「移住者」たちの震災体験
――2013年南相馬調査から
髙 橋 準
1 はじめに ――誰が避難を選択し、誰が選択しないのか
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震と津波、また、それによって引き 起こされた福島第一・第二原子力発電所の事故による原子力災害(以下、「原 発災害」)によって、福島県内では政府・自治体による避難指示が出され、多 くの住民が、居住していた地域を離れなければならなくなった。津波による沿 岸部の被害も軽微であったとはいえないが、避難指示が出た範囲や期間、附随 するさまざまな問題を考えれば、福島県内においては、原発事故にともなう避 難の方が、はるかに影響は大きいといえるだろう。本稿で扱う内容も、ほぼす べて原発災害にかかわるものである。
原発事故に伴う避難指示は、事故直後は原発からの距離によって同心円状に 出され、さらにそれが行政上の区分と重ねられながら適用されてきた。また後 になると、年間被ばく量の推計から、計画的避難区域や特定避難勧奨地点が設 定された。
しかし放射性物質は、「原発から××キロメートル」というような距離によ る区切りや、自治体の境界で留まってくれるわけではない。またそのことは、
住民も自治体の発表やメディア報道によって知っている。したがって、住民の 避難が「上からの指示」に基づいて行われた地域だけでなく、実際にはその周 辺の広い地域(以下本稿では「周辺地域」と呼ぶ)にわたって、さまざまな形
で原発災害の影響は出ていると考えなければならない。
周辺地域からも避難する人々はいる。いわゆる「自主避難者」である。ま た、それまで居住していた地域に留まることを選択していても、幼い子どもが いる世帯の場合には、休日に放射線量の高い地域を離れる「保養」を行うこと もある。日常生活の中でも、高線量地域では、幼い子どもの被ばくを気にかけ る親やその他の養育者がストレスを受けていること、さらに親などが受けるス トレスの影響によって、子ども自身もストレスを受けていることが明らかに なっている。1その他にもさまざまな影響が、各所で指摘されている。
話を避難に限って考えてみよう。震災以前にはおおよそ200万人が福島県に 居住していた。震災後2年半が経過した2013年10月時点での避難者は、約14 万人である。2今井照はこの数字について、「避難指示の出た地域(双葉郡八町 村や飯舘村、さらには田村市の旧都路村、南相馬市の旧小高町)の人口は10 万人弱なので、残りの4万人強は、いわゆる『自主避難者』と呼ばれる人たち だ。」と内訳を解説している。3
さて、避難指示が出ている地域とは異なるのは、周辺地域では「避難する/
しない」は、しばしば「選択の結果」とされているということだ。では、その 選択の際の基準はどういうものなのだろう。
開沼博は、県外避難者について、2011年10月段階での5万7000人という数 字をあげて、「福島県民200万人の中では3パーセントに過ぎなかった」と述 べ、避難しない圧倒多数は、経済的・社会的に避難を選択できない理由を抱え ている、と指摘する。4つまり、選択とはいっても、完全に自由な状態で選べ るものではない、ということだ。彼が挙げるのは、経済的負担の重さや、家族 の介護、仕事の問題などだが、おそらくそれらにとどまらないだろう。さまざ まな価値観、地域への情緒的コミットメントや愛着など、その他の理由も考え られる。
このほか、山形県内の母子避難者に対する調査の分析で、山根純佳は「A住 宅の確保、経済的負担」「B生活の不安、孤立」「C子育ての精神的、身体的負
担」「D父親との別居」「E福島のコミュニティとの接続(進学、進級問題)」
の5つに分けて避難者が抱える問題を分析している。5これは避難している立 場から出されている問題であるが、逆に見ると、これらの問題が看過できない
/できなくなった場合は、避難が選択されない/帰還が選択されることにもな る。
ここで、居住歴に目を向けてみよう。地域には、①生まれてから震災までの あいだ、ほぼ生涯にわたってその土地に居住していた人もいれば、②その土地 で生まれはしたが、途中就学・就職等をきっかけに土地を離れ、その後再び 戻ってきて生活していた人もいる。また、③就学・就職・結婚等によって、他 の地域から移動してきたが、震災に至るまで長期にわたってその土地で生活し ていた人もいるだろう。さらに、本稿で中心的にとりあげる、④それまでの人 生のほぼすべてを他の地域で過ごしてきたが、比較的最近になってその土地で 生活するようになった人(本稿では以下、カッコ付きで「移住者」と呼ぶ)も いる。6
直感的には、居住歴が相対的に長ければ地域への愛着は強く、避難を選択し にくいと考えてしまいそうだ。しかし、実際のところはどうだろう。
本稿で取り上げるのは、上であげたカテゴリーの中ではいちばん居住歴が短 い、④に該当する人たち、なかでも、定年後の生活を福島で、と考えて、他地 域から移住してきた人たちが、周辺地域に留り生活している姿である。居住歴 が短いため、避難を選択することは、心理的にも容易である、と考えてしまい がちだし、実際「移住者」の中には、原発災害を契機に周辺地域から福島県外 へ転出した人たちもいる。だが、筆者らが調査の中で出会ったのは、居住歴は 短いながら、原発災害後も、農家民宿を営みつつ、あるいは仮設住宅での避難 生活を続けつつ、なお土地に留まろうとしている人たちであった。
