1999年12月 54 福島人学教育学部論集第67号
﹁長町女腹切﹂の構図
勝 倉 壽 一
一 はじめに
﹁長町女腹切﹂は︑近松の世話物全二卜四曲の十六作目に当たる︒世
話物の初作﹁曽根崎心中﹂からト年目を迎えた︑近松六十二歳の円熟期
の作品であると一一一.・ってよい︒
京都下立売の刀屋石見某の奉公人半七は︑馴染みの女郎石懸町井筒屋
のお花が︑抱えセと継父九兵衛の企みで年切増しを強要されているのを
救うため︑拵えを依頼されていたさる大名所蔵の名刀信国を安物にすり
替える︒この刀を持参したのは大阪長町で伽羅細工屋を営む叔母であっ
たが︑叔母はこの犯罪を知ると︑元来武士であった半七の家に伝わる信
国の祟りのためであるとして︑自ら腹を切り二人を救おうとする︒
若い男女の悲劇を背景に︑女の腹切りという衝撃的な事件を一曲の眼
目に据えた意欲的な作品であるが︑従来︑その評価は必ずしも高くはな
い︒ この作品の構図については︑つとに広末保氏が︑作品の主題を形成す
べき半七・お花の悲劇が必然的に従属的な叔母の悲劇へと展開していく
のではなく︑﹁従属的な悲劇が基本的な悲劇にとって替り︑悲劇として
完結﹂せず︑﹁半七お花の悲劇は帰結を持たない﹂ため︑﹁悲劇としては︑
主題の入れ替りによって中絶した︑未完結な作品﹂であるとする否定的 評価を与えだ︒ 藤野義雄氏も広末氏の指摘を追認して﹁成功するに至らなかった﹂と見る︒しかし︑﹁町人の世界に武家女房的気質を取り入れて︑身代り物とも二︑一・うべき異例の作を世に出した﹂ことに注目し︑﹁世話悲劇の時代物化として注目を要する﹂と説く︒ これに対して︑須山章信氏は基本的な悲劇を展開させる半七の﹁脇差のすりかえの場が︑全く描出されていない﹂ことに注目し︑半七・お花の﹁劇的役割は︑あくまで叔母の﹃侍筋﹄の誇りを護らんとするために生ずる悲劇を全曲の頂点とするための準備的性格のものであ﹂ると説いてい呑︒ 主題の分裂の指摘と︑﹁侍筋﹂の誇りを護らんとする叔母の切腹への道筋を一曲の主題に据える解釈の存在は︑そのままこの作品の成立事情︑及び近松世話物の展開における本作品の位置の複雑さを物語っている︒その事情は︑まず作・㎜の書き出しの表現に端的に現れている︒ を 例の童の一一︑一・の葉に︑言ひよる品もよしあしの.難波の京の物語︒今 ウ う の狂歌に取りなせし.京童の口遊み︑落首洛外とり矛︑に.その一 節をゑ草紙や. この﹁難波の京の物語﹂という書き出し表現は︑京阪ニケ所で発生し
た事件に取材して浄瑠璃に仕立てたという口kに解釈できる︒本作品の
︵壱︶
一長町女腹切一の構図 53
材源をなす女の腹切り事件は難波で︑半七・お花の心中事件は京都で起
こったと推定されている︒いわゆる際物的な性格を濃厚に有しており︑
経済力の乏しい若者と遊女の心中という月並な題材に︑マンネリ打破の
ために女腹切り事件を絡ませたのが﹁難波の京の物語﹂であると見てよ
いであろう︒
しかし︑二つの異なる材源を組み合わせて一曲を構成する手法は︑構
図上に多くの問題を生ずることになった︒
まず︑戯曲における主題の形成にあたって︑男女主人公の持つ意味は
重い︒にもかかわらず︑半七を男主人公に定位することは認めうるとし
ても︑遊女お花と叔母のいずれを女主人公と見るかは見解の分かれると
ころであろう︒
.⁝.・うまでもなく︑お花が男L人公の相手役であり︑全巻の構成に関わ
り︑かつ中之巻の末尾に﹁お花半七道行﹂が存在することから見れば︑
形式hはお花を女主人公と見なすべきである︒しかし︑継父と抱え主の
企みにより年切増しの危機にあったお花に︑事態打開のための積極的な
行動︑また心中劇を主導する働きは乏しく︑すべてに感情的・受動的な
対応が見られるのみである︒恋人の冤罪を告発する﹁曽根崎心中﹂のお
初︑印判盗用に関わりを持った﹁心中重井筒﹂のお︑房︑封印切りを阻止
しようとした﹁冥途の飛脚﹂の梅川らと比べても︑お花の位置は軽い︒
⁝方︑半七に武士の家系の出自を語り︑名刀をすり替えた甥の罪を負っ
て自害する叔母の存在の重さは︑単なる老役の域に止まるものではない︒
にもかかわらず︑侍の家筋の誇りを護り自害する叔母の悲劇を中心に︑
女武道物として一曲全体の統︸的解釈を与えることは難しい︒叔母の期
