晋代の水利について
佐 久 間
士・也
1 序
中国の歴史において,水利は社会経済の発展や政治の休制に極めて重要な意義をもっており,従来種 々と考究されてきた.水利は治水を根抵として,灌漑と漕運が特に重要である.灌漑施設や漕運路の設 置は,河川沼沢の水系に,それぞれの工事が施されたもので,灌漑は農業生産にもっとも基礎的な条件 であり,漕運は生産物を租税として首都に運搬することで,その漕運路は,軍事上や商業上に重要な役 割を果たしたのである.
漢帝国の崩壊後,三国分立のあとをうけて成立した晋王朝は,西晋時代では七王の乱や五胡の南下が あり,東晋時代では北方民族との抗争があり,不安定の時代であった.
この時代において,形成改修された灌漑施設や漕運路について,そのときの政治経済社会の事情,そ れを推進した人物,その時期,その地域,その方法や構造,その影響等について明らかにし,なお貴族 や豪族が水利をどのように占有したか,また水利官について言及したい.
2 西晋時代の 灌漑
黄帝が即位すると間もなく,当時の経済状態について,晋書巻二十六食貨志には
及晋受命,武帝欲平一江表.時穀賎而布帛貴,帝欲立平擢法,用布皐市穀,以為糧儲.識者謂,軍 資樹少,不宜以貴易賎.
とあり,穀物は値が安く,むしろ布帛が高価であった.そこで帝は高価な布帛を売って,安い穀物を買 い求め,糧儲をつくろうとしたほどあった.穀物が安いと言うのであるから,農民の穀物保有も充分あ るように考えられがちであるが,実際にはますます農耕に精励しなければならない事情であった.され ば泰始二年(266)の詔の末節に
今若省揺務本,井力墾殖,欲令農功益登,耕者益勤、而猶或隣国,至於農人華傷,今宜通擢以充倹 乏.(晋書食貨志)
とあり,農耕に益々精励しなければならないのであって・なお穀価騰貴し・農民はいためつけられ・さ うしたなかで耀して倹乏にそなえるために,条例をつくろうとしたが行われなかったとのことである。
かつ晋初,江南には呉王朝が存在し,生産をあげなければならなかった.そこで泰始四年詔を下し 使四海之内,葉末反本,競農務功,能奉室咲志.令百姓勧事楽業者,其唯郡県長吏乎.先之労之,
在於不倦毎念其経営職事,亦為勤莫.(晋書食貨志)
とのべ,郡県長吏は管内における農民の生産奨励に責任があることを強調した.この歳常平倉を設立 し,豊なれ濃罐t,倹なれ匡嚢与ることした.そこで農業生産を高めるためには灌漑設備の充実が必要 であった.
西晋前期の武帝のとき,第一に傅砥によって沈葉堰がつくられた.傅砥は北地泥陽(甘粛・寧県東 南)の人で,東陽太守になったとき,晋書巻四十七傅砥伝に
自魏黄初大水之後,河済汎濫,郵芙常…著済河論,開石門而通之.至是復浸壊,砥乃造沈菜堰,至今 尭豫無水患。百姓為立蘚類焉.
とあり,三国時代に黄河から済水が分流する地点に,石門が開かれていたが,また浸壊したので,沈菜 堰をつくり,そのため尭豫州は水患がなかったので,農民は碑を立てて頌したと言うのである.これが 設置された時期は武同学氏のr准系年表全編、によると泰始七年(271)の事件としている・それは晋 書巻三武帝紀に
泰始七年六月,大雨霧伊洛河盗,流居人四千人余家,殺三百余人.
とあることに関連しているからであろう.
なお沈菜堰とは技術上から名づけられたらしい.すなわち葉は雑草の意味で,前漢時代,瓠子河が決 潰した時に雑草が用いられている.
前漢書巻二十九溝油志に
令群臣従官,自将軍以下,皆負薪眞決河.是時東霜焼草,以故薪柴少,而下浜園之竹,以為樺.
とあり,汝淳が注に
樹竹塞水法之口・稻梢布挿按樹之,水梢弱,補令密,謂之槌.以草塞其衷,乃以土墳之,有石以石 為之.
とあり・決潰場所に竹をたてて水勢を弱めるのを梶と言い,その中に草や土や石をつめこんだのであ る.沈菜堰の構造は,雑草等を材料とした堰であったと考えられる.
これに関して・晋書巻四十六劉頸伝によると,劉頚が滅呉(太康元年280)の年に,淮南相となり,
上疏した言葉に,「凡政欲静,静在息役」とのべ,そのあとで 如河汁将合,沈菜有害,則役不可息.
と言い・河水と汗水とがまさに合せんとしたところで,莱を沈める労役が,善と言うことならば,止め るべきでないといい・莱を沈めることを農民の役として課することも止むも得ないと言うのである.こ こで河汁将合のところで・合字は分字になるべきであろう.それは汗水は黄河より榮陽の北部で分流し ているからである・なお後漢書巻二明帝紀に
河汁分流,復業旧迹
とあり・この場合に当然黄河より汗水が分流する地点を指しているので,済水と汁水は上流で同流異名 である・要するに傅砥が鵜太守として,泰始七年に沈菜堰を形成し,その恩恵が後世に及んだと言う のである.
第二に・泰始+年(274)光槻の夏侯和力㍉新渠・富寿・鰍を修めることを上言し,カ、くて耕地
千五百頃を灌湿したと言うことである(晋謙志).これらの灘鰍についてはその場所等が不
明である.
その後しばらくして水利について・杜預力種要な意見を出している.威寧元年(275)には勲鶏 の奴婢を新城につけ・田兵に代って稲を植え,奴婢各五十人を一屯として,司馬使を置き,屯田法の如 くにして食糧生産につとめた(晋書食貨志)、ところが威寧三年(277)になると
六月益梁八郡水 殺三百人・没邸閣別倉(晋書3武帝紀).
七月荊州大水(晋書27五行志).
九月克豫徐青荊益梁七州大水,傷秋稼(晋書3武帝紀).
と水災がつづいた.このとき武帝の詔として
今年獅過差・又融災瀬川裏城・自春以来,略不下種深以為慮.(晋齢貨志)
とのべてあり誤雨がはげしい上融災のため・春より種をまくことも出来ないと言うのである.威寧 四年(278)になり,やはり
七月司翼克豫荊揚郡国二十六大水・傷秋稼壊屋室有死者(晋書27五行志).
とあり・晋書巻三+四杜預伝にも「威寧四鰍大霖雨,融起.」とあり,燃雨があり,水災を起こ した.そのとき度支荷書杜預の上疏の内容は晋書食貨志によると
11)今者,水災東南特劇,非但五稼不収居業井損,下田所在停汚,高地皆多僥墳,此即百姓困窮方 在来年.
② 錐詔書切,告長吏二千石,為之設計,而不廓開大制,定其趣舎之宜,恐徒文具,所益蓋薄.
13)当今秋夏蔬食之時,而百姓已有不贈,前至冬春,野無青草,則指仰官穀,以為生命,此乃一方之 大事・不可不豫為思慮者也.
とのべている.その要点をのべると,① 今,水災は東南が特にはげしく,五穀が収められないばかり でなく,住居や仕事もともに駄目になり,ひくい耕地は水がたまり,高い耕地はやせてしまい,来年に
なったら百姓は困窮するのであろう.(2)地方長官はそのために計画を立て・大制をつくり・趣舎よろ しきをえなければ,なにもならない.(3)秋夏の蔬食のときにさい,百姓は足らないのであるから・こ れからさき冬春になったならば,青草もなくなり,官穀を仰いで生命をつなぐだけである・これらのこ
とが何より大事なことであるから,あらかじめ考慮せねばねら諏,と言うことである・そこで杜預は具 体的の方策として,
① 既以水為困,当侍魚菜螺蝉.而洪波汎濫,貧弱老終不能得.今若宜大壊克豫州東界諸破・随其所 帰,而宣導之,交令鰻者,尽得水産之饒,百姓不出境界之内・旦暮野食・此目下日給之益也・
図 水去之後,填泓之田,畝収数鑓,至春大種五穀,五穀必豊,此又明年之益也.
