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熊野の無社殿社と伝承の関係性について

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熊野の無社殿社と伝承の関係性について

―フィールドワークを主として―

安宅 哲平

(堀田 穣ゼミ)

● はじめに

 熊野とは三重県南部、和歌山県南部からなる地 域で紀伊半島の南端部をしめている。熊野という と熊野三山からなる熊野本宮大社、熊野那智大社、

熊野速玉大社などが思い出させるが、地域に存在 する神社の中で無社殿社が多く存在しているのも 熊野という地域の特徴である。無社殿社とはその 名の通り社殿がない神社のことであり、現在現存 している神社には多くは社殿が建てられている。

無社殿社では鳥居、または鳥居自体建てられてお らず、自然物を神座として信仰されている。こ のような無社殿社は数が少なくなっていると言わ れているが、熊野では多くの無社殿社が今も残り 続け、信仰されている特殊な地域である。なぜ熊 野の地域では無社殿社が残り続けているのか、社 殿を建てず神座をそのままの形で残されているの か、理由の一つとして伝承が関係していると考え られる。熊野の無社殿社と伝承の関係性について 論じていきたいと思う。

● 先行研究と方法

 先行研究として主になったのが『熊野山海民俗 考』と『紀伊続風土記』である。

『熊野山海民俗考』野本 寛一 人文書院 1990 年  フィールドワークと聞き取り調査によって著者 野本 寛一の視点から見た熊野について書かれた 一冊。熊野三山のことは勿論、農業や漁業、熊野 山地生業構造、海の環境と民俗や熊野の臨界信仰、

熊野の自然物の信仰について書かれている。特に 貴重なのが実際に著者の聞き取り調査による地元 の人の話である。本が書かれたのが 1990 年のた め 30 年以上前に行われた調査である。熊野には 限界集落など多く、老人の割合が特に大きい。ま た口承として伝えられているため実際にその人に 聞いた口承は大変貴重である。

『紀伊続風土記』四輯一九五巻 仁井田好古編 天保十年成立の和歌山藩による地誌、原本高野山蔵  テクストとして和歌山県神職取締所(明治 43)

活字版、国立国会図書館蔵を使用する。

 今回『熊野山海民俗』の第三章「神々の座の森と 樹々」にてこのような以下の内容が書かれていた。

 「神社の社殿を建ててはいけないという禁忌は、

当社をはじめとして、和歌山県西牟婁郡中辺路町 西谷の山神森(中略)などに共通して見られる。

しかも、『鳥居や社殿を建てるなら境内の木より も高く』という条件がつく場合が多い。(中略)

木の高さ、神の依り代としての木の高さの絶対性 を信じ讃えてきた人々の伝承なのである」(野本 寛一『熊野山海民俗考』1990 年)[1]

 神社の社殿を建ててはいけないという伝承がい くつかあると明記されている、実際に熊野には無 社殿社は多く存在しているため熊野の無社殿社と 伝承には関係性があると見られる。『熊野山海民 俗』を基準にしながら、熊野の無社殿社と伝承の 関係性を見ていきたい。

第一章 熊野の自然信仰

 熊野には多くの自然物を神座として信仰してい る神社が多く存在している。神座というのは神霊 が宿る神体のことを指している。原初の信仰形態 である自然物を座とした信仰が残り続けていると いうのが熊野の特徴でもある。

● 岩・岩壁

 自然物を座とした信仰が多い熊野だが、特に特 徴的なのは岩壁を座としたものである。特に熊野 には奇妙な形をした岩壁が多く存在している(例、

花窟神社 神倉神社など)多い理由としては熊野 地方特有の「熊野酸性岩」が関係してくる。熊野

(2)

という場所は本来地層にマグマが流れ込み冷え固 まってできた地盤である。そのため本来の土や樹 などはなくそこからかぶせるようになっているた め山や谷に巨大で異様な岩壁が露出している場所 が多いという熊野地方特有の景観が生まれていっ た。そのため特殊な景観から形状に即した命名を 誘い、その物自体に神が宿ると信じられ岩壁信仰 が生まれていったのではないだろうか。

● 森と樹々

 楠や櫟、檜 森そのものを神座としている。特 に熊野ではこういった森や樹々を神座としている 場所が多い。理由の一つとして考えられるのは熊 野という地域の多くは林業として支えられていた め山神に対しての信仰が大きかったと考えられ る。また和歌山では「紀の国」と呼ばれ木を神木 として祀る場所も多く、木には特別な思い入れが ある。

神社名 所 在 地 神座 社殿 1 花窟神社 三重県熊野市有馬 岩壁 / 2 丹倉権現 三重県熊野市丹倉 岩壁 / 3 赤倉神社 三重県熊野市赤倉 巨岩 / 4 産土神社 三重県熊野市大井谷 岩壁 / 5 岩倉神社 三重県熊野市大河原 岩 〇 6 神倉神社 和歌山県新宮市 巨岩 〇 7 神明神社 和歌山県東牟婁郡

那智勝浦町高津気 岩 〇 8 秋神神社 和歌山県東牟婁郡

那智勝浦町色川 岩壁 / 9 矢倉神社 和歌山県西牟婁郡

串本町田子小宇便田 岩壁 / 10 矢倉神社 和歌山県西牟婁郡

串本町田子小宇安指 岩 〇 11 矢倉神社 和歌山県東牟婁郡

古座川町立合 岩 / 12 矢倉明神社 和歌山県新宮市 岩 / 表 1 岩(野本 寛一『熊野山海民俗考』1990年)[2]

