九州大学大学院人文科学研究院﹃文学研究﹄第一一一輯抜刷二〇一四年三月発行
ルードルフ・カスナー 著 小
黒 康
正 訳 絨毯の倫理
絨毯の倫理
絨毯の倫理
ルードルフ・カスナー 著 小 黒 康 正 訳
私がある形 ビルト象を絵 ゲメールデ画として見るか、絨毯やゴブラン織として見るかは、やはり同じではない。絨毯とは何であろうか。私がそう尋ねられたところで、表面上はたしかにある形象にならった形象である、と言わざるを得なかった。こう言って私はひょっとすると本質までも定めてしまったのかもしれない。絨毯、それは写し取られた形象であり、言ってみれば作為的な形象である。私の前に掛かっていて、亜麻と絹と金の糸で織られ、鏡にある染みのような影と青と黄色の中でなびく木々とを持つものは、本来、完全に表面的なものであり、手仕事であり、単なる形象にすぎない。しかし、まさにそうだからこそ、その形象は多くの者たちに精神的な感銘を一層与え、まるで夢の形象のように自ずと存在し、かなり遠くから私たちに視線を向けているかのように見えるので、想起のように起こり得るのだ。絨毯、ゴブラン織ともなれば、私たちの意志に反して私たちを審美主義者にしてしまう。この場合、美意識とは私たち自身の完全な無意識の反応である ((
(。
絨毯と絵画の関係はマリオネットもしくは仮面と役者の関係に等しいとも言えるだろう。仮面は役者よりも示唆に富む。私にすれば、絨毯は絵画というよりも形象なのだ。絨毯は絵画よりも不自然である。私は自分の見解をはっ
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きりとさせておくと、どの絵画にも、単に自然なだけで、形象とは違う何かがあるのだ。その何かとは、大抵の場合、芸術家にありがちな不完全性であり、素材にありがちな非制御性であって、ともに人間と形象の間に強引に入り込む。それは、偉大な芸術作品となると、評価し直されて、芸術家の疑念と信念として、芸術家の意図と理想として、芸術家の厳粛な奉仕と孤独な反抗として現れる。私たちのものではない言葉で書き換えられる私たちの作品に、こうしたことが関わるのは、常だ。私たち自身、いわば偽装存在である。絵画においては、芸術家こそが自らの形象を損なうのだ。
私は更に簡潔を旨としてこう述べることもできよう。つまり、絵画は絨毯よりも主観的である、と。しかし、近道はすでに長い道のりを歩いてきた者だけにしか許されていない。たとえある絨毯が型紙となる下絵と少しも変わらずほんとうに主観的であっても(下絵はいつでも必ずある芸術家の作である)、こうしたことは絨毯への関心を私たちに呼び起こさず、無に帰してしまったようなものだ。もっとはっきりと言っておこう。どの絵画に対しても絨毯への転写が許されているわけではなく、あまりに無駄の多い絨毯もかなりある。一例を挙げてみよう。ロンドンのサウス・ケンジントン博物館には、ベルリンにあるラファエロ〔一四八三ー一五二〇年〕の下絵を型とする絨毯が掛かっている ((
(。とにかくただ偉大であると見られているラファエロと彼が時代の本当に厳かな意味を再現するやり方とがことごとく認められて、その絨毯は賛嘆されるかもしれない。しかし率直に言うと、そこに掛かっているそれ自体の姿において、絨毯はひどい模写にすぎず、絨毯としても退屈であり、その退屈さはラファエロの弟子たちの多くとまったく変わりがない。しかしある絨毯は例外とせざるを得ない。それは奇跡の『漁』という絨毯である ((
(。この場合、私にとってこの絨毯は予想されるいずれの絵画よりも好ましい。それはまさに形象に他ならない。私はそれを言葉で言い表せないし、詰まるところ、言い表す気になれない。このようにかなりの程度まさに形象に他ならない何かは、リヒャルト・ヴァーグナーの序曲とまったく同じように、言葉では再現されてはならない。私
絨毯の倫理 の中に残り続ける印象として、かなたの水平線、水に映える岸、船の揺れ動く輪郭線や船を運ぶ波、屈み込む船乗りたちの体、獲物が沢山かかった網を引っ張っている多くの腕、翼を広げている水鳥、これらの印象だけしか残らない。これらは何れもあまりにすべての重力から解き放たれ、地を失って漂い、生に捧げられているので、この絨毯の技 クンストはこれらをそのものとして維持するのにわ キュンストリッヒざとらしくなりすぎることなどまずない。この場合、絨毯は匠 クンストヴェルクの作であり、職 ハントヴェルク人芸は不可欠である。
