4月11日 兵庫県津名郡津名町中田 伊勢ノ森八幡神社 獅子舞
志筑から中田へ行く路の途中で祭礼のための車止メの道標があってそこで車を降されて、神社まで、たっぷり 3
㎞はあった。見るからに鮮かに晴れ上った山村の風景につゝまれながら、祭りに行く人達に混じってうららかにそ の道を歩いた。狭い谷がつまって、山懐に入ろうとする。そのどんづまりの所に神社がある。山桜が満開である。
登って行く参道の右側はゆるやかな段々畑になっていて、れんげの花盛り。その上は谷を堰いて池となっているが、
池の堤の少し手前の所、参道右側に平らな平地をつくって3間梯子を2本継いだもの2本を立てかけ、その天辺に2 本のロープを張り、1本は参道左側の崖上の大木に巻きつけ、他の1本は梯子を立てた所から、池の堤に平行に谷を 渡って対岸の崖の下に、しかりと打込んだ1 本の太い杭に張る。谷越のロープはロープの重みで稍垂れ下っている が、梯子から止杭まで優に30mはある。高い所は梯子のすぐ傍で下から10m位はあるであろう。この綱を獅子が渡 るらしい。
八幡神社の創建は享保 3 年(1718)とあるが、獅子舞は創建当時から中田郷から奉納したものという。尤もその 頃は奉納獅子舞で、恐らく現在の「下獅子」のみであったのではないかという。所謂梯子獅子はその後江戸末期に 至って付加えられたものという。
八幡神社の氏子は現在11部落ある。戸数の相違等から、次の8組に分れ各組が毎年順廻りに獅子を奉納する
1、大円道、上里、下里、(本年当番)
2、佐古 3、薄木、桑谷
4、西側、勝木(シデマキ)
5、御所 6、堀 7、北側 8、中島
の各部落である。但し各部落から必ず奉納するのは所謂「下獅子」で、これは祭礼当日晴雨に拘らず神前で舞う。
また梯子獅子は別の余興的な意味があってこれは必ず演ると決ってはいない。いはず当番組の自由で、従って演る 年とやらない年とがある。本年の大円道組は可なり大仕掛にこの梯子獅子を復活した様子である。
また今日の祭には同じ11 部落から3 台の屋台が出る。11部落が北、中、南の3つの聯合に分かれ各聯合から 1 屋台が出る。赤の重ね布団型の太鼓屋台であって、これは狭い山道を神社まで曳上げる。祇園囃子などある。
午後2時頃祭典に続いて下獅子が始まる。
拝殿前の広庭を舞庭とし、そこで舞う。全部大円道の青年である。
獅子頭は1頭、2人使い、赤獅子。頭の髪から胴幌の背中に当たる所には長い髪毛をつけるが、色は黒で黒獅子と 呼ばれている。胴幌は紺地2人の使手は同じく紺色のたっつけ袴をつける。
他に「も助」4人、紺の半纏、たっつけ、藁草履、ひょっとこに似たもすけ面をつける。手に長さ20㎝位径3㎝ 位の竹筒を赤い布で巻いたものを持つ。これを「サワ」(獅子の餡巻とも)という。道化役に廻る。
さる2人(少年)茶色の半纏、たっつけ。も助の見習役である。
囃しは2本の竹の棒長ら1.5m位のものの間に挟んだ径40㎝位の締太鼓1ツ。
演技は舞うというよりも庭一ぱいに縦横無尽にあばれるといった舞方で、時々人垣の見物人の方へ咬みつく所在 をして見せる。
ミミカキ、キンカブリ、ナガネ、マルネ、マタグイ等の曲名がある。
歌はない。囃子言葉として、太鼓に合わせて
「お獅子が豆食て、豆食て、くさいなあ、くさいなあ」が入るのみ。
下獅子が終ると演技の場所を綱掛の所に移して、野外ペーゼントが行われる。前述のように、この綱掛の諸芸は、
