もいうべき統一卸売市場が形成されるときからすでに存在していたのである︵もちろん︑戦後における漁業の資本制. 主要漁港における統一卸売市場の形成は︑漁業における資本制生産の発展を基盤として行なわれたものである︒本. 節では宮城県における漁業生産の発展を漁船の動力化.
されるのである︒宮城県の漁船の動力化は明治末期に開始され︑大正年間を通じ急速な勢で進行する︒すなわち第二表. まさに大正期は漁船の動力化の時代ということができるであろう︵大正初期は鰹釣漁業を中心に動力化が進行︑一〇. 期は漁船の大型化の時代ということができるであろう︒それとと.
さて︑以上︑宮城県における漁船の動力化︑大型化の数量的概括をのべてきたが︑ではその資金はどのようにして. 前貸資本主とあるが︶は地主︑問屋︑仲買︑加工業者などであったが︑これが漁船の動力化にさいしての資金提供者.
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一水産物生産地卸売市場の形成−一四七. 1︶ 六大都市において︑ 中央卸売市場の開設が認可されるのは大正末から昭和はじめにかけてである︒. 一水産物生産地卸売市場の形成一 一五一.
ることになったため︑ ﹁塩釜魚市場株式会社﹂に参加しなかった問屋は︑それ以降市場行為を行なうことができなく. なったのである︒それで︑つぎのような経過をへて︑一七問屋が新市場に収容され統一市場が形成されるのである︒. ようやく﹁株式会社塩釜魚市場﹂が設立されたのである︒.
がったのである︒したがって︑塩釜における統一卸売機関による統一市場は︑県︑町の強力な圧力のもとに問屋資本. 一水産物生産地卸売市場の形成− 一五三. 一水産物生産地卸売市場の形成一一五五.
県に提出されたのであるが︑しかし︑気仙沼のばあいにも塩釜と同様︑単一卸売機関による統一市場が開設されるま. さて︑以上のような一〇年近い抗争と妥協の結果︑気仙沼における単一卸売機関による統一市場が形成されるので. 三・七%︵新問屋は二%︶の歩戻金で︑卸売機関に漁獲物を委託販売する漁業者の市場における代理人となったので.
ある︵もちろん︑当時の船宿業務は単に市場における漁業者の代理人としてだけでなく︑仕込あるいは前貸を通じて. では︑統一市場における単一卸売機関となった水産倉庫はどのような性格の産業組合であったかを分析しよう︒水. しその中枢は︑初代役員からみても加工業者ロ船主層であった︒そして︑水産倉庫は統一市場の業務者として指定せ.
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とく︑近村の沢山の小漁業者はやはり船宿を通じて市場に販売委託したのである︒. 以上︑気仙沼港における統一卸売市場の形成過程および単一卸売機関となった水産倉庫の分析を行なってきたが︑. 塩釜市場が旧来の問屋資本の再編成された市場であったのにたいし︑気仙沼統一市場は以上みてきたごとく︑旧来の.
である︒しかし︑気仙沼の統一市場は旧来の問屋資本を排除した市場であるといっても︑それはただちに生産者によ. このようにしても︑大正初期すでに全国市場との連関をもちながら漁獲物の水揚港としての発展を示しているが︑. 1水産物生産地卸売市場の形成f 一六三.
市場も塩釜市場同様︑旧来の問屋資本が新たに再編成されたものということができるであろう︒. できるであろう︒この漁業生産の発展は本来︑旧来の問屋制流通機構から統一卸売市場への脱皮を要請するものであ. 一水産物生産地卸売市場の形成一 一六五.
すなわち︑単一卸売機関による統一市場という近代的卸売市場の原型が形成されるのであるが︑しかし︑その市場は. さて︑これまでにみてきた塩釜︑気仙沼︑石巻の三市場はいずれも以上のような制約下にありながらも︑なお相異を. もっているのである︒すなわち︑塩釜︑石巻両市場は問屋資本が再編成された市場であり︑気仙沼市場は水産倉庫す.
なわち加工業者11船主層により問屋を一応排除した市場︵一応というのは水産倉庫の資本の多面的性格による︶とみ. めているのである︒しかし︑塩釜︑石巻市場との相異は︑加工業者U船主層が昭和初年から一〇年代にかけて徐々に. 業資本による株式会社制度の魚市場に統一されるのにたいして︑気仙沼では漁協による市場にまとめられてゆく基盤.