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10 月 29 日 宇和島市愛宕町 宇和津彦神社 牛鬼

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10月29日 宇和島市愛宕町 宇和津彦神社 牛鬼、八ツ鹿

宇和島の市内は思ったよりも美しい。牛鬼と八ツ鹿と、それに獅子舞を追うて1日市中を歩き廻った。

午前9時半頃宇和津彦神社へ行く途中、鳥居下の所で小形の子供ばかりの牛鬼に出合ったのでまづそれを追うた。

大石町あたりの町内の子供のものらしい。1軒づゝ丹念に牛鬼の首を門口から突込んで、やはり祝着を貰っていた。

太竹の笛役もちゃんとあった。そのとき道の正面に別の大きな牛鬼が現はれた。これも、よく絵で見る赤い胴のも のではなく、紫色の胴形で、首は稍小さい。子供の牛鬼は、あわてゝ横道へ待避する可愛さである。

それから、神社へ帰って、そこへ集って来る、諸芸能団を待つことにした。少し雲が多く、光線が暗いので心配 であったが、本年の総大将ともいうべき大きな牛鬼は丸穂のもので、神社で聞いた所によると、本年は全部の道順 は一切丸穂に要してあるとの話であった。

宇和津彦神社は丁度宇和島市の東南部に当る丘陵部のとりかゝりにある。市の中心に城山公園、西北部の丘陵の 基部が和霊神社である。恐らくもとは海がもっと現在の市街地のあたりまで入っていて城山は島であったであろう と想像される。見晴しのよい丘にある。

午前 10 時頃から祭典があって、すぐ終ったが、その頃から、各町からそれぞれ芸能が参入する。お祓いをうけ、

玉串をいただいて、それを角につけて神社の境内で1踊すると、それから町中へ繰出す。

申合せがあって途中で衝突せぬようしてあるらしい。

神輿は正午頃神社を下って、市役所前のお旅所まで行くが町内の出し物は午後4時頃まで続く。

牛鬼は大小様々あって多い年は15位もあったようであるが、本年は2つ出た。丸穂と榊である。他に極小さい、

子供が10人程で運べるものが2つばかり出ていた。瓢箪を2つに切って伏せたような型で胴体をつくる。骨は竹ら しい。基部のものは太く、なおその上を藁縄で巻いて上を赤い布で被う。キリンのように長い首は木の棒、手元の 方に櫂の如く、横木をつけ、挺子で前後に働かせるようしてある。鬼の頭は、木製、牛の角をつけ、棕梠の皮を被 せる。丸穂のはこの首の長さ丈けで3.5m位はある。尻尾は木製の鉾型、ピンと胴体から突出してあって動かない。

大ていこれにも紙幣をつける。10~15人位の青年が揃いの法服姿で周囲からこの胴体を、担ぎあげて運ぶ。首を立 てゝ運び、家の前では首を前方に倒して、その首を門口から突込んで、祝って廻るのであるが、この頃は電線が邪 魔になって首を立てることができず、殆んど倒したまゝ町内巡回をする。悪魔拂い、加藤清正が朝鮮征伐のさいこ れで敵を悩したと伝える。囃しという程でもないが後から子供が竹の笛を吹いて行く。太い竹を短かく輪切にして 節1つ、吹穴を1つあけて、音をこもらせたもので、これをボー、ボーと吹いて行く。青年の牛鬼でもこの役は子 供である。

宇和津彦神社は祭神国乳別命、宇和島市の総氏神。町内の出し物は10時頃から神社に参拝して玉串を受け、これ を角や笠にさして、町中を練る。

当日見た出し物 丸穂 牛鬼

榊 牛鬼。この牛鬼の胴衣は紫、首も稍小型である 町名不明の 子供ばかりの小型の牛鬼、2つ

裏町一丁目 八ツ鹿。

佐伯町 唐獅子。

野川 御槍振。

八ツ鹿は、牛鬼の勢のよいのに比べて、誠に優美な哀調を帯びたものである。

伊達正宗の長男、伊達秀宗が元和元年(1615)宇和島10万石に封ぜられ、赴任の際、故国仙台の想い出に鹿踊の 芸能一団を連れて、宇和島へ着いた。それがこの地方での八ツ鹿や五ツ鹿の移植されたものと伝える。東北の鹿踊 は気候のせいか南国へやって来て、非常にせんさいになり、且つ哀調を帯びている。全員が12‐15才位の子供(男 子)であることもその原因であろうが冠りものの鹿が写実的で、東北の鹿踊のようにいかめしくなく、且つ小太鼓 を打ちつゝ歌う唄が、非常にかん高い声であることも、その因であろう。踊りの庭も狭く、時には巡廻る商家の土 間へ入って、土間の中で踊る場合もある。

庭入りの際は先頭の1人が

ソーリャ ×××××× ハー、××× ハー ×××(×は太鼓)

