書 館 文 化学 と 生物
私の研究室(京大農学部食品化学研究室=現 生命科学研 究科生体情報応答学研究室)で修士を終了した水上民夫氏 は,長浜バイオ大学の教授に就任し,新規ながん遺伝子の発 見や抗がん剤の開発を目指しています.現在,私は長浜バイ オ大学の客員教授として,水上研究室のお助けマンをしてい ます.最初(2008年より)はほんの老化防止のつもりでお 引き受けしましたが,水上教授のヒト化酵母プロジェクトか ら発見された機能未知のヒト遺伝子はがん遺伝子である可能 性が高くなっており,大いに張り切っています(1).また,彼 が協和発酵時代に発見した化合物の作用機構(スプライシン グの阻害)に関する研究成果はアメリカ化学会雑誌の表紙を 飾りました(2) (図
1
).そんなことで,この年齢(74歳)ま で緊張感(最近はストレス気味)をもって過ごすことができ るのは幸運です.一月に1回だけ長浜に行き,意見交換をし ていますが,そのほかはメールで十分です.また論文など最 新の情報はインターネットですぐに入手できます.情報技術 の発展が,この年寄りの活動を支えてくれており,そのつど 大学の図書館にでも通って調べるような状態ならばとっくに 断念していたと思います.いい時代に生きていることを感謝 しています.1953年に2本鎖DNAの構造が発見され,それから今日ま での約60年間に生命科学はすさまじい発展をしました.私 は1961年に大学を卒業しましので,この急速な進歩の中に 身をおいていたことになります.大いに面白かったと思う反 面,いったい自分は生命科学のどこに位置しているのかさっ ぱりとわからん状態で,いつも戸惑いながらの研究でした.
以下には,生命科学の発展の歴史を振り返りながら,自分の 位置を知る旅をしてみたいと思います.
私は,農学部での研究とはどうあるべきかという問題に関 しては,論理的思考というか哲学的思考をやったことがな い,ともかく真剣に考えたこと悩んだことがありません.歩 んできた道の延長線上にある面白そうな対象を選んで研究を やってきました.どうしてもごくごく私的な回顧録になって
しまうのは,そのためです. 1961〜1966年(大学院生)
私は1961年に農学科家畜栄養学研究室を卒業しました.
当時は,畜産関係は農学科に所属しておりました.生体内で 起こる事柄をもう少し深く知りたいと思って農芸化学科栄養
解糖系酵素からエリスロポエチンまで
佐々木隆造
長浜バイオ大学
図1■長浜バイオ大学ホームページNews & Topicsより 平成23年3月18日に発行された『アメリカ化学会雑誌ケミカルバ イオロジー』誌に,本学の長谷川 慎准教授と水上民夫教授,
佐々木隆造客員教授の研究グループの論文が掲載され,その表紙 を飾りました.本論文は,GEX1Aという土壌放線菌由来の抗が ん物質が,スプライシング複合体SF3bの構成タンパク質SAP155 と結合することによりスプライシング阻害作用を示すことを,ケ ミカルバイオロジーの研究手法により明らかにしたものです.な お表紙のデザインでは,スプライシング複合体に向かって核内に 進入するGEX1Aを小惑星探査機はやぶさに見立てています(2).
化学研究室の修士学生となりました.満田久輝先生が教授で ありましたが,私は助教授の千葉英雄先生の指導を受けるこ とになりました.これは私にとっては極めて幸運な出来事 で,数々の貴重な体験をしました.当時は,千葉先生は解糖 系の酵素ホスホグリセロムターゼ(図
2
A)の構造と機能に 関する研究を行っており,私もその研究を通して訓練されま した.研究室は杉本悦郎先生が助手で,大学院学生は私が1 人いただけでした.つまり2人の大人の中になんの経験もな いチンピラ学生が放り込まれたわけで,それはそれは精神的 には窮屈であり,ちょっと感受性の高い学生ならば失踪しそ うな雰囲気でありましたが,幸い鈍感なる私はそれに耐える ことができたというか,辛抱することを体験しました.それ から,杉本先生から毎日のように直接の技術指導を受けまし たから,放っておかれたら習得するに苦労したであろう実験 技術も早く理解できました.当時は定性的な観察が多かった 生命科学の研究の中では,酵素化学は定量的観察が可能な分 野であり,物事を定量的に考える訓練を受けました.また純 粋な研究材料(私の場合にはタンパク質)をたくさんもって いることが研究の最大の強みであることを痛感しました.こ れらの教訓は後の私の研究方針のバックボーンをなすことに なりましたが,なかなかすっきりとした結論に至らない栄養 化学を敬遠する原因にもなりました.酵母のホスホグリセロ ムターゼを精製し,硫安処理をすると,菱形の実に綺麗な結 晶になります.タンパク質がこんな綺麗な結晶になるなん て,初めての経験で感激をしました.L. I. Pizer(ペンシル バニア大学)によるホスホグリセロムターゼに関する総説が(Vol. 6, p. 179, 1962) に掲載され,千葉研究室 の成果が大いに引用されていることを見て感心もし,レベル の高い研究室にいることに誇りを感じ,また将来は自分が総 説を書いてやると思いました.後になって,このPizer氏の 研究室に留学しました.もう一つ,強く印象に残ったことが ありました,今では当たり前のことなのですが.当時,千葉 先生は自前のタンパク質調製用の電気泳動装置を作製されて いました(3).長大なカラムにセルロースパウダーを充填する
