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古代語助詞「つつ」の周辺

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39

古代語助詞「つつ」の周辺

菅 野 宏

1 〜ツツの問題

H 〜ツツの統辞論的性質 皿 〜ツツの分布

W 〜ツツトモシおよび〜ツツ止め V アリツツ(モ)の意味

VI〜ツツのその他

1  〜 ツ ツ の 問 題

助詞「つつ」は,平安時代までの用例に関するかぎり,動作の反覆の意をあらわす,という説を,松 尾聡氏などは,固く持しているかに見える.(1)山田孝雄,松尾捨治郎両氏の説も同様であるが,一方同 時に起る事をあらわす(山田,松尾)とか,上なる作用の継続をあらわす(山田)とかいう場合も認め ている.(2)その他多くの論説もこれらの線にそって考えている.

 万葉集など古代語の場合,

     なかなかに君に恋ひずはひらの浦のあまならましを玉藻刈りつつ(2743)

     上毛野かほやが沼のいはみづらひかばぬれつつ我をな絶えそね(3416)

などの「刈りつつ」「ぬれつつ」が,或本歌や類似の伝承歌では,

     なかなかに君に恋ひずはひらの浦のあまならましを玉藻刈る刈る(2743)

     入間路の大家が原のいはみづらひかばぬるぬる我にな絶えそね(3378)

のように「刈る刈る」「ぬるぬる」としてあらわされているのだから,「つつJは反覆であるとするこ とにさしあたり特別な異論があるわけではない.「消ゆる火を雪もて消ちふる雪を火もて消ちつつ」

(319)r衣こそはそれ破れぬれば継ぎつつもまたもあふといへ,玉こそは緒の絶えぬればくくりつつま たもあふといへ」(3330)などは,反覆の「つつ」のいい例だと思われる.松尾捨治郎風にいえば「消 ちつ消ちつ」「継ぎつ継ぎつ」 「くくりつくくりつ」ということになるであろうが,そのいいかえはと もかく,畳語と「〜つつ」の両者は相互に交換しうる形式であった一面もあるのかもしれない.ただ両 者の関係がそのような単縄なものであったかどうか,細部の検討をおろそかにしていい理由がない.つ ぎに,「刈る・消つ・くくる」のような,行為・作用の始めと終わりとに節があり切れ目のあるはっき りした動詞の場合は,「刈りつつJなどを反覆としていいと、思うが,「恋ふ・思ふ・見ゆ・あり」のよ うな持続的なものの場合は,「恋ひつつ」「ありつつ」などを反覆として説明することは十分ではない.

だから一方でこれを,「継続・持続」として説明するのも自然であって,とりたてて異論のないところ でもある.これを,林大氏は,「待ちつつあらむ」などは,進行形ともいうべきもので,従来の説明の しかたによるよりは,むしろ,「くりかえし意識される」といったほうがよくはないかという風にいっ ている・(3)気持ちはよく解るのだが,これは十分ではないであろう.なぜなら,つぎのような場合・即 ち,「夜はひともしをるわれをやみにや妹が恋ひつつあるらむ」(3669)rこの時はいかにしつつかな がよは渡る」(892)のような場合は,他者がくりかえし意識しているのか,作者がくりかえし意識して

(2)

いるのか,意識の所在が分離してしまうので,十全の説明とはいい難いのである.従来の規定で一応結 構なところである.つぎにある動作が行われる一方で同時に他の事柄が進行するという規定もあるが・

該当する用例が多く見えるのであるから,特にいうべき落度はないのであろう.

 だが,しかし,反覆と継続と同時とは,かならずしも一致する概念ではない.そこで,同一の形式「〜

つつ」を分離することなく統一的に理解し記述することも,時に当って必要であり,重要であると考え る.なぜなら,万葉集巻一六の中に,つぎのような用例がある.

     耳梨の池しうらめしわぎ妹児が来つつ潜かば水は涸れなむ(3788)

これは,昔有三男 同娚一女也 娘子嘆息日 一女之身 易滅如露 三雄之志 難平如石 遂乃彷徨池 上 沈没水底於時其壮士等不勝哀頽之至 各陳所心作歌三首 という物語を伴うものの一つである が,娘子が入水自殺をはかってたびたび池のほとりに来たと考えては,意味がずれてしまうであろう.

詞書にも 彷径 とあるのである.多くの注釈書では,「わぎも児が来て水に入ったらJぐらいにしか 解していない.全釈は,「つつは軽く用いている」と丁寧に付け加えて説明しているが・これは・「つ つ」を反覆とするたてまえに逆に拘束された結果である.またこの歌の「来つつ」を継続として説明す るとしても,「ずっとやってきて」といったものではないので,事態の割り切り方としては剰余がある し,一方同時に進行する二つの事態でもないので,疑問は深くなる.古代語助詞「つつ」のある例を現 行の諸説で説明し切れないからには,むしろここにある種の,しかし全く本質的な用法と意味が存在し ていたと推定することは,不当ではないであろう.たとえ,例外であるとしても・例外は・例外でない ものの本質をより明確にするはたらきをもつはずである.「っっ」について見落しがあったのではない か,この小篇の目的は,主としてここに存する.

 つぎに,

     武庫の浦をこぎみる小舟粟島を背向に見っっ羨しき小舟(538)

という歌があるが,この「見つつ」と「羨しき」との係りの具合,結合の様子がどうも明瞭ではない.

沢潟博士注訳巻第三の説明によると,「武庫の浦をこきめぐる小舟よ,粟島をうしろに見ながら漕ぎゆ く羨しい小舟よ」と口訳され,「背向に見つつJの次に「こぎみる」を再び補うべき語法とうけとられ ているかに見える.もしそういう語法があったとすれば,集中もう少しの用例があってもいいと思うし こういう「〜っっ」の用例はほかに存在しない.「っっ」の一般的用法から,「背向に見つつ羨しき小 舟」を理解し説明することは不可能なのであろうか.これが第二の疑問である.

 またつぎに,「ありつつ(も)」という形式が集中14例を数える.この「ありつつも」は時とする と同一の意に解されていないように見える.

     佐保川のきしのつかさの柴な刈りそねありつつも春し来らば立ちかくるがね(529)

この歌の「ありっつも」の解釈で,注釈は,「こうしていての意,「ありつつも君をば待たむ」や「あ りつつもやよずかよはむ」(324)の場合は作者淋ありありての意であるが,今のは,「この岡に草刈る わらは然な刈りそねありつつも君がきまさむみ馬草にせむ」(1291)の場合と同じく,柴がそのままで

というのである」といっている.同一形式アリツツモを,「春し来らば」のときに春のことでなく,「君 がきまさむ」のときにも君のことでなく解釈して,柴のことだとし,他方「きみをば待たむコ「やよず かよはむ」のときには待ちかよう人すなわち作者のことと解釈して,すっかり分離してしまうのは,首 肯しかねるところがある.それで間違いがないとしたらなぜそういう幅のものになるのか語法的にも意 味的にももっと論理的に納得のいくように説明できなければならない.