とのべ,11)洪水のために食糧がなく困って居り,ただ魚菜螺蝉をたのみとすべぎ鵡しかし洪波が押 しよせ,貧弱者は何も得ることが出来ない.いま克豫両州の東方の諸破を壊し,水の帰するところにし たがい流出し,畿者をしてことごとく水産のめぐみを得させ,百姓は境界の内で,朝晩の食物を得るこ とが,目下の何よりの利益である.(2)洪水の去った後,填游の田は・春になれば畝ごとに数鑓をおさ め五穀を豊かに得ることが出来る,と言うのである.つまり洪水で食糧がなく・魚菜や「にし」・「どぶ がい」をあてにしているが,それらを取ることの出来るのは,舟や其の他の道具を持つ富民だけであっ て,貧弱者はただ手をこまねいているぽかりであって食物を得ることが出来ないことを指摘し・その緊 急対策として,溢水を流出するために諸破を壊わすべきを提言している・
杜預はさらに当時の農法と耕地の状況について
〔1)諸欲修水田者,皆以火耕水褥為便,非不爾也.然此事施於新田草葉,与百姓居,拒絶離老耳,
(2)往者,東南草創人稀,故得火田之利,自頃戸口日増,而破場歳決,良田変生蒲葦,人居沮沢之 際,水陸失宜,放牧絶種,樹木立枯,皆陵之害也,
③ 破多則土薄(、)水浅,濠不下潤.故毎有水雨,韓復横流延及陸田,言者不思其故,因云此土不可 陸種.臣計漢之戸口,以験今之破処,皆陸業也.其或旧陵旧場,則堅完脩固・非今所謂当為人害者 也.
とのべている.その主張するところは,〔1)一体水田を修めんとする老・皆火耕水褥を便利としている が,そうではないのである.火耕水褥は新田草葉の地に施かされ,百姓の居住地と相離れていたのであ
る.12)先頃東南地方は,入居も稀であるから火田(火耕水褥)の利を得た.このごろ戸口は日に増し 破塙は歳毎に決潰し,良田は変じて蒲葦を生じ,人は沮沢の際に居住し,水陸は宜しきを失い,牧牛は 播殖せず,樹木が立枯れているのは,皆隈の害である.③ 破が多ければ,耕地の地味はやせ,水は浅 く,雨水があってもしっとりと土壌をしめらせることがない.それ故に水雨あるごとに横流して陸田に 及ぶ,論者は其の故を思わず,陸種すべきでないといい,漢代の戸口を計りて・もって今の隈処をしら べると,皆陸業(2)であった.旧限旧場は堅固で・害をするようなものでない・とのべている・
即ちここにおいて杜預が指摘していることは
①東南地区ではこれまで火耕水褥が行われて来たが,今日は戸口が憎大しているからよろしくない・
②破場が多すぎ,土地はやせ水は浅く・雨水があっても水もちが悪い・
③ 隈喝が歳々に決潰し,良田は変じて蒲葦が生じ,水陸は宜しきを失ない・牧牛は繁殖せず・木も 立枯れしている.
④旧破旧場は堅固である。
と言うことである.淮河流域で行われて来た火耕水褥の農法に批難を加え,さらに破場の多すぎること やその管理が行ぎとどかず放任されていることに手きびしい反省をうながし・漢末以降破場が無計画無 造作に作られているが,むしろ漢代に出来た破場が堅固であることを指摘している.
そのとき伺書の胡威がr宜壌場」と,言ったことに対して,杜預は「其言墾・至臣中者」(晋書食貨 志)と,同感であることをのべている、
また宋侯相応遵が(3},洒陵をこわして達道を徒さんことを求めた.このとき杜豫は
臣按遵上事,達道東詣寿春有旧渠,可不由洒院洒隈在遵地界,壊地凡万三千余頃,傷敗成業,遵 県領応佃二千六百口,可謂至少,而猶患地狭,不足璋力,此水之為害也.(晋書食貨志)
とのべ,北方より南下する達道は寿春にいたる旧水路があり,その頃東方の洒破による必要はなく,し たがって洒陵の達道としての役割は意味がなく,むしろ洒破は広さ万三千余頃もあり,それを干拓して 耕地にすれば,遵の県内で土地のない人,二千六百口に生業をさずけることが出来るわけで,土地が狭
くなっていると言うことも水の害であるとしている.ここにおいて干拓論が出されたわけである.
ところが都督ωと度支とが意見と異にし,遵の言は実行されなかった.杜預はそこで土地問題に関 する意見の相異について次の如くのべている.
都督鹿妻,方復執異,非所見之難,直以不同害理也,人心所見既不同,利害之情叉異.軍家之与郡 県,士大夫与百姓,其意莫有同者,此皆偏其利,以忘其害者也.(晋書食貨志)
すなわち,都督と度支とは,所見や利害の感情を異にしている.又軍家と郡県長官,士大夫と百姓とが 夫々相対立し,自己並びに自己の体制の利益のみを考え大局立場を忘れ,しかも相対立しているための 害を忘れているとしている.杜預がこのような矛盾を指摘しているのは,並々ならぬ具眼の土と言うべ
きである.
さらにまた杜預は
叉案,豫州界二度支,所領佃者,州郡大軍雑士,凡用水田七千五百余頃耳.計三年之儲,不遇二万 余頃,以常理言之,無為多種無用之水.況於今者,水澄食盛,大為災害.(晋書食貨志)
とのべ,豫州の界で二度支が管理している州郡の大軍雑士によって,水田七千五百余頃が耕作され,こ れは軍屯田であって,三年の儲をつくるためには二万余頃もあればよい.常理をもってすれば,水田七 千五百余頃は無用ではないと言うべきである.しかし今は水が盗れて大いに災害となっているとし,か
くして杜預は次のように決論をのべている.
ω 与其失当,寧潟之不渚,宜発明詔,敷刺史二千石,其漢氏旧隈旧稿,及山谷私家小隈,皆当修繕 以積水.真諦魏氏以来,所造立,及諸因雨決盗,蒲葦馬腸陵之類,皆決涯之.
12)長吏二千石,躬親勧功,諸食方之人,並一時附功,令比及水凍,得粗枯澗,其所修,功実之人,
皆以碑之.
③ 其旧陵塙溝,当有所補塞者,皆尋求微跡,一如漢時故事.須冬東南休兵交代,各留一月以佑之.
ママママ
141夫川有漢有常流,地形有定体,漢氏居人衆多,以猶無患.今因其所患,而宣葛之,跡古事以明 近,大理顕然,可坐論而得,臣不勝愚意,霧謂最是,今日之実益也.(晋書食貨志)
その要点をのべれば
① 明詔を発し,刺史二千石に赦し,漢代以来の旧破旧稿(5),および山谷私家の小5皮は皆修繕して 水をたくわえ,魏代以来造立したもの,および雨水により決溢し,蒲葺が生じ,馬腸のように長く なった破は皆それを決涯する.
② 長吏刺史はみずから功績をすすめしめ,労力を出した人々に,すぐに功を附し,水凍るおよび,
枯涸したとき,功果をあげた人々にこれをしたがわせる.
③ 旧破場溝の補塞すべき所の者は,皆微跡を尋求し,一に漢の故事の如くでなければならない.
冬,衷南部では休兵交代のとき,各一月を留めて助とする.
④川流は常流があり,地形には定休がある.漢代は居人が多くても,なお患とならなかった.今患 となるころは,よろしくそそぎながすべきで,それには古事をたずね,近ぎを明らかにすれば大理 顕然である.
つまり漢代に設けられた旧隈場は大小に拘らず修繕すべきで,魏代以後造立したものはそれを決涯す るとし・雨水によって決溢したものとは,漢代のものと,魏代以後のもの両方を含むものと考えられ る.したがって雨水によって決溢したとはその破損の甚だしいものを指すものであろう.朝廷はそれに 従ったとのべているが,どの程度実施されたかは疑わしい{の.
晋朝太康元年(280)呉を平げ,杜預は鎮南将軍都督荊州諸軍事とり,兵を率えて江陵に鎮し,自己 の信条に従って,前漢の郡信臣(前漢書では召信臣)の遺跡を修復した.晋書巻三十四杜預伝に,
又修郡信臣遺跡,激用泄清諸水,以浸原田萬余頃,分彊刊石,使有定分,公私同利,衆庶頼之,号 目杜父.