のは2階からでした.この装置は,大量のタンパク質を美し く分離することができるというので評判であったらしく,医 学部の早石修先生がこの装置の使用を依頼してきました.早 石先生は酸素添加酵素の発見でノーベル賞候補でありました が,私が感銘を受けたのは,最良の手段を活用して自分の研 究を進展させようとするその姿勢でありました.当時はまだ 講座(研究室)の壁みたいな意識が存在した時代でありまし たから,ともすれば古い習慣に埋没しそうになっていた私に は極めて新鮮な刺激であり,後に血液細胞の研究など新しい 研究を始めるにあたっての駆動力になった貴重な経験です.
当時の研究室には卓上の遠心機くらいしかなく,高度な機器 類は,農学部の道を隔てた北側にあった食糧科学研究所に出 掛け測定をしました.お陰で,多くの先輩の先生方を知った こと,他の研究室に物を依頼することを尻込みしないなど,
後々の私の研究生活ではプラスになることばかりでした.し かし,いま考えてみれば,当時の千葉先生は周囲から注目さ れた存在であったようで,そこの学生ということで特に好意 をもって便宜を図ってくださっていたようです.1966年に 酵母ホスホグリセロムターゼの構造と機能に関する研究で博 士号を授与されました.ちょっと脱線しますが,酵素動力学 の元祖はミハエリス‒メンテンの式で有名なMichaelis博士と Menten博士です.彼らは1910年代に活躍したそうですが,
Maud Mentenが女性であることは長いこと知りませんでし た.その時代の女性科学者といえば,キュリー夫人しか知ら なかったので,驚きました.
当時のタンパク質の研究を振り返ってみれば,最も強い影 響を及ぼしたのがアロステリック効果の概念でしょう(4).こ れによって,サブニット構造をもつタンパク質の機能調節に 関する分子機構が明らかになりました.また,ドミナント- ネガティブという言葉は遺伝子のレベルでも使用されます が,実際にはサブニット構造をもつタンパク質に起こる現象 です.つまり,変異をもつサブニットと正常なサブニットか らなる複合体では,その生物活性が抑制されるという現象で あり,これはまさしくアロステリック効果なのです.狂牛病
(構造変化を引き起こしたプリオンタンパク質が原因)など はタンパク質の重合化に伴う疾患でありますが,異常タンパ ク質重合体が生成する過程はアロステリック効果で理解でき ます.ちなみに,廣瀬正明氏(後に京大食糧科学研究所)が 大学院学生として千葉研究室に来ましたが,彼はこのアロス テリック効果の理論を極めて明快に説明してくれました.後 に私はたくさんの方々と共同研究をしましたが,緻密で論理 的に物事を考えるという点では彼は群を抜いていました.優 れた仲間をもつことは,進歩の源です.また,タンパク質の 可逆的変性が発見され,すべてではありませんが,タンパク 質の立体構造はアミノ酸配列により決定されることが明らか になりました(5).これは,後に大腸菌などで組換え型タンパ ク質を生産したり,機能を維持したドメイン断片を比較的容 易に生産することができる基盤となっています.
外の世界では,KornbergによるDNAポリメラーゼの発 見 (1955),Arberに よ る 制 限 酵 素 の 発 見 (1962),Niren- 図2■赤血球のホスホグリセロムターゼと2,3DPG代謝酵素(15)
1,3DPG, 1,3ジホスホグリセリン酸 ; 2,3DPG, 2,3ホスホグリセリン 酸;3PG, 3ホスホグリセリン酸;2PG, 2ホスホグリセリン酸;Hb, ヘモグロビン.
bergらによるコドンの解読 (1966),GellertによるDNAリ ガーゼの発見 (1967) など重要な成果が得られていたようで すが,私にとっては小耳に挟む程度の話題であり,それらが どんな意義をもつものなのかを考えませんでした.私には,
自分のやっていることばかり気になって,ほかのことに目を 向けないという習性がありました.自分の頭の程度では,そ んなに興味を広げては消化不良になって,なんにも残らんと いう恐怖感がどこかにあったことも事実で,定年退職して やっとこの呪縛から開放されました.