 さらにつぎに,万葉集中「つつ」で終止する慣用的な一形式がある.たとえば,それは,

     後もあはむわにな恋ひそと妹はいへど恋ふる間に年はへにつつ(2847)

     ほととぎす花たちばなの枝にみて鳴きとよもせば花はちりつつ(1950)

など,集中約30を数える.この形式は,つぎの

     しかの海人は布刈り塩煙きいとまなみくしげの小櫛とりも見なくに(278)

(3)

菅野  古代語助詞「つつ」の周辺   41・

一一一e一      宇治聞山朝風さむし旅にして衣倍すべき妹もあらなくに(75)

などの「〜くに」形式同様,一般に余情をもたせる表現だといわれる.この余情の表現を,「つつ」止 めというが,「つつ」のいかなる性格に因るものであるか,反覆,継続が余情につねには関係しないこ と,いうまでもない,ここに万葉集中「〜つつもとな」という慣用形式があって・問題の特殊なかぎが おさめられているように思う.

 以上,古代語助詞「つつJの本質をめぐるいくつかの疑問を提出したが,この解決のために,「つつ」

の周辺について考察をすすめたい.

丑 〜ツツの絞辞論的性質

 活用語に「っっ」のついた形式を〜ツツであらわすことにする.〜ツツの文法掬性質をいくらかはっ きりさせてくれるものは,〜ツツアリ,〜ツツヲリ系統の表現である.万葉集中数えられる〜ツツの用 例は約400例(わたくしの計算では426)あるが,このうちアリ・アル・アラバ・アレパ・アラム

・アルラム・アリガテヌ・ヲリ・ヲル・オラバ・ヲレバ・ヲラム・ヰル・イマス・イマシシなどの動詞 が単独でしかも直接に係っていると認められる例が94約翅をしめる・

 これら,アリ・ヲリ系統の一群は,存在詞とさえ呼ばれ,一般の動詞とは異ったとり扱いをうけるほ ど,特殊な動詞であって,行為動作としての意味あいや作用性は稀薄であり,形式的な色合いが濃い.

山田孝姓氏の説によると,「存在の義をあらわし,進みではただ陳述の義のみをあらわす」という種の ものであり,また形容存在詞・動作存在詞・説明存在詞など,すべてこのアリをもとにするものである.

 アリ・ヲリ形式が,短かく小さい後続語であり,〜ツツアリ〜ツツヲリが圧倒的に多くの用例である ということは,〜ツツ形式が文法的に後続語につよい影響をあたえてかかっていくというよりは,それ 自体で完結する自己充足的な性質の方がいちじるしいということを示す.すなわち〜ツツアリ・〜ツツ ヲリは形容動詞にちかく,存在の状態,様相を示すものということに.なる.〜ツツワタル・〜ツツ待ツ などの場合もやや多いが,これらとてもワタル・マツの様相を示すものにほかならない.〜ツツが,他 を修飾すると考えるのは,誤りではないし,それでいいと思うが・格助詞やツツ以外のふつうの接続助 詞が志向する作用性のようなものはすこぶるうすいことを注意しなければならない・山田孝雄氏はこの 間の事情をつぎのように説いている.

   従来の説については,この「つつ」を以て助詞,吾人の所謂接続詞の類とせるものあり,又全く   これを度外匠おきてとはざるものあり,されどもこはかの確述の複語尾「つ」の畳語たることは明   らかなる事実なり.

   従来の説については叉この「つつ」を副詞をつくるものとせり.しかれどもこは副詞をつくるも   のとはいふべからず.すべて動詞の終止形の畳語は「ゆくゆく」の如く情態副詞の如き用をなすも   のなり.即ち「なくなく」「這ふ這ふ」の如きも亦この類なり.而して複語尾の付属せるものにつ   いても亦かくの如き畳語をなすことあり.「つつJもたとへば「行きつつ」といふ語につきていは   むに「行きつ行きつ」といふを本体とすべきに,便宜上動詞は一つのみにして「つ」をのみ重ねた   るもの,この「つつ」なりとす.而してこれは,「つらら」「とろろ」「いよよ」「いとど」と同様の   現象を呈せるものと見らる.かくの如くなれば「つつ」は副詞的のものたるは異論なしといへども   副詞をつくるものにはあらず.即ちその意義よりいへば,前後の動作作用の同時に行はるること叉   反復せらるること或はその作用の継続せることをあらはせるものなりとす.(日本文法学概論)

 要約すれば,ツツは副詞的なものであること,しかし副詞や副詞を作るものではないこと,というこ とになる.べつの条で,真正の畳語ではないが,畳語ともいうべく,「用言の全く特異な現象」である ということもいっている.この考え方に注目したい.

 ただ,以上のようにのべていながら,〜ツツを分類して,

(4)

  {1)上の用言の繰返さるる継続の場合

  (2)上の用言を以て情態副詞の如き意と用をなさしむる場合    臼)下なる語の装定

   ㈲ 上なる句を導きて下なる語の従属たらしむる場合

といったことをあげているだけで,(1}の繰返しが下につながるときの事情は,(2)のどれかと同じではな いかと思われること, )(ロ)はすべて文脈によりどうにもうけとられる筋のものであること,この点間題 が残る分析ではないか,という感じがつよい.

 さて,助詞〜ツツは,現在,接続助詞として処理されている.便宜的にそれでよろしいし,そういう 習慣を尊重したいと思う.しかし実は,〜パ・〜ドモ・トモなどとはちがう面があり,むしろ連用形や

〜テなどと似たものであり,明治以来欧文流の動名詞を訳すに当ってあてはめてきたごとく,動名詞に 近く,接続形・中止形の名称がまだ無理だとしても,中止法なみに取扱うべき筋のものではないかとい

う一面がある.(いまは,こうした記述理論は当面のしごとではない.)

 つぎに,〜ツツの〜に該当する語はほとんど動詞であることをことわっておかなければならない.し かも,助動詞は全くといっていい億どあらわれず,ただヌの場合の「〜ニッツ」が22例ほど,シムの 場合r〜シメツツ」が2例ほどあるのみである.キ・ケリ・ツの場合になぜ〜ツツがないか,これにつ いては,最後にすこし触れるはずである.

 また,〜ツツには,カヘリミシツツ・アサコギシツツ・ウラナケシツツといったサ変の形も多くあら われるし,カキナデミツツ・イデヰツツ・オキヰツツ・オモヒワピツツのような複合があらわれること もある.前者は一般化し代表化しつつ,後者は同類を並列しつつ,いずれも含みの多いものであること を示す.

 さらに,〜ツツの係る語句,つまり〜ツツをうける語について見るに,大多数の用例が,すぐ次の語 句である.たとえば〜ツツアリのごとく,〜ツツユク・〜ツツ来・〜ツツシノフのごとく,この場合〜

ッツの〜に複合があるように,〜ツツ…の…にもそれが見られる.ある場合には,係る語をしかとはい えない全体かたまりであることもある.

     夕にはいりゐ恋ひつつぬば玉の黒髪しきて人のぬるうまいもねずに(3329)

     天のごと仰ぎて見つつかしこけど思ひたのみて(3324)

     ぬえ鳥の片恋ひしつつ朝鳥の通はす君が夏草の思ひしなえてタ星のかゆきかくゆき大船のた      ゆたふ見れば(196)

     夢に.し見つつ思ひぞわがせし(1620)

     立つ雲をよそのみ見つつ嘆く空やすけなくに念ふ空苦しきものを(4169)

     大殿をふりさけ見つつうづらなすいはひもとほりさもらへどさもらひえねば(199)

これ硲の例,.どりょうに考えても,〜ツツの匂いが後後まで揺曳していることはいうまでもあるまい.

