国家間の関係には変動がある。日米関係においても、1952年に日本が独立を回復 して以来、問題が少ない静かな時期もあれば、利害が対立して関係が緊張したとき もあった。この約
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年間のパターンを総括すれば、経済貿易問題で関係が悪化する のを、防衛安全保障の分野における緊密な関係がカバーするというものであった。日本市場の閉鎖性と対日貿易赤字の急増、東芝機械事件、日本企業による米国不動 産の買い占め等により、米国政府および国民の対日感情が悪化した例は少なくない。
そして、いずれの場合も、防衛安保分野における信頼関係が両国間関係全体の悪化 を防いできたと言える。
最近、従来のこのパターンが壊れてしまったように思える。現在、経済面での日 米間の懸案は少なく(BSE問題くらいである)、核軍縮、温室効果ガス等の分野では協 力関係が深まっているのに、普天間基地問題をめぐって日米関係がギクシャクし、
米国に対日不信感が生まれている。民主党政権の誕生は、長く続いていた日本の閉 塞感を打ち破るものであったし、外交面においても、日米関係を日本外交の基軸に 据えるという基本姿勢を踏襲して堅実なスタートが切られた。それだけに普天間基 地をめぐる関係者の発言のブレなどによって米国の信頼を失ってしまったのは誠に 残念である。
普天間問題に関するいわゆる迷走の原因として、いろいろな説明が行なわれてい るが、私としては、次の
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点を挙げたい。すなわち官僚の知識経験を十分活用せずに物事を進めようとしたことと、安保問 題の専門的知識を有していない人たちの意見を重視したように思えることである。
一部の省庁では、政権初期の段階では、いわゆる政務三役が官僚を入れずに協議 し、決定事項のみを官僚に連絡するということがあったらしい。いかに優秀な人材 でも、十分な知識経験なくしてそれぞれ複雑な内容と経緯をもつ事項について正し い判断を下すことは不可能である。普天間問題でも、外務省と防衛省の事務当局の 意見をもっと尊重すべきであったと思う。手続き的な面においても、防衛省には基 地問題に関して首長を含む地元関係者との話し合いについて、半世紀にわたって蓄 積されてきたノウハウがあるのに、鳩山内閣はこれを利用せず、関係者が具体的な
国際問題 No. 594(2010年9月)●
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◎ 巻 頭 エ ッ セ イ ◎
Saito Kunihiko
地名に次々と言及し、メディアを通じて自分たちの地域の名を初めて聞いた人たち を怒らせてしまった。
第
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に、助言者の選択にもっと慎重であるべきであった。私は、防衛問題で鳩山 政権にアドヴァイスしていると言われる人たちの発言をテレビの座談会で聞いて愕 然としたことがある。その趣旨は、「冷戦が終わって20年経つのに日米同盟関係の 見直しは行なわれていない。これは十分に時間をかけて行なうべきであり、普天間 問題はその一環として扱われるべきもので、急ぐ必要はない」というものであった。日米同盟関係を常に見直していく必要があることは当然であるが、普天間問題はこ れとはまったく別個の問題である。住宅密集地の真ん中に巨大な基地が存在し、周 辺住民の生活が多大の被害を受けており、重大な事故が起こる懼れもあるので、一 日も早くこの基地を移転させなければならず、またそれを沖縄全体の負担軽減の重 要な第一歩とするというのが、その本質である。
返還の基本合意から具体的計画ができるまで時間がかかったのは残念であったが、
これも、米軍の抑止力を大きく害することなく、地元の受け入れも確保でき、そし て全体として沖縄の負担軽減につながるという解を見出すのが極めて困難だったか らである。やっと見つかった日米間の合意の実施を「急がないでよい」と言うのは、
いかなる根拠に基づく発言なのだろうか。もちろん首相たる者は政府部外の有識者 の意見を聞こうとすることは当然である。しかし、試行錯誤が許されない外交安保 の分野では、その人選に特に慎重でなければならない。日米安保関係の専門家であ り、米国政府の中枢に広い人脈をもつ、たとえば岡本行夫氏のような人物の意見を 尊重することが望まれる。
