危機の乗り越え方
―― 東日本大震災後の福島市飲食店調査から ――
髙 橋 準
1 はじめに
2011年3月11日の東日本大震災の被害は、福島県においては、各地の地震 による被害、沿岸部の津波被害、そして、浜通りから中通りの各地域を中心と する、福島第一・第二原子力発電所の事故による原子力災害(以下、「原発災 害」)の被害という、複合的な形をとって現れた。いわゆる複合災害である。
当然ながら、津波被害は沿岸部だけに限られるものであり、地震の振動によ る被害も、震源からの距離だけではなく、地盤の性質もあわせて、かなりの地 域差があった。放射性物質の飛散も、原発からの距離だけでなく、天候や風向 きに大きく影響を受けた。したがって、福島県内でも、地域によって受けた被 害の性質と程度にはかなりの違いがあることを、わたしたちは念頭に置いて考 えなければならない。
地震と津波は、交通やエネルギー供給といったインフラにも打撃を与えたた め、市民生活にも産業にも、大きな影響を与えた。さらに原発災害によって、
事故直後からひと月後にかけて、広大な範囲が避難指示区域等に指定され、多 数の住民の避難が行われた。それだけでなく、今後数十年にわたって居住困難 と思われる地域が出てくる可能性も残っている。事故処理および廃炉作業中 も、作業員や周辺地域への危険は継続するだろう。そして、濃淡はあるもの の、広大な地域に放射性物質が拡散したという甚大な影響を、福島県内のみな
らず、東日本の広い範囲にもたらすことにもなっている。除染作業によって集 められた、比較的汚染度の高い物質をどこに仮置し、どのように処分するか も、現状では未確定の部分が残っている。東日本大震災という複合災害の被害 は、死者・負傷者といった、直接人間に対するもののほか、産業への打撃、避 難による地域社会の解体、「故郷」の喪失など、きわめて多岐にわたっている といえるだろう。また、その影響の性質や大きさなども、地域や産業その他に よってさまざまに異なっているといえる。したがって、わたしたちが東日本大 震災の影響を、詳細に理解したいならば、さまざまな対象に対して、細やかな 視線を注ぐ必要がある。
本稿は、複合災害としての東日本大震災の性格を踏まえつつ、福島市とい う、内陸部かつ、福島第一原子力発電所からおおむね50km圏外という中距離 に位置する都市で、どのように震災が産業の一部門である飲食業に危機をもた らし、それらに対して個々の店舗の経営者たちがどのような対応を取ったの か、あるいは取らなかったのかを、2013年時点でのインタビュー調査(一例 のみ2014年3月)をもとにまとめたものである。
2 調査の概要
今回調査対象としたのは、福島市中心市街地にある個人経営の飲食店であ る。
個人経営の飲食店を調査対象としたのは、以下の理由からである。福島市は 福島第一原発から見て北西に位置する。北西方向、すなわち浪江町-飯舘村-
川俣町-福島市-伊達市というこの方向は、2011年3月15日に高濃度の放射 性物質が飛来した地域である。浪江町は旧避難指示区域であり、飯舘村全村と 川俣町山木屋は旧計画的避難区域であった。福島市内も、3月15日の夕刻に は、毎時20マイクロシーベルトを超える放射線量を記録している(福島県庁 の発表による)。もちろん、自治体の境界線で放射性物質がとどまるはずもな
く、上にあげた市町村の周辺でも、初期の汚染は深刻な地域が多かった。
放射線の人体への影響は、環境内に拡散した放射性物質からの直接的な被ば く(外部被ばく)のほか、食物や大気中の微粒子に含まれている放射性物質が 体内に取り込まれて起きる被ばく(内部被ばく)とがある。原発事故後、福島 市内に居住していてよいのかという問いは、主に外部被ばくの観点から最初出 されたものであったが、内部被ばくの観点からも、これらの地域で採れた農産 物や加工品、水道水などを摂取していいのかということが問われるようになっ た。
地域住民の不安は、規制を行うことができる国および自治体に向けられるこ ともある。しかし、日々の食事のための購買行動や、外食などに際しては、末 端の小売店や飲食店が、不安の表出の場になっていたこともある。特に飲食店 は、買ってきたものをどうするか、同居する家族との間で購入後もさまざまな 調整(「これは県内産だから、子どもには食べさせない」「せっかく買ってきた ものだけど、不安だから食べるのはやめる」等)が行われる可能性がある食品 小売店とは、また違った性格を持つ。飲食店とは、来店者が食品を「食べる」
現場にほかならないからだ。1
飲食店でも、全国展開するようなチェーン店は、震災時のさまざまな困難に 対して、広域での対応(支援だけでなく店舗閉鎖なども含む)が可能である が、個人経営の場合は、まずは個々の店舗での対応を迫られる。震災直後、余 震が続く時期、物流が停まっていた期間、3月下旬から4月にかけての放射線 量が高かった時期、5月以降、さらには震災から1年が過ぎた時期、それ以降 など、それぞれのステージでどのような困難があり、どのようにそれらに対応 がなされてきたか。これこそが、今回の調査の関心事である。
店舗の規模や店の性格などによって、困難や対応もそれぞれであると思われ るため、方法としては、アンケートを利用した量的調査ではなく、聴き取り調 査を選択した。なお、福島市内の飲食店については、政府や商工会議所による 統計的調査があるが、震災後の被災状況についての聴き取りの結果について
は、管見の限り公表されていない。2
調査対象は、福島市の中心市街地に位置する5店舗である。対象の選択は、
4店までは、すでに調査者がラポールを築いている店としたが、1店(D店)
のみ、「福島県産の食材を中心に扱っている店」として、単発的に加えた。間 口1間半10数席の小規模店から、屋外まで含めて最大収容人数が100名とい う、比較的規模の大きい店までを含んでいる。(3で詳述)。
本調査は2013年4月から7月まで、4店舗で行ったが、スケジュールの関 係で、残り1店舗のみ2014年3月中旬にインタビューを行っている。調査を 2013年春から夏に設定したのは、震災以降の経験を1年目と2年目を比較し ながら考えてほしかったからであるが、最後の店舗のみ、ちょうど3年が経過 した時点での調査となった。
聴き取りは半構造化インタビュー形式で、店主に相当する個人に、1時間半 程度の時間をかけて店舗内で行った。(E店のみ、店内にいた常雇いの店員か らの短いコメント内容が、わずかではあるが含まれている。)このほか、各店 数回の予備調査および事後の追加聴き取りを行っている。本調査にあたって は、許可を得てICレコーダへ聴き取り内容の録音を行い、手元のメモのバッ クアップとした。3で示すインタビューのサマリーは、メモを元として、録音 した音声を参照しながら作成したものである。