  ノ従って大なり小なり,〜ツツはつぎの語句にかかるといっていい.

 しかし,ここにそう多くはないが,枕詞などを除いてもすぐつぎにはかからない例が存在する.

   ¢ 春鳥のねのみ鳴きつつあぢさはふ夜ひるといはずかぎろひの心もえつつ嘆く別れを(1804)

   ② 粟島を背向に見つつ朝なぎにかこの声よびタなぎに梶の音しつつ浪の上をいゆきさぐくみい      はのまをいゆきもとほり(509)

   ③ よそのみもふりさけ見つつよろづよの語らひ草といまだ見ぬ人にも告げむ(4000)

.@⑤⑥ 火もて消ちつついひもえず名づけもしらずくすしくもいます伸かも(319)

くくりよせつつすゑつひに行きはわかれず同じ緒にあらむ(2790)

春さればひこ枝もいつつほととぎす鳴く五月には(4111)

もしこれらの例において,武智雅一氏のように,〜ツツは,「すぐ次にくる述語を修飾する」となす(4)な

(5)

菅野  古代語助詞「つつ」の周辺 43

らば,それは,論理的な矛盾となるであろう.文法的考察において平衡感覚は必要である.〜ツツは,

すぐ次の用語にかからないこともあるのであって,①〜⑥など代表的な場合である.ひきあわせて,

   ⑦ゆたけき見つつあしがちる難波に年はへぬべく思ほゆ(4362)

   ⑧ いはひふしつつぬばたまのタになれば大殿をふりさけ見つつ(199)

などにおいても,直接にすぐつぎの用言に係っているとは認めにくい.

 これらの用例のうち,〜ツツ単独の例もあるし,〜ツツ〜ツツの並列の方法も①②⑧などあるのだ が,この後者の例はかなり数多くあげることができる.

     朝なぎ砕かこの声しつつ夕なぎに梶の青しつつ行きし君(3333)

     ぬえどりのうらなけしつつ下恋ひに思ひうらぶれかどに立ち夕占とひつつあを待つとなすら      む妹をあひてはや見む(3978)

こういう〜ツツと関連すると思、うが,

     春は張りつつ秋は散りけり(1707)

     春は生ひつつ秋は散りゆく(995)

などの対照法と見るべきものも存在する(6)ので,さきの「ひこえもいつつほととぎす鳴く五月」は,こ の対照法の一種であると考えられよう.ひこえ萌える春の始と,葉のしげる五月との連続を,いわゆる

「係り」の範疇にいれることはまずいであろう.もし係るというなら,下の語句のかたまり全体にかか るというべき場合である.

 この対照法(〜ツツ一個による)と,つぎの

     玉藻かりつつ神代よりしかぞたふとき玉つ島山(917)

     もみぢちりつつすくなくもあがの松原清からなくに(2198)

     さを鹿の妻呼ぶ秋は天ぎらふ時雨をいたみさ丹つらふ黄葉散りつつ,八千年にあれつがしつ      つ天の下しらしめさむと百代にもかはるましじき大宮処(1053)

とは・同じものと考えていい.最後の例は,〜ツツの並列に見えるが,前の〜ツツは,はじめに「うぐ ひすの来鳴く春べは・一…錦なす花さきををり」とうたい,それを総括したツツであるので,アレツガシ ツツのツツとは比重がちがうのである.いずれにしろ,これらの〜ツツの下に,省略を考えることも,

用例があまり多く妥当ではないのであるから,〜ツツは,下の用言にすぐかかる場合もあり,下全体の 句にかかる場合もあるといわねばならない.

 なお,一例のみであるが,

     かへり立ち道を来ればうちひさす宮をみな さす竹の舎人をとこも 偲ふらひかへらひ見つ      つ たが児ぞやと思はれてありし…(3791)

という係り具合もある.「かへらひ見つつ〜と思ふ」という一続き を受身にしたようにも見えるが,し かしこれとても「かへらひ見つつ」が,「たが子ぞやと思はれてありし」全部にかかる対照法の一種と 考えれば,問題はないと思う.それは,「玉藻刈りつつ神代よりしかぞたふときJと同じ構造で,形容 詞がくるかわりに、「思はれてありし」という状態がきているにすぎないのである.あとで理由をのべ

るが,その問題の歌も,皆の人が,フリカエリフリカエリ見タりシテ,一体ダレノムスメカナドト思ワ レクリシタという風に解し・〜ツツをタリシテとおきかえれば,係りの具合があきらかであると思う.

以上要するに・〜ツツの文法的統辞論的性質としては,次の事項をあげることができる.

 a.動詞および助動詞「しむ」「ぬ」にしかついていない.

 b.副詞的な性質がこい.

 c.〜ッッ〜ツツの並列対照法があり・〜ツツだけの総括的な対照法もある.

 d・〜ツツを受ける語句は・すぐつぎの用言とはかぎらない.ある場合はむしろ下の語句全体に意    味あいを及ぼし,総括の文脈や対照の文脈をみちびく.

(6)

皿  〜 ツ ツ の 分 布

 〜ツツの用例は,一つの集合としてどのような性格のものか・これを検討するのが・第二の作業であ る.400例あまりの〜ツツがどのような文脈の中にあらわれ・どのような意味の集合の中にあるか・

これを整理して,〜ツツの分布と呼ぶことにしよう.〜ツツの分布は,〜ツツの本質を知るのにもつと も有効な手段である.

 ある意味の展開がツツで一応とじられる時ツツの前につく語の性格は,ツツの意味性質に最も深い近 い関係をもつ.同様に〜ツツによって導かれくりひろげられる文脈の中で・〜ツツという情態の中心的 所有者,在り場所,これを受ける語と呼ぶと,これは〜ツツの実体と相補う関係にあるわけである.こ の両者,付く語と受ける語は,〜ツツの手がかりであり,きめ手でもある.ちょうど,隣人から情報を 得てある人格を判断したり,あるいは,ある集団の行動から,組織の中核の機能を解析するように.

 手はじめに,ツツの付く語をできるだけ小さくしぼって,分類してみると,つぎのような結果が得ら

れる.

  A 感覚・情念・表情に関する動詞

     恋ひ67恋乱れ1乱れ恋のみサしめt恋のみし、片恋ひし、妻恋し!長恋ひし、     74      偲ひ3さび1,思ひ24思ひわび1思ひいで1思はしめ1懸け4       35      歎き5泣き5音のみ(を)なき 5音にもなき1夜なきをし2むせびド心(のみ)むせ2      うらなけし1       22      惜・しみ       1     十ゑまひ       1   B 、思考・態度・学習に関する動詞

     祈り1讃ひ3いはひふし1をき2まひ1夕占とひ1待ち5       14      知り、知れ1よみ4数へ1なぞへ1      8      求め1国まぎ1たづね、      ・      3      見6・よそのみ見6背向に見5ふりさけ見1・かへりみ4かへらひみ・仰ぎてみ・

     見えiO 見せ3守り・人目をし、      102      ききg いひ6 語りにし1       16   C 生活・動作・遊戯に関する動詞

     折りかへし2解げ・ぬれ・くくりよせ2つぎ2あけ・貫き1刈り3折り・かづけ・

     焼き2消ち1かざしtかづらにし2掻かしめ2なで1わけ1       25     +あそび!      1      すまひ2寝1起き2起きる1むれる1 うき寝をし一      8      ゆき2来(まし・ゐ)5出でゐ1出で3おきいで1かど出をし1朝立ち1隠り1

