はじめに
インドシナ3ヵ国、すなわちカンボジア、ラオス、ベトナム(CLV諸国)は、互いに国境 を接しているものの、その歴史的背景、文化的、言語的要素などにおいて、相当に異質で ある。にもかかわらず、以上の
3ヵ国は、近現代史の文脈でしばしば一括りにして論じられ
てきた。その淵源は、19世紀後半のフランスによる植民地化と仏領インドシナ連邦の創設 にある。以降インドシナは、1940年代の日本軍進駐と連合軍(中国国民党軍とイギリス軍)による分割進駐を経て、第
1
次インドシナ戦争(1946―54
年)と第2
次インドシナ戦争(ベ トナム戦争、1960―75
年)に突入する。この2
次にわたる戦争の過程で、紛争にかかわる域 外大国はインドシナ3ヵ国をしばしば一つの戦略的な地域単位とみなし、またそれに対抗す る現地勢力の側でも、「戦闘的な同志関係」の構築を追求した。第2次インドシナ戦争は、1975年
4月のカンボジアと南ベトナムにおける全土解放によっ
て終わりを告げた。さらに、同年12月のラオスでの王政崩壊、翌1976
年7月の南北ベトナ ム統一を経て、インドシナには三つの社会主義国家が出現した。しかし、カンボジアの支 配者となったクメール・ルージュ政権は、国内的に過酷な圧制を敷くとともに、対外的に はベトナムと敵対状況に陥った。かくして勃発した第3次インドシナ戦争期(1978―
91年)
に、カンボジアに進攻したベト ナムと、それに擁立されたプノンペンのカンボジア政権、そしてそれらと友好関係にある ラオスの3ヵ国は国際的に孤立し、ソ連・東欧諸国からの支援に依存することを余儀なくさ れた。他方、ベトナム軍によって首都を逐われたクメール・ルージュ勢力(1982年に他党派 と合流して反越三派連合)は、中国やタイの支援を得つつ各地で抵抗を継続し、また国際場 裡では東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国や中国、日本などの支持によって国際連合での議 席を確保し続けた。このように、インドシナ諸国で戦乱と対立が長期化し、さらに北部ベトナムの場合は30 年余り、南部ベトナムとカンボジア、ラオスの場合は
10
年余りにわたって内向的で統制的 な経済システムが採用されている間に、東アジアの周辺諸国、さらにいち早く改革開放に 転じた中国は、「雁行的」と形容される高度成長の波に次々と乗っていった。しかもその間 に、東南アジア地域では、島嶼部4ヵ国とタイによって1967
年に結成されたASEAN
が、第2次インドシナ戦争終了後の新局面に対応すべく、メンバー間の協力と連携を強めていった。
インドシナ3ヵ国は、そのような地域主義の展開からも除外され続けた。
しかるに、1980年代後半になると、インドシナ地域に一連の変化が生じ始めた。その背 景には、閉塞状況を脱却したいという各国の願望と、折から胎動し始めたソ連の新たな動 向(ペレストロイカや対中関係修復の動きなど)があった。すなわち、1986年にはラオス(11 月)とベトナム(12月)が相次いで政権党の全国大会を開催し、改革開放路線(それぞれチ ンタナカンマイ=新思考、ドイモイ=刷新)への転換を宣言した。
インドシナ諸国の路線転換に加えて、国際社会における東西冷戦の氷解が追い風となっ て、膠着状態にあったカンボジア紛争も、ようやく和平に向けて動き始めた。いち早く対 応したのはASEAN諸国である。すなわち、1988年
7
月以降インドネシアがカンボジア問題 に関するジャカルタ非公式会議(JIM)を主催し、翌8
月には今まで強硬な反越姿勢をとっ ていたタイが路線を転換した(インドシナを戦場から市場へ)。かくして始動した和平プロセ スは、1989年7
月パリ和平会議の開催、1989年9月ベトナム軍のカンボジア完全撤退などを
経て、1991年10
月パリ和平協定の調印に至った。その後カンボジアでは、国連暫定統治機 構(UNTAC)の管理下における1992年6月の総選挙を経て、9
月に開催された制憲議会で王 政が復活した。さらに、カンボジア和平に連動する形で、1991年11
月には、13年間にわた って敵対を続けてきたベトナムと中国も、関係修復を正式に宣言した。カンボジア和平の成立と東西冷戦対立の終焉は、東南アジアの地域秩序にも一連の変化 をもたらした。ASEANの拡大と深化である(1)。かくして、ASEANという地域枠組みの埒外 にあったインドシナ諸国は、1990年代を通じて次々と
ASEAN
に仲間入りした。本稿では、ASEAN加盟から、ベトナムは 13
年、ラオスは11
年、カンボジアは9年を経た今日の時点に おいて、インドシナ諸国がASEANに加盟したことの意義を、国内政治体制、ASEAN域内関 係、そして域外関係の3局面に分けて検討する。1