待する武しの家系の出自が︑心中の危機にあった半七・お花の内面世界
にいかなる働きと葛藤を生み︑刀のすり替えという決定的な事件を生ぜ
しめたのかという問題の説明がなされえないからである︒ ︵犬︶
本作品を構図上から見れば︑半七・お花を主人公とする心中劇と︑叔
母を中心に展開される女武道物の両側面を有する︒材源に由来する両側
面を分析︑整理することから︑その構図上の問題は明らかになるはずで
ある︒ 二 ﹁お花半七道行﹂の意義
まず︑﹁長町女腹切﹂の構図で注目されるのは︑中之巻末尾に﹁お花
半七道行﹂が置かれていることである︒井筒屋と九兵衛によるお花の年
切増しの企みのために︑半七のニレ両の工面も虚しく窮地に陥った二人
は︑死を覚悟して大阪に向かうことになる︒
もっとも︑半七がお花と駆落ちしたのは︑企み阻止のために工面した
ニモ両が︑ほかならぬ親代りの叔母が半七の出世を期待して拵えを依頼
した︑さる大名所蔵の名刀を安物とすり替えて得た金であり︑半七は事
が露顕した時には叔母夫婦に難儀をかけないために︑死罪を覚悟で大阪
に向かったのであった︒
この﹁お花半七道行﹂の存在が注目されるのは︑別表のように﹁長町
女腹切﹂に先立つ世話物十五作中︑﹁堀川波鼓﹂﹁夕霧阿波鳴門﹂を除く
十三作に道行が置かれているが︑浄瑠璃本文中に﹁道行﹂の名を冠する
小題が置かれているのは︑心中物に分類される六曲だけである︒従って︑
心中物ではない﹁長町女腹切﹂の道行文に︑心中物にのみ冠せられてき
た﹁道行﹂の名が置かれたことは注目に値する︒いわば︑本曲は通例の
心中物の性格を濃厚に有していることの証ではないかと思われるのであ
る︒ 横山正氏によれば︑︻曲の構成における﹁道行﹂の位置は︑過去の事
件的経過と葛藤を回顧して再確認すると同時に︑要約的・総括的に締め
括って︑次の情死の結末への急展開の契機︑または出発点となる︒この
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働きを持つのは︑後期の﹁心中天の網島﹂﹁心中宵庚申﹂の道行が完成
形態である︒心中物以外でこの特殊な構成的効果を持つのは﹁丹波与作
待夜のこむろぶし﹂﹁長町女腹切﹂﹁大経師昔暦﹂﹁鑓権..重帷子﹂﹁博多
小女郎波枕﹂の五作で︑﹁死の予想のドでの道行は︑死の確実に予想さ
れている心中物に於ける道行に準ずるものということが出来る﹂といヶ︒
称
名
の
行
分 類 道
名
田﹈
徳兵衛おはつ道行 ちしごの道行
与兵衛おかめ末期の道行
末期の道行 おなつ笠物狂 ちしほのおほろそめ 与作小まん夢路のこま 平兵衛小かん夜ルのあさかほ あづま勝次郎初もめん 久米之介お梅道行 源五兵衛おまん夢分舟 二郎兵衛おきさ道行 忠兵衛梅川相合かご
﹁長町女腹切﹂は半七・お花の位相について見るかぎり︑心中物の構図
を正確に踏まえたものであると考えなければならない︒
西石懸町で阿弥陀籤による豆腐買いに出たのを幸いに娼家を脱出した
お花は︑憔悴して停む半七と再会する︒半七はお花の問いに金の工.面の
顛末を語り︑﹁たとへ首になるとても.もう取返しのならぬこと︑この
﹂ながらも︑罪にあはば我一人.叔母婿︑叔
おはな半七道行 おさん茂兵衛こよみ歌 嘉平次おさが道行 権三おさゐ道行 与次兵衛あづまみち行 惣七小女郎道行 名こりの橋づくし
八百屋半兵衛女はうおちよみち行
物物物物物物物物物物物物物物物物物物物物物物物物 中中中通中罪中構中罪中構中罪構構通中通構罪中罪中 心心心姦心犯心仮心犯心仮心犯仮仮姦心姦仮犯心犯心
曽根崎心中 心中1枚絵草紙 卯月の紅葉 堀川波鼓 卯月の潤色
五十年忌歌念仏 心中重井筒
丹波与作待夜のこむろぶし 心中刃は氷の朔日
淀鯉出世滝徳 心中万年草 薩摩歌 今宮の心中 冥途の飛脚 夕霧阿波鳴渡 長町女腹切 大経師昔暦 生玉心中 鑓権三重帷子
山崎与次兵衛寿の門松 博多小女郎波枕 心中天の網島 女殺油地獄 心中宵庚申
四 岩波書店版『近松全集』所載の影印版による、
母にも難儀をかけず︑そなたの行く末頼むた
め.心ざすは大阪.﹂と︑手を取り合って大
阪へとトる︒その道筋で夫婦連れを見ては互
いに口説き泣く︒
キ ノ せめて一夜は嘘なしに︑ほんの女夫と.