どの形象が絨毯やゴブラン織になり得て、どの形象がなり得ないかを調べてみると、ひょっとすると芸 クンスト術をまったく独自に捉えることになるかもしれない。ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ〔一八二四ー一八九八年。フランスの画家〕の繊細な芸術はこうした理解の認識に根づいていた ((
(。バーン・ジョーンズ〔一八三三ー一八九八年。イギリスの画家〕の絵画は出来損ないの絨毯である。ジョーンズの下絵を型紙とする絨毯は純粋芸術の観点からすると彼の絵画よりも美しい。野外にあるバーン・ジョーンズの形象は耐え難く、それはジョルジョーネ〔一四七六ー一五一〇年。イタリ
アの画家〕の『田園の合奏 ((
(』もしくはヴァトー〔一六八四ー一七二一年。フランスの画家〕の牧人画 (6
(がもし絨毯になったとしたら生じる耐え難さであろう。私は最近数多くの絨毯を見ており、そもそも絨毯の中では素朴な者たちだけがはっきりとした、ほとんど生きているような印象をより多くもたらすことに気づいた。私が表題に絨毯の倫理と名づけているものは、そうなると私にとって素朴な者たちの倫理とならざるを得ないであろう。そうしたことは万事、ルーブルに掛かっているビィットーレ・ピサーノ〔一三九五頃ー一四五五年頃。イタリアの画家 (7
(〕の絨毯数枚を前にして、更にはパリ万国博覧会のスペイン館に掛かっているスペイン王家コレクションであるフランドルの絨毯を前にして、私に明らかになったことだ。当然のことながら、かつて織られたすべての絨毯を私が知っているわけではない。しかし、ヴィルヘルム・パンネマーケル〔一五一四ー一五八一年。フランドルのタペストリー職人。Willem de Pannemaker〕の工房で作られた、聖母マリアの生涯を描くフランドル絨毯数枚がこの芸術分野でかつて到達した最高のものでは
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ないなどとは、私には信じることができない。これらの絨毯については、カール五世〔一五〇〇ー一五五八年。神聖ロー
マ帝国皇帝〕が大変気に入り、彼によってサン・ジュスト修道院に受け入れられたと言われている。絨毯上の草原、それに畑は、一枚の絨毯のように生の中に広げられており、野の花は、花壇に植えられているように、あるいは子供たちに見られているように、あるいは摘まれているように、個別に咲いており、花盛りであり、まるで根もなく大地にささっているかのようだ。野の花は光を浴びており、こうしたことが野の花唯一の植物学になっている。光が野の花を呼び出し、野の花は目の比喩となった。「夏が到来し、太陽が昇ると、太陽は大地の湿り気を根と幹を通って枝まで吸い込む。するとすべてが若芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶ」と、奇跡の人ロイスブルーク〔一二九三ー
一三八一年。フランドルの神秘思想家〕においてかつて書かれており、後の世になってもこれ以上うまく言い表されることはあり得なかった。自然全体は庭のようである。あるいは、人間の為に創り出された物語中の楽園、人間の所有地のようだ。人間は自然の中を逍遙し、自然が方向を指し示す。自然は全体になっておらず、感情はいまだ自然の個々のまとまりを把握しておらず、根源を探そうとはしない。事物の根は罪のごとくいまだ醜悪であり、そしてグロテスクであり、神の中に深く隠されたままである。源はこれらの形象において泉のようだ。自然はいまだ全体になっていない、と私は言う。自然は目に見えるものすべてにまさしく分割されている。つまり、丘や木立、薮や、灰色の帯のように緑の草原にある多数の道になっているのだ。自然は目の比喩にすぎない。自然は装飾的で、山はその上に貼り付いているような城のためだけにあるかのようだ。自然はしかしプラトン的でもあり、巡礼者や冒険者の自然である。自然は親密でありながら、同時に遠方を指す。人間は自然を自分の庭のように知っているが、自然は人間が自然の中に居続けないようにあるにすぎない。自然はプラトン的であり、通路であり、城や宮殿は塔や門にすぎない。ちょうど人間が防壁であり、何かを探している二つの目にすぎないように。動物たちは楽園にいるかのように横たわっており、紋章にあるかのように手足を広げている。彼らも比喩にすぎず、伝説や物語の国々に