政治体制の地域的認知インドシナ諸国にとって、ASEAN加盟がもつ第一の意義は、それぞれの政治体制や政権 が、地域諸国によって認知されたことにある。
ベトナムは共産党による、ラオスは人民革命党による、一党支配体制を堅持する社会主 義国である。両国にとって、1989―
91
年のソ連・東欧社会主義政権の動揺と崩壊は、従来 の経済的パトロン、国家安全保障上の拠り所の喪失を意味しただけではなく、さらにその イデオロギー的な世界観の中核に位置づけていた社会主義陣営の消失をも意味していた。両国は国際的に孤独な環境に直面し、また国内的には現行政治体制の存続を疑問視する声 すら上がり始めていた。そのような状況のなかで、両国は1992年7月に東南アジア友好協力 条約(TAC)に調印して
ASEANのオブザーバー資格を獲得した。
確かに、
ASEAN古参諸国の間には、社会主義国を ASEANに迎え入れることに対する躊躇、
あるいはいまだ市場経済への移行過程にある国々の加盟を認めるにせよ、相当程度の準備 期間をおくべきだとする議論もあった(2)。事実、1990年代前半には、ASEANを当面
6
ヵ国 体制のままで継続し、それとは別に東南アジア10ヵ国を網羅するフォーラムを立ち上げる考えが有力なようにみえた。しかし、結局、ASEAN先発諸国はさまざまな理由から、
CLMV
(CLMにミャンマーを加えた4
ヵ国)諸国を早期に受け入れる方向に舵を切った。かく して、ベトナムは1995
年7
月に、ラオスはミャンマーとともに1997年7
月に、ASEANの正 式メンバーとなったのである(3)。ミャンマーについては、軍政による人権抑圧や民主化運動弾圧が国際社会、とりわけ欧 米から強い批判を受けるなかで、ASEANは結局、「建設的関与」を根拠として、現状のまま での加盟を容認した(4)。しかし、ベトナムとラオスについては、ASEAN正式加盟にあたっ て、その政治体制や国内政治運営が特に問題視されることはなかった。ASEANは内政不干 渉原則、ベトナムの外交専門家の言葉を借りれば、「それぞれの国の政治制度の選択を相互 に尊重するとの精神」(5)を前提とする地域組織であった。さらに、東西冷戦の終焉により、
政治的なイデオロギーや体制の相違は、外交上の主たる争点ではなくなっていた。しかも、
ASEAN古参メンバーも、最近まで、もしくは 1990
年代半ばの時点にあっても、事実上の一 党支配体制、あるいは開発主義的権威主義体制、つまり、政治的イデオロギーの相違こそ あれ、ベトナムやラオスと類似する政治体制をとる国々であった。このような「地域的寛容性」(6)によって、ベトナムとラオスは
ASEANへの仲間入りを果た
し、結果として、それぞれの現行政治体制を地域的に認知されることとなったのである。他方、カンボジアは1997年に予定されていたASEAN正式加盟が、直前になって延期され る事態となった。そもそも、同国ではUNTAC監視下の
1993年総選挙によってカンボジア民
族統一戦線(フンシンペック)と人民党による連立政権が成立していたが、カンボジア紛争 期を通じて敵対しあっていた両勢力間の関係は不安定であった。そして、1998年に予定さ れていた第2回総選挙を睨んで、1997年7
月初めにプノンペンで武力衝突が勃発、人民党系 の軍隊が首都を制圧し、政局は連立政権の第2首相フンセンの手に握られた。フンセンによる「軍事クーデター」に対して、アメリカを先頭とする国際社会から非難 の声が上がり、国際機関や日本政府は援助供与を一時的に中断した。さらに、衝突直前に 国外に脱出していたラナリット第
1 首相たちの働きかけによって、その年の国連総会におけ
るカンボジア議席は空席とされた。その間ASEANは、政変直後の7
月10日に臨時外相会議
を開催して、同年に予定していたカンボジアの正式加盟を延期することを決定、さらにイ ンドネシア、フィリピン、タイの外相を仲裁団(ASEANトロイカ)に指名した(7)。ただし、地域組織としてのASEANがカンボジアの政情安定化に果たした役割は、限定的 であった。事態打開のために功を奏したのは、むしろ国際社会からの圧力であり、日本政 府による1998年
2月の 4項目提案であった。両派軍隊の即時停戦、ラナリットらの選挙活動
保証などを内容とする同提案は、対立する両派に受け入れられた。3月末に国外亡命中のラ ナリットが帰国し、7月に第2回総選挙が実施された。結果は人民党の勝利であった。反対 勢力の抗議にもかかわらず、国際合同監視団(JIOG)は選挙が「自由かつ公正」に行なわれ たとの評価を下した。人民党は国会議席の過半数を制したが内閣信任に必要な3分の2に満たなかったため、フ ンシンペックとの連立政権(ただしフンセンを単独首相とする)を目指した。この動きに抵抗