このように院生時代は大いに充実したものでありました が,一つ不満がありました.それは,私の研究対象であるホ スホグリセロムターゼはアロステリック酵素でもなく,解糖 系の調節酵素でもないことでした.つまり,研究の生理的意 義が希薄なことです.有機化学に疎い私は,酵素の触媒機構 の研究に自分の限界を感じるようになっていましたので,何 とか生理的に重要な問題に研究を展開したいと強く思ってい ました.
1966〜1975年
1966 〜1975年まで私は京都女子大学家政学部講師,助教 授を務めました.京都女子大学では講義や学生指導を,研究 のほうは研修員として千葉研究室でやっていました.要する に時間がないわけで,集中力を高めて次から次へと仕事を片 付ける習性が身についたのはこの10年のお陰です.京大の 研究室では,いい研究をしなくては存在価値がないわけで,
それは必死という表現が当てはまるぐらいでした.この10 年間は厳しい試練の時代であり,お陰で随分と真っ当な人間 になったと思います.それでも,野球や麻雀をしたりして,
けっこう楽しくやることができたのは,体力に恵まれ,優れ た多くの大学院学生が協力してくださったお陰です.
この間に強く意識するようになったことは,生命に関する 研究ならばどこかで農学とつながると勝手に納得をしていま したが,直接的に農学と関係のない研究をやる場合には,一 流と認められるような研究成果を出さなくてはいかんという ことでした.「一流」とはなんぞや,私の場合は極めて単純 で,評価の高いジャーナルに論文を掲載することでした.も う一つの意識は,論文を効率良く作成することでした.多く の論文で,その結論に決定的な役割を担う証拠はほんの2 〜 3枚の図表であり,その他の図表はいわば補助データです.
結論が新規なものであり,意義あるものであることはもちろ んですが,結論を支持する補助データがいかに論理的に説得 力をもって提示されているかが,重要なポイントだと気づき ました.それで,これとおぼしき核心を突くデータが得られ た段階ですでに論文の構想は出来上がり,「今日は補助デー タのこの図表を作成する実験をする」みたいなことをやりま した.このやり方は,科学する姿勢としては邪道であるかも しれませんが,興味のおもむくままに実験をしていては,無 駄な研究費,時間,労力に耐えられないと思ったからです.
その習慣は今も抜けず,長浜バイオ大学でも核心を突く実験 を目指すように口うるさく言っています.
1970 〜 1972年にペンシルバニア大学の先述のPizer氏の 研究室に留学いたしました.テーマは枯草菌のセリンの生合 成に関与する酵素の研究で,今までの経験で十分こなせる内 容でありましたが,新たな経験をする機会に恵まれました.
家内がPizer氏の友人であるG. Cohenの研究室で行うヘルペ スウイルスの研究に私がお助けマンとして行くことになりま した.テーマは,ウイルス感染による宿主細胞(ヒト口腔癌 由来KB細胞)のRNA合成の制御機構です.細胞のRNAポ リメラーゼを取り扱うことになり,酵素に習熟した私が一緒 にやることになりました.午前中はCohen研究室,午後は Pizer研究室と大忙しの毎日でした.当時,Rutter が真核細 胞のRNAポリメラーゼにはI型とII型が存在することを報 告したばかりのホットな分野でありました(6).また,私は初 めて分子生物学と実際に接触する機会に出会い,これはたい へんな収穫で後の私の研究に大いに影響をしました.
当時グレープフルーツは日本にはありませんでした.アメ リカに渡ってこんなうまい果物があるのかと驚きましたが,
Cohen氏の研究室ではもっと驚きました.ウイルスに感染し たKB細胞の調製はテクニシャンの仕事で,私はウイルスも 細胞も取り扱いませんでした.コントロール細胞と感染細胞 の必要量と期日を言っておけば,ちゃんと供給してくれるの です.いまでも記憶しておりますが,Mindieとう名のヘソ 丸出しの若い大女のテクニシャンが,大量の培養をしてくれ ました.当時の血清は日本では5万円 (500 cc) 以上したの ではないかと思いますが,研究費の格差を思い知らされまし た.
1972 〜1973にかけては,BoyerらによりDNAクローニン グ技術が開発されましたが,当時の私には関係のない遠い話 のように思えました.アメリカではベトナム戦争に陰りが見 え始め,日本では学園紛争が終焉に近づいていました.