とその概況をのべている.水 経注巻二十九滞水の条には 漢孝元之世,南陽太守郡信 臣,以建昭五年断滞水,立 穰西石場,至元始五年,更 開三門,為六石門,故号六 門塙也,灘,新野,昆陽 三県五千余頃,漢末殿廃不 修理、晋太康三年,鎮南将 軍杜預,復更開広,利加干 民.
とあり,晋書杜預伝では郡信臣 の遺跡を修さめ,埋水清水を利 用し,原田萬余頃に灌漑したの であり,水経注滞水の条では,
清水の支流である滞水を断ち石 場を立て,更に拡大され,穰,
新野,昆陽の三県にわたり五千 頃に及んだが,漢末廃殿されて いたのを,杜預はさらに拡張 し,杜預伝にのべてあるように 萬余頃に灌漑したのである.な おその拡張した状況について は,水経注巻三十一清水の条に
第一図六門隈付近図 餐局
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庖チ艮瑚馬確陵(楊守敬の水経注図より縮尺転写)
杜預継信臣之業,復六門隈,遙六門之水,下結二十九破,諸陵散流蔵入朝水.
とあり,六門破より水を二十九陵に結び,それらの水を散流した.また水の使用法について・分水法と も言うべきものを石に刊し,衆庶はこの水利施設に感謝して,杜預を「杜父」と称した.その時期は水 縄注滞水の条に記されているが太康三年(282)で,杜預の業績は,部曲主安陽亭侯郵達によって・太 康五年に建てられた六門碑に,記されているとのことである.(第一図参照)ω.
ところで通典巻二水利田によると,
元帝建昭中,郡信臣為南陽太守,於穣県理南六十里,造鉗盧殴,累石為院,傍聞六石門,以節水勢.
沢中有鉗盧玉池,因以為名,用広瀧灌,歳歳増多至三万頃.
とあり,六石門は鉗櫨隈より流出する水門であることが示されている.それ故に滞水をせきとめて作っ た陵は鉗陵鷹と言うことになる.その破の中に鉗雇王池と称する部分があったわけである.なお元和郡 県志巻二十三には,通典と同系統の記述がみられる.これに関して文選巻四には後漢の張衡のよんだ南 都賦がある.すなわち
其限沢則有鉗盧玉池,諸陽東脇貯水淳湾,亘望無涯,其草則有藤苧頬莞蒋蒲兼蓑藻茄菱芙芙蓉・
含華従風発栄(中略)
其水則開資麗流,浸彼稲田,溝檜豚連,堤陸相轄,朝雲不興,而横濠独藝,決喋則嘆為漸,為陸冬 捺夏欄1,随時代熟.
とありて,この賦には鉗盧阻はなく,鉗盧玉池と諸陽東隙とがうたわれ,それらは貯水がみなぎり,水 草が生えしげり,鳥がとびかい,陳水は溝によって稲田にそそがれていたという。
第四に,広陵の人劉頬は淮南相となり,萄破を修め,その労働力として,孤貧の人をも用いた、劉碩 は晋書巻四十六によると
世為名族同郡有雷蒋穀魯四姓,皆出真下.
とあり,広陵郡きっての名族であった.威寧中廷尉となり,六年間つとめその詳平がたたえられた.つ いで河内太守になり,郡内の公主の水碓が流水をせきとめるので,表して止めさせたので,百姓は其の 利を得た.さて淮南相となったが,その時期は威寧の次の太簾中と思われる.本伝に
旧修葛陵,年間数万人,豪彊兼井,孤貧失業,頤使大小戮力,計功受分,百姓歌其平恵.
とあり,従来鄭皮は灌漑用水として重視され,その修理等に年に数万人を用いて居った.ところが豪族 がその労役を独占し,孤貧者はその仕事に就くことが出来なかった.頚は豪族も孤貧者も共に力をあわ せ仕事に従事させ,その働に応じ分を受けしめたので百姓はその平恵をうたったとのことである. 「分
」とは孤貧失業と言うことよりすれば,働いた分に対して報酬をうけることになろう,これらの水利事 業が救済事業的役割を果たしたと言うことが出来る.
第五に,西晋時代の後期恵帝のとき,劉弘による車相渠やその水門が修治された.
劉弘の祖父の醸は建安の初,揚州刺史となり,有殴茄陵七門堰呉塘を興し,父の靖は,曹魏時代廟に おいて大灌瀧事業を行い戻陵堰と車相渠とを作った.このように有力な地方長官の子として成長し,武 帝のとき寧朔将軍,仮節幽州諸軍事,烏丸校尉に任ぜられ,幽州に鎮し,水利事業を行った.水経注巻 十四飽丘水の条に
(元康)五年夏六月洪水暴出,毀損四分之三,剰北岸七十余丈,上渠車相,所在漫盗,追惟前立遇 之勲,親臨山川,指授規略,命司馬関内侯逢揮,内外士二千人,起長岸,立楽 脩主遇治水門,門 『広四文,立水五尺,興利載利,通塞之宜,準遵旧制,凡用功四万有余焉.諸部王侯,不召而至,綴 負而事者,蓋数千人.元康五年十月十一日,刊石立表,以紀勲烈,井記邊制度,永為後式焉.
とのべてあり,その概要をみることが出来る.文中の渠車相は,車相渠となるべきである.洪水によ って四分の三が破損したので親しくその状態を視察し,司馬の逢揮をして,内外の将士二千人をひきえ て,長岸をおこし,水門を造立し,旧に復すること出来た.諸部の王侯は召集しないのに進んで仕事に 従事したもの数千人と言い,さきに父の靖の場合には灌田万有余頃と言うのであるから,その利益は大
きいものである.なお「遇制度」を石に刊し,永く後式とした.
第六に,陳敏による練塘の経営である.陳敏は鷹江の人で,合肥度支,広陵度支をへて,石泳の乱の 平定に功績があり,広陵相となり,やがて恵帝の永興元年十二月に兵をあげ,みづから都督江東軍事大 司馬楚公と称したが(晋書巻100陳敏伝),この挙兵は甘卓等によって亡ぼされ(晋書巻70甘卓伝),や がて東晋王朝の成立となる.したがって練塘の設置は永興元年(304)から西晋末(316)までの間に行 われた.元和郡県志巻二十六丹陽県の条に
練湖在県北百二十歩,周廻四十里,晋時陳敏為乱,拠有江東,務修i耕績 令弟譜,邊馬林漢,以漸 雲陽,亦謂之練塘,概日数百頃。
とあり,弟の詣をして馬林漢をとどめて練塘をつくったとあり,太平御覧巻六十六に 輿地志云,練塘陳敏所立,遇高梁水,以漢為後潟.
とあり,高梁水をとどめて練塘をつくったといい,概田数百頃とのことである.
3 .東晋時代の灌漑
東晋王朝創草の建武元年(317),瑛邪正の司馬容が晋王となり,農業生産を大いに奨励した、晋書食 貨志に
課督農功,詔二千石長吏,以穀多少為殿最,其非宿衛要任,皆宜赴農,使軍各自佃作,郡以為眞.
とあり,その要点は ①州都の長官はその領内の穀物生産の多少をもって,功課の標準とし② 官 人は宿衛や重要な任務でなければ,皆農耕に赴むき,③ 各軍は各自に佃作せしめる,と云うのであ
る.さらに帝位につき,太興元年(318)になると詔を出し,旱嶢にそなえ・徐揚州に宿麦を植えるこ とを奨励した.
徐揚二州土宜三菱,可督令膜地投秋下種,至夏而熟継新故之交,於以周流所益甚大.昔漢遣軽 車使者氾勝之,督三輔種麦,而関中遂穣,勿令後晩,其後頻年,麦錐早塩両為益猶多。 (晋書食 貨志)
とあり,徐州揚州の土地は三菱によく,なつおこし(8)の土地に,秋に種をまき,夏に熟するので,秋 の収穫の前の,食糧不足のとき益するところ甚大である.漢は軽車使者氾勝之をして,三輔に麦を植え させ,その後関中は豊穣となり,旱蛙の災害があっても,それをきりぬけることが出来た,と云うので
ある.
