇茶羅研究を引き継ぎ、善導の著書によって当麻 皇茶羅の図様を解釈しており、この見解が通説となっている。また、こうした当麻隻茶羅と善導との関係が前提 となり、かつ日本の浄土系諸宗派における善導重視の立場も影響して、西方浄土変の成立と発展に寄与した人物 としては、もっぱら善導のみが指摘されてきた。 したがって、これまでの西方浄土変研究は、その数は決して少なくないにもかかわらず、当麻隻茶羅を善導と の関係で捉える点、西方浄土変を﹃観経﹄の影響の有無によって ︵観経変相︶と ︵阿弥陀浄土変相︶ に分けよう とする点、西方浄土変における善導の役割を重視する点は、おしなべて一致しており、その意味で固定化した観 がある。しかしながら、以上の研究において西方浄土変の問題のすべてが解決したわけではなく、つぎのような 問題点が指摘できる。 ︵一︶ 当麻蔓茶羅の図様解釈や松本説に対する批判的研究がこれまでなされてこなかったこと。 ︵二︶唐代の西方浄土変について、中国浄土思想の流れをふまえた歴史的視点からの研究が欠けていたこと。 ︵三︶従来の主な関心は、︵観経変相︶か︵阿弥陀浄土変相︶かを判別するところにあったため、外縁部に﹃観経﹄ の図をあらわした盛唐期以降の作例については、観経変相であることが疑いないという理由でほとんど研究の 対象とされてこなかったこと。 ︵四︶当麻蔓茶羅は中国製の可能性が高く、少なくとも粉本が中国成立であることは間違いない作例であるにも かかわらず、その図様解釈は後世の、日本の浄土宗の側からなされたもので、中国唐代の視点からの検討がな 2
されてこなかったこと。 そこで本論文では、第一部﹁唐代の西方浄土変﹂ において、これら唐代西方浄土変における四つの問題を、各 章の課題として設定する。すなわち、第一章﹁初唐期の西方浄土変と﹃観無量寿経﹄﹂、第二章﹁初唐期の西方浄 土変に及ぼせる道縛の影響﹂、第三章﹁﹁敦蛙における十六観図の研究﹂、第四章﹁綴織当麻皇茶羅の研究﹂の四章 であり、第一章と第二章は初唐期の作例について、第三章と第四章は盛唐期の作例について考察する まず、第一章﹁初唐期の西方浄土変と﹃観無量寿経﹄﹂ は、松本柴一﹃焼塩蓋の研究﹄の西方浄土変に関する 説を根本的に問い直すもので、つぎの三節から構成される。 第一節﹁松本柴一説と従来の研究﹂ では、西方浄土変を︵阿弥陀浄土変相︶ と ︵観経変相︶ に分けた松本の説 を洗い直し、その後の研究をふりかえり、問題の所在を明らかにする。さらに、松本は﹃観経﹄を西方浄土変と は本来無関係とみなしていたが、浄土教経典のうちで西方浄土についてもっとも詳しく記述するのは実は﹃観経﹄ であり、松本説には根本的な誤りがあることを指摘する。 第二節﹁﹃観無量寿経﹄に特有のモティーフ﹂ では、﹃観経﹄において西方浄土の観想法を詳述した十六観に注 目し、﹃観経﹄十六観に特有といえるモティーフを三点取り上げ検討する。すなわち、第二観、第四観、第七観の 各モティーフについて、経文と莫高窟の作例とを対照させることにより、それら﹃観経﹄特有のモティーフが、 どのように絵画化されていたのかを明らかにする。 第三節﹁西方浄土変に描かれた﹃観無量寿経﹄モティーフ﹂ では、第二節で検討した﹃観経﹄特有のモティー 3