絨毯の倫理 生きているのだ。 更に絨毯上のこうした人間たちについて言及できよう。彼らは互いを知っており、それだけに大きな関心をもはやお互いに寄せない。彼らは集まって何らかのつながりとなった。ちょうど歌い手が合唱団になり、祭司が神聖な儀式になり、俳優が舞台に立つように。彼らは私たちの前に立ち並び、明るいところに立ち、誰かが彼らから影を取り去ってしまったようである。彼らは自分たちの作法を厳格に守っているが、まるで自分たちが比喩にすぎないことを知っているかのようだ。生は彼らにとって役割のように課せられており、この役割を彼らは演ずる。リズムは彼らの内に無く、彼らはリズムの法則を知らない。およそこうした人間はいまだ調子を知らず、中身の無い想起や希望を分かち合わず、常に現在にいる。すべてを身につけており、自分の衣服の中で生まれたように見え、自分の衣服の中で死ぬことになろう。一度たりとも裸にならなかったのだ、こうした人間は。もっとも異教時代の殉教者にでもなっていれば話は別で、そうなると衣服は自身の生のように与えられていたのであり、ちょうど若者が教団に入るかのように彼は生の中に入ったのだ。こうした人間は背景を持たない。すなわち、背景として何も受け入れてはならず、何も忘れてはならない。自然は彼にとって決して背景ではなく、いつであれその脇にあり、形象と形象が並んでいるのだ。件の人間は象徴であり、いまなお 4444象徴である。背景を持たないものはことごとく象徴だと言えよう。人間は自身の背景からわが身により多くを受け入れれば受け入れるほど、みずからを象徴にしてしまう。しかし、バーン・ジョーンズの図で示された者とは異なり、自分自身の運命の象徴となっている。創造物を分かち、すべてを支配する偉大なる神のごとき意志の象徴だ。私が述べたように、かの人間はいまなお 4444象徴であり、バーン・ジョーンズの疲労した人間はとっくに 4444象徴になっている。いやしくも象徴はいかなる影も投げかけない光であり、言ってみればビザンチン・モザイクなのだ。象徴が永遠の現在となるのは、実在のものが何もかもはかないと絨毯上で知られているからにすぎない。
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これらの形象を表面的に見る者が形象を単調だとおそらく言うのは、もっともだ。しかしながら、一〇人に同じ服を着せ、何もかも同じことをさせるのであれば、誰であれ特徴ある同じ顔つきになっていると、そうした者が日々認めることはあり得る。外を通りかかる者が次々に後から来る何千の者と同じように見えるのであれば、とりわけそうではないか。このことは生と芸術を等しく支配する経験的法則だ。それは、例えばルーベンス〔一五七七ー 一六四〇年〕ともなればまったく理解しなかったし、レオナルド・ダ・ヴィンチ〔一四五三ー一五一九年〕とゲーテ〔一七四九ー一八三二年〕なら、自分自身を規定する人間たちを描き出したので、なしで済ますことができた文化法則であり、衣装法則であるが、そうした法則は、しかしながら、ベラスケス〔一五九九ー一六六〇年〕による王女たちの絵やホルバイン〔一四九七ー一五四三年〕の『アンナ・フォン・クレーフェ』において精神的なものをことごとく解明する。しかしまた、それは素朴な者たちを規定し、彼らにおける無意識的で、単なるうわべだけでないものを規定しているのだ (8
(。
要するに、人間は誰であれ同じひとつの意志の比喩的な現れにすぎないし、すべての者は人形、すなわち頭と手がある衣服にすぎないからこそ、他人にはその人だと分からない何か、他人をかわす手立てとなる何かが、誰にでもあるかのように思える。すべての者の内にはひとつの精神が息づいているようだが、彼らはひどい現し方でしか精神の用をなさない。あたかも自分自身に、身につけている衣服になじんでいないかのように、自己の存在理由を知らないかのように。目は手が何をするのかを知らない。彼らは問いを立てているようだが、彼らにすれば形象にあるものは何であれ答えることはできない。彼らは静かに佇み、目は画家が彼らのために引くことができなかった水平線の方を見ているのだ。彼らは探すようにあちこち歩き、目はすわっている。周りでは何もかもが明快至極だが、彼らは外国語を話す人々のように途方に暮れているようだ。心の中で言わざるを得ない言葉は、彼らの祈祷書中にある文言や彼らがうたう歌のように平明であるものの、彼らは半分しか理解しない何事かに注意するかのよう
絨毯の倫理 に耳をすます。私は喩えを語っているのだが、ただ形 ビルト象のことしか話していないことを忘れてはならない。例の人間たちにとって生はかなり神聖で厳粛なものなので、彼らを描く形象ではすべてが戯れのように現れる。彼らは幻覚を持たないので、いつであれ形象の中で話し、彼らの言葉は遠くから聞こえるように響く。最も神聖なものは彼らにとって自然なので、周りにある平凡なものは何もかも奇跡のように見える。私は彼らの生に無かったものを彼らの形象に見いだすつもりはなく、なぜ彼らの絵 ゲメールデ画が形 ビルト象なのかを言おうとしているにすぎない。