     かよひiゆきかよひ1ありがよひ1       18      こぎ(たみ)4こぎ渡り・朝こぎし・かこのこゑし・かぢの音しt水脈びきし2     10      足ずりし1あへぎ、      2   D 行為一般

     (かく,いかに)し      6   E 交渉・対人行為の動詞

     つかえ1やり1       2   F 自然・存在に関する動詞

     咲き、散り。すぎ1      8      (月日)へ(に)10照り1ふけ6      17      消え,消に5燃え5焼けiぬれ8白波かへり1ほのかになり1      21

(7)

菅野  古代語助詞「つつ」の周辺 45

    降り(しきり)、重くもらひ、きりに立ち1       14     生ひ1 はり1 もい1 あれつがし1      4      あり       14 これらの分類は,「総合雑誌の用語」動詞の分類表をいくらか利用してこころみてみたまでで,現代語 と遠い古代語との断絶に由来する語謬を当然ふくみ,万葉語の不明による困惑もあり,いくらか恣意的 なところもあって,いろいろ反省の余地大いにあるが,概略のことが解ればいい,r思ふ」はBにある        ノべきもの,r解け」rぬれ」はF自然にあるべきものとかいったこと,自動・他動の分類のうまくおさま

らぬこと,すべて考慮の外におくことにする.とにかく分布の一面を,利用しさえずれば足りるのであ

る.

 〜ツツ形式の意味の様相において,まず明らかに知られることは,「ゑまひ」「あそび」のような快 適の方面の例がすこぶる少く,「恋ひ思ひ歎き祈り」系の暗鬱なる方面の例が圧倒的に多いということ である.前者を情念の陽性とし,後者を陰性とするならば,〜ツツは陰性により親縁性をもつ.

 そこで少数者の「ゑまひ」「あそび」について考えると,いずれも陰性の情念を地にしていることが

解る.

   一…さ並べる鷹はなけむと情には思ひほこりてゑまひつつわたる間に(4011)

ここの「ゑまふ」は,誇示,満悦であり羨望・危惧の反対である.対であるからこそ,誇示,自慢は失 望,落胆にうらがえされやすい.満悦の底にひそんでいた落胆のどん底に,鷹は放逸することによって 簡単につき落されてしまうのである.「ゑまふ」は「嘆く」と共存しているのである.

     わが宿の梅のしづ伎にあそびつつ驚なくも散らまく惜しみ(842)

「あそぶ」だけ,梅の花は散ってしまうので,「散らまく惜しみ」泣かざるを得ない.「あそぶ」と「な げく」も共存の関係にある.〜ツツが陰性的である傾向は,「ゑまふ」「あそぶ」によっても変更を必 要としないほどだと見られる.

 つぎに,「ゑまふ」「なげく」などを含めて,さらに,情念的には中性の「行く」「来」「見る」も 含めて,反復持続の,しかもその反復持続の時間的な流れの瞬間瞬間に一種の休止停滞を含む行為作用 の動詞がほとんどである.「くまも落ちず恩ひつつぞ来し」(26)「大舟のゆくらゆくらに思ひつつわ がぬる夜らを」(3274)などはいうまでもない.「むせび」「夜なきをし」「よみ」f数へ」「求め」

「たづね」「返し」「刈り」「潜け」「焼き」「消ち」「掻き」「なで」「寝」「起き」「ゆき来」「か よひ」「こぎ」「足ずりし」「あへぎ」「降り」「照り」「生ひ」「あれ」といったような形式ばかり である.特に,「足ずりし」「あへぎ」「むせび」r降り」といった典型において明らかであるが・時間 的な行為作用の合間合間の休止断絶停滞を見のがすことができない.一見これらと無関係に見える「見 る」の用例87についてみても,「背向に見」「ふりさけ見」「かへり見」「かへらひ見」「仰ぎて見」

「よそのみ見」が典型としてふくまれ,それらでない「見る」の場合もすべて・

     おの妻を人の里におきおほほしく見つつぞ来ぬるこの道の間(3571)

     みなとのすどり朝なぎに潟に漁りし潮みてば妻よびかはす羨しきに見つつすぎゆき(3993)

     巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつしのはな(54)

の用例におけるように,休止断絶停滞を含む行為である.しかも,〜ツツ分布の第一の性質であるいろ いろの情念,たとえば,愛着敬仰畏敬羨望不安危倶焦慮などとそれらは重なっている.また同様に,「見 えつつ」10例においても,うち8例は,「夢」「おもかげに」「かげに」を伴い,見まいとしても見 えてきたり,時に見えなくなり見えてくる恋人のとりとめない映像に対する表現である.見えなければ いいのに見えたりしてという意識の二つの相の断絶連続がそこにはある.・その他の例としては

     朝戸あけて物念ふ時に白露のおけ る秋萩見えつつもとな(1579)

     春日なる三笠の山に月の船出づ遊士の飲む杯にかげに見えつつ(1295)

であるが,r物念ふ時」とr白露のおける秋萩」とを対照して,露がおりて散るばかりの秋耕に・待つ

(8)

人の来なかった朝のおのれの姿が,見まいとして見えてくるというのであり,一種の断続感をかくすこ とができない.また後者でも,出る月のためらいが杯の酒にうつるのでありそのためらいに,「見える 意識」の停滞があると考えていい.

     いはだたみかしこき山と知りつつもわれは恋ふるかひとしからなくに(1331)

山に寄せられた恋人の貴人もおのれの恋の相手たりえぬとしりつつ,それを否定する,そういう歎きの 判断停滞の心情が根底にある.

     春の野にあさる雄子の妻恋ひにおのがあたりを人に知れつつ(1446)

恋情が声となり口をついて出て人に知られる,おろかなことだ,よせばいいのに,それを知られたりし て,といった,雉子に寄せた恋の歌である.知られなければいいのに知られたりしてという意識の交錯 を見のがしてはいけない.(ついでにいうが,受身には,現代語ではた迷惑の受身といわれるような情 念の伴うことを忘れてはいけない.)

 「いひつつ」の場合,5例が,あてにさせてことばをつくしいろいろつづりうまくいうという場合で あり,「はじめより長くいひつつたのめずば」(620)のように,情念を伴い,音声をつづりつづりして 行為の停滞を伴うものである.のこりの1例は,「語りにしつつ」と同様な場合である.

     永き世の語りにしつつ後の世のしのひにせむ(1801)

     天皇の遠き御代にもおし照る難波の国に天の下しらしめしきと今の世にたえずいひつつかけ      まくもあやにかしこし(4360)

語りにするこということ自体断続的なとつとつとした行為であるが,さらに「しのひにせむ」「かげま くもあやにかしこし」という懐旧の期待あるいは畏敬の心情と重なっていることをしりうる.「いふ」

と対の「きく」も,音声の断続をきくのであり,一定の持続的な態勢でないことは同様にあきらかであ

る.

     山近く家やをるべきさを鹿の声をききつついねがてぬかも(2146)

     やみの夜に鳴くなる鶴のよそのみにききつつかあらむあふとはなしに(592)

     葦辺ゆく鴨の羽音の音のみにききつつもとな恋ひ渡るかも(3090)

声の断続をきき,しかも羨望怨嗟の情念は・.それと交錯していること・いうまでもない.