帰国後の研究対象の選択には悩みました.その頃には,京 大農学部に食品工学科が新設され,千葉先生が食品化学研究 室の教授に就任し,新しい研究室も出来上がりました.しか しながら,動物細胞の培養を伴うような研究はとても不可能 な財政状況でしたので,従来の研究の延長を考えました.図 2Aのように,ホスホグリセロムターゼは2,3ジホスホグリセ リン酸 (2,3DPG) を補酵素として要求しますが,その親和力 は
μ
M以下であり,これに一致して組織の2,3DPGレベルはμ
M以下です.ところが,哺乳動物(反芻動物を除く)の赤 血 球 に は,2,3DPGが 高 濃 度 (>mM) に 存 在 し ま す(表1
A).この事実はすでに1925年に発見されていたのですが,赤血球中の2,3DPGの生理機能が明らかになったのは,それ から40年も経過した1967年でした(7, 8).2,3DPGはヘモグロ ビン (Hb) の酸素親和力を低下させるアロステリック分子で あることがわかりました.赤血球内の2,3DPGの濃度はHb の濃度にほぼ匹敵する濃度であり,2,3DPGは酸素濃度の低 い末梢組織へ酸素を効率良く供給するために機能していま す.生命科学の進歩が著しいこの時代に,しかも長い研究歴
史のあるHbに関して,2,3DPGの生理機能の解明に40年も かかったことは非常に奇妙に思えるのですが,自然科学とい えども錯覚や思い込みが真実の発見を遅らせることはしばし ばあります(9).クローン羊ダリーの誕生は(10),哺乳動物の 分化した細胞の核でも個体にまで発生するために必要な遺伝 子の再プログラミングが起こることを示したものですが,長 い間そんなことは起こらないと考えられていました.ところ が,ダリーが誕生すると,日本でも次々とクローン黒毛和牛 が誕生しました.Hbと2,3DPGとの相互作用の論文を読んだ 私は,赤血球の2,3DPGの合成と分解酵素の研究を始めまし た.この研究は念願の生理的意義をもつ研究だと思ったので す.そしてそれは従来のホスホグリセロムターゼの延長線上 にあり,いろんな点でやりやすいわけです.伊倉氏(京都工 芸繊維大学)と一緒に,分解酵素と合成酵素の単離から始め ました.大量の期限切れのヒトの血液は,最初は京大病院か ら後には赤十字からいただきました.この頃は肝炎ウイルス のスクリーニングはなかった時代で,あれだけ多くの血液を 使いながら,誰もウイルスに感染しなかったのは幸運でし た.図2Bに示すように,2,3DPG合成酵素は1,3DPGと3PG から2,3DPGを合成し,2,3DPG分解酵素は2,3DPGを加水分 解して3PG(あるいは2PGA)を生成します.この代謝経路 は,発見者の名前にちなんで,Rapoport‒Luebering 回路と 呼ばれていました(11).後に,私はこのRapoport氏と深い交 流をもつことになります.われわれは酵母のホスホグリセロ ムターゼがリン酸基の転移活性と2,3DPG分解活性をもつこ とを知っていましたので,ホスホグリセロムターゼを含むこ れらの3つの酵素活性は一つの酵素に由来するというのが仮 説です.たいへんな作業でありましたが,最初から3つの酵 素活性を測定しながら酵素を精製しました.期待どおり3つ の酵素活性は一つのタンパク質が担っていることがわかりま した.赤血球には合成活性と分解活性の低いI型と,合成活 性と分解活性が高く,ホスホグリセロムターゼ活性の低い III型があり,I型は解糖系のホスホグリセロムターゼとして
機能し,III型が2,3DPGの代謝に関与することを発見し,多 機能酵素による新しい制御機構を示しました(表1B).組織 ではI型の酵素だけが発現しています.赤血球で2,3DPGが 異常に高い理由は,(1) 赤血球の分化に伴いIII型の酵素が 誘導されるため,(2) 2,3DPG合成活性は産物である2,3DPG により強く阻害されますが,Hbに結合することによりその 阻害が解除されるため,(3) Hbに結合した2,3DPGが分解さ れないためであることがわかりました.この酵素に関する研 究では競争があることは知っていましたが,われわれの論 文(12)が出版された直後にフランスのグループが同じような 結果を発表し(13),彼らの論文投稿後にわれわれの論文が出 版されたことを補遺として引用されるという際どい状況であ りました.これに懲りた私は,以後はできる限り速やかに論 文審査員の批判には答えるようにしています.この研究で,
私は初めて念願の総説を書くことができました(14, 15).