ところで三菱について,楊聯陞氏(g)は大麦,小麦,積麦であるとし,斉民要術巻二には大小麦,積 麦の秋まきのことがのべてあり,氾勝之のことについて,
氾勝之書日,凡田有六道,麦為首種種麦得時無不善夏至後七十日,可種宿麦、(斉民要術巻二)
とあり,宿麦は夏至後七十日をもって適当な播種期としている.このことに関し,前漢書巻二十四上食 貨志に,武帝に対する董仲舘の上言として,
春秋官穀不書,一至於麦禾不成則書之,以北見聖人於五穀,最重麦与禾也.今関中俗,不好種麦,是 歳失春秋之所重,而摂生民之具也.願陛下幸詔大司農,使関中民益種宿麦,令後毎時.
とありて宿麦について顔師古は注して 宿麦謂其黄経冬.
とのべ,宿麦とは秋播き麦で,旋麦(はるむぎ)に対するものである.春秋時代には麦と禾(あわ)を 最も重んじ,前漢武帝のとき,関中に宿麦を植えることをすすめた.東晋初期に当り,除州揚州に宿麦
を植えることを奨励したのは,北方に後趙の石動等をひかえ,しかも次々と旱災虫災がつづき,食糧の 確保が至上命令であったからである(・。)、なお天災については
建武元年(317)6月 揚州旱(晋書38五行志中).
11月是歳揚州大旱(晋書6元帝紀).
太興元年(318)6月 旱,帝親雪(晋書6元帝紀).
二年(319)5月 除場及江西諸郡蛙,呉郡大鰻(晋書6元帝紀)・
12月 三具大機(晋書6元帝紀ン 太興二年大旱(晋書81虞預伝).
と,晋書において指摘することが出来る・
かかる際に,第七に丹陽の張圏による曲阿の新豊塘の設立が行われた.張閨は本郡大中正をへて,元 帝が即位するや晋陵内皮となった.元和郡県志巻二十六丹陽県の条に,
新豊湖在県北三十里,晋元帝太興四年,晋陵内史張閨所立.旧晋陵地広人稀 且少陳渠,田多悪 穆,閨創湖成灌漑之利.初以労役免官、
とあり,新豊湖は太興四年に張閨によってたてられ,灌漑の利に供された.この地域はそれまで,地広 人稀で,陳渠は少く,農耕には条件の悪い地域であった.晋書巻七十六張閨伝には,
時所部四県並以旱失田,闊乃立曲阿新豊塘,漸田八百余頃,毎歳豊稔,葛洪為其頚,計用二十万一 千四百二十功.
とあり,所部四県が旱災にあい,曲阿の新豊塘をつくり,八百頃の耕地に灌漑したので,毎年豊作にな.
つたとのことである.これについて,世説新語中,規箴第十にて,張閨について梁の劉孝標注に・
葛洪富民塘頬日,閨字敬緒,丹陽人張昭孫也.中興書目,閨晋陵内実・甚有威徳・転至廷尉卿・
とありて,晋書において,葛洪がその頸をつくったことを,世説新語では「富民塘」と記している・
ところが晋書では「以摘興造免官」とあり,張團が勝手に興造したので官を免ずるとのことである.
建康実録巻第五,建武元年の条では,
是歳揚州大旱,晋陵内皮張團,奏立曲阿新豊塘,漸田八百余頃.
とあり・奏して塘を作ったとのことで,晋書に云うr檀」とは矛盾するが,晋書と建康実録の記事をあ わせ考えるとき・上奏したがまだ許可のないうちに興造したことになろう.免官について公卿たちは,
興陵瀧田,可謂益国,而皮被瓢,使臣下難復為善. (晋書張閨伝)
と申して,擁護したので,帝は詔を下し,
丹陽侯閨・昔以労役部人免官,錐従吏議,猶未掩其忠節之志也.倉眞国之大本,宜得其才,今以表 為大司農. (晋書張聞伝)
とありて・ここでは張閨が部人を労役したことが視摘されている.此時代においてデスポティズムは,地 方長官が・ほしいままに土地を変更したり,人民を使役することは,原則として禁んじていたのである.
第八は・孔愉による句章県の故堰修理が行われた.晋書巻七十八孔愉伝によると,会稽山陰の人で,
江左に有名な家柄であった・晩年に鎮軍将軍,会稽内史となった.ときに句章県(漸江,慈難県)には
漢代の旧隈があり綴廃数百年におよび,愉は齢巡行し,教壇を擁し,細二百頃とのことであ
る・彼は威康八年に卒していることから,その事業は威康八年前に行われたことになる.ほかに山陰湖 を経営した・なお第七第八等について,大川富士夫氏はr東晋.南朝時における山林叢沢の占有」(立 正史学25号1961)において指摘している.
東晋王朝が中期になり・第九として,股浩による江西における膠肝頃の経営が行われた.
晋書巻七十七股浩伝によると・陳郡長平(河南,陳州府)の人で,恒温が勢力を増大した時に,その 才能が認められ・恒温の対抗として任用された.華北では後趙の石季竜が死して(永和五年)混乱し,
彼は永和八年(352)九月・中軍将軍となり諸軍を率えて北上すること眈り,そのとき 開江西曜田千余頃・以為軍儲.
とあり・融経営を行うことになった謬田こついて管見するところ,唐長瓢がr三至六世紀江献 土地所有制的発展」 (1957.7)において,大土地所有者についてのべたなかで,
山林川沢更多的開既 増加了新的耕地,膠田・潮田在更大苑囲内出現
とあるのみで・更に言及されるところはない.さて膠とは唐の何超が纂する晋書音義ぴこよると,
説文曜種也,者流,案通溝溜i田亦為膠.
とのべて居り,通溝概田が行われたらしい.
これよりさき・東晋初期の太興二年大旱の際に,後軍将軍応倉が表に
間者読人奔頼凍呉今倹・皆已還反晒良田麟来久,火耕構,為功差易.宜簡流人,興
復農官・功労報賞・皆如魏氏樽・一年中与百姓,二年分税,三年計賦税,以使之公私兼済,則倉 盈庚億・可計日而待也・ (晋書食貨志)とのべてあり・江西の良田は久しい間畷廃したが,しかし火耕水褥によれば,苦労せずに収穫をうるこ とが容易であるとし・かつて魏の武帝力〜許下職田した如くすべきであると,のべている.しカ、陳晋 史期に当る永和年間においては・単なる火耕旛ではなく,よりすすんだ段階としての蜘なる用法が 行われたのでないかと考えられる.
さて曜について,説文では
曜焼種也・欺田蓼声・漢律日曜細裸艸.
とさり・曜は「草木をやきはらって種える」と云う意味が考えられる.これについて段注は 謂焚其艸木而下種・蓋治山田之法,為熟,史記日,楚越之地或火耕.
とのべて居り・草木をやいて種を下す,山田を治める法で,史記では楚越の地で行われて,火耕に当る としている・しかし江西では前述の杜預の言にあるうに晋初には火耕水霧が行われて来たのであるが,
ことさらに膠田と称したのは単なる火耕ではなく,また火耕水褥でもなく,それは何超が云う通溝と云 うことに意味があり・灌水を組織的に行うために溝を設けたもので,従来の火耕水褥より_段と進んだ
段階を示すもので,斉民要術における淮河流域稲作栽培の歳易直条播に近いものかと考える、(、、)
さて晋書巻七十七,股浩伝によると
於是以浩,為中軍将軍,仮節都督揚予徐売春五州軍事.浩既受命,以中原為己任,上疏北征許洛,
将発墜馬.時威悪之,既而以淮南太守陳達,尭州刺史察喬為前鋒,安西将軍謝傷 北中郎将筍羨為 督統,開江西膠田干余頃,以為軍儲,師次寿陽.
とありて,前秦奄建を討つべく北上せんとしたが,とりあえず寿陽に鎖し,江西に曖田を開き軍儲をつ くることになった.このことについて,同書には故吏の顧悦之が上疏した言葉に股浩の業績をのべて次 の如く記している。
遂授分映推穀之任,戎旗既建,出鎮寿陽,駆其豺狼璃荊棘・取羅向義・広開屯田・沐雨櫛風等勤 台僕.