    、あまさかる鄙に五年すまひつつ(880)

     荒たまの年の緒ながく住まひつつ(460)

の「すまふ」の場合も,時の刻み,とどこおりという作用の停滞がある.それは,「月日よみつつ」「年 月を数へつつ」という場合と全く同様である.すべていずれも、,時の経過の遅さや早さの意に満たぬと いう情念に関係する.

 「つかへ」「やり」の場合は,

     吉野川たゆることなくつかへっつ見む(4100)

     草枕旅にしばしばかくのみや君をやりつつあが恋ひをらむ(3936)

奉仕と畏敬の時の刻み,辛苦と光栄の情念の交錯あるいは無用の反復に対する後悔・孤独すべて例外で

はない.

 「生ひJ「張り」「萌い」「あれつがし」などの場合も,成長の年輪,四季進行の折節について考え れば,あるいは成長の形態の変化そのものについて考えれば,作用の持続の中の休止停滞はあきらかで

ある.

 以上,〜ツツの分布の中にあるもっとも特徴的なものとして.時間的な進行の休止停滞断絶躊躇とい う一面をあげることができる..

 以上のようなものに対して,時間に関係のない空間的な連続の中の個々の区切,間隔,並列に〜ツツ がまた関係すると見られる場合もある.

(9)

菅野  古・代語助詞「つつ」の周辺 47

     人ごとに折りかざしつつあそべども(828)

     梅の花折りかざしつつもろ人のあそぶ(843)

     国もせに生ひ立ち栄え春さればひこえもいつつほととぎす鳴く五月には(4111)

     草木すら春は生ひつつ秋はちりゆく(995)

これらに見える「人ごと」「もろ人」「国もせにJ「草木すら」という語句の中には,さまざまの同様 のものの数多くの存在が区切られ散在し,束にされて暗示され,時間的にいうというTよりは,むしろ空 間的な列挙の様相がある.「折りかざし」「もい」「生ひ」などの動詞自体は,時間の進行を伴うが,

しかしこれらの歌では,それよりもむしろ空間の方により比重がかかるといった場合であり,時間的要 素を捨象した方がむしろこの場合言語に忠実であろうと思われるのである・従って・〜ツツはおそら く,同様のものの区切・束・散在・個別化に関係し,ひいて並列・列挙・対照に関係するものではない かと考える.時間の休止停滞と空間の区分巌断とは,いずれも意識の断面における視点の停滞移動散在 を根底とするから,共に同一の概念であると考えていい.

     春日なる三笠の山に月の船出づみやびをの飲む杯にかげに見えつつ(1925)

     梅の花咲きたる園の青柳をかづらにしつつ遊びくらさな(825)

これらのさきにも引用した用例は,そういう意味で集団の一人一人をさすものかとも考えられる.一般 に,こういう〜ツツには,焦慮羨望などの情念がそうこくない.情念は,時間的な進行,停滞により多

く関連するものであろうと考えられる.

 とにかく方法論的に二つの〜ツツを挙げて考えて見たが,実際の用例では・これら第一の時間的休止 停滞の場合と,第二の空間的区分裁断散在の場合とが重層交錯している例の方が多数である.

     をとめらが玉裳すそびくこの庭に秋風吹きて花は散りつつ(4452)

     妹がりと馬に鞍おきい駒山うちこえ来れば黄葉散りつつ(2201)

     松の花花数にしもわが背子が思へらなくにもとな咲きつつ(3942)

「咲きつつJ「散りつつ」のイメージは,個女の松・花・黄葉のそれぞれ量的に散在するイメージを示 し,時間的な進行の停滞をそこに重ねてあらわし,そのことによって空虚・孤独・不安・哀惜などの情 念を発散している.それは,モトナという語がたとえなくともそうあるものである・

 以上〜ツツの前接語から停滞休止区分裁断散在,要するに視点の停滞の傾向およびそれに伴う情念を 抽象してみたが・〜ツツを受ける語,後続語からは何を得ることができるであろうか・

 すでに,〜ツツアリ系については所見をのべた.いまこれを含めて・論じて見たい・

 〜ツツ……において,同一の文脈で付く語〜と受ける語……の同一である場合はない.ただ両者には 深い関係がある.さきに後続語句の係りについては説いたのだが,便宜上,はしょって短く扱って見る と,「磯こぎ廻みっつ島づたひ」(3232)「朝立ちしつつむら鳥のむら立ち行く」(1785)「みを引きしつ つ御船さす」(4061)「みをびきしつつかぢひきのぼる」(4360)「禺でつつ来」(755)「生ひつつ散る」

(995)というような対さるいは同類の語がえらばれていることが多い.「こぎたみ」と「島づたひ」,

「みを引き し」と「かぢひきのぼる」とは,時間的進行の刻みにそれぞれ交替する事態の作用であり,

「出でつつ来らく」は,たびまねくなるその度ごと,「串づ」「来」一対の行為が行われているわけで ある.一方「朝立ちし」と「むらたちゆく」とは,一人一人と集団とに視点を移動し両者のイメージを 交錯させる趣がある.〜ツツは,「同時に平行して行われる事態をあらわす」というより,宣長風に,

同時的あるいは同所的に交錯する事態をあらわすといった方が,これらの場合はあてはまると思う.

 つぎに〜ツツの展開する文脈は〜ツツで一応とじられる文脈と共通点が多い.約400例について見 て,付く語受ける語との共通なものを除くと,共通でない新しいのは,130例ほどにすぎない.さき の表の前接語のほとんどの動詞は,また〜ツツを受ける語であるから,その他の例をひろうと,つぎの 如くである.

(10)

A 敬仰・羨望などの情念に関するもの    しかぞたふとき.かしこくもいます.かしこ    げどおもひたのみて.あやにかしこし.とも    しき.召したまはむ.しらしめさむ.

   ちはやぶる神をことむけ.神はふりはふりま    つるし など

(1)生活動作・対人行為などに関するもの

  くらす.あかす.育す.飼ふ.とりもつ.ひりふ   手にまく.衣に摺る.裳びきならす.行く.むら   立ちゆく。作る.+楽しきをふ、吾をな絶えそね   たのむ.ことどひす.つまどひしける.あふ   いひつぐ など

B 不安・困惑・悲哀などの情念に関するもの    すべなし.うつしけめやも.あやにかなし.

   ゆきあしかるらむ.いきづく.いゆきさぐく    む.たもとほる.うながす.くろかみしきて    床うちはらふ』いでがてにせし.吾をな絶え    そね など

(H)自然存在に関するもの   殿る.生けり など

C 労苦などの情念を伴なうもの

   作る.まかぢしじぬき.御船さす.かぢひき    のぼる.鵜河立たす など

D 快適の情念に関するもの

   十物念ひもなし.十悪ひのべ.十笑む.十う    たふ.

その他 〜ツツ止め,〜ツツモトナ,「アリツツ モ…一一・・」の係りの未決定のものなどあるが,

いまここで除外して考える.

これらの分類についてもA B C D の系列と(1)(H)の系列との相関を一一記述すべきだが,それは必 要もないことだし省略して,結論だけいうとさきの付く語の分布と全く同様であるということである.

陽性の「ゑむ」「楽しきをへめ」など+印の語句の少数を除いて,他は陰性の情念に関する語句が多 く,たとえ中性的であってもより多く陰・性の情念に関係している点,また動詞の行為作用の中に含まれ る時間的空間的停滞の要素の存在する点,驚くべき類似である.