する反対勢力を最終的に説得したのは、シハヌーク国王であった。結局、フンシンペック はラナリットを国会(下院)議長に据え、また新たに上院を設置するとの妥協案をもって、
連立政権への参加を受け入れた。フンセン新政権は、1998年11月開催の国会によって信任 され正式に発足した。これに伴って、国際社会はカンボジアの政情が正常化したと判断し、
11
月には国連安全保障理事会が同国の総会復帰にゴーサインを出し、そして1999
年2月に
はカンボジア支援国会合が1年半ぶりに東京で開催された。他方、
ASEANは 1998年 12月のハノイ首脳会議で、カンボジアの加盟問題を先送りとした。
ベトナム、ラオス、マレーシア、インドネシアがフンセン新政権の成立によって加盟に必 要な条件が満たされたとの立場をとったのに対して、シンガポール、タイ、フィリピンが 時期尚早と主張したからである。結局、10番目の正式メンバーとしてカンボジアの加盟式 典がハノイで挙行されたのは1999年
4月、カンボジア国内で懸案となっていた上院新設のた
めの憲法改正案が国会を通過した(3月)後のことであった(8)。以上のように、ASEANにとって、カンボジア政変に対する「建設的関与」の成果は華々 しいものではなく、さらにフンセン新政権の認知についても国際社会の動きを後追いした 観が否めない。しかし他方、ASEANへの正式加盟は、カンボジアにとって「新たに発足し た政権にとっての主要な勝利、そして同時に、正統性の源泉」(9)となったのである。
「ASEAN10」の成立以降今日まで、ミャンマーにおける政治状況が
ASEANに難題を突き
つけることはあっても、ことインドシナ3ヵ国に関しては、「建設的関与」や「建設的介入」の対象となるような事態は生じていない。無論、例えばベトナムにおける体制批判的知識 人に対する弾圧、中部高原での少数民族反乱、ラオスにおけるキリスト教徒や少数民族へ の抑圧などのように、時として欧米諸国から非難されるような事件が生じていないわけで はない。しかし、それらが地域組織としての
ASEAN
の場で格別問題とされることはない。ASEAN
は当面のところ、インドシナ諸国にとって居心地のよいシェルターの役割を果たしている。
そしてその間に、ベトナムとラオスは
5
年ごとに開催される政権党の定期大会において、現行政治体制下の政治的・社会的安定が経済発展の大前提であり、また(アジア通貨危機の 影響が及んだ一時期を除く)順調な経済発展が、政治的・社会的安定をますます強化すると いう好循環を強調し続けている。他方、カンボジアでは2008年7月に実施された和平後
3度
目の総選挙において人民党が圧勝し、フンセン首相を中心とする事実上の一党支配体制(形 式的には連立政権の形態を存続)を築き上げつつある(10)。2
域内関係における意義ASEAN
加盟がもつ第二の意義は、東南アジア域内においてインドシナ諸国の対外関係を安定化させ、また拡大、深化させたことにある。
そもそもインドシナ諸国は冷戦期において、ASEAN古参メンバーの一部と敵対的な関係 にあった。例えばベトナム戦争期に、アメリカの同盟国フィリピンとタイは南ベトナムに 将兵を派遣し、さらにそれぞれの国内基地を米軍が戦争目的に利用するのを許した。カン
ボジア紛争期には、インドシナ諸国とASEAN諸国、とりわけタイが厳しく対立した。
インドシナ諸国が東南アジア友好協力条約(TAC)に署名し、そして
ASEANの一員とな
ったことは、近隣諸国との信頼関係構築に大きく寄与している。確かに、ASEANは従来、地域組織としての軍事協力を注意深く回避してきた。ASEAN国防相会議すら初めて開催さ れたのは、2020年を目途とする「安全保障共同体」構想が浮上した後の、2006年
5
月のこと である(11)。しかし、長年にわたり戦乱の渦中に置かれ続け地域的に孤立してきたインドシナ 諸国にとって、事実上の「不戦共同体」としてのASEAN(12)への参加は、近隣諸国との関係 安定化という点できわめて重要である。とりわけ、ASEANによって構築されてきた重層的 な域内ネットワークへの参入は、インドシナ諸国にとって域内での対話と相互信頼の醸成、そして協力や連携の進展を図るうえで主要な拠り所となっている。
インドシナ諸国はすでに、正式加盟以前の時期から、オブザーバーや議長国招待のゲス トといった形で、古参諸国の指導者たちと一堂に会する機会をもつようになった。外相級 については1994年
7
月のASEAN定例外相会議、首脳級については1995
年12月のASEAN首 脳会議(ともにバンコク)開催の際に、東南アジア10ヵ国の顔合わせが実現している。