フノ ララヨマ ノ いつの世に.桔︑.・はれつ︑︑員はん.情けな
やと︑抱き締めたる削ぎ袖も.涙にひた
すばかりなり.
当然の心中への道筋であるが︑そうならな
いのは半ヒの罪が叔母夫婦の身に降りかかる
からである︒自らの刑死と引き換えに叔母夫
婦にお花の行く末を託そうとする半七に︑お
花もまた身代わりになる決意を語り︑互いに
﹁罪にあふとも︑逃る\とも.分け隔てはな ぬワルいわいの.ほんにさうぢや︑女夫ぢやもの﹂
と生死を共にすることを誓い合う︒半七の刑
死の覚悟にお花の後追い心中の決意が重なる︒
ノL
)
長町女腹切一の構図 勝倉壽
三 半七・お花の位相
つぎに︑半七・お花の心中劇として一曲の構成を見ることにする︒こ
の材源にされた心中事件は京都で起こったと推定されるが︑実在事件の
存在を窺わせる記録︑伝承の類は見当たらない︒しかし︑先に掲出した
ように︑京童に喧伝され︑狂歌・落首の材となった事件を︸曲に構成し
たという書き出し表現は暗.小的であり︑京阪の庶民世界には知られた事
件であったかも知れない︒また︑記録類に残されていないことからは︑
庶民世界にありきたりの心中事件だったかと思われる︒
本作品に先立って︑近松は遊女を女装人公とする世話物を既にヒ曲書
き︑その悲劇の要因を書き分けてきた︒いま︑遊女とその情夫の間を割
く要因について見ると︑遊女側では金持による身請け話︑親の再度の借
金があるが︑男側では金策に窮しての犯罪︑妻子の存在︑男の零落︑勘
当︑追放︑冤罪︑などの多様な条件設定が認められる︒
本曲では︑遊女側に継父と抱えヒの共謀による年切増しの企みと強要︑
男側に経済力の乏しさという通有の条件︑﹁親方が\り﹂の奉公人とい
う徒弟制度の従属的な身分に加えて︑侍の家筋の出臼に見合う叔母の期
待を絡ませる︒
h之巻﹁石見屋の段﹂︑頭痛を理由に床に臥せる半ヒを︑年切増し問
題を抱えたお花が叔母と偽って訪ねてくる︒
南無...宝︑さては内々苦労にした.欲面の継父めが︑年切り増しの
もがりごと.急々にせがむと見えた.その工面に来たさうな.何に
もせよ出過ぎたこと.会ふもあぶなし︑会はぬもまた.しまひのつ コじエテ かぬ.我が身ぞと.夜着引つ被り︑生きたる心地はなかりけり.
年切増しの強要を逃れる金策の当てはな・\遊女狂いが親方に露顕す
れば職を失い︑半ヒの破滅︑お花との別離は自明である︒そこに想定さ
(.
一
︶ミ
るのは︑心中への道筋であろう︒その危機は実の叔母の登場により決ミ
的となるかに見えたが︑お花を腹違いの妹であるとする叔母の機転にミ
り一旦は難を逃れる︒ミ
二人の叔母が鉢合わせになる趣向は謡曲﹁二人静﹂の脱化であるが︑ミ
は偽叔母として半ヒとの瀬戸際の愛に生きる遊女︑一は甥に侍筋の出ミ
を語り︑刀職人としての地道な精進と出世を求める親代りの叔母であミ
︒ともに半ヒを思う両人の対立︑または各人の葛藤により悲劇的緊張ミ
高まることになるはずである︒ミ
これを半ヒ・お花について見れば︑﹁欲面の継父めが︑年切り増しのミ
がりごと﹂により追い詰められた︑︑人の境涯を端的に示す第一の危機ミ
︑心中に近接した設定であるが︑︑︑人はいまだ心中への明確な意志をミ
いてはいない︒ミ
半七様とは末々まで︑面倒みあふ契約に.ちと行き詰った憂きふしミ
の談合に.会はいで叶はぬことあって︑横着なこの有様.叔母様なミ ヴミ ら大事の甥を.そ\のかすとのお憎しみ︑そこも許してくださんせ.ミ
ヵ デ ョ でうすヴミ いとしいがたゾ因果ぞと︑ともに.かこちて泣きければ.ミ
甥の半ヒに名刀の拵えを頼むとともに︑武しの出自に見合う成功を期ミ
して登場した叔母は︑甥の意外な現実に当惑する︒しかし︑お花の涙ミ
がらの事情説明に対して︑﹁今日叔母がhらずば︑一︑人の命はあるまミ
もの.﹂と︑直ちに心中を口にしたのは叔母の方であった︒世故に長ミ
た叔母の眼に︑.︑人の交情の果てが心中であることは容易に予測できミ
のであろう︒そのことはまた︑観客に明確な予測を付与することにもミ
る︒ミ心中への道筋を想定する観客の予測はやがて中之巻末尾の﹁お花半ヒミ
行﹂によって確認されることになるのだが︑それに先立って叔母は心ミ
を戒めて次のように語る︒ミ
1999年12月 50 福島大学教育学部論集第67号
やとホ 色事は若い役︑このしにどのやうな.生きる死ぬるの場になりても
やくたいもない気を持つまいぞ.世間多い心中も︑銀と.不孝に名を
流し.恋で死ぬるは一人もない.流れの身にはとりわけて.悲しい
ウ らデ こと酷いこと.そこを死なぬが心中ぞや.真実男かはゆくば︑五度
ヨ リ キ 逢ふものを︑.一度逢ひ.︑一度を一度になす時は︑親方も機嫌よく.恋
に身をうつこともない.