 ただかわっている点といえば,むき出しの形容詞・形容詞相当語句が数多く見られるということであ る.表の中におさめなかった〜ツツモトナ形式は,これの極端な場合であろう.〜ツツモトナの用例は 左の通り.

     かくゆゑに見じといふものを楽浪の古き都を見せつつもとな(305)

     咲きぬともしらずしあらば黙もあらむこの秋萩を見せつつもとな(2293)

     咲きぬともしらずしあらば黙もあらむこの山吹を見せつつもとな(3976)

     朝戸あけてものもふ時に白露のおけ る秋萩見えつつもとな(1579)

     さ夜中に友呼ぶ千鳥物念ふとわび居る時に鳴きつつもとな(618)

     春さればつまをもとむ・とうぐひすの木末をつたひ鳴きつつもとな(1826)

     黙もあらむ時もなかなむ日ぐらしのもの念ふ時になきつつもとな(1964〉

     こほろぎのわが床のへになきつつもとなおきみつつ君に恋ふるにいねがてなくに(2310)

     心なき秋の月夜のものもふと寝のねらえぬにてりつつもとな(2293)

     今さらに君が手枕まきねめやわが紐の緒の解けつつもとな(2611)

山田孝雄氏は,〜ツツモトナはモトナ〜ツツの意であるのを,「歌調のために顛倒した」ものとされた が,「もとな見えつつあをねし泣くる」(3471)などと同じだとは…考えることができない.〜ツツがま えにもとあったrもとな」をうしろにしても,なおかつ前同様の資格で牽引しているとは考えに・くい.

〜ツツモトナは〜ツツによって展開されるものであり,モトナ〜ツツはさらにべつのもの「あをねし泣

(11)

菅野  古代語助詞「つつ」の周辺 49

くる」「かく恋ひば老いづくあが身けだしあへむかも」(4220)などをくりひろげるように見える.古代 語の慣用形式〜ツツモトナは,〜ツツの本質の最もよく現われたものと察せられるが,「「母等奈」考」

(山用孝雄)「主格の助詞と万葉集の「もとな」「さはだ」」(小林好日国語と国文学8巻11号)など に見ても大体のことが推定されるのみであるのが残念である.山田説の「モト」「ナ(シ)」,の方が小 林説の「シキリニ・ヒドク」よりもずっと〜ツツの停滞散在不統一と関係づけられそうである.とにか

く,〜ツツの意味は陰性の情念により多く傾いているのであって,このことは,進行よりは停滞に,全 体よりは個個の:部分に関する性質の当然の結果であり,分布であると思う.

IV  〜ツツトモシおよび〜ツツ止め

〜ツツの分布を見ることによって,〜ツツの意味はかなりあきらかになったと思、う.すなわち,反覆

・持続・同時というよりは,それらの作用の合間合間にある時間的停滞内至空間的視点の停滞こそ,〜

ツツの中核にあるものではないかという仮説である.もし,〜ツツのすべての用例において,例外なし にこの事実を認めうるならば,それは,仮説ではあり得ないであろう.そうなれば,停滞の発展展開 が,逆に反覆・持続・同時の様相をおびるということになるだろう.〜ツツの問題はこれで解決される のではないだろうか.

     耳梨の池しうらめしわぎ妹児が来つつ潜かば水は涸れなむ(3788)

という歌の場合,(来なければいいのに)やってきたりして水に入ったりしたならば,というように,

〜ツツの情念と停滞,そこにある種種の暗示性のとおりにこれをうけとるならば,この場合のツツは軽 いどころか重大なひびきをもつように考えられる.これは,反覆でもなければ持続でもない.同時に平 行する事柄でもない.要するに「くる」行為の停滞であり,それをイメージとする作者の視点の停滞に すぎないのである.これは単に例外的なものでもない.

 つぎに,〜ツツの分布から知りうることのひとつとして,〜ツツトモシという結合が存在していたと いう事実がある.

     武庫の浦をこぎみる小舟粟島を背向に見つつ乏しき小舟(358)

の場合の一例しかないが,「背向に見つつ」は集中の多くの例と同様に,後髪ひかれるような愛着の情 念をもととし,「かへり見」「かへらひ見」「ふりさけ見」などと同系のものであって,見る行為は著 しい停滞をともなうものなのだから,〜ツツにトモシがつづくのは当然なのである.〜ツツの分布の受 ける語の方に,多くの形容詞・形容詞相当の情態をあらわす語句が,多数あったことを考えるべきであ

り,また〜ツツモトナの多数の例をおもうべきである.

 モトナには,モトナ〜ツツと,〜ツツモトナの両方の形式が存在したが,トモシにも全く同様に両者 の形式があり,その構造は比例的である.たとえばつぎの例がある.

     いみづ河みなとの洲鳥朝なぎに潟にあさりし潮みてば妻よびかはすともしきに見つつすぎゆ

     き ・一 (3993)

     そこをしもあやにともし:みしのひつつあそふさかりを…(4006)

「見る」と「乏し」とは関係が深く,ここに素朴な抑制されない情念を感ずるが,万葉集中にはその結 合例がすこぶる…多い.「うづの玉かげ見ればともしも」(3229)「行く鶴のともしき見れば」(l175)

山見れば見のともしく河見れば見のさやけく」(4360)「吉野川音のさやけさ見るに乏しく」(1724)

「船人を見るがともしさ」(3658)「防人に行くはたがせととふ人を見るがともしさ」(4425)「見る ごとにあやにともしみ」(920)「今・だにも目なともしめそ」(2577)「鮎つると妹らを見らむ人のとも しさ」(863)まずはこのようである.

 はじめにかえれば,トモシの情のひきおこされる「粟島を背向に見つつ」は,遠く海上に旅立つ者に とって,粟島への愛惜の情はおさえがたく,一方これに反して小舟の人たちはいつまでも粟島を背向に

(12)

見たりして身近かにそこをこぎめぐるといった情を言外に暗示し,その中の「背向に見つつ」に焦点を しぼっているのである.現代語でいえば,ウシ・二見タリシテということなのである・そういう点最後 の例「妹らを見らむ人のともしさ」にもつともちかいといえよう.「背向に見ゆる」という連体形には 問題もあるようだが,「背向に見つつ」は,即物的な表現であり,舟人たちのこぎめぐり見る行為の停 滞であり,作者はそこにおのれの視点を停滞させてますます以て羨しくなるという状態なのである.作 中のあるものの見るさまについてトモシという例は(460)(4011)などがある.この表現は,古代的で あり,埴輪の人物たちの大きな目が彷彿とさせられる.