「移住者」は周辺地域でも少数派である。定年後の「移住者」はさらに少な い。あるいは、数の上では無視しても構わないのかもしれない。しかし、「福 島に住み続けること」を考える上で、この人たちは、いくつかの点にかかわっ
て、重要な位置を占めていると思われる。以下では、まず調査を行った南相馬 市の概略と、市内への移住支援等に簡単にふれた上で、聴き取り調査にもとづ いて、震災後の「移住者」たちの経験について述べる。
2 南相馬市における「移住者」
(1) 東日本大震災後の南相馬市の概況
今回調査を行った南相馬市は、福島県沿岸部北部に位置する自治体である。
南は浪江町、北は相馬市、西は飯舘村に囲まれている。2006年1月1日に、
当時の小高町、鹿島町、原町市が合併して誕生した。この三つの旧市町は、現 在、それぞれ地域自治区(小高区、鹿島区、原町区)となっている。
面積は398.5平方キロメートル。調査を行っていた時期の2013年9月30日 時点で、人口は65,123人、世帯数は22,983世帯であった。人口は1995年を ピークにゆるやかに減少しつつあったが、震災後には激しい人口減を経験して いる。市内の産業としては、第三次産業が生産額ではもっとも多く(2010年 で80.8%)、次いで第二次産業(17.1%)、第一次産業(2.1%)となってい る。7農業は稲作、畑作が中心であるが、内陸部の一部では畜産も行われてい た。
2011年3月の地震発生後、津波は南相馬市沿岸にも押し寄せ、国道6号線 近辺までの地域を中心に被害が出た。三陸海岸沿いの自治体と異なり、中心市 街地は比較的海岸線から遠いところにあるため、市内で津波被害を受けたの は、耕作地や比較的海に近い住宅であった。南相馬市の総耕地面積約8400ヘ クタール(2010年時点)のうち、3割強の2722ヘクタールが流失・冠水した。
このほとんどが稲田である。8
原発災害後は、半径20キロメートル圏内の小高区が避難指示区域となり、
この同心円の外側に位置する20~30キロメートル圏の原町区には、2011年3 月15日から4月22日にいたるまで、屋内待避指示が出されていた。さらにそ
の外側の鹿島区は、国からは避難指示や屋内待避指示が出されなかった地域で ある。9また、2011年7月以降、市内西部で特定避難勧奨地点が数十カ所指定 されている。このように南相馬市は、原発災害後の避難指示によってさまざま に分割・分断された、福島県の縮図ともいえる自治体である。
南相馬市では原発事故後、避難指示によるもの、屋内待避指示にともなう生 活困難を避けるためのもの、その後の放射線量を懸念したものと、複数の理由 による避難が相次いだ。自治体による集団避難や避難の呼びかけ、新潟県等受 け入れ先からの支援もあり、市外への避難者は、ピーク時には人口の4割近く にのぼったと思われる。
2012年以降は、仮設住宅の建設が続き、避難区域であった小高区住民の、
市内への帰還なども相次いでいる。ただし、比較的若い子どもがいる世帯はま だ市外に避難していることも多い。産業面でも回復は進んでいるとはいえず、
特に既婚女性をパートで雇うことが多い小売業などでは、働き手不足で縮小・
閉鎖・撤退する事業所もある。10農業についても、避難区域であった小高区に とどまらず、試験的なものを除いては、市内全域で稲の作付けは2013年まで 見送られてきた。
(2) 南相馬市における「帰農」支援
さて、本稿での検討の対象は、東日本大震災後における、「移住者」の経験 である。最初に簡単に、「移住者」がどのようにして南相馬市に居を移すよう になってきたのかをたどってみたい。
「移住者」には、就学・就職・結婚等による居住歴の浅い者や、転勤などで やってきた一過性の居住者も含まれる。それとならんで、本稿で扱う、定年後 に田舎暮らし、または就農目的で移住してきた人たちがいる。いわゆる「定年 帰農者」である。「団塊の世代」を中心に1990年代より、目立った増加を見せ ている層である。11
人口減少に悩む農村地域では、都市部からの移住を促進するべく、自治体が
対策を講じていることが多い。福島県では「ふくしまふるさと暮らし情報セン ター」、南相馬市では、「南相馬ふるさと回帰センター」がこの機能を担ってい る。
南相馬ふるさと回帰センターは、2009年12月に、南相馬市の委託で設立さ れた。主なターゲットは首都圏の「団塊の世代」の就農希望者であった。事業 としては、二地域居住や田舎暮らしを希望する人たちに対して、南相馬市内へ の移住を支援するために、種々の施策の企画・実施や、相談、情報発信などを 行っている。
なお、以前は就農目的が多かったが、震災以降は、ボランティアをきっかけ として移住を決めたため、地域での活動が主という「移住者」もいる。
(3) 調査概要および調査対象
今回の南相馬市における調査は、福島大学行政政策学類の学生12と筆者で 行ったものである。調査は半構造化インタビュー形式で、2013年9月から11 月にかけて、予備調査を含め、4回にわたって、南相馬市原町区・鹿島区の農 家民宿4軒で、計12人に対して実施した。13聴き取り内容はICレコーダに記 録し、全文を文字起こしして参加者で共有した。2014年3月には報告書をま とめている。14
聴き取りの対象とした農家民宿は、南相馬市鹿島区の3軒(民宿X、Y、
Z)と原町区の1軒(民宿W)である。15それぞれの民宿の特色を以下にまと めておく。