そして、ASEANへの正式加盟によって、インドシナ諸国はASEANの首脳級や閣僚級の各 種会合は言うまでもなく、さらにその周辺に制度化されている高官会議、専門家ワーキン グ・グループ、諮問グループなどの重層的なネットワークに、全面的に参入していくこと となる。そのことは、近隣諸国との関係安定化に寄与したのみならず、従来は社会主義諸 国や友好的政党との接触を専らとしていたインドシナ諸国の政治家や官僚、専門家などに とって、地域社会や国際社会への参入に必要な学習と経験の場が、広範囲に用意されたこ とをも意味している。さらには、地域大のマルティラテラルなネットワークに合流するこ とによって、伝統的な二国間関係を通じてのみでは実現困難な密度と深さをもつ域内関係 を、効率的に追求することも可能となったのである。
ASEANへの加盟は、インドシナ 3
ヵ国間の新たな関係構築を促す契機ともなっている。カンボジア和平の成立以降、インドシナ3ヵ国のみによる最初の首脳会議が開催されたのは
1999年 10月
(ビエンチャン)、つまりカンボジアのASEAN
正式加盟(同年4
月)から半年後 のことであった。「ASEAN10」が成立したからこそ、インドシナ諸国は近隣諸国や国際社会 から「インドシナ連邦」結成の陰謀、ベトナムによる「小覇権主義」といった(カンボジア 紛争期にしばしば受けた)非難を招くこともなく、三国間の連携や協力を、気兼ねなく追求 する条件を獲得したのである。以降、インドシナ
3ヵ国の首脳会議は、2002
年1月にホーチミン市(第2
回)、2004年7月
にシエムレアプ(第3回)、さらに11
月ビエンチャン(ASEAN首脳会議に際して)、2006年12
月にダラト(第4
回)と、不定期ながら随時開催されている。しかも、その過程で三国間の 関係再構築を象徴するプロジェクトとして、「開発の三角地帯」構想が合意され、現在に至 るまで展開されている。1999年最初の首脳会議で発足した同構想は、3ヵ国の国境諸省にお ける貧困削減と経済・社会発展を、共同事業として推進することを意図している。無論、このような三国間の協力関係の再構築に対して、タイがまったく座視したわけで
はない。すなわち、2003年4月のASEAN特別首脳会議(バンコク)に際して、タクシン首相 は同国と隣接
3ヵ国
(CLM)による協力プロジェクトの創設を呼びかけた。かくして、ベト ナムを除外する形で東南アジア大陸部4ヵ国によるイラワジ・チャオプラヤ・メコン経済協
力戦略(ACMECS)が始動した。以上の経緯から、インドシナ半島において伝統的にライバルであったベトナムとタイが、
サブ地域レベルでの協力枠組みの構築をめぐってイニシアティブ争いを演じている様子が うかがわれる。しかし、カンボジア紛争期とは異なって、両者の競合は相互のあからさま な対立や非難の応酬を伴うものではなく、ASEANという共通のリングの上で、いわば紳士 的なゲームとして展開されつつある。事実、上述のACMECSにしても、2004年
5
月にはベ トナムの参加を受け入れ、結局は大陸部5ヵ国を網羅する協力枠組みへと拡大した(13)。インドシナ半島におけるパワーゲームの性格が変化したことに関して、カンボジアの外 交専門家による次の言葉は意味深長である。「ASEANのメンバーとなることは、カンボジア がその対外的な安全保障と国益に対処するのを助ける。とりわけ、カンボジアは常にタイ とベトナムというより強力な隣国との関係について憂慮してきたが、〔今後は〕安全保障上 の関心についてこれら二国に働きかけることを、ASEANが支援してくれるであろう」(14)。
「ASEAN10」の実現は、東南アジア地域が対立と抗争の場から和解と相互信頼の場へと変 貌するための枠組みを準備しただけにとどまらない。さらに、ASEANがグループとして、
新規加盟諸国を支援する態勢を構築する契機ともなった。すなわち、拡大ASEANは、地域 統合を推進するための避けて通れない課題として、ASEANディバイド(古参
6
ヵ国と新規加 盟4ヵ国の間に存在するさまざまなギャップ)の問題を、内部に抱え込むこととなった。この問題に対するASEANとしての初期の取り組みは、「ASEAN10」が実現する以前の段 階で、その将来を見据えて始動したASEANメコン流域開発協力(AMBDC)である。1995年
12月の ASEAN
首脳会議および東南アジア10
ヵ国首脳会議(バンコク)での合意に基づき、1996年 6月に第 1
回AMBDC閣僚会議(クアラルンプル)が開催された。コア・メンバーは東 南アジア10ヵ国と中国であり、2008年までに10
回の閣僚会議が開催されている。そもそもAMBDCは、アジア開発銀行
(ADB)のイニシアティブによって1992年に始まった大メコン 圏(GMS)開発協力(大陸部東南アジア5ヵ国と中国が正式メンバー)に触発されつつ、同協 力枠組みから除外されていたマレーシアの強い意向に応じる形で、ASEANが中心となって 先発諸国とCLMV