3 調査結果 ――インタビューのサマリー
以下、規模の順に小規模店から大規模店までを並べて、インタビューのサマ リーを記述する。店の名前(A~E)はあくまでも掲載の順を示すものである が、店主のアルファベット表記はイニシャルである。人物の年齢は調査時のも のである。
なお、煩雑になるのを避けるため、各店冒頭の、店舗とインタビュイーの紹 介のあとは、文章の主語をインタビュイーとする。
(1) A店Yさん:被害が小さかった小規模店
A店は、福島市中心街に位置する、間口2間、席数15程度の小規模な飲食 店である。1食あたり600円台から1000円程度である(昼食時)。
店主のYさんは20代後半~ 30代前半の女性。福島市の生まれである。高卒 後、飲食店に勤務。しばらくして、店舗の運営も任されるようになった。その ときの仕入れの経験などが、自分の店の経営にも生きているという。
A店について
ずっと「自分の店(食べもの屋)を持ちたい」と思っていた。「料理を作る のが、好きだったので」。そこで、3年ほど個人経営の専門店(中華麺)で修 業して、2009年5月に現在の場所に開店した。2013年で開店4年ということ になる。
福島市の街中でやりたいと思っていたところ、ちょうど今の店がある場所に 入っていた店が移転するので、その後に入った。内装を含めて、全部持ってい かれてしまったので、すべて一からそろえた。中古のものや、もらいものもあ る。
客は常連が多い。仕事は楽しい。お客さんが来てくれるのがなによりだと 思っている。
震災の直後からしばらく
店の営業時間は、昼は11時から14時までなので、いったん店を閉めて、自 宅に帰ろうとしているときに3月11日の地震が来た。
まず考えたのは、「食器、割れたか!?」ということ。揺れがいったんおさ まるのを待って店に戻ったが、幸いなことに被害はほとんどなかった。食器が 1つか2つ、割れただけだった。ものが落ちたとか、そういうこともほとんど なかった。
その後1週間ほど、福島市内では断水になったが、店がある建物には大きな 水タンクがあり、ビルには入居者があまりいなかったので、自分の店で使う分 は十分確保できていた。ガスも電気も異常なしだった。むしろ自宅の被害の方 が大きかったかも知れない。そのほか、昔から世話になっている祖父母の家
(福島市内)の様子が気になったので、見に行った。
さすがに翌日は店を休んだが、翌々日(13日)には再開した。食材はそ ろっていた。なぜか発注ミスをしていて、通常(40食×3)の3倍、300 ~ 400食ぐらいの在庫があった。せっかくだから提供したいと考えて、店を開け た。もともと開店時間は長くないので、普段通りに営業した。ただし、しばら く手に入らなかった食材もあったので、メニューは制限した。
飲料水も心配なかったので、ひとりコップ2杯までと決めて提供することに した。ふだんは来ないような、近所のお年寄りもたくさん来た。(「口コミで知 れたのだろうか」という筆者の問いに対して)「そうだったのかもしれません ね」。
この間、情報はテレビ、ラジオ、口コミ、あとは知り合いからのメールで得 ていた。
従業員は、当時は一人だけ、手伝いのアルバイトを雇っていた。結婚したば かりの関西出身の女性で、自宅の被害は大きくなかったらしいが、原発事故の 情報を聞いて、早い段階で実家のほうに避難した。「店長さんも福島を離れた ほうがいい」という電話をもらったこともある。
2011年4月以降
4月になると、店を開けていると、客は昼間は普段と同じように来てくれて いた。この頃は夜は営業しなかった。
野菜類の仕入れが戻ったのも、4月初頭。ただ、鶏卵だけは、二種類仕入れ ているうちの片方が別なところからになった。これまで仕入れていたところ が、鶏を殺処分にして、いったん出荷が停まったため。だが、そのほかに困っ
たことはなかった。
震災後に考えたこと
原発事故については、「東京の人は、自分たちのこの苦労をどう思っている んだろう」と思った。「東京の電気をこっち(福島県)で作っていた原発が、
事故を起こしたのに」。もっとも、自分自身も、原発が福島にあるということ は、あまり意識したことはなかった。
避難については、もっとひどい状況になったら、自分が世話になった祖父母 を逃がさないと、と考えたことはある。しかし、当人たちは「もう動きたくな い」と言っていた。自分自身も、福島市で生まれ育って、福島が好きなので、
ほかに動くつもりは全くなかった。
「いやほんと、うちは全然困らなかったんですよ」。関わりがある人たち、仕 入れ先や、親しくしている飲食店の人たちなども、だいたいみんなポジティブ シンキング。
将来は、移転して、駐車場がある場所で店を開きたい。もちろん、福島市内 で。
(2) B店Tさん:気概を感じる専門店
B店はA店と同じビルにある洋食専門店。カウンター込みで24席という、
小さな店である。2008年の開店と、比較的新しい。食事にかかる費用はやや 高めで、3000円程度。
ここを経営するTさんは、福島市出身の男性。結婚していて、小学生の子ど もがいる(震災当時は幼稚園児)。親が料理人だったので、子どもの頃から料 理を仕事にしたいと思っていたという。高校卒業後、都内で仕事をしていた が、「地元で」という気持ちがあったので、福島へUターンし、店を開いた。
震災当日
地震があったのは、夜の開店に向けて、仕込みをしていた真っ最中だった。
揺れが大きくなって、長かったので、時計を見て時間を確認した。店内にあっ た空き瓶が棚などから落ちて割れた。仕込みをしていたものにも、ガラスが 入ってしまった。
店の損害は、それほどでもなかった。鏡が落ちたのと、ショーケースが落ち たこと。食器はあまり落ちなかった。建物の様子を見ようと外に出てみたら、
警官の配置がすごく早かったので、記憶に残っている。車の誘導などをしてい た。
そのあと、車を出して、幼稚園まで上の子を迎えにいった。自宅へも寄った が、店に戻ってきた。電気の復旧は早かったと思う。3~4時間だったのでは ないか。アルバイト(学生)には連絡がつかなかった。
翌 日
店に来てみると、水は出ていた。店内はめちゃめちゃだったが、「外ならい ける」と思って、テーブルを出して、道を歩いている人にコーヒーを無料でふ るまった。もしやれたなら、食事も出していたと思う。
そんなことをしたのは、「くやしかった」から。店を開いた時からの苦労が めちゃくちゃになってしまったように思えた。自分が悪いことをしたわけでは ないのに、なぜ、という。立ち寄ってくれたのは、十数名。リュックを背負っ ている人もいた。
3月いっぱい
13日は店の片付けをした。「地震前よりきれいにしようと思った」。