どの絵画も形象であるというわけではない。ほんの僅かな絵画が形象なのだ。描かれている大抵のものはバラ色か黒に歪められた現実である。そのことはとかく忘れられるが、しかしどの形象も二つのものから成り立つ。つまり、描かれたものとそれを見る目である。ただそれだけの理由から描かれたものはひとつの形象なのだ。さもなければそれは埃や洗われたぼろきれのように実質を伴わない。描かれたものとそれを見る目から真の形象は成り立つ。光が色の中でいきづくように、目そのものが、見ることすべてが先に挙げたかつての芸術家たちの形象の中でいきづくことは、彼らがもつ天賦の才である。私たちが目を閉じると、そうした形象は何も表さない。
以上のことを私は非常によく分かっている。いかなる「客観論者」も私に指摘する必要の無いことがあるが、それは、そもそもかの人間たちが人形にすぎず、いまだに 4444人形だということだ。彼らは泣くと、顔をしかめるにすぎない。それから子供のように振る舞い、「ちゃんとしなさい」と言われる。悲しむ時にはただ両手を上げるだけだが、それで十分な形象となるのだ。自分たちの美徳や悪徳について自ら語ることはできない。王冠や剣、身につけている帯や指輪、付き添いの動物が語るのだ。
もったいぶって私に言う者がいる。鞘に剣を納めている絨毯のこの女性は神の正義 4444を表し、救世主の血を杯に受ける別の女性は哀れみ 444だと。このことは非常に教訓的であり、芸術史の偏狭な知識であるが、結局のところ実り多いものではない。別の絨毯では同じ女性がマグダラのマリアとして、更に別の絨毯では美女ヘルシリア〔ローマ神
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話に登場する王政ローマ初代王ロムルスの妻〕かジビュレ〔アポロンの託宣を述べた女予言者たち〕の一人の役割を演じるかもしれない。実際に人形にすぎず、人形はただ役割を演じるだけで……。こうしたことは人形にある型どおりの生であって、一方の真理にすぎない。他方の真理は、いまだ認識に至っていないだけにまるで奇跡によってさまよっているかのような人形の目にやどり、根を持たないにもかかわらず咲いている花にやどり、常に落ち合うが、迷路のようにどこにも通じていないような道にやどり、まるで意志を持たないかのように存在し、まるで夢の中に現れるかのような身振りをする動物の中にやどり、誰であれ意識せぬうちに体験してしまっていたので、代りとなる記号も概念もないすべてのものの内にやどり、中には何ら知られていない何かがあるだけに、すべての生きているものと同じようにやどるのだ。
私たちの眼前の様子と同じように、かの人間たちは皆、互いに依存し触れ合って生きている。もしこちらから人間一人、そちらから山一つ、あちらから鹿一匹を全体から取り出すならば、人形一体、カードの家一軒、作りの悪いおもちゃ一個を思いがけず手にすることになろう。ひとつの詩句から三語を取り出す場合と同じだ。そうなると三語は中身を欠き、意味を失う。こうした事情がかの人間たちにあてはまるのだ。私が述べたように、偉大なリズムに与っているから、彼らは生きているのだ。リズムは彼らの内にあるというよりも上にあり、今日は彼らの神だが、明日は祭りか祈りか罪となる。彼らには孤独が無く、ただ非常に多くの隠者がいるだけだ。全世界に孤独なものがまったく無いというよりも、むしろ古い一枚の形象上に隠者が一人いる。彼らは一人でいることができず、自分たちの身振りとともにいることができない。それゆえ全員がいつも揃っている。これが彼らの生の秘密であり、彼らを作り出した芸術の奇跡なのだ。
私に形象の意味をかなり広く捉えさせているものが何かを、ここで言っておきたい。つまり、こうした者たちがいまだ互いに距離を作り出さず、他者から、宗教から、自分たちの冒険から、いまだ自分たちの内に無いものから、
