はじめに
韓国ソウルで2010年
11月 11
日から2日間、20ヵ国・地域首脳会議(G20サミット)が開催 された。閉幕にあたり、議長を務めた韓国の李明博大統領は、国際経済の不均衡是正のた め参考指針の導入で合意に達したとの成果を強調したが、会議は数々の火種と不一致を抱 え、政策協調の難しさを浮き彫りにした。G20サミットは、国際経済構造が大きな地殻変動 を起こしていること、国際経済が低迷・動揺するなかで国際政治経済秩序の構築と運営に 関し非先進国のパワーが増大し、新たな動きを主導していることを象徴的に示している。サミットは1975年、オイルショック(1973年)や旧国際通貨基金(IMF)体制の崩壊とい う国際通貨体制の動揺に対処するため、フランス大統領の呼びかけによって始まったもの で、当初はG6、すなわち先進民主主義国の6ヵ国(フランス、西ドイツ、イタリア、日本、英 国および米国)で構成されていた。G6は翌年カナダを加えて
G7
となり、冷戦の終わった1990
年代にはロシアが加わり、G8となった。財政金融問題の討議では、いまだロシアを除いた
G7会議が開かれており、G7/G8
と記載されるのはそのためである。G20サミットは、2008
年11
月、リーマン・ショック後の世界的金融危機への対応策を協議するために誕生し た。構成国はG7/G8に中国、インド、ブラジルなどの新興国を加えたもので、西側先進国中 心のサミットとは趣を異にしている。日韓併合から100年を迎えた
2010年、韓国は G20サミットの開催国の地位を得たことに官
民を挙げて喝采した。「先進国化」をめざす李明博大統領にとって、韓国が世界経済の運営 を担うG20
サミットの構成国となったことは誇りであり、さらに韓国がG7
以外で初めての ホスト国となったことに感極まったようである。韓国のマスメディアは、世界経済を先進 国だけが牛耳る時代は終わったと報じた。韓国以上に存在感を示したのは中国であった。人民元の流動化問題は、ソウルG20サミッ トの中心テーマであったが、中国は巧みなエコノミック・ステイトクラフトで会議を乗り 切った。米国のオバマ大統領はG20会議の開かれるソウルへの旅程で、民主主義や市場経済 などの価値観を共有するインドやインドネシアを回り、中国を牽制したが、一方の中国の 胡錦濤国家主席は、11月初め、国賓としてフランスに招かれ
102
機のエアバス、核燃料、原 子力発電所建設など、総額200億ドル(約1兆6300億円)
の商談をまとめた。またフランス の次に訪れたポルトガルでは深刻な財政危機に直面している同国に対し、金融支援をする用意がある旨を表明した。欧州の財政危機の発端となったギリシャに対しては、前月、ギ リシャ国債の買い増しなどの支援を表明していたが、それに引き続き、欧州経済の安定化 に貢献する中国をアピールした。またG20会議への欧州からの旅程で、多くの財界人を引き 連れ北京を訪れた英国のキャメロン首相との間では、英国製航空機エンジンなど
12
億ドル 相当の商談をまとめ、ハイテク、航空・宇宙、金融サービス、省エネ・環境の分野の投資 や貿易で連携を強めることで合意した。中国に対してはノーベル賞受賞の劉暁波氏の処遇 などをめぐり、人権問題での批判が欧米で高まっていた。しかし中国は一連の経済外交を 通して、そのような批判を完全に封じ込め、さらにはG20に向けて米欧の離間策に成功した。以上のような国際政治経済の動きをどのように理解したらよいのか。今日の状況は、い ろいろな面で、激動の
1970
年代と似ている。1970年代の変動をもたらしたのは、日本や西 ドイツの経済大国化と米国の経済覇権の揺らぎ、石油輸出国機構(OPEC)に代表される産 油国・一次産品輸出国の力の台頭などであった。このような国際構造の変動とそれに起因 する1970年代の国際政治経済の動揺を背景として、日本では「経済安全保障」や「総合安 全保障」といった政策概念が生まれ、「経済外交」や「エコノミック・ステイトクラフト」に注目が集まった。