﹁恋の手本﹂と讃えられたお初・徳兵衛以来︑舞台に登場した多くの
し人公たちは︑悲哀に満ちた︑それゆえに甘美な心中劇を形成してきた︒
その残響を胸に木作に接した観客に︑心中の理想化に釘を刺す叔母の..︑.・
葉は強い衝撃を与えるであろう︒心中への条件を整えつつ︑心中以外の
結末をめざすのがマンネリ打破の必要条件であった︒
しかし︑年切増しの強要による絶望的な境涯にあった半ヒ・お花に対
して︑﹁親方の機嫌﹂第一に自省を求める叔母の助︑.︑・はあまりに無ガで
ある︒叔母の恩情溢れる言葉は︑現実には︑︑人の窮状を救うに足る何ら
の解決策ともなりえていない︒老役の恩情溢れる忠告・諌一︑・が事態解決
への無力性を露呈する設定は︑﹁卯月の紅葉﹂におけるお亀の伯母︑﹁心
中重井筒﹂の重井筒屋の内儀︑﹁冥途の飛脚﹂の孫右衛門などの老役に
一般である︒
叔母の登場が︑h人公らの当面の危機を回避する働きのみに止まり︑
本質的な解決に無力性を露口王したについては︑叔母の登場に先立ってお
花が﹁貧な世帯の暇なしで﹂と語るのが暗示的である︒お花璽.門葉は
﹁貧乏暇なし﹂の諺を踏まえているにしても︑﹁長町の伽羅細工屋には︑
貧しいという認識がつきまとっていたことを物語る﹂と見てよい︒半七︑
お花に叔母夫婦の経済力に期待する意志は見られない︒そのためか︑お
花は﹁ちと行き詰った憂きふしの談合﹂と事情説明するに止まったし︑
叔母も心中を戒めるのみで︑二人の﹁行き詰った憂きふし﹂そのものは 詮索せず︑事態の深刻さを正確には把握していない︒ 一方︑叔母は甥の半ヒに侍筋の出自と持参した名刀信国にまつわる一家二代の悲劇を語り︑﹁武﹂に立ち返る.瑞相なり︒嬉しや﹂と喜ぶ半 つヒを戒め︑﹁奉公大事に勤めてたも.﹂と掻き口説く︒叔母は﹁お花とや さらも分ながる人.悲しい話の一通りを聞いてたも.﹂と語っており︑名刀信国にまつわる一家離散の因縁話は︑お花も承知していた︒ 従って︑お花には自身の年切増し問題と︑一家離散の悲劇を負った恋人の武Lへの復帰願望とに葛藤を生じることが予測される︒しかし︑強欲な継父に﹁小女郎の時分から︑手形の表丸卜年﹂の年季で売られた淪落の遊女に︑叔母の語る侍筋の誇りと零落の屈辱︑悲哀は届かない︒お花に葛藤は生まれず︑お花の以後の行動に半ヒの出自に関わる問題が反映されることはないのである︒ 一方︑半ヒの成功に武仕の出の誇りと零落の雪辱を期待して登場した叔母に︑醜態を晒した甥の現実は衝撃であり︑半ヒを堕落・破滅に導く遊女は決定的に拒絶されるべき存在であったはずである︒しかし︑叔母は︑.人が心中の危機にあるという正確な状況判断を有したにもかかわらず︑心中に追い詰められていく半しと淪落の遊女との強固な紐帯には気づかず︑叔母とお花が対立的な位置に立.つことはない︒ こうして︑叔母の登場が.一人の危機の本質的な解決に無力であったごとく︑お花と叔母の心はすれ違い︑やがて叔母の切腹と二人の心中という悲劇の原因となる半ヒの名刀すり替えにも︑お花は全く関わりを持たないことになる︒ ヒ之巻は︑刀屋の職人である若者と遊女の危機的な状況と︑叔母による救助︑情愛に満ちた意見事︑名刀信国に関わる一家離散の悲劇の語りなど︑後段に展開される事件の重要な伏線が張られていく︒しかし︑事
件のための基本的な矛盾や葛藤は設定されず︑心中劇の要素と女武道物
(.
