• Tidak ada hasil yang ditemukan

宇 津 木 品

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2024

Membagikan "宇 津 木 品"

Copied!
6
0
0

Teks penuh

(1)

宇 津 木 品

今回は3月比日のシンポジウムで発表させていただいた内窓を振り返りながら、当日配 布したレジュメに沿って記述していきたい。

1 . 2.の経歴

私がロシアの魅力に取りつかれ始めたのは中学生のころで、あったろうか。ただ、それから 大学生までは、漠然と「旅行したいJと考えながらそれを実行に移すことだけを考えていた ように思える。大学の法学部を卒業し一般企業に就職した後は、たまに旅行で訪れるロシア の表面的な部分を垣間見ては満足していたに過ぎなかった。しかし、この旅行中に海外の日 本語教育の現場で活動する日本人教師に出会ったことで、私の中の何かが変わり始めた。異 郷の地で単独で活動する教部の姿は、「大変さjよりも「楽しさJを大いに感じざせてくれ たからである。「きっと、ひとりではない、どこかで日本とつながり、外関入学習者と共に 日本語を学ぶ楽しさを実感できているからだろうかJと当時は漠然と思っていた。

月日は過ぎ、ひょんなきっかけから日本語教師養成講座を参観する機会があり、企業で働 く傍ら日本語教青の勉強を始めた結果、地元のボランティア日本語教烹での教授活動や、県 の国際交流協会に関係するボランティアグループのお手伍いなどにのめり込むだけでなく、

ウズベキスタンにあるボランティア日本語学校のお手缶いにも参加した。

こうして日本語教育の世界に入っていったのだが、肝心なロシアとの関係は進展が無かっ た。しかし、 2004年に日露青年交流センターの日本語教師派遣事業でノヴォシピルスクに 派遣されたことから劇的に変化が始まる。

結局、 2004年9月から2007年6月にかけての約3年間、ノヴ、オシピ、ルスク国立工科大学、

シベリア国際関係大学、その他文化交流施設での非常勤講師、{閤人教授などを展開し、様々 な貴叢な体験をさせてもらった。ロシア、というよりもノヴォシピルスクでの経験や直面し た問題点、{間人的な日本語教授能力の更なる拡大を求めて、現在は早稲田大学大学院日本語 教脊研究科で、海外に赴任する日本人告本語教師の役割をテーマに研究を行っている。

2.ノヴォシピルスクの謂襲

シベリアという地域は、日本人にとって空白の地域と言えるのではないだろうか。戦後の シベリア抑留という暗いイメージやパイカル協に象徴されるような豊かな自然環境、原油や 石炭、ダイヤモンド、木材といった翠かな資源、こんな漠然としたところではないだろうか。

私が赴任したノヴォシピルスク市はロシアのほぼ、中央から若干南に位置し、人口は140万 人以上を数えるロシア第3の大都市である。また、市の高部CoBeTCKH詰 paifOHにアカデムガ

(2)

海外の日本語教膏現場で活動する日本人教師が伝えるもの(宇津木)

ラドクという科学研究都市がある関係で、科学技術・研究の街というイメージが強い。

この学術研究都市は筑波学園都市を建設する際のモデルとなった場所でもあるのでご存知 の方も多いだろう。さらに、ソ連時代から食肉コンビナート、チョコレートコンビナートが あり、全ロシアに向けて供給している。モスクワ人はノヴォシピルスクに対して「大きい田 J

r

科学者の街」という相反する印象を語るのはそのせいかもしれない。

さて、野心の日本語教育についてだが、ノヴォシピルスクでは第二次世界大戦後、旧満州 から引き揚げたロシア人女性がノヴォシピルスク国立大学で日本語・中国語教育の創設に尽 力した。彼女は幼少期を「国民学校」において日本語で教育を受け、日本語に精通していた だけでなく日本との関係も維持していたこともあり、日本語母語話者のいない環境において も日本語の学習環境を整備することが可能で、あったと思われる。