今日、世界は再び国際政治経済学の季節を迎えている。現在生じているのは、日本や西 ドイツに代わる、中国やインド、ブラジルといった新興工業国の台頭、サウジアラビアや ロシアといった資源大国の台頭である。今日の世界状況を理解し、日本外交の指針を探る うえでも、当時を振り返りながら、エコノミック・ステイトクラフトについて再考してみ ることにも意味があるだろう、というのが筆を執った理由である。本稿の趣旨は、すぐに 実務に役立つような具体的な政策の処方箋の数々を提供しようというものではなく、エコ ノミック・ステイトクラフトを考える際に欠かせない概念を整理・提供し、思考の仕方や 枠組みを提供することにある。またエコノミック・ステイトクラフトの具体的事例にかか る考察として核不拡散と環太平洋経済連携協定(TPP)を取り上げる。
1
エコノミック・ステイトクラフトとは何か「エコノミック・ステイトクラフト」とは何か。言葉の原義にさかのぼってみよう。エコ ノミック・ステイトクラフトは「エコノミック」と「ステイトクラフト」が結合してでき た合成語である。「ステイトクラフト」とは、国政術とか、治国策あるいは政治といった意 味をもつ言葉であり、国家の指導者が国を統治するための技能や手腕や術策のことである。
エコノミック・ステイトクラフトとは、したがって広義には、経済にかかわる国政術、政 治ということになる。
ステイトクラフトには、対内向けのものと、対外向けのものの両方が含まれるが、国際 政治学では主に対外的に影響力を行使する試み、という意味で使われる。影響力行使の試 みを分析するためには最低限、誰に対し、どのような目的で、どのような手段を用いて影 響力を行使するのか、という点を明確にしておく必要がある。しかしエコノミック・ステ イトクラフトという概念は、政治戦略・外交政策の目的よりは、手段に注目したものであ
る。すなわち、目的を達成するための術策や手腕、方法、手段等が経済にかかわるような 国政術のことをエコノミック・ステイトクラフトと言う。
経済的目的を達成するために軍事的手段を用いた場合、それは軍事ステイトクラフトで あり、それをエコノミック・ステイトクラフトと言うことはまずない。つまり、エコノミ ック・ステイトクラフトという用語は、通常、ステイトクラフト(国政・外交術)の手段が 経済にかかわるものを指し示し、影響力行使の試みにおける目的については特に限定され ない。対外政策の目的には、政治、外交、軍事、経済、社会・文化など、さまざまなもの があるが、それらの目的を達成するために経済手段や経済的道具、経済資源を用いるもの がエコノミック・ステイトクラフトなのである。経済資源を用いる以上、エコノミック・
ステイトクラフトは、国家の経済力を基盤とする。
エコノミック・ステイトクラフトの古典的著作と言えば、米国の国際政治学者D・ボール ドウィンによるものであろう(David A. Baldwin, Economic Statecraft, Princeton University Press,
1985)
。同書でのボールドウィンの主な関心は、対外政策の目的を達成するために、いかに経済的手段を用いうるかであった。国際政治学では、軍事は外交目的達成のための究極的 手段として捉えられてきた。しかし軍事力の行使はコストがかかり、また第
2次世界大戦以
降の国際連合憲章の時代に入って、軍事力行使には制度的に厳しい制約が課されるように なった。国連の集団安全保障体制でも、侵略国に対する軍事力の行使は最終的な手段であ る。それに至る前の段階で、外交上の批難や説得、人の往来の禁止、貿易制裁などの非軍 事的手段が尽くされる。貿易制裁措置は、安保理決議による侵略批難というプロパガンダ や交渉・説得という外交措置よりは強いが、軍事手段よりは弱いために、比較的よくとら れる措置である。しかし経済制裁はパーフォーマンスの面でも成果に乏しく、また制裁を 課す国自体にコストがかかると否定的に評価されてきた。ボールドウィンはエコノミック・ステイトクラフトのなかでも特に貿易制裁という手段を再評価することに関心があった。
ボールドウィンは、影響力行使の試みとしてのステイトクラフトを、①プロパガンダ、
②外交、③エコノミック・ステイトクラフト、④軍事ステイトクラフト、の
4タイプに分類
している。ここに言う「プロパガンダ」とは、言語シンボルの意図的操作によって影響を 及ぼす試みである。「外交」とは、交渉によって影響を及ぼす試みである。「エコノミック・ステイトクラフト」とは、主として、お金で規定される市場価格らしきものをもつ資源に 基づいて影響を及ぼす試みである。「軍事ステイトクラフト」とは、暴力や武器や強制力に 基づいて影響を及ぼす試みである。ボールドウィンによるなら、実際の事例では、①から