店の水は、建物に大きなタンクがあったので、大丈夫だった。食品の在庫も たくさんあるので、思案してランチを1週間やった。以前はランチタイムにも 営業していた。もうやらないと決めていたが、夜は人が来ないだろうと思った
ので。そうしたら、たくさんの来店があった。
専門店の誇りを捨てて、「何かあたたかいものを」と考え、豚肉のしょうが 焼き、パスタ、シチュー、ハンバーグ、味噌汁、スープなどを出した。一日あ たり、20食ぐらい。値段は300円から400円にした。原価ぎりぎりだと思う。
近所の肉屋からも食材を提供してもらった。
「(こういう非常時の)自分の役割を考えたんです」。その結果、みんなに喜 んでもらうために店をやっているんだ、ということを再認識したように思う。
買いに来たお客も、気を遣ってくれた。
4月から5月にかけて
4月は売り上げが5~6割減。しかし、5月になったら、常連が戻ってき た。また、スタッフ(学生アルバイト、実家は他県)も福島市に戻ってきた。
そのほか、県外から訪れた人や、メディア関係者、外国から来た研究者なども 来店していた。
店を続けるにあたっては、都内で働いていた時からつちかってきたネット ワークが生きた。いろんなところから、「これを使ってくれ」と食材を送って きてくれた。ワイン1本を発注すると、インポーターさんから2本送ってきた こともあった。だから、できることなら、「三倍返ししたい」と思う。
自分では、精神的に強くなったし、わがままにもなったと思う。だがそれ も、心の支えになってくれた人がいたから。都内で働いていた時に知り合った
「師匠のような人」には、たびたび電話して話を聴いてもらった。
その後、そしてこれから
2012年になって、「客の滞在時間が長くなった」と思う。
最近経験したのは、外国に行っても、みんな「福島」を知っているというこ と。田舎に行ってタクシーに乗って、「どこから来たんだ」の問いに、「福島か ら」と答えても、「おお、たいへんだな」とわかってくれる。これはすごいこ
とかもしれない。
(3) C店Nさん:「地域のつながり」を考え直す
C店は福島駅のほど近くに位置する洋食店である。店内に30席あるほか、
テラスに10名ほど、さらに座れる。店自体は2000年に開店したが、当時は駅 から少し離れたところに位置していた。今の場所に移ってきたのは、2008年 のことである。ひとりあたり2500円~ 3500円程度。ただし、ランチは別の料 金体系で、500円~ 980円。
店主のNさんは、福島市出身の40代男性である。25歳の頃、「地元福島で飲 食店を開きたい」と考えるようになり、大阪や外国などでの修業を経て、開店 した。
「単に食事を出すだけではなく、文化として根付かせたい」というNさんの 気持ちを反映して、店内はできるだけ、外国の都市部にある店の雰囲気を取り 入れた内装にしている。協力者が無償で、手作業で仕上げた部分も多い。そう いった「手作り感」も、C店の「味」であり、雰囲気を形成する一要素である といえよう。
地震直後から3月いっぱい
地震の瞬間は、ランチタイムが終わって、事務室にいた時間帯だった。1階 にある店とはいえ相当な揺れで、割れ物が多い飲食店ということもあり、店内 はガラスの破片が散らばって、カウンター裏などはひどい状態になった。それ でもたくさんあるワインの在庫は、あまり割れなかった。「被害額は20万円ぐ らいですかね」。
しかし外に出ると、隣のビルでは3m×3mほどの壁が剥落して、下にあっ た自動車がつぶされていた。「福島でこんな大きな揺れということは、これが もし関東の地震だったら、あっちではどんなひどいことになっているだろう。」 と、とっさに考えていた。
余震が続く中、2時間ほど店の前の駐車場に避難していた。当日は電気や 水、ガスもすべてだめになっていた。そのため、屋内には長居をしないで、テ ラス席を片付けて、近所の人と数名で、ストーブをつけて夜明かしをした。市 内にいる親や兄夫婦のことは気になっていたのだが。
そのまま自宅には戻らず、数日間は店に泊まり込んですごした。店内の片付 けにもかなりの時間がかかり、やっとのことで再開できたのは3月22日で あった。3
再開はしたものの、3月のお客の入りは少なかった。それでも夜にも人が 入っていた。来る人は、みな避難生活に疲れている様子で、「お酒が飲みたい」
という風だった。地震直後のカウンター裏の惨状をブログにアップしていたの で、記事を読んで、心配して店の様子を見に来た近所の常連も多かった。
結局、2011年3月は、同月の売り上げとしては過去最低であった。本当な ら送別会などで賑わい、ほかの時期の1.5倍ほどの売り上げが出るはずが、例 年の4分の1程度でしかなかった。ただ、仕入れを多めにしていたので、知人 たちに出したものを含め、店で寝泊まりしていた間、自分たちが食べるものに は困らなかったのが、不幸中の幸いであった。
原発事故の情報はもちろんインターネットなどでいろいろ知ってはいたが、
避難は考えなかった。福島を離れてしまうと、収入がなくなるので、逃げよう がない。
2011年4月以降
4月になっても客は減ったままだった。例年より2割減の売り上げだった が、逆に「細々とやっていこう」という気持ちになれた。
東京からはしばらく食材(ワインと特殊な食材)が入らなかった。地元の川 俣シャモ(公社)は職員が来て、検査結果付きでものを持ってきた。首都圏で 売れなくなるかも知れないということもあっただろう。地元でなじみのところ であり、おいしいものだから、使うと決めて使った。
実家の周囲にも農家がたくさんあり、農業をやっている同級生もいる。「そ の人たちを見捨てられない」。だから、メニューの裏に、「なるべく福島産のも のを使います」と書いて、もし気になるなら言ってくれ、というスタンス。ブ ログでも宣言した。ただし、県内産のものを食べたくない人のためのメニュー も用意しておいた。クレームをつけてきた人はいなかったが、メニューを見て 選ばない人はいた。
常連さんから、「県内の食材でやってくれ」と言われて、特別メニューで食 事を出したこともある。
しかし、そういうことよりも、イベントとか宴会シーズンになっても、人が はしゃがなくなった気がする。
年が明けて、(2012年は)売り上げとしてはだいぶ回復してきた。ただ、2 人でまわしているので、仕込みが追いつかない部分がある。ランチとディナー タイム以外は(営業を)考えていない。ランチは近所の人との付き合いもある ので、やめられない。4
(将来はという質問に)「居酒屋のおやじになるのかな」。
(4) D店Sさん:地域の食材を使い続ける、自負と不安と
D店の店主のSさんは、川俣町出身の40代男性。高校卒業後、いくつかの 職業を経験したが、三十を前にして、「店を出したい」と思うようになったと いう。内装にも統一感があり、料理と雰囲気と、両方を楽しめる店である。食 事はひとりあたり3000円程度。