私が赴任していた時期には8つの高等教育機関(大学、またはそれに準ずる教育機関〕と いくつかの初等・中等教育機関において、公的な日本語教育が実施されていた。主な機関は「ノ ヴォシピルスク国立大学j「ノヴォシピルスク国立工科大学j「ノヴォシピルスク国立教育大 学」「シベリア国立交通大学j、私立では「シベリア圏擦関係大学」などが挙げられ、毎年優 秀な日本語学習者老輩出している。この他にも、個人授業や市立の文化センターなどで年少 者や社会人も学習しており、正確な調査に基づいた数値ではないが、日本語学習人口は推定 で1000人以上と見られる。

また、日本語能力試験(前団法人 日本国際教育支掻協会(毘内)、独立行政法入 国際 交流基金(海外))も2006年から実施され、詳細は把接していないが200 300人が受験し ているようである。

授業の形式についてだが、主にロシア人教師が媒介語で、あるロシア語を用いて指導する形 で進められている。ロシア人日本語教師のほとんどは老舗の「ノヴォシピルスク国立大学」か、

その後設立された「ノヴォシピルスク国立教育大学jの出身者が占めているが、今後、様々 な教育機関で司本語在学んだ学習者が教部になる可能性もあるだろう。

残念ながら日本人教師数は一定ではなく、私の滞在時期には私自身を含めてう人前後、現 時点では3人に減少してしまった。しかし、日本側の公的機関から日本人教師在派遣するプ ログラムは、細々ながらも確実に継続されている。現状の景気悪化の情勢下では、日本人教 師派遣継続を死守することが重要課題だと言えよう。

ところで、ノヴォシピルスクではなぜこうも活発に百本語教育が行われているのだろうか。

日本人日本語教師同様、市内に滞在する日本人もそれほど多くはない。教師の他には「事 業経営者JIバレリーナ」「バレー学校留学生」「語学留学生」など、総勢で20名程度に過ぎない。

日本企業はヲ0年代後半に撤退しており、現在は代理由があるのみである。しかし、札幌市 との姉妹都市提携が1990年に締結されており、現在も交流事業が続けられている。また、

臼本政府による国費留学制度に応募する方、臨際交流基金の研修プログラムに応募する方、

私費で日本圏内の大学や日本語学校に留学する方も多く、日本語在学習する大学生、ロシア 人司本語教師、社会人など様々な背景を持った自本語関係者が日々挑戦している。近年堅調 だった中古車ビジネスは、景気悪化やロシアの保護主義政策による輪入自動車への関税引き 上げなどの影響で低迷しているようだが、自動車を解体して部品として輸入するなどまだま だしぶとさを見せ、ここでも日本語の需要は存在する。

23 

(3)

このような実利的な日本語需要とは別に、「アニメ」ワポップス」「タケシキタノ」「合気 道j「囲碁J といったキーワードで日本語学習を始めた学習者が多いことにも注自すべきで あろう。私の赴任していた大学には数多くのアニメファンやコスプレマニアが存在していた し、文化祭ではjポップスを熱唱する学生グループもいた。また、私自身も個人レッスンで 合気道の先生に日本語会話を指導していたこともある。

ノヴォシゼルスクのような環境では「札幌との交流j「日本への渡航J「ピジネスJ「現代文化J などが日本語学留の動機として挙げられるが、それとともに「個人の教養としての外国語教 育」も社会人を中心に日本語の学習動機として多く挙げられている。

3.日本語教育活動とそこで伝えるもの

ここでは、日本国内における日本語教脊と海外における日本語教育の違いに触れ、海外の 現場で日本語教育に従事する日本人教師の活動を、私のノヴォシピルスクでの経験を併にし て述べたい。

( 1 )日本国内と海外の双方における自本語教育の相違(「生活日本語Jと「教養器本語J) 日本語教育の自的やニーズが、場所によってどのように異なるのかを考えてみたい。私は 国内の日本語学校でも勤務した経験があるが、その場合、日本語教膏の毘的は大学@専門学 校への進学とそれに伴う日本での生活(アルバイト、賃黛などの諮契約)にかかわる日本語 能力の育成が中心であった。これは f生活日本語」と言えよう。

一方、海外の現場では、環境が様々(日本企業が多く進出している、日系移民の方々が多 く窟住している、逆lこ司本との交流があまり活発にみられない、等々)なため、一揺りにし うことは難しい。しかし、「企業で、は英語が主流(むしろ、日本語に精通していると知 られたくない情報までわかってしまうので踊るという考え方すら存在する)」、「日常生活で は現地語で対応し、日本語は家族や世代を結ぶ「継承認j としての存在である」、「日本語を 実際に使う場面は無いが、学習者と日本との接点として日本語が必要であるjと考えると、