とあり,文中広く屯田を開くとあるのは,江西に曜田を開いたことで,ここにおいて寿陽の南方地域で 軍屯経営が行われたわけで,東晋中期に及んで・また軍屯田(・2》が重視され始めたと見るべきである・
晋代において,北方民族が齢緻に意をそそいだことは少ないが・ただ礁の鰹が鮪渠を興修
したことは注目すべきことである.晋書巻一百十三将堅伝に堅以関中水旱不時,議依鄭白故事,発王公已下及豪望富宝徳隷三万人,開浬水上源,盤山起堤,通 渠引渡,以漸岡歯之田・及春雨成・百姓頼其利・
とのべてあり,鄭渠・白渠は年月がすぎ,その機能を果たすことが出来す,関中は水草災の被害をうげ ることが多かったで,王公已下豪族富室の憧隷三万人を徴発して,脛水の上源を開き,山をけづり堤を おこし,渠漬をひいて,間直の耕地に灌漑したとのことで,その時期は,十六国春秋輯補巻三十五によ
ると,太元二年(377)の事件としている.太元元年十二月に・荷堅は代王渉翼腱をとらえ(孝武帝紀)・
そののち荷堅は渉翼腱を召して会談し,その次に前述の鄭白渠興修…のことがのべてあるわけで・ついで 価らの大軍が南下し,太元四年二肛醸陽を陥れた・それ故}こ太元二年は妥当であろう・
つぎにこれまで述べた灌漑施設について,年代順に,それを推進した人名,その本貫,そのときの官 職,その時期,名称や内容,主なる引用出典について一覧表にする.
(人名) (本貫) (官職) (時期) (名称内容) (出典)
西 晋
傅砥 北地泥陽 榮陽太守 泰始7(271) 沈菜堰 晋書47 夏侯和 光禄勲 泰始10(274) 新渠・富寿・遊破・ 晋書26 漸田千五百頃
三社預京兆杜陵繁嚢都督荊太康3(282)姦「瀦浸原田万余擢2卿
四 劉頬広陵 淮南相 ,太康中(280〜289)葛限 晋書46 五劉弘怖国相 烏丸校尉寧朔将軍元康5(295) 車相渠・水門 水経注14 六 陳敏 盧江 (楚公) 永興1後(304〜316)練塘 元和郡県志26
東 晋
七獺丹陽 晋陵触 太卿(321) 曲阿新豊塘八百余頃蒲撫志26
八 孔愉 会稽山陰 会稽内史鎮軍将軍威康8前(342) 句章県故堰漸田三百頃晋書78 九 股浩 陳郡長平 揚州刺史都督五州永和8(352) 江西曜田千余頃 晋書77 諸軍事
十 特堅(氏族) 太元2(377) 鄭白散渠 晋書113
4 貴族豪族による水利の占有
三国時代は三国鼎立という緊迫感が,国家権力を強化したと考えられるが,晋王朝は王族を各地に封 じ,王室の藩屏とした.その結果各王国の勢力増大となり,政治は分権的方向を志向し,各王は豪族と
結びつき,豪族の強化をきした。各王国の勢力増大は,晋王室との矛盾をきたし,その極は八王の乱と なり,かかるとき五胡が南下し,かつ水旱災が頻発し,王朝の勢力は衰頽した.東晋成立後,諸豪族は 自己の温存をはかり,中央政界に進出したものは,政治を私し,専横の行為が多くなった.以上の如き 政状において,灌漑に関係ある水利について,貴族や豪族はどのような行動をとったのであろうか.
武帝の威寧中(275〜279),劉頚が河内太守に任ぜられたとき,
郡界多公主水碓,逼塞流水,転為侵害.頒表罷之,百姓獲其利. (晋書46劉頬伝)
とのべてあり,河内郡に公主の水碓(13)が多かったので,流水を引水し小農民に害をあたえたとのこと
でる. (14)
また王沈は寒素出身で豪族に押えられ志を得なかったが,恵帝の元康初(291)松滋令となり水碓を つくったことについて,全晋文巻二十八王沈表立水碓の項に
洛陽百里内,旧不得作水碓,臣表上先帝,聴臣立碓,井撹得官地.
とあり,この場合先帝とは,恵帝の父に当る武帝を指し,それまで洛陽百里以内には水碓を作ることが 出来なかったが,武帝に表を出し,碓をつくることが許されたのである.しかしこのようなことは例外 でなくなり,恵帝時代になると,洛陽付近にますます水碓が多くなったようだ.石崇は太僕に任ぜら れ,そののち征虜将軍,仮節監徐州諸軍事となり,下郵に鎮した.ところが崇は別館を河陽の金谷に経 営した.世説新語中,品漂第九の注文にある石崇の金谷詩叙に
余以元康六年,従太僕卿,出為使持節監青徐諸軍事,征虜将軍.有別盧,在河南県界金谷澗中,或 高或下,有清泉茂林,衆果竹柏薬草之属,莫不畢備.叉有水碓,魚池・土窟,其為娯目歓心之物備臭.
とあり,別荘には山川の趣があ切水碓が設けられていた.太平御覧巻九百十九には金谷中にある別荘 は河南城(15)より十里のところで・田十頃があったとのべている.石崇が五十二才のとき孫秀らに害さ れたが・簿をしらべると水碓が三十全区,倉頭八百余人とのことであった.(晋書33)
また恵帝のとき,伺書令や司徒となり,竹林の七賢の一人として,個性的な人物として知られる玉成
につし・て
唯好興利・広収八方・園田水碓,周偏天下. (晋書43王戎伝)
とあり,園田水碓が天下にあまねく存在していたといい,また
司徒王・戌,既貴且富,区宅徳教,膏田本碓之属,洛下無比,(世説新語倹商二十九)
とありて・肥えたる耕地や・水碓が多く・洛下に比べる者がなかったとのことである.ともかく洛陽付 近に水碓が多く・とりわけ洛陽の西方の千金場(・6)よ嫌出する水路に,水碓が集中していた.舗の 太安二年(303)に張方が京城に迫りたるとき,
王師攻方塁不利,方決千金場,水碓皆澗,乃発王公奴婢,手春給兵稟 (晋書4恵帝紀)
とあり・方粁金場を決潰したので・水碓力〜皆涸れて了い,王公の購を発して,兵食を手着したとの ことである.これらの多くの水碓は王公の所有にかかり,灌漑に不都合となっていた.
つぎに沢池が豪族の恣意により・小農民の生産に障害になった場合がある.武帝の太康中(280_289
)に,学者の束哲が上議した中に,
如汲郡之呉沢,良田数千頃,淳水停滞,人不墾殖.聞其国人,皆謂通泄之功,不足為難,潟歯成 原,其利甚重而豪強大族,惜其魚蒲之饒,構説官長,終於不破此. (中略) 荊揚発予,汗泥之 土,渠嶋之宜,必多此類. (晋書51束哲伝)
とあり諮陽にほど遅い河内郡の呉漁よ覇す繊,良田数千頃を得ることが出来る.しカ、も通泄の仕 事は容易であり・舳の地は原野と⑳,その利益は甚だ大きい.ところが豪族はその魚蒲の饒を惜し んで・地方長官に説得して呉沢を旱妬しなかったわけで,豪族と郡太守等が結托して,小農民の希望を 取り上げなかったのである・このように沢池が豪族に占有されていることは,低地の多い荊揚亮予の地 方にも必ず此類が多いと指摘している.
つぎに華北において・西晋末懐帝のとき,大司馬侍中大都督幽州諸軍事となった王湊に関して,
竣為政苛暴・将吏又貸暴・並広占山沢,引水養田,漬陥塚墓,調発股煩,下不堪命,多叛入鮮卑
(晋書38王俊伝).
とあり,王難びにその将吏は,広く山沢を占有し我田引水をはかり・さらに小農民の罐を漬陥 し,その上に調発をはげしくし,彼等は鮮卑族の地域に逃げこんだとのことである.ここに現役の将吏 の山沢占有と水利の私有化がみられる.
東晋の中期,桓温の司馬になった伏活のr正准」の論中で寿陽の好位置を論じ・さらに
良疇万計,舘六之貢利,尽蛮越,金石皮革三県葦焉.苞木箭竹之族生焉,山湖藪沢之限,水早所不 害(晋書92伏酒伝).