開店まで
今の店をやろうと思い立ったのは、一つは、実家がシャモ農家であったこと が理由である(元々は農家機屋)。子どもの頃食べていたシャモはおいしくな かったが、そのあとに食べたシャモが別のもののようにおいしかった。交配や えさの工夫などもあったのだろう。そのシャモを使った店をやれば、自分の親
や出身地への恩返しになるということがあった。そのほか、妻の実家が福島市 内で飲食店をやっていたこともあったかも知れない。店を開くにあたっては、
実際にアドバイスももらっている。
いくつも他の店を回って、店のコンセプトを練った。やっと札幌で、「これ は」という店に出会い、頼み込んで修業をさせてもらうことになった。その店 ではおよそ半年ほど働いた。そのほか、東京でも数店を経験したし、川俣町の シャモ振興公社でも、肉を触らせてもらって、特性を学んだ。
店は2005年5月オープン。総席数38。客は比較的常連が多い。以前はラン チもやっていたが、震災前から夜だけの営業に切り替えている。
震災当日と翌日
地震があった時は、仕込みの真っ最中だった。その数日前にも地震があった ので、「またか」と思っていた。しかし、だんだん揺れが大きくなり、棚から 皿が落ちるようになったので、火を消して、店内にいた4~5人の店員ととも に外へ出た。ほかの店の人も外へ出てきていた。停電になり、棚のグラスが落 ちたりして、パニック状態になった。
とにかく何が起きているかわからない。ラジオをつけたのだが、同じことを 繰り返し言うだけで、はっきりしたことがわからなかった。店がある通りだけ 見ていると、たいしたことがないようにも思えた。家にも連絡したが、電話は つながらなかった。
店の損害は、それほど大きくはなかった。1階にあるということと、店の向 きによるものではないか。スナックなど、ほかのビルの上の階にあった店は、
物が落ちて大変だったところもあるようだ。うちでは皿が10枚、グラスが10 ぐらい割れた。あと、ワインセラーの下段に並べてあった、比較的安いワイン の瓶が倒れて、2、3本割れて赤い液体が広がった。日本酒も1、2本割れ た。
とにかく、その日は営業はできないからということで、帰宅を決めた。そこ
へちょうど、妻が長男(当時小学校1年生)を学校へ迎えに行ったのに出くわ した。
翌日は断水。電気は朝には復帰していた。ガスはプロパンなので、そのまま 使えた。
いったん店員が集まってくれたので、片付けをした。その上で「水道が回復 するまで、数日は休みにしよう」と決めた。スタッフにも「避難するならして もいいよ」と伝えた。前日は連絡が取れなかったスタッフもいたが、安否は確 認できた。
震災後しばらく
店を再開したのは、3月22日。とにかく水も出ないし、シャモ肉もこない ので、しょうがなかった。周囲の店は「4月1日から」というところも多かっ た。
この間、夜は毎日、店に通っていた。あたりは暗くて、原発事故のこともあ り、どうなるんだろうという想いがあったが、とにかく「明かりをつけたかっ た」。スタッフもやろうと言ってくれた。
シャモのストックは、この間、家族やスタッフで食べていた。食材の配達は 本来は2日に1度ぐらい。宴会シーズンで多めに購入はしていたが、比較的無 駄にせずにすんだ。
とはいえ、不安でしょうがなかった。こんなときに川俣シャモを食べに来て くれる人がいるのかと思った。シャモを扱うのをやめるべきなのか、真剣に悩 んだ。しかし、川俣町で生まれ育って、親への恩返しもあったので、「何かし なくちゃいけない」「自分にできることはこれしかない」と思って、店を再開 すると決断。正しかったと思っている。
再開した1日目(3月22日)は12人が来てくれた。「お客がゼロの日が続く と思っていたが、ゼロの日はなかった。」この日にはシャモも入荷した。「シャ モの処理はできるが、ガソリンがなくて配達ができない」という連絡がその少
し前にあったが、このときから大丈夫になったようだ。ただ、生産量が減った ので、部位によっては入らないものもあった。
お客さんも不安だったようだ。「食べに行きたいんだけど、本当のところ
(シャモの放射線量は)どうなの」という電話を何回も受けた。自分が出た電 話だけでも、7~8件。ただ、あまりなじみでない人が多かったように思う。
4月以降
4月に入ると、客数は安定した。震災前も客の入りはいいとはいえなかった し、3月はもちろん営業ができなかったのだが、そのあとは人が入った。4月 にはかなり売り上げは回復したし、前の年よりもよかったこともある。ただ、
他の店に聞くと、だめなところもあるようだ。でも、2011年の夏まではどこ もわりと忙しくしていた。最近店をやめたところは、震災を機にふんぎりをつ けたというタイプではないか。飲食店では少ない。
ただ、周囲の店からは「地産地消」の看板が消えた。うちがどうするのか、
周りの店には注目されていたと思う。地元の食材である「川俣シャモ」がウリ の店なので。だからこそ、意地でも続けようと思った。
来てくれるお客さんも、「(放射能があっても)全部オレらが食べてやるよ」
といってくれるような人ばかり。「人間というものを感じましたね」。
シャモ公社の人は、電話もかけてきたし、来店も何度かしてくれた。事故後 最初に来たのは、2011年の4月だったと思う。すごくショックを受けていた。
以前から店に来て食べたりしてくれたので、そのときも、「うちへ来て、食べ ているお客さんの顔を見て下さい」と声をかけて励ました。食べている客の顔 を見てもらうのがいちばんだと思ったので。
(ほかの食材はという質問に)米はJAさんを通して、市内某所の農家のも のを使っていたが、たぶん2011年度は生産がなかったのではないかと思う。
会津産の米に変えた。
あと、実家で採れた山菜などは使えなくなった。ふきのとう、たけのこ、わ
らびなど。焼き物などにこうした旬の物を使っていたのだが、たいへん残念 だ。計測して使う、ということも考えなかったわけではないが、測りに行くの も面倒だし、数値が出たらイヤな思いをするので、測定にも出していない。
ショックだったのは、事故の直後(4月)に、子どもと話していてこんなこ とがあった。「この震災のことは、お前の子どもにもちゃんと話して聞かせな いといけない」というようなことを自分が言ったのに対して、上の子ども(当 時小学校2年生)が「でも、パパ、ぼくたち早く死んじゃうんでしょう、子ど もなんてできないよ」と返された。ショックで何も言えなかった。「いや、そ んなことはない」とか、そんなことしか言えなかった。