一
j
︵三一﹂︶
勝倉壽■一ぺ「長町女腹切一の構図
的要素が並列的に存在していることは確認しておかなければならない︒
四 心中への道
上之巻で並列的に準備された心中劇と女武道物の構図は︑中之巻でま
ず心中劇から動きはじめる︒中之巻﹁石懸町の段﹂の幕開け︑全盛の抱
え女郎お花の年季明けを控えた井筒屋は︑お花に寄生して暮らす継父九
兵衛の貪欲な性格と年季明け後の生活不安を巧みに刺激し︑年切増しの
談合を進める︒ お この頃だんく二.一口ふとほり.そなたが娘︑お花がこと.そもく小
女郎の時分から︑手形の表丸十年.親方に損もかけず︑追つ付け︑
年も明くぞや.なれども勤めの習ひ︑小間物屋の︑煙草屋の.紙屋 ぬむ で候︑呉服屋で候の.酢の蒟蒻のと︑借銭が今の金で七︑八両.そ
ヴ リ ハら の上︑親仁も長者ではなし.あの子にか\る身でないか.がらりニ ウ 十両︑ま一年切り増し.みなりにるれば借銭もまづその分.売り買 ヒ ヰ ひ高いこの節︑二貫目ぢかい二卜両.そなたが手取りにあた︑まれ
ば両為と思ひ︑世話やけども.かの柄巻屋の半ヒといふ虫がさいて
なんのかのと入れ性根︑お花が一切呑み込まぬ.これからは勝手次
第. .両人による苦境打開の努力にもかかわらず︑恋男の半ヒは﹁親方が\
一方︑お花の年切増し問題は︑抱え主が年季を延ばすことにより継父
が一年分︑︑十両の給金を得る﹁両為﹂の談合に︑衣装代︑身の回りの品 り﹂の奉公人であり︑夫婦約束の展望は開かれない︒半ヒにお花身請けの経済力はなく︑二人はお花の年季明けをひたすら待ち続ける身であった︒光満寺の坊主の執心が井筒屋の企みの契機をなすが︑坊主そのものは道化役ではあっても︑身請け話により︑一人を決定的な危機に追い込む態の存在ではない︒ などの年毎の借金が重なれば︑お花の年季が終わることはない︒井筒屋の狡猾な企みに九兵衛の強欲が重なる︒ しかし︑事態を正確に見れば︑お花の拒否と半ヒの助言により︑年切増しの企みは井筒屋の思惑どおりには進んでいない︒その膠着状態のままでお花の年季明けを迎えるのを避けるために︑井筒屋は強欲な九兵衛を呼び寄せ︑前もって証文を交わそうとする︒ 半七めといふ騙りめと夫婦にしては.年寄つたこの親が鼻のドが︑干 ぬこハル kる.二長両といふ銀が天から降るか︑地から湧くか.騙りめが挨 拶︑はらりしやんと切ってしまひ.年切り増して奉公するか︒いや と一一一︑・へ︑分別あり. 九兵衛によれば︑﹁おのれが母に︑なんの見込みはなけれども.おのれを売って食はうため︑女夫になった﹂のであり︑連れ子のお花は早速﹁小女郎の時分から︑手形の菱丸長年﹂の年季で井筒屋に売られたので あった︒しかも︑﹁節季くにせびらかし足らいで︑また年を切り増し︒ねをハリ一男にまで添はせまい﹂とする継父の貪欲な要求に︑お花は﹁随分孝行つくせども︑こなさん︑わしに微塵も憐れみはござんせぬ.殺しなりとどうなりと.分別次第にさあんせ.半ヒ様と挨拶切り︑勤はせぬ﹂と︑﹁人目も恥ぢず大声あげ︑身を悶.えてぞ泣﹂く︒門口に立つ半七も
ハル スこ ﹁聞けば悲しさ無念さの.格子の柱噛みひしぎ︑歯を食ひしばり︑泣﹂
くほかはない︒
継父と抱え主による年切増しの強要という貪婪さが強調されるのは本
作の特徴であるが︑年季で売られた遊女の境涯にさらに苛酷な運命を強
いる例は︑既に﹁心中重井筒﹂のお房の父親の二重判に見えていた︒遊
女屋は﹁忘八﹂と呼ばれる存在であり︑﹁心中重井筒﹂の重井筒屋の内
儀などの人情味のある人物像こそ異端であったと二︑員ってよい︒遊女の境
涯を書き継いできた近松が︑遊女の悲惨な現実により密着してドラマを
1999年12月 48 福島人学教育学部論集第67号
仕立てたとは︑一..・いうる︒また︑金で買われ︑年季と借金で縛られる遊女
側の条件設定には︑親や抱え主の悪辣さの強調ぐらいしか新味は出しえ
ないのである︒
井筒屋夫婦と九兵衛の談合を立ち聞きし︑お花の涙ながらの抗議と︑
九兵衛の打擲に我を忘れた半七は︑その場に飛び込み啖呵を切る︒ ヴ やぶれかぶれと半七.裾ひっからげ︑井筒屋の庭へつかくく.
柄巻尾の半七と声をかけ.九兵衛を取って突きのけ︑真ん中にどつ と かと座り.エレ︑親仁.そなたはお花が継父︑酢につけ粉につけ︑
憎いのも理.この半七を掏摸の︑騙りの︑強盗のとは.いつ騙りし
た︑盗みした.半ヒが目にはそなたを人売りと見た︑もがりと見た.