1975年以降
1975 〜 1977年にかけては,SangerらとGilbertらにより DNAの塩基配列決定法が開発され,タンパク質の一次構造 が簡単に決まるようになりました.それまではSangerが 1955年に開発したタンパク質の配列決定法がありましたが,
試料もたくさん必要ですし,面倒な手続きも必要でした.こ のDNAの塩基配列の決定法と1985年のMullisによるPCR 法の開発で,ほぼDNAやタンパク質に関する一次元的な分 析法の基礎は出来上がりました.ちなみに,Sangerはアミ ノ酸配列と塩基配列の決定法でノーベル賞を2回受賞しまし た.キュリー夫人や化学結合論のPouling(2回目は平和賞)
が2回受賞しています.
1. 東ドイツ
われわれの赤血球の2,3DPG代謝酵素の研究成果は,代謝 経路の発見者である先述のRapoport氏(フンボルト大学)
の認めるところとなり,1976年頃から3回ほど東ベルリンの 会議に招待されました.招待と言っても,現地での滞在費を 少しいただく程度でした.当時の東ドイツは外貨不足に悩ん でいましたから無理からぬことです.Rapoport氏は,アメ リカに住んでいたのですが共産主義の信奉者であったので,
東ドイツに行ったそうです.この移住は,当時全米で吹き荒 れたMcCarthy議員による赤狩り旋風とも関係があるようで すが,ユダヤ人が戦後のドイツに行くのですから,Rapo- port氏は信念の人であったようです.むろん彼は東ドイツ の生化学分野のリーダーでした.統一前の東ドイツの訪問 は,実に興味深い経験でありました.地理的にはベルリンは 東ドイツ国内にありますが,ベルリンは東西に分割され,西 ベルリンは英米仏の共同統治地区となっており,「赤い海
(共産圏)に浮ぶ自由の島」と呼ばれていました.われわれ は,西ベルリンにあるテーゲル空港を利用していましたが,
この空港は1948年のベルリン封鎖に対抗してベルリン大空 表1■赤血球中の2,3DPG濃度と代謝酵素(15)
A. 哺乳動物の赤血球中の2,3DPGの濃度 動物 2,3DPG濃度 (mm)
ヒト 5.1
ウサギ 9.6
ラット 6.4
イヌ 4.4
ブタ 8.5
ヒツジ 0.12
B. ヒト赤血球中の2,3DPG代謝酵素とホスホグリセロムターゼ ヒト赤血球中に占める割合 (%)
合成活性 分解活性 ムターゼ活性 I型(ムターゼ) 0.3 0.5 55 II型(中間型) 9 7 27 III型(合成・分解酵素) 90.7 92.5 18 2,3DPG, 2,3ホスホグリセリン酸
輸のために西側が急ぎ作ったものです.政治的に特殊な空港 でありますから,ルフトハンザ機は発着できません,イギリ スやフランスの便で行きました.西ベルリンから東ベルリン へは電車で行きますが,フリードリッヒ通りが検問所です.
ある年齢以上の東ベルリン市民は日帰りで西を訪問すること が許されていました.検問所では東に帰る方々によく出合い ましたが,その表情は硬く,うつろで,政治体制がかくも人 間の表情までも変えるのかと驚きました.現在の日本の年寄 りはいかにもうれしそうです,かくいう私もその1人です が.東ベルリンに入った途端に,すべての建物はくすんだ鉛 色,張り詰めた空気,空の色までどこか違和感を覚えまし た.東ドイツマルクは西側では通用しません.西ドイツマル クから東ドイツマルクへの交換率は1 : 1ですが,東ドイツマ ルクから西ドイツマルクへの交換率は1/5くらいであったよ うに思います.東ベルリンには西側の人間が宿泊する豪華な ホテルがあり,ホテル内では東ドイツマルクは通用しませ ん,西ドイツマルクかドルで支払います.外貨獲得の手段で ありますが,気の毒というか惨めというか,終戦直後の日本 も同じような状態であったのでしょうか? 一方,西ベルリ ンは絢爛豪華そのもの,クアフュルステンダム通り(通称 クーダム)は西側プロパガンダの最前線でした.
Rapoport氏はとてもよくしてくれ,彼のサイエンスへの 情熱に尊敬をしていました.彼の息子がTom Rapoport
(ハーバード大)です.東ベルリンで知り合い,それ以後も 交遊が続いています.東ドイツ住民への偏見の根は深く,
Tomは統一後の大学のポジション獲得に苦渋を飲まされた ようで,アメリカに渡りました.それ以後の活躍ぶりは皆さ んもご存知のとおり,タンパク質の細胞内分別に関する分野 の第一人者です.