④の要素が組み合わさっており、ボーダーラインに属するものが存在する。しかし、以上 の4分類は相互に排他的でかつすべてのケースをカバーしている概念分割である。さまざま な影響力行使の試みの事例も、適切な想像力と判断力を働かせるなら、主たるパワー基盤 を特定することができ、したがって、これら4つのタイプのいずれかに分類できる(Baldwin,
op. cit., pp. 13–14)
。ボールドウィンのエコノミック・ステイトクラフトの定義で努力の跡がみえるのは、「エ コノミック」とは何を意味するのか、についての考察である。エコノミック・ステイトク
ラフトは影響力行使の試みに際して、経済的手段や資源、道具を用いるものであるとして も、「経済」とは何かが問題となる。ここで参考になるのは経済学における経済の規定であ る。経済学とは何かについてはさまざまな定義があるが、それが「経済」を対象とする学 問である、ということについては異論が少ない。そして経済学が扱う「経済」とは、経済 主体の効用の最適化や資源配分、価値配分にかかわる事象である。効用や資源、価値とは 抽象的な概念であり、非市場的な効用や資源や価値、例えば、軍事的安全といった効用や 軍事力といった資源、社会的地位といった価値を考えることができる。しかし経済学で考 察の対象とする効用や資源や価値をそのようなものに広げていくと、経済学の守備範囲が 限りなく広がってしまい、経済学とは何かがぼやけてしまう。通例、経済学が対象とする のは市場で価格がつき、商取引されるような価値である。エコノミック・ステイトクラフ トという概念での「エコノミック」も、市場価格が付けられ、商取引されるような効用や 資源や価値にかかわるもの、という意味に限定すべきである、というのがボールドウィン の指摘である。
ボールドウィンの関心は、エコノミック・ステイトクラフトを、プロパガンダや外交、
軍事ステイトクラフトといった他のタイプの外交手段と比較することで、その良し悪しを 再評価することにある。エコノミック・ステイトクラフトは、貿易制裁といったネガティ ブな手段だけではなく、対外援助や貿易などポジティブなものも含む。ボールドウィンは、
こうしたさまざまなエコノミック・ステイトクラフトの手段を理論的に考察しているが、
やはり主たる関心は経済制裁である。エコノミック・ステイトクラフトとしての経済制裁 は、今日的テーマでもある。イランや北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の核開発に対して、
日本や米国、国際社会が課している経済制裁については、後にみることにする。
さて、ボールドウィンに限らず、米国の国際政治学者の多くが、外交政策の手段として の経済制裁を考究してきた。おそらく、実際の米国の政策課題や関心を反映していたので あろう。第2次世界大戦後、米国という超大国は、外交政策や政治戦略目的を達成するため に、禁輸措置や金融制裁、対外援助、特に武器援助等のエコノミック・ステイトクラフト を多用してきたように思える。それとの比較の視点から、第2次世界大戦以降、日本が実践 してきた「経済外交」や「経済安全保障」あるいは「総合安全保障」といった政策につい て次に考察してみたい。それらはエコノミック・ステイトクラフトとどのような関係にあ るのだろうか。
2
日本の「経済外交」日本の対外政策や外交史の研究者の間では、日米安保や沖縄、対中、対ロ関係などが長 らく中心的テーマであったが、激動の1970年代を経た80年代以降は、時代状況を反映して 日米経済摩擦や国際政治経済、そして「経済外交」といったテーマが脚光を浴びるように なった。振り返ってみると、第2次世界大戦後しばらくの間の日本外交は、対米関係の構築、
国際社会への復帰、国交の樹立や回復といった戦後復帰と国際関係の正常化にかかわるこ とが主な政策課題であった。しかしそうした課題においてすら、多かれ少なかれ「経済外
