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化学と生物 Vol. 51, No. 9, 2013
巻頭言
Top Column国民的教養としての「生命・食糧・環境」
古賀洋介
Top Column
私は古細菌の脂質の研究から,細胞,
膜,脂質の初期進化について発想を巡らし ながら,農芸化学との関連について折に触 れて考えてきた.「農芸化学出身者がなぜ 生命の起原や進化の問題にかかわるの か?」農芸化学は化学的側面から食糧生産 の向上を目指すものと理解している.その 分野は発酵・醸造,土壌・肥料,農・畜産 物利用,農薬・有機合成などを含む.発 酵・醸造の分野の研究は必然的に微生物学 につながり,現代の微生物学なら古細菌は 避けて通れない対象として出現し,存在し ている.農芸化学会の機関誌は「化学と生 物」と称し,その研究分野は「生命・食 糧・環境」であると公称している.最近の 大会の研究発表でも医学関連のものが数多 く見受けられる.こうしてみると,農芸化 学は農業関連の学問の範疇から大きく踏み 出し,広く生命科学の各方面に広がってい る.微生物学から古細菌研究に参入した私 は,古細菌に関する各方面の研究が最後に は真正細菌との比較研究に行き着く可能性 が大きいことを感じてきた.比較研究は単 に並べて相違点と共通性を列挙するだけで はない.相違点と共通性を整理し,それら のよってくる由縁を考察し,それらが現れ た必然性を発見することを目指す.そこに 生命の本質の一端が姿を表す.脂質研究で はそのことが最も顕著に表れた.脂質合成 にかかわる酵素の比較研究において,基質 特異性が両生物ドメインにまたがるという ような予期せざる結果は,真正細菌と異な る古細菌を研究して初めて発見されたこと であった.古細菌の特異な性質は,真正細 菌を裏から見るきっかけを与えるという一
例である.こうして地球上の生物の生化学 的存在様式の外延をおぼろげながら描くこ とができる.
こう見てくると,農芸化学の出身者にし て農芸化学会の会員である者が生命の起原 や生物の進化について研究するのも農芸化 学の本旨から外れたものではない.むしろ 生命のありようの一端に迫ることを通し て,農芸化学をより豊かにすると言えるの ではないか.
他方,「生命・食糧・環境」と言えば,
そのいずれもが今日の日本人,いや全人類 の日常生活を取り巻く大きな問題に関係し ている.たとえば,「生命」と関係して臓 器移植,遺伝子診断と治療,再生医療,
「食糧」のことでは遺伝子組換え作物や偽 装食品,「環境」面では新たな国境を越え た大気汚染,原発事故と放射能汚染,外来 種の異常繁殖,等々.これらは先端科学か ら生み出されるものや,その制御のために 最新技術を必要とするものが多い.これら の問題の本質はまさに「生命・食糧・環 境」の研究対象であり,一般市民にとって はこれらの重要問題を考えるときの基礎知 識となるものであり,まさに「国民的教 養」となるべきものである.「国民的教養」
の最先端を切り開いていくのが農芸化学会 に課せられた使命といえるのではないか.
農芸化学はその拡がり,懐の深さからこの
「国民的教養」構築への期待に応えられる 蓄積をもっているように思えるが,どうだ ろうか.古細菌の研究も生命の研究の末端 につながり,「国民的教養」としての「生 命・食糧・環境」の基礎作りに貢献できて いればよいが,と思う.