1983年であったと思いますが,E. Hofmann氏(カールマ ルクス大学=現ライプチッヒ大学)が学術振興会の援助で研 究室にしばらく滞在しました.帰国に際してお土産を買うべ く行きましたが,彼の選んだのは,四方八方に枝が出た洗濯 物干しです.なんでそんなものを買うのかと尋ねますと,
「共産圏ではこういう便利なものを考えても発明者の収入に はならんので誰も工夫をしない,共産主義は間もなく滅びる よ」が答えでした.1989年に本当にベルリンの壁は崩壊し,
第二次大戦後の壮大な政治的実験は終わりを迎えました.今 度は,資本主義というか,競争主義,自由主義,民主主義な どわれわれの社会体制が試される番です.
統一前の西の首都はボンでありましたが,経済大国西ドイ ツの政府庁舎にしてはえらくみすぼらしく見えました.東西 統一とベルリンへの帰還の決意表明であったように思えま す.
2. 食品の機能と機能性食品
1975年から1989年まで京大農学部食品化学研究室の助教 授を務め,ミルクタンパク質の構造と物性や酵素(アルデヒ ド脱水素酵素やトランスグルタミナーゼなど)の食品への利 用に関する研究などにも従事しました.
正確な記憶ではありませんが,1983年頃から食品の機能 に関する議論が盛んになりました(16).千葉先生が音頭を 取って,京大農学部の食品工学科の演習室で頻繁に会合を重 ねていました.私は参加していませんので間違っているかも しれませんが,京大からは岩井,松下,東大からは藤巻,荒 井,上野川の先生方が参加していたようです.この過程で,
食品の新しい機能や機能性食品の概念が生まれたことは間違 いないことで,現在の大きな産業に発展しています.ただ,
商業主義に依拠したいかがわしい機能性食品が出回り,消費 者に迷惑をかける側面があることは残念なことです.私は,
この時代の生命科学の発展状況では,食品の機能に関する研 究は非常に困難であると感じていました.元来が単純明快な ことが好きというか,複雑なことを考えない頭の持ち主で あったので,食品機能に関する研究には常に及び腰でありま した.現在では,食品の機能を分子レベルで議論されるよう になっています(17〜19).
3. エリスロポエチン (EPO)
赤血球内の2,3DPGの代謝に関する研究も一段落し,次の 研究標的の模索を始めました.2,3DPGの代謝酵素が赤血球 の分化に伴って誘導されることを明らかにしましたの
で(20, 21),この誘導機構を研究することは分子生物学的にも
面白いと思いましたが,あまり乗り気にはなれませんでし た.理由は,赤血球の分化といえばHbの発現誘導が主流で あり,2,3DPG代謝酵素はどう頑張っても支流であると思っ たからです.1981年頃であったと思いますが,成田氏(京 都女子大学)がエリスロポエチン (EPO) というタンパク質 が血中に存在し,それが赤血球の生産に必要であること,タ ンパク質としての性格などはわかっていないことを教えてく れました.EPOは腎臓で生産され,造血組織である骨髄に 到達し,CFU-Eと呼ばれる赤血球前駆細胞に作用し,前駆 細胞の生存,増殖,分化を促進するタンパク質です(図
3
). EPOが不足すると,貧血になります.細胞の増殖・分化や図3■エリスロポエチン (EPO) の機能(37)
腎臓で生産されるEPOは血液中を循環し,骨髄に存在する未分化 な赤血球前駆細胞に作用し,その分化・生存・増殖を促進する
(エンドクライン作用).アストログリアで生産されるEPOは近接 する神経細胞の生存を支持する(パラクライン作用).
増殖因子は大いに将来性のある研究で面白いと思って,調べ てみますと,EPOは貧血の患者尿にごく少量存在するのみ で,その単離が困難であることがわかりました.大量の試料 からタンパク質を精製単離する,これは得意の分野でありま した.