民宿X:鹿島区。「移住者」夫婦によって、震災後に設立。自家製の野菜を 食材として使用。夫(Aさん)が調理するイタリア料理、妻の和食がメニュー の二本柱。本調査での聴き取りはAさんから。
民宿Y:鹿島区。「移住者」夫婦によって、震災以前より経営。自家製の野 菜を食材として使用。地元の料理を取り入れている。妻(Bさん)が経営の主 体、夫は料理の一部を担当していた。民宿Zとともに、農家女性が主に参加す
るサロン、サークルの運営にあたる。本調査での聴き取りはBさんから。
民宿Z:鹿島区。地元農家夫婦による、震災以前からの経営。自家製の米
(現在のところ、震災以前に収穫したもの)、野菜を食材として使用。妻(Cさ ん)が経営の主体。農家女性が主に参加するサロンを、県外の団体の支援を受 けて運営。本調査での聴き取りはCさん夫婦から。さらに2回目の調査で、サ ロン参加者4名(いずれも女性)からも聴き取りを行った。
民宿W:原町区。地元出身者によって、震災後に設立。法人。代表は元地方 公務員の男性(Dさん)。近隣でとれた野菜を食材として使用。宿泊の他、ラ ンチ提供も一つの柱になっている。調理などで女性を数名雇用している。県外 の団体と連携した、地元でのイベント実施にも積極的。本調査での聴き取り は、Dさん夫婦のほか、主に調理を担当する2名の女性から。
以上のうちから、「移住者」が経営する鹿島区の民宿X、Yでの聴き取りに ついて、次節で詳述する。16
3 「移住者」の震災経験 ――聴き取り調査から
(1) 民宿X:Aさんからの聴き取り Aさんの移住のきっかけ
民宿Xは南相馬市鹿島区に位置している。以前は事務所兼住居として使われ ていた建物を、改装して民宿として転用しており、収容できる人数は少ない
(一部屋、6人程度)。食堂、客室は洋間である。このあたりは、通常の農家民 宿とは趣きが異なる。
ここを経営するAさんは北関東の生まれ。調査当時66歳であった。高校ま でを出身地ですごし、そののち東京の私立大学へ進学した。在学中は苦学生と して、アルバイト中心の生活であった。さまざまな職種を経験したが、民宿経 営につながるようなものはなかったという。
卒業後は飲料メーカーに就職、関東圏で転勤を繰り返した。25歳の時に結
婚。妻は幼稚園教諭で、結婚後も仕事は続けていた。子どもは2人いる(現在 それぞれ、栃木県宇都宮市および神奈川県相模原市に在住)。
52歳の時に、「リストラにあって」退職した後、調理専門学校で調理師の免 許を取得。レストランも一時経営していたが、年金で生活していくために、物 価の安い海外(東南アジア)への移住を検討した。しかし、言葉と医療が心配 だという妻の反対でとりやめになった。そのあとは、国内で移住先を検討して いた。いわき市や新地町の海沿いの家なども検討対象だった。しかしその中 で、最初に見に来た、現在住んでいる鹿島区の物件が気に入り、値段が下がっ たのを機に、2010年に購入して11月に移住した。「夏でもエアコンがいらな い」といううたい文句が魅力だったという。(ただし実際は、猛暑が続いて、
エアコンの稼働日も多い。)震災前から現在に至るまで、Aさんと妻、妻の母 親の3人で生活をしている。
それ以前にも、子どもが会津大学の学生であったため、福島県には何度も来 たことはあった。だが、南相馬とのつながりはなかったそうである。もっと も、「釣りが好きだったんで」、海のそば、という気持ちはあったという。「釣 りと畑仕事やって、それでできるだけあまり派手にやらないで静かに暮らそう と思ってたの。」移住当初は、民宿経営をするというつもりは、まったくな かったそうだ。
住居から少し離れたところには、畑も借りている。畑仕事は、移住前からの 経験が若干ある。現在は数十種類の野菜を栽培しており、宿での食事に使うほ か、仮設住宅に入居している知り合いにあげることがあるという。「だってみ んなまわり農家だからね。」「仮設へ持ってくのが一番いいんだ。」
震災直後
Aさんは、移住後半年と経たないうちに、震災に見舞われることになった。
2011年3月11日の地震の瞬間は自宅にいた。自宅の被害は、茶碗が落ちた り、壁のクロスが破れたという程度だった。電気はすぐに回復したが、1週間
ほど断水し、生活水はそれまで使っていなかった井戸に頼ることになった。水 質が悪かったので、飲料水は自動販売機で買った。
数日の間、Aさんたち家族は南相馬に留まっていた。その間、以前から「移 住者」としてのつながりがあった民宿YのBさん夫婦や、民宿Yに一時身を寄 せていた夫婦(関東から小高区への「移住者」)などが、電気が使える民宿X を頼ってやってきた。反対に、Bさんのところには水があったので、水を汲み に行ったりもした。
3月17日になって、南相馬市役所から鹿島区の中学校に集まるように言わ れ、そこで避難勧告を受けた。「原発爆発しちゃってるし、放射能の問題があ るから、とにかく避難してくれと。」「行政の人も、『明日行ってください』っ て。『私(行政の人間のこと)も逃げます』。」自力で動けない人は、集団避難 のためのバスを用意するとも言われたが、避難先が新潟県上越市だったため、
義母の体調を考えて、選択肢からはずした。
知り合いからアドバイスを受けて、翌18日、二本松から東北自動車道を 使って(高速道路は当時まだ閉鎖中だったが、頼めば入れてくれたとのこと)、 自家用車で宇都宮市へ避難した。アパートを借りて、2ヶ月ほど滞在した。
南相馬への帰還と民宿設立