神社名 所 在 地 神座 社殿 1 石神神社 三重県熊野市湯ノ谷 楠 〇 2 引作神社 三重県南牟婁郡

美浜町引作 楠 〇

3 有田神社 和歌山県西牟婁郡

串本町有田 楠 〇

4 八坂神社

境内社 和歌山県東牟婁郡

古座町伊串 楠 〇

5 秡明神森 和歌山県東牟婁郡

古座川町月野瀬 (櫟) / 6 木葉神社 和歌山県東牟婁郡

古座川町田原 / / 7 矢倉明神森 和歌山県東牟婁郡

古座川町峯 (森) / 8 矢倉明神森 和歌山県東牟婁郡

古座川町井谷 (森) / 9 矢倉神社 和歌山県西牟婁郡

串本町田並 森 / 10 矢倉神社 和歌山県西牟婁郡

すさみ町口和深 森 / 11 矢倉神社 和歌山県西牟婁郡

すさみ町上村 森 / 12 矢倉神社 和歌山県西牟婁郡

すさみ町下村 森 〇 13 高倉神社 和歌山県東牟婁郡

熊野川町大山 (檜) / 14 矢倉明神森 和歌山県東牟婁郡

古座川町池野山 楠杉 / 15 矢倉明神森 和歌山県西牟婁郡

日置川町玉伝 (森) / 16 矢倉明神森 和歌山県西牟婁郡

日置川町大 (森) / 17 虫逐明神森 和歌山県西牟婁郡

上富田町朝米 (楠) / 18 山神森 和歌山県西牟婁郡

中辺路町西谷 (森) / 19 日生

大明神森

和歌山県西牟婁郡

日置川小川 (森) / 表 2 森と樹々(野本 寛一『熊野山海民俗考』1990年)[3]

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● 水

 川だけではなく滝や淵、井戸などを神座として 信仰している。滝を御神体とする以前の物で雨乞 いや滝主伝説を伝えるものもある。このような滝 は谷々、村々で民俗の核となった滝を伝えている。

また井戸も同じように信仰されている。このこと から、昔の村では真水が人々の生命線であり、そ ういった自然物を敬い枯れぬよう、神霊が宿り保 ち続けるよう願っていたと考えられる。

● 島

 熊野は太平洋に沿った形で存在し、海とも関わ りが深い。特に熊野は補陀落渡海が行われるなど したため海に対しては特別な感情を持っていたの かもしれない。河口・湾口の島に弁天を祀る形が 多く、湾口に適当な島がない場合は、湾の入り口

のどちらかに岬角に弁天を祀る形になっている。

 古く、入江で海彼から神を迎えた場合、湾口の 島を神座とした。のちにこうした島に弁天祠を設 け、湾の出入りに豊漁や海での安全を祈った。

20 地主

大明神森 和歌山県西牟婁郡

日置川小川 (森) / 21 大宝天王森 和歌山県西牟婁郡

日置川小川 (森) / 22 地主神森 和歌山県西牟婁郡

すさみ町矢野口 (森) / 23 槻宮森 和歌山県西牟婁郡

すさみ町矢野口 (欅) / 24 産土神森 和歌山県東牟婁郡

本宮町請川 /

25 宝大神森 和歌山県東牟婁郡

古座川町洞尾 /

26 矢倉明神社 和歌山県東牟婁郡 古座川町大川 27 矢倉明神社 和歌山県東牟婁郡

古座川町三尾川 28 矢倉明神社 和歌山県西牟婁郡

串本町里川 29 矢倉明神森 和歌山県西牟婁郡

日置川町小川 30 矢倉大臣社 和歌山県西牟婁郡

すさみ町矢野口 31 矢倉明神社 三重県南牟婁郡紀

和町矢ノ川

神社名 所 在 地 神座 社殿 1 矢倉神社 和歌山県西牟婁郡

串本町矢ノ熊 井戸 / 2 真名井社 和歌山県東牟婁郡

本宮町本宮 井戸 石祠

3 熊野那智 大社別宮 飛滝神社

和歌山県東牟婁郡

那智勝浦那智山 滝 / 4 大馬神社 三重県熊野市井戸町 滝 〇 5 滝神社 三重県熊野市柳谷 滝 〇 6 白衣観音 和歌山県西牟婁郡

串本町吐生 滝 〇

7 (雫の滝) 和歌山県西牟婁郡

すさみ町上戸川 滝 / 8 (平治の滝) 和歌山県東牟婁郡

本宮町平治川 滝 /

9

ジンジンオ ウボンテン タイシャ

和歌山県東牟婁郡

古座川町奥蓄 滝 /

10 相須産土社 和歌山県東牟婁郡

熊野川町相須 淵 / 表 3 水(野本 寛一『熊野山海民俗考』1990年)[4]

神社名

(島) 所 在 地 神座 社殿

1 河内明神社

和歌山県東牟婁郡 古座川町宇津木・

古座川

島 /

2 (御舟島) 三重県南牟婁郡紀

宝町・熊野川 島 / 3 (大斎原) 和歌山県西牟婁郡

本宮町・熊野川 島 〇 4 弁天神社 和歌山県東牟婁郡

さすみ町 島 〇

表 4 島(野本 寛一『熊野山海民俗考』1990年)[5]