よしそれはともかくも.お花はおれが女房︑すべい奉公しまうては.
継父殿でござらうが︑もがり殿でござらうが.主のある女房︑分別
とロル あ まロノ して物を言へと.せきくる顔のあを畳︑叩き散して詰めかくる.
半ヒが強欲であくどい井筒屋・九兵衛と対決し︑唯一の主人公らしさ
を示す喧嘩場である︒九兵衛から﹁親も許さぬ女房とは︑粟田口へ行き
たいか.この娘女房に持てば︑小判がいるが︑合点か.﹂と居丈高に詰
め寄られた半七は︑﹁来年の給分︑.十両渡すからは︑お花は身が女房﹂ とと懐の..十両を九兵衛に投げつける︒しかし︑半七の談判は︑﹁ヤイ︑
聡し.あの娘はまだ五十年が百年が︑顔に色気のあるうちは.奉公さし
との ルて食はねばならぬ.千両道具の娘を︑ニモ両の目腐り金で.女房に持た
うや︒﹂と銀を投げ返す九兵衛の胴欲の前には無力でしかない︒
中之巻で年切増しの企みをめぐる主人公らと敵役との対決を設定し︑
破局的頂点において︑一人を決定的な窮地に追い込むことは︑心中劇を成
り立たせるための必要条件である︒そこで二十両をめぐる対立と緊張状
態が形成される︒女主人公の窮地と哀れさ︑男主人公の活躍による窮地
脱出の期待と︑挫折による悲劇的状況の絶対化が必要である︒そのため に取り入れられたのが﹁冥途の飛脚﹂の封印切に似た趣向であった︒二十両を投げつけて事態の打開とお花の解放︑自らの誇りを守ろうとした半七の激情が舞台を急速に高潮させ︑挫折と混乱の中を︑悲哀を噛み締めつつ︑︑人は大阪の叔母を頼って落ちて行く︒ しかし︑﹁冥途の飛脚﹂において︑飛脚問屋の羽人忠兵衛が︑侍屋敷宛の為替金を瞬間の激情に我を忘れて投げ出す負の情念の奔騰︑廓における恥辱に理性の制御を失い︑﹄一百両を撒き散らした狂乱と比較するとき︑両者には本質的な相違性が存在することも見逃しえない︒ 憔悴した身をお花の前に現した半七は︑年切増しの企みを阻止すべく投げ出した二十両の出所について︑お花の問いに次のように答えている︒ この身になった半七を︑粉にはたいても一分一つ誰が貸さう.先度 ぬとう の脇差︑三十二両に売り払ひ.銘なしの.卜坂︑寸も焼きもかはらぬ ら を.八両で買ひかへ︑二両で銘を彫らせ.捲へすまして大坂へ下し. カ その売りへぎの二十両︒たとへ首になるとても.もう取返しのなら ぬこと. 井筒屋と九兵衛の談合で一年切増し二十両を九兵衛に渡す契約話を格子窓の外で立ち聞きした半七が︑来年の給分一︑十両を渡してお花を女房にするというのも︑一見合理性のある主張に見える︒遊女の商品価値があるかぎり搾取しようとする九兵衛のあくどさの前に敗北した形である︒しかし︑この時︑半七はニレ両と引き換えにお花と添えることを確信していたのであろうか︒ 半七に関わるドラマの構図上の問題として先学の指摘するところも︑半七・お花︑さらには叔母夫婦の運命をも決定づけた名刀すり替えの場が舞台ヒに置かれず︑また︑二人の運命の打開を期して二十両を投げ出した行為がドラマの展開に有効な働きをなしえていないことである︒広末氏は次のように説いている︒
︵一一﹂二︶
半七は一世一代の賭けをするような気持で刀をすりかえた筈だ︒し
かもその結果︑手にした金を運命打開のために有効に役立てるよう
な努力もせず︑また︑役立たなかったそのあとも︑それを嘆き悔ん
でいない︒近松は金を投げたこと︑そして︑それが役立たなかった
ことについては甚だ無関心なのである︒︵略︶金を投げたこと自体︑
次の展開への何んの契機にもなっていない︒新しい展開は︑こうし
て井筒屋の場から始まったのではなく︑刀をすりかえたという行為
から始まっている︒
そもそも︑半七が大名所蔵の脇差を無銘の刀にすり替えて︑︑十両を詐
取した時点で︑半ヒの破滅と︑︑人の破局は決定的になったと二︑員ってよい︒
半七が﹁たとへ首になるとても.もう取返しのならぬこと.﹂と述懐し
ていることからみれば︑それは打首覚悟の犯罪であったことになる︒
しかも︑この命をかけた決断は誰にも相談されず︑孤独に実行された︒
また︑舞台しには現れず︑上・中之巻の幕間に行われ︑叔母もお花もそ
の原因と結果にのみ関与することになる︒このとき︑叔母の侍筋の誇り
と雪辱の願いは︑半七に一顧だにされなかったかに見える︒このことは︑
お花への愛と叔母の願いとの狭間に落ちた半七の苦悩や︑.︑十両詐取に