諸国の連結性を高め、また後者のキャッチアップを支援することを意図 して発足したものである。事実、その活動の二本柱は、シンガポール―昆明鉄道建設計画(SKRL)の推進とともに、CLMV諸国に対する人材育成・能力向上支援である(15)。
ただし、AMBDCは
ASEAN
プラス中国の協力枠組みであることが主要な障碍となって、日本をはじめとする有力な域外ドナーの積極的なコミットを獲得できないでいる。さらに は、コア・メンバー諸国の間でも、その姿勢には濃淡がある。2008年閣僚会議の参加リス トをみると、11ヵ国中で大臣が参加したのは
4
ヵ国にとどまり、残りは次官や局長級が代理 出席している(16)。インドシナ縦断鉄道構想はさておき、CLMV支援という意味では、次に述 べるIAI
のほうが活発である。より明示的にASEANの地域統合促進と、そのための域内格差是正、すなわち新規加盟諸 国支援を打ち出したのは、ASEAN統合イニシアティブ(IAI)である。これは
2000
年11月のASEAN首脳会議
(シンガポール)で、ホスト国ゴー・チョクトン首相の提案に基づき発足し たものである。2001年7月のASEAN
定例外相会議(ハノイ)で「ASEAN統合促進のための 発展のギャップに関するハノイ宣言」、翌2002年7
月の同会議(ブルネイ)でIAIの行動計画 が採択されている。主たる活動は、先発諸国がCLMV諸国の人材育成・能力開発を支援す るソフト面での「南南協力」である。2008
年5月時点で、予算化されたプロジェクトのうち、ASEAN
先発諸国による支援は130件、合計3100
万ドル(その74%
がシンガポール)、ASEAN ダイアローグ・パートナーによる寄与は62件、合計2000万ドル
(その34%が日本)となって いる(17)。3
域外関係における意義インドシナ諸国にとってのASEAN加盟の第三の意義は、域外諸国との関係にもたらした プラスの効果である。
地域組織としてのASEANは、その外縁にさまざまな会議体を制度化してきた。現時点で、
域外諸国が参加する定例的な会議体として、毎年夏にASEAN外相会議(AMM)に接続する 形(バック・トゥー・バック方式)で開催される
ASEAN拡大外相会議
(PMC)とASEAN地域
フォーラム(ARF)、そして毎年末にASEAN首脳会議に接続して開催されるASEAN
プラス3 首脳会議と東アジア首脳会議(EAS)がある。それ以外に、ASEAN諸国が深くかかわる定 期的な会議体として、アジア欧州会議(ASEM)があり、その首脳会議は2年に 1度、東アジ
アと欧州で交互に開催される。これら首脳級もしくは閣僚級の会議体の周辺に、重層的な ネットワークが制度化されつつあるのは、ASEAN域内の場合と同様である。なお、アジア 太平洋経済協力会議(APEC)については、1998年11
月にベトナムの加盟が認められたもの の、それ以外のASEAN新規加盟国はまだメンバーとなっていない。これらの会議体に参加することの意義は、インドシナ諸国にとって計り知れないほど大 きい。会議ではASEANが一つのグループとして、域外諸国と渡り合うこともしばしばある。
そして、二国間ベースではなかなか実現できない、域外主要国の指導者や高官たちと接触 する機会が確保できる。また、正式の会議場の外では、二国間や複数国間の会談が頻繁に 設定される。とりわけ会議の主催国となった場合には、参加国の代表たちがホストを表敬 し面談する。例えば、ASEANおよび
ASEANプラス 3
の首脳会議についてみると、ベトナム は1998年12月、カンボジアは2001
年11月、ラオスは2004年11月にホスト国となっている。
対外的側面におけるASEAN加盟の意義について、ベトナムの外交専門家は次のように評 価する。「地域全体の発展のなかでベトナムの発展に有利な地域的環境を作り出し、東南ア ジアおよび国際舞台でのベトナムの地位と役割をレベルアップし、世界における他の重要 な諸パートナーとの関係拡大に有利な条件を作り出した」(18)。
カンボジアの専門家もまた、次のように記している。「地域政治および国際政治において、
より効果的に活動できるようになる。国際舞台でのASEANの役割と経験に鑑みて、国連を
含む国際組織、多国間組織へのより大きなアクセスを確保できる。また、ASEAN外相会議
(AMM)、拡大外相会議(PMC)、首脳会議などの地域的枠組みを通じて世界の大国と、政治 的、外交的によりよくかかわることができる。ASEANフレームワークを通じて、多国間の 外交、政治へのかかわり方を学ぶことができる」(19)。
域外関係の面でインドシナ諸国にとってとりわけ意義深いものの一つは、地域的な協調 的安全保障の枠組みとしてのASEAN地域フォーラム(ARF)への参加である。ASEANが主 催するARFは、アジア太平洋地域において安全保障について討議するために制度化された 唯一の場である(20)。ARFが発足した