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 表を見てわかる通り、多くの神社には神座とする ものが存在するが社殿のないものが多くある。特 に森や樹々が無社殿社として多く存在している。

 上記の三つの図(図 1、図 2、図 3)は宮本 誼 一著の「忘れられた熊野―熊野大辺地筋に残る矢 倉神社の群落―」にて熊野大辺地筋の矢倉神社群 と古祠の図説によって書かれた手書きの地図を地 図地理院によって訂正したものである。ほとんど の場所が社殿のない神社として紹介されているた め、この数の無社殿社が密集しているのがわかる。

熊野と呼ばれる和歌山県南部と三重県南部のほと んどが山で覆われているのが地図でわかる。そし て多くの神社が川に沿ってあり、山側に点在して いるのがわかる。これは熊野地方では林業が盛ん で、人々が山で木を伐り、川の流れを利用して、

木を運んでいたということがわかる。そのため、

熊野では川または道に沿って集落がいくつも点在 し、そこで林業の安全祈願として自然物を神座と していたことが容易に理解できる。

図 3 大辺地中央部の古社 図 1 東熊野海岸の古社

図 2 承 前 5 弁天神社 和歌山県西牟婁郡

すさみ町見老津 島 〇 6 春日神社 和歌山県西牟婁郡

江須之川 島 〇

7 (通夜島) 和歌山県西牟婁郡

串本町大島 島 〇

8 弁天神社 和歌山県西牟婁郡

串本町橋杭 島 〇

9 弁天神社 和歌山県東牟婁郡

古座川町 島 〇

10 (通夜島) 和歌山県東牟婁郡

那智勝浦町 島 / 11 弁天神社 和歌山県東牟婁郡

那智勝浦町 島 〇

12 (金光坊島) 和歌山県東牟婁郡

那智勝浦町 島 / 13 海士神社 和歌山県新宮市

三輪崎 島 〇

14 厳島神社 和歌山県新宮市

三輪崎 島 〇

15 (魔見ヶ島) 三重県熊野市磯崎町 島 / 16 (笹野島) 三重県熊野市

二木島湾 島 /

17 (大石島) 三重県度会郡

紀勢町錦 島 /

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第二章 無社殿社と矢倉神社

 『熊野山海民俗考』の表を見てみると、「矢倉」

と名の付く神社が多く存在しているのがわかる。

特に表 2 で比較すると、森や樹々を神座とした神 社は 31 社あるが、その内 16 社が「矢倉」「高倉」

と名の付く神社である。また「矢倉」と名の付く 神社の多くは、社殿のない神社として残っている。

ここからは「矢倉」という神社はなぜいくつもあ るのか、また、「矢倉」系統の神社の特徴などを 紹介したいと思う。

● 矢倉神社の共通項

 熊野に存在する「矢倉」または「高倉」と名の付く 神社はいくつかの特徴がある。特徴は以下の通り。

A 磐座・巨木・森・滝・泉・窟・島などを神体とし、

前面に神座を置き、ま垣を設けない。

B 社殿を建てないことを守る。建てれば火災に なると伝承されている。木葉神社では現に火 災に遭っており、現在は無社殿に戻っている。

無社殿神社と言っても、雨の日の祭事がある ので、拝殿は設けられている。

C 熊野の信仰の特徴として玉石を捧げるが、補 助的なものである。

D 祭日は旧暦 11 月 24 日、または冬至。

 以上の四つが「矢倉」または「高倉」と名の付 く神社の特徴である。特徴的なのは自然物を神体 とした信仰、そして「社殿を建てないことを守る」

という伝承があるという事。いくつか例外があり、

社殿が建てられている矢倉神社も存在するが、今 なお社殿が建てられていない神社も多く存在して いる。

● 矢倉という名前は何故ついたのか

 上記の『熊野山海民俗考』の表にて多く記載さ れている「矢倉」という神社があるのがわかるだ ろうか。『紀伊続風土記』にも計 19 社ほど「矢倉」

と名の付く神社が明記されている。矢倉と言われ れば想像するのは木材などを高く組み上げて造っ た建物を想像するだろうか、しかし矢倉神社のほ とんどは社殿がない、いわゆる高く組み上げて建 てられた建物はなく、そもそもそういった建物が ない神社が矢倉神社と呼ばれている。では矢倉と

いう名前はどこから来たのか、様々な説があるが 大きく 3 つに分けられている。

・山林地主の矢倉家から命名された

 矢倉家の山林取得は江戸時代から始まっている が、元々は鰹や鯨漁の綱本だったと言われている。

 矢倉を「やぐら」と発音し、矢野熊の矢倉神社 と現当主の住まいからも遠くないため、地元の名 士として神社との関わりは深いと考えるのが自然 である。しかし現当主の矢倉官兵衛氏が言うには それほど深く関わっていなかったという。

 「神社の近くに住んでいた田島家が長年、その めんどうを見てきた。串本の矢倉の姓の家には二 つの流れがあり、矢倉神社に関係したのは、うち とは別の家系の方だったのではないか。7 月の祭 りには我が家では祖母や母が参加したけれど、父 の父は行かなかった。父から矢倉神社のことを聞 いた記憶はありません」(桐村 英一郎『祈りの原 風景 - 熊野の無社殿神社と自然信仰』2016 年)[6]