絨毯の倫理 詰まるところ芸術家から、形象の中で距離を受け取っているということだ。彼らはカントやその超越論的美学よりかなり前から存在している。彼らは対立についていまだ何も知らない。現代の形象ともなると、動きによって対象と静止しているものとが引き比べられることによって、動きのある対象を描き出す。素朴な形象では全体の動きは半々からなるようだ。彼らはいまだかなり絶対的であり、目に見えるものをすべて並べ立てるならば世界全体を有すると信じており、古代の偉大な占星術師や神秘主義者の判断とは違い、ひとの食するパンの皮に含まれていないものは何であれ、天上にも地上にも存在しないということをいまだ知らない。彼らは事物の相互関連やそのごまかしや遠近法について、こうしたものすべてを体験しているだけに、何も知らない。そうだ、私たちの生によって相互に連続する瞬間にしか常に定着させられない遠近法を、彼ら自身、体験しているのだ。その結果、すべては形象上でのかくなる現れとなり、空間遠近法はかくも粗悪になっている。おもちゃのように、目に近いものは大きく、目から離れているものは小さい。人間は距離がはめ込まれたマリオネットだ。今や大げさな身振りで大きな欲求を抱きながら振る舞うものの、常に同じ場所にとどまり、目だけが驚く。なぜならば目は神ですら形象にすることができない唯一の人間のものだからである。もっとも人間が目を閉じて何も見えないのなら、話は別だ。 私には以上のことが素朴な者たちの倫理だと思われる。この倫理は形象一般の倫理と同様にほとんど包括的なのだ。私はこれを絨毯の倫理と名づけた。なぜならば私が目にした絨毯数枚においてそうした倫理がいつも以上に異論の余地が無いように思えたからだ。
訳者注(比較的短い注に関しては、〔 〕を付して本文中に組み込んでいる。一部、翻訳底本の訳注を参考にした。)
(
()一九〇〇年版では、この段落の最後に「ゴブラン織ともなれば絵画以上に私たちの目に創造を強いる。ちなみに、
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美学は創造的まなざしの学に他ならない」という文章があった。(
( てのロンドン滞在中にこれらの下絵を知ったようである。 た際、一五一五年から翌年にかけて描いた七枚の下絵である。なお、カスナーは一八九七年から一八九八年にかけ ト博物館)にあるのは、ラファエロがヴァチカンのシスティーナ礼拝堂を飾る連作タペストリーの制作依頼を受け ()ここの記述はカスナーの記憶違いで、ロンドンのサウス・ケンジントン博物館(ヴィクトリア・アンド・アルバー 年作、ヴァチカン美術館所蔵。 Pieter van Edingen Aelst一五三一年。〕がブリュッセルで織ったタペストリー。製作の際に図柄が反転した。一五一九 ()ラファエロの下絵をもとにしてフランドルのタペストリー職人ピーテル・フォン・アンギアン・アエルスト〔一四五〇ー
(
( 図書館に残されている。 ()シャヴァンヌの壁画はマルセイユのロンシャン宮殿、パリのパンテオン、リヨン美術館、アメリカのボストン公立
()パリのルーブル美術館では、現在、ティツィアーノ作として展示されている。
ラファエロの下絵
アエルストのタペストリー
(図像典拠:http://art.pro.tok(.com/
R/Raphael/Raphael.htm〔ヴァーチャ ル絵画館〕)
絨毯の倫理 ( 6)ここでの牧人画とは、パリのルーブル美術館にある『シテール島の巡礼』(一七一七年)のこと。
(図像典拠:http://ja.wikipedia.org/wiki/
ファイル :Fiesta_campestre.jpg
〔ウキペディア〕)
(図像典拠:http://commons.wikimedia.
org/wiki/File:L%(7Embarquement_pour_
Cythere,_by_Antoine_Watteau,_from_
C(RMF_retouched.jpg〔ウィキメディア・
コモンズ〕)
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(
( 7)カスナーが挙げる名前は誤伝。本名はアントニオ・ディ・プッチョ・ピサーノ。日本ではピサネロと称されている。
かの関わりをもち、他のものはすべて自ずと語ってしまう」という文章があった。 8)一九〇〇年版では、この段落の最後に「このようなもの、そもそも無思考なもののみが、芸術作品として私に何ら
翻訳底本Rudolf Kassner: Die Ethik der Teppiche. In: ders.: Sämtliche Werke. Bd. II. Im Auftrag der Rudolf Kassner Gesellschaft herausgegeben von Ernst Zinn und Klaus E. Bohnenkamp. Stuttgart: Klett-Cotta (00(, S. (0(-(((.