よる叔母への裏切りの煩悶︑刀のすり替えが舞台化の眼目にはなってい
なかったことを物語る︒
ドラマの構図からみれば︑半七が真に見ていたのは井筒屋・九兵衛の
強欲との対決ではなく︑お花の解放を実現し︑夫婦約束を果たすための︑
名刀の拵えを機縁とする出世の放棄と︑叔母の恩情への裏切りである︒
中之巻における半七の行為はすべて︑お花の遊女の境涯からの解放にか
かっており︑叔母の持ち込んだ名刀の拵え話は金策への好機としてのみ
働く︒それは︑事が露顕すれば直ちに死罪に相当する︑薄氷を踏むよう
な騙りの実践であり︑その成功にのみ半ヒ・お花の未来はかかっていた ︵茜︶
と言ってよい︒
半七の名刀すり替えは︑その行為が早晩露顕することも︑その罪のた
めに死罪になることも覚悟のうえの決断であった︒そこには︑お花と一
緒になることの断念も含まれていたと二︑一・ってよい︒従って︑その自己完
結的な決断と覚悟は︑当のお花にも秘密になされたのである︒
井筒屋の企み︑九兵衛の強欲と対置された半ヒの血を吐くような告白
は︑犠牲的精神の発現として観客の感動を呼ぶ︒それゆえ︑半七の侍筋
への憧れとお花の窮状打開という現実問題との矛盾︑叔母の行為を裏切
ることへの苦慮や煩悶を描くことは︑筋の乱れを生じる危険が予測され
たのであろう︒
しかし︑その死を見据えた覚悟と決断はお花を救いえず︑継父と抱え
しの企みの前に無力性を露呈してしまう︒名刀すり替えによるお花解放
の意図が九兵衛の強欲の前に潰えさったとき︑半七には叔母を頼っての
お花との駆け落ちしか残されていないのである︒
五 女腹切りの構図
一方︑女の腹切りを視点として一曲の構成と作者の構想を考えた場合︑
本曲はいかなる構図として捉えられるであろうか︒
まず︑本作の外題﹁長町女腹切﹂は︑大阪長町に起こった女の腹切り
事件の意に解釈される︒当時の京阪人の耳目を集めた事件のドラマ化と
いう際物的な関心を喚起し︑幕明けに先立つ観客の予測と期待を生み出
したことが想像される︒
正木ゆみ氏は︑近松作の﹁女の腹切﹂の趣向の背景に︑かつて江戸で
﹁女の腹切﹂の演技で評判を得ていた歌舞伎の女形津川半太夫が﹁長町
女腹切﹂初演の正徳二年に急死した事実の当て込みを見ようとする︒
半太夫の﹁女の腹切﹂の大当たりを伝える﹁箱伝授﹄の記事は︑女
1999年12月
・16 福島大学教育学部論集第67号
方としては異例のこととして︑ヒ方の観客の目を引き︑ヒ方の舞台
においても︑女武道で名を馳せている彼の面目躍如たる﹁女の腹切﹂
が︑近い内に披露されることを期待したのではないだろうか︒しか
し︑その期待も︑同年の彼の急死によって︑挫かれてしまった︒そ
のような観客たちの悲しみと落胆を察知した近松が︑ヒ方の歌舞伎
の舞台ではついに実現されずに終わった半太夫の﹁女の腹切﹂を︑
おそらくは︑その時構想していたであろう半ヒお花の物語に絡ませ
ることによって︑浄瑠璃の舞台に採り入れ︑半太夫の急死を悼むL
方の観客を慰めようとしたのが︑同年秋ヒ演の﹁女腹切﹄における
叔母の切腹の趣向であったのではないだろうか︒
﹁長町女腹切一という刺激的な外題に︑正木氏の説かれる女形津川半
太夫の死の当て込みも︑作・⁝の際物的興味を高めるのに関わったことは
想像される︒
ところで︑切腹は通常武﹂社会のみに許された自裁行為であった︒従っ
て︑﹁女の腹切﹂の行為者は︑武家娘︑武家女房など武七階級に属する
者が想定される︒近松がh人公半ヒを侍の出自に設定し︑その叔母を武
家女房的な気質と誇りを有する伽羅細工屋の女房に定めた所以である︒
遊女と将来を誓いながら︑その窮地を救う経済力を持たない刀屋の徒
弟と︑甥に親代りの深い愛情を持つ叔母の悲劇を形成するために︑近松
は半ヒの出自を武ヒ階級に定め︑零落しきって叔母・甥のみが生き残っ
たとする現在状況を作る︒叔母の犠牲的な死が一曲のクライマックスを
形成し︑かつ半七・お花の心中への道筋と有機的な関わりを持たせるこ
とが必.要であった︒
切腹は自らに責任を引き受ける行為であり︑自責の念に発する賠償行
為か︑他者の罪を代わって身に負う身代わりの死が相当する︒叔母は︑