と話している。

 関わりが深いのであれば何かしら矢倉神社の話 が伝えられるはずではないだろうか。資料に乏し く、矢倉家の祖先は 18 世紀後半ぐらいまでしか さかのぼれないこと、近くの矢倉神社との関わり も濃密ではないことなどから、山林地主の矢倉家 から矢倉神社の命名と関連した可能性は薄いと考 えるのが自然である。

・七上綱の矢倉家から名付けられた

 上皇や法皇の熊野御幸が盛んだった平安時代、

熊野三山の神職や社僧を束ねて権力を握っていた のが熊野別当である。

 熊野別当の力は承久 3 年(1221 年)の承久の乱 に続く内部抗争などで衰退し、歴史の表舞台から 消えていった。そして熊野別当家に代わって熊野 地域を取り仕切ったのが別当家の流れを汲む七上 綱(七人衆)、宮崎、簑嶋、矢倉(後に鵜殿)、瀧本、

中曾(中脇)、芝、楠(新宮または新)の各氏である。

『熊野年代記』は応永 7 年(1400 年)の項にて「正 月七人上綱上京し、各位階す」と記されている。

 七上綱のひとり矢倉氏の出自は明らかにされて いないが、矢倉氏の本拠が新宮市街地に今も残る 明神山にあり、そこに矢倉明神が鎮座していたの

(6)

だ。『続風土記』は新宮の矢倉明神社が「岩山の中 腹にあるから矢倉明神というのだ」と説明してい る。その風景の連想が「高倉」に「矢倉」の名をかぶ せたのかもしれない。七上綱の一角、矢倉氏の記憶 が加味された可能性もある。明治以降もしばらく

「矢倉」と「高倉」が併せて使われていたのだろう。

 いずれにしても、新宮の明神山は矢倉神社(矢倉 明神)の名前の発祥の地とは言い難く、七条綱の矢 倉氏もその命名由来とはかかわりないと思われる。

・地形から命名された、という推測

 「矢倉」の名は周囲の地形から名付けられたとい う説がある。『続風土記』には「クラ」や「ヤ」の 語源について言及したくだりが五か所存在する。

1.新宮城下の矢倉明神社

 「方言に山の嶮俊なるを倉といふ事神倉の條下 にいへるか如し 諸荘に嶮俊にの巖山に祭れる神 を矢倉明神と称する事多し 大抵は皆巌の霊を祀 れるにて別の社なし 矢倉の也は伊波の約にて巖 倉の義ならむ」(『紀伊続風土記』)[7]

 熊野地方では山の険しく厳しい部分を「クラ」

といい、そこに宿るカミを矢倉明神と称し、多く は社殿がない。「ヤ」も同じように巌を表す、と言っ た解説が書かれている。

2.神倉山に鎮座する神倉社

 神倉社は高倉下名を祀っている。ここでは「タ カクラジ」の語義について言及されている。「クラ」

に久良の字をあてているが解釈は上記の項とほぼ 同じである。

 「神名の義 倉は久良という借字にて倉庫なと の義にあらす久良は暗き義にも坐の義にもいへと 此久良は峻く聳えたる形の峯をいう古語なり 古 書の梯立の倉橋山並倉山岩倉山暗部山鎌倉山なと いふ名の久良みな山嶽の峻なるより名つけたる事 梯立の倉はしといふ詞にても知るへし 他にて嶽 又岩山なといふ峻き嶽を熊野山中にては久良とい ふ さて其久良の下に坐す神なれは倉下とは称へ たるなり」(『紀伊続風土記』)[8]

 高倉下については「(穀物)倉庫を管理していた」

という説もある。『続風土記』では「岩壁の下に本拠 を置いていた人物」を神と讃えたという解釈である。

3.牟婁郡周参見荘太間川村の日生矢倉明神森  ここでは「矢=谷」という解釈がされている。

 「按するに矢は谷なり 倉は大巌をいふ 谷中 石巌ある所をいふなるへし 又鎌倉の俚語に窟を 矢倉というふよし 大巌岩窟の神の義にして山の 神を祭れるなるへし」(『紀伊続風土記』)[9]

4.牟婁郡市鹿野荘熊野村の地名由来

 「慶長検地帳に伊屋村とあり今猶彌谷といふ 彌 谷は四面山嶺重畳せる谷の義なり伊也転して由也 となり遂に熊野の字を用ふ」(『紀伊続風土記』)[10]

 これらを見ると「ヤ(イヤ)」は山間の谷を指し、

周囲の山々の頂に大岩(「クラ」)がせり出すのが 熊野独特の風景

5.牟婁郡三栖荘長瀬村にある「大倉」の説明  「〇大倉

伏菟村境谷狭くして纔に細径を通す 径の左鷹尾 山の東面嶮俊にして切岸の如き大巌あり 高さ二 町 名をつけて大倉といふ 倉は壁巌の名なり  大倉より少し劣れるを小かね倉といふ」(『紀伊続 風土記』)[11]

 以上が『続風土記』から「ヤ」「クラ」の語源 についての五例である。

 矢倉明神の「矢倉」は南紀地方に多い地形、そ れも谷筋から岩壁を見上げるような場所で、樹木 や大岩を崇めたところから命名されたのではない だろうか。神は天から降り谷から剥きだした岩壁 を経て樹木や岩座に降臨すると地元の人々は考え た可能性がある。