訳者後記
ルードルフ・カスナー〔一八七三ー一九五九年〕は、西欧合理主義に対する「異端の正統者」として独自の哲学的「観相学」を展開した「文化哲学者」Kulturphilosophである。現チェコのモラヴィアに生まれ、ウィーンとベルリンの大学で学んだオーストリアの「観相学者」は、その精神的営為を『数と顔』(一九一九年)や『観相学』(一九三二年)や『想像力について』(一九三六年)などで世に問うた。もっともカスナーは多彩な精神的遍歴と優れた語学能力を駆使してプラトン『饗宴』『パイドロス』『イオン』、ゴーゴリ『外套』、トルストイ『イワン・イリノイッチの死』、ドストエフスキー『大審問官』、スターン『トリストラム・シャンディ』、アンドレ・ジッド『フィロクテート』などの翻訳者としても知られ、一九三八年には散文集『神人 対話と比喩』を出している。また、ドイツ語圏ではフーゴー・フォン・ホーフマンスタール、トーマス・マン、ルードルフ・ボルヒャルト、ジェルジ・ルカーチと並ぶ二〇世紀を代表するエッセイストとしても名高い。ルカーチが『魂と形式』(一九一一年)においてカスナーとキルケゴールにそれぞれ一章をあてて連続して論じていることからも読み取れるように、ドイツ語圏における新たなエッセイ文化の高まりは、カスナーを嚆矢とすると述べても決して過言ではない。事実、カスナーは、一方でプラトン、パスカル、スターン、キルケゴールらに自らの精神的始祖を見いだし、他方でホーフマンスタール、リルケ、ジッドの知己を得、そして早くからインド思想の影響を受け、晩年には日本の禅にも多大な関心を示しただけに、いわば早くからエッセイの形式で秀逸な芸術や文明に関する批評を世に問うたので
絨毯の倫理 ある。中でも『モティーヴェ』(一九〇六年)は、まさに初期カスナーにおけるエッセイの精華が集められていると言えよう。なお、カスナーに関する更なる詳細は、『メランコリア』(塚越敏訳、法政大学出版局、一九七〇年、三五八頁以下)、『十九世紀』(小松原千里訳、未知谷、二〇〇一年、四八一頁以下)、拙論「ルードルフ・カスナー『変身』について 訳者解題として」(九州大学独文学会『九州ドイツ文学』第二五号、二〇一一年、四九頁以下)を参照せよ。 カスナーは、一九〇六年五月、ベルリンのフィッシャー社から『モティーヴェ』Motiveを公にした。『エッセイ集』Essaysという副題が添えられた初期カスナーの代表作は、ここに訳出した「絨毯の倫理」の他に、キルケゴール(拙訳、九州大学独文学会『九州ドイツ文学』第二七号、二〇一三年、一ー四七頁)、ロダン、アベ・ガリアーニ、ロバート・ブラウニングとエリザベス・バレ、エマソン、ボードレール、ヘッベル(拙訳、九州大学大学院人文科学研究院『文学研究』第一一〇号、二〇一三年、二九ー五四頁)に関するエッセイ八本を所収する。『モティーヴェ』の三番目に収められた「絨毯の倫理」Die Ethik der Teppicheは、カスナーが一九〇〇年九月一五日付けの『ウ ヴィーナー
ルンド シャウィーン展望』に寄稿した「ゴブラン織の倫理」Die Ethik der Gobelinsに基づく。但し、ここに訳出した一九〇六年版では、一九〇〇年版の本文中に多数あった「ゴブラン織」という言葉がタイトル変更とともに「絨毯」に置き換えられており、加えて、取るに足らない部分とはいえ、文章にもかなりの修正が施された。また、一九二三年に公刊された『エッセイ集』Essays所収の「絨毯の倫理」Die Ethik der Teppicheでも、一九〇六年版を短縮する方向で加筆修正が施されている。なお、初出の一九〇〇年版は、カスナーが同年夏にフランス・ブルターニューのカンカルに滞在した折に書かれ、パリの万国博覧会や博物館で受けた印象に基づく。
