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新任教員紹介
研究対象が実家にもあった!
─学問を通じて自分を見つめ直すということ─
国際日本学部 歴史民俗学科 角南 聡一郎大学の学部と大学院で考古学を専攻した筆者は、大学で学んだことを活かした分野での就職を希望していた。博士後期課程在籍時の1999年、幸運にも元興寺文化財研究所に研究生という肩書で就職することができた。職場でまず命じられた業務は、香川県善通寺市での発掘調査の担当であった。このため、約半年間現地に滞在した。発掘調査は雨天時中止となる。当日は現場の管理が主な業務である。しかしながら、現場が稼働している日よりも時間的に余裕ができる。その時間を活用し、筆者は香川県下の博物館や遺跡を見学していた。修士論文で弥生時代から古墳時代の土器を取り扱ったこともあり、現地でタコツボやホウロクといった現在も生産されている素焼土器に興味を持った。御厩焼(高松市御厩)、岡本焼(三豊市岡本)といった窯場を訪れ、職人の方に何度か話をうかがった。そこで出会ったのが陶製の祠、瓦質祠である。瓦質祠は粘土板を型に入れ成形し、焼成したものである。「瓦質」の名はいぶし瓦同様に、表面にいぶしもしくは燻化がなされていることに由来する。焼成時に窯内で発生した炭化水素が熱により分解され、炭素のみが付着することで炭素膜を形成する。これが燻化だ。御厩では現在も瓦質祠を製作しているということで、祠を製作する際の型を見せていただいたりもした。その気になってよく見てみると、香川県下の各所に瓦質祠が祀られていることに気付いた。祠には石製や木製のものがあることは知っていたが、陶製の祠があることは全く認識していなかった。文献を調べてみると、香川県だけでなく徳島県、愛媛県、高知県でも瓦質祠が存在し、神仏を祀っていることがわかった。ただこれらは瓦質祠そのも のの調査ではなく、祀られている神仏について調査報告したものであり、写真図版で瓦質祠を確認できるという程度の情報でしかなかった。現在はインターネットのブログやTitterに瓦質祠の画像が掲載され紹介されることがあるが、当時はそのような術もなく、口コミによる情報を頼りにするしかなかった。そこで機会を見つけてはあちこちを歩いた。その結果、さまざまなことがわかってきた。瓦質祠はこれまでほとんど看過されていた研究対象ではないかと思い始めた。どんな分野にも先人先学はいるものである。既に瓦質祠に注目し、調査をおこなっている考古学者が存在することを知った。それは岩井顕彦氏(現たつの市教育委員会歴史文化財課)である。彼は地元の兵庫県播磨地方を中心に成果を著し始めていた(岩井顕彦
2004「第一二章
第四節 町内の瓦製
祠」揖保川町史編纂専門委員会編『揖保川町史』
ばれる地主神を祀ってあった。母屋の北西に しである。慌てて確認するとわが家の裏庭には、当地で「ジヌッサン」と呼 の母はわが家にもあるのにお前は何をいっているのかと言われた。灯台下暗 四国には瓦質祠という変わったものがあるのだと家族に話した。すると筆者 ある時、実家(岡山県久米郡美咲町飯岡)に帰省し仕事の話をする中で、 誰も取り上げていない資料を、最初に観察することのワクワク感を楽しんだ。 のまねごとを始めた。することこれが実に面白いことに気づいた。これまで これには大いに刺激を受けた。筆者は彼に手ほどきをしてもらい、民俗調査 pp.791-7992揖保川町)。
1点、それよりさらに北に
1点
の計
2点である(写真
たり、祠の前に榊か松枝を供えるという。母は角南家に嫁に来たので詳しく 1)。母の話によれば、毎年年末に新年を迎えるにあ
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はわからないが、筆者の祖母から祀り方を聞き、引き継いでおこなっているのだという。そこで実家の集落をじっくりと歩いてみた。思えばこれまで地元の集落を歩いたことはなかった。するとほとんどの家の庭には瓦質祠があり、地主神を祀っていることがわかった。また、自宅の前の水田の隅にあり、いつもなんとなく眺めていたはずの瓦質祠には、裏面に銘文が刻まれていることを確認した。銘は「明治卅四年/十月一日/天神」とある(写真
に明治 2)。驚くこと
部から三重県の伊賀盆地 かけて、一同で奈良県北東 氏と大学院の後輩に声を である。そこで筆者は岩井 質祠を見かけたというの 歩いた際に、山中などで瓦 で奈良県北東部の周辺を 情報であった。石造物調査 それは職場の上司からの 質祠があることを知った。 住んでいた奈良県にも瓦 いたのだが、なんと筆者が 実家にあったことで驚 とを認識した。 民俗資料であるというこ 触れ瓦質祠は立派な歴史 ともわかる。実際の資料に が祀られているというこ とわかった。祠には「天神」 年前に製作された瓦質祠 の紀年銘を有する、120 34年(1901)年 川義明・藤野洋平 北部や京都府南部に多数の瓦質祠が祀られていることを明らかにした(長谷 ができた。大学院の後輩たちはその後も奈良県下などで調査を続け、奈良県 へと瓦質祠探訪の旅に出かけた。その結果、数多くの瓦質祠を発見すること
の調査」『奈良大学大学院研究年報』 2007「奈良県北部・京都府南部における瓦祠・瓦燈
2006『ヤマ・サト・マチの民間信仰─具体化された民衆の心─』 瓦質祠についても展示することができたことは幸いであった(角南聡一郎編 その後、元興寺で毎年秋に開催される特別展の担当を務めることとなり、 12pp.131-160)。
元興寺)
。このことを契機に、瓦質祠の情報も寄せられてくるようになり、瓦質祠は中世に製作されはじめ現在に至っていることもわかった。香川県で瓦質祠と偶然出会い興味を持ったのだが、それは自分の故郷でも当たり前のように使用されたていた。さらに当時の住まい近辺にもそれらは存在し、紀年銘が刻まれるなど立派な歴史民俗資料であることを知った。研究対象は自らの卑近な場所にもあったわけである。当たり前すぎて見過ごしていることがかなりあることを猛省した。現在はこれを教訓に、なんでもないコト・モノにも細心の注意を払うよう心掛けている。皆さんも研究をはじめる前に、自分の身近な場所を見つめなおすことから、はじめてみてはいかがだろうか。
写真1 角南家の瓦質祠(筆者撮影)
写真2 紀年銘のある瓦質祠(筆者撮影)