(避難は考えませんでしたかという質問に)避難も考えた。おそらく、サラ リーマンだったら避難していたのではないか。あるいは、妻の実家が県外だっ たら、避難したかも知れない。いろいろ考えると、できなかった。ほかの場所 で、もういちど一から店をやり直すのは、不可能ではないが、考えにくい。子 どもの避難はさせたかったが、経済的に難しかった。そのため、週末には車で いわゆる「保養」に出ていた。2011年3月下旬から1年間ぐらい続けた。
子どもにしてみれば、つらいこともあっただろう。まわりの友だちが転校し ていったりもする。「今日、××君が転校するって言ってた」と何度も聞いた。
(相談した人はという質問に)あまりこのことで話はしていない。客と話を することはあった。5「悪いけど、避難するんで、ここへ来るのも今日が最後 かも知れない」という人は何人もいた。医者の話も聴いたが、二通りの意見が あった。
原発関係の情報は、最初はテレビから。あと、インターネット。ツイッター も見ている。客から聞く情報も多い。何が嘘か本当かわからないが。
あづま運動公園で、交通整理をやっていたという客からは、3月15日(放 射性物質が福島原発から北西方向へ流れてきた日)の雨に濡れて、服がかなり 被ばくしてしまったという話を聴いた。そこにはスクリーニングの計測器が あったので、すぐ測ってみたのだが、1ミリとか数字が出たという。6
東電の関係者だろうなという人も来店した。その人がいうには、3月中旬か ら4月中旬までのひと月ぐらいの被ばくが、いちばん気になるのだという。
今後の見通しについて
わからないとしか、言いようがない。もっとも、これまでも5年先どうなる か、ちゃんとわかって商売をしていたわけではない。しかしこれから、たとえ ば「ガンの発生率が上がった」というようなことになると、福島から人がいな くなるだろう。そうなると、店もどうなるか。
今は、除染関係で人がいっぱいいるが、これもいずれいなくなる。とにか く、5年後は分からない。不安も大きい。
(5) E店Wさん:売り上げは減っていない、むしろ伸びている
E店は駅近くのビルの2階にあり、夏季のみオープンする屋外スペースを含 めると、100人を収容可能な店である。開店は1977年だが、そのときには別 な場所にあった。今の場所に移ってきたのは1988年。ひとりあたり、1品の 定食セットで1000円前後、そのほかの料理を頼むと2500円程度。
店主のWさんは福島出身、都内私大卒の60代男性。大学に通っていたのは、
ちょうど学園紛争の時代で、授業に出たことはほとんどないという。大学卒業 後、大手建設会社に就職して、営業職を経験。その後福島へ戻って、店を開い た。
震災当日のこと
地震の時には自宅にいた。妻は裏手の方にいて、すぐに声が届かなかった。
大きな揺れだったので、家を出て、隣の家の庭に避難。電信柱が揺れていて、
倒れてくるのではないかと心配だった。
まず気にしたのは、実家のことと店のこと。先に車で実家に向かったが、途 中信号が消えているところがあったり、道がぼこぼこになっていたりした。街
中は停電になっていた。
実家で母の様子を確認した後、自転車で店へ。従業員やアルバイトが来てい た。
店は、階段のところに収納してあった酒瓶が飛び出して割れていて、ひどい においだった。店内でも、壁の棚から瓶が落ちて割れていた。食器棚も、扉が 開いてものが落ちていて、床に割れたものが飛び散っていて、たいへん危険な 状態だった。
その間にも余震が何度もあり、そのたびに外へ出た。
従業員のうちのひとりが、家が停電しているというので、車に乗せて自分の 自宅へ連れて帰った。(「2日ほど泊めてもらいました。」という店員のコメン トあり。)帰宅した後は、テレビをつけて、津波の様子などを見ていた。また、
風呂に水を張って断水に備えた。
地震直後や当日は、なんとなく、原発は大丈夫だろうと思っていた。これは 関東で地震があったのじゃないか、東北でこれだけ揺れたのだから、関東はど うなったのだろう、などとも考えた。
震災後の数日間
翌日は店の片づけで終わった。
そのあと、津波や原発事故で避難してきた人たちがいるので、何かできない かと考えた。使っていないふとんや毛布、ストーブを出し、自宅で飯を炊い て、妻の姉のところ(川俣町)へ持っていった。川俣では井戸水をもらった。
ここで、避難してきた人や自衛隊員から、「原発が危険な状態だ」と聞いた。
3月14日。店が片づいたので、開けたはいいが、誰もこない。水はビルの タンクにあったので、なんとかなっていた。これは困った、ということで、翌 日から19日までは閉店した。この日、結婚して外国で生活している娘から、
心配するメールが来た。
いざというときを考えて、避難先も検討した。母の姉が米沢にいるので連絡
を取った。「いつでもきてください」と返事があった。また、妻が常連客でも ある知人と連絡を取り、何かあったら一緒に行動することなどを確認した。
アルバイトも実家に戻ったりしていた。福島大学の留学生も雇っていたが、
多くは帰国。もう福島には戻ってこないだろうと思っていたが、卒業したはず の子が「石巻でボランティアをしていた」といって、5月になってから店に来 たこともあった。
3月下旬
通常は夜に開店するのだが、人が来ないので、昼間にランチと弁当を販売す ることに(昼食時から夕方まで)。弁当はこのとき、350円で売った。そのほ か、おそうざい販売ふうにおかずを単品で、なども。多いときには10万円ぐ らい、一日で売り上げた。本当は路上での販売には許可がいるのだが、届けな どは出さないで売っていた。線量は高かったから、外で販売していた人はかな り被曝していたと思う。
このころ、食材はぼちぼち開店した店やスーパーで買っていた。手に入りに くいものもあった。もちろん、遠方から入手していた食材は届かない。揚げ菓 子を作る粉もなかったが、なぜか八百屋が手に入れてきて、売ってくれたりし た。
ほかの店の経営者とも話す機会はたびたびあった。これはもう避難すること になるのかもしれないとか、人がいなくなったら商売ができない、若い人がい なくなるし、など、悪い方にしか考えられなかった。
ただ、自分から自主的に避難するのではなく、あくまでも「避難指示が出た ら避難する」というスタンスでいた。
支援されたり、支援したり
案ずる電話が、遠くに住んでいる知り合いなどからかかってきたりした。年 金生活をしている遠縁から、口座番号を教えろというので教えたら、30万円
も振り込まれた。ある人からも50万円送られてきたので、市役所を退職した 人と相談して、自転車を30台ほど購入して、避難所に寄贈した。
支援を受けることもあったが、支援する側にもなった。声を掛け合って、
12 ~ 3人で炊き出しを5月にやった。予定していた分では食材が足りなく なって、途中で追加の買い物を自腹でしたりした。
その後の店の状況
2011年3月中は、単身者の常連が、夜に来るぐらいだった。売り上げは、