 そのため、「矢倉」という名前は人物や宗教に よって名付けられたものではなく、地形を見立て その景観から、「矢倉」という名前が付いたと考 えるのが自然である。

第三章 無社殿社と伝承について

● 社殿がない神社

 熊野には、樹や岩を畏怖し崇めた聖所が数多く 残されている。この多くは、山中や谷深き川沿い にひっそりと祀られている。紀の国は木の国であ り、海の民は船材を求めて川を遡り、天をつく巨 樹をカミとして祀り拝み、また太古の火山活動は

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鉱物資源をもたらし、近年まで採掘されていた銅 をはじめ、水銀、鉄、金などを求めて山中に分け 入った採鉱者や踏鞴師なども巨樹や大岩を崇めた ことだろう。

 社殿のない神社や自然信仰の聖所は熊野に限っ た話ではない。対馬の天道信仰、壱岐のヤボサ、

沖縄の御嶽なども社殿のない森だけの聖所として 存在している。カミ祀りの場が社殿を持つように なったのは、仏教寺院の影響が大きく、人型では ないものを、人として祀るようになり、仏教寺院 に習って社殿を建てるようになった。熊野でも神 仏習合という文化が生まれ、仏と神を同一視し社 殿などが建てられるようになったが、いくつかの 神社は古代の神社の原型を保ったまま今も現存し ている。特に山側に社殿のない神社があるように 思える。(図 3 参照)これは海沿い側に集中して 町や都市があり、遠く離れた山奥の集落では、こ ういった影響が少なかったと考えられるが、山奥 の仕事は林業が主であり、木材を運ぶにあたり川 を用いていたため、他の集落とも交流があり、こ ういった神仏習合や建造物を建てる状況を知って いたはずだ。

 ではなぜ熊野は多くの無社殿が存在しているの か。その一つとして考えられるのが、社殿を建て てはいけないという伝承が残されているからだ。

社殿を建てると不作、不漁、災厄が起きると言わ

れている。そのため熊野のいくつかの神社で伝承 が守られ続け、熊野は古代の信仰形態である無社 殿が未だに残り続けていると考えられる。

●「空神」という概念について

 『続風土記』にていくつか「空神あり」という記 述がある。空神は一般的には「天狗」を指す言葉 だが、『続風土記』では「天狗」だけではなく「空 神」という存在を指すことがある。「空神」は無社 殿社を示す語にもなっている。これは神という存 在は空から降り立ち、神座を依り代とするという 古代信仰の考え方であり、また「神」という存在 はその場に留まり続けるものではなく、神座から はなれ空に戻る移動概念でもある。「空神」を祀る にあたり、「鳥居」がないことが条件のところもあ り、それは「天には境がなく、境界を示す鳥居は必 要ない」という考え方に基づくものである。

● 禁忌として伝わっている伝承

 神社の文献として「社殿は建ててはいけない」

という「伝承」が残されているものは少ない。代 わりに口伝えでそういった「伝承」が残されてい るところもある。

・木葉神社(和歌山県東牟婁郡古座川町井谷)

 「鎮座の歴史については、文明 3(1471)年社殿が 火災に陥り、殆どの記録を焼失したので御由緒を 知ることが出来なくなった。」(和歌山県神社庁)[12]

 「社殿を作れば火事になるとの言い伝えがあり、

禁を破って社殿を作ったところ、火事になって社 殿は焼け落ちたそうです」(み熊野ねっと)[13]

 木葉神社では社殿を建てようとしたところ火事 が起きたという伝承が残されており、今なお木葉 神社には社殿が建てられていない。神座自体なく、

昔は樹を祀っていた。禁を破り、火事が起きると いう伝承は、実際に神がおり、禁を破ることによっ て、怒り、火災が起きたという物語性が保たれ、

その伝承に説得力が増し、守り続けられていると 考えられる。

・山神森(和歌山県西牟婁郡中辺路町西谷)

 「一村の氏神なり。境内に石灯篭ありて社なし。

社を建つれば祟りありと伝ふ総て熊野の山中には大 図 4 東牟婁郡古座川町宇津木の矢倉神社(筆者撮影)

奥に石祭壇、石灯篭があり、鳥居がない。

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樹或は古木を神体とし、其境内雑樹蓊鬱として周囲 数町に亘るもの多し其祭日には供物を木葉に盛り 或は木葉を供ふることあり。通して木葉祭りといふ 山中風俗の一端といふへし」(『紀伊続風土記』)[14]

 山神森では「社を建つれば祟りありと伝ふ」と 書かれており祟りがあるという伝承が残ってい る。この伝承を守り未だこの神社には社殿が建て られていない。こちらは「祟りがある」という伝 承のみで実際にどういった内容の祟りがあるのか の記載はされていない。

・山田御神森(和歌山県田辺市新荘村)

 「社地周三町本村の中小名北原の田中にありて社 なし大木を神体さす此木に霊ありて斧充れは祟をな す故に神をあかむ拝殿あり」(『紀伊続風土記』)[15]