フが、従来﹃観経﹄とは無関係だとみられてきた西方浄土変の中に描き込まれていることを検証する。 以上により、従来︵阿弥陀浄土変相︶ に分類され、﹃観経﹄とは無関係だとみられてきた作例も︵観経変相︶ と同様、﹃観経﹄の要素が見出されることを明らかにする。西方浄土変の制作にあたって、もっとも重要な典拠と なったのは、従来考えられてきたのとは逆に、むしろ﹃観経﹄であったと考えられることを指摘し、︵阿弥陀浄土 変 相 ︶ と ︵ 観 経 変 相 ︶ の 定 義 に つ い て も 再 検 討 す る 。 第二章﹁初唐期の西方浄土変に及ぼせる道綿の影響﹂ は、唐代に西方浄土変が前代から大きく変貌した背景を 探り、従来の善導一辺倒ともいえる見方とは異なり、道縛︵五六二∼六四五︶ の果たした役割に光を当てるもの で、つぎの三節からなる。 第一節﹁﹃観無量寿経﹄の受容における高揚期﹂ では、従来の西方浄土変研究が、典拠となった経典がどのよ うに中国社会に受容されてきたのかという歴史的視点を欠いていたことへの反省から、仏教史の成果に依りつつ、 ﹃観経﹄受容の歴史をたどり、隋から初唐にかけての時期が﹃観経﹄の受容における空前の高揚期であったこと を 概 観 す る 。 第二節﹁初唐期における西方浄土変の流行﹂では、西方浄土変の制作における盛期が唐代にあることを、文献 によって確認し、第一節でみた﹃観経﹄受容の高揚期と西方浄土変制作の盛期が一致することを指摘する。 第三節﹁初唐期の西方浄土変と道縛の浄土教﹂ では、初唐期の作例と隋以前の作例とを比較することにより、 初唐期の西方浄土変の特徴が何であるかを明らかにする。さらに、貞観十六年︵六四二︶ごろの制作とみられる 4
莫高窟第二二〇窟南壁の西方浄土変が、善導の影響を受ける以前の作例と考えられることから、新たに善導の師 の道縛に注目し、道縛の著作である﹃安楽集﹄や、同時代の道宣︵五九六∼六六七︶ による﹃続高僧伝﹄道縛伝 の記述を検討する。その結果、大画面で描写が複雑になり、一種の透視図法を用いた奥行き表現になるという、 初唐期の西方浄土変の特徴が、道縛の浄土信仰に由来する可能性を考察する。 第三章では、阿弥陀浄土変相の外縁部に﹃観経﹄の未生怨説話と十六観の図を付加させた作例について、十六 観図を取り上げたもので、主に盛唐期以降の作例を対象とする。これらの作例については、西方浄土変を︵阿弥 陀浄土変相︶と ︵観経変相︶ に分けることに関心が集中してきた従来の研究においては、明らかに﹃観経﹄の影 響が認められる︵観経変相︶ であるということで、とくに問題にされることがなかった。ところが、莫高窟の作 例を仔細にみると、そこに描かれた十六観図には、さまざまなヴァリエーションがあり、そのなかには少なから ず﹃観経﹄から離れた表現がなされている。また、第三早と第二章で検討してきたように、唐代の西方浄土変は ﹃観経﹄の十六観と密接な関係にあったのであり、その十六観が盛唐期以降、どのように表現されていくのかを 追うことによって、西方浄土変がその後どのように展開していくのかを具体的にたどることができると考えられ る。しかし、これまで十六観図に関する研究はほとんどなされていない。そこで、つぎの三節によって、敦煙の 十六観図を概観する。 第一節﹁十六観図に関する研究史﹂ では、松本柴一以来の十六観図に関する研究成果を確認し、問題点を明ら か に す る 。 5
第二節﹁敦煙画の十六観図の作例と分類﹂では、盛唐期の作例を中心に、敦燈の十六観図を取り上げ、﹃観経﹄ の記述との対応関係を軸に五種に分類し、各作例を紹介する。 第三節﹁敦煙における十六観図の展開﹂ では、第二節での分類にもとづき、その変遷をたどる。そのうえで、 阿弥陀浄土変相の外縁に描かれる形式の十六観図としては、現存最古とされてきた第二一七窟の作例について、 その位置づけを再検討する。 綴織当麻星茶羅については、日本作であるか中国作であるかの問題が残っており、国宝指定をはじめ各種図録 などでも、両説が併記されているのが現状である。また、少なくとも当麻蔓茶羅の粉本は中国作であることが確 実であるにもかかわらず、莫高窟の諸作例との比較はほとんどなされていない。