前年同月比で6割強。このあと、4月は同じく8割5分だったが、5月は 124%になり、若い人も飲みに来たりしたので、やっていけそうだと感じた。
夏に一気に売り上げは伸び、最終的には年間で前年よりも多かった。7ただし、
リーマンショックで落ち込んでいた後なので、それほど喜べるわけではない。
東電の補償ももらっていない。
自分のところは売り上げは伸びているが、同業者に聞くと悪くなったところ もある。地元の食材を出していたところも苦戦している。うちは、2012年は さらに伸びている。
従業員の感触では、人の行動パターンが変わった感じだという。以前からの 傾向として、職場での飲みが減ってきていたこともあるが、仕事以外のプライ ベートで飲みにくることが増えた。回数もそうだが、以前は2~3人で来てい たのが、4~5人で来るなど、人数が増えた感じがある、と。
放射線については、客もナーバスになっている人がいる。電話がかかってき て、「お宅はどういう放射線対策をしているのか」と訊かれることも、何回も あった。多かったのは、2011年の7~8月頃だろうか。妊娠中なので、どん なものなら食べてもいいか訊かれたこともある。
大きく変わったのは、野菜。これまでは値段の関係で、直売所で買っていた ことが多かったが、スーパーなどに切り替えた。やはり流通を通しているとこ ろの方が安心できる。水は水道水。これはペットボトルの水などを使ったこと
はない。とにかく神経を使った。米は近隣で作っている、検査の結果がND
(放射性物質が検出限界未満だったということ)だったものを使っている。
情報はテレビや新聞が中心。テレビは原発関連の番組を録画して観ている。
新聞は地元紙。「安心」「大丈夫」といわれても、うさんくさい。情報がいろい ろ錯綜していた。自分の判断基準をどう作るかで苦労した。ガイガーカウン ターも2011年4月のうちに買った。知人に誘われて都内の反原発デモにも 行った。
今後について
復興ベースのお金が動いているうちは大丈夫だろう。ただ、長い目で見たと きにどうか。ほかのところで大きな災害があったら、なおさら東北にはお金は 来なくなるだろう。
放射線の問題も片づいたわけではない。除染と復興の流れがあるうちはいい が、10年後、子どもの代になるとどうか。
大きいところに勤めている人はともかく、自分たちは地元に根ざしているの で動くことはできない。しかし、(店がやっていけなくなるなど)決断するべ きところでは、しなければならない。いざというときには動くこともある、と 考えている。
4 考 察
以上の聴き取り結果を踏まえて、震災後に個人経営の飲食店が経験した危機 と、それに対する対応を整理したい。
ここでは、危機を3つの時期に分けて考えることとする。(1)第1期(地 震当日~ 10日後程度)、(2)第2期(1週間後~2ヶ月後程度)、(3)第3 期(数ヶ月後~)である。ただし、この区分は相対的なもので、必ずしも明確 な基準にしたがっているわけではない。また、それぞれの店が経験している危
機には、かなり内容と程度の相違がある。たとえば、A店は各期を通じてほと んど困難を経験していない。一般化が目的ではなく、個々の事例の理解を深め るための、便宜的なモデル化であることに留意されたい。
(1) 第1期:生活困難への対応としての「災害ユートピア」
3月11日の大地震直後の福島市内は、市内ほぼ全域で断水し、場所によっ ては電気・ガスが停まるなど、都市インフラに大きな打撃を受けた。また、東 北本線や東北自動車道が停まり、各地の道路網などにも被害があったため、物 流がとだえて、市内の店舗では品薄な状態が続いた。水やガソリン、灯油を得 るために列に並ぶ、あるいは短時間だけしか開店しないスーパー等で食料品な どの買い物をするために、これもまた列を作るといった光景が、市内のあちこ ちで見られた。
平均的な市民にとっては、この時期おそらく自身の生活困難が最大の課題と なっていただろう。飲食店経営者層も、おそらく例外ではない。
しかし飲食店経営者層は、一般の勤労者等と異なる部分を持つため、震災後 の短期的な危機も、異なった形で経験されている。まず自営業者一般にいえる ことだが、自己が所有する店舗(場合によっては建物全体)の復旧、従業員が いる場合には、その安全の確保などを求められることがある(E店では、自宅 に大きな被害を受けた従業員を、数日店主の自宅に宿泊させた)。
また飲食店に特有のこととして、一般市民や周囲の人間が、食べ物や調理に 困難を抱えている場合には、それにも対応しなければならない(あるいは、対 応したいと考える)ということがある。飲食店には一般家庭とは比較にならな い大量の食材ストックがあるため、これが被害にあっていない場合には、食べ 物は確保されていることになる。この食材を、誰に、どのように提供するかが 問われることになる。なお、調理が可能かどうかは、インフラを含めた店舗の 被害状況や、代替手段の確保の可否に左右される。
聴き取りによれば、A店はこの短期的危機を、経営者自身としては経験して
いない。これは水が確保でき、店の設備の被害がほとんどなかったなど、好条 件が重なったためであるといえる。C店では、店主のNさんは親しい同業者と ともに、食事と寝泊まりを数日間共にしている。D店でも、食材ストックをS さん家族と従業員の消費に回している。特に3月は毎年宴会シーズンで、各店 舗にはその他の時期よりも多めの在庫があったことが、物流が停まっていた時 期には幸いした。
レベッカ・ソルニットは著書『災害ユートピア』で、大災害後の被災地で、
しばしば無償の、利他的行為が見られることを指摘している。8飲食店経営者 からの聴き取りにも、こうした行為への言及が頻出した。上で挙げたNさん、
Sさんの例などは、東日本大震災という大災害に直面して、福島市内でも「災 害ユートピア」が現出したことを示すものといえるだろう。また、B店Tさん は、地震の翌日に路上にテーブルを出して、通りがかった人にコーヒーを無償 でふるまっていたし、A店Yさんの飲料水の提供も同種の行為と見てよいだろ う。Tさんの、「みんなに喜んでもらうために店をやっているんだ、というこ とを再認識したように思う」という言葉には、こうした「災害ユートピア」の 利他性が持つ意味が表現されているといえる。それは他人の幸福のために行動 すること、他者との連帯感を感じることへの喜びである。9
そのほか、A店が大地震の翌々日から開店して、メニューを制限しながらも 普段通り営業したのも、地域住民の生活困難への対応であるといえる。この時 期の福島市では、「食べることの確保」は優先度が高く、コミュニティラジオ やツイッターでも、「どこの店は営業している」10という情報がたいへん重宝 がられていた。水が確保できたB店とE店でも、昼食時のランチ提供や、弁 当・惣菜の販売などを行っている。これらは有償の行為ではあるが、周囲の生 活困難に対処する意味合いを帯びたものであると考えられる。