1994
年時点ですでにASEANのオブザーバー資格を得て いたベトナムとラオスは第1回以来のメンバーであり、カンボジアは 1995年
(第2
回)、ミャ ンマーは1996年(第3回)に、それぞれオブザーバーとなった段階で初参加している。ソ連・東欧社会主義圏の崩壊以来今日に至るまで、自らを庇護してくれる強力な域外友 好国をもたないインドシナ諸国にとって、ARFプロセスを通じての信頼醸成や紛争予防の 進展は、それぞれの国家安全保障に好ましい環境を維持、拡大するうえで貴重である。
なかでも、域外大国との関係調整、安定化にとってARFがもたらす効果をとりわけ享受 しているのは、目下のところベトナムであろう(21)。同国にとって安全保障上の潜在的な脅威 は、歴史的経緯および地政学的な位置の双方からみて中国にほかならない。中越両国はカ ンボジア紛争期に敵対状況が頂点に達したが、それ以前からも対ソ関係や南ベトナム解放 方針などをめぐってさまざまな軋轢を抱えていた。カンボジア和平直後の
1991年末に関係
を修復したものの、それ以降も両国間には陸上と海上の双方における懸案事項が残ってい た。そのうち、両国間の陸上国境画定協定は1999年
12月に、トンキン湾画定協定は 2000
年12
月に、二国間の交渉を通じて調印に漕ぎ着けた。しかし、南シナ海の領有権問題は、今日 に至るまで解決していない。両国がかかわる係争海域は、西沙諸島(パラセル、ベトナム名 ホアンサー)と南沙諸島(スプラトリー、チュオンサー)の二つであるが、前者は中越(そし て台湾)のみが領有権を主張しているのに対して、後者はそれら諸国以外にも、フィリピン、マレーシア、ブルネイがその全体もしくは一部の領有権を主張している。
南シナ海問題がASEANの正式会合の場で本格的に取り上げられたのは、1992年
7
月の年 次外相会議における「南シナ海に関するASEAN宣言」の採択である。その年の2月には中 国が南沙、西沙の諸島などを自国の領海に含める領海法を制定し、5月にはベトナムの大陸 棚に属する海域の石油探査権を米国企業に与える契約を締結するなどして、前年に和解し たばかりの中越間に緊張が生じていた。直前に
ASEAN
のオブザーバー資格を得ていたベトナムは、直ちに同上宣言を全面的に支 持する旨を表明したが、中国は同問題の国際化に反対するとの従来からの立場に固執した。中国は1994年の創設以来
ARFのメンバーとなったが、その席上でも、当初は南シナ海問題
を議題とすることそれ自体に頑なに反対した。しかし、中国の姿勢も徐々に軟化し、ARF などで話題とすることを容認するようになり、さらにその延長上に、2002年 11月の
(ASEAN プラス3
首脳会議に際して開催された)ASEAN
・中国首脳会議で、「南シナ海における関係国の行動宣言」に署名した。係争海域での紛争回避と領有権問題を棚上げとした共同開発に よる協力の展開が、その骨子である(22)。
ARF枠組みでの信頼醸成、紛争予防の取り組み以外にも、東南アジア友好協力条約
(TAC)に域外諸国が署名するという形で、東南アジア地域の安全保障に域外諸国をコミットさせ る動きが、近年顕著となっている。この面で先陣を切ったのは中国であって、2003年
10月
にはASEAN域外国として初めてTACに調印し、また同時にASEANとの間で戦略的パート
ナーシップ共同宣言に調印した。これに触発される形で、それ以降、ASEANのダイアロー グ・パートナーやARF参加国のなかから、TACに調印する国が相次いでいる。グループとしてのASEANは、さらに、域内での自由貿易協定(AFTA、1993年―)を実施 しているのみならず、主要な域外諸国との自由貿易協定(FTA)の交渉を行なってきた。す でに、中国(2005年
7
月発効)、韓国(2007年6
月発効)、日本(包括的経済連携協定、2008年4
月持ち回り署名完了)と交渉が妥結しており、またインド(2004年3月交渉開始)、オーストラ リア・ニュージーランド(2005年2月)、欧州連合(EU)(2007年5
月)などと交渉中である。ASEAN
新規加盟諸国は、その経済的実力から言って単独での交渉が困難なこれら域外諸国との
FTAに、ASEAN
グループの一員として参加することが可能となったのである。さらには、カンボジアやベトナムの世界貿易機関(WTO)加盟(それぞれ
2004
年10月と 2006年 11月に決定)
にあたって、それら二国がすでにAFTA
に参加していたことが、好影響 を及ぼしたと思われる。とりわけ、国際的なルールなどに熟知していない担当者や専門家 が、AFTAプロセスにおいて鍛錬されWTO
