1月8日 滋賀県野洲郡野洲町甲冨波 はなつくりの神事
雪が緋々として降り続く寒い日であった。冨波の甲地区と言はれる、部落の東半の地区に住む郷土といはれる人々
(全部農業)12軒の人達が朝から常楽寺の薬師堂といわれる無住職のお堂に集って、勧請縄をつくる。
郷土といはれる家柄は冨波部落開拓の始めは恐らく武士であったらしい。この辺の大地主であったらしく、この はなつくりの神事については宝暦 10 年(1760)の文書(文字は新らしいように思われる)があり、それには森氏、
白井氏を姓とする家筋が大部分を占めていてものはその家数も可なり多かったようである。
所がその家筋が断絶すると、たとえ親戚や分家であってもその役を継ぐことはできず、現在は12軒だけが残って いるという。
その12軒の家筋の人々が毎年交替で当番を定めこの神事をとり行う。12軒のうちの最年老は本年87才、次が84 才という。いづれもお年寄が多い。当番は白井捨吉さん、息さんらしい。30才位の青年が1人、ちやん袴をつけて 世話役に廻っている。
朝から薬師堂の縁に集って勧請縄をつくる。蛇という。新藁を綯って、胴の太さ径20㎝位、長さは約15mもあろ うかと思われる長い蛇体である。頭の方は比較的小さく作り、尾の方は径40㎝長さ60㎝位の藁束を尾をとりまい て縛りつける。
中央に「玉」と唱えるものをつける「カナギ」と唱える榊に似た常緑樹の葉付の枝を輪にして、これを細縄で、
綴ったものである。これを1個、これをつくる人は12軒の中でも決っている。その両側に蛇の足と鱗をつける。何 れも片方6ヶづゝ計12ヶつけるのであるが閏年は13ヶつける。鱗は方20㎝位の白紙を斜に2つ折三角形にして、
これを細い篠竹40㎝位のものの先を割って挟み、この竹を胴体の脊になる方へ並べてつき挿す。
足は細縄2本にカナギの小枝を渡して長さ1m位につくり、これを中央から2つ折りにして垂らしたものを胴体の 腹の部分に吊り下げたものである。これには白紙の幣垂をつける。
出来上ると別に玉と鱗及び脚の見本のようなものを 1 ヶづゝ造る。これは来年の見本として、薬師堂の内陣の壁 に懸けて保存する。
用意がすむと当番以外の人達は昼食に1度自分の家へ引上げ、昼をすませてから午後1時頃再び堂に参集する。
当番と世話人とは堂に残って午後1時頃から始まる。御神酒あげの準備をする。
そのとき丁度、雪の降りしきる中を方々で訪ねながら、やっとこのお堂へ辿りついた次第であった。
薬師堂は江冨山常楽寺といって、天台宗に所属。もとは相当大きな寺であったが今はこの薬師堂のみが残ってい る有様で四五年前までは尼さんが居たが、それも現在は居なくなって全くの無住の堂となっている。狭い境内の 1 隅に八幡社と稲荷社が祠ってあり、そこに御神酒は供えてあったが、当番はその御神酒を下げて来て、これを集っ た郷土の人達に給仕するのであるが、もとはこれを三献の神事といったらしい。土器で1献、朱塗の 2重の盃で 2 献。今は省略して土器で1献となっている。
午後1時頃全員(本年は1人が欠けて10人である)が揃うと(その席順も定っているらしい)当番が末座(次の 間の敷居のところ)に出て、本年のはなつくりも無事目出度勤めさせて頂きましたと挨拶をし、世話人がまづ御神 酒を持ち出し、皆の面前でこれを2 本の徳利に移す。次いで三宝に盛った洗米を持ち出し最年老から順に土器に神 酒をつぐと、カナキの葉で洗米を少しすくって、これを長老の掌にあける。この洗米をかんで、御神酒を頂くので ある。1順すると、御神酒、洗米を下げ、再び当番が据えて、例年の当り、しゅうしを致します、と挨拶をし、今度 は普通の盃を廻して、次々と燗をした酒を出す。凡て世話人が給仕役で当番は専ら、こんろの傍で燗番に廻る。肴 は冷豆腐(冷やっこ)と沢庵で、味付に醤油と唐からしが出る。このお神酒あげは 2 時半頃までつづく。お年寄で はあるが酒が強くて、9人で(当番は飲めない)2升をあけた。雪が少し小止みになった所で玉をつくった人の音頭 で「左義長へ出ませう」と音がかゝりやっと御みこしが上る。
9人が出来上った蛇をかついで、雪の路を西の門まで行くのである。
この一連の神事は当番が持廻っている神事次第の古文書には「烏帽子着神事」とあるが、この地方で普通唱えて いる「エボンギ」という若者入の習俗が関連しているような所は見当らぬ。一見薬師堂を中心とする株組織の寺座