 第三に,〜ツツの分布から,〜ツツ止めの意味を知りうる.(〜ツツ止めを終助詞と見る亀井孝氏の 説(5)は賛成しない.国語のいいさし暗示の型の認識のためには,これを〜ツツの一面と扱った方がより 有効だからである,)

  (A)永くくる玉にまじれるいそ貝の片恋のみに年はへにつつ(2796)

     のちもあはむわにな恋ひそと妹はいへどこふる間に年はへにつつ(2847)

     さねかづらのちもあはむと夢のみをうけひわたりて年はへにつつ(2479)

     山菅の乱れ恋のみせしめつつあはぬ妹かも年はへにつつ(2474)*

     ひさかたの天てる月は神代にかいでかへるらむ年はへにつつ(1080)*

     かくのみや恋ひわたりなむ玉きはる命もしらぬ年をへにつつ(2374)*

  (B) うぐひすはいまはなかむと片待てばかすみたなびき月はへにつつ(4030)

     たらし姫御船泊てけむ松浦のうみ妹が待つべき月はへにつつ(3685)

     わたつみの沖つなはのり来る時と妹が待つらむ月はへにつつ(2663)

  (C)山のはにいさよふ月の出でむかとわが待つ君が夜はふけにつつ(1008)

     雨ごもり三笠の山を高みかも月のいで来ぬ夜はふけにつつ(980)*

     つぬさはふ石村もすぎず泊瀬山いっかもこえむ夜はふけにつつ(282)*

     海原の道遠みかも月よみのあかり少き夜はふけ につつ(1075)*

     山のはにいさよふ月をいっとかもわが待ちをらむ夜はふけにつつ(1084)*

  (D)わぎ妹児に恋ひつつ居れば春雨のそれも知るごとやまずふりつつ(1933)

     大坂をわがこえくれば二上に黄葉ながるしぐれふりつつ(2185)*

     あすよりは若菜つまむと.しめし野にきのふもけふも雪はふりつつ(1427)

     うちきらし雪はふりつつしかすがにわぎへの苑にうぐひすなくも(1441)△

     風交り雪はふりつつしかすがに霞たなびき春さりにけり(1836)△

     梅の花さき散りすぎぬしかすがに白雪庭にふりしきりつつ(1834)△

     うちなびく春さりくればしかすがに天雲きらふ雪はふりつつ(1832)

     山のまに雪はふりつつしかすがにこの打揚はもえにけるかも(1848)△

     三島野にかすみたなびきしかすがにきのふもけふも雪はふりつつ(4079)

     み園生の竹の林にうぐひすはしば鳴きにしを雪は降りつつ(4286)

     梅の花散らくはいづくしかすがにこのきの山に雪はふりつつ(823)△

  (E)はなはだも降らぬ雪ゆゑこちたくも天つみ空はくもらひにつつ(2322)

     あかねさす日ならべなくにわが恋は吉野の川の霧に立ちつつ(916)

  (F)夕占とふわが袖におく白露を君に見せむととれば消につつ(2686)

     ことふらば袖さへ顧れてとほるべく降りなむ雪の空に消につつ(2317)

     ぬば玉のわが黒髪にふりなづむ天の露霜取れば消につつ(皿6)

     梅の花降りおほふ雪をつつみもち君に見せむと取れば消につつ(1833)

  (G)ほととぎす鳴き・わたりぬとつぐれどもわれききつがず花はすぎつつ(4194)磐      をとめらが玉裳すそびくこの庭に秋風ふきて花はちりつつ(4452)

(13)

菅野  古代語動詞「つつ」の周辺 51

     雪見ればいまだ冬なりしかすがに春がすみ立ち梅はちりつつ(1862)△

     ほととぎす花橘の枝にみて鳴きとよもせば花はちりつつ(1950)

     妹がりと馬に鞍おきてい駒山うちこえ来れば紅葉ちりつつ(2201)

     松の花花数にしもわが背子が思へらなくにもとなさきつつ(3942)

  (H)春日なる三笠の山に月の船出づ遊士の飲む杯にかげに見えつつ(1295)*

     山吹の匂へる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ(2786)

     月に待ちて家には行かむわがさせるあから橘かげに見えつつ(4060)

     秋風にやまとへこゆる雁がねはいや遠ざかる雲がくりつつ(2128)*

  (1)春の野にあさるきぎしの妻恋ひにおのがあたりを人に知れつつ(1445)

     ひとよりは妹ぞもあしき恋もなくあらましものを思はしめつつ(3737)

  (J)ひさ方の天づたひ来る雪じものゆきかよひつついや常世まで(261)

統辞論的に,もしJを省略とするならば,〜ツツシカスガニ,〜ツツスクナクモアガノ松原キヨカラナ クニ,その他対照法の〜ツツ,それからこの〜ツツ止めすべて省略と考えねばならないだろう.そうい

う考え方も成立するであろう.しかし,・〜ツツの本質のあらわれとして,省略までもいかない特殊な中 止法があったと考えた方がより有効なのではないだろうか.また,ふつう*印は,倒置法といった扱い 方をするかもしれないが,その扱い方にも賛成しない.*印の〜ツツと,△印の〜ツツを比較すれば,

〜ツツには,論理的な関係よりは,匂いや響きの関係の方が顕著であって,〜ツツの前後関係は,空間 的な結果論的な配置とは異るものがあることをしるべきである.

     梅の花咲きちりすぎぬしかすがに白雪庭にふりしき・りつつ(1834)

     いまだ冬なりしかすがに春がすみ立ち梅はちりつつ(1862)

     風吹けば紅葉ちりつつすくなくもあがの松原清からなくに(2198)

というような特殊な形式では,〜ツツが,二つの景物の対照に深い関係を有し,(6)しかもその根底には

〜ツツのもつ停滞性(いわば否定的契機)を見のがすことができない.つまりツツの情念の方向性が,

関連する対照的な情念に展開していく過程が,〜ツツシカスガニ・〜ツツ…ナクニだといえる.これは

「〜くに」形式と全く軌を一にする.

     天ざかる鄙に月へぬしかれども結ひてし紐をときもあけなくに(3948)

     庭にふる雪はちへしくしかのみに恩ひて君をあが待たなくに(3960)

.その他数例を数えるが,全く比例する形式であって,〜クニも〜ツツも,前にあれば情念を展開し,後 にあれば,それを添加し相補するという関係であって,客観的な配置関係などでは決してない.情念そ のものの時間的性質にもとづく,添加展開などの重層性を認めねばならない.とにかく,倒置法などと いうのは,〜ツツに関してはいわれのないことであると思う.

 ところで,「つつ」止めば,単なる反覆持続であるだろうか.すでに詳説したように,どのように,

年月花黄葉などの景物を材料としても,それは,単なる観照ではない.時の刻みの進行停滞に重ねて焦 慮と失望を,雨雪の断続にたゆたう,春に対する怨嗟と歎息を,散るものに対する愛惜の情を,その他 無用・無意味に対する憎悪を,あるいはまた慶賀畏敬の念をかなりはげしく暗示している.えらばれた 景物・現象は,その代表にすぎない.たとえば,「雪じものゆきかよひつつ」は,畏敬する大君に対す る奉仕と慶賀の意であるし,「ぬば玉のわが黒髪にふりなづむ天の露霜」は,夜門に立ち外に出て待っ ても待っても来ないあなたに見せようのに,この露霜が手にとればかんたんにきえてしまったりして,

ということであってこれを省略といった空間的論理でとらえようとしたのでは,それは忠実ではない.

これはどこまでも,消エタリシテという語法自体の論理でとらえなければならないものだと思う.しい ていえば「言いさし」ということになろう.半終止といってもよい.

 ツツのもつ停滞性,不統一性それに由来する暗示性こそ,「つつ」止めの用法となり,並列法,対照 法となるのである,それは直接には,言語の意味として,ラングとして行為作用の時間的空間的停滞と

(14)

してあらわされ,さらには,言語主体の視点の移動・停滞としてもうかがわれるので,この両者にくいち がいが存在したりしてはいないのである.〜ツツアリも〜ツツモトナも〜ツツ止めも〜ツツ〜ツツも〜

ツツもすべてすべて,同一のツツのあらわれにすぎない.