交」の要素がかかわっていたと言っても過言ではないだろう。「経済外交」は、経済的価値 の追求が眼目となっている。日本の対外政策で、目的・目標としての経済が中心的テーマ となってきたのには、それなりの歴史的、実際的理由があるように思われる。
第2次世界大戦後、日本外交の主要な目標は、米国からの援助に頼らない自立経済の達成 に向けられた。資源やエネルギー、食料を輸入するために必要な外貨を輸出によって稼ぎ 出す、そのために政府は外交や経済政策を総動員するというのが国策であった。講和条約 後の日本外交が追求したのは、外交関係を構築・再構築し、通商航海条約を結び、あるい は当時盛んであった二国間の貿易・精算協定を結び、あるいは関税貿易一般協定(GATT)
に入って通商上の無差別待遇を確保し、貿易の増進に努めることであり、それが日本外交 の主たる任務であった。日本軍による被害を受けたアジア地域のなかから新たに独立を果 たした旧植民地国との間では、役務賠償ならびに付随する経済協力協定という形で国交を 樹立し、またそれに引き続き開発援助を行なった。こうした賠償や援助は、日本にとって も資源開発と輸出市場の確保という一石二鳥の手段となった。
第2次世界大戦直後に限らず、日本は貿易によって生きている国である。確かに
2005年時
点で、日本の国内総生産(GDP)に占める貿易の比率は輸出、輸入とも約1割であり、その 比率は米国とほぼ等しく、諸外国と比べて決して高いわけではない。しかし日本は資源・エネルギーや食料の大半を海外に依存しており、それなしには現在の生活水準はおろか人 口すら維持できないだろう。GDP比や就業人口比でみて日本経済の大きな部分はサービス 産業が占めているものの、経済の中核にある資源・エネルギーや食料、モノの貿易といっ た面では日本は依然として世界経済に圧倒的に依存している。繁栄と生存の基盤を海外市 場に依存している日本が、外交政策の主要な目的・目標を経済においてきたとしてもなん ら不思議ではない。日本外交の特徴は、対外政策の主要な目的・目標を経済的価値の確 保・追求においてきたことにある。
さて経・済・手・段・の行使ということで規定される米国流のエコノミック・ステイトクラフト と、経・済・目・的・の追求に焦点を当てた日本の「経済外交」の違いをみてきたが、日本の「経 済外交」の手段は、実際には外交交渉ということだけではなく、経済資源の使用や経済力 をテコとして活用したものが基本となっているという点、そしてその意味ではエコノミッ ク・ステイトクラフトにほかならないという点を次に確認しておきたい。先にみたように、
日本は経済外交の主要な手段として、戦後初期の賠償や、それ以降の政府開発援助(ODA)
など、経済的手段を主に用いてきた。賠償や援助を歓迎する途上国は多く、拒否する国は ほとんどない。いわゆる「ひも付き」援助では、援助の受け入れ国が利益を得るだけでな く、援助供与国の輸出産業も援助で利益を得る。第2次世界大戦後、日本は戦後賠償とその 後の開発援助を通して、資本財などの輸出市場と、資源の供給源を同時に獲得していった。
これは日本のエコノミック・ステイトクラフトである。
「経済領域」の外交目的を達成するために、同じ「経済領域」の経済資源を用いた外交、
例えば援助をテコとした外交を行なうことは、外交のターゲットとなった国にとっても政 治的に受け入れやすいものである。経済分野の取引の多くは、ウィン・ウィンの関係に立
つノンゼロサムの現象である。さらに外交の目的と手段の間には釣り合い、あるいは比例 原則があてはまる。帝国主義の時代には、市場を確保するために武力の行使やその威嚇が 用いられた。しかし第2次世界大戦後の世界では、そのような行為は国連憲章違反となり、
国際社会では受け入れられなくなってしまった。経済目的の外交を追求するにあたっては、
非軍事的な手段、なかでもエコノミック・ステイトクラフトを用いることが自然であり、
政治的にも社会的にも受け入れやすい。
1970年代に OPECが石油戦略を発動し、ターゲットとなった日本やその他の西側諸国はパ
ニック状態に陥った。軍事超大国米国には究極の手段として軍事手段もありえたかもしれ ないが、日本の対応は、アラブ諸国に歩み寄ることと、徹底した省エネ、石油の備蓄や供 給源の多角化などであった。米国が大豆の高騰のため輸出を制限した際には、食料安全保 障の懸念が出たが、日本はブラジルなどに経済援助を行ない、大豆の生産と拡大を全面的 に支援した。結果的に、ブラジルは今日、大豆の大生産輸出国となっている。日本は、エ コノミック・ステイトクラフトにより、食料輸入の多角化を達成したのである。