避難している間、2回一時帰宅をしたが、その時には、ほとんど近所の人も 戻ってきていたという。「自分で勝手に決めて、コンマ5(=0.5マイクロシー ベルト毎時)になったら帰ろうと。」新聞で空間線量を見て、5月20日頃に南 相馬へ戻ってきた。「帰ってきたら、みんな帰ってるんだよね。(民宿Zの)C さんなんか、避難したの一週間ぐらい」。なお、X周辺の空間線量は低く、「コ ンマ1ぐらい」だという。17
戻ってきて驚いたのは、「何でもかんでも不足してるもんばっかり」という ことだったという。「ダンプの運転手がいねえ。特養は介護士がいねえ。病院 はドクターがいねえ。ナースがいねえ。」ボランティアは来るのだが、泊まる
ところにも困るような状態だった。「Aさん、あそこの部屋あっからやってみ たら」と人から言われ、ふた月かかって保健所の許可を得て、ボランティアの 宿泊のために民宿を始めることになった。2012年5月のことである。
客には、自家製の野菜を使った料理を出す。Aさんが習い覚えたイタリア料 理を作り、妻は和風の料理を作る。ボランティアが市の社会福祉協議会の案内 で泊まりに来ることも多いが、7月は相馬野馬追を見に来る客もいる。
生活費は年金である程度まかなえるので、民宿で利益を追求しようとはまっ たく思っていない。また、これからもずっと、南相馬で生活するつもりであ る。「死ぬときはここで死にましょう。」「(以前住んでいたところの)土地・
畑・屋敷全部売ってこっち来たんだから。もうここしか戻るとこなかった。」
子どもたちも反対することはない。ただし、海外移住に反対した妻が、自分よ り先に亡くなるようなことがあったら、ここを離れて東南アジアへいくことも あるかもしれないとは口にする。「(平均寿命を考えると)男が先に死ぬことに なってるから」、可能性は低いけど、と付け加えていたが。
決して消極的な理由だけではない。移住を検討したほかの物件は海に近く、
津波で流された地域にあったらしい。もしそちらに決めていたら、「ああもう 俺死んでたな」。だから、南相馬で暮らしていくことが、「役目みたいに思うん だよね」。「今度車を買って、7人乗りの車。それで(津波の)被害出たとこ ろ、泊まった人をずーっと案内したりしようかと。案内人だね。」
Xに泊まっていった人たちからは、しばしば手紙をもらう。その手紙や宿泊 客とAさん夫婦とが一緒に写った写真が、居間の壁には飾ってある。若いボラ ンティアからは、「福島のお父さん、お母さんなんて言われてね。」Aさんに とっては、こういったやりとりが、南相馬で生きていく力になっているよう だ。
(2) 民宿Y:Bさんからの聴き取り 田舎暮らしを計画的に
民宿Yも南相馬市鹿島区にあるが、民宿Xより、やや北に位置している。そ れほど大きな高低差はないが、高台の上にあり、坂を下ると水田が広がってい る。ここを経営するBさん夫婦は、ともに九州の出身である。Bさんは調査当 時65歳、夫は61歳。子どもは一人いて、関東で生活している。
Bさんは高校卒業後、地元で公務員として就職した。その後、独学で勉強 し、保育士の資格を取得した。大手スーパーチェーンに勤める夫との結婚後 は、夫の転勤に合わせて、九州、大阪、東京、仙台から北海道まで、各地で保 育士として働いた。夫の仕事は鮮魚のバイヤーである。
転居をすると、夫からのアドバイスで、職業安定所と公民館をのぞくように していたらしい。職安を見るのは、「その土地の企業がどれくらいか」、分かる から。公民館は地域のことが分かるから、だという。
転機となったのは、1990年代初めの頃。「バブル期」にまだ住めるような家 を取り壊して建て替える、というようなことを目にしたり、夫の会社の業績が 落ち込んだりする中で、感じることがあったらしい。それまで消費するばかり だったが、働いて、給料が上がってという人生に対して、疑問を感じるきっか けになったようだ。
その後関東に住んでいた時に、将来は田舎暮らしをしたいと考えるように なった。しかし、農業の経験はないので、学校に通ってみようと思いたった。
まず農林水産省の学校の経営コースに3ヶ月、続いて自治体の農業大学校の基 礎コースに3ヶ月。後者では、「女性は今まで来たことがないよ」と言われた という。
田舎暮らしをするなら、子どもが関東で生活していたので、「陸続きで来れ る方がいい」、また夫も自分も九州育ちで、雪に慣れていないので、「福島ま で」と思っていたそうだ。関東でも探したが、土地の値段が高く断念した。
2005年の3月頃に、2回ほど福島を訪れて、場所を決めた。南相馬になった
のには、「理由はない」とか。ただ、雪がだめなのと、九州と会津との歴史的 経緯を考えて、会津は選択肢からはずした。また、「中通りは都会化している ので」と、やはり候補にはならなかった。浜通りになったのは必然だったのか も知れない。
夫が会社に退職届けを出したのが5月。その年の6月末には引っ越しを済ま せた。かなり慌ただしかったようだ。
引っ越してきてすぐ、近所の人に誘われて、鹿島町役場(当時まだ合併前)
が主導する会議に出席し、地域のグリーンツーリズムにかかわるようになっ た。その年の夏の終わり頃には、すでに客を泊めていたという。翌々年には農 家レストランの資格も取得。Bさん自身が調理師免許を持っていたほか、夫が 鮮魚のバイヤーだったという強みも活かしたメニューにした。食材は、近隣で 借りている1反ほどの畑で作った野菜と、夫が勤め先の地元スーパーから買っ てくる海産物などである。派手な宣伝はしなかったが、近隣を中心に、口コミ で客層が広がったそうだ。
震災直後