いわば祭の余興のようなもので、年によりその当番部落の都合で、或いは天候の工合でやらぬ年がある。
大円道部落が当番宿に当った本年は次のように行われた。
まず継梯子の上で曲芸まがいの踊があった。囃子は三味線2、下獅子に用いた太鼓1をそのまゝ持って来て、囃子 方は池の堤の上に敷いた莚(ビニール天幕地)に坐を設ける。池端の杉の木に大きな拡声器をとりつけ、これを、
囃子の坐にマイクで連結する。大部分はこゝでレコード演奏により、演技を進行させる。
継梯子は2本を咬合せた天辺の所に、方45㎝位の板場を水平に設け、天辺より1.8m程下った梯子の段に丁度填 込んだ羽目板を渡して結えてあるが、3人の青年が1人は天辺の板の上に、2人は下段の羽目板の両端に立って踊る。
最初の 1 番は松づくし 2、黒田節 3、磯節 4、男が惚れなきゃ女ぢゃないよ 5、安木節であるが、毎年「松 づくし」は必ず最初にやる。5本の開いた扇子を数え歌によって、その数により左右の手、口、額、右足に挟んでハ ラハラさせられる踊である。2番以下は年により、踊る青年の自由撰択の芸題という。最後に踊った安来節の青年な ど、仲々上手なもので、わざとハラハラさせながら、天辺の板場から、梯子の軸木の先に上って、笊の尻を叩きな がら金、銀の紙の細片を見物人の頭上にバラマク演技を見せた。
梯子の上の踊りが済むと、付けてあった踊場の羽目板が取り除かれ次が綱渡りとなる。
綱渡りはやはり前後 3 人の青年が演ずる。白の長袖シャツ、ズボン下、で、上から大円道の大の文を背に染め抜 いた祭半纏を着て細帯をしめているが、1人づゝ梯子の頂上に登ると1本綱の上に腹這い姿となり、左足に綱をかま せて、づり下りて来て中央部に来ると綱に両足をからませ逆様にぶら下がって帯と半纏を脱ぎ捨てる。タニノゾキ という。続いて綱を股にはさんで両手を離したり、セゾリといって腹で綱の上に自分の身体を託して大の字に手足 を拡げたりする。綱から降りるときは梯子と反対側の方へ、渡る。そこには4~5人の青年が、綱のたるみを防ぐた め綱に別の綱をかけて常に下方に綱を引っ張っている。
綱渡の最後は「黄緑江」という。囃は大漁節であるが、綱に滑車をかけ、滑車に 1 人の青年が腰をかけたように 乗るか、他の1 人の青年が滑車の渡綱の上に腹這になって、滑車の滑る速度を調整し、腹這の姿が見物人から見え ぬように、ベニヤ板の舷に模した枝を、左右につけ、エビスが宝物に乗っている様をしながら、徐々に綱の上を滑 る。中央に来たとき、船をとめて下の群衆へ餅をまく。
最後にいよいよ、獅子の綱渡りである。このとき囃子の席では始めて太鼓と三味線が入る。
獅子は頭とりと後振りとが梯子を昇りつゝ梯子の途中でも梯子の裏を1巡りする芸を演ずる。
梯子の天辺に登ったとき、そこに前以って立てゝあった御幣を獅子が口に咬えて 1 舞し、御幣を谷へ捨てる。そ れから、いよいよ綱渡りにとりかゝるが、この場合「も助」の1人が補佐の役で、獅子の後から引いて渡る。
獅子も中央で、耳かき、マタグイ、等の曲芸を演じて、渡る。
これで綱渡りの曲芸めいた演技は終わる。直ちに張った綱はとり外され、梯子も倒される。
壇尻もその頃太鼓を打ちながら、神社から下山する。
獅子舞の連中は、跡片付が終わると、舞を練習した大円道の定った、稽古中座敷を借りて練習した宿に帰り、礼 返しの舞をする。これを宿獅子という。