これは「教養日本語」と言えるのではないだろうか。

(2)海外の現場における「詔本文化Jと「日本語J

(器本人数錦である私と口シア人教師@学習者の認識)

そうした海外の現場において、告本人教師が活動していく場合、教師自身が持つ「日本文 化観j「日本語観」というものが、教背活動に大きな影響を与えると考えている。教師それ ぞれで「文化観」「言語観Jというものは異なるが、 f私は、文化に対して、言語に対して、

こんな経験や根拠があるのだ」という考え方を発信しながら活動を組み立てていく必要性在 感じている。

そうでなければ、授業や課外活動で、侍をやっていいのかわからず、ただ単純に「日本文化

=怯統文化紹介Jf若者文化口アニメjといった、既にメディアによって形成されているス テレオタイフ。を助長する活動に陥ってしまう恐れがある。日本人教師がわざわざ不慣れな土 地にきて活動しているのに、ステレオタイプを補強する存在に過ぎなくなるのはあまりにも 残念ではないだろうか。

(4)

海外の日本語教膏現場で活動する日本人教師が伝えるもの(宇津木)

現地に日本語教育が存在しているということは、そこには何らかの f日本文化観J「自本 語観」というものが既に存在しているのではないだろうか。そう考えると、赴任した土地、

向僚であるロシア人教師、学習者たちの「日本文化観」「日本語観jを受信し、それと同時 に自本人教師である自分の「日本文化観jf自本語観jを発信していくべきである。しかし、

そうした発信行為は現地の観点在破壊するのではなく、既存の視点に加え、日本人教師が来 ることで加の視点も存在することを現地の教師や学習者が気付くきっかけとなることを呂的 としなければならないだろう。

(3)実擦の活動

(前掲の認識の下で私は何を低えたのか、その轄の日本語とは道具なのか、文化の…部なのか)

今まで理念的な事柄ばかり述べてきたので、ここでは実際にどのような活動を行ったのか、

について「会話クラブ」を例に欝単に触れてみたい。

「会話クラブ」という課外活動はノヴォシピルスク国立工科大学で実施した。既に市立文 化センターでは、同じ名称で有債の講座を立ち上げていたが、こちらはテーマ老教師が設定 し、参加者は子供から大人までの主に初級レベルの学習者がおしゃべりやゲームでネイティ ブと自本語でコミュニケーションを図ることが目的で、あった。しかし工科大学の場合は、中 上級レベル(主に4年生以上)在中心に、参加者が日頃疑問に思っていること、他の参加者 に{云えたいことを参加者自身がテーマを決めたうえで「日本語jで吐き出し、それについて 告由に議論し合う場とした。決して難しい言葉を用いるのではなく、単純な語藁(辞書を調 べながらでもよい)、単文の羅列でも思いが伝わることを実感できたのではないだろうか。

こうした活動を重ねるにつれ、「次に話すときにもっと効率よく伝えるにはどうすれば良い のか(語最を増やす、複雑な文章者構成する)」ということに学習者自身が気づき、自身が 努力する習墳が自然と身に付き、教師は単にアドバイスする存在に変化してくる。

例えば「臼本食」がテーマで、あっても、単なるレシピ紹介で終わるのではなく、「どんな 背景で生み出されたのかj「時代背景や地域事情がどのように影響しあっているのか」「ロシ アと比較してどんなことが見えてくるかJLこまで発展させて、それぞれの自由な意見を述べ る。そうすることによって、今までの認識を認めつつも、教師や学習者の新たな認識を披露 することで、「日本食」にもいろいろな視点があることに気付き、そして自身の既存の視点 に何らかの影響を与えていく。この過程で必要な語葉、表現、文法、そして理論の構成など の見謹しも、教師の助けは借りながらも学習者自身で行われていくのである。

このような形で、他にも「受験J「天皇制J「方言」などがテーマに挙がり、活発な議論を 麗隠させられた。

こうした活動を通じて、自本人教師である私もー参加者として加わり、学習者とともに「日 本jを様々な視点で見られる場を提供できたと考えている。その際に「自本語」は参加者そ れぞれの思いを伝える遵異であり、そして「日本jを語り新しい概念を形成するという、い わば文化構築の一部としての存在になったのではないだろうか。

