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深田神社 ガウンガウン祭(旧 2 月 2 日)

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2月29日 串木野市野元 深田神社 ガウンガウン祭(旧2月2日)

深田神社の祭神はヒコホホデミノミコトで神殿は新しい。約 300 年前の深田川の大洪水で御神体の鏡が深田から 野元に流れついたといわれている。古い何んとも得体の知れないが人工を加えたらしい石神が数個、境内の右側の 祠の前に並べてある。ガウンガウンの名称はこの地方で牛追が使う「ビョウビョウグワ」が訛ってガウンガウンと なったという。野元は漁港でありながら祭は農耕予祝の祭事と見てよい。農耕の神、厄よけの神の信仰を持ち、子 供が生れて丁度33ヶ日にその赤坊を神社へ連れて来て、泣き声を神様にお聞かせ申すと、その子は元気に育つとい う迷信がある。今日もガウンガウン祭の始まる前に大ぜいの母親達が赤ん坊や、もう少し大きな子供をつれて来て、

まづ神職のお祓があり、それから(午後2時頃から)ガウンガン祭の本番となる。午前中1時リハーサルがあった。

この方はお天気もよくて、大へんよかったが、本番のときは雨が降り出して大へんだった。

現在は 3 地区(野元、平江、深田)の旧家が祭主となって祭をする。この旧家というのは名頭(ミョウトウ)=

今でいう本家筋と名子(ナゴ)=今でいう分家筋で、この旧家が13班に分かれていて、上記の野元、平江、深田の 3地区に分れているがこの三地区は年番順に廻り且つ13班の各班のものが祭主となって、祭りの世話役を13年に1 回勤めるようになっている。

毎年ガウンガウン祭に登場する重な役は テチョ(おやじ、亭長か)太郎、次郎、牛役

の4名で、この4名は祭りに当った班内の旧家から出る。

式の次第は拝殿前の広庭を舞台として、そこへ諸役が登場して一連の田行事の予祝をするのであるが、何分にも その作法が13年目に1回廻って来るために、正確な伝承が難しく、且つこの地方の人達の気風が一般に陽気であり、

狂言を愛好する傾向が強いので、思い思いにその作法に工夫が加えられて、長い年月に刻み込まれたこの地方の農 村の生活講が*******風の即興劇として演出されることに自らも工夫を年々重ね、また参詣人もそれを高く 評価するようにいつしかなってしまって、この歳十年が迎えたようである。

従って当年の世話役達は早くから、不定期に寄り合って、今年の演出はどのようにしてやろうかという合議自体 が又楽しみのようで、もうそこには神様は居られない。村の楽しいレクリエーションのプログラム作成会議である ようある。

このような芝居好きの人々が今日まで寄集って会議を重ねた結集の本年の演出は次のように決ったらしい。

まづ夫々の役につくものは、その役によって筋が決っている仕草を独創的な工夫でこなす丈ではなく、銘々が考 えた名せりふを吐きたいのであるが、野外であることや、面をつけているために声の通らないので、前以ってリハ ーサルを録音に吹き込み、これを当日は拡声器で流して、役者はそれを合せて仕草を演ることにした。

祭班ができたのは昭和24年のことで、それまでは、名頭を始め20の定った門(かど)が宮座を組織し、うけま え(受前)が産土神田(うぶしなだ)1反8畝を耕して、その収穫で春秋(秋はホゼ)の祭の費用を出していたとい う。

氏子と門との関係は次のようであったらしい。

深田部落 中屋門

平江部落 井上門、中薗門、外薗門 上薗門 原園門 筋政門、堀之内門、橋之口門、山原門。

野元部落 久保門、浜田門、野元間、浜山門、田中門、満留門、家屋門、田島間、下薗門、中島門

であって各門は名頭をつとめる家1戸と名子家7~8戸とから成るこのどこかの門に所属しているもの以外は昔は全 然祭にはタッチできなかった所が最近では門の中心となる名家が転落して祭主となる能力を失う例がよくできたよ うなことや同一の門の人が、3部落に散らばっていたりして門制が崩れて来たので、昭和24年に深田約30戸、平江 約90戸、野元約170戸の氏子を深田は1班、平江を4班、野元を7班の12班に地域的に分けてそのうちの1班内 のものが1年間のまつり(春秋2回)を受け持ち、うぶしな田も班員が協同で耕作することにしている。