1970年代、オイルショックやニクソン・ショックといった出来事のために国際経済秩序
が動揺するなかで、日本では「経済安全保障」や「総合安全保障」といった政策が議論さ れたが、その議論のなかでも、非軍事的脅威に対する非軍事的手段――なかでもエコノミ ック・ステイトクラフト――による安全保障が重視されたのは、戦後日本の対外戦略のあ り方を象徴していたと言えるだろう。第2次世界大戦後の日本は、他国以上に徹底して非軍 事的な対外政策を追求した。憲法上の制約や軍事を忌避する社会的制約あるいは政治的選 択として、歴代の日本政府は軍事にかかわる外交手段の使用は極力避けてきた。武器輸出 禁止原則などは、自らが政治的に課した制約である。その点、日本と対照的な米国は、武 器援助を対外援助の中心に据え、対外的影響力確保の梃子として積極的に使ってきた。武 器援助は経済援助であると同時に政治戦略上の軍事的手段でもある。コマーシャルベース の武器の売却も貿易であると同時に政治戦略上の軍事的手段でもある。しかし、日本は、高度の武器技術をもちながら、あえて武器輸出の禁止という政策をとることで(後に、米国 のみ例外として認めるが)、武器貿易という政治と経済の境際領域にある政策手段を自ら放棄 してきた。
日本が「経済外交」や「経済(総合)安全保障」を追求する手段として、経済援助など非 軍事的手段を用いてきたのには、以上のように、経済目的の追求に際して経済資源を用い ることは自然なことであるという事情に加え、戦後日本特有の事情がある。経済目的を追 求する日本の経済外交が、基本的に経済手段や経済資源を用いたエコノミック・ステイト クラフトであったことには、それなりの理由があったと言えよう。
3
エコノミック・ステイトクラフトの2つの事例
さて、次に、ボールドウィンが分析したエコノミック・ステイトクラフトの主要な事例 である経済制裁を適用するのにふさわしい対象として、核不拡散のためのエコノミック・
ステイトクラフトを取り上げる。
(1)〈事例
1〉核不拡散のためのエコノミック・ステイトクラフト
中国やインドが核爆発実験を行なったとき、米国の国家指導者は、核拡散の危険を本気 で心配しはじめた。特に懸念されたのは、西ドイツや日本など、旧敗戦国の核武装である。
それらの国の核武装は、周辺国の懸念を高め、核拡散が加速することが気がかりであった。
そのような背景で構築されたのが核不拡散条約(NPT)を中核とする核不拡散レジームであ る。日本やドイツは、核兵器を開発するための科学・技術力も経済力ももっていた。しか し両国は、核不拡散レジームの模範生となることで、第
2次世界大戦後の国際秩序の安定に
寄与した。今日問題となっているのは、北朝鮮やイランなど、核武装する能力を有しない と長らく思われてきた国々の核武装である。第2次世界大戦から60年以上経ち、国際政治経
済構造が変化したことを物語っている。北朝鮮の核開発は日本にとって直接的脅威であり、イランの核開発は欧州やイスラエル、
そして米国にとって大きな脅威となっている。米国や日本、欧州は、国連での非難決議に 持ち込み、国際社会の協力のもと、両国に対する貿易、金融上の制裁措置を維持・強化し ているが、それによって両国が核開発を断念するかははなはだ不透明である。中国やロシ ア等がそれらの国を経済的に支援するなら、西側世界による経済制裁の効果は減殺されて しまう。非西洋・非西側諸国の経済的台頭により世界経済構造が大きく変動するなかで、
経済制裁というエコノミック・ステイトクラフトの効果は減退せざるをえない。それでは、
効果が薄く、結果を期待できない経済制裁措置は、もはや政策手段として無意味であろう か。経済制裁は、それを行なう側にもコストが及ぶ。実際のところ、日本はイランで開発 してきた石油権益を放棄することを余儀なくされた。効果が薄い経済制裁をコストを払っ てまで維持する必要があろうかという疑問は当然おこる。
