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10 月 12 日 奈良県山辺郡都祁村上深川 八柱神社 ダイモクダテ

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Academic year: 2023

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10月12日 奈良県山辺郡都祁村上深川 八柱神社 ダイモクダテ 大字の内、17才の青年が基本になってやる。

厳島8人、大仏供養は9人、石橋山9人。17才のものが不足するときは18才以上の青年がなる。17才のものが なければ 18 才以上のものみ。練習、3 晩ならしをやる。この時古老から直して貰う。本を流すのは籠りのとき(9 月15日)に流す。10月7日まで予習し、7日の晩に第1回のならし、9日11日に第2、第3のならしをやり12日 本番。9月15日八柱神社で全家から14日晩から籠りをする。これは五穀豊穣を稔る。

9人のもののうち各役は自由に定める。八柱神社の当家は4軒。毎年順送り。題目立はドウゲがあって亥の子に題 目立に出たものを呼んで祝をする。小豆餅を出す。ドウゲは当家とは割。村内でその年に分家したものが村入とし てドウゲになる。

1月7日山の神のまつり。小判型に餅をつくって置き当日朝これをナタで削って笹の葉に盛り、山の神へ供える。

八柱神社で毎年10月12日の宵宮に、上深川の大字のもののうち(男子)満16才の名替(ながえ)にあたるものが 主となって題目立を奉納する。ダイモクダテには現在、厳島、大仏供養、石橋山の 3 曲目が残っている。歌本もあ る。これに出場する人数は厳島は8人、大仏供養と石橋山は9人。全部が満16才になったものというわけには行か ないので、人数の不足するときは17才、18才と次第に年上のものが勤める。戦争中は青年が居なくなって、40才 を越したものがやったことがある。

名替はもとは宮座入りであったらしい。満16才になったとき米5斗と鰹1対(2尾)を出して座入りを承諾して 貰い、その年にダイモクダテに出た。これが済むと道普請等にも村では1人前として偶せられた。而して37歳にな ると年寄となった。それも明治初年までは宮座は22軒で守られていた株座であったらしい。現在ではこの制度はな くなり、誰でもダイモクダテに出る、が、今日では大てい高校の生徒なので、歌の練習が仲々思うように出来ず、

筋廻しも崩れて来たという。

9月15日に八柱神社の籠りがあって、そのとき役が定まり歌本を渡す。その日から銘々自身で練習する。10月7 日の晩に第 1 回の「ならし」がある。役のもの集って公民館でリハーサルをやり、長老から筋廻し、や緩急の教え をうける。第2回のならしが9日、第3回が昨夜即ち10月11日である。3回のならしを経て本番に出る。9月15 日(14日の晩から)の籠りは全村のものが集って五穀豊穣の祈念をするための籠りである。八柱神社は八王子を祭 るという。この宮行事は現在年番の全村のもの交替4 人づゝの当屋によって取行われている。別にドウゲと唱える 役がある。その年に分家をしたもので、ドウゲが11月の亥の子の日に題目立に出た者を招いて、大豆入りの餅(こ れを橡餅という)で祝いをする。この祝の役を済せるとドウゲも宮入をすることになる。これも株座の名残らしい。

12日の宵宮の神饌も橡の餅を供える。これは当屋が用意をする。

12日の午後7時半頃、夕食後、題目立に出る若衆は長老(村の最年長者、実際は87才の老人が居るが、隠居して、

82才の次の人が長老を勤めている。この人も、もう足もとが危かしいので万一のことを考えて、来年から、第3番 目の年長者の人に譲った方がよいと当屋の人達は相談をしていた)及び 4 人の当屋は神社の向い側にある元薬寺の 本堂に集り、用意する。

本年は「大仏供養」をやる。この曲目は決っていないが、石橋山は長いので、久しくやっていない。毎年 1 曲目 を奉納することになっており神社の造宮があると3年間は厳島のみを行うことになっている。大仏供養は 9人で唱 える。「番帳并立所」を記した本があって役名及びその立つ場所が記されてある。

頼朝は青地に白の小紋の素袍上下を着し、立烏帽子、白足袋その他の8人は黒地に巾広の白く染抜いた横2本の 筋の入った素袍に上下、やはり立烏帽子、白足袋。この素袍にことを「ソー」という。左右の 6 人は何れも白布で 弦を張った弓を持ち扇を右首筋に斜にさす。景清、頼朝、畠山の3人は弓を持たず、扇を両手に持つ。