屋敷方から依頼を受けた大名所蔵の刀の拵えを甥に頼んだために迷惑を かけた夫への償いと︑刀のすり替え発覚による甥の命の危機を救うための身代わりとして臼害するのである︒ 叔母は侍筋である甥の半ヒの成功を願って刀の拵えの話を持ってきた︒叔母によれば︑侍屋敷からは﹁甚五郎が女房はよい甥を持つた仕合せ者. ヨ後々はお屋敷の御用も仰せつけられ.出入りさせとのごA・心比﹂な.一︑口葉があり︑藩の御用達への道が開かれ︑半ヒの出世は可能であったことになる︒ しかし︑半ヒの致命的な浅慮がすべてを無にしてしまう︒半ヒの更生を願ってその罪を被り切腹するのが︑侍筋の出である叔母の実行力であった︒叔母の身代わり切腹という予想外の事態は︑半ヒを侍筋に引き戻そうとする働き︑諌死に相当するものと.言ってよいであろう︒ 一方︑叔母の行為を半ヒ・お花の現在状況と対置させて見れば︑その徒労性も浮き彫りになる︒叔母の行為は半ヒの名刀すり替えの罪のみに関与しており︑その責任の処理のみですべてが解決すると誤認した︒叔母は︑名刀すり替えに至った半七・お花の年切増しの窮状は知らず︑その事情を詮索せずに事後処理のみを急ぐ︒従って︑半ヒの名刀すり替えの罪は叔母の犠牲死によって償われたが︑半ヒ・お花を心中に導く事情そのものは何も解決されていない︒ しかし︑半ヒはすでに親方に見放され︑遊女拐帯の罪に問われることになるはずであった︒従って︑お花の窮状を救いえない以h︑半ヒ・お花の心中は必然として予見できる︒叔母の持参した名刀のすり替えにお花救出を賭けた半ヒは︑事が露顕したあかつきはお花を叔母に託し︑叔母夫婦の迷惑を避けるために潔く死罪に服することを覚悟する︒しかし︑それは叔母の身代わり切腹という予想外の展開により挫折してしまう︒結局︑半ヒの自己完結的な決断と覚悟の行為は︑お花を遊女の境涯から救うことも出来ず︑お花を託するはずであった親代りの叔母をも死なせ
︵一..五V
「長町女腹切」の構図 45
てしまうことになるのである︒そこに︑善意が挫折をしか招来しえない
近松世話物に通有の主人公像が形象されていると言ってよいであろう︒
一曲のクライマックスをなす叔母の切腹場は︑名刀をめぐる刃傷沙汰
による妖気を帯びた一家の零落諌と絡ませることで︑より効果を発揮す
る︒しかし︑その生害場を挟む甚五郎夫婦の細やかな人情の交流と︑凄
惨な切腹の所作が見せ場になる反面︑半七・お花の悲劇が舞台上から忘
れ去られる結果を招いたことは指摘されよう︒
﹁長町女腹切﹂の構図は︑﹁二つの悲劇を結びつけた﹂ことによる
﹁主題の分裂﹂ではなく︑半七・お花と叔母夫婦の善意が事態の解決力
となりえなかった悲劇として︑心中劇の深化の試みを評価されるべきで
あろう︒その結果として︑従属する悲劇が主悲劇を凌駕する位置を占め
ることになったことは認められてよい︒
︵一九九九年一〇月五日 受理︶
︹注︺⁝ 広末保著﹃増補近松序説﹄︵昭和50︑未来社︑初版は昭和32︶
﹁附論・主題の分裂について﹂︒
⑭ 藤野義雄著﹁近松と最盛期の浄瑠璃﹄︵昭和55︑桜楓社︶鵬頁︒
個 須山章信﹁﹃長町女腹切﹄考﹂︵﹁青須我波良﹂15号︑昭和52・n︶︒
傾 ﹁長町女腹切﹂の本文の引用は︑新編日本古典文学全集﹁近松門
左衛門集①﹂︵平成9︑小学館︶による︒
㈲ 注ゆの﹁解説﹂による︒
㈲ 横山正著﹁浄瑠璃操芝居の研究﹄︵昭和38︑風間書房︶珊頁︒
m 岩波書店版﹃近松全集﹄所載︵正本出版書肆山本の版行になる八
行本又は七行本︶の影印版による︒
圖 注㈲に同じ︒第.一章第二節1ω﹁近松世話浄瑠璃に於ける道行﹂︒
(12} (11) (10) (9〕
︵三六︶
近石泰秋著﹃操浄瑠璃の研究﹂︵昭和36︑風間書房︶騰頁︒
正木ゆみ﹁﹃長町女腹切﹄試考﹂︵﹁待兼山論叢﹂30口反平成8・12︶︒
注ωに同じ︒
注⑩に同じ︒
A Composition of Nagamachi−onna−harakiri
Toshikazu KATSUKURA
contents
l presentation of problems
2 meaning of Ohana−hanshichi−michiyuki
3 situation of hero Hanshichi an〔i heroine Ohana 4 course of shinzvu (一巳・[ヰコ)
5 composition of harakiri(腹切)