この1年足らずの間に、米国の日本に対する信頼が大きく損なわれたのみならず、
他の諸国においても日本の評価は相当下がってしまったようである。6月
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日付『エ コノミスト』誌の日本に対する罵詈雑言には心が寒くなる。幸い菅内閣の外交政策は、現実的、実用的であるように思われる。菅内閣が失わ れかけた日本の信用を回復して、もう一度日米同盟関係を万全な基礎の上に戻すこ とを切望する。そのためには、まず5月
28日の日米共同文書に基づいて、
「いかなる 場合でも」8月末までに辺野古の滑走路の具体的位置と工法を米側との間で合意しな ければならない。それと同時に、首長を含む沖縄県民と話し合いを重ね、現行案の 実施が全体としては沖縄県の負担軽減につながることを説得する努力を続けなけれ ばならない。失敗の代償は、普天間基地の固定化という誰も望まない事態である。なお、一部で気楽に使われている「冷戦が終わった」という表現は誤解を生みや すい。確かにいわゆる冷戦構造は
1990
年前後に崩壊したが、日本周辺では依然とし て「異なる体制の国家からの脅威」が存在している。ミサイルを開発し、核実験を 成功させた北朝鮮からの脅威は1990
年当時よりはるかに増大している。また、最近◎巻頭エッセイ◎50年目の危機
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の中国艦隊の外洋進出も懸念される。フィリピンからの米軍基地撤退後の行動にみ られるように、中国は力の隙間が生じるとそれを埋めようとする性癖があるように みえる。自衛隊と米軍の総合力としての抑止力が低下したと判断すれば、中国は尖 閣列島に対する領有権の主張を具体的行動で裏づけしようとするかもしれない。日 本が沖ノ鳥島周辺の経済水域の海底資源の開発に着手したとき、これを実力で阻止 しようとするかもしれない。このような可能性が高いとは言い切れないとしても、
外交安保の世界においては、最悪の事態を想定し、それに対処できるようにしてお くのが政府の義務である。アラーミスト的な言い方をすれば、外交安保問題で試行 錯誤して錯誤に気がついたときは、すでに国は滅びているかもしれないのである。
これは巻頭エッセイなのに、エッセイというよりは檄文のようなものになってし まった。鳩山首相辞任と菅内閣発足という新事態が生じたためである。
私は長年外務省に在職し、折に触れて日米安保条約との関わり合いをもった。条 約局長のとき(1987―
89年)
は、予算委員会や外務委員会で連日のように答弁を行 なった。質問の半分以上が日米安保条約とその関連取極に関するものであった。「事 前協議の発議権は日本にもあるか」というような神学論争的なものも少なくなかっ たが、今にして思えばこれらの質疑が政府による安保条約の恣意的運用に歯止めを かけるという役割を果たしていたのであろう。今年の3
月、私は衆議院外務委員会 から参考人として招致され、いわゆる密約問題に関して証言と答弁を行なった。21 年ぶりの国会答弁であったが、外務委員会の部屋は当時とまったく変わっておらず、大変懐かしい思いをした。また、当時も私は決して国会答弁が嫌いではなく、時に 勇気凛々、張り切って答弁していたことを思い出した。
普天間基地返還問題が初めて話し合われた
1996
年2
月の日米首脳会談には、当時 の駐米大使として同席した。故橋本龍太郎総理は、かねてより沖縄の基地問題に深 い関心をもち、総理就任後、専門家と十分に協議しつつ周到な準備を重ねたうえで クリントン大統領に返還要求をされたと承知している。一国の指導者のひとつの姿 がそこにあったと思う。日本は日清戦争以来
50年間以上、のべつ幕なしに戦争をしてきたが、日米安保条
約(旧条約)が調印されて以来、約60
年にわたって戦争がない。隣の国がミサイル を日本の領土を横断して飛ばしても、核兵器を保有して脅迫的言辞を弄しても、日 本国民がパニックに陥ることはなかった。古今東西数多くの軍事同盟が結ばれたが、客観的にみて日米安保条約はうまくいっているほうであろう。その基本的枠組みを 変えることを検討すべき時期はいまだ到来していない。 (8月10日脱稿)
◎巻頭エッセイ◎50年目の危機
国際問題 No. 594(2010年9月)●
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さいとう・くにひこ 元駐米大使/民間外交推進協会顧問