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元薬寺で服装が整うと長老(平服のまゝ)は裸蝋燭に火をつけて手に持ち、若衆の先導をして、若衆は 1 列に並 んで、寺を出て、神社の舞台に道中する。このとき道導(みちびき)といって長老が 1 句づゝ謡い、若衆一同はこ れに唱和して舞台の定位置につく。長老は、携えて来た蝋燭を舞台の泉小治郎の脇にある雪洞にうつし、この雪洞 の明りのみで題目立は始まることとなる。折から18日の月が神社の森に出る。長老は呼出しの机の前に坐り「一番 頼朝」と呼び出すと、頼朝役は 1 番の謡いを始め、終ると呼出しは「二番梶原」と次をうながす。謡いは全部で三 十八番まであって、約 2 時間半を要する。殆んど節のない簡単調な棒読み風なものであるが自分の番が終ったとき は最後の音を 2 度繰返す。三十八番が終ると最後の入句となる。入区は全員の唱和であるが、その入句に入る前に 極く短かい「フショ舞」がある。「フショ舞」は3曲目とも共通で、このとき始めて所作が入り、それまでは全員後 の棚にもられてずっと立ち通しである。「フショ舞」は「しこふみ」ともいわれ、頼朝以外の撰ばれた1人が中央に 敷いた床板の上に扇をひろげて手に持ち出ると他の一同は片膝をつき、次のよび出し歌を唄う。

ソーヨーヤー、ヨロコビーエーユンニー

終って、次の「ヨロコビの歌」に移るが、そのとき中央に出たものは扇をかざして床板の 4 方を踏みかためる。

反閇のような所作をする。

ヨロコビニー ヨロコビニー マタヨロコビヲカサヌレバ モンドニ ヤクキニ ヤリコドンド

これで終る。再び長老の蝋燭の火に導かれて元薬寺へ帰るのである。現存の歌本は「豈享保拾八癸丑二月吉日」

の奥書のある「上漆川村大仏供養、番帳并立所」で、奥書の次に、

右本之三通は及(凡そ)百九年□□□亦ハ*かなにて読にくきとて御望成をひらかなにて直置申候。御稽古の ためともならハ浮身も本望を□□□書写ものなり。野洲沙門教智実海当村於元薬寺書之者也

とあり、これを真実とすれば、享保18年は1733年であるから古本は1624年となる。これが推定される最も古い頃 であり、また多門院日記の夫正丙子の条に(4年、1578)に

題目立として田舎の宮ウツシノ時、昔の名仁(人)ノ出立ニテ名乗、ムカシノカタカナノ本にアルマカセニ ソモソモコレワミナモトノケムクラウヨシツ子トハワカコト也

抑是ハ源九郎義経トハ我事也如此

とあり、それは田舎の宮ウツシとあるのみで上深川とは記していない。次に1つ伝説がある。

隣村の萩(オウキ)が洪水になったのは題目立があったからだというので、この上深川に持ってきた。という。

10月12日の宵宮は明治の頃までは旧9月9日であった。八柱神社の境内、本殿直下の庭の中央、一方は崖の石垣を 利用し3方に竹棚を2重につくる。入口の方は人が1人通れる程度にあけ、中の棚は出演者がよりかゝる棚で、外 の棚は舞台の仕切となる。この内外の棚の間は約70cm、内外の棚を固定する交叉した棒杭を打って通れない。

棚うちは棚に沿うて出演者が縮む所に藁蓆を敷き中央には1間4方位の板の床を置く。ブショ舞のときは1人が この床に上って、強く踏む所作をする。正面石垣の稍左手のところに雪洞が 1 ヶ、これが照明の総てである。大仏 供養のときは、舞台装置はこれだけであるが厳島の場合は石垣の方は中央に杉葉で覆った尾形を置き弁天になるも のがその中に入って腰を掛ける。

題目立がもと上深川に根を下した一族の株座的存在ということが許されると、元薬寺の保護をうけたことも考え られる。而して、八柱神社が八王寺信仰と結付くとすれば、或いは出雲族の携えて来た芸能、話部、琵琶法師等も 考えてよい。

「大仏供養」景清本の最終頁、写真48の次

景清も三方(まさる、がたきをいつにをつくづし、はっぽうへきってぞまさりける。本田の治郎はてがへなば ん、藤殿は及のろでをあうつか殿もをもうでなり、はんにやで)

Referensi

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