交渉に備えることができたという学習効果は無 視できまい。同様に、ベトナムのAPEC加盟についても、ASEAN加盟が追い風となったと 思われる(23)。より一般的に、インドシナ諸国はASEANに加わることによって、域外の投資家などに一 種の安心感を与え、国際的ビジネス関係に好影響を与えたと思われる。カンボジアの専門 家は、次のように述べている。「ASEANへの加盟はカンボジアの経済的な発展を助ける。そ のメンバーシップが、投資家の信頼を増加させ、より多くの観光客を引き寄せ、貿易量を 拡大するからである。1170万の人口しかないカンボジアは、それ自身で市場としてやって いくにはあまりに小さい。カンボジアにとって国家建設に対する外国からの支援を受け続 けることが重要である一方、貿易、投資、観光を重視する経済政策を推進することが必要 である」。そして、「ASEANへの加盟は、ダイナミックな地域に属する国であるというカン ボジアの肯定的イメージを作り出す」(24)。
おわりに
以上にみてきたように、インドシナ3ヵ国は
ASEAN加盟に伴うさまざまな利益を享受し
てきた。国内政治の安定化、そして域内関係や域外関係における好ましい効果は、彼らの 期待に十分応えるものであろう。しかし同時に、さまざまな課題も抱えている。その一つは、グループとしてのASEANが 本来的に有している限界性にかかわる。例えば、ASEANディバイド問題について、ASEAN
(先発諸国)が新規加盟諸国を支援する財政的、技術的実力は限られている。前述した
AMBDCは有力な域外ドナーの積極的な関与を得られずに活動が停滞しているし、IAI
は具 体的なプロジェクトの相当部分を域外ドナーの支援に負っている。そもそも、メコン地域 における最も有力な協力枠組みはGMS開発協力であるが、それを主導しているのはADBで
あり、巨額なインフラ整備事業を含む関連プロジェクトに積極的支援を行なっているのは 日本である。しかもそのうえ、ASEAN自身のAFTAや域外諸国との
FTAにインドシナ諸国が参入する
ことは、メリットも存在する代わりに、自国の工業化や産業構造の高度化を阻害し、域内 先発国との間の格差を拡大する懸念がある。無論、これらのFTAでは通常、インドシナ諸 国に貿易自由化のタイムスケジュールで猶予が与えられたり、また経済的支援などが約束 されたりする。しかし、価格競争力を増した輸入製品との競合によって、国内企業が敗退 を余儀なくされ、また新規の産業が育ちにくくなるといった可能性は排除できない(25)。協調的安全保障の枠組みである
ARFに関しても、信頼醸成や紛争抑止については効果を
期待できるが、本格的な紛争予防、ましてや紛争解決のメカニズムは、実現するとしても、まだ遠い将来の話である。
さらに、ASEAN、しかも拡大した
ASEAN
は、その内部において決して一枚岩ではない。2020
年までに経済、安全保障、社会・文化の三本柱からなる「ASEAN共同体」の構築を目 指しているとはいえ、域内にはさまざまな意見や利害の対立が存在する。とりわけ、ASEANに加盟してまだ間もないインドシナ諸国の場合、その対外認識がASEANを対象とす
る地域アイデンティティーへと収斂していく機はまださほど熟していない。しかも、「ASEAN共同体」の形成プロセスがいまだ途上の段階で、ASEANをその一部とする「東ア ジア共同体」の構想が、かなり性急なペースで浮上しつつあるのである。
インドシナ諸国はASEAN加盟がもたらしたさまざまなメリットを享受し、その効果を最 大限に活用しながらも、当分の間は、それぞれの国家利益に立脚したさまざまな模索を、
域内および域外の双方において、追求していくことになるであろう。
(1) 山影進『ASEANパワー―アジア太平洋の中核へ』、東京大学出版会、1997年。
(2) Nguyen Duy Quy, Towards an ASEAN of Peace, Stability and Sustainable Development, Hanoi: The Gioi Publishers, 2003, pp. 67ff.
(3) 山影進『ASEANパワー』、第5章。
(4) Carlyle Thayer, Cambodia and Regional Stability: ASEAN and Constructive Engagement, Phnom Penh:
Cambodian Institute for Cooperation and Peace, 1998, pp. 8ff.
(5) Vu Duong Ninh, “Hanh trinh hoi nhap Viet Nam-ASEAN,” Tap chi Cong san, No.15, 1997, p. 54.