さらに、図様に関しても、当麻 竪茶羅の図様を善導の著作から解釈するのみで、善導以前の西方浄土変の存在をふまえた歴史的視点を欠いた、 個別的説明にとどまっている。そこで、第四章﹁綴織当麻蔓茶羅の研究﹂ では、当麻皇茶羅に対する従来の図様 解釈を再検討し、唐代の西方浄土変として捉えなおすことを目指す。第四章は、つぎの四節から構成される。 第一節﹁当麻蔓茶羅の図様に関する研究史﹂ では、浄土宗僧侶によってなされてきた図様解釈が、今日までほ とんどそのままに受け継がれていることを指摘する。 第二節﹁図様解釈の再検討﹂ では、従来の図様解釈について、善導の観経疏と結び付ける説と、善導の﹃法事 讃﹄﹃般舟讃﹄と結び付ける説を検討する。そのうち、外縁三方の区分と初観日想の場面に描かれていたという三 色の雲︵目観三障︶の典拠を善導の観経疏に求める説にはとくに問題はないが、中台部分を善導の﹃法事讃﹄﹃般
舟讃﹄の記述にもとづいて描かれたものとする説は、善導を重視するがゆえの、行過ぎた解釈であることを指摘 す る 。 第三節﹁制作地と制作年代について﹂では、問題の残る当麻皇茶羅原本の制作地について、太田英蔵が指摘し た唐の宮廷あるいは政府直属の工房による制作の可能性を支持し、莫高窟の作例との比較などから、制作年代を 考 察 す る 。 第四節﹁中国の浄土教美術における当麻皇茶羅の位置﹂ では、中国の西方浄土変の一作例として、当麻蔓茶羅 の位置を考察する。 日本における西方浄土変というと、日本に伝来した当麻皇茶羅やその転写本といった作例が想定されるのは当 然であるが、一見すると西方浄土変とは無関係に思われる作例のなかにも、西方浄土変の日本における展開や変 容の跡を見出すことができる。そこで、第二部﹁日本における展開﹂ では、鎌倉時代初期の作例から絵画と彫刻 を一例ずつ取り上げる。すなわち、第一章﹁蓮華三昧院所蔵阿弥陀三尊像の研究−−主題の検討を中心に − ﹂、 第二章﹁浄土寺阿弥陀三尊像の研究−1元照の浄土思想の影響−−﹂であり、第三早は西方浄土変、第二章につ いては﹃観経﹄十六観との関連において考察する。日本の浄土教においては、来迎思想が支配的であったとされ、 浄土教美術の作品の多くが来迎関係のものである。これら二作例もまた、従来は来迎美術のなかで解釈されるこ とが多く、通例の来迎像とは異なる特殊な作例と捉えられてきたものである。しかしながら、これらが来迎思想 とは異なり、西方浄土変や十六観という観想に通ずる思想を背景として生み出されていたことを考察する。 7
第三早﹁蓮華三昧院所蔵阿弥陀三尊像の研究 − 主題の検討を中心に1−﹂ は、つぎの四節からなる。 第一節﹁従来の研究﹂ では、蓮華三昧院本についての従来の解釈を検討し、唐代西方浄土変の後世の転写本の 一種とみられる智光量茶羅C本︵軸装本︶との図像的類似を指摘した濱田隆の見解に注目する。 第二節﹁智光量茶羅C本との図像的関係﹂ では、三尊の形制、中尊の台座、供物台、天蓋について、蓮華三昧 院本が智光量茶羅C本と類似することを確認し、蓮華三昧院本の阿弥陀三尊が来迎の三尊ではなく、西方浄土変 である智光量茶羅C本から抽出された、浄土における三尊の姿であることを指摘する。 第三節﹁現前と雲のモティーフ﹂ では、蓮華三昧院本に描かれる雲もモティーフについて、その意味を考察す る。従来、雲が描かれていることが本図を来迎と結びつける最大の根拠となってきたのであるが、雲は﹁出現﹂ をあらわすモティーフであり、来迎もまた出現の現象の一つであることから、本図は浄土における阿弥陀三尊の 姿が ﹁現前﹂ したさまを絵画化したものである可能性を指摘する。 第四節﹁明遍の思想と蓮華三昧院本の主題﹂ では、本図の制作に関わったとされる明遍が、浄土への往生の果 遂を説く第二十願を重視していたことに注目し、本図はその第二十願にもとづき、浄土に往生した際に眼にする 光景を絵画化したものであると結論する。 第二章﹁浄土寺阿弥陀三尊像の研究−−元照の浄土思想の影響−−﹂ は、夕日によって背後から照らし出さ れるという独特の荘厳効果をもち、宋画の阿弥陀三尊像を手本とする形制になるという、浄土寺像の二つの特徴 に着目し、その思想的背景を探ったもので、つぎの四節から構成される。