ブラン織」がタペストリーのいわば代名詞として使われるのは、ルイ一四世時代にゴブラン家が王立の製作所を構えて王 していたタペストリーは、一二世紀初頭にヨーロッパに伝えられると、主としてフランスやフランドルで生産された。「ゴ 壁掛けに用いられた室内装飾用の織物、すなわちタペストリーである。既にヘレニズム時代の東西交易において広く流通 第一に、「絨毯の倫理」では、一九世紀末特有の審美主義が強く働く。ここでの「絨毯」とは、一読して分かるように、 のエッセイを味わうためには、以下の三点を確認しておく必要があろう。 いや、他のエッセイ以上に、内容理解は容易くない。その難解さがカスナー独自の思考と着眼に由来するとはいえ、珠玉 工芸品である。しかし、このエッセイは短いとはいえ、また、工芸品を扱っているにもかかわらず、他のエッセイと同様に、 「絨毯の倫理」は『モティーヴェ』の中で比較的短い。しかも、特定の思想家や文学者を扱うのではなく、考察対象は
絨毯の倫理
80 宮用タペストリーを生産したことに由来する。一九世紀に入ると衰退の一途をたどったゴブラン織は、二〇世紀に入って再興されると、ピカソやルオーやミロなどの活動によって芸術作品として新たな発展を遂げたと言えよう。タペストリーの歴史を中世から現代まで振り返ると、著名な画家が描いた下絵や有名な絵画そのものに基づいて織られた数多くの傑作が認められる。中でも最も有名なタペストリーは、一八四一年にプロスペル・メリメによって発見され、一八八二年以降にパリのクリュニー美術館(中世美術館)に移管された六枚連作の「貴婦人と一角獣」であろう。同作は、既にジョルジョ・サンドの『ジャンヌ』(一八四四年)において賞賛されたが、ライナー・マリーア・リルケの『マルテの手記』(一九一〇年)において最も重要な描写対象になっている。二〇世紀におけるタペストリー文化の新たな展開とは、伝統工芸の単なる再評価ではない。特にドイツ語圏の文学においては、『マルテの手記』のリルケにとっても、一九〇〇年に「ゴブラン織の倫理」を公にしたカスナーにとっても、また同年に詩集『生の絨毯』Der Teppich des Lebens を上梓したシュテファン・ゲオルゲにとっても、近代の合理主義や実証主義や自然主義に背を向けながら自己の内面に深く入り込むとき、織物独自の質感や風合いから生の根源的な形象が浮かび上がってくるのであった。カスナーは言う、「絨毯、ゴブラン織ともなれば、私たちの意志に反して私たちを審美主義者にしてしまう」と。また、『モティーヴェ』所収の「キルケゴール」によれば、「美的人間は享受する瞬間に完成される。(中略)美的人間は瞬間から瞬間に生き、無限に続く存在の仮象を我が物にしてしまう」。このような記述は、一九世紀末のヨーロッパにおいて画一的な工業化社会の反発から生じた審美主義的思考の典型であると述べても過言ではない。 第二に、「絨毯の倫理」における神秘主義的記述も見逃せない。そこでは、かつての王侯貴族にとって絵画以上に貴重な工芸品であった「絨毯」が、今の我々にとって絵画以上に貴重な形象として再評価されている。カスナーにとって、タペストリーは外に持ち運び可能な単なる装飾品ではない。我々の内に何かを持ち運ぶ「形象」Bildであり、我々の内に何かを「形成する」bilden力をもつ。それはまるで夢のように無意識の反応として我々に働く。しかもすべての形象にはまるで集合的無意識とでも称せるような「ひとつの意志」「偉大なリズム」が宿っているだけに、「絨毯」では「絵画」とは違い「素朴さ」が全体を支配する。役者に喩えられた「絵画」が芸術家の主観が強く働く芸 クンストヴェルク術作品であるとすれば、仮面に喩えられた「絨毯」は職人の技 クンストが適度に働く匠 クンストヴェルクの作である。詰まるところ、「絨毯」は主観という「重力」から解き放たれた素朴な形象を見る者にもたらす。しかも紡がれた形象は、瞬間として、永遠の現在として、立ち現れてくる。このようなカスナーの記述には神秘主義的思考が働く。そもそも神秘主義は言葉にし難い経験を言葉にするという問題を、語