朝のリハーサルのときは晴れていたが午後2時頃からの本番は折悪く雨となった。

(1) こちょうの田打

こちょうが大きな2m以上もある自然木(松)の樹皮をはいで鍬のように枝を残したものを担いで拝殿から境内 の広場に下りる。こちょうとは父の意味の言葉で戸主から選ぶ。露店で買って来たような、ビニール製の面を 鋏などで加工して勝手な面をつくり、面の上から頬かぶりをし、どこかの建設会社から仕事着の法被を借りて 来て裏返しに着、腰とは空缶かなんかでつくった煙草入れ(トンコツ)を下げて、鍬を担いでふらふらと出て 来るがそのとき、演出家は拝殿でテープレコーダーを加減して

「今日はウブシナサーの田植じゃって、氏子は出て来て田を打て」

と水口の水加減をしたり、畦を塗る格好をするが、見物の子供達は前日に作ってある小型の鍬で集って来て田 を打つ所作をやったりてちょうの足をひっかけて倒したりすることになっているが、雨で子供がやって来ない のでこちょうが1人で暴れたり、ひっくり返ったりしていた。

(2) 太郎、次郎の牛使い

こちょう退場すると、太郎、次郎が登場する。役柄はてちょうの長男次男を意味する。同様な装束、面はつけ ていない。持物は牛の鼻木と、馬鍬(もが)である。いろいろ滑稽な所作をして場内をあちこち走り廻ってい るが、そのうちこちょうも出て来て、牛を探せと言ってあるのに何を怠けとる、牛小屋に牛が居ないから探り とるなど問答があり、太郎、次郎はまたあちこち「ビョー、ビョー」と呼んで牛を探す。結局牛が小屋に帰っ ているのを見付けて引出す。(拝殿から)牛役は牛の面をつけ、黒い毛布を背に被って、やはり黒付のズボン下、

(2)

シャツをつけ、股に3合入りの米袋を2つにくびってふぐりにしてぶら下げ、それに人参に採色したものをつ けて、サカリのついた男牛に擬する。面は箕に黒紙をはり鼻や眼を色紙でつけ、長い銀紙を巻いた角や耳をつ けてあて、牛役はこれを両手で持っているのである。もとは現在のような牛面でなく鼻の高い赤鬼面であった という。牛は鼻木も馬鍬も振切って盛んに暴れ廻り若い娘(見物人)を追いかけ廻して、しまいには神社から 村の方にまで走って行く。そうすると、太郎と次郎はまた探しに行く。こちょ役が牛を引張って来て、おまえ は血圧が高いで、あまり暴れると脳溢血になるでおとなしくしばらくこゝで休めと雨の中の芝生へ寝かせる。

牛が退場したあと、こちょうが再び鍬で田の面をならす(ナラメに)所作をする。

(3) 田植。

そのとき7~8人のものが、面をつけ笠、蓑をつけて田植に登場する。もとは男の大人達であったが、本年は班 中の主婦達がやる。それぞれ笛籠を担い棒で担って、籠に入った松葉を笛に見立てゝ境内の広場に所かまわず 播く。この時はきまりの田植唄が入る。

今日の田植の田の主どのは 苗もさなぼい 田もさなぼい

いなごうどのは植田に直りて 秋のせにつく 今日の田植の弁当持は

じんかたびらに しゅすの帯

この歌が済んで、拡声器が流行歌になると、この田植婆のおばさん達突然ゴーゴーを踊り出す。境内大拍采で ある。

(4) ひるめし。

ゴーゴーの最中に、やはり百姓姿をした男役が赤飯の握飯をひるめしたんごに入れて 2 人、担い棒で担いで来 る。見物人が、大ぜい集って来て、ひるめし運びの手から奪いとるようにして食べる。中にはちんごの中へ手 を突込んで取っているものもある。またたく間に空になってしまう。この空になった桶の底を叩いて、やはり 踊り廻っている。これで行事は終了する。このあと若い娘さん達の音頭踊りがあるらしいが、雨のため、見物 人はもう帰り仕度である。

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