(2) 第2期:店の存続の危機への対応
ある種の「祝祭」のような「災害ユートピア」であるが、無償の利他的行為
は、当然ながら長続きしない。飲食店経営者にとっては、食べ物の提供を無償 で続けるのは、収入の途を絶つことであるからだ。有償であっても、原価に近 い価格で食事を提供し続けたり、今回調査対象とした中規模店のような、客単 価が高い店が、低価格のランチや弁当等の提供を続けたりする場合でも、同じ ことである。
したがって、E店Wさんが関わっていたような「避難者への炊き出し」など として、形を変えて続いていく部分を残しながらも、「災害ユートピア」は 徐々に姿を消していく。そして、3月下旬から4月にかけて、飲食店を待って いたのは、消費の大幅な退潮であった。
A店のように日常の食事を提供する店の場合は別であるが11、B店・C店・
D店のように、やや単価が高めの食事を提供する店の場合、奢侈的消費と考え られることもあるため、さまざまな困難を実際に住民が継続的に経験している 大災害後には、足が向きにくいこともあったと考えられる。長期的・短期的に 福島市を離れる人がいたことによる人口減もあっただろう。他の産業も打撃を 受けたため、地域全体の所得減があったことも要因に挙げられるかもしれな い。B店では4月は前年比5、6割の売り上げ減と、非常に大きい収入減が あった。C店でも2割減、E店でも1割5分減である。
加えて、食品からの被ばく(内部被ばく)が問題化されていたことも挙げら れる。福島市の調査によれば、内部被ばくについて、「食べ物の線量と産地に 気をつける」ことを、「現在も実行」と回答している人は70%、「以前は実行」
と回答している人は15%である。12福島市の調査には、外食についての質問項 目はないが、ウェブなどでは、食品の自己管理のためとして、信頼できる店以 外での外食をしないことが、内部被ばくを低減させる重要項目としてあがって いることもある。自分で食材を買う場合には、「産地に気をつける」ことがで きても、外食時にはそれができないことが多いからであろう。これが飲食店か ら客足が遠のく遠因になっていると経営層に受けとめられていることが、今回 のインタビュー調査でも散見された。
ただし、C店・D店に見られるように、むしろ可能な限り積極的に、福島産 の食材を使っていく決断をしている場合もある。しかもそれは、政府(農林水 産省)が「食べて応援しよう」なるスローガン13を打ち出していることとは相 対的に切り離されたものとして、人と人との関係を最優先させる中で採られて きている選択である。C店Nさんは、実家の周囲の農家や同級生のことを念頭 に置いているし、D店Sさんは親や取引のあった公社の人間を慮る。
そしてこのつながりの重視は、客との関係の中でも現れる。それは、Sさん の客が言ったという、「(放射能があっても)全部オレらが食べてやるよ」とい う言葉に典型的に表れている。客にしてみれば、飲食店は選択可能なものであ るが、その中であえて、「この店でなければ得られないもの」を求め、信頼を 置く客がいるということである。C店の常連客が、「福島産のもので」という オーダーを出したというのも、生産者に対する信頼というよりはむしろ、店
(とその経営者)との関係の重視があったからだろう。D店・C店の客だけで なく、B店でも5月以降、常連客が店に戻ってきて、経営状態は改善され た。14
ただし、E店からの聴き取りにもあるように、もう一つの要因として、他地 域から福島へ来訪した客の利用があったことも重要であろう。仙台地区でも 2011年5月以降、飲食店街である国分町の賑わいが目ざましかったという。
「復興バブル」などとも、一部で呼ばれた。B店やD店、E店でも、外来者の 来店が語られている。地域内での相互的な支え合いのほか、こうした「外か ら」の追加的需要も、第2期の危機の回避には重要であったと思われる。
なお、中期的な危機の回避手段として、「福島を離れる」という選択肢は、
ほぼ考えられていなかったことには注意したい。一般に店舗を持つ自営業者に とって、店は生計を立てる場であり、そこを離れることには大きなハードルが ある。しかしそれは、単に経済的な観点からだけでなく、場合によっては、飲 食店経営者のアイデンティティの根幹に関わることでもあるからだろう。自分 の手で築き上げてきた店への愛着も語られた(Sさんの、毎晩店に通ってい
た、「明かりをつけたかった」という言葉など)。
(3) 第3期:長期的な不安
第2期の危機は、店によってはかなり厳しいものであったことは想像に難く ないが、D店Sさんによれば、飲食店では店をやめたところは、それまでにす でに経営が難しくなってきていたところを除けば、少ないのではないかとのこ とであった。ここではむしろ、調査時点、またはそれ以降を含めた、長期にわ たる漠然とした不安が語られたことに注目したい。
A店Yさんは、震災による困難は「うちはほとんどない」といい、あまり今 後に関する不安は語らなかった。しかし、調査時の経営状況は比較的「良い」
としているD店Sさん、E店Wさんが、今後の見通しについて、「わからない」
「今はいいが」という不透明感や不安を、むしろ表明しているという側面があ る。C店Nさんが「細々とやっていきたい」と語ることも、将来を見通した経 営方針の転換であると思われる。15
中期的に見た時に外来者の来店が重要だったことの、裏返しでもあるだろ う。SさんとWさんは明確に、復興需要や除染作業によって外来者が増えてい るので、飲食店の売り上げが支えられている、あるいは伸びていると語る。そ れが失われたらという気持ちの裏には、地域の経済状況に対する、漠然とした 不安あるとも考えられる。
今回の調査では、調査時以降も含めた長期的な展望については、短いやりと りしかしておらず、これ以上踏み込むことはできないが、こうした不安が、ど の程度地域の飲食店で共有されているか、他の調査等との突き合わせによる検 証も必要と思われる。
5 おわりに
以上、東日本大震災がもたらした各時期の危機に対して、福島市内の個人経
営飲食店が、店の性格や規模に応じてとってきた対応について、経営者層の語 りをもとに整理してきた。概してこれまでは、生産者(農家)と流通、消費者 というとらえられ方をされることが多かった、震災後の福島をめぐる食の問題 であるが、産業の観点からすれば、飲食店も重要な位置を占めていると思われ る。