4.課題(自己の活動を皮省して)

最後に、今まで見てきた自分の活動経験を振り返り、今後どのような意識を持って日本人

25 

(5)

教師は活動していったらいいのかについて私の考えを述べてみたい。

( 1)日本人教師が持つべき間態意識

(「文化Jとは偲か「詰本語」とは向か「日本人Jとは何か、臼本人教師が教壇に立つ際に、常に 考え続けていくべきこと)

海外で活動する場合、日本人教師がこなさなければならない業務や役割は、圏内と比べれ ばあまり多くないかもしれない。しかし、今までと異なる習慣や環境下で活動することは、

内で活動する場合には無い新たな負荷となる。そのような中に飛び込んで、まず「なぜ、

私はここにいるのかjを考える必要があるのではないだろうか。

私自身を振り退ってみても、生活に追われてま受業数は増えるものの、自身の立ち位置につ いて深く考えることは少なかった。考えることで「私はここで侍をするのかJ「日本人教師 として何ができるのか」「持が開{宗教師や学資者たちに伝えられるのか」という開題意識が 芽生える。

その際に「日本文化とは向かJI日本人とは拘かJ「日本語とは向か」という、自分なりの 意見を持つことで、同僚教師や学習者に対して「日本人教師jの存在意義を発信できるのだ

と思う。しかし、私自身はそこまで、やっていたと じていたのではないだろうか。

(2)文北捻多壌であること

ず、その場その場で発言にブレが生

(日本人数締が日本、そして口シアをステレオタイプ的な握点、で提えたまま活動していなし、か)

日本人教師は自身が{云えようとする「日本jについては極力ステレオタイプを回避する努 力をしているはずだが、赴任先である「ロシアjについてはステレオタイプ的なものの見方 をしていなかっただろうか。学習者にとって異文化である「日本j者伝えることに偏り、日 本人教師にとって異文化である「ロシアjには、どう議して、どう漉応すべきかという「日 本人教師自身の異文化理解」という読点が欠けていたように思えてならない。自分岳身を省 みても、 ffljぇば金事や服装などの日常生活習慣から、時間や約束、お願い事など人関関係に 関わるものまで、ある特定のロシア人の行動者見て鵜呑みにしてしまっていた自分がそこに あった。また、自本人同士で集まった際にも、ロシア社会に対する不満は、ステレオタイプ 的な見方に記臨するものが多かったように感じている。

海外で活動する場合、日本人教師が現地の言語をどれくらい習得しているかによって人関 関係の幅が決まってくると感じているが、物怖じせず、できる隈り様々な分野の人間と人間 関係を構築し、その中に全幅の信頼をおける友人を持つことがひとつの解決方法でほないだ ろうか。

(3)形態化した交流からの脱却

(臼本人数時は既存の鑓織頼みの交流に寄りかかっているので はなく、悟々から文化を発信し受 信するための道筋を作れる存詣ではないか。そうすることで、{悶々人が多様な文化を認め合う素

地ができる)

日本人教師の人間関係の部分にも霊捜するが、組織による日本との交流を考えた場合も摂

(6)

海外の日本語教育現場で活動する日本人教師が伝えるもの(宇津木)

られた場所、範囲での眼定された活動に留まっている場合がある。既存の組織、ノヴォシピ ルスクの場合で言うならば市立の文化センターだが、ここで、の交流行事に頼ってしまい、日 本人教師それぞれの持ち味や人間関係を用いた活動が少ない。こうした日本人教師の依存体 質が一部の機関による交流の独占を招き、そこが日本語教育や百本との交流行事の許認可権 を持つような錯覚在記こして、様々な弊害を生んでいる。

例えば臼本人識者を招き「日本の伝統文化紹介講演」のような行事を企画するものの、参 加者が日本人と交流する機会や、実際に招待した自本人ゲストと触れ合える場には制限が設 けられ、「演壇」と「観客席jという国定{ヒされた行事に陥ってしまっている。また、せっ かく交流事業に参加しても、日本側・ロシア側双方の自的が金い違うこともあり、参加者に 意留が伝わらないばかりか、相互理解にかえって悪影響を及ぼしてしまっていることもあっ た。このような目的を見失った交流を積み重ねても、表層的な「文化紹介Jの域を出ること はできず、「形鍛{ヒした交涜」になり果ててしまう。