第一節﹁浄土寺阿弥陀三尊像の形制と宋画阿弥陀三尊像﹂では、浄土寺像の形制が宋画の阿弥陀三尊像に倣っ たものであることを、文献および宋画の作例との比較により確認し、宋画の転写本とみられる十六観変相図の第 十三観図に描かれた阿弥陀三尊と浄土寺像との形制の類似に注目する。 第二節﹁十六観変相図と元照の浄土思想﹂ では、十六観変相図が北末の元照の浄土思想にもとづくことを明ら かにした濱田隆の研究を紹介し、さらに浄土寺像の道立者である俊乗房重源︵二二一∼〓5六︶が十六観変 相図を所持していたことを文献から確認する。 第三節﹁十六観変相図にみる元照の浄土思想の特徴﹂十六観変相図を、同じ﹃観経﹄の十六観をあらわした当 麻皇茶羅の外縁の十六観図と比較することにより、十六観変相図には初観の目想を画面中央部に際立って大きく 描くという特徴があることを指摘する。さらに元照には十六観のうちの初観である日想観を重視するという特徴 があったことを考察する。 第四節﹁浄土寺像の特徴の思想的背景﹂浄土寺像における二つの特徴のうち、夕日の意図的な取り込みは元照 が重視した目想観を、宋画にもとづく三尊の形制は、元照が﹁総観﹂とみなした第十三観において描かれる三尊 の姿をあらわすために採用されたもの、と結論づける。 第 三 部 の 資 料 は 、 I ﹁ 莫 高 窟 第 四 三 一 着 十 六 観 図 ﹂ 、 Ⅱ ﹁ 敦 燈 画 十 六 観 図 ﹂ 、 Ⅲ ﹁ 綴 織 当 麻 隻 茶 羅 十 六 観 図 ﹂ か ら な る 。 I ﹁莫高窟第四三一窟十六観図﹂ では、第一部第一章と第三章にかかわる作例として、莫高窟第四三一憲に描 9
かれた初唐期の十六観図のうち、初観から第十三観までの各図の描き起こし図を掲げる。 Ⅱ ﹁敦煙画十六観図﹂ では、第一部第三章の本文で取り上げなかった作例について、図版や描き起こし図を載 せ、作例ごとに記述を行なう。 Ⅲ ﹁綴織当麻蔓茶羅十六観図﹂ では、第一部第三章と第四章に関連し、綴織当麻皇茶羅の原寸大の図版をもと に作成した、初観から第十三観の各図の描き起こし図を載せる。 以上、本研究は、当麻蔓茶羅研究と松本柴一﹃倣煙蓋の研究﹄の成果を改めて問い直し、中国唐代の西方浄土 変を歴史的・思想史的に把握することを目指すものである。これは同時に、鎌倉以降の浄土宗側の視点の影響を 大きく受けてきた従来の西方浄土変研究のあり方自体を問い直すことでもある。そこで重要な視点となったのは、 ﹃観経﹄の十六観という、阿弥陀の西方浄土の観想であった。称名念仏の重視を浄土思想のもっとも高次に位置 づける法然浄土教以来の観点からは、道縛も善導も口称念仏の意義を見出した面が重視されるのは当然であるが、 道縛や善導が観想を実践していたことは事実であり、唐代の西方浄土変はまさしく、そうした観想との関わりで みてゆくときに、その本来の姿や移り変わっていく様相が明らかになるのではないだろうか。日本の浄土教美術 においても、そこに意味合いを変化させつつも、観想を背景にもつとみられる作例が生み出されていたと考えら れるのは、観想というものが本来的に視覚イメージを付帯するものであったことからすれば、当然というべきで、 浄土教美術における観想という視点の重要性を再認識させられるのである。 10