とのべてあり,寿陽の付近は良好な耕地が多く,湖沼があり,水里の害もないところであるとし,さら
専こ
豪右井兼之門,十室而七,蔵甲挾剣之家,比家而発,然而仁義之化不漸刑法之令不及,所以屡多 亡国也(伏酒伝).
とあり,豪宕井兼の門が多く,それらは軒なみに武装をしており,国家の威令も行われない地域もあっ た.かように淮河以南の地域では武装自衛の豪族が軒なみに存在して居ったことを示すものである.
東晋も末期の隆安中(397−401)であるが,北中郎将・徐克二州刺史勾葬の子の蓬。弘●暢等が父の 死後,夫々要職を占め,逡は広州刺史平越中郎,弘は翼州刺史・暢は始興伯となった・かれらは貨殖に つとめ, 「田万頃,奴婢数千人」 (晋書69勾協伝)との二とである.
されば京口(江蘇丹徒県)において・
勾氏素股富,奴客縦横,固吝山沢,為京口之轟(勾協伝).
とあり,奴客を駆使して山沢を占有していいる様がうかがわれる.
晋末になり,劉裕の権力が増大するにつれて,豪族の水利等の占有に対してきびしい処置がとられ始 めた.唐長濡氏がr南朝的屯,邸,別墅及山沢佑領」(歴史研究1954の3)において視摘しているよう に,豪族はこれまで,山湖川沢を占有し,小農民より薪採や漁釣の税直をとりたてていたが,義煕九年 (413)二月に,禁断することになったのである.
晋代は治水灌漑に関する問題が多いのであるが,抜本的な施策を講ずることはなかったようである.
国家権力は微弱で,その上東晋になると,豪族の勢力は増大し・北方民族との対決もはげしくなり・小 農民は豪族の圧迫をうけるとともに,戦争の災禍にあわねばならなかった。
5 西晋時代の漕運路
曹魏王朝はおもに軍事上の要請から,黄河を中心にして北方と南方に通ずる漕運路を形成した.晋朝 が成立し,武帝の治世となり,創世の気運がみなぎり,まづ洛陽を中心とする漕運路の開発が行われた・
第一に黄河中流の五戸灘の修治が行われた.水経注巻四の河水の条の, 「又東通砥柱間」の注文に,
晋泰始三年正月,武帝遣監運大中大夫趙国,都匠中郎将河東楽世,帥衆五千余人,修治河灘,事見 五戸祠銘,錐世代加功,水流潮浴,濤波伺屯,及其商舟是次,鮮不蜘踊難済.
とあり,泰始三年(267)正月武帝は,監運大中大夫趙国の某氏と・都匠中郎河東の楽世をして・衆五 千人を衆えて,河灘を修治したとのことで,ここは古来難所で,曹魏時代にも修治した.北魏時代にな り,やはり水流が漏溶し,商船は難儀をしたとのことである.「衆1とは兵に対するもので・編民が役
として徴集されたもので,この修治により漕運の便がすすめられたものである.従来中国の水利史につ いて,最も権威のあるものと考えられる鄭肇経氏の「中国水利史」(1939)において・このことについ て言及されなかった.
第二に代竜渠の造営が行われた.水経注巻十六穀水の条によると,洛陽め西方にて千金場があり,曹 魏のときに修理され,さらに溝渠が五所開かれて,五竜渠といった・ところが武帝のとき大水により・
それらの渠が破壊され,泰始八年に修造されるにいたった.その状況について
乗始七年六月二十三日,大水班澤,出常流上三丈,蕩壊工場,五竜泄水,南注瀉下.加歳久漱超,
毎湧即壊,歴載掲棄大功,故為今週,更於西開泄,名日代竜渠.地形正平,誠得鴻泄至現千金不
与水勢激争,無縁当壊,由其卑下,水得踪上漱超故也.今増高千金,干旧一文四尺,五竜自然,必 歴世無患,若五竜歳久復壊,可転子西,更開二場二葉合用二十三万五千六百九十八功,以其年十 月二十三日起作,功重人少,到八年四月二十日畢,代竜集印九竜渠也.(水経注穀水の条)
とあり,この文は石人の東脇下に書かかれていたものを引用したもので,その大意は,泰始七年(271)
六月に大水があり,常流よりも三文も出水し,二堰rを破壊し,五竜渠は泄水したので,さらに酉の方に 代竜渠をつくり,鴻泄よろしきをえ,千金場は水勢と激争することがなくなり,その上さらに千金場の 高さを一丈四尺増したとのことで,その労働力は二十五万五千六百九十八功かかったといい,これは延 人員の意味かと思う,かくして七年十月から八年四月まで,約半年かかったわけである.
ところが 西晋後期に恵帝の太安二年(302)河間王顧の部将張方が洛陽に迫り,千金場を破壊した ので・京師の水碓が皆涸れてしまい(晋書十志紀),永嘉の初(307)になり,修理することになり,水 経注穀水の条に
永嘉之初,汝陰太守李矩,汝南太守震孚,修之以利漕運,公私頼之.
と,簡略に記されているだけで,汝陰太守李矩,汝南太守嚢孚によって修理され,漕運に利用されたこ とである.晋書巻五懐帝紀においては
永嘉元年九月,始脩千金喝,於許昌以通運.
とあり・千金場が修理され・許昌との関連において漕運が行われたらしい.ともかく,千金場を中心と して,五竜渠や代竜渠が,漕運や水碓に関係があったのである.
なお泰始十年(274)映・南山の開墾の件であるが,晋書巻三武帝紀によると,
泰始十年十二月,是歳難陳・南山,決河東注洛,以通運漕.
という記述があり・黄河と洛水を結ぶ運河によって通じようとしたわけで,鄭肇経氏は中国水利史の第 五章運河の条で,この史料を記載して,これが開通されたかの如ぎ印象をあたえるが,実際には議があ っただけで・実現にいたらなかった.すなわち通典巻十漕運の条に
錐有此議,寛未成功.
とのべてあり,その史料とすべきである.
つぎに時代順には第三番にあたる事業であ夜が,太康三年(283)に,洛東に旅人橋が設置された.
この橋造りは,石門や場構築の技術が可能ならしめたのである.水経注穀水の条に
橋去洛陽宮六七里,悉用大石,下円以通水,可受大肪過也.奇制作,題其上云.太康三年十一月初 就功,日用七万五千人,至四月末止.(水経注疏)
とあり,旅人橋は悉く大石を用い,下方は円になって居り,大筋を通ずることが出来たとのことで,洛 水から穀水をさかのぼる漕船のため是非必要な構造であった.その工事のため,労働力は日に七万五千 人とのことである.
旅人橋をへて更に東流すると,九曲漬をへて,洛水に達するのであるが,九曲漬と港口との間は都水 使者陳狼によって開墾が行われた.すなわち水経注穀水の条に
河南十二県境簿云,九曲漬在河南輩県西,西至洛陽.又按傅暢晋書云,都水使者陳狼,墾運渠,従 洛口入注九曲,至東陽門.是以院嗣宗詠懐詩,所謂朝出上東門,遙望首陽基.
とあり、その史料とすることが出来る,晋代において,洛陽城内の北東部に太倉があり(洛陽伽藍記巻 一),そこまで漕運が行われた。これらの渠は後漢の張純によって完成されたもので,陳狼によってさ
らに改修された・その時期については,都水使者が設置されたのが,後にのべるように太康四年である から,都水使者陳狼がこの事業をしたのは,太康四年以後と考えられる.
第四として,鎮南将軍,都督荊州諸軍事の杜預が,郡信臣の遺跡を修復し,新野県,穣県の灌漑をは かったことは先述の如くであるが,さらにこの地方から南方に通ずる水路を開発した.晋書巻三十四杜
預伝に,
旧水道・唯湧漢達江陵,千数百里,北無道路,叉巴丘湖況湘之会,表裏山川,実為堅固,荊i蛮之所 侍也.預乃開場口,起夏水,達巴陵千余里.内潟長江之険,外通雲桂之漕,南土歌之日,後世無
叛,由杜翁.