経済制裁の第一義的目的は対象国の政策や行動を変えさせることである。北朝鮮やイラ ンが経済制裁に屈し、核開発を断念するなら経済制裁は成功したことになる。しかし核開 発にかける北朝鮮やイランの強い政治的意思や両国の国内政治状況に鑑みるなら、そのよ うな結果は望み薄である。それでも経済制裁を続けるのには理由がある。そもそも経済制 裁は表明された直接的意図とは別に、さまざまな政策意図を以て行なわれる。
第1に、北朝鮮やイランの核開発に対し経済制裁を継続し、強化するのは、両国の指導者 に不快感の明確なメッセージを伝達することにある。単なる言説上の批判だけでなく、自 身のコストを払ってのメッセージには強い気持ちが込められている。
第2に、経済制裁の結果、両国の経済がその分ダメージを受け、結果的に核開発が滞った り、開発に時間がかかったりすることは、それ自体、戦略的意味がある。
第3に、北朝鮮やイラン以外の潜在的核開発国に対し、核不拡散規範に逆らって核開発を 行なった場合、国際社会の反発と制裁を招くことになるというメッセージを送ることにな る。経済制裁が発するメッセージは北朝鮮やイランのみに向けられているわけではない。
第4に、両国からの脅威認識が強い国の内部で強硬論が出てくるのを抑制することに資す る。経済制裁は口頭による批判よりははるかに強い措置である。言葉による外交批判や結 果の出ない国際会議の繰り返し以外に何もしない場合、国内で無為無策批判が高まり、北
朝鮮やイランに対する軍事的強硬措置の発動を求める声や対抗するための核武装論等が高 まる可能性がある。経済制裁措置の発動は、そうした動きを牽制したり、あるいはそうし た措置を回避したりすることに資する。
以上のように、経済制裁というエコノミック・ステイトクラフトにはさまざまな目的や 意図が込められている。北朝鮮やイランの核開発を断念させることができないからといっ て、経済制裁に意味がないわけではない。
(2)〈事例
2〉TPP
をめぐるエコノミック・ステイトクラフト核不拡散のためのエコノミック・ステイトクラフトの次に考察するのは、環太平洋経済 連携協定(TPP)をめぐるエコノミック・ステイトクラフトである。これはネガティブなエ コノミック・ステイトクラフトである経済制裁とは対照的に、基本的にポジティブなエコ ノミック・ステイトクラフトの事例である。
世界貿易機関(WTO)ドーハ・ラウンド(ドーハ多角的貿易交渉)が難航し、一向に決着 の兆しをみせないなかで、世界は二国間あるいは地域的な自由貿易取り決め(FTA)や経済 連携協定(EPA)の締結に動いている。日本の通商上のライバルである中国や韓国は積極的 に動いており、ようやく動き出した日本は取り残されている感がある。ここにきて日本の 国内外でにわかに注目を集めているのは、関税の原則撤廃と幅広い経済統合を目指すTPP交 渉と、それへの日本の参加である。
TPPは、2006
年5
月にシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4ヵ国加盟で
発効したもので、自由貿易協定としての側面に加え、サービスや人の移動、基準認証、知 的財産権の保護などにおける制度的統合をはかり、経済交流を促進しようという取り決め である。この地域協定に米国やオーストラリア、ペルー、ベトナムが参加を表明したこと で、大規模な地域協定になることが想定されることになった。マレーシアやコロンビア、カナダも参加の意向を明らかにしている。日本がこの地域的経済統合の外にとどまること は、将来的に通商上、大変に不利な状況におかれることになる。日本が長期的な経済発展 と所得水準の維持を国是とするなら、高次の政治判断で参加を決意する必要がある。問題 となるのは日本の国内農業である。
農協はTPPへの反対を表明し、政府内でも経済産業省は加盟賛成を表明したものの、農林 水産省はTPP参加に伴う膨大なコストを試算し加盟に反対の立場を表明した。政権与党の民 主党内でも、賛否両論に割れている。国家単位の国益として、自由貿易協定の締結や経済 統合は、メリット、デメリットの両方があるのが普通であり、政治的にも賛否両論がわき 起こり、政治的に意見を集約することは非常に難しい。しかし、大局的には、日本が現在 の生活水準を長期的に維持していくためには、内向きの鎖国政策はとりえない。地域的自 由貿易取り決めによって想定される農業関連のデメリットに対しては、食料安全保障の見 地からの食料自給率の向上策、農業に依存する地方経済の支援策、土地の集約化や規制緩 和による農業の生産性と競争力の向上策など、国内の農業政策によって対処していくしか ない。それをいかなる手段を用いて巧みに遂行していくかということにこそ、国内的なエ コノミック・ステイトクラフトの眼目がある。対外的エコノミック・ステイトクラフトと