ある程度の交流事業を行う場合、協力者、資金、場所など、組織の力を必要とする。その擦 に、日本人教師は所属する教育機関などを動かし、それぞれ独自の交流活動を行っていくべ きではないだろうか。もちろん、地域社会を混乱させることが目的ではないので、既存の交 流組織との衝突を回避する方策も必要となる。

日本語教育における諸活動の目的は教室活動だけに留まらない。「日本Jや「日本語jをキー ワードに交流というものが個々から文化を発信し、掴々が文化を受信する道筋を作っていく ことで人々それぞれが多様な文化を認め合う習慣が生まれると考える。それと問時に、日本 人教師はそうしたきっかけを作れる存在であると告じている。

27 

Referensi

Dokumen terkait

日本人教員とネイティヴ教員との連携を密にした教育活動としては,「ロシア語 I­1」,「ロシア語 I ­2」という二つの授業における同一教材によるリレー方式の授業を実施し,日本人教員とネイティヴ 教員のそれぞれの特性を活かした授業を心がけている。 全体としてセットになっている「ロシア語 I­1」,「ロシア語 I­2」,「ロシア語 I­3」は,ロシア語の

ビタミン B1発見 100 周年 祝典・記念シンポジウム 鈴木梅太郎博士 記念シンポジウム はじめに 鈴木梅太郎先生は,東京帝国大学農科大學(現:東京 大学農学部)を全卒業生の総代として卒業した.そし て,26歳で同大学助教授となり,その後5年間ドイツに 留学した.帰国後,盛岡高等農林学校(現:岩手大学)

今日から 「ネットで図書検索」! 学部・学問を知るうえでの王道は、その内容について書かれた本を何冊か読むことだ。しかし、日本には学部だけで2000以上もある。そのため、これまでは「先輩の話を聞く」「オープンキャンパスに行って説明を聞く」 建築学科に進みたいと思ったのは中3の頃でした。絵を描くことが好きで、将来はものづくりの

学校外で配布するための版として、個人名を〇〇〇〇の形で伏せてあります。 大妻多摩中学高等学校 ニュースレター 2023令和 5年5月27日 発行 第 12 号 中1 オリエンテーション旅行 中学 1年生は、4 月20日木より2泊3日で、河口湖にオリエンテーション旅行に行きました。入学 して 2

印象に残った作品 術館を巡るのは新鮮でした。 まに見かけ、スタンプラリーのように次々と美 ように美術館巡りをしているような人たちもた がら歩くのはとても楽しく、おそらく私と同じ 様々な会場で行われていました。会場を探しな 知芸術文化センターのほかに市内のまちなかの 岡崎市に豊橋市が加わり、名古屋市美術館や愛 「あいちトリエンナーレ」の会場は、名古屋市、

【シーズ紹介】 ○『源氏物語』における「俗聖」 桐壺巻から始まり、夢浮橋巻までの 54 帖にも及ぶ長編作品である『源氏物 語』において、「俗聖」という言葉はたった一度しか登場しない。「俗聖」とは宇 治十帖・橋姫巻において、俗世にいながらにして仏道修行に励む八の宮に対 する呼称として用いられた表現である。果たして「俗聖」とはどのような人物を

研修会に参加して 開会式にて、高専機構の安藤理事よりご挨拶 を頂戴した。高専は実践的な技術習得ができる 教育機関であり、機構ではモンゴル、タイ、ベ トナムを重点支援国として高専教育制度の展 開を推進している。世界では、国連サミットで 持続可能な開発目標(SDGs)が掲げられ、研 究機関には、研究成果を社会にいかに実装して

5 筆者が2010年4月17,18日にテヘランで開催された会議において、この点を イスラム法学者に質問したところ、明確に否定する回答は帰ってこなかった。そのイスラ ム法学者は、「原子力の研究は奨励される。軍事技術も防衛目的であれば合法である。た だし、核兵器の製造は行わないし、使わない。」というものであった。 6