(6) この言葉は筆者自身、白石昌也「ベトナムの社会主義体制」、関根政美・山本信人編『海域アジ ア』(「現代東アジアと日本」4)、慶應義塾大学出版会、2004年、193ページ以下で用いた。
(7) 黒柳米司『ASEAN35年の軌跡―‘ASEAN way’の効用と限界』、有信堂、2003年、143―147ペー ジ; Sorpong Peou, “Diplomatic Pragmatism: ASEAN’s Response to the July 1997 Coup,” Conciliation Resources, Nov. 1998.
(8)『アジア動向年報』、アジア経済研究所、1998―2000年、「カンボジア」の項参照。
(9) Kao Kim Hourn, ed., ASEAN-10 is Born: Commemorating Cambodia’s Entry into ASEAN, Phnom Penh:
Cambodian Institute for Cooperation and Peace, 1999, p. 1.
(10)『朝日新聞』2008年9月26日。なお、人民党の圧勝(下院で3分の2以上の議席獲得)は、フンシ ンペックの内部分裂に助けられた面も大きい。
(11) 共同通信(クアラルンプル)、2006年6月9日。
(12) Amitav Acharya, Constructing a Security Community in Southeast Asia, New York: Routledge, 2001, p. 18.
(13) 白石昌也「メコン・サブ地域の実験」、山本武彦・天児慧編『新たな地域形成』(「東アジア共同 体の構築」1 )、岩波書店、2007年。
(14) Kao Kim Houm ed., ASEAN-10 is Born, p. 14. また、You Ay, “Implications of Joining ASEAN/AFTA for Cambodia,” in Mya Than and Carolyn Gates, eds., ASEAN Enlargement, Singapore: Institute of Southeast Asian Studies, 2001 をも参照。
(15) ASEAN Secretariat, “Basic Framework of ASEAN-Mekong Basin Development Cooperation, Kuala Lumpur,
17 June 1996”; 山影進「メコン河流域諸国の開発協力とASEAN」『政経研究』第39巻第4号(2003
年)。
(16) “Joint Media Statement, the 10th Ministerial Meeting of AMBDC,” 29 August 2008, Singapore.
(17) 白石昌也「メコン地域協力とベトナム」、白石昌也編『ベトナムの対外関係―21世紀の挑戦』、 暁印書館、2004年、220―222ページ;ASEAN Secretariat, “Status Update of the IAI Work Plan, 31st meet- ing of the IAI Task Force, 4 June 2008”. 無論、このスキームを通じて以外にも、ASEAN先発6ヵ国が 二国間ベースで新規加盟6ヵ国に政府開発援助(ODA)を供与している。
(18) Ngoai giao Viet Nam 1945–2000, Hanoi: Nha xuat ban Chinh tri Quoc gia, 2005, p. 351.
(19) Kao Kim Houm, Cambodia’s Prospective Membership in ASEAN: Opportunities, Challenges and Prospects, Phnom Penh: Cambodia Institute for Cooperation and Peace, 1999, pp. 13–14.
(20) 佐藤考一『ASEANレジーム―ASEANにおける会議外交の発展と課題』、勁草書房、2000年。
(21) 小笠原高雪「ASEAN拡大の政治的意味― ベトナム外交の視点から」『国際問題』第472号
(1999年7月);小笠原高雪「ベトナムにとってのASEAN」、山影進編『転換期のASEAN―新た な課題への挑戦』、日本国際問題研究所、2001年。
(22) 佐藤考一「地域紛争とASEANの機能―南シナ海をめぐる協調と対立」、山影進編、『転換期の
ASEAN』。同宣言に基づくASEAN・中国合同作業部会が、2005年8月に始動している。なお、係
争海域での共同開発方式は、すでに1990年代からマレーシアとベトナムなどの間で合意され海底 油田採掘などに具体化されてきたが、さらに2005年3月には中国とフィリピン、ベトナムの間で同 趣旨の協定が締結されている。ただし、係争海域の主権問題をめぐって今日に至るまで、中越間 などで時折軋轢が生じている。
(23) Nattapong Thongpakde, “Impact and Implications of ASEAN Enlargement on Trade,” in Mya Than and Carolyn Gates, eds., ASEAN Enlargement, p. 76.
(24) Kao Kim Houm, ed., ASEAN-10 is Born, pp. 14–15.
(25) トラン・ヴァン・トゥ「東アジア経済共同体と後発国」、浦田秀次郎・深川由起子編『経済共同 体の展望』(「東アジア共同体の構築」2)、岩波書店、2007年。ASEAN加盟によってインドシナ諸 国が得たものは少ないとの議論が存在するが、その論拠の一つは、経済面でのメリットの少なさ、
さらには不利益の可能性にあると言えよう。
しらいし・まさや 早稲田大学教授