地震があった2011年3月11日も、レストランは営業していた。ちょうど、
客が帰った後の時間帯である。家の中にいたものの、一瞬からだが浮き、その あと立てなくなったほどの、強い揺れだったという。地震のあと、家を出たり 入ったりしていて、行政からの放送もあったが、気がついたら津波が、家があ る高台の下まで来ていた。
この日、夫は職場である市外の地元スーパーに出勤していたが、地震で天井 が落ち、陳列棚もめちゃくちゃになったという。夫はラジオで津波の情報を聴 いて、パートを帰宅させ、戸締まりをして車で本社に報告した後、家に戻って きた。
停電したので自宅ではテレビがつかず、被害の全体が最初よく分からなかっ たが、近所の家で明かりがついているのに気がつき、自家発電設備があるその
家に行ってテレビニュースを見せてもらい、「大変なことになった」と思った という。
夫は翌12日から16日まで、職場に毎日出かけていった。「男の人、気の毒で したね。」「ひとことも言わないで、振り返らず行きました。」勤め先のスー パーは、津波の被害を受けていた。店の中に丸太が突っ込んでいたり、ひどい 状況だったようだ。「あそこにいたら死んでた、と」。
12日の夜に、小高区と浪江町の「移住者」の3家族が、相次いでYへ車で やってきた。以前からの親交があった人たちである。この日から「キャンプ生 活」が始まる。庭に即席のかまどを作って、釜でごはんを炊き、味噌汁を作 る。井戸から水をくむ。食材は、レストランで客に出すための買い置きがあっ たので、最初は困らなかった。電気が使えるAさんの家に行って、炊飯器でご はんを炊いてもらうこともあった。助けあいでもあり、息抜きでもあった。
だが、9人分毎食食事を提供するようになると、買い置きも尽きてしまっ た。原発事故が深刻化し、先も見えない。「だから、16日か17日あたりですけ れど、温室で(ハツカダイコンの)種をまいたように思います。」「それ、でき るはず(=食べられるようになるまで育つ時間があるはず)がないんだけど
(中略)食べさせてあげなきゃいけないと思って。」
3月17日には、鹿島体育館で市からの説明会があった。自分は行かなかっ たのだが、避難勧告が出たと聞いた。「役所も、病院も閉まるし、半分、避難 指示みたいな感じですよね、残る人は、自己責任で残れ、という感じ」。懸念 したのは夫の仕事だ。ここを離れれば、失職することになるだろう。それが怖 くて、避難はしたくなかった。「(夫と自分と)二人きりなら避難しなかったと 思います。」
だが18日に、夫が決断した。「避難しよう」「どういうことになるか、わかっ てるね」(職を失うことになるが、覚悟してくれ、という意味であろう)。その 時、周囲にはすでに人はいなかった。Bさんたちのところが一番最後まで残っ ていたようであった。他の人たちとは途中で別れ、高速道路を使って、関東に
住む子どものところまで移動した。
避難先で、そして南相馬への帰還
避難先で感じたのは、「ここでは、何も人の役に立てない」ということ。関 東でも、まだ震災直後の困難な状況だったせいもあるだろうが、とにかく自分 たちが生活するので精一杯だったようだ。
むしろ、南相馬にいたほうが人の役に立てるのではないか。そう考えて、4 月3日には南相馬に戻ってきた。夫が失職したことがはっきりし、この数日が いちばんつらかったという。
4月10日頃からボランティアが入り始めたので、広い家に夫と二人だけで いるよりはと、ひと月の間は、食事も含めて無料で客を泊めた。
「震災後はね、本当に(周囲の農家民宿は)皆、泊めていなかったんですよ。
Cさんのところの親戚の人も避難したりね、被災したりして、皆、大変な思い をしていたんですよ。でも、私は親戚は(この近辺には)何にもないじゃない ですか? だから、私、何かしなきゃということで。」
「そのとき財布の中にあった20万円、その半分を泊まった人に出すカレーの 代金にしようと。それがわたしなりのボランティアでした。」18
その後、農家民宿としての営業も再開する。市の社会福祉協議会や市外の友 人たちなどから、食材も送られてきた。やはり、食べものについては気を遣っ ているという。レストランのほうは今に至るまで休業中である。
現在泊まりにくるのはボランティアの人たち。だがそのほかにも、福島のこ とを知りたいと、多くの人がやってくる。Bさんも「今現在の福島の暮らしを 体験してほしい」と思って受け入れている。
そのほか、震災後Bさんがかかわっているものとして、民宿ZのCさんと一 緒に取り組んでいる、サロン活動と染めものサークルがある(活動開始は 2013年5月)。前者はお茶を飲みながらの近隣の交流会だ。やってくるのは、
近くの農家の女性たち。「若い人は働きに出ているから来ないですね。おばあ
ちゃんたちばっかり。(「おじいちゃんたちは?」と訊かれて)おじいちゃんた ちは来ない。何をしてるんでしょうね。(笑)」
後者は東京農工大学科学博物館友の会との交流から生まれた。農地が放射性 物質で汚染されていて、そこで作った物が食べられないなら、藍を植えて染め に使ったらどうだろうと考えたらしい。藍は生葉を使う。煮出して、布を浸 し、干すだけでできる。発酵させる藍染めよりは、格段に簡便なやり方であ る。そのほか野菜でも染めてみているという。サロン参加者が、お茶を飲むだ けではつまらない、何かしたいと言っていたので、畑仕事もできる藍染めは かっこうの活動だったのだろう。
