東アジア諸国は、「東アジアの奇跡」と称されるほどの高成長を実現させていたが、
1997
年7月2日のタイ・バーツの急激な切り下げをきっかけとして、それまで経験し たことのないような経済危機に陥った。タイで始まった通貨危機は、短期間のうち に韓国、インドネシア、マレーシアなどに伝染する一方、通貨危機から金融危機、さらには経済危機へと発展し、それらの国々では
1998
年には大きなマイナス成長を 記録した。危機の原因としては、短期的利益を求めるヘッジファンドをはじめとし たさまざまな形の資金が世界的に豊富に存在していたという、東アジア諸国にとっ ては外的な要因や、海外から流入した資金の非効率な使用を許した金融・企業部門 や政府部門の脆弱性といった内的な要因が挙げられる。危機に陥った東アジア諸国は、危機からの回復にあたって、脆弱な金融・企業部 門の改革を積極的に進めるとともに、外貨不足が危機の原因の一つであったことか ら、東アジア諸国間での外貨の融通を可能にするような地域協力を進めた。これら の危機への対策が効果を発揮するとともに、世界諸国の好景気に支えられて、東ア ジア諸国の経済は急速に回復した。2001年には情報技術
(IT)
バブルの崩壊や9・ 11
米同時テロによる世界経済の落ち込みにより東アジア諸国経済も低迷するが、その 後は、世界経済の回復とともに東アジア経済も順調に推移している。順調な経済成 長を背景に、東アジア諸国の将来見通しも明るいとする見方も広がっており、必要 な構造改革への関心も薄れてきている。以上のような東アジア経済の近年における 状況を踏まえて、本号では、アジア危機10周年の節目にあたって、アジア危機から
の教訓を明らかにするとともに、東アジア経済の将来を展望する。アジア危機は、上述したようにさまざまな要因により発生したが、その性格は、
従来ラテン・アメリカなどで発生していた、政府の累積債務を原因とした経常収支 悪化により引き起こされた危機とは異なり、民間企業の行動により発生した流動性 の欠如が主な原因であると言われている。また、通貨危機から始まった危機である が、国際通貨基金
(IMF)
による誤った政策提言が、危機を深刻化させてしまったと いう見方もある。伊藤論文では、危機の原因を明らかにするとともに、危機の深刻 化について、IMFの果たした役割などを検討する。国際問題 No. 563(2007年7・8月)●
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◎ 巻 頭 エ ッ セ イ ◎
Urata Shujiro
アジア危機を契機に、危機の再来を回避することを目的として東アジア諸国間で はさまざまな分野で協力が活発化している。東アジア地域全体を含んだ協力では、
金融分野が最も進んでいる。これらの金融協力は危機の再来を防止することができ るのであろうか。各国政府が採っていた通貨をドルにリンクさせる硬直的な通貨制 度が危機の一因であると言われているが、危機後において、この問題は改善したの であろうか。白井論文では、東アジアでの金融・通貨面での協力の現状と課題を分 析する。
アジア危機の原因の一つに、大量に流入した海外からの資金が生産的な目的では なく、不動産や株などの投機的な目的に用いられたことがある。また、生産的な目 的に用いられた場合でも、実需に見合わない過剰な投資が行なわれたことが危機を 誘発した。そのような非効率的な資金の利用を可能にしたのは、金融部門と企業部 門におけるガバナンスの欠如、さらには、金融部門と企業部門による資金の非効率 的利用を監督できなかった政府部門のガバナンスの欠如であったとされている。危 機直後には、これらの部門において構造改革が進んだが、それらの改革はその後も 継続的に実行されており、危機以前に生じたような資金の非効率的使用の問題は解 決したのであろうか。問題が残っているとするならば、どのような問題が残ってい るのだろうか。首藤論文では、金融および企業部門における構造改革の進展状況お よび問題点などを分析する。
アジア危機は、長期間に亘る高成長により顕著な改善がみられていた貧困問題を 再発させた。危機に見舞われた国々では、失業者が増えるとともに貧困層に属する 人々が大きく増加した。失業者や貧困層の増大は、経済面だけではなく、社会面お よび政治面での不安定を生み出し、経済成長の基盤を大きく揺るがす結果となった。
グローバリゼーションや