このままでは研究はジリ貧になるという危機感から,生来 の楽観主義から,そして若さゆえの冒険心から,EPOの研 究に踏み出しました.多くの難問がありました.研究費の面 では以前よりはるかに改善されていましたが,この新しい研 究は金食い虫で,援助してくださった雪印乳業に本当に感謝 しています.それから動物細胞の培養技術は石本秋稔先生
(京大ウイルス研究所)に教えてもらいました.彼がNIHか ら帰国したことは知っていましたが,湯川記念館の前を自転 車で走る彼を見つけました.成田氏と柳川氏(ウイルス研究 所)の教育を引き受けてくれました.全く偶然の再会で,幸 先よしと思いました.次の難問は,ほんの微量に存在する貧 血患者尿中のEPOをどうやって精製するかの問題です.従 来の精製方法では無理だと思いました.これも成田氏の意見 であったように思いますが,ヒトEPOに対する単クローン 抗体を作製してアフィニティークロマトグラフィーにより一 気に精製するという考えです.単クローン抗体作成技術は 1975年にMilsteinとKohler(1984年ノーベル賞)により開 発され,われわれも利用することができる状態になっていま した.次の問題は,貧血患者尿を集めることです.EPOの 生産部位は腎臓にあり,腎疾患による貧血のほとんどは EPOの生産不足です.それ以外の原因での貧血では,酸素 供給が低下したことを感知した腎臓でのEPO生産が亢進し ます.過剰生産されたEPOの一部が尿に漏れてくるのです.
おそるおそる第一内科の内野治人先生と第二内科の井村裕夫 先生にお願いに伺ったところ,快く患者尿の収集に協力して くださいました.そのほかにも,京都中の大きな病院に依頼 して,大量の尿を集めました.最後の難問は,EPOに関す る情報を集めることです.日本のEPOの研究論文を調べた ところ,高久文麿先生(東大医学部)のグループが最も活発 であることを知りました.EPOの研究構想を述べ,ついて は情報を知りたいので,この種の会合があれば教えてほしい という手紙を書きました.すぐに,三浦恭定先生から,日光 で赤血球の国際会議をやるので来なさいという返事をもらい ました.会場では三浦先生がたくさんの方々に紹介してくだ さり,後の研究活動にたいへん役に立ちました.先述の,内 野,井村両先生をはじめ医学関係の先生方はとても親切に援 助をしてくださり,感激しましたし,正直なところ予想外で もありました.ぎりぎりのところでやっている私には,他部 門の研究者にこんなに親切にする余裕があるとは思えなかっ たからで,先生方の研究者としてのスケールの大きさを感じ ました.
実験のほうでは,ヒトEPOに対する単クローン抗体作り は難渋をきわめました.患者尿から部分精製したEPOを抗 原としてマウスに投与します.後に明らかになったことであ りますが,ヒトとマウスのEPOはよく似ており,抗原とし
て非常に認識されにくいのです.EPO抗体を生産するハイ ブリドーマ作製には2年かかりました.柳川氏は学位がか かっていましたので,必死でした.目的のハイブリドーマが 出来上がった夜は,彼は涙を流しながらビールを飲んでいま した,感激の一瞬です.EPO抗体を固定したカラムに尿の 濃縮物を通すと,EPOがほとんど均一に精製できるのです.
この成果は,新聞やテレビでも報道され,われわれは突如 EPO研究の先頭に出ました(22, 23).しばらくは,外国の学会 に招待されたりしていい気分で過ごしていましたが,実は
「終わりの始まり」でした.この頃にはすでに,EPOは貧血 治療薬として世界中の注目を浴び,遺伝子クローニングの激 烈な競争が開始されていました.われわれの成果を知って,
C. Weissman(インターフェロンやプリオンの研究で有名)
は電話で共同研究をもちかけてきました.結局,アメリカの ベンチャー企業であるAmgen(24)とGenetics Institue(25)に先 を越され,われわれは遅れました(26),完敗です.EPOには 大きな糖鎖が結合しており,動物細胞で生産しなくてはなり ません.ヒト組換え型EPOは腎性貧血などの特効薬として 使用され,バイオテクノロジーの生んだ傑作の一つになって います.その後のわれわれの研究では,EPOの糖鎖の機能 に 関 す る 研 究 な ど で,そ れ な り の 成 果 を 報 告 し ま し た
が(27, 28),強烈なインパクトを与えるようなものではありま
せんでした.また,昔の2,3DPG合成酵素のクローニングな どもしましたが(29),意気軒昂とはならず,なにか変化が必 要だと考え始めました.