なお、リーダーはあくまでも、地元の人間であるCさんだという。(Cさん 自身は原町区の生まれで、結婚後に今の家に移り住んだが、居住歴は長い。)
自分たちは、「あくまでも、地元の人にはなれないんですよ。」「『地元の人と一 緒だよ』と言われても、やっぱりそれは違うと思います。で、それは違ってい いと思います。」
年金ももらっているBさんにとって、農家民宿は大きな収入源というわけで はない。しかし、「生きる勇気に、ここで暮らす勇気につながります」。民宿で いろいろな人に出会うことには、お金で買えない価値があるのだという。「こ れからもこちらにずっといらっしゃるのですか?」というこちらの質問にも、
短くはっきりと、「います。」とだけ、Bさんは言葉を返した。
4 考察 ――「避難/居留」をめぐるマイクロ・ポリティクス
(1) 聴き取りから
まず、ここまでで述べてきた聴き取りの結果を整理しつつ、次の考察へつな げてみたい。
AさんもBさんも、福島県外の出身であり、南相馬に移住する以前には、短 い居住歴もない。南相馬市鹿島区は二人にとって(あるいは配偶者を含めて
も)、初めての土地であったわけである。
従来、土地へのコミットメントは、居住歴の長さや持ち家(特に戸建て)が あることなどで説明されてきた。19確かに今回も、Aさん、Bさん夫婦はとも に、南相馬に家を購入しており、戸建ての持ち家はあることになる。しかし、
居住歴という点では、両者ともに短く、特にAさんは事故当時半年に満たな かった。
にもかかわらず、二人とも、特に原発災害の後にも、新しく移り住んだ土地 に、むしろ積極的に「とどまりたい」という。ではその理由はどこにあるの か。インタビューでは、常にそれが中心的な問いの一つであった。
一つ手がかりになるのは、Aさんの語りの中にあった、「ほかの物件にして いたら、津波にやられていたかも知れない」ということだろう。別な選択をし ていたら、ひょっとしたら命を落としていたかも知れない。結果的に、今の土 地を選んだ選択の重みが増したわけだ。「ここにしよう」という過去の選択が、
その後の偶発的な要因で、より重要なものだったと感じられるようになったと いうことである。
Bさんの場合にも同じである。Bさんは夫の転勤に合わせて、住む土地を変 え、職場を変え、その土地を知るためのすべ(職業安定所と公民館を訪れて情 報を収集するというもの)も身につけてきた。おそらく、新しい土地で周囲と なじむ努力や経験を積んでいたことが、南相馬への移住にあたっても活かされ たであろう。20しかし今までは、自分で選んだ土地ではなかった。自分の職業 上の必要があって住んでいる場所ですらなかった。南相馬は、自分の内発的な 意思で、「ここにしたい」と初めて選択できた土地であったわけだ。
そうした、「自分で選択した場所」という意識が、さらには選択の重みが、
二人の「移住者」にとって、南相馬に住み続けることに、重要な意味を与えて いるのではないだろうか。
また加えて、Aさんの場合には、震災の被害を語り継ぐという役目の自覚、
Bさんの場合には、「関東にいたのでは人の役に立てない」「南相馬では、地元
の人が大変な思いをしている代わりに、よそからきた自分たちが補える」など の、南相馬での自分の役割の認識も存在する。使い古された言葉ではあるが、
いずれも「生きがい」と呼べるものである。
居住歴の短い「移住者」の地域へのコミットメントは、居住歴の長い住民の ものとは、質的に異なるかも知れない。しかし、彼/彼女らのコミットメント は、自己の選択と地域での役割の認識によって、非常に高いものとなり得るこ とが、今回の調査結果からは導き出せるであろう。
(2) 「避難/居留」をめぐるマイクロ・ポリティクス
震災以降福島県で調査をしていて、話の中でよく耳にする言葉が、[n1]「福 島が好き」「生まれた土地だ」「親戚や友人がいる」「ここにずっと住んでいる」
というものだ。「だから」、[m1]「避難しない/したくない」、あるいは「福島 でできた農作物を食べる/食べたい」、などとそのあとに続く。
しかしここで重要なのは、[n1]のところで書かれている理由ではない。な ぜなら、まったく同じ言葉を並べながらも、「しかし」、[m2]「避難した」、あ るいは、「福島の農産物は食べていない」、と続ける人たちもいるからだ。
[n]のところに、もっと違う言葉を並べてもよい。「線量が高い」「ほかでは 仕事がない」、等々。だがそれでも、[m]のところに来る言葉は、確定される わけではない。
むしろ注目しなければならないのは、[n]と[m]とをつなぐ接続詞である。
つまり、どんな要因をあげようとも、それが個人/集団が取った行動を一意的 に決めることはおそらくあり得ない。むしろ、その個人/集団の判断がどうい うものかを示す、[p1]「だから」と[p2]「しかし」こそが、この場合は重要な 意味を持つのではないだろうか。
「移住者」の場合は、最初にあげた[n1]を、ほぼ否定する言葉が前半に並ぶ ことになる。[n3]「生まれた土地ではない」「親戚はいない」「最近移り住んで きた」、[p2]「しかし」、[m1]「ここで生きていきたい」、と。
加藤秀一は、「男と女はそもそも身体のつくりが違うのだから、果たすべき 役割も違って当然だ」という命題について、これは前半の性差の記述と後半の 性規範という異なるふたつのものを、「だから」という接続詞でつないでしま うもので、この接続詞は決して必然的にそこにあるのではなく、何らかの立場