対内的エコノミック・ステイトクラフトは不可分の関係にある。
自由貿易取り決めや経済統合は、経済的側面から論じられることが多いが、根底には安 全保障上の考慮がかかわっている。シンガポールという都市国家のエコノミック・ステイ トクラフトにみられる深謀遠慮が参考になる。シンガポールは、基本的には、多数派を占 める華人系住民が作った国家である。周りをインドネシアやマレーシアなど、非華人系国 家に囲まれている。シンガポールの指導者にとって最大の関心事は常に国家の存続のため の安全保障である。シンガポールが選択したのは、外資を受け入れることで、西側、特に 米国の経済ステイクを高め、ひいてはシンガポールの安全に対する米国の関心と関与を高 める政策である。外資導入は、自由貿易で成り立つ都市国家シンガポールの経済的繁栄の 基盤であると同時に、安全保障上の深い考慮が基底にあるのである。
自由貿易取り決めや経済統合は、経済の次元の現象である以上に政治的現象である。貿 易や投資、制度的調和化・統合などを通じて特定国と結びつきを深めることは、政治的に 結束する意味をもつ。米国がTPPへの参加を表明した背景には、経済的にも軍事的にも台頭 する中国の地域覇権を求める動きを牽制する意図がある。TPPへの参加国、参加希望国のな かには、日本と同様、人権や民主主義を重視する諸国が多数含まれている。鋭い政治的嗅 覚をもつ中国は、米国を牽制するべく、TPPへの参加に動きつつあるという情報もあるが、
中国を、米国を含むマルチの枠組みに取り込むことで、中国の国際ルールの遵守と建設的 役割を引き出すことができたならば、それはそれで望ましい帰結と言えよう。軍事的にも、
台湾問題や島嶼の領有権をかかえるアジア太平洋で中国が計算ミスをし、冒険主義的行動 に走らないためには、米国の関与と抑止力が必要である。そのような米国の関与の意思を
TPPによって強めることができたならば、それもエコノミック・ステイトクラフトの真骨頂
である。
経済大国中国の台頭は、西側諸国が営々と築き上げてきた援助レジームにも大きな影響 を及ぼしつつある。経済協力開発機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)などでの議論や 非政府組織(NGO)等の建議を踏まえ、世界の援助コミュニティーは、援助に際して、賄賂 などの腐敗を防止し、透明性と説明責任を果たし、援助対象国の人権や民主化、内戦に伴 う人権侵害防止など、さまざまな援助ルールを作り上げてきた。今日、援助レジームとい うようなものが存在している。そのような国際的枠組みのなかで、膨大な外貨基金を背景 に、中国は近年、アフリカなどの途上国への経済援助を急速に拡大している。石油などの 資源の開発と確保に関心があると言われている。問題は、中国の援助の仕方である。主権 と内政不干渉の重視を掲げる中国の行動様式は、そのようなルールをほとんど無視するか のようなものであり、国際社会が批難する独裁政権に対し、武器援助など望むものは何で も与えてきたかの印象を与えている。中国が責任ある大国として国際社会のルールの枠組 みに平和的に取り込まれるかどうかは、21世紀の最大の課題である。国際社会で形成され てきた規範やルールに従って行動することが中国の利益にもなることを中国の指導者に理 解してもらうことができるよう、世界の自由民主主義諸国家は結束して、中国への働きか けを強めていく必要がある。TPPは、そのような深謀遠慮に基づく戦略的エコノミック・ス
テイトクラフトのひとつの有望な制度的装置となりうるであろう。
おわりに
以上、エコノミック・ステイトクラフトの具体的事例として、核不拡散をめぐるエコノ ミック・ステイトクラフトと貿易をめぐるエコノミック・ステイトクラフトをとりあげて、