4. エリスロポエチンと神経
1992年ころであったと思いますが,EPO受容体を研究し ていた増田氏(現 京大生命科学研究科)が,神経細胞株 PC12が受容体に対する抗体で強く染色されることを発見し ました.細胞株はなんでもありですから,最初のうちはこの 現象に生理的意味があるとは思いませんでした.しかし,
EPOを与えるとカルシウムの流入が促進され,神経伝達物 質の合成が促進されることがわかり(30),やってみようとい うことになりました.EPOは脳関門を通過しないと考えら れていましたので,腎臓由来の血中EPOが中枢神経系に作 用するチャンスはなく,EPOが中枢神経系で作用するため には,脳内にEPO生産部位があるはずだと考えました.神 経細胞の働きを助ける神経膠細胞の一種アストログリアが EPOを生産し,その生産は低酸素で誘導されることを見い だしました(31).また,グルタミン酸による神経細胞死を EPOが抑制することも培養神経細胞を用いて証明しまし た(32).21世紀は神経研究の時代などと喧伝されていたこと も手伝って,私も活気づきました.ところが,興味はあって も本格的に脳を勉強したことがありません.高価な脳の模型 を購入しましたが,解体すると組み立てることができなく なったり,たいへん苦労しました.ともかく,EPOの神経 系での作用を で証明することを考えました.EPO生 産は低酸素で誘導されることから,「EPOには神経細胞を保 護する機能があり,EPOは脳虚血による神経細胞死を抑止
する」というのがわれわれの仮説です.私の研究室の手に負 える実験ではありません.脳虚血による神経細胞死を定量で きること,試料を脳室内に定量的に投与する技術をもってい ることが共同研究の条件と考え,たくさんの論文を読みまし た.愛媛大学医学部の阪中研究室が動物に背負わせたミニポ ンプにより試料を脳室内に投与していることを知り,お願い をしましたところ快諾してくださいました.この実験は極め て迅速に行われ,しかも期待どおりの結果でありました.鮮 やかにEPOは虚血性神経細胞死を抑制し,虚血による記憶 力の低下を抑止しました.すでに確立されていた造血系での EPOのエンドクライン様式での作用(腎臓→骨髄)のほか に,中枢神経系にはパラクライン様式で作用する新しい経路 が存在することを提唱しました(図3).神経系における EPOに関しては,競争があることは明らかでありましたの で,この結果はすぐさま論文にしました(33, 34).はたして翌 年には,同じような結果を報告する論文が掲載されまし た(35).われわれの発見をきっかけとして,EPOの神経系へ の作用に関する研究が盛んになり,膨大な論文が報告されて います.私は中枢神経系におけるEPOの生理的意義を主張 していますが(36, 37),最近では脳梗塞などの神経疾患の治療 薬としてのEPOに注目しての研究が非常に多いようです.
この間の大きな変化は,1999年に新設された生命科学研 究科に参加したことです.農学,理学,医学,薬学の研究者 からなる研究科です.農学研究科からは大山,泉井,熊谷,
佐藤と私が参加しました.短い間(2001年に定年退職)で したが,異文化と親しく接触した期間で,たいへん面白い経 験でした.この変化は生命科学という大きな視点に立てば,
いい影響を及ぼしたと思っていますが,農学研究科ひいては 農芸化学という分野から見たプラスマイナスの議論は早計で しょう.物事の善し悪しは,見る視点によって随分と変わる ものです.異文化と言えば,千葉先生が代表を務められた食 品機能に関する重点領域研究 (1988 〜 1991) も面白い研究 組織でした.井村先生や多田富雄先生など多くの医学関係の 研究者が参加され,成果報告会ではどんな話が聞けるか楽し みでした.また日本学術振興会の未来開拓推進事業で「食資 源動物の科学」(1997 〜2002) が行われました.これは私と 伏木氏(京大農学研究科)とが素案を作成し,井村先生が取 り上げてくださり成立した研究事業です.食品,畜産,水産 の分野の研究者の組織で,クローン家畜あり,うなぎの生活 環あり,面白い話が一杯でした.ある年の「うなぎの産卵場 所」に関する研究では,出港直前の船に他の船が接触し取り 止めとか,産卵予想地点近くで捕獲した稚魚のDNAを解析 してみると日本うなぎでなかったとか,思わずクスッと笑い たくなるような話もありましたが,2009年の産卵場所の特 定はたいへん嬉しいニュースでした.この研究事業は,私の 農学分野での研究における唯一の直接的貢献であったかと思 います.
振り返って観れば,私の研究は大学院時代に刷り込まれた 考えに強く依存しており,教育の重要性を痛感しています.
京都大学と農芸化学分野の自由な空気に護られての研究でし
た.急速に進歩する生命科学の研究分野で活動できたこと は,刺激的でもありましたがストレスでもありました.私の 定年講義のタイトルは「立ち向かう楽観主義」としました.
非常に残念であったことは,村上浩紀(九大,動物細胞工 学会の創始者),北川泰雄(名大),内海成(京大),岩井裕 子(京大)の各氏がお亡くなりになったことです.皆さん,
急激に進歩する生命科学の中で,なにかをやろうと懸命に努 力をされた方々ですが,不幸にして病魔に襲われました.こ れから活躍をという現役の知己を失うことは,たいへん寂し いことでした.
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