 こちらの伝承も「祟りが起こる」と明記している が、実際にどういった内容で祟りがあるのか明記 されていない。また社は建てられていないが、神 を崇めるための拝殿は建てられている。無社殿社 が禁忌として「境内に社殿を建ててはいけない」と いう伝承があるなか、こちらの伝承は、「木を伐る と祟りがある」だけで建造物を建てること自体は容 認し、拝殿が建てられている。社は現在では本殿と 呼ばれ、神を祀る場所とされ、拝殿は御神体を拝む ための建物であるため、別物としてあつかわれ、神 を拝むための建造物が建てられたのだろうか。和 歌山の伝承にいくつか神木を伐るまたは斧を当て ると祟りが起こると言われる伝承がいくつもある。

・神戸神社(東牟婁郡古座川町高池)

 「その昔、地元の有志が鳥居を建てようと神様 にお伺いしたところ「鳥居は要らぬ。その代わり 木材を献木して鳥居の高さよりも高い炎をあげ、

夕刻から夜明けまで炎を絶やさずに焚き続けれ ば、氏子の安泰、家業の繁栄を見守ってやろう」

とのお告げがあったそれが火焚神事の由来であ る。」(桐村 英一郎「祈りの原風景― 熊野の無社 殿神社と自然信仰」2016 年)[16]

 こちらは今までの伝承とは違い、「神」が実際に 人々に伝えていることが特徴的である。以外の三 つは詰まるところ、人々の考え方、または伝わっ ているという内容の伝承によって社殿(鳥居)が建 てられなかったが、神戸神社の伝承では「神」自身

が不要と伝えている。また鳥居の代わりに「鳥居よ り高さよりも高い炎を炊き上げ、夕刻から夜明け まで炎を絶やさずに焚き続ければ、氏子の安泰、家 業の繁栄を見守ってやろう」とお告げをしている。

社殿を建てない理由として、安泰や繁栄を願うため に、社殿を建てずに火焚神事を行い続けるために神 のお告げを守り鳥居を建てないのは特徴的である。

 以上の四つが自身で調べてきた中であった、社 殿を建てることを禁忌としている伝承である。鳥 居を建ててはならないという伝承もあったが、そ の神社も無社殿社である。自分自身で調べてみた 範囲では、鳥居があり、社殿が建てられていない 神社はいくつもあったが、鳥居がなく、社殿が建 てられている神社は今のところ見つけていない。

鳥居は境内の境界を示す指標のため、必要とする 場所もあるが、鳥居を建てない時点でそこは移動 概念が伴う「神」が存在するため、社殿は建てら れていないと考えられる。

第四章 神木と伝承

 熊野にある無社殿社の伝承を調査している最中 に気付いたことがある。それは和歌山には木を 伐ってはならないという伝承がいくつかあるとい うことだ。和歌山は「木の国(紀伊国)と呼ばれ、

木を常日頃から大切にする習慣があったと考えら れる。日本古来の考え方として、古いもの大きい ものには神霊が宿ると考えられており、特に神社 境内の樹木には「神木」と呼び妄りに痛めつけて はならないと言われてきた。そして二叉や三つ叉 になった木も神の座す場所として霊威視され、巨 木や老木には「木の精」が宿ると考えられた。和 歌山が「木の国(紀伊国)」と呼ばれるようになっ た伝説といくつかの伝承を紹介したい。

● 木の国の成り立ち

 「昔、はるかな昔。須佐之男命(素盞嗚命)は 我が瑞穂の国に木らしい木のないのに気がつい た。そこで鬚髭を抜いて息を吹きかけ杉の木種を つくった。次いで胸の毛を抜いて檜の木種を、尻 の毛を抜いて槇の木種を、眉の毛を抜いて楠の木 種をつくった。そして、御子の五十猛命・大屋津

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姫命・枛津姫命の三神を呼んでこういった。「こ の木種を植え育てよ。杉と楠は舟をつくるのに用 い、檜は家をつくるのに、槇は棺をつくるのに用 いよ。」三神は早速その木種をこの地に植えつけ た。これが「木の国の始まり」である。何年かたっ て木の国は樹木が鬱蒼と茂り、良材を多く産する 国になった。神武天皇が檀原ノ宮を造営する時、

天冨命が手置帆負・彦狭知の二神と共にこの国に 入り、木を伐り出した正殿をつくり、手置帆負・

彦狭知二神の子孫はこの地に住みつくことになっ た。その後、「木国」は「紀伊国」と書きあらわ されるようになり、五十猛命・大屋津姫命・枛津 姫命の三神はいずれもこの地に祭られ全国的に珍 しい「木の神様」とされている」[17]

● 木に関する伝承

・寺山の大傘松

 「昔、印南町の寺山の頂上に大きな松の木があ り、鹿々瀬峠からも印南からも見えた。日中、こ の松の影が日高平野を覆っていたという。ある時、

久三という男がこの大木を伐ろうとして大斧を打 ち込んだとたん発狂し、村人たちはこの木の祟り だといったという。」[18]

・蟻通神社の楠

 「田辺市湊の蟻通神社に大きな楠がある。昔、

この近辺に大火があった時、不思議にもこの楠の 枝葉からさかんに白水が噴き出て延焼を食い止め たという。またある時、この楠の枝が社殿の上に 延びてきたので伐り取ることになった。木こりが 木の上にのぼったがすぐに下りてきて「金の幣が 目の前にきて挽くことができん」という。二、三 人替わってやってみたが同じことであった。最後 にのぼった木こりが無理に鋸を入れたとたん木か ら落ちて大けがしたという。」[19]