考察してみた。今日、世界経済が同時不況的様相を呈するなかで、通貨安競争が生じてお り、G20を中心に話し合われている国際通貨・金融秩序をめぐる問題は、国際社会の重要な 課題となっている。この外交課題に対して、日本として、どのようなエコノミック・ステ イトクラフトで臨むべきなのか、大いに考察する余地がある。
インフラプロジェクトの受注をめぐるエコノミック・ステイトクラフトも興味深いテー マである。不況対策の一環として、先進国でも、途上国でも、巨大なインフラプロジェク トが目白押しである。原子力発電、太陽光発電、スマートグリッド都市システム、高速鉄 道網、水システムなど、それらの多くは、地球環境に配慮したグリーン投資プロジェクト である。こうしたプロジェクトをめぐる受注競争は、韓国や中国などの参入により熾烈を 極めている。日本がそのなかでどのような官民協力を行なうかもエコノミック・ステイト クラフトの重要な課題である。しかしこうしたテーマについては、本特集号の他の論考が 扱っているので、本稿では割愛する。
第2次世界大戦後、日本は経済外交でエコノミック・ステイトクラフトを駆使してきた。
海外に市場を依存している日本が通商目的の外交に重きをおいてきたことは当然のことで あり、さらに通商目的の外交の遂行にあたって、経済的資源や手段を用いてきたのも、目 的と手段の比例原則・釣り合いといった観点や、援助といったポジティブな経済手段のも つ肯定的効果を踏まえてのことであった。日本が経済大国となってからは、ODAなどの援 助が日本外交の重要な手段として活用された。エコノミック・ステイトクラフトは経済資 源を活用するものであり、したがってそれを支える経済力が影響力の基盤となる。今日、
日本は依然世界的には経済大国の地位を維持しているが、中国やインド、韓国などが、経 済規模の面でも、技術面でも、資金力の面でも急速に力をつけてきており、国際経済のバ ランス・オブ・パワーは変化しつつある。この傾向は当分継続するであろう。
昨今、中国は、レアアースを戦略的に利用している。「中東に石油あり。中国にはレアア ースあり」。 小平氏が
1992年に語った言葉と伝えられている。原油を梃子に世界を意のま
まに動かそうとした1970年代の OPECのように、中国もレアアースを使えるだろうとの意味
が込められている。日本や米国や欧州の対応は、1970年代と同様、レアアースの供給源の 多角化であろう。世界経済のパワー・バランスが変化するなかで、日本の経済力も相対的 に低下している。今後、日本単独の経済力の行使あるいはエコノミック・ステイトクラフ トによる外交目標の達成は、ますます困難になっていくことであろう。このことは、米国 や西欧についても言える。日本は価値観を共有する西側諸国との国際協力を通じて、エコ ノミック・ステイトクラフトを、より巧みに、かつ効果的に使っていかなければならない。政治や外交ははたして科学なのか、それとも技芸なのかについて長い論争がある。政
治・外交術としてのエコノミック・ステイトクラフトは、なによりも政治的実践での手腕 や術策に注目する概念であるので、どちらかというと技芸的見方に立つものであろう。技 芸的政治術としてのエコノミック・ステイトクラフトで重要となるのは、絶妙のタイミン グや駆け引き、相手や場の雰囲気を読む政治的嗅覚、人を魅了する言葉、指導力や決断力、
ひいてはマキャベリ的権謀術数といった要素である。これらは政治家や外交官が経験を通 じて学んでいくものであろう。しかしエコノミック・ステイトクラフトを社会科学的・合 理主義的に分析し、理解することは可能であり、また必要でもある。エコノミック・ステ イトクラフトを技能や手腕、熟練、経験知に基づくものと捉えるとしても、その背後にあ る合理的なもの、パターン化されたもの、システマティックなものは体系的・論理的に整 理し、理解することができる。畢竟、優れたエコノミック・ステイトクラフトは、意識す る、しないにせよ、体系的知識や理解の上に立ったものであるべきである。真のステーツ マンをめざす国家指導者には、エコノミック・ステイトクラフトについての体系的知識と 経験に基づく熟達・手腕の両方をわがものとすることで、最善の政治と外交を行なってほ しいものである。
あかねや・たつお 筑波大学教授