とあり,これま硝水が長江沿岸の江陵近くまで接近しながら・漕運可能な水路醜く・迂廻し紛れ ばならなかった.そこで杜預は
■湯口を開ぎ,夏場水をへて,夏 水に入り,そこに水路を開いて 巴陵に達するようにした.(第 二図参照、)水経注巻三十二夏水 の条に
夏水出江津於江陵県東南,
叉過華客県南.
と本文があり,その注文に 夏水又東蓬監利県南,晋武 帝太康五年立,県土卑下,
沢多隈池,西南自州陵東界,
逞於雲杜沌陽,為雲夢之藪.
(中略)夏水叉東,夏揚水 注之,水上承揚水於寛陵県 之拓口.
.とあり・湧水の楊口より夏揚水 をへて,夏水をとおり,江陵に 達し,さらに長江をくだり巴陵
に達する水路が開かれるにいた った.晋書巻十五地理志による と,江陵は荊州の南郡にあり,
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長沙郡にあり,洞庭湖畔の岳州府である.その時期は,杜預が召5信臣の遺跡である新野県・穣県の灌漑 を開発した太康三年(282)以後と言うことになろう.これらの水路は呉滅亡後の晋王朝にとり℃南 方経営の重要な進出路となったわけである.
第六に,洛陽の西方で,石巷水門を改治した.その状況は水経注穀水の条に・
旧漬叉東,晋恵帝造石梁干水上,按橋西之南頬丈,称晋元康二年十一月二十日・改治石巷水門・除 竪紡,更為函紡,立作覆栃,屋前後辟級練石障,使南北入岸・築治漱処・破石以為殺突・到三年三 月十五日畢詑,井紀列門広長深浅干左右巷,東西長七尺,南北竜尾広十二丈・巷漬目高三文,謂之 睾門橋、
とあり,元康二年十一月に石巷水門を改造し,竪紡をのぞき,函杭とし,覆栃を作った.その構造はよ くわからないが,ただ水門の巾は東西七尺で,堤防の竃屋(、7)の広さが十二丈で,巷の高さが三文と言 うのであろう.
第七に,広陵の北部で,広陵相陳敏によって,莫梁湖津湖経由の水路が開かれた・これまで長江よ り,広陵城の東側を北上,射陽湖をわたり,山陽郡の東をへて・准水に達する水路があり・漢書地理志 に言う渠水(、、)があった(第三図参照).ところが水経注巻三十潅水の条に
至永和中,患潮道多風,陳敏因穿焚梁瀬北口,下注津湖,遙渡十二里・方違北口・直至爽邪・
とのべてあり,旧水路が風波の多い射陽湖を通る東方迂廻をしているのに対し・新水路は直線に近い水 路として,焚梁瀬津湖を通ることになった(第三図参照).ただその時期が永和中となっているが・永 和とは東晋穆帝の時の年号で,陳敏はすでに没しているので不都合である・永寧元年(301)正月趙王
倫が帝位をうばった際に陳敏は 建議して
南方米穀皆積数十年,時将 欲腐敗,而不漕運以済中 州,非所以救患也(晋書10 0陳敏伝).
とあり,南方で長い間積まれた 米穀を北方に輸送し,その息急 を救わねばならないとのべ,朝 廷はそれに従ったとのことで,
敏は合肥度支に登用され,つい で広陵度支に遷った.さらに敏 は石泳乱平定に功績があり,広 陵祁になった.ところで,陳敏 に関する事件を列記すると,つ ぎの如くになる.
永寧1(301)正月趙王倫墓
帝位.(恵帝紀)
太安1(302)
太安2(303)十一月征東将 軍,劉準,遣広陵度支陳敏 撃泳.(恵帝紀)
永興,永安,(304)三月陳
敏攻石泳斬之(恵帝紀).
永安2(305)
永煕1(306)
永嘉1(307)
解
鮭
7尺
︒塩酸
率湖
口山陽郡 ノ
市塑K 射
爆. 陽 湖
メし口
う
布・
︐朔 ・毒 〆︑ 翻爵 累武
捷
o重目・ 改 鞠丸 陽
/幌ノ
ロ履ア麦郡
葉フに
。『些し踏
第一二図
広陵東側水路図
敏以功為広陵相(敏陳伝).
十二月右将軍陳敏挙兵反,自号楚公、(恵帝紀)
三月平東将軍周酸,斬送陳敏首.(孝懐帝紀)
陳敏が広陵度支になったのは,太安年間らしく、広陵柘になったのは,永興永安年間である.水路開発 は南方からの米穀輸送に関係するもので、広陵度支か広陵相のときに行われたものであろう.それ故に 永字のつく年号としては,永興永安(1g)の年号となる.なお永興は十一月に永安と改元している.つま
り紀元三百四年から三百五年の間にその水路が開かれたことになる.
6 東晋時代の漕運路
東青王朝が成立するや,食糧生産が緊急問題であり,東晋中期の穆帝のときになり,ようやく北土回 復のため,漕運路が形成され始めた.第九として筍羨による光水放水の水路である.永和八年(352)
仮節都督揚預徐尭青五州諸軍事の股浩が、北上のため江西に軍屯田として,膠田経営を行なったとき,
彼はその武将として,すなわち徐州刺史,監徐尭二州楊州之晋陵諸軍の職をもって,石竈(江蘇宝,ら 県西)に軍屯田を行なった.そののち監青州諸軍事を加えられ克州刺史を領し下郵に鎮した,そのとき 前燕の慕容傷が青州を改め・慕容蘭が数万をもって汁城に屯し,政状不安なるものがあり,筍羨は北上
し光水浅水の水路を形成するにいたった.晋書巻七十五有義伝に,
羨自光水,引放通渠,至干東阿,以征之臨陳斬蘭.
とあり,羨は光水をさかのぼり,波水にいたり,さらに放水をくだり,済水をへて東阿において,慕容 蘭を討伐した(第四図参照).本経注巻二十四放水の条に
佐久間:晋代の水利について
65ママ 放水叉西,洗水注焉.
とのべてあり,光水(洗水)と 放水との連結が示されている.
つまり筍羨は下鄙より洒水をさ かのぼり,その支流の沫水に入 り,またその支流の光水をさか のぼり,そこに工事を施し渠を 通じ,浅水にいたり,東阿に到 着したわけである.筍羨が潅腸 に鎮したのは永和八年三月であ り,慕容傷が中山で帝と称した のは四月であり,段浩が北伐の ため,洒口(洒水と潅水との交 流点)に陣したのは九月である
(晋書穆帝紀).それ故にこの 漕運の渠の設立は永和八年に行 われたのであろう.武同挙氏の 准系年表全編でも,永和八年の 事件としている.
東晋王朝が建康に都したので 長江をはさんで対岸の広陵の東 側の水路がこれまでより一層注 目されるにいたった.第十とし
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1第四図 光水波水極公溝水路図
て,永和中それが長江の近くで流通しなくなり,その渠の西方において,長江より東北行し,欧陽康を とおって広陵に達する水路六十里を形成するにいたった(第三図参照).本経注巻三十三潅水の条の注
文に,
自永和屯江都水断,其水承欧陽嵐引江天壌,六十里至広陵.(商務印書館本)
とのべている、なお注疏丈はたんに欧陽となってお切長沙王氏校本には欧陽壌となっている.この壌 の構造は明かでない.
第十一としての広陵の東側の水路は,さらに興寧中(364〜365)になり,水路の改修が行われた.水 経注巻三十准水の条の注文に,
興寧中,復以津湖多風,又自湖之南口,沿東岸二十里,穿渠入北口,自後行者,不復由湖.
とあり,津湖多風のため,湖の南口において,湖を渡らないで,東岸に沿うて二十里の渠をうがち,北 口に達したのである(第三図参照).第十二として,桓公溝であるが,海西公が即位し,まもなく華北 では西部に前秦のπ堅が・東部に前燕の慕容瞬が・それぞれ南冠の機をうかがい,太和四年(369)に,
ときの権臣大司馬桓温は自ら慕容瞳を討つべく北上した.温にとりては第三次の北伐で,平北将軍,徐 克二州刺史を領し,歩騎五万を率えて北上し、鉦野沢の南方の金郷に陣をとった(晋書98恒温伝).そ の後の状況について,
時充旱,水道不通乃墾鉋野三百余風以通舟運,自清水入河.瞬将傅末波等,率衆八万,距温戦 干林緒,温撃破之,送至紡頭.先使衰真伐諜梁,開石門以通運,真討諜梁皆平之.而不能開石門,
軍糧娼尽,温焚舟歩退(晋書桓温伝).