(政治的立場)の表明として置かれているのだ、と指摘している。21本稿で取り 上げた「移住者」の場合もまた、震災のあとに自らが下した判断の背景にある 立場を、[p]の接続詞の部分で表明しているのだといってよい。これは、国や 自治体の方針や統治のあり方に関わるような意味での「政治」(大文字の政治、
マクロ・ポリティクス)ではないが、より個人に近い水準で、個人や集団の行 動や生活のあり方を決めるものという意味での政治(小文字の政治、マイク ロ・ポリティクス)にほかならない。
たとえば、「移住者」のAさんにとっても、南相馬への帰還にあたっては、
やはり線量は問題だった。しかし、ほかの人なら違う判断をするかも知れない ところで、「0.5マイクロシーベルト毎時以下」「だから」「南相馬に帰る」とい う判断を、彼はしてきたわけだ。(政府や自治体も、「0.5マイクロシーベルト 毎時以下」「だから」「元の土地に戻りましょう」という判断を「政治的」に下 す。ただしその呼びかけは、非常に広い範囲にわたって影響を与える。)同じ 線量を見て、事故後1年以上してから、土地を離れる判断をする人も周辺地域 には存在するだろう。それぞれの微細な判断の積み重ねが、それぞれのポリ ティカルな立場の表明であり、逆に言えば、それぞれの立場はそこにしか現れ ない。
ここでは、それぞれの判断の妥当性や「正しさ」を問うことが目的ではな い。「移住者」たちが生活史の中で判断を積み重ねてきていること、居住歴の 短さを打ち消すような、地域へのコミットメントの形成が行われていること、
本稿では描こうとしてきたのはこれらである。いわば、それぞれの政治的立場 がいかに形成されてきたかの、背景を描きだす作業を行ってきたのだといえる だろう。
5 おわりに
震災とはかかわりないところでも、地域へのコミットメントに関しては、こ れまでにもさまざまな調査が積み重ねられてきているし、震災後の福島につい ても、「避難/帰還」をめぐる調査がくりかえし行われてきた。だがそれらの 調査では、どうしても数や割合が多いクラスタに議論の焦点が当てられるた め、今回対象とした、居留を選択した「移住者」のような、絶対的に数が少な い部分は、どうしても注目されないままにとどまってしまう。
また、「移住者」の場合は、震災以降、時に過剰な意味を込めて用いられる、
「ふるさとに戻りたい/戻れない」というような、マスメディア報道で頻出す るフレームにも乗りにくいため、そちらでも知られる機会をあまり持たな い。22不動産あるいは地理的空間としての土地や家屋とは異なり、「ふるさと」
「故郷」とは、実は個人あるいは集団と地理的空間との関係性や、ある特定の 地域・場所における人間関係を示す言葉である。関係性は、個人や集団によっ てさまざまであるはずだが、一般には出身地であることや、居住歴の長さなど と結びつけられることも多い。「移住者」の場合は、このフレームに乗りにく いのだ。
こうした「語られにくい」部分、ともすればその多様性が見落とされがち な、開沼などがいう「避難していない圧倒多数」の中の、きわめてマイナーな 部分の人々の「選択」、これを「マイクロ・ポリティクス」として位置づけて、
その意味を理解することが、本稿の目的だった。
本稿で議論できなかったのは、一つは、聴き取りとその検討を通じて焦点を 当ててきた「マイクロ・ポリティクス」の部分と、国や地域におけるその代行 者としての自治体の「マクロ・ポリティクス」との関連性である。この問題に ついては、改めて検討する必要がある。23また、専門家(主に自然科学の専門 家)の言説との関連性についても、改めて問われる必要があるだろう。24その
ほか、「移住者」というカテゴリーが、あくまでも相対的なものに過ぎないこ とにも留意する必要がある。25
いずれにしても、今回の震災後の状況を検討する際に求められていること は、地域を「均質なもの」として扱わないことであり、また、地域の中のアク ターの多様性に焦点を当てることであろう。そのためには、対象の中に分け入 り、時にはこれまで使ってきた概念装置の再考なども含めた検討が必要になる と思われる。
注
1 筒井雄二ほか、「福島県における親と子のストレス調査結果報告(第三回調査)」
(プレスリリース)、福島大学、2013年6月12日、ほか、福島大学子どもの心の ストレスアセスメントチームによる一連の調査報告などを参照。
2 福島県庁の発表による。この時点での県外避難者は約5万人強、そのほかは県 内の避難者である。
3 今井照、『自治体再建――原発避難と「移動する村」』、ちくま新書、2014年、
109ページ。ここに書かれているほかに、川俣町山木屋地区も計画的避難区域に 含まれる。
4 開沼博、『フクシマの正義』、幻冬舎、2012年、161-162ページ、など。
5 山根純佳、「原発事故による『母子避難』問題とその支援――山形県における 避難者調査のデータから――」、『山形大学人文学部研究年報』vol.10、2013年、
41ページ。
6 実際は、③の場合にも移住を経験していることになる。そのため、④をカッコ つきで「移住者」と表記している。
7 福島県企画調整部統計課、『福島県市町村民経済計算年報』(平成22年度版)、 2013年3月。
8 農林水産省、「津波により流失や冠水等の被害を受けた農地の推定面積」、
2011年3月29日。
9 ただし、あとの聴き取りの部分で見るように、鹿島区でも自治体独自の避難勧 告が出され、住民たちによる独自の避難や、自治体の誘導による集団避難が行
われた。