絨毯の倫理 りえないものを語るという矛盾をはらむ。特にドイツにおいては、スコラ神学のラテン語をドイツ語として受け入れることから神秘思想が本格化した。ドイツの神秘主義が独自の思弁性を獲得するのは、香田芳樹『マイスター・エックハルト 生涯と著作』(創文社、二〇一一年、特に第五章)によれば、ラテン語のimago(似姿)がドイツ語のbilde(像)として訳されたときであり、この翻訳作業を通じて中世神学の本質である神と人間の「関係」relatioが動的になったときである。特にエックハルトの思考においては、人間が絶えず神を志向し続けるというimagoの一方向的な「関係」よりも、bilde / Urbild(原像)としての神とbilde / Abbild(似姿)としての人間との「関係」が、根源から発して中間物を介さず根源へと還る円環運動として、強く働く。しかも原像であり似姿でもあるbildeは、プラトンのイデアに由来するimagoとは異なり、生活世界に根を持つ。カスナーが、「形象」Bildという言葉にこだわりながら、芸術家の主観を媒介とする芸術作品としての「絵画」よりも「重力」から解き放たれた素朴な工芸品としての「絨毯」をよしとするのは、決して偶然ではない。 第三に、「絨毯の倫理」には、後にカスナーが独自に展開する「観相学」の萌芽が認められる。カスナーは内と外との一対一対応に基づいて顔を類型化することを拒む。アリストテレスを嚆矢としラーヴァーターによって大成された従来の観相学が静的な世界像に行き着くとすれば、新たな観相学は動的な世界認識に基づく。一九二五年刊行の『変身』(拙訳、九州大学独文学会『九州ドイツ文学』第二五号、二〇一一年、一ー四八頁)が示すように、カスナーは人間存在が瞬間ごとに示す内面と外面のドラマに多大の関心を抱く。そもそもドイツ語のGesichtは「顔」のみならず、「視覚」、更には「幻視」という意味をもつ。端的に言えば、カスナー観相学はこの語が有する三つの次元に基づく。事実、カスナーの考察は客体として見られる「顔」のみならず、認識主体の「視覚」、更には見る行為から生じる「幻視」にまで及ぶ。カスナーにとって「幻視」は心の中で漠然と思い浮かべられた形象ではない。自己の中に「意味としての形象」Sinn-Bildを作り入れ(einbilden)ながら事物と交わる力、すなわち「想像力」Einbildungskraftこそ、カスナー観相学の眼目である。想像力を介して、認識する主体と認識される客体との相互作用が瞬間的かつ無媒介的に働く。人間が事物を外から中へ引き入れることで事物を変えると同時に、事物はそのものに入り込んだ人間を瞬く間に変えてしまう。このような相互作用は、一九〇七年にカスナーと知り合ったリルケの詩的世界にも多分に認められるが、一九〇六年の「絨毯の倫理」では織物の形象をめぐり、まるでカスナー観相学の「原像」Urbildであるかのように、記述されている。
以上の連関で、「絨毯の倫理」が示す二つの難解な言い回しにも触れておこう。「描かれたものとそれを見る目から真の
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形象は成り立つ」という一文に関して、描かれたものを「顔」、目を「視覚」、真の形象を「幻視」と捉えるならば、そこにはGesichtをめぐる三次元が透けて見える。また、カスナーが「目は神ですら形象にすることができない唯一の人間のもの」と記すとき、やはりドイツの神秘主義を念頭に置いていたのであろう。クザーヌス『神を観ることについて』(八巻和彦訳、岩波文庫、二〇〇五年)によれば、神を意味するギリシア語theosがtheoro(私は観る)に由来し、「人が神を観ること」は同時に「神が人を観ること」に他ならない。言うまでもなく、カスナーはドイツの神秘思想を現代にそのまま復活させたのではない。人間と神との間に生じる神学的な相互作用は、カスナーにおいて、人間と事物との間に生じる哲学的かつ観相学的な相互作用へと変容していく。『モティーヴェ』の中で事物を直接の考察対象とする「絨毯の倫理」では、一九世紀末の審美主義的思考のもとで、伝統的なドイツ神秘主義と新たな観相学がまさに「素朴に」織り込まれているのである。