とのべてあり,すなわち旱魃のため,水道が通じないので鉋野に三百余里をうがち漕運路をひらき,鉦
野沢の北口に入り,沢より済水に入り,清水を北上して河に入ったのである(第四図参照).清水とは 済水が須昌県の西を通る場所で呼ばれている名称である(水経注巻八済水の条).なお水経注済水の条 の鈍野沢の注文に,晋末の閾馬因によって著された十三州志より引用して・
寿張有蚤尤祠,叉北与済渡合,自活迄於北口百二十里,名目洪水,恒温太和四年,率衆北天,掘渠 通済,至義煕十三年,劉武帝西入長安,叉広其功,自洪口以上,叉謂之桓公漬.
とあり鉋野において醇訓渚より洪水が北上し鈍野沢に流入していた.この洪水を掘上げると共に,南方 にその水路を延長して荷水に達する渠とし,三百里の水路を完成した.これを桓公漬と言い,同じく済 水の条の荷水の注文に桓公溝としている.これよりさぎ,哀真をして礁梁を討たしめ石門を開かせよう とした.震真は諜梁を討つことが出来たが,石門は慕容徳が守って居り,それを払いのけることが出来 ず,温の糧道は絶たれ,敗退した(晋書111慕春暁伝).石門は漕運上の要所であった.
孝武帝の太元八年八月になり,符堅が衆を率えて潅水を渡り,晋王朝は征討都督謝石,冠軍将軍謝玄 等をしてふせがしめた.晋書巻一百十四符堅伝に,
堅発長安,戎卒六十余万,騎二十七万,前後千里,旗鼓相望,堅至項城,涼州之兵,始達成陽,蜀 漢之軍,順流而下,幽翼之衆,至於彰城,東西万里,水陸斉進,運漕万艘・白河入石門・達於汝 穎,融等攻陥寿春.
とありて,符堅の大軍が,河より石門に入り,汝水や親水に達したので,この石門とは・榮陽の北部の 石門を指すのであって,水経注済水の条に「与河合流,叉東通成皐県北,又東過榮陽県北」とあ軌そ の注文によると,榮陽県の北にある石門は,後漢の笠宿の建寧四年(171)に敷城の西北に・石を塁に
して門としたので,石門と言い,その広さは十余丈で,河流より三里ぽかり入ったところに設けられた と言うのである.荷堅の大軍は石門より済水に入り,南向して沙水に入り・沙水をへて潅水に達し・別 軍は穎水より汝水に向って西行し,さらに汝水を南下して准水に達し,肥水の大合戦で敗北した・した
がって当時において,黄河流域と潅水流域とをつなぐ水路は,三国時代に完成された沙水穎水系があ り,便宜上これを中央漕運路とすれば,東方に桓公溝を含む東方漕運路が存在したわけである・
第十三として,洒水が漕運路として注目されて居るとき,徐州附近で水路の改修整備が行われた・す なわち太元九年(384),冠軍将軍,徐州刺史謝玄により,七塚が設けられた・晋書巻七十九謝玄伝に 玄,患水道険渋,糧運艱難,用督護聞人爽謀,堰呂梁水,樹柵立七壌為狐・擁二岸之流,以利漕 運,自此公私利便,,又進伐青州,故謂之青州浜
とあり,また水経注巻二十五洒水の条に,「又東南過呂県南」の注文に
洒水冬春浅渋,常排沙通道,是以行者多従壮漢,(此漢とは洒水の分流の丁漢水をさす)晋太元九 年左将軍謝玄,干呂梁,遣督護聞人糞,用工九万,擁水立七塚・以利通漕者・
とあり,この両史料は相補足することによって次の如く言うことが出来る.洒水の中流呂県の附近は冬 夏に沙が多く,そのため分流の丁漢水を用いたほどであり,舟運が難渋であった.
そこで謝玄は太元九年に,督護の聞入夷をして,九万人の労働力により・呂梁水に七塚をつく切河 流の巾をせばめ,急流として漕運の便をはかったのである.もっともこれよりさきに・晋書巻七十八孔 厳伝によると,
時東海王突,求海塩銭塘,以水牛牽壕,税取銭直.帝初雀之,厳諌乃止
とあり,孔厳は哀帝の隆和元年(262)に揚州大中正になり,東海玉突は晋書帝紀によると・成帝の威 康八年(342)に東海王となり,穆帝の升平五年(361)に瑛邪正に封ぜられたので・この水牛牽壌は威
康八年から升平五年までの間における事件であって,晋書巻十五地理志によると・海塩県銭塘県は呉郡 にあり,この地方で,急流に壌を設け舟運は牛力によって牽かせ,東海王変はその壌を利用する舟より 税銭をとったとのことである.しかし洒水における土壌は牛力を用いたかどうかは不明であるが・両岸 に工事を施し堅固にしたことは事実であろう.
第十四として,太元中,会稽王道子が専横をきわめ,中央政界は大いに乱れ・かかる際に名臣の謝安 (謝玄の叔父)は,揚州刺史で,太元九年に大都督湯江荊司予徐克青翼幽井梁益雍涼十五州諸軍事に任
ぜられ(晋書9孝武帝紀),広陵の歩丘に鎮し,塁をきずき新城といい,そこに壌をきずいた.晋書巻 七十九謝安伝に,
及至新城,築壌於城北,後人追思之,為召伯壌
とあり,新城の北に壌をきずき,後人は謝安が前漢の召信臣の水利の業績をつぐものとして召伯壌と言 った.この召伯壌がどのような役割を果たしたか明らかでないが,後人に恩恵を与えた.太平簑宇記巻 一百二十三広陵県の条に,
謝安鎮干武城東北二十里,築塁名目新城,城北二十里,築堰召伯壊.
とのべてあり,この壊は堰をきずいたとのべている。武同挙氏の「潅系年表全編、の太元十年の条に 太傅謝安,鎮広陵,於城東北二十里,築塁名目新城,城北二十里,築堰立斗門,利漕便農,後人遣 思,安徳比於召伯,名郡伯壊.
とのべてあり,召伯醸は堰をきずき,斗門を立て,漕に利し,農に便であるとしている.なお建康実録■
巻第九では,太元十年八月の条に, 「築塁日新城」とあり,同年同月に謝安が歿している.それ故に召 伯隷は太元十年に成立したものであると考えられる.
第十五として,淋渠,汲水の水路が開修された.東晋の末期,安宿の義煕十三年になり,太尉の劉裕 が,後薬の挑泓を討つために北上し,そのコースについて,晋書巻一百十九挑泓伝に,
晋太尉劉裕総大軍伐泓,次干彰城.遣冠軍将軍檀道済,竜駿将軍王鎮悪,入自潅肥,攻漆丘項城.
将軍沈林之,自汁入河,攻倉垣,泓将王荷生,以漆丘降鎮悪,徐州刺史挑掌以項城降.道済王師遂 人頼口,所至多降服、
とあり,劉裕は液水(下流は水経注では獲水とす)と洒水の合流点にある彰城に次し,壇道済らをし て 准肥より汲水をさかのぼり・項城を攻めさせたと言うので・この北征にあたり洒水反水系と,親水■
沙水系が北上路として用いられた、この戦で劉裕は勝利をえ,挑泓をとりこにし帰国した.そのときに ついて宋書巻二武帝紀義煕十三年の条に
閏月公自潜入河,開淋渠以帰.
とありて汁渠を開いたとあるが・黄河より浄水が分流する箇所を,劉裕が帰還に際して改修したもので ある.これに関連しての史料と考えられるものとして,水経注済水の注文に
義煕十三年劉公西征,又命寧朔将軍劉尊考,の此渠而漕之,始有激湍東注,而終山崩雍塞,劉公於 北十里・更墾故渠通之・今則南漬通津・川澗是導耳,済水於此,又兼螂目.
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