IT革命が進むなかでの回復の過程において、それらの進展
により提供されるチャンスを捉えることができる人々の所得は大きく拡大している ことから、富裕層と貧困層との所得格差の拡大が深刻な問題になってきている。克 服したと思われた貧困問題の復活は、東アジア諸国にとって大きな課題としてのし かかっている。澤田論文では、危機の貧困に与えた影響を明らかにし、貧困への影 響を最小化するための方策を考察する。本号で取り上げる上記四つのテーマに関しての詳細な分析は各論文に譲るとして、
危機以降における大きな変化を
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点指摘しておこう。これらの変化は危機の教訓と 解釈することもできる。一つは、東アジア諸国における投資の低迷である。危機の 一つの原因が過剰な投資であったことはすでに述べたが、企業も金融部門も過剰投 資に対して神経質になっている。貯蓄率は危機前後であまり変化していない状況の なかで、投資率が大きく低下していることから、東アジア諸国では経常収支黒字が 拡大しており、米国の急増する経常収支赤字とともにグローバル・インバランスの◎巻頭エッセイ◎危機10周年のアジア経済― 教訓と将来展望
国際問題 No. 563(2007年7・8月)●
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原因となっている。
投資低迷は経済成長を抑制することから、危機の被害を受けた国々では、投資低 迷により潜在的に可能な成長率を実現していない国が多い。一方、危機の影響をあ まり受けなかった中国は積極的に投資を進めており、高い経済成長率を継続させて いる。危機の影響を受けていない中国と危機による深刻な影響を受けた東南アジア 諸国連合
(ASEAN)
諸国の経済成長の違いは、中国とASEAN諸国の経済規模の格差
を拡大させており、東アジアの経済地図を大きく塗り変えている。第二の変化は、東アジアにおける地域協力に対する東アジア各国の関心の高まり である。東アジア諸国は危機に際して、域外諸国から期待したような支援を得られ なかったことから、域内での協力の必要性を痛感した。危機の一つの原因が金融問 題であったことから、地域における金融協力が進んだことはすでに述べたが、金融 以外でもエネルギー、環境、IT、人材育成などさまざまな分野において地域協力の 重要性が認識されている。それらの分野における地域協力に関する議論は活発に行 なわれるようになったが、多くの分野で実施は遅れている。
貿易および投資促進に向けた自由化を通じての地域協力の必要性は東アジア諸国 で認識されているが、現時点では、二国間あるいは複数国間での自由貿易協定
(FTA)
や投資協定という形のみで貿易・投資促進が進められており、東アジア地域を包摂 するような
FTA
については、構想はあるものの、実現に向けての動きは遅い。地域 レベルでの協力が期待したようには進まない背景には、各国間での自由化に対する 思惑の違いや、各国内での自由化により発生する産業調整の問題がある。地域協力 は議論されるようには進んでいないが、首脳会議において、地域協力の究極的な姿 である共同体について東アジア諸国首脳の意見が交換されるようになった。そのよ うに地域協力への関心が高まることは危機前には予想できなかった。以上のような 状況を認識するならば、危機は東アジアにおける経済、政治、社会構造に大きな影 響を与えたことは間違いない。東アジア諸国の将来については、楽観的な展望が多い。東アジア諸国のなかでも、
特に中国の将来については、明るい見通しである。実際、2020年以前の段階で、中 国のGDPは日本の
GDP
を追い抜くという予測も少なくない。ただし、多くの予測が 過去のトレンドを将来に伸ばす形で作成されていることから、アジア危機のような 突然の大きな変化が発生したならば、予測された状況は実現しない。東アジア諸国 の経済が予測されるように順調な成長を達成するには、危機で露呈したような構造 的問題を解決しなければなならい。◎巻頭エッセイ◎危機10周年のアジア経済― 教訓と将来展望
国際問題 No. 563(2007年7・8月)●
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うらた・しゅうじろう 早稲田大学教授 [email protected]