・小又川の樅の木

 「昔、龍神村小又川に樅の大木があった。ある時、

杣人がこの木を伐りにかかったが、夜のうちに切 り口が消えて元通りになっている。そこで夜通し 様子を見ていると小法師風の木の精が伐り屑を拾 い集めて切り口に詰め込んでいる。翌日から杣人 たちは伐り屑を全部集めて焼いてしまう。二、三 日後にこの大木を伐り倒した。するとその夜更け に杣人たちが寝ている所へ木の精達がやってきて

枕をひとつひとつ返していった。杣人の中に一人 だけ信心深い男がいていつもお経を唱えていたが、

その夜も寝言で般若心経を唱えていたので、木の 精たちはこの男の枕だけは返さなかった。翌朝、

この男以外の杣人はみんな死んでいたという。」[20]

・小又川の檜の木

 「昔、竜神の小又川に檜の大木があった。ある時、

木こりが七人かかつてこの木を伐り倒したところ、

その夜木こりたちの寝ているところへ木の精があら われ枕を一つ一つ返していった。すると、その翌朝 この木こりたちはみんな死んでいたという。」[21]

・稲積の木

 「昔から稲積(すさみ町)の木を伐ってはいけ ないといわれてきた。ところがある漁師がこの禁 を破って稲詰みの木を伐り、船の艫の修理をした ところ、船は湾内をまわるだけでいくら漕いでも 外海へ出なかったという。」[22]

・稲荷神社の神木

 「慶長十年、浅野左衛門佐が稲荷山(田辺市)

の神木を伐って船を造ったところ、船卸をしたと たん海中にしずんでしまったという。」[23]

 紹介した伝承はすべて「伐り倒す」か「伐り倒 した最中」に起きた恐ろしい出来事についての伝 承である。特に「小又川の樅の木」と「小又川の 檜の木」の伝承の内容はとてつもなく恐ろしい。

この二つは木を伐り倒していた後に、木の精に よって殺されてしまうと言った内容である。木の 精が宿るということは、大木か老木だったことが うかがえる。そのため和歌山では神社境内の神木 問わず巨木や老木を大切に扱う文化が根付いてい るのではないだろうか。『熊野山海民俗考』の森 と樹々の神座が多く存在している。このことから 和歌山には木に特別な感情を持ち、神木として奉 るなどして、大切に扱われていることがわかる。

第五章 現在の無社殿社

 今回、社殿のない神社である無社殿社について 語ってきたが、その無社殿社が消え去るかもしれ ないという話である。というのも神社の伝承を破 り、社殿を建てるという話ではない。無社殿社が 誰にも信仰されず消え去る可能性が高いのであ

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る。それには、無社殿社が山奥の集落に建てられ ていることが関係している。現在、山の奥にある 集落はもうすでに過疎化が始まってしまっている のだ。昔、林業によって栄えていた集落であった が、木材の需要が減り、高齢化によって人々が集 落から離れてしまっているのが現状である。私が 実際に無社殿社を訪れ、実際に感じた事や写真に よって、無社殿社の現状を伝えたいと思う。

・和歌山県東牟婁郡古座川町峯の矢倉明神森  古座川の近くにある峯と呼ばれる集落にあるの が矢倉明神森である。現在では矢倉明神森とは呼 ばれず矢倉神社と呼ばれている。峯と呼ばれる集 落は現在 6 軒しかなく、全員ご高齢である。山の 中腹あたりにあり、峯に向かうには、一本道を自 動車で登り、その後、集落の裏側にある神社を訪 ねることになる。鳥居などの目印はなく、石階段 を登れば、開けた場所となり、石灯篭と石祭壇が あり、儀式の場として、または信仰されてきたの

だとわかるだろう。上記の通り、峯という場所と 限界集落から、数年後には危ういと感じられた。

・三重県熊野市育生町赤倉の丹倉神社

 高さ 10cm ほどの球状の大きな岩を神座として いる。社殿はない。以前は巨岩の下に八幡社や稲 荷社の小詞があったが、今はなくなっている。無 くなった理由として、ここの神様は天狗の荒神様 であるため、妙なものが置けないという理由で撤 去された。今は神座から少し離れたところに小詞 がある。丹倉神社の近くにある集落も過疎化が進 み、今や数名しか住んでいない状況である。また 交通アクセスもしづらく、40 分ほどカーブが多 い山道を通るため、地元の人でも危険である。丹 倉神社はまだ珍しく巨大な岩を信仰している神社 として紹介されたりなど、観光案内に出ているが、

常に管理している集落の人たちがいなくなれば、

どうなるかわからない。

図 6 矢倉明神森(筆者撮影)

石祭壇がある。石灯篭などは倒れている。

図 5 矢倉明神森(筆者撮影)

集落の裏山にある石階段。

図 8 丹倉神社(筆者撮影)

神座の下に祭壇と賽銭箱が設置されている。

図 7 丹倉神社(筆者撮影)

この巨大な岩が神座として祀られている。

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● 終わりに

 熊野は現在も多くの自然物を神座とした神社が 多く存在している。特に木や森を神座としている 神社の割合が大きい。木を神座としている神社が 多い理由としては、熊野は林業が栄え、多くの人々 が山を切り開き、集落をつくり、その集落内で、