10 南相馬市の商工業については、初澤敏生の報告を参考にした。初澤敏生、「中 小企業の被害状況と復興に向けた課題~南相馬市原町区を中心に」、ふくしま復 興支援フォーラム、2013年4月25日。
11 離職就農者の量的動向については、大江靖雄、「定年帰農者による農村ツーリ ズム活動への取り組みの意義と可能性:多面的機能の観点から」、『千葉大学園 芸学部学術報告』59、2005年、など。
12 専攻入門科目・社会と文化Cの所属学生2年生18名。
13 このほか、2012年度に実施した、南相馬市の仮設住宅での調査に際しても、
「移住者」からの聴き取りを得ることができた。ただしその内容は、2012年度報 告書(加藤眞義・髙橋準編、『東日本大震災および原発事故によって生じた避難 生活の実態と課題』、福島大学行政政策学類専攻入門科目・社会と文化C報告書、
2013年)には未収録。
14 髙橋準・加藤眞義編、『東日本大震災後の福島県における農家民宿と地域社会
――2013年南相馬市調査から――』、福島大学行政政策学類専攻入門科目・社会 と文化C報告書、2014年。
15 筆者が参加したのは、予備調査(民宿X、Z、W)と、民宿X、民宿Y、お よび民宿Wでの2回目の調査である。
16 主に本調査のインタビュー結果を中心にまとめるが、一部予備調査での聴き 取り内容等を含む。
17 予備調査以前にXを訪れた時の簡易計測では、客室内で0.15マイクロシーベ ルト毎時程度。2012年9月の数値。
18 2011年4月15日に初めて泊めた客(新潟県から来た看護師の女性)と一緒に 作ったカレーを、ずっと作りつないでいるという。
19 長谷起世子、「地域への定住と愛着心からみるまちづくりに関する研究~A市 C地区における住民の意識分析~」、『関西福祉大学社会福祉学部研究紀要』17
(1)、2013年、は、人口5万人台の地方都市での量的調査だが、居住年数と定 住意識、一戸建ての持ち家という3要因が、地域への愛着と関連があると結論 づけている。そのほか、中塚雅也、「属性と経験による地域コミットメントの相 違に関する実証分析:篠山市K地区を事例として」、『農林業問題研究』44(1)、 2008年、では、地域への情緒的コミットメントは、居住歴や年齢と強い相関が あるという結論や、因子分析での第2因子(他地域とのつながりの欠如等、功
利的コミットメントにかかわるネガティブなもの)の発見などが興味深い。
20 本文中では割愛したが、Bさん夫婦の場合、近所づきあいは、ほぼBさんが 引き受けており、夫はむしろ消極的な様子が語られた。
21 加藤秀一、『性現象論』、勁草書房、1998年、28-29ページ。なお、放射線量 を勘案したものである場合は科学的な判断と見る向きもあるだろうが、言説史 ではしばしば、共に科学的言説を参照しながら、まったく逆の結論が導かれる 事例がいくつもある。そもそも科学的言説も複数存在しうる以上、どの仮説に 依拠するかの選択は、「政治的」なもの以外の何ものでもない。髙橋準、「近代 の売買春をめぐる制度」、福島県女性史編纂委員会編、『福島県女性史』、福島県、
1998年、に所収の、公娼制度をめぐる存娼派と廃娼派の言説の検討を参照。
22 ただし、Aさんは2013年に日本経済新聞の取材を受けており、それをもとに した記事も、同年9月に同紙に掲載されている。「第二の人生『復興の宿』 田 舎暮らしの夢を超え」、日本経済新聞、2013年9月1日付け記事。
23 これについて、福島県(特に周辺地域)在住者の多くが、結果的に避難を選 択していないことを、「国や福島県が県民を留まらせている」とする解釈などが すでにある。ただそれは、「大文字の政治」における判断が、一方的に「小文字 の政治」としての個人の判断を拘束している、という議論である。この議論の 危うさは、本稿で検討してきたような、各個人の判断にかかわるさまざまな文 脈を押しつぶしてしまうことである。
24 しばしば科学的言説は、確定的な解答として期待されることもあるが、多く の場合は仮説の提示に留まっている。今回もさまざまな聴き取りで、「専門家の 意見も色々あって、何が正しいのか分からない」という意見を耳にした。科学 的言説が社会にどのように受けとめられたかの詳細に関しては、本稿の議論の 対象外である。
25 本文中でも述べたとおり、Cさんは原町区の出身で、結婚時に鹿島区へ「移 住」してきた。彼女が本稿で「移住者」として扱われないのは、単に災害が生 じた時期によるものでしかない。この問題は、先に述べた「ふるさと」の定義 ともかかわる問題だが、地域づくりにおける「主体」を考える上で重要な問題 である。Bさんの聴き取りにある「自分たちは地元の人にはなれない」という 発言も、一見納得してしまいがちになるが、では結婚等による移住を経験して いる人にとってはどうなのかという視点などから、考え直してみることは必要 であろう。また、既存の研究では、離職帰農者や「定年帰農」などについて、
しばしば男性だけを調査対象とするものなども見かける(一例として、伊野唯 我ほか、「大都市地域における定年帰農希望者の就農意思決定構造」、『農業経営 研究』、46(1)、2008年、では、50代男性を対象として、東京・大阪の2都市で の調査を行っている)。したがって、地域づくりの主体におけるジェンダーの問 題にかかわることでもあるといえる。本稿では定年前後(55~56歳)からの
「Iターン」のみを、性別にかかわらず「移住者」のカテゴリーに入れている。