から始まり、

1、廻れ、廻われ水車、遅く廻りて堰に止まるな堰に止まるな

2、中立が腰にさしたる、すだれ柳、枝折り揃えて休み中立休み中立。

3、重山(ジュウザン)からこれまで連れたる雌鹿をば、こなたのお庭に隠しおかれた、隠しおかれた 4、何んぼ尋ねても居らばこそ、一本芒のかげに居るものかげに居るもの

5、白鷺があとを思へば立ちかねて、水も濁さぬ立てや白鷺、立てや白鷺。

6、風が霞を吹き払うて、今こそ雌鹿に逢うぞ嬉しや逢うぞ嬉しや

7、奥熊が奥の永途(ナガト)を越えかねて、爪を揃えてはやす面白、はやす面白。

8、乙鳥(ツバクロ)がとんぼ返り面白や一つもすげなやあをちかやせな、あをちかやせな 9、国からは急ぎ戻れと文が来てお暇申して、いざかへろいざかへろ、

八ツ鹿は雌鹿1頭、雄鹿7頭に紛して踊る。何れも浅黄の千草模様を染め抜いた着物を着て、胸に太鼓をつけ、

赤の手甲、脚絆、白足袋、草履ばき、木彫、染ぬりの鹿の冠りもの(雌は角がない)を綿紐で頭につける。この冠

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にものは咽の所から後にかけて赤の薄布をぐるりと垂れる。長さは殆んど膝まである。この垂れ布は後で合せるよ うになっていて、その合せの所には更に鹿の背毛に模らえて、麻芋の束ねたものを冠りものから後へ長く垂れる。

道中するときは、その垂れ布のため前方があまりよく見えないので、冠りものにたくしあげて行く。

道中は1列になって行くが、先頭2人と後2人は年上のものでつまり、年下のものを中央に挟んで行く。雌鹿は 第4番目、庭入りのときは庭を左廻りに1巡して第2巡目に踊りの位置につく。

主として踊りは1、2、7、8が踊る。1が音頭をとるときもあり、踊の所作がはげしくなるときは3が音頭に替る。3

~6はその位置で太鼓をうち、足を踏みかえる所在が多い。まづ1、2、7、8が前進して1と8、2と7が殆んど鼻を すり合す程に向き合う。

次に1と8、2と7は向き合ったまゝ足を踏替える。1と2とが左に踏むときは7、8も左に踏む。対面しているの で、鼻を左右に摺合せるような所作になる。

次に1と8、2と7はそのまゝ前進して位置を替え、その場所で、ぐるりと向きを替えて、すれ違いざま前進して、

そのまゝ①の位置に帰り、そこでぐるりとまた向を替えて①の廻りの態形となる。

⑤次に①②③④の所作を再び繰返す。この繰返しが終ったときはまた①の態形となる。

次に

4の雌鹿中央に進み出、1、2、7、8、も進み出て4を取かこみ左巡りに巡る。

このとき3、5、6はそのまゝの位置で少しく上体と頭を右左に向け、足を左右に踏みかえる。位置は変えない。4

も同じように左右に足を踏み替えつゝ、その位置で巡る。

⑧4は後すざりしてもとの位置に返り、3、4、5、6が一直線に並ぶ。即ち①の態形となる。

⑨次に初めの部分の①②③④の所作を一度だけ繰返す。

⑩踊の輪を解いて1、2、3・・・・8の順に1列になって庭を退く。

野川の御槍振は至って簡単なものである。奴道中姿、編笠の青年4人、毛槍2丁で、2人づゝ対面して踊りつゝ毛 槍を投渡すもので、唄も囃子も入らぬ。ホイ、・・・・ホイ、という掛声のみである。

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佐伯町の唐獅子

1、大太鼓1人。男児(10~12才位)。派手な模様の袖付の襦袢。綿入の縫込紐を前結びにし、金緑の房を垂れ

た前垂をする。色襷がけ、後で房に結ぶ。色手甲、脚絆、白足袋、草履ばき、前結びの鉢巻。白木の桐の30cm 位の撥2本を持つ。時には2人が出場して、からみに太鼓を打つことがある。獅子の口取り後に当る。

2、獅子使い2人。青年。胴幌と共布の股引、黒足袋、草履ばき。頭使と後振とである。獅子頭は赤面鼻つまり、

頭の毛立に御幣を結ぶ。胴幌は禁褐色。乱菊丸輪の染抜紋。顎の下に面使が見易いように網目を張った部分 をつける。また舞うとき背中に当る部分の胴幌には一筋の毛立をつける。

3、囃子方、銅鉢子1人、締太鼓2人。服装及び年令は太鼓に同じ。

大太鼓は高さ90cm位の黒塗。1本足の太鼓台をまづ路上に据え、その上に皮面径60cm位、胴の長さ70cm位 の大太鼓を据える。その前で大太鼓打ちが太鼓の右に左に跳ぶように身体をかわしつゝ大太鼓を打ち、獅子は始め 踏上に伏せて寝ている様から、起き上り舞う。途中で舞座を離れ、舞ひつゝ家の店頭や門口に頭を突込んで門付け する。囃子方3人は舞う場所により舞座の右側、又は左側に床几に腰掛けて並ぶ。

道屋台はない。移動するときは道具一切、獅子頭もリヤーカーに乗せ、大太鼓打ちも乗せて、太鼓を打ちながら 移動する。

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