信仰されているのが無社殿社となっていると考え るのが自然である。木や森を神座としているのは、

その場所を神聖な場所とし、山の神を祀る場所と するためであると考えられる。また無社殿社が多 い理由の一つとして、伝承によって社殿を建てる ことが禁忌とされている所がある。社殿を建てる ことによって不漁、不作、災厄が起こると言われ ている場所があり、社殿を建てるにしても「鳥居 は御神体より高く」などの制限が付く神社などが ある。このことから熊野には社殿を建てず、自然 物を神座とした、古代から続く信仰の姿が残され 続けられているのだと考えられる。

 しかし、今そういった古代の信仰の姿が失われ ようとしている。和歌山県西牟婁郡すさみ町下村 の矢倉神社は、昔は無社殿社であり、社殿を建て てはいけないという禁忌があったが、昭和 55 年 にそれを破り社殿を建てることになった。他に無 社殿社の多くは山奥に存在し、その集落ごとに祀 られていたが、過疎化により管理する人たちがい なくなる可能性もある。伝承を破り、古代の信仰 形態を崩すか、それともそのまま風化していくの か、どちらにしても存続は難しい問題である。

● 引用文献

 『紀伊続風土記』に明記されているページ数は 和歌山県神職取締所(明治 43)活字版のものを 使用している。

[1] 野本 寛一(1990 年).『熊野山海民俗考』、

人文書院 p250

[2] 野本 寛一(1990 年).『熊野山海民俗考』、

人文書院 p235 ~ 236

[3] 野本 寛一(1990 年).『熊野山海民俗考』、

人文書院 p236 ~ 239

[4] 野本 寛一(1990 年).『熊野山海民俗考』、

人文書院 p251 ~ 252

[5] 野本 寛一(1990 年).『熊野山海民俗考』、

人文書院 p254 ~ 255

[6] 桐村 英一郎(2016 年).『祈りの原風景―熊 野の無社殿神社と自然信仰』、森話社 p21

~ 22

[7] 『紀伊続風土記 第三輯 牟婁,物産,古文書,

神社考定』(和歌山県神職取締所、1910 年)

p97

[8] 『紀伊続風土記 第三輯 牟婁,物産,古文書,

神社考定』(和歌山県神職取締所、1910 年)

p151

[9] 『紀伊続風土記 第二輯 伊都,有田,日 高,牟婁』(和歌山県神職取締所、1910 年)

p754 ~ p755

[10]『紀伊続風土記 第二輯 伊都,有田,日高,

牟婁』(和歌山県神職取締所、1910 年)p737

[11]『紀伊続風土記 第二輯 伊都,有田,日高,

牟婁』(和歌山県神職取締所、1910 年)p676

[12]和歌山県神社庁 http://wakayama-jinjacho.or.jp/

jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=8043

[13]み熊野ねっと https://www.mikumano.net/

meguri/konoha.html

[14]『紀伊続風土記 第二輯 伊都,有田,日高,

牟婁』(和歌山県神職取締所、1910 年)p699

[15]『紀伊続風土記 第二輯 伊都,有田,日高,

牟婁』(和歌山県神職取締所、1910 年)p659

[16]桐村 英一郎(2016 年).『祈りの原風景 - 熊 野の無社殿神社と自然信仰』、森話社 p246

[17]和田 寛(1978 年).「和歌山の民話・伝説」(『和 歌山の研究』5・方言・民族篇)、清文堂 p196

[18]和田 寛(1978 年).「和歌山の民話・伝説」(『和 歌山の研究』5・方言・民族篇)、清文堂 p200

[19]和田 寛(1978 年).「和歌山の民話・伝説」

(『和歌山の研究』5・方言・民族篇)、清文堂 p201 ~ 202

[20]和田 寛(1978 年).「和歌山の民話・伝説」(『和 歌山の研究』5・方言・民族篇)、清文堂 p209

[21]和田 寛(1978 年).「和歌山の民話・伝説」(『和 歌山の研究』5・方言・民族篇)、清文堂 p209

[22]和田 寛(1978 年).「和歌山の民話・伝説」(『和 歌山の研究』5・方言・民族篇)、清文堂 p211

[23]和田 寛(1978 年).「和歌山の民話・伝説」(『和 歌山の研究』5・方言・民族篇)、清文堂 p211

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● 参考文献

・野本 寛一『熊野山海民俗考』(人文書院、1990 年)

・桐村 英一郎『祈りの原風景― 熊野の無社殿神 社と自然信仰』(森話社、2016 年)

・「忘れられた熊野― 熊野大辺地筋に残る矢倉神 社の群落―」宮本 誼一『古美術』42(三彩社、

1973)

・『紀伊続風土記 第二輯 伊都,有田,日高,牟婁』

(和歌山県神職取締所、1910 年)

・『紀伊続風土記 第三輯 牟婁,物産,古文書,

神社考定』(和歌山県神職取締所、1910 年)

・和田 寛「和歌山の民話・伝説」(『和歌山の研究』

5・方言・民族篇)(清文堂、1978 年)

・古座川町史編纂委員会編『古座川町史』(古座 川町、2010 年)

・ 矢 倉 信 仰( 最 終 閲 覧 日 2020 年 1 月 15 日 ) http://kamnavi.jp/uga/ugayakura.htm

・和歌山県神社庁(最終閲覧日 2020 年 1 月 15 日)

http://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/

GetWjtTbl.php?JinjyaNo=8043

・み熊野ねっと(最終閲覧日 2020 年 1 月 15 日)

https://www.mikumano.net/meguri/konoha.

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