(堂の講)とも見られる。昔は集会はいづれの時も烏帽子着用、袴、帯刀であったという。
西の門というのは冨波の部落を離れて田園の中の小径を約300m程湖岸の方へ下った辻にある。稲小屋が1つ建っ ていて、その向うを細い溝川が流れている。その土手に出る所に道を挟んで 2 本の古木がある。右側の樹は枯れて しまったので枝を払って蛇を掛ける部分だけを残し、その傍に第二生のための杉の若木を植えてある。この2 本の 古木にかけ渡して担いで来た蛇をかける。右側が頭、左側が尾、梯子で当番が上って蛇の頭を恵方に向くように据 え縄で木に縛りつける。3m程の高さである。次いで尾を左の木の樹に担ぎあげて、勧請縄を張り、中央の玉の部分 が丁度径の真上になるようにする。
次いで、その左右の木の根元に落ち朽ちていた古い蛇体や、薬師堂に保存されていた昨年の見本用の玉、脚、そ れに今年の蛇体製作に余ったり、散らかしたりした藁、注連縄、松飾りなどをこの塞の外の土手の 1 隅に積重ねて 焚く。これを左義長という。
燃え上る左義長の煙と、降る雪の巴に狂い舞う中に行事は終る。郷土たちはそれから 1 度家に帰り、羽織袴に衣 装を改めて当番白井捨吉さんの家に再び集って、おこないとなる。このおこないの膳は鰤一式の料理と昔から定め られている。
左義長のとき聞いた話では土手から外側一たいは昔は沢泥地で沢村といった。蛇か悪霊か知らぬがこゝに悪者が 居たのを郷土の面々が退治したという。勧請吊をする地点を西の門というが、もとこゝに常楽寺の西門があった趾
という。郷土の人達と常楽寺との関連を尋ねて見たのであるが、もとこの地方は常楽寺の寺領であったというよう には受取れない。常楽寺を勧請して郷土の人達が神事田を寄進して行事をやったらしい。尤も現在の郷土の人達の 宗旨は浄土真宗で、もとは天台宗であったが、その後改宗したという。午後の御神酒あげも薬師堂の境内にある八 幡社へ供えた御神酒を下げて、これを戴くのである。神仏混有の結果、八幡信仰が薬師如来と混合して薬師堂のみ が残り、僅かに今日、8日を以って神事を行う日と定めたことのみが継がりを存している。
富波の一般の村人達の行事はどうも別にありそうである。それは深くは聞けなかったが乙区にある生和(いくわ)
神社の勧請吊である。1月18日に行う。2ヶ所に勧請縄を掛けるまた当日境内で歩射があるらしい。
江冨山銀堂常楽寺法会并郷土烏帽子着法式之事古者国家安全五穀成就人生長久ノ為祈祷ノ正月八日於江冨山銀堂常楽寺阿闍梨護摩如之秘法ヲ修ス烏帽子着之者集リ勧請ヲナシ任古例昔西門之跡納之於厥辺サキチヤウヲナス。同十七日厥年冷有家産婦勤事將又村中入百姓家於有生子者米六升五合為御供料納之当番之者着シ上下ヲ十六日夜丑刻常楽寺薬師ニ御供調進ス。十七日朝為烏帽子着之者集リ一飯之上薬師御供ヲ上永原山有蒼タル池遊魚ニ施之□法会ニ相集事烏帽子着ヨリ一世一度士家之面々調修初メ□請木走ス厥後入百姓一酒振舞ス干時世ノ有様ハ悲哉人々常楽寺煙焼シ士家モ衷エ政コトモ疎ニシテ終ニハ百姓ヨリ御供料モ不納人者懈怠シ甚カナル事ナリ。干時宝暦十庚辰年改古略之十七日止メ会式ヲ正月八日士家之面々至マデ枝葉不残常楽寺ニ相集リ勸請ヲナシ昔西門ノ趾ニ納之サキチヤウヲナシ古政百一宝暦十庚辰年正月吉日義寧花押
正月八日政式法之事一当番ノ者麻上下ニテ七日夜丑刻常楽寺薬師ニ白米一升為御供并御酒調進ス。八日卯ノ刻ヨリ士分ノ面々相集リ勧請ヲナシ戴キ御供御酒ヲ納メ之ヲサキチヤウヲナシ帰麻上下ニテ当番ノ於テ家ニ一飯ス 八日夕料理ノ事皿、大根なます汁みそ、かぶら、ぶりかしら平鰤□□飯酒一献肴かずの子以上 宝暦十年烏帽子神事式目帳庚辰正月吉日 富波村郷土中
(表紙)
当番組合森喜藤治白井亦六森平右衛門森六兵衛森九郎兵衛角弥右衛門森九郎兵衛角弥右衛門白井清右衛門白井清左衛門白井茂兵衛白井半兵衛白井利右衛門角八郎兵衛角市兵衛白井伊左衛門角治郎八白井又治郎白井清治郎森利兵衛 森治三郎白井庄九朗白井孫左衛門白井佐兵衛白井孫四郎藤井孫十郎白井茂左衛門森治右衛門、角三右衛門、角吉左衛門絶ス仏頂寺以上常楽寺年中諸用組合当番相勤事尤神事為世話料銀拾八匁米三計相渡ル 覚一銀百八拾目森喜藤治江預ケ此利毎年銀拾八匁宛当番方エ□ス一上田字天神壱畝三歩郷土相作分米壱斗六升五合森組方高諸役除之一上田字天神弐畝五歩郷土相作分米弐斗七升五合森組方高諸役除之二口高合四斗四升壱合
当テ二口合五斗三升