比較的共通して見られたのは、彼ら/彼女らが、「福島」(必ずしも福島市と は一致しない)という地域の人の結びつきの中に、自分たちの店も置かれてお り、相互の支え合いの重要さを意識しているということである。それは、地震 直後の「災害ユートピア」のこともあり、近隣の人間関係のこともあり、常連 客との関係であることもある。意識される範囲や程度は、おのおのの状況と場 面によって異なる。
「絆」ということばが震災以降頻繁に使われ、しばしば「政治的」に(つま り政府等の責任が回避されるために)動員される傾向には、十分注意を払う必 要があるだろう。しかしそれとは別に、実際に人びとは、さまざまな「絆」=
社会的紐帯の中で、日々の生活を営んでおり、災害がもたらす危機に際して、
それらがどのように機能したのか、またどのように認識されていたのかを確認 することは、重要な課題である。ただし同時に、こうした社会的紐帯が、危機 の乗り越えに有効に働く場合だけでなく、負の影響を及ぼすことがあり得るこ とも、念頭に置いておく必要があるだろうが。
数点課題として残ったことがある。
一つは、集合的行為との関わりを見いだすことが、今回の調査からはできな かったことである。今回の調査からは、同業者や地域で形成される集団が、危 機の回避に向けた行動を起こすという動きは、見いだすことができなかった。
これについてある飲食店関係者は、「飲食店は結局みんな商売敵みたいなもの だから」と語っていた。都内のデモに参加したWさんも、同業者ではなく、友 人の誘いで参加している。個々人の努力や試行錯誤ではない「危機の乗り越え 方」が、どのような形で存在し得るか、その把握のための糸口は発見すること
ができなかったということだ。
もう一つは、Sさんが「実家で採れた山菜の料理を店で出せなくなった」と 語っていることに関わる問題である。おそらく代替品は入手可能だろうし、入 手のためのコストもそれほど大きなものではないかも知れない。しかし、「自 分の実家で採れた山菜」は市場では売っていない。したがって、震災によっ て、Sさんとその店にとっては、金銭に還元できないたぐいの「損害」が出た ともいえるだろう。こうした、サブシステンス経済との関係についてや、市場 価値とは異なる次元に属する「意味」の問題については、別な形のアプローチ が必要と思われる。
今回は些細な規模の調査ではあったが、事例研究を一つ一つ積み重ねること によってしか、東日本大震災後のさまざまなリアリティを形として残していく ことはできない。本稿だけでなく、さまざまに積み重ねを続けていくことの重 要性は、震災後3年半を過ぎた今、さらに増しているともいえるだろう。その 一端を担うことができれば幸いである。
注
1 3のC店Nさんのインタビューなどを参照。筆者も、今回調査対象とした飲 食店に来た客の一人がメニューを見ながら、「福島産のものは食べられない」と いって敬遠している現場に遭遇したことがある。
2 福島商工会議所は四半期ごとに、管内の中小企業景況調査(景況感)の結果 を発表している。また政府統計としては、総務省統計局によるサービス産業動 向調査が毎月行われている。この調査に関連して、2011年前半、東日本大震災 での津波被災地を中心に、調査対象の事業所に対する電話による問い合わせが 実施されているが、結果は公開されていない。なお、関満博が津波被災地を中 心に、詳細な聴き取りを中小企業に対して行っており、その中には、避難指示 区域である浪江町にあった飲食店(二本松市で再開業)も含まれる。関満博、
『地域を豊かにする働き方――被災地復興から見えてきたこと』、ちくまプリ マー新書、2012年、など。
3 たまたま筆者もこの日、ランチタイムにC店を訪れていた。店にいる間に大
きめの余震があったが、Nさんは動ぜず、ひょうひょうとした顔で、「出口はこ ちらです。無銭飲食はなさらぬように」と、ユーモアたっぷりに客に告げてい た。
4 ただし、調査後ランチは予約があった時のみとなった。
5 Sさんはカウンターの中で調理をしているので、カウンター席の客とは差し 向かいになる。
6 詳細は不明だが、1000cpmということか。
7 この部分は、Wさんより、各年の売り上げ一覧を見せてもらいながら、説明 を受けている。
8 レベッカ・ソルニット、『災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立 ち上がるのか』、高月園子訳、亜紀書房、2010年。なお、実際にはこうした利 他的行為だけが被災地で見られたわけではなく、窃盗や略奪なども行われてい たことが、東日本大震災についても報告されている。たとえば、佐々涼子、『紙 つなげ!』、早川書房、2014年、208ページ以下では、津波後の石巻市内での盗 難未遂や、略奪行為と思われる事例が紹介されている
9 ソルニット、前掲書、12-13ページ。
10 調理に必要な燃料と水の確保ができない場合は開店が難しいが、建物の水タ ンクに余裕があったA店・B店・E店のほか、上水道からの水がない場合でも、
井戸があって飲料に使える水が確保できた場合には、店を開いたり、臨時に弁 当を提供できたりしていた。(その他の店の聴き取りから。)
11 つまり、物資が確保でき、かつ、それほど店舗の規模が大きくなく、採算ラ インが低い場合は、中期的危機や、このあとの長期的危機を経験しないという ことになるのかも知れない。関満博は「一般に、街の小さなそば屋の場合、月 に千人もくれば経営は成り立つのです。」と述べているが(関、前掲書、94ペー ジ)、月あたり25日営業するとして、一日に換算すると40人程度である。これ はほぼ、A店のふだんの在庫(40食×3)としてYさんが語った量に合致する。
12 福島市、『放射能に関する市民意識調査』、2012年9月、69ページ。調査は同 年5月に実施されたものである。
13 http://www.maff.go.jp/j/shokusan/eat/ (2014年9月30日取得)
14 なお、顔が見える個人的関係における信頼の重要性を語る事例が多い一方で、
E店Wさんのように、野菜の仕入れを直売所からスーパーマーケットでの購入 に切り替えた(つまり、流通過程での放射性物質の測定を、より信頼した)事
例もあることは興味深い。個人的な信頼関係だけでなく、「システムへの信頼」
も重要な場面があるということであろう。この点については、別の機会に検討 したい。
15 C店はそれまで、深夜営業も含め、さまざまな試みをしていた。そこからの 方針転換ということになる。
16 福島県商工会議所連合会など、福島県内外の商工会は、政府や自治体に対す る要望書を2011年3月以来、さまざまに出し続けているが、こうした動きとの つながりはほとんど語られない。ひとつには、今回調査した対象が、比較的新 しい店が多かったこと、経営者の年齢も低かったことと、関係があるかもしれ ない(地域における勢力の問題)。