生きるための呼吸、感じる呼吸 -香りと慣れ現象-
昭和大学医学部第二生理学教室 政岡 ゆり
目的・背景
呼吸に関連した脳内部位は3箇所あると考えられている。呼吸は意識せずにそのリズ ムを繰り返しており、そのジェネレーターは延髄に存在する。エネルギー代謝に応じた 酸素を体内に取り入れ、また産出する体内の二酸化炭素濃度を一定にするために呼吸の 一回の深さ、速さを調節する役割をもっている。また深呼吸をしたり、呼吸を停止する など、自ら随意的に変化することもでき、その機能は大脳皮質の運動野に関連している。
そしてさらに怒り、悲しみ、喜びなどの情動変化の中枢である辺縁系に関与している。
生命を維持するのに不可欠な呼吸であるが、意志によって、または情動によって多様に 変化することは興味深い。呼吸にはヒトが生きるために必要とされる機能、すなわち人 間に備わる意思決定を司る最高峰である皮質から、情動に関与した辺縁系、そして生き るために不可欠とされる延髄までが関与しているのである。
香りを嗅ぐという行為も呼吸に密接に関係がある。呼吸と香りの脳内の連関を研究す ることは、情動のメカニズムを知る上で重要である。これまでに香りによる呼吸変化と、
香り刺激時の吸息に一致した脳内の活動を観察してきた。心地よい香りでは呼吸はゆっ くりと深くなり、不快な香りでは浅く、早い呼吸のパターンとなることが分かった。ま た香り刺激時に脳波を同時に記録し、吸息に一致させて脳波を加算するとアルファ帯域 の律動波(I-α)が観察され、脳波から脳内の電源を探る方法である双極子追跡法により 律動波の電源が嗅内野皮質、海馬、扁桃体を中心とした辺縁系であることを示した
(Masaoka et al., J Physiol. 2005)。嗅覚は他の感覚と異なり、嗅球から直接情動の中心であ
る辺縁系に投射をする唯一の感覚であり、我々の研究結果から香り分子を含んだ1呼吸 1呼吸が脳内のリズムを変化させ、情動の中枢である辺縁系を刺激することが示唆され た。
しかし香りには慣れ現象(adaptation)があり、そのレベルは香りに対する個人の嗜好、
記憶などの要素が大きいと予測される。香りの慣れ現象は末梢レベルのみではなく中枢 においても起こるという報告があり(Poelinger et al, 2001.)、中枢の賦活を低減させる ことがわかってきた。本研究ではりの慣れ現象時の呼吸と脳活動を記録し、ヒトにとっ て香りの慣れとはどのような意味をもつのかを考察する。
結果・考察
心地よい香りにより一回換気量(tidal volume, VT)が上昇し呼吸数(respiratory rate, RR)が減少した。酸素消費量に変化が認められないことからこれらの呼吸変化は代謝の
変化に伴うものではないことがわかった。香りに対しての慣れ時(Visual Analogue
Scale により香りを感じないレベル0)では、VT 、RR は安静時と同じレベルに戻る
ことが認められた。香りの慣れ時の呼吸の吸息に一致させた加算脳波では、前頭葉領域 でのI-αは観察されず側頭葉(T5,T6)でI-αが認められた。双極子追跡法の電源推定 では香りを感じていた時に認められた眼窩前頭葉での活動は慣れ現象時には認められ なかった。しかし、慣れ時には嗅内野皮質、海馬に活動が収束した。このことから以下 のことが示唆された。(1)香りの認知、及び香りによる情動を認識する(香りを感じ る)ことは眼窩前頭葉の賦活が必要である。(2)慣れにより香りを感じることができ なくても嗅内野皮質、海馬の活動はとどまる。香りの慣れ現象はこれらの部位の賦活を 残しながら、次に入力される新たな香りへ敏感に察し、認知を高める機能であると考察 する。