 〜ツツ形式から,つく動詞の個別的な意味,つづく語句の意味など,対照法も,列挙法も,一切の文 脈を捨象すると,残るものは,停滞・散在・暗示の作用の意味しかないと思、う.もし現代語に,古代語

ツツにもっとも近いものを求めれば,夕り(シテ)がほぼ該当するのだと思う.〜テ・〜シには停滞性 散在性がないし,視点の移動がないのである.ツツをタリ(シテ)と口訳することを提唱したい.

V アリツツモの意味

 〜ツツの分布で残してあった問題,アリツツモは,どのように説明しうるであろうか.アリによく似 たヰルは「禺でみつつ」「おきるつつ」などの形であらわれる.「みる」より作用性のひくい「います」

になると,「見つついます」「すまひつついます」はあるが,「いましつつ」はない.「をり」の場合 も同様,ツツヲリはあるが,「をりつつ」はない.「ありつつ」が存在するのはどのような理由にもと づくものであろうか.「をり」「います」は存在性のつよい動詞ではあるが,この系統の形容動詞がな いことによってもあきらかなとおり,アリには形式的な,他の自立語の補助をうけるような,概念の輪 廓のすこぶるひろい漠としたものがあるという事実をあげねばならない.陳述という述語を好まない が,しいていえば,アリは陳述に関するのみであるところがある.「をり」「います」にツツと結合す

る因子がないとすれば,「をり」「います」に停滞・暗示の様相がなく,「あり」にはそれがあるとい うことでなければならない.アリヲリイマスの系列の中で,アリにのみつよい形式性無色性不完全性こ そ,ツツと結合する因子ではないか,こう考えるのは自然であろう.

     わくらばに人とはあるを(892)

     木高くて里はあれども(4209)

     うらめしく君はもあるか(4496)

     老にてあるわが身のうへ(897)

     いなみぬのあから柏の時はあれど君をあがもふ時はさねなし(4301)

     妹とありし時はあ;れどもわかれては衣手さむきものにぞありける(3591)

     おくれたる君はあれども玉ぼこの道ゆくわれは白雲のたなびく山をいはねふみこえへなりな      ば恋しげく日の長けむぞ(4006)

アリが単なる存在であるばかりでなく,その存在の価値にかかわり,望ましい方向と望ましくない方向 にゆれていて,そこに情念の方向性が認められる.これがアリの第一の特質である.

 アリの第二の特質は,その無色性不完全性である.無色なものは染まりやすい.

     近くあれば見ねどありしをいや遠く君がいまさば(610)

     こひせしむるはからくはありける(2584)

     かくのみにありける君(2964)

     よどむことなくありこせぬかも(119)

     酔泣きするにありぬべからし(343)

     よそのみ見つつありかねて(383)

     妹をば見ずぞあるべくありける(3739)

     散らずありこそ(845)

     潮まっとありける舟(3594)

     いや日けに恋のまさらばありかつましじ(2702)

     うち歎きしなえうらぶれしのひつつありくるはしに木の晩やみう月し立てば(4166)(7)

(15)

菅野  古代語助詞「つつ」の周辺 53

こういう用法があるわけであるから,アリの意味を二重の層で考えなければならないだろう.だとする と,アリは,実は存在詞というより状態詞といった方がぴったりするということになる・そこで・また アリの分布について考えよう.

 アリガヨフ・アリ待ツ・アリフル・アリ立ツ・アリワタルなどの一群のアリについて,万葉集講義で は,このアリは,「古代語に盛に行われた語法」で,「そのことのひき続きあるをいふ」語であると説明 され,沢潟氏の注釈では,「存在の意であり,従って継続の意ともなり,タツ・カヨフ・マツなどの動 詞に冠して常に絶えずなどの意をそえる」と説明される.この解釈にはそう大した破綻もないので,一 般に支持されているが,アリをかりに状態詞と考えた上述のたてまえからすれば,細部について異論が 生ずる.山田・沢潟氏などの説では,アリアリテ・アリツツモおよびアリ(ガヨヒ)・アリ(ガヨヒ)

ツツの差が説明できないことになるのである.この差は明瞭でなければならない,

 アリガヨフの用例は集中18,そのうち永続の時の限定をともなうもの16である.「よろづ代にあ りがよはむ」(3336)「ありがよひいや年のはに見つつしのはむ」(3992)などははっきりした例であ り,「ありがよひつつ見らめども人こそしらね松はしるらむ」(145)などは間接にうかがわれる例であ る.このほか,「神代より」といったものもあるが,これは,いずれにしろアリガヨヒの質と関係があ ると見ていい.長短にかかわらず一定の状態に変らずあるというのはアリの本質であって,「いや年の はに」などは,その極限の状態むしろ単に望ましい状態にすぎない.アりとは存在というより一定の状 態の時間の幅にすぎないのである.この点ツグ,ツヅクとはべつに考えるべきであり,継続だとはしが たいところがある.アリの本質と現象を混同してはいけないと思う.

 またアリには,その情念の安定性による習慣の意味もあると思う・

     はしきかも皇子の命のありがよひ見しし活道の道は荒れにけり(479)

の例は,生前皇子のきまってお通いになったといった意がうかがわれ・布勢の海を楽しんだ家持が・

     かくしこそいや年のはに春花のしげき盛りに秋の葉のもみづる時にありがよひ見つつしのは      め…(4187)

と歌っているのも,続けてというより年々き・まって,春秋いつもきまってという意味あいがこい・しか しそれよりも,重要なことはやはりアリガヨフのアリに,例の情念の重層性を理解せねばならぬのでは ないかということである,なぜなら,アリがヨフの内容は,風景の賞美14(大王6皇子2このうち有間の 皇子のも風景の賞美とかりに考える,家持。その他、),「ますらを」の奉仕2(「遠の御門とありがよふ 島門」304「ありがよひっかへまつらむ」3907)という結果になっているからである・一定の一種のア

リガヨフ状態は,この場合大君や皇子たちの寿をことほぐ気持がつよく・べつのことばでいえばツツミ ナク・サキクアリという感じだと思う,勿論変らずアルわけでもあり,き まってそうであったわけでも あるが,それら全体の重なりと考えられるのである・残りの2例は・

     一日には千度思へどありがよふ人目を多みこひつつぞをる(3104)

     あめつちの初の時ゆ天の河いむかひをりて一年に二度あはぬ妻ごひに物念ふ人天の河安の河      原のありがよふ出出の渡りに.(2089)

である.これは恋愛をアリがヨフの内容としているかにも見えようが,しかしここは,さき の奉仕のた めにしげく続げて「アリガヨフ島門」という修飾構造と同じだと考えるのが当然で,直接恋愛には関係 なしの往来のありさまと見られる.それはいつもきまって変らずしげく往き通うところであって,相逢

うためにはどうも望ましくない,ならばない方がいいといった語感がうけとられる.小数ではあるが,

アリガヨフという簡単な語にも情念の二極性があるように考えられるのである.

 このほかアリの様相を示す例としては・

     ありありて後もあはむと言のみを固くいひつつ(3113)

     ありさりて後もあはむと、曽、へこそ・(3933)

     春風の音にし出なばありさりて…(790)

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